第322話 『鳥渡り』
(まずい……バレる)
囚われのボルドを杭に縛りつける縄を、鳶隊のカラスがその鋭い嘴で断ち切ろうとしている。
それを悟られぬように努めるボルドだが、敵の女兵士がそんな彼に近付いてきた。
ボルドは冷や汗が背すじを伝い落ちるのを感じながら、努めて冷静に声を漏らす。
「カラスたちが私を……死体だと思って死肉を漁りに来たのでしょう」
絶望した表情を浮かべ、力の無い声でそう言うと、女は足を止めてその顔に嘲笑を浮かべる。
「フンッ。そうか。鳥には分かるんだな。おまえがもうすでに死に体だということ……ん?」
そう言いかけた女は怪訝そうな表情を浮かべ、足早にボルドの背後に回る。
そして瞠目した。
「おまえ……逃げるつもりだったな!」
女が怒声を上げたことで、何事かとトバイアスとイーディスが視線を向けて来る。
ボルドの手足を縛る縄が切れかけていることを知り、女は信じられないといったように目を剥いた。
「嘘だろ……。カラスごときにこんなことが……」
「おい。どうした?」
異変に気付いたトバイアスとイーディスが近付いて来る。
「こいつ。鳥に助けられて逃げようと……」
女兵士がそう言いかけたその時、空から急降下してきたカラスが女の首の後ろを嘴で突いた。
「ぎゃっ! い、イッテェ。こ、この野郎!」
女は流血する首の後ろを手で押さえながら、怒りに燃えてカラスを腕で叩き落とそうとする。
だがカラスはヒラリとそれをかわし、上空へと逃げ延びた。
代わりに頭上から複数のカラスが急降下してきて、猛然と女を襲う。
「くっ! こ、このっ!」
カラスたちは容赦なく女の体中を突きまくり、女はたまらずに転げて晒し台の下へと落ちていく。
そして十数羽のカラスのうち数羽が再びボルドを拘束する縄を切る作業に取りかかった。
だがそれをイーディスは許さない。
「鳶隊の操る鳥ね。こざかしい」
そう言うとイーディスは腰回りの革帯に装備している小刀を次々と投げる。
それらは正確にカラスを1羽1羽、刺し貫いていった。
そして十数羽のカラスがほとんど死に絶え、残るはボルドの背後で作業をしているカラス4羽のみとなると、イーディスは今度は小刀を投げることなく手に持ったまま、すばやくボルドの背後に回り込んだ。
「こんな鳥たちが……あのアデラとかいう小娘の仕業ね」
イーディスは忌々しげにそう吐き捨てた。
(この人……アデラさんを知っている)
ボルドは内心でそのことに驚きながら、この人物が何者であるのかに思い至った。
イーディス。
それは本家に身分を偽って潜入し、ユーフェミアを暗殺した女だ。
「あなたが……ユーフェミアさんを!」
そう言うボルドにイーディスはニヤリと笑いながらカラスたちを刺殺して排除していく。
最後に残ったカラスは逃げ出そうと飛び立つが、イーディスは小刀を投げつけてそのカラスを始末した。
「そうよ。ユーフェミアは私が殺した。でもそれについてはあなたには感謝してもらいたいわね。だってあなた、ユーフェミア嫌いだったでしょ? 自分を処刑に追い込んだ女だもの当然よね」
「なっ……」
面白がるようにそう言うイーディスにボルドは驚きと怒りで絶句する。
そんな彼の顔を近寄ってきたトバイアスが覗き込んだ。
「このイーディスのおかげでおまえたちの事情は色々と筒抜けなんだよ。それにしても……」
そう言うとトバイアスはボルドの後ろに回った。
彼を縛っている縄は何重にもしているためそう簡単に切れないはずが、カラスたちの嘴によって激しく削られ、もはや切れる寸前になっている。
それを見たトバイアスは舌打ちをした。
「チッ。鳥風情にこんな真似が出来るとはな。あのアデラとかいう女は本当に忌々しい。捕まえたら必ず地獄を見せてやる」
