第302話 『蒼き闇の中で』
夜明けが近い。
青い闇の中に佇む水平線の彼方が、わずかに白くなっていた。
アーシュラとデイジーはチャドを伴って、港の倉庫が立ち並ぶ区画を進んでいた。
砂漠島からやって来た赤毛の女たちをまとめるディアナと会うため、彼女の姪であるダルシーから指定された場所へと向かっているのだ。
ところどころ見張りの黒刃の姿があるものの、あらかじめ教えられた道順を辿ることで、見つからずに指定の倉庫にたどり着くことが出来た。
倉庫の周囲にはやはり黒刃が数名、見張りとして立っているが、その数は思っていたほど多くはない。
おそらく見張りが少ない時間帯をダルシーが指定してくれたのだろう。
アーシュラは警戒しつつ、事前に聞いていた倉庫の2階の窓がダルシーの手引きによって開けられているのを確認した。
デイジーは同行しているチャドに声を潜めて告げる。
「チャドはここで待っていてくれ。もし私らが戻らなかったが、ジリアン達のところに戻ってそのまま3人で逃げてくれ」
チャドは頷き、積まれている木材の陰に身を隠した。
もし自分たちがこの任務に失敗したら、それを新都に知らせなければならない。
チャドにはその役割を担ってもらうことになる。
ジリアンとリビーはその護衛だ。
「さあ行こうぜ。アーシュラ」
そう言うデイジーに頷き、アーシュラは2階の窓に鉤爪付きの縄を投げ込んで引っかけると、それを頼りにスルスルと外壁を昇っていく。
そして自分が昇り切ると建物内部の安全を確認し、デイジーを縄で手繰り寄せて引き上げた。
そこは倉庫の中の一室となっていて、どうやら船舶に積み込むための日用品が収納されている用具室のようだ。
アーシュラは扉のすぐ近くの壁に耳をつけ、その向こう側の様子を探る。
広い空間を空気が流れる音が聞こえた。
建物の構造上、中央部はおそらく1階と2階の吹き抜けになっているのだろう。
彼女の脳裏に、聴覚から予想した扉の向こう側の空間が浮かび上がった。
少し広めの空間に何人かの人間がいる。
ディアナやダルシーだろうか?
アーシュラがそう思ったその時、囁くような声が用具室の中にわずかに響いた。
「……こっちだ」
その声は予想に反して扉からではなく、部屋の奥からかけられた。
振り返ると奥に置かれた棚の脇から、ダルシーが顔を覗かせている。
どうやら棚の奥の空間に彼女はあらかじめ身を潜ませていたようだ。
「来たな。そっちの扉の向こうはダメだ。黒刃が4人いてディアナ伯母さんを見張っている」
そう言うとダルシーはアーシュラたちを手招きした。
彼女は漁で使われる網などが雑多に置かれた棚の後ろに隠れていた。
「私は今、眠っていることになっているから、手短に済ませよう」
そう言うダルシーにアーシュラは懸念をその顔に滲ませて問う。
「黒刃たちは先刻の騒動を怪しんでいませんか?」
夕刻の港町でアーシュラはダルシーと接触するために、薬品を用いて黒刃2人を失神させた。
普通ならば自分たちが何者かに襲撃されたと警戒するはずだ。
だがダルシーは落ち着いた表情で首を横に振った。
「ちょっとは騒ぎになったがな。ただ私が奴らの財布を抜いておいたから、泥棒の仕業ってことになった。港町ならスリなんて珍しくもないだろうからな」
「そうですか。ディアナさんには先刻の件は……」
「伝えたよ。概ね賛同するそうだ」
ダルシーの言葉にアーシュラはホッと安堵の表情を浮かべる。
その隣ではデイジーが当然だと言わんばかりに頷いた。
「クライドのオヤジの仇だからな。ディアナさんがアメーリアなんかに従うはずはねえよ」
そう言うデイジーに頷き、ダルシーは扉のほうをチラリと見やる。
「今、伯母さんは黒刃のせいで身動きが取れない」
