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第330話 『死』

「医療班!」


 アメーリアは馬から飛び降りると、トバイアスの体を抱えて雑木林の中へと足を踏み入れていく。

 新都南側に展開していた戦場から数百メートル離れたその場所には、負傷兵たちを治療するための天幕が立ち並んでいた。

 女戦士らの治療に当たっているのは小姓こしょうや年配の男たちだ。

 すでに簡易的な寝台には多くの女たちが横たわっており、空いている場所はないほどだった。

 そんな場所にいきなり黒き魔女が現れたため、その場にいる全員が面食らって手を止める。


「トバイアス様がお怪我けがをされた! 今すぐ治療しなさい! 早く!」


 そう言うとアメーリアはすぐ近くの寝台に横たわる部下の女を有無を言わさずに引きずり降ろし、そこにトバイアスをそっと横たえる。

 すでにトバイアスは呼吸も弱く、その体は徐々に冷え始めていた。

 アメーリアは周りの者たちが見たこともないほど狼狽ろうばいし、必死にトバイアスに呼びかける。


「トバイアス様! どうかお気を確かに持って下さいまし! すぐに治療いたしますので大丈夫ですわよ!」


 そう言うアメーリアにキッとにらまれた医療班の者たちが、急ぎトバイアスの元へと駆け寄って来る。

 だが、トバイアスの顔色や腰からの出血を見た彼らは一様に顔を曇らせた。

 そんな彼らにアメーリアは苛立いらだって声を荒げる。


「早く処置しなさい!」


 アメーリアのすさまじい怒声と剣幕にその場にいる全員が震え上がり、すぐさまトバイアスの止血と治療が始まった。

 だが、男たちは医療班として戦場での治療の経験豊富な者たちであり、助かる者と助からぬ者を数多く見て来たからこそ分かる。

 トバイアスは……すでに生命の糸が切れかかっていると。

 それでもアメーリアの手前、治療をやめることは出来なかった。


 腰を帯で何重にもきつく締め付け、止まらぬ血を強引に止める。

 気道を確保した上で滋養の薬液を飲み込ませる。

 心臓の鼓動を助けるために両手で律動的に胸を押す。

 するとトバイアスがわずかに目を見開いてゴフッと薬液を吐き出し、弱々しくむせ始めた。


「……っは……あ……」


 わずかだが彼の意識が戻ったのだと分かり、たまらずにアメーリアは医療班の男を押しのけてトバイアスの胸元にすがりつく。


「トバイアス様! アメーリアはここにおります! おそばに……」


 そう言いかけたアメーリアはハッとして声を失った。

 自分を見ているはずのトバイアスの目が、自分ではない何かを、この世には無い何かを見つめていた。

 震える彼のくちびるからかすれた声が弱々しくれ出る。


「母……上……なぜ……我らは……こんな……暗い……場所……に」


 そう言ったきりトバイアスの目は光を失い、まぶたを閉じることなく彼は呼吸を止めた。

 その様子にアメーリアは両目を大きく見開く。

 その濡れたまなこからとめどなく涙があふれ出し、アメーリアは声をしぼり出した。


「ト……トバイアス……様? トバイアス様? ワ、ワタクシをおからかいになられているの? ワタクシを1人置いていかれるはずはありませんわよね? もう。おやめになって……」

 

 そう言うとアメーリアはトバイアスのほほに触れる。

 だが、その肌はまだ温かさを残しているものの、息は途絶え、胸も腹も呼吸による上下運動は見られない。

 これまで敵が命を落としてしかばねと化す瞬間を幾度も見て来たアメーリア自身の経験が、彼女に告げていた。

 すでにトバイアスの体から命はこぼれ落ち、そのたましいは失われたことを。


「いや……うそよ……そんなの……いやぁぁぁぁぁ!」


 アメーリアはのどが張り裂けんばかりの絶叫を上げた。

 初めて自分以外の人間が死んだことを悲しいと思い、もう取り返しのつかないものを自分は失ってしまったのだと分かる。

 つい先ほどまで息があったはずのトバイアスの亡骸なきがらに抱きつき、アメーリアは泣きじゃくった。


「なぜワタクシを1人残してかれてしまわれたのですか。トバイアス様。約束していたのに。婚礼の儀を……ワタクシを妻にして下さると……お約束されていたのに」


 そう言うとアメーリアはトバイアスの最後の言葉を思い返す。 

 その言葉は自分に向けられていたものではなかった。

 彼が最後に見つめていたのは自分ではなかった。

 トバイアスは結局、自分のことなど愛していなかったのだ。

 それを信じたくないという思いが、アメーリアの胸にあふれ出しそうな狂気の奔流ほんりゅうをギリギリのところでき止めている。

 

