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大人の交換日記1  作者: 安藤 強
1/1

成就しない大人の恋愛物語

安泰の生活は人それぞれ価値観次第で大きく違う。又、それにより持たされる幸せもまちまちだ。

一見すると不逞な行為も、受け取る人間によっては、大切な事にさえなるのだ。この物語もそういう

価値観を描いた物だ。

大人の交換日記

              安藤 強


      主な登場人物


   近藤祐樹

   近藤祐二

   近藤美鈴

   近藤瑞樹

   近藤友則

   野口明子

   野口文彦

   野口春奈

   野口浩二 

   野口咲子

   朝峰サクラ

   清水博康

    

 


 初夏の7月。有る家族が空港にて出立の時を迎えていた。家族構成は夫婦と高校3年生の{近藤瑞樹}と中学3年生{近藤友則}の四人家族だ。

父親{近藤祐樹}が母親{近藤美鈴}に旅行中の注意を言いつけていた。

「良いかい、何か有ったら直ぐに連絡する事、どんな些細な事でも、困ったら相談しなさい」

「貴方、そんな事言って、日本に居ては何も対処のしようが出来ないでしょう」

「気持ちの問題だよ、何も出来ないからと言って、ほっておけないだろう。瑞樹も友則もお父さんが同行出来なくて、不安だろうに、そうだろう?」

「お父さん、仕事で行けないからと、僻んでいるのでしょうけど、私も友則もお母さんが一緒なら何も不安は有りませんよ、ね、友則!」

「うん、大丈夫だよ、お父さんこそ、一人で日本に居て大丈夫なの」

 中学生の息子にからかわれて、少しだが、

いつの間にという思いに駆られ、嬉しく成った祐樹は友則を軽く小突く。

「こいつ、お父さんをからかうか!頼もしい限りだ、道中女子の警護を頼むぞ」

「はい!任せて」

 友則は手を自分の胸に当てて、頼もしい処を見せる。

「それと、確りと自分の耳で一流の音楽を聴く事、それを瑞樹と二人共忘れるなよ」

「もうお父さん、耳タコだよ、解りました、

言われなくても楽しみなのだから、忘れる筈ないでしょう」

「貴方、その点は私が監視していますから、何も心配ありません」

「そうだな、じゃあ行ってこい!」

 祐樹はそう言って、三人を出国入口まで送っていく、中に入って見えなくなるまで見つめていた。

 翌日の早朝に美鈴から到着の連絡が入る。

未だ寝ていた祐樹は、眠い目をこすりながらも、家族の電話と思い起き上がる。 

「貴方、今ホテルにチェックインしたの、良い処よ、本当に貴方は運が無いわね、こんなに良いホテル初めてよ」

 目を擦りながらも、祐樹は向こうの様子を想像した。

「そうかい、子供らも喜んでいるかい?」

「えぇ、とてもね。だってロビーで出迎えの演奏をしているのよ、腕も確かな音楽家の方達ね、バイオリンとピアノの演奏だったから、二人とも終わる迄離れなかったのよ」

 その時の事が想像出来た、大好きな事に関して子供達は時間を厭わない。喜んでいる顔が目に浮かんだ。

「そうか、それは早速に良い刺激に成ったね、瑞樹はピアノで友則はバイオリンだからな、偶然とは言え、幸運な事だな」

「ええ本当に!」

 二人の会話に入りたいのか、美鈴の後ろで瑞樹が盛んに声を上げていた。

「あぁ、何だか瑞樹が貴方と話したいみたいだから代わるはね」

 電話の向こうで二人のやり取りが微かに聞こえた、とても喜んでいる様が伺えた。

「お父さん、本当に凄く上手な演奏だったのよ、ホテルのウエルカム演奏であれだから、コンサートが楽しみだよ」

「そうか、良かったな、でもコンサートだけがメインじゃないからな、瑞樹は自分の進む学校も、ちゃんと見ておくのだよ」

「解っています、でも、有難う、お父さん、私の我がまま聞いてくれて、心底感謝しています」

 娘の感謝の言葉に照れ臭くなり、持っている携帯を落としそうになる。

「おっと、こら!行き成りしおらしくなるな、何時もは反抗するくせに。こういう時だけなんだい、携帯落とす処だったぞ」

「御免、でもこういう時にしか、言えない物だよ、面と向かっては、恥ずかしくて。だから今日は何回でも言うよ、有難う、感謝しています、大好きだよ、お父さん」

 なんだか、涙が薄っすらしてきた、悟られまいと、声だけは普通を装うが、目の端からは雫が一筋流れていた。

「分かったから、もうそれ以上言わないでくれよ、頼むから母さんに代わってくれ」

「お父さん泣いているの?やった!私の一言で泣かせてやった」

 瑞樹はそう言って美鈴と電話を代わる。

「貴方、やだ!泣いているの?」

「バカを言うな、泣くか!瑞樹が勝手に言っているだけだ」

「そうなの、良いのよ、嬉しい時は泣いても、娘に感謝の言葉など滅多に貰えない物よ」

 祐樹は一筋流れた涙を拭う。

「そうだね、改めて言われると、こんなにも嬉しい事とは思っていなくてね。それと諄いようだけど二人には、金の事は何も気にするなと良く言ってくれ。二人の夢の為なのだから、金で解決するなら、何の気兼ねはいらないとね。二人の夢を叶えて、幸せに成ってくれれば幾らでも掛けるとね」

「はい、よく分かりました」

 電話の向こうで美鈴が微笑んでいるのが想像出来た。あぁ、良かった、娘が海外で音楽の勉強をしたいと言ってきて、当初は不安があり、寂しさも手伝って、反対の意見を述べていた。だが、娘の固い意思を確認して、応援しようと決めて、その決断で間違いが無かったと思えたからだ。

電話を切ると祐樹は一人充実感に浸った。時計を見ると午前6時、そうか時差が有るから向こうは今午後の10時頃か、日課のジョギングには少し早いが、起きた序でと支度を始める。

リビングに来ると娘の為に購入したグランドピアノが目に入る、娘が座って演奏している処を思い浮かべては、祐樹は{うん}と頷いていた。

リビングを抜け大きな吹き抜け付きの玄関に立ち、シューズを履き、玄関脇の駐車場に続く小道を行く。鎮座した高級外車が3台、

その間を通り、小さな勝手口から外の道へ出る。朝日が眩しい、7月の始めだからもう日は高く、祐樹の目にも朝日が確認出来た。

「今日は暑くなりそうだな」

 祐樹は時計のストップウォッチを押して走り出す。

「今日は江古田の森公園迄行きますか」

 そう言って走り出す、空気が美味い、気持ちの違いだけでも、こんなにも感じ方が違うのかと思う、改めて娘の言葉の力に感服していた。

「子供からの愛情は力が有るな」

 走りながら祐樹は何度も娘の言葉を思いだしていた。

 公園迄走り、何時ものルーティンの体操をしてから、家に戻る。靴を脱ぎ、汗の染みたTシャツを揺らして空気を入れながら、ダイニングに入ると、既に住み込みのお手伝いさんが、朝食の準備をしていた。

「旦那様、おはようございます。奥様とお子さん達はご無事に到着されましたか」

「ああ、先程到着したと連絡が有ってね、元気にしていました」

「何よりです、それはそうと、今日の朝食は何時もと同じで良いですよね」

「はい、何時も通りでお願いします」

 お手伝いは軽く会釈をしてキッチンへ戻って行った、祐樹は汗だくの体をシャワーで流し、朝食を澄まして身支度をする。何時もは美鈴の見立てのシャツを着るのだが、そうだ今日アイツは居ない、普段は嫁の用意したシャツを合わせるが、今日はそれが出来ない。

