第338話 『かすかな希望』
新都から少し離れた小高い丘の上にも雨が降り注いでいた。
丘の上に茂る木々の下に張られた天幕も雨を受け、その音で目を覚ました双子姉妹のエミリーとエミリアは天幕入口の隙間から外を見た。
すると天幕の少し先の木の根元で、彼女たちの主人が背を向けたまま傘を差してどこかを見つめている。
共和国大統領の息子であるイライアスだった。
「イライアス様。何をされているのですか?」
背後からそう呼ばれたイライアスは振り返ると、虚ろげな顔で首を横に振った。
黒髪術者としての力を持つ彼は今、ある感覚を感じ取っていた。
つい先ほどから黒い渦のような激しい感情がこの辺り一帯を包み込んでいる。
そのせいで気分が悪くなり、目が覚めてしまったのだ。
(何という……おぞましさだ)
悲嘆、絶望、憎悪、怨恨。
そうした負の感情が黒い霧のごとく辺りを漂っているように彼の眼には映っている。
今まで感じたことのないほどの、どす黒い感情を肌で感じ取ったイライアスは、その感情の主が恐ろしい人物であると悟った。
これほどの負の感情を持つ人物は彼も覚えがないほどだ。
「これが……黒き魔女アメーリアか。一体どんな生き方をすれば、ここまで禍々しく歪むんだろうな」
だがイライアスはそのどす黒い感情の他に、別の存在も感じ取っていた。
それは黒い渦の漂う中にあっても、清廉な輝きを失わない光のような存在だった。
感じていると安心するようなその感覚は今、風に揺らぐ灯火のように不安定になっている。
だが、その灯火はこの先まだまだ強く燃え上がることの出来る芯の太さを感じさせるものだった。
「これはブリジットの情夫ボルドだな。まだ芽吹いたばかりだが、花開く時はそう遠くない」
そしてイライアスはもう一つ感じ取っていた。
南から近付いてくる新たな力の到来を。
それは禍々しくも清らかでもなく、ただ強い輝きを失わない実直な力を感じさせる存在だった。
それがこの新都を巡る黒い渦にどのような影響をもたらすのか、イライアスにも分からない。
それでも明日という1日に大きな転機が訪れることをイライアスは予感している。
彼は傘を下ろして雨に濡れながら、頭上に広がる木々の枝の合間に見える空を見上げた。
つい先ほどまで青い闇に包まれていた空は、いよいようっすらと白み始めている。
「夜が明ける。新しい朝が来るぞ」
それが自分にとって良いものになるかそれとも悪いものになるか、まだイライアスにも見えなかった。
☆☆☆☆☆☆
雷鳴轟く中、ユラリと身を起こしたのは獣女のドローレスだ。
その様子にアデラは息を飲む。
落雷による静電気で彼女の赤毛は逆立っていたが、その身は無事だった。
先ほどはおそらくすぐ近くに雷が落ちたはずだ。
運悪く仲間の3人は死に、運良くアデラとウィレミナが生き残る中、ドローレスもこうして絶命を免れた。
アデラは失神しているウィレミナを胸に抱えたまま、唇を噛みしめる。
「くっ!」
雨が強くなる上、雷鳴が轟音となって耳をつんざく。
こんな雨の中では鳥は満足に飛べないし、そもそも雷鳴がうるさ過ぎて口笛による合図もかき消されてしまうだろう。
ヒクイドリも先ほどの雷の直撃こそ免れたものの、負傷していることもあって雨の中でうずくまってしまっている。
そしてアデラも両手をトバイアスに突き刺されて傷付いており、その痛みもひどくなっているせいで、もはや小刀も握れぬ有り様だ。
抵抗する術はない。
それでもアデラは必死の形相でドローレスを睨みつけた。
「アタシを食べるなら、おまえの腹の中で暴れてやる」
そう言って歯を食いしばるアデラを見ながら、ドローレスは一歩また一歩と近付いて来る。
アデラは悔やんだ。
この状況ではウィレミナを助けられそうにない。
