第300話 『苦渋の決断』
「私はあなたの捕虜にはなりません」
小刀を自分の首に当てながらボルドは覚悟を決めてそう言った。
ブリジットの情夫として、敵の捕虜になるくらいならば自害する。
この小刀を小姓から受け取った時にその覚悟はしていた。
そんなボルドの決然たる表情を見て取ったアメーリアだが、その顔から余裕の笑みは消えていない。
「人質になるくらいなら死を選ぶということね。ブリジットへの忠義と愛情の見せどころじゃないの。でも手が震えているわよ? あなたのその手はブリジットを慰めるためにあるのであって、小刀なんて握り慣れていないものねぇ?」
そう言うアメーリアの隣では、彼女の部下である赤毛の女が小刀を左右の手に握っている。
おそらく彼女らが本気になれば、自分がこの小刀を首に突き刺すよりも早く取り押さえられてしまうだろう。
そして彼女らがこの場で生かしておく必要があるのは自分だけだとボルドは分かっている。
小姓2人は容赦なく殺されてしまうだろう。
そのことを懸念したボルドは頭の中で色々な考えを巡らせ、間髪入れずにそれを口にした。
「私を人質にしてもあなたたちが戦略的優位を得ることは出来ません。ブリジットは私を平然とお見捨てになります。一軍の将が情夫1人のために軍全体を不利にするようなことをなさるはずがない。それはあなたもお分かりでしょう」
思いのほか落ち着いた口調でそう言うボルドに、アメーリアの隣に立つ部下の女は忌々しげに顔を歪める。
だがアメーリアは笑顔を崩さない。
「でしょうね。でも別にあなたを人質にして戦略的優位を得ようとは思っていないの。そんなことをしなくても普通に勝つ戦だから。あなたの身柄をトバイアス様が欲しているのよ。ワタクシがあなたを連れていく理由はそれだけ」
そう言うとアメーリアは目を細め、鋭い眼光を浮かべた。
「さて、ここからは取引。ワタクシはあなたを連れて行く。で、後ろの小姓のうち1人は殺すけれど、もう1人はブリジットへの伝言役として生かすつもりだった。でも、あなたがおとなしくワタクシについてくるなら、小姓は2人とも生かしてあげる。どう? 時間がないからすぐに決めてね」
以前のユーフェミア殺害の際にダニア本家に潜入していたイーディスの調査によって、ボルドの人となりはある程度把握していた。
心優しき情夫。
蛮族ダニアの中では異質な存在である彼は、小姓を見捨てないだろう。
だが、意外に芯の強い人物だということは見て分かる。
ゆえにアメーリアはもう一押しした。
「あ、断ったら小姓は2人とも殺して君を強引に連れ去るだけだから。ブリジットへの伝言は別に後で文を送ってもいいし」
最初からそうすれば済む話なのに、こんな取引をする必要はないはずだとボルドは思った。
だが、小姓2人の命がかかっている。
その是非をアメーリアに問うような馬鹿げた真似はしない。
ボルドは慎重に、だが決然と口を開いた。
「……提案を飲みます。後ろの2人は見逃して下さい」
ブリジットの情夫として、そして1人の人間として、それは苦渋の決断だった。
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「……提案を飲みます。後ろの2人は見逃して下さい」
ボルドの言葉にアメーリアは涼しい笑みを浮かべたまま頷く。
こんな提案をわざわざするのは、ボルドの自害の意思を鈍らせるためだ。
彼が小刀を首に突き立てる前に止めることは出来るだろう。
だが万が一にでもそれが間に合わず彼が致命傷を負ってしまえば、トバイアスの命令を果たすことは出来なくなる。
それだけは絶対に避けねばならない。
だから回りくどいことをしたのだ。
全てはトバイアスの命令を果たすべく慎重を期すためだ。
人間は首を切ると意外なほどあっけなく死ぬことがあるから尚更だった。