「困ったな、何だかんだ言っても、美鈴の存在が無いと難渋するな」

 箪笥の引き出しから、何枚かシャツを出して、スーツに合わせるが、どれもイマイチ自信が持てない、時間ばかりが過ぎて行く。

「もう、どれでも良い!シャツなんて、着てれば良いのだ」

 自分成りに無難と思われる柄のシャツに、

おおよそ合わないネクタイを締めて、上着を羽織る。そんな姿を鏡に映して(我ながらイケてる)と納得する。

 身支度を終えて、鞄を持ち。玄関口まで行くと、お手伝いさんが靴を用意して待っていた。

「旦那様?何ですかその組み合わせは?」

 自分ではイケてるつもりのコーディネイトを指摘され、祐樹は何か問題ありかという表情だ。

「良いだろう。何時もは美鈴のコーディネイトだけど、今日は自分で用意したのだよ」

 お手伝いはそうだろうと、頷いた。

「はい、解ります、奥様では無い事だけは良く解ります」

「では急ぐから」

「あ!待って下さい、責めてそのシャツは!・・・・」

 お手伝いの静止も聞かずに祐樹はサッサと玄関を出て行った。

 愛車の黒のポルシェ911に乗り込み、エンジンを掛ける。シャッターが開く間に暖機運転をして、車を発進させた。


 野口明子の日常は弁当作りから始まる。冷凍食品を駆使して彩鮮やかな弁当を、旦那の文彦と長女で高3の春奈と、長男で中3の浩二の分三つを一気に仕上げる。手慣れた事だが毎日の事、少々献立とかが悩みの種だ。

弁当の準備を終えると、4人分の朝食を準備して、寝坊助の浩二を起こしに行く。階段を駆け上がり、部屋のドアを勢い良く開けると、案の定浩二は未だ夢の中だった。

「浩二!何時まで寝ているの、起きなさい、

ササっと支度して、ほら!」

 寝ぼけ眼の浩二は{はー}と大あくびをしてから、時計を見る。時間を確認すると、再び布団を掛けて包まった。

「後5分寝かせて」

「駄目!5分寝ても同じでしょ!早く起きなさい」

 明子は無理やり布団を剥ぎ取ると、部屋の片隅に布団を投げて、浩二の頭を軽く叩く。

「分ったよ!起きるよ1」

 浩二は渋々ベッドから這い出す。それでも油断出来無い、少し目を放すと又布団に入りそうだからだ。浩二が起きたと確認出来る迄見届ける。明子がダイニングに戻ると、既に文彦と春奈が食卓に着いて、朝食を食べていた。

「おはよう母さん、浩二は起きたの?」

 春奈が味噌汁を啜りながら、上目で聞いてきた。

「えぇ、ようやくね、毎朝困るはね、誰に似たのかしら」

 明子は思わせ振りに文彦に眼差しを向ける

「おいおい、俺じゃ無いだろう、それを言うなら、明子の方だろう」

「ヤダ!止めて、私はあんなに寝坊助ですか?」

「そうだろう、違うか?」

「いいえ違います、私は間に合っていましたから、少なくとも、親の力で起きたりしていませんでした」

「でも寝坊助なのは当たりだろう、なあ春奈、お前は俺に似て、早起きが基本だよな」

「そんな事どっちでもいいよ、全く朝から惚気ないでよ、オシドリ夫婦なのは良い事だけど、子供としては何て答えて良いのか困ります」

 春奈が笑いながら答えると、文彦がこいつめと、箸で春奈を差していた。

 朝食を終えた2人が玄関口で靴を履いていた、後から浩二が慌てて合流した。支度をしている3人を明子は優しく見守っている。春奈のトートバッグからは楽譜が見え隠れしていた。浩二は片手にバイオリンを抱えている。二人共に音楽家志望らしい。

「そうだ、明子、今日少し帰りが遅くなる、

姉さんの処へちょっと用事でね、それから帰ってから相談が有るから」

「相談?何か有ったの?」

「大事では無いよ、じゃあ、帰ってからな」

 文彦はそう言って、子供たちを誘って家を出て行った。明子は文彦の相談が気になる、

何だろういったい、夏休み前のこの時点では、転勤とかとでは無いだろう、子供達の事でもなさそうだし、家の事でも無いと思う。気に        

成ると明子の頭はそれで一杯に成ってしまう。

                   

夕方に成り浩二が帰宅して来た。今日の成果

を明子に披露する。

「母さん、今日は先生に褒められてね、今から演奏するからよく聞いてね」

 浩二はそう言うと、バイオリンを取り出し

居間で演奏を始める。今習っている曲はそんなに難度が高い物では無いが、浩二は本人曰くイマイチ表現力に自信が無いらしく、明子はチェック係だった。目を瞑り曲に耳を傾ける、集中して良く音色を確認した、上出来だ、今日の処は問題無い。

「良いね!昨日より確実に音色に艶が有るよ、今日は先生に何と言われたの?」

「うん、母さんが昨日話していたけど、もっと作者の心情を想像しなさいと、そう言われてね。昨晩にそれを既に考えていたから、今日は直ぐに対応できたのだ、流石だね、母さん!」

「あら、本当に!予め予想していると、先生に言われる事が簡単に理解出来るでしょ、母さんも教わった事よ」

「そうだね、ありがとう母さん」

「そう、それじゃあ、後は勉強の方も良く頑張りなさいね、明日の予習ちゃんとやりなさい、今日そっちに集中ね」

「はい」

「母さんはこれから、夕飯の支度が有るから、浩二はそれまでお勉強よ」

 明子はそう言って笑って、浩二を勉強部屋へ追い出した。自分は台所で食事の支度にとりかかる、今日は春奈の好物のロールキャベツがメインだ。手のかかる料理だが、娘の喜ぶ顔が見たくて明子は一から仕込みをする。弁当とは違い、夕飯に関しては一切の手抜きは無い、家族の為ならどんなに手が掛かる事も、全く苦に成らなかった。

 一通りの準備が終わり、後は娘の帰宅を待つばかり、文彦は今日遅い帰宅と知っていたので、家族3人にての夕食になる。時計を見つめながら、ロールキャベツの鍋に改めて火を入れる、もうそろそろ春奈が帰る時間だ。

程なくして春奈が帰宅した。

「ただ今母さん、あ!この匂い、ロールキャベツね!やった!最近ご無沙汰だったから、

そろそろ出るかな?と、思っていたの!嬉しい」

 食べる前からこの笑顔を見られて、明子は今日の献立にして正解だったと安心する。

春奈のこの顔が最高の気分にしてくれた。

「はい、今日は何時ものより拘りましたよ、来週の春奈の演奏会が楽しみでね、今日辺りで馬力付けて貰おうと思ってね、ロールキャベツにしたの」

「わー、有難う、母さん、私頑張ります」

「そう、だから今日は特別に春奈には4個用意したよ」

「4個も!やだ!太っちゃうよ」

「大丈夫よ、その分沢山練習してカロリー消費しなさい」

「はい!」

 春奈は屈託の無い笑顔を返して来た、浩二を呼び、3人で楽しい食事をした。

食後になり此方も日課の春奈のピアノのチェックを始める。

一戸建てだが、防音対策が無く、仕方なく電子ピアノで代用していた、騒音で、ご近所に迷惑を掛けたく無かったのでそうしたが、本心を言えば防音付きの部屋で、せめてアップライト位は置きたかった。

明子は電子ピアノのヘッドホンを耳に着け、春奈の演奏に聞き入る、演奏し終わると暫し考えていた。

「どう母さん、今日の課題曲は」

 明子はその問にも即答せずに、じっと考えていた。

「母さん?」

「うん、そうね、母さんも春奈位の時に色々壁に突き当たったけど、それかな、先生には何て言われた?」

「そう、もっと想像しなさいと、曲に込められた想いをもっと、と」

「うん、母さんもそう思うよ、母さんが上手く弾けたら良いのだけど、手首がこれではね、熱く成って負担をかけると再発するから、見本が弾けなくて御免ね」

「いいの、聴いてアドバイスしてくれるだけでどんなに助かっているか、腱鞘炎が酷いのに、料理頑張ってくれているだけで、私は幸せだよ」

「有難う」

 明子は春奈を抱き寄せて、頭を撫で廻す、

この子達は自分の夢の代弁者だからだ。

明子が無理やり方向付けした訳では無い、本人達が習いたいと言ってくれたのだ。その時明子は無上の喜びを感じた。今こうして生活していて、私に大きな夢を与えてくれている。子供達が夢を追う事が、こんなにも自分にとって楽しみになるとは思ってもいなかった。こうしているだけで、幸福感で満たされていた。

