第317話 『夜鷹に願いを』
太陽が西の地平線へ沈んでいき、夜の闇が頭上からのしかかってくる。
新都南側。
今そこでは統一ダニア軍が南門前で部隊の再編成を行っている。
「馬はどのくらい用意できる!」
ブライズは険しい表情で声を張り上げた。
彼女の剣幕に部下の女兵士がわずかに顔を強張らせて報告を行う。
「現時点では1200騎ほどです。あと一時間いただければ倍の2400騎は用意できます」
「くっ……もう少し何とかならないのか!」
ブライズは怒りに声を荒げるが、部下は出来る限りやるとしか答えようがない。
南側の戦いで投入された統一ダニア軍は約4000名。
そのうち激しい戦いに生き残っているのは残り3700名ほどだ。
その全てが騎馬兵であり、馬は疲労や負傷によって使える数が限られていた。
今、ブリジットとクローディアは敵陣深くに取り残され、危機に陥っている。
南門城壁の鳶隊からの報告によれば、まだ2人とも生きているが、いつまでも彼女たちの命があると思うのは危険だった。
ブライズは唇を噛む。
一刻も早くクローディアたちを助けに行きたい。
だが、確実に相手の布陣に風穴を開けられる数の兵力を再整備しなければ、結局再び馬たちを疲れさせるばかりで無駄足となってしまう。
ブライズは焦る気持ちを胸の内に押しとどめ、部隊の再編成を待つのだった。
☆☆☆☆☆☆
晒し台の上、杭に縛りつけられたボルドは疲労困憊の体で、それでもブリジットの戦いを見守り続けていた。
ブリジットとクローディアが1人ずつ、南ダニア軍の女兵士5人ずつと戦い続けて、すでに2時間以上が経過していた。
日は暮れ落ち、周辺はすっかり暗くなっている。
無数の篝火が焚かれ、この一帯の平原だけが煌々と照らし出されていた。
今、ブリジットはすでに12戦目を行っている。
これで彼女が相手にするのは60人目だ。
ボルドはその様子を唇を噛みしめながら見つめた。
これだけ連戦が続くと、さすがのブリジットも動きが徐々に鈍くなってくる。
彼女の疲れが手に取るように分かり、ボルドは胸が苦しくなった。
今、愛する彼女のために自分に出来ることが何も無いことが、悔しくてたまらなかった。
彼女を助けるためだったら命だって惜しくないのに、身動きを封じられた今の自分には何一つ出来ることは無い。
ボルドの胸の内で無力な自分に対する怒りが渦巻いていた。
ボルドはチラリと視線を巡らせ、同じ晒し台の上に椅子と机を広げて談笑するトバイアスとアメーリアを見た。
この2人が何を考えてブリジットとクローディアを相手に余興のようなことをしているのかは分からなかったが、このまま彼らの思う通りにさせるわけにはいかない。
ボルドは目を閉じると静かに息を吐き、頭の中をゆっくりと整理する。
先日、アメーリアによって麻痺させられた頭の中の感覚は回復し、すっかり戻りつつあった。
だが、それをアメーリアに悟られないようにしないといけない。
いざという時に彼女の隙を突く一瞬の機会を無駄にしないために。
ボルドは宵闇の空を静かに見上げる。
雲の多い闇夜に、閃く鳥の姿がわずかに見えた。
おそらく鳶隊が操る夜鷹だろう。
ボルドはその夜鷹に儚くも願う。
自分をここから解き放ってほしいと。
彼の願いも虚しく、夜鷹は遠く飛び去って行った。
その遥か彼方の空で、わずかに雷の光が雲間に光るのだった。
☆☆☆☆☆☆
アデラは闇の中で地面に身を伏せながら前方の様子を窺っていた。
彼女の視線の先では、煌々と焚かれた篝火が闇夜に躍っている。
アデラのいる位置から敵陣までの距離はおよそ1キロほどはあり、十分に距離が保たれていた。
