第348話 『突破される防衛線』
「報告します! 東の防衛線、一部が突破され、100名以上の敵兵の侵入を許しました!」
作戦本部の天幕に飛び込んで来た伝令兵は、青ざめた顔でそう報告する。
そこには治療を終えたブリジットとウィレミナ、そしてボルドと側付きの小姓2人の他に護衛の兵たちが数名いた。
途端に作戦本部の周囲が緊迫した雰囲気に包まれ、周囲にいる兵たちの間からどよめきが起きる。
だが、その報告を聞いたブリジットが鋭く声を放った。
「狼狽えるな! 侵入者は排除するのみだ!」
統一ダニア軍は防衛線が突破された時のことも当然考えている。
すでに新都内部の東地区には数々の罠が張り巡らされていた。
簡単に新都を明け渡すはずがない。
ブリジットの確かな意思を感じ、兵たちの動揺が鎮まっていく。
その様子を見ながらボルドは静かに神経を研ぎ澄ましていた。
(アメーリアが……どこかにいる。新都の中じゃない。だけどずっとこちらを見ている気がする)
南の平原でアデラに救出されて、ここに戻って来た時からずっと、ボルドは強い恐怖を感じていた。
アメーリアの放つどす黒い感情が空気に漂い、呼吸をするたびにそれが胃の中に鉛のように重く溜まっていく。
もちろんそれは黒髪術者であるボルドにしか感じられない。
そして今、彼が感じているその奇妙な感覚は以前とは異なるそれに変質していた。
(これは前とは違う。もっと……)
以前からアメーリアの気配は、どす黒い悪意となってボルドには不快の極みのように感じられていた。
だが今は明らかに以前とは違う。
以前のそれが洗練された明確な悪意だとすれば、今のそれは悪意の中に絶望や悲嘆の入り混じった、ひどく混沌とした感情の澱みだ。
そしてボルドはアメーリアのそれが何によって引き起こされたのかを理解した。
(トバイアスが……死んだんだ)
倒すべき敵が死んだ。
それをもたらしたのは自分の手だ。
今となっては後悔は無いが、己の手で1人の人間の命を奪ったことを一生忘れてはならないとボルドは心に誓った。
仮にこの先、自分が何者かに殺されたとしても、それを不条理だと嘆く資格は自分にはない。
自分とて他者の命を奪ったのだから。
(だけど……アメーリアが今ここに来たらまずいのに、彼女がどのくらい近くにいるのか、どの方角から来るのか分からない)
それは臭いが強過ぎて嗅覚が麻痺してしまう感覚に似ていた。
ボルドは危機感を覚えてブリジットに申し出る。
「ブリジット。クローディアをここにお呼びすることは出来ませんか? アメーリアがいつここに来るかも分かりません」
情夫の身で差し出がましい申し出だとは分かっていた。
だが誰も彼の申し出を咎める者はいない。
当のブリジットですらも。
「ああ。分かっている。今の状況ではアタシとクローディアの2人がそろっていた方がいい。だが、東の戦線もクローディアの存在が士気を高めている。今はまだあいつを呼び戻すことは出来ん」
「そうですか……」
ブリジットの言葉にボルドはそれ以上食い下がることなく引き下がる。
そんな彼を見てブリジットは言った。
「案ずるな。東からは馬を飛ばせば10分もかからん。いざとなればクローディアに即座に連絡がいくことになっている。10分程度ならアタシ1人でもアメーリア相手に殺されたりはせん」
「……はい。そうですね」
ボルドはブリジットの言葉を信じ、それ以上は何も言わなかった。
そして彼は南の方角に意識を向ける。
援軍を乞うべく南に向かっていたアーシュラは、南ダニアの援軍となる囚人部隊に囚われているはずだとジリアンたちが言っていた。