 明子は不意に自分の過去を思いだしていた。明子自身も幼い頃から音楽家を目指していた、母が小さなピアノ教室を営んでいたのが影響して、何時しかピアノの虜に成っていた。何の躊躇も無く、音楽高校へ進み、そのまま上の大学へ進学した。だが、その日は突然やって来た、何時もの様にピアノに向かうと、前触れも無く左手首に激痛が走った、その時は一瞬で収まったので、大して気にも留めなかったが、その症状が時折現れるようになった。それからはその間隔がどんどん狭まり、ついには常態化してしまった。困って医者に相談すると、診断結果は重度の腱鞘炎とされた。その診断結果を聞き明子は目の前が真っ暗に成った、なんて事だ、重度の腱鞘炎、それはピアノを弾く者に取っては致命傷だ。痛み止めの薬を処方して貰い、騙しだまし練習をしていたが、今度は右手にまで症状が出だした。両手が自由に使えなくてはもう駄目だと悟った、明子はその道を目指す事を断念するしか無かった。そう決めた日の事を明子は今でもハッキリと覚えている、母に打ち明けて涙した。それから明子は生活が荒れだした、大学も止めて家を出て、一人暮らしを始める。水商売を始め、酒浸りの生活になり、人生どうでもよく成っていた。

そんな時だった、夫の文彦と出会ったのは、明子が働いていた店に上司の鞄持ちとして来店していたのだ。明子は何時もの通りに接客していたが、文彦が妙に明子に優しくして来た、明子は何時もの客と思い其れなりに接客していた。

ある時だ、明子が不意に自分の身の上話をした時だ、その時に文彦が明子の手を取り、こう言って来た

「やはり、そうか、なんだかそんな感じがしたのだ、自分には姉さんが居てね、姉さん

の様な目をしていたから、何か有ると思っていたのだよ」

 その一言を言われたその日から、明子は文彦が気になりだした、他の客とは違う何かを

文彦に感じていた。文彦の方も明子が好意を寄せているのが解った様子だった。文彦は明子が自分に気が有ると解ると、猛烈にアタックして来た、でも明子はそれを何度も拒んだ。文彦は上場企業の自動車会社の工業デザイナーだった。不釣り合いだと思い、明子は自分ではとても文彦の嫁になどに成れないと思っていた。でも文彦には関係無かった、今明子が水商売をしていようと、そんな事はどうでも良かったのだ。夢潰えて自暴自棄に成る事など誰でも有る、明子は名の有る音楽大学に入学出来る程、努力をして来たのだからと、貴方は恥ずべき処など何一つ無いと、文彦はそう言って明子を口説いた。明子は文彦のこの言葉に心打たれた。それから進展は早かった。

明子は夜の仕事を止め、昼の接客業に切り替えて、文彦と交際を始めたのだ。あれが始まりだったのだ、あの時に文彦と出会って居なければ、今のこの幸せは手に入っていないのだと、明子は頭の奥底でその事を思い出していた。


 遅くに成り文彦が漸く帰宅して来た。

明子は用意したロールキャベツと油物が好物の文彦の為に別に準備した、トンポーローを食卓に並べ、文彦に相対して座る、文彦は一口頬張る。

「うん、旨い!春奈が好きに成るのも解るよ、明子のロールキャベツは絶品だな」

 失敗した料理でも、文彦は決して文句を言わない、何でも良いから油物が一品でも有れば満足なのだ。だからと言っては何だが、上手に出来た時でも特別に褒めたりしないのが文彦だ、その文彦が今日は珍しく褒めて来た。こういう時は何かお願い事とか有る時だ、きっと相談事の内容がお願いに近いのだろうと推測出来た。

「貴方、相談事、食事しながらでも話せる?それとも、もっと重い話?」

 文彦は茶碗をテーブルに置き、明子を見つめる。

「そうだな、そんなに重い話ではないよ」

「それなら、話してくれる」

「解ったよ、今日、姉さんの処へ行っただろう、その事だよ」

「お姉さんの事?何か有ったの?」

 文彦は箸を箸置きに置く。

「実は、以前から姉さん体調が悪くてね、

此の先入院する事に成ったのだよ」

「まあ!そんな、で!何処が悪いの?」

「子宮癌だ、それも進行性の」

 明子も話の内容に少しだが驚く、{何だ、重く無いと言って置きながら、結構重くなりそうな内容じゃない}と思っていた。

「進行性?どれ位なの?」

「医者には、早くに入院して欲しいと言われているらしいのだ、具体的に後どれ位かは、ハッキリ分からないらしい」

 重い内容確定だ、明子は更に真剣に成り、文彦の方に顔を近づけた。

「後どれ位?それって余命宣告でしょ」

「そうだな」

 文彦は溜息を{はー}と一つ着く。

「大事な姉さんが後どれ位生きられるかと思うと、なんだか遣る瀬無く成るな」

「それで相談事って何?お姉さんの事でしょう?」

 落ち込む文彦の手を取り上げる。

「そうなのだ、実は、姉さん蓄えが無くて、治療費の事なのだ」

 文彦の顔が暗く成った、明子にもその意味が良く分かった、癌で入院ならそれなりの治療費は避けられない。

「知っていると思うが、俺は姉さんに育てられた、あの人は俺の為に自分の全てを犠牲にして来た、だからなんとかしてあげたいのだ、せめて最後は俺の力で楽をしてもらいたいのだ。金が余分にかかるのは承知で、大部屋とかには入れたくない。個室とは言わない、でもせめて落ち着く位余裕が有る部屋には入れて上げたいのだ。なあ解るだろう俺の気持ち」

 文彦の言いたい事、明子は良く理解出来た、文彦の家は両親が其々再婚だった、文彦が母親の連れ子で、お姉さんの咲子さんが父親の連れ子だった、年は一回以上離れていた。

 その父が事業に失敗して借金だけを残して、一人夜逃げしてしまった。残された文彦の母親は借金取りの取り立てに心を病み、自殺してしまった。その事に責任を感じた咲子さんは、自分を犠牲にして身を粉にして働き、借金を清算して、文彦を大学まで行かせてくれていたのだ。明子には文彦の気持ちが痛い程解ったのだ。

「貴方そんな事、暗い顔などしないでよ、貴方が今有るのはお姉さんの御かげでしょう、

なんとかしてあげましょうよ」

 明子の言葉が大層嬉しかったのか、文彦が

下を向いて泣き出した。

「有難う、そう言ってくれて、今日は、姉さんの処へ行ってきて、俺に治療費を出させてくれと言ってきたのだ。でもな、あの姉さんだ、駄目!貴方の世話に成りたくないと、頑として受け付けなくてね、私など何時死んでも良いのよと、貴方が幸せなら私は本望だからと、そう言うのだ。何よりあの人は、お前の事を気にしている、きっとお前に対して後ろめたい思いを、俺にさせたく無いのだろう、だから、明子がそう言ってくれて、本当に有りがたい」

 文彦は涙を啜り、明子に深々と頭を下げる

「それで、どれ位なの?お金、幾ら位かかりそうなの」

「それなのだけど、月にどれ位かかるのか、

大体算出してみたのだけど、多分15~20万位はかかると思う」

 その金額を聞いて明子は一瞬戸惑う、そんなにも掛かるかと。今の我が家での毎月の支出を考えると、果たしてやりくり出来るのか、冷静に考えないと即答出来ない。明子は文彦から視線をずらしてしまう。