非難めいた目を向けてくるイーディスに肩をすくめ、アメーリアはボルドに手招きをした。
彼は小刀を握る手を下ろし、それを手放す。
床に刃物が転がる音と共に、後方の小姓らが血相を変えて声を上げた。
「ボルド様! 私たちのことなど気にかけてはなりません!」
「そうです! 我ら命など惜しくはありません!」
彼らが喚き出したその時、イーディスがすばやく左右に握る小刀を投げた。
それらは鋭く飛んで、柄の部分で正確に小姓らの眉間を打つ。
「うっ!」
「あっ!」
昏倒する小姓らに思わず駆け寄ろうとするボルドだが、踵を返したところでその襟首をアメーリアが掴んだ。
そして彼女はボルドを引き寄せて後ろ手を掴んで動けなくする。
「くっ……」
「暴れないでね。腕が折れちゃうわよ。大丈夫。そこの2人は生きてるから」
そうしている間にイーディスは倒れている小姓らを縄で素早く縛り上げていく。
彼らは額を赤く腫らしているが、意識はハッキリしており、命には別状ないようだ。
そんな2人にアメーリアは言う。
「ブリジットが来たら伝えてね。あなたの大事なボルドはワタクシが預かるって。返してほしかったらトバイアス様のところへいらっしゃい」
そう言うとアメーリアはボルドが舌を噛んだり喚いたりしないよう、彼の口に猿轡を噛ませる。
そしてその顔に空気穴を開けた麻袋を被せ、縄で後ろ手に縛ってその体を軽々と担ぎ上げた。
「さあ、行きましょうか」
そう言ってイーディスを伴うと、アメーリアは小姓らを残して避難室の扉を閉めて出ていくのだった。
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「これで変装用の私の面は割れてしまいました。あの小姓2人を本当に生かしておく必要が?」
イーディスはすぐ前を意気揚々と進むアメーリアにそう恨み言を言う。
仮庁舎地下から続く通路を今、アメーリアはボルドを担いで歩いていた。
「あら? 気に入らなかったの? イーディス」
「……」
今、顔に施している変装用の化粧なら変えることが出来るので大した手間ではないが、新都に潜伏する自分の立場を、気まぐれで少しでも危うくされるのは納得がいかなかった。
ボルドには小姓を助けると騙しておいて、彼を拘束した後は小姓らを殺してしまえばよかったのだ。
ブリジットへの伝言など、その場に書き置きでも残せば済む話だった。
全てはアメーリアの遊び心である。
だがアメーリアは歩きながらイーディスを振り返ると、涼やかな笑みを見せて言った。
「いいじゃないの。潜入任務は終わり。もうわざと不細工な化粧をしなくてもいいのよ。イーディス。せっかく綺麗な顔をしてるんだから、ここからは本来の自分の顔で働いてちょうだい」
「……それはどういう意味ですか? まさか私にグラディスの部隊に加わって戦えと?」
アメーリアの言葉の意味が分からず、イーディスは怪訝な表情でそう尋ねた。
イーディスは自分の特性を理解している。
彼女の能力は暗殺・潜入・調査といった工作活動でこそ活きる。
彼女自身の戦闘能力の高さは申し分ないが、だからといって敵と真正面から戦う戦場で武器を手に取って戦うのでは、イーディスの良さは活かせないだろう。
「まさか。ワタクシがあなたに命じるのは、あなたにしか出来ないお仕事よ。いつだってそうでしょ? イーディス」
そう言ってアメーリアはその目に妖しげな光をたたえ、抱えているボルドをチラリと見る。
それから何かを企んでいるような目をイーディスに向けた。
それだけでイーディスは理解した。
(ああ、なるほど。そういうわけか。また面倒な仕事を押し付けるわけね)
そう思ったイーディスは内心で嘆息すると同時に、運命に翻弄される哀れな情夫の末路に、思わずこみ上げてくる笑いを必死に抑えるのだった。




