第370話 『呪いの子』
「ブリジット!」
盟友の危機にクローディアは声を上げた。
脇腹に短剣を突き刺されたままのクローディアと同様、ブリジットも太ももに短剣を突き刺されてしまい、地面に片膝を着いて動けなくなっている。
一方のアメーリアも顎を砕かれ、背中を斬りつけられて手痛い傷を負っているにも関わらず、堕獄の効果で痛みを感じることもなく、ブリジットの血にまみれた短剣にブンッと血振りをくれた。
「その傷じゃもう長くは持たないわね。心配しないでいいわよ。あなたの大事なボルドもすぐに後を追わせてあげるから」
そう言うアメーリアの顔は奇妙に引きつっていた。
痛みに苦しんでのことではない。
今も続くボルドによる心的干渉のせいだ。
ブリジットは激痛に震え、脂汗を額から垂らして、それでも立ち上がった。
太ももは太い血管がいくつも通っていて、ここを斬られると出血が大量になって失血死する恐れがある。
ブリジットはすぐさま腰帯を解くと、それを止血帯として、それで傷を負った太ももをギュッときつく縛った。
「こんなもので……負けてたまるか」
そして痛みを堪えて立ち上がる。
そんな彼女の傍にクローディアが寄り添った。
「すぐに決着をつけないと。その足の出血じゃ、十数分で危険な状態に陥るわよ」
「おまえこそ、そんな状態で戦ったら死ぬぞ」
ブリジットとクローディアは互いに苦痛に耐えながらそう言い合うが、とっくに覚悟は決まっている。
アメーリアを殺すために、自分の命が必要ならば差し出すまでだ。
ブリジットは歯を食いしばりながら剣を握り、アメーリアに立ち向かっていく。
クローディアもすぐ後に続いた。
一方のアメーリアは背中に受けた傷が思いのほか深手で、出血が今も止まらない。
しかし堕獄の影響でそのことにすら気付かず、2人を迎え撃った。
互いに斬って斬られての血で血を洗う、壮絶な消耗戦だ。
運動量の落ちる女王2人に対し、堕獄によって痛覚と疲労を感じなくなっているアメーリアの動きは鈍らない。
だが……ある時点で異変が起きた。
急にアメーリアが左足を引きずるようになったのだ。
アメーリアはまったく気にした様子もなく戦い続けているが、明らかに以前のような強い踏み込みが出来なくなっている。
女王たちはピンときた。
アメーリアは堕獄によって疲れも痛みも感じない状態になっているが、だからといって体が鋼鉄になっているわけではない。
痛みや疲れは人体に差し迫る危険を知らせるための警報であり、それを感じないまま動き続ければ必ず体に過度な負担がかかる。
おそらくアメーリアは足の筋肉や腱などの組織を著しく損傷しているのだろう。
ブリジットとクローディアはすぐさま目配せをして意思の疎通を図った。
そしてアメーリアを右に左にと誘うように自分たちも大きく動き始める。
苦戦する一方だった戦局に、ひとすじの光が差し込んできた。
☆☆☆☆☆☆
ボルドは深く潜るほどにアメーリアの感情が剥き出しで制御の利かないものに変質していくのを感じていた。
それはまるで自制を覚えた大人の感情から、抑えることを知らない子供の感情へと変化していくようだ。
そう。
アメーリアの幼い感情にボルドは手を差し伸べたのだ。
一方、背後からその様子を見守るアーシュラは、焦りを覚えていた。
アメーリアとの激しい戦いで、ブリジットとクローディアはもう相当に弱っているはずだ。
ここから見てもそれが分かる。
おそらくもう数分と持たないだろう。
そして城壁の上の通路をこちらに向かって来る10人の敵兵と、それをたった1人で迎え撃つデイジー。
彼女はすでに敵と交戦し始めようとしている。
デイジーが負ければアーシュラは次は自分がボルドの盾になるつもりだった。