ということはアーシュラもこちらに近付いてきているはずであり、彼女が無事ならば自分に向けて黒髪術者としての力で何らかの信号を送ってきてもおかしくはない。
彼女は赤毛だが、自分などよりよほど能力の高い黒髪術者だとボルドは知っている。
だが今はアメーリアの放つ混沌の気配が強過ぎて、アーシュラのそれを感じ取ることは出来なかった。
☆☆☆☆☆☆
「行け行けぇ! まずは拠点確保だ!」
東の防衛線を突破した南ダニア軍の小隊が、新都の東地区を駆け抜けていく。
その数およそ30名。
それを率いる黒刃の女戦士は、腕に巻いた黒い腕章を見せつけるようにその腕を天に突き上げて部下たちを鼓舞する。
グラディス将軍からの命令は、新都内に突入したらまずは拠点となる建物を占拠し、人数を集めろとのことだった。
その拠点の候補地はあらかじめ全軍に通達されている。
新都内の地図は以前から新都に潜入していたイーディスの手によってグラディスと黒刃たちに渡っていた。
その功労者であるイーディスがすでにこの世にいないということは誰も知らないが。
だが意気揚々と進む彼女たちは気付かなかった。
イーディスが新都を去った後、突貫工事で東地区の各所に罠が設置されたことを。
黒刃の戦士の前方数メートルを進む5〜6人の兵たちがいきなり視界から消え、彼女たちの悲鳴とともに土煙が上がった。
「ぐああああっ!」
「な、何だ?」
黒刃が慌てて立ち止まると、その爪先十数センチの地面にぽっかりと穴が開いていた。
その穴は前方への長さ3メートル、横幅5メートル。
深さは1メートルほどだが、穴の底に先端を鋭利に尖らせた木材が多数埋められている。
穴に落ちた部下たちは足や腕、腹を木材に貫かれて苦痛に呻いた。
「お、おのれ……罠などとこざかしい!」
そう言った黒刃の頭上から十数本の矢が降り注ぐ。
近くの建物の屋上に潜んでいた統一ダニア軍の弓兵らが放った矢であり、虚を突かれた南ダニア兵らは防ぐことも出来ずに体を貫かれていく。
黒刃も一本の矢が肩に突き刺さり、忌々しげにそれを手で引き抜いた。
「これが……貴様らのやり方か! やはり塀の中に隠れている臆病者どもはやり方が汚いな!」
そう言う黒刃に、建物の中に隠れていた統一ダニア軍の十数名の兵が向かっていく。
部隊を任されている黒刃はすぐさま状況を判断し、踵を返すと生き残っている十数名の部下たちに命じた。
「一旦引くぞ! 後方から突破してくる仲間たちと合流だ!」
そう言って駆け出す黒刃は、街中で数々の罠にかかって倒れていく他部隊の仲間たちを幾度も見かけて顔をしかめる。
統一ダニア軍が用意した罠は数や精度は十分ではなかったが、意気揚々と新都に乗り込んでくる南ダニア軍の者たちはそれに引っかかって足止めを食っていた。
そして黒刃の背後について走り続けていた兵たちが不意にバタバタと倒れ始めたのだ。
黒刃は背後を振り返って目を剥く。
走り続けていた部下たちはその足がヨロヨロと覚束なくなり、倒れて起き上がれなくなっていた。
その体は小刻みに痙攣し、中には口から泡を吹いている者もいる。
そこで黒刃は悟った。
今ここにいる部下たちは全員、先ほどの矢によって傷を受けた者ばかりだ。
(毒矢か……)
そして黒刃自身も視界がグラグラと揺れ始め、立っていられずに地面に膝をつく。
彼女たちが受けた毒がかなり強いものであり、傷を受けた後にすぐに走り続けたことで毒が早く体中に回ってしまったのだと気付いた時にはもうすでに遅かった。
黒刃は遠ざかる意識の中で悪態をつく。
(くそったれめ……こんな死に方……)
それが彼女の最後だった。