「どうした?難しいか?無理なのか?」

 文彦の不安な表情が明子の気持ちを奮い立たせる。今はとにかくこの人を不安から解放して上げたい、何とか胡麻化そうと思う。

「あ、うん、今即答出来ないけど、ちょっと時間欲しい。でも何とかしよう、貴方も協力してくれたら、出来ない事無いと思うの」

「そうか、勿論俺も協力するよ、先ず俺の小遣いは一万で良いよ、嫌5千円でも構わない、そこから削ってくれ」

「貴方、いい大人が月5千円で暮らせますか。良いから、先に食事を平らげて」

 明子は文彦に早く済ませる様に言い立てて、自分は台所に立つ。一人で流し台に目を落とし考える{明日良く家計簿と相談しよう}。


 新宿区落合、中井駅。駅前は狭くホームは山手通りに頭を押さえられて、改札も手狭な小さめの駅だ。駅前から徒歩5分の処に近藤祐樹の経営する近藤興産の本社ビルが有った。

ビルの前には駐車スペースが5台分、其処へ愛車のポルシェを運転して祐樹が出社して来た。先に駐車場に止まっていたBMWからは弟の祐二が出て来て兄を迎えていた。

「お早う兄貴!あれれ?今日は何だいその柄のシャツは?スーツと合ってないよ、美鈴さんの見立てにしてはオカシイな」

「おいおい、話して置いただろう、美鈴と子供達は昨日からイギリスだって」

「あ!そうだったね。そうか、それは自分で用意したのか。成るほどね、兄貴は趣味悪いからな、それなら納得だよ」

「おい!朝から何だよ、その言い草は、これでも随分悩んだのだぞ」

 祐樹は自分のシャツを引っ張り出して、そんなにオカシクないだろうと祐二にアピールしてみせる。

「はいはい、それで打合わせ行くのが楽しみです」

「お前!解かったよ、後で金やるから、祐二の趣味とやらを買って来い!」

 二人は笑いながらビルに入って行く。


 社長室のデスクで祐樹はパソコンの画面を見つめ、銀行口座の入金のチェックをしていた。店子さんからの地代の振り込み月は今月

だ、昔ながらのやり方を親から引き継いだ為、曖昧に月以内と取り決められていたので、

各店子さんは好きな日に入金してくる。週初めに必ず確認していた。

「何でこの日にと決めなかったのかね、まあ

それが昔のやり方か、店子さんも年寄りが多いいから、昔のやり方が好きみたいだし、しょうがないか」

 ぶつぶつ独り言を呟いていると、ドアをノックする音がする{コンコン!}

「はい、どうぞ」

 ノックの主は祐二だった、何やら手提げ袋を手にしていた。

「ハイヨ!マッサージ行ったついでに、シャツ買ってきたよ、これに着替えなよ」

 祐二が紙袋から新品のシャツを取り出して

祐樹に渡す

「悪いな、時間とらせて、おっ!こいつなら

このスーツに合いそうだな」

「そうだろう、兄貴は昔から服のセンスは無いよな、美鈴さんが居なかったら、相当趣味の悪い服着ているだろうな」

「祐二、人にはそれぞれ得手不得手が有るのが普通なのだ、お前だって女のセンスは無いだろうが」

「それを言われると何も言い返せません」

 祐二は笑って答える。

「それはそうと、兄貴、懸案だった例の土地、話しが付きそうだよ」

 思い当たると見えて祐樹はあの土地と言われただけで、それが何処の土地か解った様子だ。

「あの土地か!アクセス道路の拡幅に必要な土地の値段を、持ち主が吹っ掛けて来たあの崖地か?」

「そう、あの土地だよ。我が社の隣の地主がさ、五井不動産に土地を売ったらしいのだけど、その五井不動産から連絡が有ってね、我が社の土地も含めてマンションを建てたいそうなのだよ、で、言い値で良いから売ってくれと」

「でもあちらも崖地だろうに、アクセスはどうするのだ?」

「それがさ、隣の土地はのり面の高さが幾分低くてギリでのり面崩して建設許可が出るらしいのだよ、だからあの厄介な持ち主の土地を買わなくても、再建築可能なんだと、だからこっちの土地も合わせて大きなマンションを建てたいらしいのだよ」

 祐樹は話を聞いて{やった!}と言わんばかりにデスクを叩く。

「よし!決まりだ!あの厄介者の持ち主と話をしないで済むなら、売っちまおう!その件任せたぞ」

「はいよ、やれやれ、俺もあの爺さんの顔を見ないで済むなら、御の字だよ」

 祐二も肩の荷が下りたのかホットした表情だ。

「それとさ、先週末に家にこんな知らせが来てな」

 祐樹は一通の封筒を祐二に差し出す。

「何だいこれ?」

「鈴建工業の配当の連絡なんだけどさ、未だに親父の名義なんだよ」

「何だって?親父の名義、親父が死んだ時にその辺の名義は、お袋名義に替えたのでは無かったかな?」

「そうなんだよな、多分お袋も面倒で封筒だけ受け取って、ほって置いたみたいなんだよ、自分が生きているうちに何時か処理すれば良いと。多分忘れていたのだろう。だから親父名義のままだろう、お袋が死んだ時に財産分与する時には解らなかったらしんだよ、

困ったもんだ」

「で、どうするの?これ」

「そうだな、証券は千株なんだけど、経理の山下さんに言って、お前名義にしてもらうから、まあ税金払っても、そこそこな金額になるだろう」

「いいのかよ、兄貴」

「いいのだよ、お前この間話していたろう、

後輩の野球部の施設が古いから、何とかしてやりたいと、それに使えよ」

「でもさあ」

「でもじゃない!頑張る若者に手を差し伸べるのが大人の役目だろう」

 祐樹のこの言葉は口癖だ、いい加減祐二も聞き飽きてはいるが、何度聞いても悪い気持ちはしない。

「相変わらずだな、でもありがとう、そうさせて貰うよ。・・・でも兄貴のその後輩思いというか、子供思いの気持ち本当に感心するな、困っている子供の存在を、見たり聞いたりすると、本当に黙って居られないよな」

「なあに、お前もな、我が子を持てば解る事だよ。我が家は音楽に頑張っているが、本当に一生懸命に練習に取り組んでいる姿を見ているだけで、心が癒されるのだよ、一度その気持ちを味わうと、例え他人の子供でも頑張っている姿を見るとな、応援したくなるものなのだ。だからお前、早く再婚して、子供を作れよ、一度の失敗で何だよ、もう結婚はしないなんて」

「俺は兄貴が言った通り女を見る目は無いからな。それに今が気楽で本当にいいのだ、気持ちは解るけどね」

 祐二はそう言って、祐樹から封筒を受け取るとドアを開けて出て行く。祐樹は椅子を回転させて、棚の中段に置いている、家族の写真を見つめる、その目は愛情にあふれている、只じっと見ているだけで、祐樹は心が温かくなるのが解った。

 夕刻時、祐樹はデスクで帰り支度をしていた。そこへ、部下の清水と祐二がやって来た、各々片手にはトートバッグを手にしている。

「兄貴、今日ジムへ行くのだろう。俺らもお供して良いかな」

 やる気満々の二人を目にして、祐樹もやる気が満ちて来た。お供して良いかと言ってはいるが、結局はジム終わりの一杯をご馳走して欲しいのは解っていた。都合良く俺に付き合い、飲み代と食事代を浮かせたいのだろう、それならば今日は上半身を鍛える日だ、{ようし、この二人今日は俺に付き合わせて、へとへとにしてやろう}と一人ほくそ笑む。

