第334話 『獣の吐息』
夜明け前の空からポツポツと降り出した雨が顔を濡らす。
南の平原で、アデラは仲間たちの遺体の中に紛れるように身を横たえ、じっと息を潜めていた。
辺りには強い獣の臭いが漂っている。
その臭いがした時にアデラは即座にその場を離れようとした。
だが、彼女は頭上を飛ぶ鳥たちの異様な動きで状況を察したのだ。
おそらく獣女がそれほど遠くない距離の闇の中に潜んでいて、こちらの様子を窺っているのだと。
以前に黒き魔女アメーリアと共に新都に侵入してきた獣女の名がドローレスだということは判明している。
こちらが動きを見せればドローレスはすぐさま襲い掛かって来るだろう。
走って逃げたのでは、すぐに追いつかれてしまう。
アデラは離脱をあきらめ、その場に留まった。
(何とかやり過ごせないだろうか……)
そう考えたアデラは横たわったまま、すぐ近くの仲間の遺体に手を伸ばす。
そして顔をしかめながら仲間の体を手でまさぐり、その体に付着している血を自分の体に塗った。
首や顔を血まみれにし、自分の体を遺体に偽装するためだ。
おぞましい行為だが命には代えられない。
願わくば降り出した雨が、これ以上強くならないでほしい。
血が流されてしまわぬように。
(これしか方法はない)
今この場でドローレスと戦うという選択肢を取っても、アデラ1人ではとても勝つことは出来ないだろう。
何とか気付かれずにやり過ごしたい。
だが、体の全てに血を塗りたくる時間は無かった。
アデラは顔と首にのみ仲間の血を塗ると、近くに落ちている破れた統一ダニアの旗を手繰り寄せ、それを自分の胴にかける。
これならば胴を隠すことができ、さらに呼吸によって上下運動する胸や腹を見られずに済むと考えてのことだ。
呼吸を出来る限りゆっくりと静かに行い、目を閉じて眼球の動きを悟られぬように努める。
そして旗の下で、ゆっくりと腰帯から小刀を取り出してそれを右手に握った。
そこでますます獣の臭いが濃くなり、唸るような声が聞こえて来た。
「グルルルルル……」
アデラは思わず緊張に身を固くする。
ドローレスの歩く足音がハッキリと耳に聞こえるほどに、近づいて来ていることが分かった。
ドローレスはアデラの周囲に横たわる遺体の臭いを嗅ぎ始めた。
自分が打ち倒し、餌となった者たちを再び食らいに現れたのだろうか。
しかし遺体は一部が貪り食われたようなものが複数あった。
ドローレスの仕業だとしたら今、彼女は満腹のはずだ。
いかに獣じみていようとも彼女は人の肉体を持っている。
一度に食べられる量も限られているだろう。
満腹の獣が餌に興味を失くして去っていくように、ドローレスがこの場を立ち去ってくれることをアデラはひたすら祈る。
そんな彼女のすぐ傍までドローレスはやって来た。
スンスンと近くの遺体の臭いを嗅ぐその鼻息まで聞こえてくるほどだ。
そしてドローレスの鼻先がいよいよ自分の顔に近付けられ、アデラの緊張感は頂点に達しようとしていた。
息を止め、指先ひとつ動かさずにアデラは遺体を演じる。
ドローレスがアデラの顔や首についている血の臭いをスンスンと嗅ぐたびに、彼女の生温かい吐息が肌を撫でた。
さらには彼女の口から漏れる涎が、アデラの頬に垂れ落ちる。
(ううっ……)
今にも叫び出してしまいそうなのをアデラは懸命に堪える。
息を止めているため苦しくなってきた。
体が震えていないか不安だったが、やがてドローレスはアデラに興味を失ったようで、その顔を離して隣に横たわる遺体の前へと移動していく。
アデラはそれでもまだ呼吸を止めたまま、ドローレスがさらにもう数歩離れるのを待った。
少し足音が遠ざかったところで、アデラはようやく空気を吸い込むことが出来た。
それも声を出さぬように必死に抑えてのことだ。