腰に下げた袋の中には毒薬の瓶がいくつも入っている。
それを使って敵と刺し違えてでもボルドを守らなくてはならない。
そう覚悟を決めたその時だった。
ボルドの肩に置いた手を通して、強い悲しみの感情が伝わってきた。
アーシュラは即座に理解する。
(ボールドウィン……見え始めたんだ)
アーシュラは彼が掴みかけていることを知り、精神を集中させて彼の感覚を後押しする。
ボルドは静かにその肩を震わせ始めていた。
☆☆☆☆☆☆
ボルドは暗く閉ざされた視界の中でアメーリアの心の渦に沈み込んでいったが、ふいに足がトンと底に着くような感覚を覚えた。
途端に黒い霧が少しずつ晴れていき、見たことのない情景が心に浮かび上がってくる。
(これは……アメーリアの記憶だ)
砂漠島の中でも有力な領主の家に生まれたアメーリア。
厳格な父と黒髪の美しい母、そして優秀な姉を持つ彼女だが、その記憶に一番強く刻みつけられていたのは1人の老婆だった。
彼女は子供たちの世話役を務める使用人だ。
その老婆は優しく、アメーリアは彼女が好きだった。
だが老婆は罪を犯した。
彼女は使用人でありながら、屋敷の中で常習的に盗みを繰り返していたのだ。
盗むのは食器や衣類等、盗みやすいものばかりで、被害金額はそれほど大きくならなかったが、厳格な父は彼女を許さなかった。
老婆は罪人として座敷牢に捕らえられると、そこで罰として領主である父自らに鞭を打れたのだ。
まだ3歳だったアメーリアはその場面を目撃してしまった。
哀れにも裸に剥かれた老婆が鞭で打たれて、その老いた体を傷だらけにされていること。
悲痛な彼女の叫びと命乞い。
そして……鞭を手に興奮して歪に微笑む父の顔を。
父は相手を痛めつけることに喜びを覚え、ついにその場で老婆が絶命するまで鞭を打ち続けたのだ。
アメーリアはその一部始終を物陰から見ていた。
そして気付いてしまったのだ。
自分が父と同じく興奮を覚えていることに。
大好きな老婆が痛めつけられ殺されてしまった酷い光景を見たというのに、アメーリアは愉悦の感情を自覚していたのだ。
そのことに彼女自身、衝撃を受けていた。
そして彼女はその場にいることを父に見つかってしまう。
父はその時の娘の顔を見て言ったのだ。
「なぜ……そんなにも喜んでいる?」
アメーリアは父と同じく歪な笑みをその顔に浮かべていた。
父は幼きアメーリアの身に宿る怪物を見たのだろう。
それ以来、父はアメーリアを蔑み、恐れるようになった。
もちろん表立って娘を冷遇するようなことはしなかったが、自分に向けられる目が化け物を見るようなそれに変わったことをアメーリアは感じ取っていた。
父も同じなのに。
そうした理不尽さと悲しみを覚えながら、アメーリアはそれでも自身の嗜虐性を抑え切れなかった。
やがて彼女は動物を虐待するなどの蛮行を働くようになり、呪いの子だと恐れられ、ついには親にまで見捨てられた。
そして最後には足に錘を付けられて海に沈められたのだった。
その後、九死に一生を得たアメーリアは強い恨みと憎しみに心を支配された。
呪いの子は黒き魔女へと変貌を遂げていくことになる。
ボルドはその時に彼女が感じたであろう悲しみ、怒り、恨み、恐怖がいっぺんに胸に入り込んでくるのを感じて息を飲んだ。
だが彼は目を逸らさなかった。
確かに彼女は許されぬ罪を重ねてきた。
ブリジットやクローディアに討たれてしかるべきなのだ。
だが、ボルドはせめてその気持ちには寄り添おうとした。
閉ざされた視界の中、周囲を覆っていた黒い霧が完全に晴れ渡っていき、ボルドはそこに1人の赤児を見た。
それはまだ生まれて間もない……黒髪の赤児だった。