そう思うと早い、祐樹は片付けを早々に切り上げて、デスク横の自分のバッグを手に取り、さっと立ち上がる。

「ようし、今日はお前らをギャフンと言わしてやる」

 祐樹は祐二の運転する車に乗って、会員のジムへ向かう。学生時代はバスケットをしていた、その後も家の仕事を引き継ぐ迄は、社会人でプレーもした経験の有る祐樹は、常日頃から体を鍛えていた。40半ばになるが、体力と自分の裸姿には自信が有った。

 ジム終わりに何時もの行きつけのバーに来た、祐樹は颯爽としているが、祐二と清水はへとへとの体だ。そうとうジムで祐樹に絞られたのだろう、注文をした飲み物が来て、それを手にする腕がガタガタ震えていた。

「何だよお前ら、だらしないな、手を震えさせやがって」

「兄貴、仕方ないだろう、あんなに絞られたら、こうなるよ」

「そうですよ社長、自分もあんなに重いダンベル普段上げませんよ」

「ふん、少しは見直したか?おれの事」

「見直したよ、やっぱり普段から走ったりしていると地力が違うな、兄貴には叶いません」

 祐二は掴んだグラスを持つ手が震えるのを、

もう片方の手で押さえる、それを見ていた祐樹はどんなものだと、自分の腕で力瘤を作る仕草をして見せる。

「ま、そう言ってくれるなら、ここは気にしないで、飲んで食ってくれよ、それが目的だろう」

「社長、ばれていましたか、でも、頑張って付き合って、ここに来られて、ここで飲食出来たら本望ですよ。自分ではとても払えませんから」

「だったら早く好きな物を頼めよ、遠慮はいらないぞ」

「はい!」

 屈託の無い笑い声が三人を包む、気の知れた仲間との楽しいひと時だった。

 

 明子は一人居間のデスクで頭を抱えている。何度も電卓を叩いては、家計簿と睨めっこをしていた。気が付くともう昼になっている、あっと慌てて階段を上がり干していた洗濯物を取り込む。取り込んだ洗濯物を畳みながらも、明子はブツブツ独り言を言いながら、あれこれ頭の中で計算を繰り返していた。

居間に戻り今一度家計簿を開く、が、その内容を確認すると、{はーあ}と頭を抱えて考え込んでしまう。何度計算しても、幾ら考え直しても、義理の姉の咲子の治療費が捻り出せないでいた。

「駄目だ、後少しが足りない」

 明子はデスクにうつ伏せる、もう一度考え直してみようと気持ちを落ちつかせる。夫の文彦の収入は決して悪くはない、嫌寧ろ良い方だ。自動車会社のチーフデザイナーの役職を持ち、手掛けた車もヒットして、会社からは一目置かれる存在だからだ。そのお陰で若くして家も購入出来たし、子供達の学校も明子の学んだ私立の学校へ通わせる事が出来た。学校以外にも個人で先生に着いて貰い、レッスンまで受けさせていた。そんな贅沢をしても明子がパートへ出なくても良い位に、夫の稼ぎは有ったのだ。明子は最初から支出の計算をやり直す事にする。

まず初めに家のローン、これは是非も無い事、子供達の学校の学費、外せない、夫の小遣いは削った、食費はどうか、親子4人でこれを今の三分の二にしよう、これで少しは捻り出せる。そうだ夫と相談して自動車を処分してはどうか、出来るかも知れない、そうすれば、保険代と税金に維持費が浮く、私の小遣いももっと削ろう。後は何か有るか、月の積み立て、老後の事を考えて貯金したこれを、止めて、逆に貯金を治療費に充てれば・・・でもそれも、もし治療が長期に渡れば尽きてしまう、最初の時期はこれで何とか出来る、でも、これだけでは不安だ。最後は子供達の学校以外の学費に目をやる、実はこれが結構な金額なのだ、これを充てれば問題は解決するだろう。しかしこれは、夫とも同意した事で、子供達の夢の為ならお金は惜しまずかけようと、そう夫が言ってくれて、今までして来た事だ。今に成って急に止めると言ったら子供達は不安になるだろう、何より、子供の夢を壊すかもしれない行為は、自分が一番やりたく無かった。明子はパタンと家計簿を閉じて、{よし!}と何かを決意した。

 その夜文彦が帰宅すると、夕食終わりに明子は文彦に相談事を打ち明ける。

「貴方話が有るのだけど」

「うん?姉さんの治療費の事だろう」

「そう、それなのだけど、私の考えを聞いてくれる?」

「解った、話の内容は何だい?」

 明子は昼に自分が思案した経過を文彦に報告した、自動車の売却の件、生活費の切り詰め、積み立てた貯金を宛てる事などだ、そして最後になって自分も働きに出たい事を相談する。

「そうか、働きに出てくれるか、そうしてくれると有難い、でも家事をやって、子供達の面倒を見ると大変だろう、平気か?」

「それは良く考えた、実際貯金を充てれば最初の頃は働かなくても問題無いけど、何時迄かかるか分からないし、それも一年と続かないと思うの。そしたら、貯金が尽きたら働かなくては成らないから、だったらフルタイムでは無くても、今から家事に支障が出ない範囲で働こうと思うの、その代わりに子供達との時間を削る事にはなるのだけど」

「そうか、感謝する、俺の我が儘を聞いてくれて、本当に頭が下がるよ」

 文彦は深々と頭を下げる。

「止めて貴方!今の生活を私に与えてくれたのは貴方でしょ、自暴自棄に成っている私を助けてくれたのは貴方じゃない、こんな事位でしかお返し出来ないけど、何時も感謝しているのよ」

「そんな事、俺は明子の本当の姿を見初めただけだよ、だからそれを言うならお互い様だ。今の生活を作ったのは二人なのだよ、俺だけの力では無いのだ」

 文彦は明子をそっと抱き寄せた、こういう時に感じる幸せは言葉に出来ない物だ。明子

は改めて文彦に、深い信頼と愛情を感じていた。

 次の日明子は早速仕事探しを始めた、本音を言えば自分の得意のピアノの講師をやりたい処だ、時給換算で言えば自分の出来る事では一番割が良いのは解っている。でも、普段の生活では支障は無いが、爆弾を抱えている手首が、過度に負担を掛けて、何時再発してもおかしく無い、仕事を始めて再発したらお終だろう。仕方なくこの方面の仕事探しは諦める事にした。

その他に自分に何が出来るか考える。正直言って小学生の頃からピアノしか親しんでいない身、大学も音大に進んだ為、パソコンとかの打ち込みも得意では無い、エクセルとかワードとかは辛うじて解るが、パワーポイントと言われても、何の事かさっぱりだ。

次に考えたのが接客業だ、水商売を止めて、文彦と結婚するまでに、繋ぎでしていた仕事が接客業だ。幸い人と話す事は水商売をしていた事が役に達、得意分野では有ったので、明子はその分野に絞って職探しをしてみようと決める。不得手のパソコンに向かい、求人のサイトを開き、色々と検索をしてみる。幾つか気に成る業種から、自分の希望に合いそうな処を見つけ、明子はその幾つかの面接を受け、その内の一件から採用の通知を貰い、そこで働く事になる。

仕事の内容は飲食店でのカウンター越しでの対面販売員だ、働く時間は家の事と兼ね合いの付く午前十一時から午後の三時迄、四時間を週4日働く事にした。週に合計で十六時間働き、時給が1200円だから、これで月に約7万~8万には成る、これで何とかやれそうだ、明子はこれで不安から解放された。


 銀座の五井不動産本社ビルから祐樹が部下の清水を従えて出て来る。祐樹の顔がハレバレしている、如何にも良い仕事を終えたと顔で表現している様だ。

「社長、良かったですね、此方の条件殆ど100%飲んで貰えて」

「あぁ、有難い事だ、何せあの崖地には手を焼いていたからな、好立地に囚われて、高額な金額で買ってみたら、あんな罠が有るとは思ってもいなかったからな、開発が頓挫する処を助けられたな。祐二の手柄だよ」