「ならば排除しましょう。ディアナさんさえ無事ならば、クライド派の皆はきっと蜂起してくれるはずです」
そう言うとアーシュラは立ち上がる。
相手が4人ならば、ここにいる3人が手を組めばどうにか出来るはずだ。
そう考え、アーシュラは2人を伴って扉の前に立つ。
だが……。
「んっ?」
アーシュラは扉にかけようとするその手を止めると、異変を感じ取りサッと腰を落とす。
(扉のすぐ向こうに人がいる。数人……)
そう思ったその瞬間、すぐ背後でデイジーが声を上げた。
「なっ、何を……」
振り返るとダルシーがデイジーを背後から羽交い絞めにしていたのだ。
思わぬ状況にアーシュラは咄嗟の反応が遅れる。
そこでパッと背後の扉が開き、向こうから出てきた何者かが今度はアーシュラを羽交い絞めにした。
「うぐっ!」
アーシュラは必死に反撃を試みようとしたが。どうやら背後からさらに別のもう1人が彼女の両手を押さえつけているようで、まったく身動きが取れなくなってしまった。
アーシュラ同様にダルシーに押さえつけられて反発しようとしていたデイジーも、さらにもう1人が加わり、2人がかりで押さえ込まれてしまった。
「ど、どうして……」
声を上げようとするもアーシュラもデイジーも口を手で塞がれてしまう。
そこで背後の扉からもう1人の人物が部屋に入って来る気配を感じた。
「騒ぐな。デイジー……そしてアーシュラ」
そう言うその人物の顔を見たデイジーは驚愕の表情を浮かべる。
前面に回り込んできたその者を見たアーシュラも同様に愕然とする。
そこに現れたのはアーシュラたちがこれから会いに出向こうとしていた人物……ディアナだったのだ。
「2人を拘束しろ」
彼女は部下たちにそう言うと、アーシュラとデイジーの顔を交互に眺めて表情を変えずに言った。
「……悪く思わないでくれ。騒がれると困るんだよ」
その言葉にアーシュラは目の前が真っ暗になったような気持ちになった。
ようやくここまでこぎ着けたというのに……。
アーシュラとデイジーはここで捕らえられ、計画は頓挫することとなった。
☆☆☆☆☆☆
開戦から3日目。
東の空から太陽が昇るが、雲に覆われて薄い日が差し込むばかりだった。
どちらの陣営も疲れを見せることなく、朝一番から激しい戦いを始める。
そんな新都の東側から対角線に当たる新都の西側では人の姿もまばらだった。
そんな中、アメーリアとイーディスは仮庁舎の地下から続く通路を抜けて、東の平原を足早に歩き続けていた。
2人の向かう先は新都南門の外側に展開されているトバイアスの本陣だ。
「早くトバイアス様にお会いしたいわ。その前に水浴びでもしたいけれど」
アメーリアは赤く染めた毛を忌々しげに指でつまむと、前方を歩くイーディスに声をかけた。
「本陣に着いたら坊やをもてなしてあげて」
そう言うアメーリアは左手で抱えているボルドの体を右手でポンと叩く。
顔を麻袋で隠された彼の表情は分からないが、おとなしくうなだれたままだ。
「はい。急ぎましょう。ブリジットが追ってくるかもしれません」
地下通路を通ってくる際、イーディスが持っている鍵で鉄の大扉を施錠した。
それからイーディスは錠前の鍵穴に樹脂を詰め込んで火で溶かし、鍵を使えなくしたのだ。
これならブリジットがここを追ってきたとしても、すぐには扉を解錠出来ないだろうから、十分に時間が稼げるだろう。
とはいえ急ぐに越したことはない。
出来れば馬が欲しいところだ。
そう思ったその時、前方を見つめるアメーリアの顔が見る見るうちに輝き出す。
それもそのはずだった。
前方から十騎ほどの騎兵部隊が向かってくる。
その先頭で馬に跨っているのは、白髪を風に靡かせるのはトバイアスだったのだ。




