第326話 『震える手』
「邪魔をするな!」
馬上でブリジットは声を荒げ、傷付いた体で懸命に剣を振るう。
だが、前から押し寄せてくる敵兵の数は多く、ボルドのいる晒し台まで近付くことは容易ではなかった。
ブリジットを後ろから支えるウィレミナは懸命な手綱さばきで馬首を巡らせ、敵兵を避けて迂回進路を取る。
「このままでは前に進めません! 回り込みます!」
2人の乗る馬は方向を転じて、晒し台の東側へと回り込んでいく。
ブリジットは前方数十メートルほどまで近付いた晒し台へ目を凝らした。
すると仰向けに倒れたアデラがトバイアスに馬乗りになられているのが見える。
「まずいぞ! アデラが!」
そう声を上げたブリジットはそこでさらに目を大きく見開いた。
杭に縛り付けられたボルドが必死に暴れて、ついにその拘束から逃れたのだ。
それを見たウィレミナは息を飲む。
「ボルド殿が……」
体の自由を取り戻したボルドは足元から何かを拾い上げると、それを手にトバイアスへ向かっていく。
トバイアスはアデラを襲うのに夢中になっていてそれに気付いていない。
ブリジットは大きく目を見開きその様子を見つめるが、そこでふいに視界が遮られた。
けたたましい鳴き声と共に空から多くのムクドリたちが飛来して、辺りを低空飛行し始めたのだ。
「鳶隊の工作です!」
ウィレミナはムクドリの鳴き声に負けぬよう声を張り上げる。
それは予定通りの作戦だった。
鳴き声のうるさいムクドリたちを戦場に大量に飛来させることで、敵軍を混乱に陥らせる。
以前に分家に捕らわれたボルドを救出する際にも用いた手法だ。
それは少し離れた場所にいる鳶隊の手によるものだった。
数千羽のムクドリたちが飛び交っているために視界が悪くなり、そしてものすごい音量の鳴き声が聴覚を奪う。
巻き起こる混乱の最中、この事態を予測していた統一ダニア軍だけが乱れることなく動き続け、混乱する敵軍を次々と打ち倒していった。
そんな中、ウィレミナは巧みに馬を駆り、敵軍の合間を縫って進む。
ムクドリのせいで視界は利かないが、それでもウィレミナの方向感覚は正確であり、2人は着実に晒し台へと近付いて行くのだった。
☆☆☆☆☆☆
ムクドリたちが狂ったように騒ぎながら飛び交う中、アメーリアは鬼の形相で前に進む。
目の前に現れた者は敵だろうと味方だろうと容赦なく斬り殺した。
つい先ほど、彼女は見たのだ。
晒し台の上で拘束から逃れたボルドが、トバイアスの背後から近付くのを。
その様子にアメーリアは背すじがゾクリとした。
だが次の瞬間、空から雪崩のように舞い降りてきた大量のムクドリの群れが、視界を覆い尽くしたのだ。
それからアメーリアはとにかくムクドリと人馬を排除して前に進む。
そして……。
「……ハッ」
アメーリアは目の前の光景に立ち尽くす。
美しい白い髪の男が晒し台の下の地面に横たわっているのが見えた。
台から落下したのだと分かるその体は、ピクリとも動かない。
息が止まるかと思ったが、アメーリアはすぐさま弾かれたように駆け出した。
「トバイアス様ぁ!」
自分でも驚くほどの金切り声を上げ、アメーリアは倒れているトバイアスの元へ駆け寄ると、彼の体を抱き起こす。
そして愕然とした。
トバイアスの体の下に大量の血だまりが出来ていたのだ。
腰からの出血がひどい。
「そ、そんな……」
アメーリアはほとんど泣き顔になりながら自分の衣の両袖を破り取り、それをトバイアスの腰にきつく巻いて止血を図る。
トバイアスは目を閉じたまま痛みに顔を歪め、その額には玉のような脂汗が浮かんでいた。
「トバイアス様! トバイアス様!」
アメーリアの呼び掛けにトバイアスは虚ろな顔で目を開ける。
その顔は血の気が無く、彼が血を流し過ぎたことを窺わせた。
トバイアスはそこでようやく目の前にアメーリアがいることに気付いたようだ。