せめてドローレスが自分だけを食べて満腹になり、ウィレミナを見逃すことを願うばかりだった。
ドローレスは観念した様子のアデラの目の前で立ち止まり、喉をグルグルと鳴らしながら、その口から涎を垂らす。
アデラはウィレミナを地面に横たえると、彼女を背に守る様にしてドローレスの前に歩み出た。
(ブリジット。申し訳ございません。アタシはここまでです。天の兵士となってブリジットと統一ダニアの勝利を祈ります)
アデラは死を覚悟してドローレスに飛びかかろうとした。
どうせ死ぬのであれば、力及ばずとも最後まで抵抗して死にたい。
ダニアの女としての意地だった。
だが……かすかな希望が訪れたのはその時だった。
降りしきる雨の中を2本の矢が鋭く飛来し、ドローレスを狙ったのだ。
「ガウッ!」
素早く後退して2本の矢をかわしたドローレスは、矢の飛んできた方向を睨む。
そこには2騎の騎馬が雷雨の中を駆けて来ていた。
弓を手に馬の背に跨っているのは、2人の赤毛の女たちだ。
アデラは目を凝らすが、強い雨の中ではそれが味方である統一ダニア軍なのか、敵である南ダニア軍なのかは分からなかった。
(でも矢は明らかにドローレスを狙っていた……味方だ!)
その2人は馬を駆ってドローレスに向かい、鋭く槍を突き出していく。
ドローレスはこれを避けるが、2人の女たちは馬からパッと身を翻し、大地に降り立った。
そして2人がかりで槍を振るってドローレスに攻撃を仕掛けていく。
その流れるような動きと2人の連携がすばらしく、ドローレスに反撃を許さない。
アデラは目を見開いた。
(つ、強い……あの2人)
ドローレスは攻撃を避けるものの、反撃できずにいた。
これは2人が反撃の隙を与えないように巧みに攻撃を展開しているからだ。
ドローレスはそれを警戒して一度大きく後ろへ飛び退った。
それを見た2人はアデラに近付いて来て兜の庇を上げる。
2人の顔にアデラは見覚えがあった。
以前にクローディアが2人に話しかけているのを見たことがあるからだ。
「あなたたちは確か……ジリアンさんとリビーさん?」
そう。
その2人は特命を受けたアーシュラの護衛として、数日前に新都を出たジリアンとリビーだった。
「おまえは本家のアデラだろ? 鳶隊の」
「は、はい。なぜお2人がここに?」
そう尋ねるアデラに2人は苦い表情を浮かべる。
「説明は後だ。まずはあいつを何とかしねえとな」
そう言うと2人はドローレスを見据える。
ジリアンとリビーは強敵ドローレスを前にしても臆することなく互いに声をかけ合う。
「どうする? 普通にやったんじゃ勝てねえな」
「だが、あの傷と出血量だ。しかもあいつ興奮して自分の体の状態に気付いていない。踏み込んで攻撃しつつ、時間をかければ勝機はあるかもな」
「じゃあ最初はワタシが槍な。おまえは盾で」
そう言うとジリアンは手に持った槍をブルンと鋭く振るう。
それに対してリビーは槍をドローレス目がけて投げつけ、ドローレスがそれを避ける間に、腰帯に差してある2本の鞘から長短2本の剣を抜き放って両手に構えた。
「あいよ。先に死ぬなよ」
「おまえもな」
慣れた調子でそう言い合うと、ジリアンとリビーは息を合わせてドローレスに向かっていった。
アデラは呆然とその様子を眺める。
あの2人がどの程度の使い手なのかは知らない。
だがクローディアが重要な任務であるアーシュラの護衛に2人を指名したということは、それに見合った実力者のはずだ。
アデラは息を飲んで目の前の戦いを見守った。
空から降る雨は次第に弱まっていき、先ほどから鳴っていた雷が徐々に遠ざかっていく。
空を覆っていた闇は溶けるように消えていき、夜明けがもうすぐそこまで来ていることを知らせているのだった。




