第329話 『母のカタキ』
「よし。撤退するぞ。アデラと合流してからヒクイドリを連れ帰る」
アデラと共に少人数による陽動作戦に出ていた鳶隊の9名は、自分たちの役割を果たしたことに満足げな表情を浮かべていた。
彼女たちの見つめる先では、数百メートル前方の戦場を混乱に陥れていたムクドリの大群が、その役目を終えて夜空高く舞い上がっていく。
ムクドリたちに撹乱された戦場には、赤毛の女たちの遺体が無数に転がっていた。
鳶隊のいる場所からではハッキリとは分からないが、その多くの遺体が敵軍のものであることを信じ、彼女らは帰還の途に就こうとした。
その時だった。
「……何だ? この音は」
部隊の中でも一番若い兵士がそう言って顔を曇らせる。
その言葉に部隊の面々は警戒の表情を浮かべて周囲に目を配りながら耳を澄ませた。
すると獣が地面を駆けるような音が聞こえてきて、暗闇の中に二つの目が光ったように見えた次の瞬間、一番若い女兵士が短い悲鳴を上げて地面に倒れた。
「ぐえっ……」
倒れたその女兵士は首を獣の爪のようなもので抉られ、噴き出した血で顎を赤く染めた。
その若き女兵士の上に人影が覆いかぶさる。
それはそこにいる女たちと同じ赤毛の女だったが、異様に鋭い爪と歯、そしてギラギラとした目を向けてくる四つん這いの女だった。
鳶隊の面々は戦慄する。
獣のような女が新都に侵入してきて大暴れをし、味方を大勢殺したことは誰もが知っている。
「け、獣女……」
獣女は倒れている若い女兵士の首元に食らいつき、その肉を噛みちぎった。
「うぎゃぁぁぁぁっ!」
若き女兵士は哀れにも断末魔の悲鳴を上げて絶命した。
獣女は顎から女兵士の血を滴らせながら、残った鳶隊の面々に目を向ける。
「くっ! 応戦だ! 敵はたった1人だぞ!」
彼女らはすぐさま武器を手に応戦しようとするが、誰一人としてその獣女の俊敏で変則的な動きについていける者はいなかった。
☆☆☆☆☆☆
晒し台から脱出したアデラはウィレミナの乗る馬に同乗して、数騎の護衛の騎兵らと共に戦場から南に数百メートル離れた平野まで進んでいた。
そこには彼女の同僚である鳶隊の面々が待機しているはずだ。
鳶隊は大量のムクドリを操って戦場に投入し、南ダニア軍を混乱に陥れた。
そのため戦況は統一ダニア軍に傾いたのだ。
彼女たちは功労者だった。
だが……。
「仲間たちと一緒に、近くで待たせているヒクイドリたちを連れて帰らないと……えっ?」
ウィレミナが突如として馬を止め、アデラが絶句する。
闇夜の大地に10人ほどの赤毛の女たちが倒れていた。
それを見たアデラはすぐに馬から飛び降りて駆けていく。
そして倒れているのが鳶隊の仲間であることと、その全員の死を確認した。
「一体何が……」
アデラは唇を噛み締め、悔しげに拳で地面を叩く。
そこに馬から降りたウィレミナが近寄ってきた。
「これは……」
ウィレミナは遺体のそばにしゃがみ込み、その傷を見た。
彼女らは皆、首から血を流して事切れている。
だがどれもこれも刃物で斬られた傷ではない。
まるで獣に引っかかれ、食いちぎられたかのような残忍な傷だった。
それが誰の所業であるのかウィレミナは即座に悟る。
「獣女の仕業です」
そう言うとウィレミナは周囲を注意深く見回す。
獣女が現れる時は、強い獣の臭いが漂ってくるという証言もあり、ウィレミナは臭いを探った。
しかし仲間たちの流した血の臭い以外は感じられない。
ウィレミナは悄然としているアデラの背に声をかけた。
「アデラさん。皆のことは残念ですが、今は彼女らの亡骸はここに残し、この場を立ち去るべきです。獣女は相当に厄介な難敵だと聞きます。我らだけでは……」