 彼に愛されたかった。

 彼を愛して生きたかった。

 だが、それは叶わなかった。

 この先も永遠に叶うことはない。

 アメーリアはトバイアスの顔を見つめると、その手で彼の開いたままのまぶたを閉じた。


「なぜです……なぜ最後にワタクシを見て下さらなかったのですか……」


 途端とたんにアメーリアは自分が深い深い水底へと沈んでいくような感覚を覚えた。

 幼きあの日、力をうとまれ、海に沈められた日のことが思い起こされる。

 怒りが……腹の底から身を焼きつくすような激しい憎悪がアメーリアの胸にき起こってきた。

 アメーリアはうつむき、わずかに肩を震わせる。


「ボルド……おまえだけは楽に殺さない。生き地獄を百回味わわせた後、肉と骨になるまで刻んでやる」


 それは今もどこかで生きているはずのボルドに向けた暗くおぞましい呪詛じゅそだった。 

 トバイアスを死に追いやったボルド、ことごとく邪魔をしてきたブリジットとクローディア、トバイアスを守れなかったイーディス、忌々(いまいま)しい赤毛の女たち。

 その全員を殺してやりたかった。

 そしてトバイアスが去ったこの世に生きとし生ける全ての命。

 その全てが憎かった。


 アメーリアの胸の内で心の堤防が決壊し、憎悪が奔流ほんりゅうとなって腹の中を駆けめぐる。

 その感覚が奇妙にくすぐったくて、アメーリアの口から乾いた笑いがれ出た。


「く……くふふ」

「ア、アメーリア様……」


 医療班の男らが気遣きづかわしげにかけるその声に、アメーリアはゆっくりと顔を上げた。

 その表情を見て男たちは恐怖に固まる。

 そこには世にも禍々(まがまが)しい狂気の笑みが浮かんでいたのだ。


「ふふ……ふふふ……あななたち何で生きてるの? トバイアス様がお亡くなりになったのに、あなたたちが生きてるなんておかしいでしょ? 死ななきゃ」


 そこには……人の心を失った鬼がいた。


 ☆☆☆☆☆☆


 手当てを受け、軽い食事を取ったボルドは天幕の中で寝台に横たわっていた。

 体がひどく痛むせいか、相当に疲れているはずなのに眠れない。

 今、ブリジットは手当てを受け終えて、クローディアらとの緊急会議に出ている。

 天幕にはボルドの他に馴染なじみの小姓こしょうが2人いるだけだ。


 ボルドは横たわったまま天幕の天井を見つめる。

 トバイアスはどうなったのか、そのことは極力考えないようにしていた。

 だが心の中で覚悟を決める。

 もし彼が死んでいたとして、その死をもたらしたのは自分だと、きちんと受け止めなければならない。

 ボルドがそう思ったその時だった。


「……うっ!」


 思わず激しい吐き気に襲われ、ボルドは寝台の上で身を起こす。

 おどろ小姓こしょうらが気遣きづかってかけてくる言葉にこたえることも出来ないほど、ボルドの胸はおぞましい嫌悪感に満ちていた。

 悪意、殺意、憎悪、怨恨、怨念。

 そうした負の感情がおどろおどろしい奔流ほんりゅうとなって胸に流れ込んでくる。

 それが誰のもたらすものなのか、ボルドは直感的に悟った。


(アメーリア……)


 ボルドは近いうちに襲い来る死のあらしを予感し、その場で身を震わせることしか出来なかった。


 ☆☆☆☆☆☆ 


 南ダニア軍の医療班が待機していた雑木林の中は今、静寂せいじゃくに包まれている。

 アメーリアはすでにどこかに立ち去った後らしく、その姿はなかった。

 そして雑木林の中には数十人の遺体が残されている。

 医療班の男たち、そして治療を受けていた赤毛の女たち。

 全員が無残に殺され、壮絶な表情で息絶えていた。


 そして……寝台に横たわるトバイアスの亡骸なきがらからは……頭部が失われていた。

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