「本当ですね、これで暫くは安泰ですね我が社も」

「そうだな、大きな厄介事もこれで無くなったし、そうだ、悪いが一寸これから付き合ってくれないか、少し野暮用が有ってね」

「良いですとも、何なりとお申し付けください、お供させて頂きます」

「おい、その言い方、いい加減直せよ」

「いいでは無いですか、これが私のスタイルですから」

「お前がそう言うならいいけどな。それでな、大した用事では無いんだけど、贔屓にしている楽器店のオーナーから電話が有ってね、嫁が注文した物が届いたから、序での時にでも寄ってくれと言われていてね、その件で顔を出したいのだよ、時間大丈夫だろ」

「えぇ、大丈夫です、一時間もかかりませんよね」

「あぁ、本当に簡単な買い物だから、問題無いよ」

 祐樹は清水と銀座の喧噪の中に入って行く。通りを抜け、大通りの反対側に有る楽器店を目指す、目的の楽器店の看板が目に入って来た、清水はその店構えを見て、感嘆の声を上げる。

「何ですかこの店、造りが如何にも高級店ですね」

「そうだよ、高級店だ、高いぞー、俺も嫁に最初に連れて来られた時は正直ブルッタよ」

「そうですよね、はー、自分には無縁の店ですね」

「俺だって同じだよ、嫁が音楽家で無かったら、無縁の店だよ、こんな世界が有るのかと、正直驚いたのだから」

「社長が驚くなら、私なんて如何したらいいのですか、入っても良いのでしょうか」

「当たり前だ、入るぞ」

 清水はへっぴり腰で祐樹の後を追う。

「いらっしゃいませ」

 髭を携えて白髪の初老の紳士然とした、店主らしき人物が祐樹を出迎える。

「久しぶりです、お電話頂き、有難うございます。何でも嫁が頼み事をしていたとか」

「はい、実は奥様が先月ですね息子様とお見えに成りましてね、買い物ついでに息子様が寄りたいと、急にいらしたのですが。その時に幾つか手に取りましてね、気に入った品が有ったのですが、余りに高額なので、奥様が駄目だしされましてね。でも高校へ進学するに辺り、そろそろ買い替えを検討されているとお聞きしまして、それでご用意が出来た物でご連絡を差し上げた次第です」

「そうか、あいにく、嫁と子供は電話でも伝えたけど、今イギリスでね。嫁に確認したら、貴方に任せるから購入してと。全く、俺に任せるだと?お門違いだろと言ったら、お金を出すのは貴方だから、貴方に任せますだとさ、いい気な者だよ」

 店主は大笑いして返す、祐樹も笑顔で答える、清水は一人ポカーン顔で見ていた。

「それでは見せて頂くかな、どれなのかな」

「はい、少々お待ちを」

 店主は店の奥に入って行き、一挺のバイオリンを手にして戻って来た。

「こちらです」

 ケースを開けて店主は手にして祐樹の前に掲げて見せる、見るからに高そうな品格を持つ品だが、祐樹にはその価値がいったい幾らなのか皆目見当も付かないでいた。

「何だか高そうな品だな、これが嫁の指定の品なのだよね」

「左様です、有名処の作家物では御座いませんが、年代物です、大体50年から60年頃の作になります」

「そうか、嫁が言うには、店主さんのお勧めなら間違いが無いから、傷とかが無ければ購入してと言っていてね、で、幾らなのだい」

「はい、こちらで300万になります」

 その一言を聞いて清水は持っていた鞄を落とす、

「え!えー」

「何だよ、驚かせるな、あ、すいません、こいつは会社の若い者で、気にしないで下さい。そうか、でも嫁の希望はそれ位の価格帯で

との事なんだね」

「左様です、息子様は当初は彼方に御座いますお品を大変お気に入りになりましてね、でも彼方の品はプロ用で御座います、金額をご覧になりますか?」

「出来るなら」

 店主は黙って頷くと、鍵を取り出し、壁のガラスケースを開け、一挺のバイオリンを取り出し、裏に隠して置いた、価格表を祐樹に見せる、その金額を見て感嘆を上げる

「さん!三千万ですか、」

「はい、プロ用ですし、それなりの年代物で御座いますので」

 横でやり取りを見ていた清水が我慢成らずに口出しをして来た。

「社長待って下さい、バイオリン一つで三千万ですか」

 祐樹は解ったからと、清水を宥めてから改めてその高額なバイオリンを見つめる。

「驚くのも無理無いよな、音楽家は金が掛かるのだよ。でも三千万か、はー・・・成程な、嫁も駄目だしする訳だよ、流石にこれは未だ早いだろうな」

「社長、未だ早いとは?ではいずれはこれが必要に成るのですか、店主さん嘘ですよね」

 清水は店主に嘘と言って欲しい眼差しで訴えていたが、店主はニコニコしてそれに応対して来た。

「お客様、驚きになるのも無理は御座いませんが、プロともなれば最低でも何千万クラスの品で無いと、話しになりません、だから色々とパトロンとか、スポンサーが必要になるのです、でも息子様は心配ご無用ですね、何しろ御父上様がいらっしゃいますから」

 店主は大きく笑ってみせた、清水の顔が(ああそうなのか)と諦め顔に成る。店主のこの笑顔を見ていると、お金の事で細かい事は言えない。嫁の了解も得ているからと祐樹は購入を決める。

「では、此方を頂きます」

「有難うございます、では手続きを奥で」

 店主の案内で奥に向かおうとするが、祐樹は先の三千万の品が気に成る。

「どうかされましたか」

「嫌、何だか此奴が気に成ってね」

「三千万のお品ですか」

「そうなのだよ、息子が、アイツが気に入ったのなら、そうとうアイツに合うのだろうと思ってね。早いと言えば早いが、どうせ将来購入するのなら、一回にした方がかえって無駄金が少なくて済むのでは無いかと。ご主人、如何思います、内の息子の腕は?俺は音楽の才能はてんで無いから分からんのだけど、ご主人は息子の演奏何回も聴いて解っているのだよね、アイツはプロ志望だけど、プロになれそうかな」

 祐樹の問いに店主は暫し考える、あれこれ頭の中でイメージしている様子が伺えた。

「そうですね、現時点では正直大変有望です、あのまま順調に伸びれば、プロに成れるかもしれません」

 店主の言葉に祐樹の目が輝く。

「ですが」

 行き成りの切り替えしに祐樹は{え}となる。

「ですが、とは、息子では難しいのか?」

「腕は上々です、私の知る限り、あの世代では上位の腕前と思います。ですがですね、若い年頃には良く有る事なのですが、急に方向転換をしたくなったり、とか、急に止めたりと、この先何が有るか分かりません、そういう事例は良く有るのです」 

 店主はそう言って過去の事例を話し出す、

例えば高額の品を購入後にバンドを始めてしまうとか、事故で腕に怪我を負ってしまい、音楽を断念してしまうとか等だ。

「だから奥様のお気持ち解るのです、高額の品を購入しても、無駄に成る事も有るのです。近藤様の考えも解ります一度で済ませたいと思うお気持ちが」

 店主は此処迄話して、少しだけ思案の仕草を見せて、自分の思いも付け加えた。

「それに、これは私の個人的な見解ですが、正直に申し上げて、友則様には未だあの品に見合うだけの、腕が備わっておりません、幾らお高い品を持ちましても、本人にその腕が無ければ宝の持ち腐れになります。ですので、今回は奥様の考えを踏まえるのが良いかと」

 深い考えだ、成るほどそうか、流石に音楽に精通している人達だ。経験則に乗っている、何回も何個も楽器を購入して無駄と思う事でも、そういう深い考えがあるのかと祐樹は知らされた。

「解りました、嫁の考えの通りですね、此方を購入しましょう」

 祐樹の答えに店主は小さく頷いた。  

  