(ふぅ。このまま立ち去ってくれれば……)
だがアデラはそこでハッとした。
ドローレスはわずかに唸るような声を上げ、次にクチャクチャという咀嚼音が聞こえて来た。
アデラが思わず薄眼を開けると、鳶隊の仲間の遺体をガツガツと再び食らい始めたドローレスの姿が見える。
途端につい先ほどまでの恐怖心はどこかへ消え去り、アデラの胸に激しい怒りが込み上げて来た。
(ひどい……)
仲間の遺体をまるで食い残しを漁るように貪るドローレスのその姿に、アデラは臓腑を焦がすような怒りを必死に抑えた。
そんな彼女の脳裏にふいにボルドの顔がよぎる。
弱く優しく、およそ戦いなど向いていない彼が、自分を助けるために刃を握った。
そしてそのせいで彼は苦しむことになったのだ。
人の体を刺した感触も、その血の臭いもきっと彼にとっては一生消えることのない辛苦の記憶として頭に焼きついてしまっただろう。
戦場でのこととはいえ、それが自分の責任であるとアデラは痛感している。
あの瞬間から、自分の命は無駄にしていいものではなくなったのだ。
あんな思いをしてまで助けた相手があっさり死んでしまったのでは、彼の行為は無に帰してしまう。
(生き残るんだ。生きてこの力を皆のために役立てるんだ)
死んでいった仲間たちのためにも、自分は何とかしてここを生き残り、この鳥使いの技術で一族に貢献したい。
アデラはその一心で必死に怒りを堪えた。
だが、神はいつだって気まぐれだ。
夜明けの近い戦場には雨が降るばかりでなく風が吹き始めた。
そして強い突風が一度だけ、雨で湿った大地を駆け抜ける。
するとアデラの体に掛けられた、破れた旗が風に煽られて飛んでいってしまったのだ。
それを見たドローレスが顔を上げ、アデラに注目する。
顔や首は血に汚れているものの、その体は綺麗なままだった。
ドローレスにとってそれはまだ新鮮な餌に映ったのかもしれない。
アデラは内心で息を飲む。
体にまでは血で偽装している時間がなかったことが悔やまれた。
(まずい……たとえ遺体だと認識されても、食いつかれるかもしれない)
生きたまま腹を裂かれ、腸を引きずり出される恐怖がアデラを凍りつかせた。
ドローレスはアデラに興味を持ったようで、眼の前の獲物を放置して近付いてくる。
そしてアデラの胴の臭いを嗅ぎ始めた。
今度はその鼻先でアデラの胴を突くようにして、ついには革鎧に鋭い歯を突き立てる。
アデラはたまらず動こうとした。
そこで再び強い風が吹きつけ、ドローレスの赤毛がバサッと舞い踊った。
その前髪が目に入ったようで、ドローレスは思わずアデラの胴から顔を離して不快そうに首を振る。
アデラはそこで弾かれたように動いた。
「んあっ!」
手に握った短剣をドローレスの首目がけて真横から突き立てたのだ。
その切っ先はわずかにドローレスの首を皮を切るに留まる。
ドローレスが咄嗟に後方に飛び退ったからだ。
その瞬間にアデラは跳ね起きるようにして立ち上がった。
しかしドローレスはいきなり動き出した獲物に怒りを露わにし、猛然と突進してアデラの胸に頭突きを食らわせる。
「うぎっ!」
アデラは強い衝撃を受けて後方にふっ飛ばされた。
しかしアデラは地面を転がりながらも必死に指笛を吹き鳴らす。
途端に空から舞い降りて来た夜鷹がドローレスを襲った。
天雷だ。
舞い落ちる滝の流れのように帯状に編隊を組んで飛ぶ夜鷹の群れが、ドローレスの頭上に降り注ぐ。
だが……。
「ガウッ!」
ドローレスは信じられないような素早い身のこなしで、これを避けてしまう。
そればかりか避け際にその鋭い爪を二度三度と閃かせて、数羽の夜鷹を切り裂いて殺して見せたのだ。
「ああっ!」
アデラはとてつもない敵と自分がたった1人で対峙することとなった現状に、死を覚悟するほかなかった。