アデラが率いる鳶隊の面々は、同じようにすぐ傍の地面に腹這いとなって敵陣の様子を窺っている。
先ほどヒクイドリの群れを用いて敵兵らを撃退した彼女たちは一度、現場を離れて少し離れた場所に馬を繋ぎ、それから徒歩でこの偵察場所まで戻ってきた。
日が暮れて夜の闇が辺りを包み込む中、ヒクイドリの群れは馬とは別の場所で休ませてある。
夜の闇の中では満足に動けないためだ。
再びヒクイドリを使えるのは夜が明けてからになるだろう。
ボルドが囚われている晒し台の周囲には多くの兵たちが配置されており、敵をかき分けてあそこまで近付くのは不可能だろう。
だが、彼女たちは鳶隊だ。
その意思を鳥に乗せて各種の作戦を遂行する。
今、アデラの手元に置いてある鳥籠には1羽のカラスが入っていた。
その他の鳶隊の面々も同じようにカラスの籠を持っている。
そしてアデラは事前に用意させていたボルドの小さな肖像画をカラスたちに繰り返し覚えさせていた。
カラスは非常に記憶力に優れた鳥であり、その知能は鳥類の中でも群を抜いて高い。
さらにここにいるカラスたちは実物のボルドを見たことがある。
カラスの訓練中に幾度となくボルドが食糧配給に訪れたことがあるからだ。
「この人を助けるの」
アデラはカラスたちに繰り返しそう言い聞かせる。
もちろん人の言葉が分かるわけではない。
だが、これまで繰り返してきた訓練によってカラスはアデラの意思を限りなく仔細まで理解するようになっていた。
カラスは他の鳥と違い、より具体的な指示を理解し、実行することが出来る。
そして訓練を重ねることによって簡素な物なら道具まで使えるようになるのだ。
だがいくらカラスが賢いといっても、彼らだけでボルドの救出は不可能だ。
必ず人の手が必要になる。
カラスたちがボルドの周囲にいる敵を撹乱している間に、ブリジットあるいはクローディアが彼を救出する。
それが事前に取り決めた作戦だった。
そしてそのために時間のない中で多くの者たちの協力を得て、ここまで来たのだ。
何としてもこの作戦を成功させなければならない。
一族のために。
皆でこの戦いに勝利するために。
(ボルドさん。もうすぐ助けます。無事でいて下さいね)
アデラは胸の内でボルドの無事を祈りながら、作戦決行のタイミングを待ち続けるのだった。
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「そろそろ天幕暮らしにも飽きたな」
自陣の天幕前でグラディス将軍はそう言うと、火で炙って塩を振っただけの鶏肉に食らいつく。
開戦して4日目の夜を迎え、彼女が率いる南ダニア軍にはすでに3000人ほどの戦死者が出ていた。
だが、それでもグラディスは手ごたえを得ていた。
彼女がそう思える理由は2つ。
1つは敵である統一ダニア軍の巨大弓砲による苛烈な攻撃に、徐々に自軍の兵士が慣れ始めていること。
そのため自軍兵士の死傷者の出るペースが落ちてきているのだ。
そしてもう1つ。
「イーディス。いけ好かない奴だが、今回の吉報だけは奴に感謝せねばならんな」
そう言うとグラディスは薄めの葡萄酒で口の中の鶏肉を流し込む。
新都に潜入していた仲間のイーディスからもたらされた情報によれば、統一ダニア軍が撃ち出してくるあの厄介な巨大矢の数は全部で3000本。
撃ち出されたその数を正確に数えていたわけではないが、明日には敵の手持ちの巨大矢が尽きることは明白だった。
「明日。戦局が大きく動く。状況が変わるぞ。こちらの優位に傾く。いよいよこの手で連中を直接ぶちのめしてやれる。楽しみだ」
そう言うと殺気立った笑みを浮かべながらグラディスは鶏肉を骨ごと嚙み砕き、荒々しくそれを飲み込むのだった。