 夕刻時に祐樹は清水の運転する社用車で本社に帰社して来た。エンジンを吹かして清水が車を本社前の駐車スペースに止める。清水が下りて祐樹の座っている側に回りドアを開けるより前に、祐樹はササっとドアを開けて清水に余計な事はするなと窘めている。と、玄関ドアを勢い良く開けて祐二が駆け寄って来る。

「兄貴!」

「何だよ、慌てて、」

「良いから早く、来てくれ」

 祐樹は先程購入したバイオリンを胸に抱き、祐二の後に付いて行く、行った先は一階の会議室だ、大きなテレビがスイッチを入れられ、画面が流れていた。アナウンサーが何やら速報を読み上げている、その内容はヨーロッパでの大きな航空機事故の知らせだった。ロンドン発パリ行きの旅客機が、乗客乗員合わせ200名を乗せて墜落した件を伝えていた、その中に日本人乗客として何と、祐樹の家族の名前が有ったのだ。

画面を眺め暫し呆然とする祐樹、只立ち尽くして画面をじっと眺めていた。

「兄貴、何かの間違いだ、この乗客名簿何かの手違いだよ、きっとそうだ。この飛行機に乗っているとは限らないだろう、兄貴!」

 祐樹は努めて冷静に成ろうと考えた。

「待ってくれ美鈴が俺に、予定表を残してある、それを見ればどの便に乗ったのか解るから、そうだ自宅に有るから、戻るから、それまで待ってくれ」 

 祐樹はそう言い残して、本社を飛び出して、自宅に車で急行した。自宅までは直ぐの距離だが、この日だけはその距離が随分長く感じられた、早く、もっと早くと祐樹は焦った。

 自宅に着き、祐樹は書斎のデスクの引き出しを開け、美鈴から預かった予定表に目をやる。その内容を見て祐樹は項垂れる、間違いない、今しがたニュースで流れた便名がそこには記されていた。祐樹はデスクに縋り着き泣き叫んだ。

「どうして、どうしてなんだ!」

 祐樹は一人泣き続けた、そこへ後を追い祐二が入って来た。状況を察した祐二は祐樹に抱き着き、大きく祐樹を揺さぶった。

「兄貴、しっかりしろ、未だ全員死んだ訳では無いのだ、日航123便の時も絶望と言って4人助かっただろう、今回も希望を捨てては駄目だ、兄貴、聞いてくれ、俺の言葉を聞いてくれ」

 祐二の慰めの言葉も祐樹に届かなかった。

祐樹はまるで子供が母に縋るように、祐二の顔を見上げて必死で助けを乞うていた。祐二もその顔を見て、泣かずには居られなかった、祐二も又涙して祐樹に覆いかぶさり、二人は大泣きに泣いていた。


 落合葬儀場正面に近藤家葬儀の掲示が掲げられていた。大きな祭壇の正面には中心に美鈴、右に瑞樹、左に友則の遺影が鎮座している。祐二の言葉も空しく三人は即死の状態で発見された。遺体の確認と引き取りの為に現地に飛んだ祐樹は、余りの凄惨な姿に現場で取り乱し、半ば半狂乱だった。

現地で荼毘に付せて御骨を持ち帰り、今日は改めて日本での葬式を挙げていた。

祐樹は来る人一人ひとりに頭を下げて、気丈に振舞っていた、涙は現地で出すだけ出してもう出ない、いいや、既に泣く力も残って居ないと言った方が正解かもしれない、それ程祐樹は憔悴しきっていた。   

式も終わり、祐樹は一人祭壇の前に、只立ち尽くして三人の遺影を眺めていた、時間が幾ら過ぎても祐樹には止っている様に感じられた。焼香の香りが祐樹を取り巻き、蝋燭の眩きが祐樹の顔をユラユラと照らしていた。心配した祐二と清水が二人して、やって来ても祐樹は全く気付かない。

「兄貴、大丈夫か」

 祐二が祐樹の肩に手を掛ける。

「うん?祐二か、清水も、すまん。現地であれだけ泣いたし、あれだけ飲んだくれたせいか、今はもう何も考えられないのだ。これから如何して生きて行けば良いのか、考えが浮かばなくて。今はこうして三人の遺影を見ていて、楽しかった事を思い出すしか、それしか出来ない。只、ボート、していたいのだ、生きて行く事とか考えたく無い」

「解るよ、でも辛いだろうけど、間違っても死ぬとか考えないでくれよ、な、兄貴」

「そうです、社長、今は何を言っても慰めに成らないと思いますが、私に出来る事が有れば何でも言いつけて下さい」

 清水は祐樹の手を取り上げて、両手で挟み、必死で訴えていた。

「有難う、こういう時に、如何したら良いのか、俺も考えが浮かばない、情けない。でもな、ハッキリ言える事は、今、もし三人を生き返らせる事が出来るなら、俺は全財産を投げ売っても構わない、金なんて一文も要らない。ああ畜生!金で解決出来るなら、俺はどんなに貧乏に成っても構わない」

 祐樹は突然取り乱す。

「会社も要らない、家も車も何もかもだ。俺には家族が全てだ。なあ、そうだ祐二、会社お前にやるよ、家も全て、そうしてくれ、俺は一人何処かで野垂れ死にするから、そうしてくれ、自殺でなくて野垂れ死になら迷惑も掛けないですむだろう、な」

 祐二は頭を振り祐樹の正面に立ち、両肩に手を乗せて、大きく揺さぶる。

「ばかな事を言わないでくれよ、何が野垂れ死にだよ、俺がそんな事望む訳無いだろう、確りしてくれよ、兄貴に死なれたら、俺は如何するのだよ、身内はもう兄貴だけなんだぜ、俺を一人にしないでくれよ」

 祐二が執成すが、祐樹は未だ荒れ気味だ。

「祐二お前は今から嫁を貰えば良いだろう、未だ39歳だ、子供今から作れよ、そうして会社を引き継いでくれ、お前だって、そうなれば、晴れて近藤家の当主だぞ、何も不満は無いだろう。それこそ財産分与の時に、お前が不満を言った事、全部解決するのだから」

 祐二は荒れる祐樹を力一杯で止める。祐樹もそれに促され、意気消沈して行った。

「兄貴、それとこれとは別問題だろ、あの時は俺も言いたい事言ったけど、でもな、あれから二人で会社を廻していて、解ったのだよ、当主の大変さが。あの条件でお袋が兄貴に

任せてくれて、今は良かったと思っているのだ。だから、今は俺が家の事、如何にかしたいとか、全く思っても居ないよ。俺に引き継げと言っても、俺はお断りだよ、兄貴以外に考えられないよ」

「そうです社長、社長有っての近藤興産ですよ、社長!」

 二人は必死だった、兎に角何でも良い、祐樹が生きる気力を持ってくれればと思い、懸命に励ました、しかし、今の祐樹には考えうる言葉、全てを言い聞かせても、助けに成りそうも無かった。

「兄貴、とりあえず、会社の方は暫く休んでくれ、当面は俺達で何とかするから。今しばらくは体と心を休めてくれよ」

「はい、社長そうして下さい、私も色々頑張りますから」

「すまない、そうして貰えると、助かる。暫くは多分何もする気力が湧きそうも無い」

 祭壇を後に三人は葬儀会場を退場して行った。シーンと静まり返った部屋に、三人の遺影だけが目立っていた。


 3ヶ月後、祐樹は一人で自宅の旧家屋の縁側で庭の木々を眺めていた。古くからの地主の家柄らしく、その家屋は和風建築の粋を集めたような洒落た造りをしている、母が生前は此処に住んでいた。祐樹達の家族は並びにコンクリート造りの家を新築して其方に住んでいた。この時祐樹は自分が生まれ親しんだ旧家に寝床を移していた。仏間が此方にしか無く、亡くなった家族の遺影を此方の仏間に置いていた為、態々毎日の線香を上げるのが面倒で、此方に来ていた。又、新築の家には居るだけで思いだす事が多すぎて、一人で過ごすには辛過ぎたのだ。祐樹は伸びきった髭を携えて、縁側でウイスキーの入ったグラスを片手に、(ぼーと)している。季節の木々を時間が過ぎるのを忘れて見つめていた。