「……アメーリア。女王たちは……どうなった?」
「……まだその辺りにいます。そんなことよりトバイアス様。すぐに治療を……」
「ボルドだ……あの小僧がまさかあんなことをするとはな……ククク。この俺が……こんな……まったく忌々し……い」
力の無い掠れ声でそう言ったきり、トバイアスは目を閉じる。
その体からグッタリと力が抜けた。
「ト……トバイアス様?」
彼の体から生気が失われていくようで不安が胸に募り、アメーリアは思わず彼の体を揺らしてしまいハッとした。
止血用に巻いた袖にあっという間に血液が浸透していく。
(血が……傷がこんなにも深く……)
刺された傷が内臓まで達しているのだと悟り、アメーリアは決死の表情でトバイアスを抱え上げた。
そしてすぐ近くでトバイアスの様子に驚いている部下の兵士を怒鳴りつける。
「医療班の天幕はどうなってるの!」
「か、変わらず南500メートルの林の中に……」
「馬をよこしなさい!」
戦場で傷を負った者のために治療の出来る小姓や男らを待機させている天幕がある。
とにかくそこにトバイアスを連れて行って傷を塞ぐしかない。
これ以上、血を流せば死んでしまう。
アメーリアは譲り受けた馬を駆って必死に戦場を駆け抜けていった。
取り残される部下たちが困惑の表情を浮かべてアメーリアを見送るが、もはや戦況などどうでもよかった。
とにかくトバイアスをこんなところで死なせるわけにはいかない。
その一心でアメーリアは南の平原へ駆け続けた。
☆☆☆☆☆☆
アデラは震えるボルドの手を取ったまま、晒し台の上から注意深く周囲を見渡す。
戦場は無数のムクドリが飛び交い、混乱を極めている。
その様子にアデラは内心で鳶隊の仲間らに感謝した。
そして脱出への道のりを冷静に考え続ける。
大陸コンドルによる鳥渡りは自分1人の体重を支えるので精一杯であり、ボルドと2人で使うことは出来ない。
かといって今のボルドを1人で鳥渡りさせることなど危険すぎる。
それに鳥渡りは空中で無防備になってしまうため、弓矢で狙い撃ちされたら避けようがないのだ。
先ほどは暗い夜の空を不意打ちで敢行した結果、アデラは誰にも狙われることなくここまで辿り着くことが出来た。
だが、一か八かの賭けであり、たまたま運が良かっただけだ。
今のこの状況では飛び立つ際に狙われ、使うことは出来ないだろう。
とすると晒し台から降り、この混乱に乗じて徒歩で逃げるのが最も確実に思えた。
だが、そこでアデラは思い留まる。
(きっとブリジットならば、すぐにここまで来て下さる)
ならばブリジットと合流してから動くべきだと思った。
アデラはボルドを促して晒し台の縁で身を低くする。
まだボルドの手は震えていた。
無理もない。
彼は人を刃で刺せるような人間ではない。
それでもやらざるを得なかったのだ。
アデラを救うために。
そのことに申し訳なさを覚え、アデラは彼の手を強く握ったまま、その背中を優しくさする。
ブリジットの情夫に対して恐れ多い行為だが、今はそうしてあげたかった。
「ボルドさんはアタシを救ってくれました。あなたがああして下さらなければ、アタシは今頃、殺されていたでしょう。今ここにアタシの命があるのは、ボルドさんの勇気ある行為の結果です。感謝してもし切れません」
アデラの言葉にボルドは青ざめた顔で静かに頷く。
だが、喉が強張って声を出すことは出来なかった。
理屈ではないのだ。
トバイアスの体に刃物を突き立てた時の感触が今も手に残っている。
そして彼の体から噴き出た血の臭いが今も鼻の奥にこびり付いているようだった。
いくら自分を落ち着かせようとしても、ままならない。
ボルドは成す術なくただ呼吸を繰り返し、アデラの指示に従ってその場に身を伏せていることしか出来なかった。