ウィレミナがそう言いかけたその時、彼女らを守る4騎の騎兵のうち1人が呻き声を上げて落馬した。
「ぐっ……」
驚いたウィレミナとアデラがそちらに目をやると、倒れた護衛の兵の首に一本の矢が深々と突き刺さっている。
女兵士は苦しげに頭を動かそうとしたが、口から泡を吹いてすぐに動かなくなった。
そして間髪入れずに次の矢が飛んできて、騎馬たちの体に突き刺さる。
馬たちは苦痛に暴れ狂い、振り落とされた兵たちは地面に転がった。
「矢は戦場の方角から飛んできている! 全員警戒!」
ウィレミナはそう叫ぶと、倒れた馬の体の陰にアデラと共に身を隠した。
矢を受けた馬たちは目を白黒させて体を痙攣させている。
それを見たウィレミナは叫んだ。
「毒矢だ!」
しかも馬の弱り具合から見て、かなり即効性のある毒だった。
暗殺者が使うそれだ。
ウィレミナの声にアデラはハッとした。
鳥渡りで晒し台に降下する直前、彼女はボルドの叫びを聞いていた。
そしてボルドの近くにいた美しい女が、十刃長ユーフェミアを暗殺した女であるとアデラも知ったのだ。
前方から石弓を手に現れたのは、まさしくその女だった。
アデラの繰り出した天雷を浴びて晒し台から落下して以降、消息不明となっていた女だ。
アデラはウィレミナの手をグッと握り、押し殺すような声で言った。
「ウィレミナさん。あの女です。ユーフェミア様をその手にかけたのは」
その言葉にウィレミナは大きく目を見開く。
そして前方から悠然と近付いて来るその女は、前方を眇め見て口を開いた。
「そこにいるのはアデラ……それにウィレミナね」
その女は石弓を構えたまま、不敵な表情でそう言う。
美しい女だったが、それが返って右頬にある大きな切り傷を際立たせていた。
「貴様がユーフェミア様を殺めた薄汚い暗殺者か」
必死に怒りを押し殺してそう言い放つウィレミナに、女はニヤリと笑った。
「ええ。そうよ。私はイーディス。あなた確か、ユーフェミアの養女だったわよね。ウィレミナ。あなたのお母様には感謝しているわ。彼女を殺したことで私の評価は大きく上がったから」
「貴様……」
ウィレミナは一瞬、激しく頭に血が昇った。
ユーフェミアの亡骸が今も鮮明に目に浮かぶ。
母にあのような最後を与えた女を八つ裂きにしてやりたい。
全身が殺意で満たされたその時、ウィレミナの頭に在りし日のユーフェミアの声が響いた。
(常に冷静であれ)
それはユーフェミアが毎日のようにウィレミナに言い聞かせていた言葉だった。
周りがどんなに熱くなっていたとしても、自分だけは冷静さを失ってはいけない。
冷静な思考の中にこそ、良策は浮かぶのだと彼女は常々言っていた。
ユーフェミアは熱き性根の女王であるブリジットを諌め、宥め、時に慰めなければならない立場だったため、冷静さを求められたのだ。
そうした母の記憶がウィレミナを冷静に立ち戻らせた。
ウィレミナには自分が比較的、感情を制御できるという自負があり、そこはユーフェミアも認めてくれていたところだ。
復讐の怒りに目をくらませるのではなく、こういう時に冷静になれてこそ、亡き母も喜んでくれるはず。
そう考えると自然と頭が冷えてきて、そうなると今、自分たちが置かれている状況が危険であることがよく分かる。
(母様を葬ったということは、相当な実力者のはず。今、この場にいるのは自分とアデラと残った護衛3人。助けを呼ぶ暇はない。この戦力で相手を倒すしかない)
ウィレミナは頭の中で戦略を構築する。
数はこちらが有利だが、相手の実力を考えれば敵の方が有利と考えるべきだろう。
それでもあのイーディスという女はここで仕留めなければならない。
単に母を殺された恨みではなく、一族のために倒すべき相手だからだ。
ウィレミナは決意を胸に敵と対峙するのだった。