そう言うとトバイアスは傷付いた自分の耳を忌々しげに触った。
そして晒し台の下にいる女兵士に声をかける。
「おい。新しい縄を持ってきてくれ。結び直さねば……」
トバイアスがそう言いかけたその時だった。
大きな羽音が幾度か響いたかと思うと、頭上からまたしても影が舞い降りてきた。
だが、今度のそれは鳥の大きさではなく、人のそれだった。
「がっ!」
そして空から舞い降りてきたその人物は空中でトバイアスの頭を蹴り飛ばすと、ボルドのすぐ手前に着地する。
それは赤毛で、ダニアの女にしては小柄な少女だった。
その少女の顔を見たボルドは思わず声を上げる。
「ア……アデラさん!」
そう。
まるで鳥のように上空から舞い降りてきたのは、鳶隊の少女・アデラだった。
☆☆☆☆☆☆
燃え盛る炎が躍る戦場から500メートルほど離れた場所までジリジリと近付いているのは統一ダニア軍の鳶隊だ。
ただしそこにアデラの姿はそこにはなかった。
ほんの少し前に彼女は単身で前方の戦場へと乗り込んだのだ。
その時の光景を思い返し、この部隊の中でも中堅の女兵士が最年長の女兵士に言った。
「鳥渡り……初めて見ましたよ。先輩」
「ああ。実際にやってのける奴がいるとはな。驚きだ」
2人とも……いや、この場にいる全員が己の目で見た光景を今も信じ難いといった顔をしている。
鳥渡り。
それは天雷と並んで現在では使われていない鳶隊に伝わる古の技法だった。
古くから代々伝承される鳶隊の技法書に記されているものの、現代ではそれを実現できる者はいない。
実際に行うことは不可能だと言われ、挑戦する者もいなかった。
もちろん現在の鳶隊の訓練にも組み込まれておらず、ほとんど空想の産物のような技法だった。
技法書によれば実際にそれを行うことが出来たのは、100年以上も前にたった1人だけだったという。
それを……つい先ほどアデラがやってのけたのだ。
「あいつ……一体どこであんなもん練習していたんだ」
そう言うと女兵士は上空を見上げた。
そこには使命を終えて戻って来た巨大な鳥が10羽ほど旋回している。
それは大陸コンドルという、この大陸に生息する飛べる鳥の中では最も大きな体を持つ種だ。
彼らは皆、その足から3メートルほどの縄を垂らしている。
つい先ほどアデラはその縄を結い合わせた持ち手を握り、大陸コンドルたちに引っ張り上げられる格好で空を舞ってボルドの元へ向かったのだ。
そして彼女は敵兵の遥か頭上を誰にも気付かれることなく移動し、そのまま敵軍を乗り越えた。
大陸コンドルを複数羽使って宙を舞う。
それこそが鳥渡りだった。
大型の鳥である大陸コンドルは力も強く、狐や小鹿程度ならその鍵爪で掴んで運び去ってしまえるほどだった。
そんな彼らが複数羽集まれば、成人を1人運ぶことは不可能ではない。
だが大陸コンドルは人には懐きにくいという理由から、鳶隊でも扱えるものはごくわずかだった。
それも敵を襲撃する際に使うという用途に限られており、あのように鳥渡りの要領で使える者は1人もいない。
大陸コンドルは縄張り意識が強く、単独行動を好む。
複数の大陸コンドルを同時に懐かせて使うことは不可能だと言われていた。
それをアデラはやってのけたのだ。
彼女がそんな練習をしていたことすら知る者はいなかった。
「鳥渡りといい天雷といい、アデラは……何であんなことが出来るんですかね。まるで鳥の生まれ変わりみたいだ」
呆然とそう言う後輩にかける言葉もない先輩の女兵士は、それでもその後輩の背中をバシッと叩いて言った。
「そんなことより、ここから先はアタシらがアデラの脱出経路を確保しなきゃならない。やるぞ!」
そう言うと彼女たちは事前にアデラと打ち合わせをした作戦の決行準備に取り掛かるのだった。