「あぁそうだ、そう言えばあの木、枝にブランコを吊るして、瑞樹の事を押して上げたな、あの池には友則が落ちて慌てて俺が池に入って、びしょ濡れに成って、二人で美鈴に叱られたな。・・・そうか、ここでも、あれこれ思い出すか」

祐樹は大きくため息を付いた。色々な事を思い、祐樹はじっと庭を見ていた。そこへ、祐二と清水が声を上げながらやって来た。

「兄貴、何処だよ、兄貴!」

 廊下の向こうで声がする、祐樹はこっちだと声を掛ける。

「電話にも出ないから心配して来たら、何だよあれ、新家の方掃除はしてないのか、お手伝いさん呼べよ」

 祐二の言葉に(了解と手を上げて答える)答えて来たその祐樹の無様な髭面を見て呆れていた。

「何だいその鬚面は如何したの?頼むよ、もういい加減元気出してくれよ。厳しい事言うかも知れないが、兄貴が居ないとヤッパリ会社駄目なんだよ、お願いだ、もう会社に出社してくれないか」

 切なる願いと思しき言葉に祐樹はすまないと表情をする。

「御免、解って居る、解っているのだが、どうしても気力が湧かないのだ、本当に申し訳無いと思っている」

「だったら、週一日でも良いから顔を出してくれよ」

 祐二はグラスを取り上げて、中身を庭に捨てる、祐樹はされるがままだ。

「そうですよ、社長、他の社員も皆待っていますよ」

「待っている、そうか、そうだよな。でもな、朝起きると、如何しても思い出してしまうのだ、そうすると、気持ちが萎えてしまって、力が湧かなくなるのだ」

 祐樹の気持ちも良く分かるが、今の近藤興産には如何しても祐樹が必要だ。取引先一つ取っても、先代から祐樹の顔だけで繋いだ会社も沢山有る、急に弟の祐二が出向いても相手にされない事も多々有るのだ。会社が困っている事に、居ても立っても居られない清水も、一緒に成って祐樹を振るい立たせる為に、今日は付いて来たのだ。

「社長、実は自分、今日は報告が有ってお供して来ました」

「報告、何だ、仕事か?」

「いいえ、違います、実は昨日子供が生まれました」

 又とない朗報だ、流石に元気が無い祐樹もこれには顔がほころんだ。

「本当か!そうか、妊娠中だったな、そいつは良かったじゃないか。で、男か女か」

「それが二卵性の双子でして、両方です、私は何て幸せ者でしょう、一度に男の子と女の子の二人ですよ、見て下さい」

 清水はスマートフォンを取り出し、昨日撮った生まれたての赤ちゃんの写真を祐樹に見せた。清水の顔が弾けていた、心から喜んでいるのが解る。赤子とは良く言ったものだ、

本当に赤い可愛い顔をしている。祐樹はスマートフォンを手に取り、穴が開く程その写真を見つめて居た、

「双子で男と女か!こいつは何て可愛いんだ、如何言ったら良いのだ、おめでとうだけでは、表現出来ないぞ」

 祐樹は自分の子供達の出産時の頃を思い出した、今でも忘れない、あの時の感動は比喩が出来ない。そう思うと自分の事の様に感じられた。

「そうですよね、そこでお願いが有って伺いました、私の子の名づけ親に成って頂けませんか」

 清水の突然のお願いに祐樹は戸惑う。

「俺が?何故だよ、お前の親御さんとか、義両親さんに悪いだろうに。それは流石に遠慮するぞ」

「いいえ、私の両親も嫁の両親にも了解済みです、実は社長の事で相談したのです、何とかして元気に成って貰おうと、そこで我が子の名づけ親に成って貰おうと、私が提案したのです。そうしたら満場一致で決まりです、ですから何の遠慮もいりません」

「清水お前、俺の為にそんな事」

 祐樹は清水の気持ちが嬉しかった、自分の為に子の名づけ親に成って欲しいという気持ちが。一社員に此処迄心配させてしまって、祐樹は恥ずかしかった、漸く祐樹は自分の不甲斐ない心に気が付く。幾ら時間を掛けても自分の心が、気持ちが、奮い立たないと、只時間ばかり過ごしても、それでは何も解決しないのだと。

「清水、良く解ったよ・・・祐二悪かったな、明日から会社、出社するよ」

「本当かい兄貴!」

「あぁ、本当だ、今度ばかりは清水に白旗だ、此奴の策略に負けたよ。嫌、感謝しなくちゃな」

「へへ、そう言って頂くと、有難いです」 

 清水は大きく頭を掻いた。

「それで名前ですが」

「あぁ、考えておくよ、二、三日時間をくれないかな、良い名を考えるよ」

「其れなのですが、もしですね、社長が嫌でないのなら、娘さんと息子さんのお名前を頂けませんか」

「俺の子の?」

「そうです、駄目ですか、名づけ親が社長で、名前が亡くなったお子さん達と同じなら、実の親も同然です。一緒に我が子の成長を見守って下さいませんか、私の子を、本当の子供の様に思って下さい」

 祐樹は何の躊躇も無くこの申し出を承諾した。何より、清水の自分への思いが堪らなく

嬉しかった、祐樹に又生きる気力が満ちて来た。

 翌日、祐樹は約束通りに会社に出社した。

本社のオフィスでは、全社員50人が出迎えていた。

「社長お帰りなさい、待っていましたよ」

 経理担当の古株社員の山下が先頭を切って

近づいて来た。

「山下、すまん、色々心配をかけて、もう大丈夫だ、何も心配をしないでくれ」

「はい、昨日、副社長から伺っています、清水の作戦が功を奏したようですね、良かったです」

 山下は祐樹の手を持ち上げて、他の社員に力強く示す。照れる祐樹は止めろと躊躇してもお構いなしだ。

「実を言いますと、今回は清水のおかげで助かりました。お母様にお願いされている事が有りましてね、社長が腑抜けて来たら、構わないから、私が殴ってでも目を覚ませてくれと、そう言われていました。ですから、昨日は本当の処は私がお家に伺う予定でした、そこに清水から申し出が有りましてね、助かりましたよ、社長を殴らずに済みました」

 山下は大きく笑って、祐樹を見る。

「そうだったのか、何だ、山下に殴られる処を清水に助けて貰ったのか、まあ、俺は殴られても仕方ない程、腑抜けていたよな」

「いいえ、そんな事、こうして戻って来てくれたでは有りませんか。誰でも事の大小は有るにせよ、辛い事、乗り切る事は有るのです。

それは器が大きければ大きい程、それに見合った試練が有るのですよ。だから、今回の件社長には大変辛い事でした。でも、私ら一般社員では、間違いなく潰れていましたよ。社長だからこそ乗り切れたのですよ、なあ、皆、そうだよな」

 山下の言葉を受け皆一様に頷く、そしてその目は祐樹を捉えて離さなかった。全社員の

視線を見据えて、自分の中で益々気力が湧いて来るのが実感出来た。{ようし、見て居ろ、俺はこんな事位では絶対に潰れない}と心を新たにしていた。


 立川の駅近くのシアトル系のコーヒーショップ、明子がカウンターに立ち接客をしていた。働き始めて早三か月経ち、ここでの仕事にも大分慣れ、動きも無駄が無く、生きいきとした表情をしていた。その明子をカウンター越しに、年の頃は明子と同い年と思わしき、羽振りの良さそうな恰好をした女性が、明子の顔を凝視していた。

視線を感じて明子が振り向き、女性に顔を向ける。

「何かご余命でも御座いますか?」

 明子の声を聞き、女性はやっぱりという表情をした。

「明子、その声明子でしょ、私!サクラよ」

「サクラ?」

 見た目が之ほど派手な女性は知り合いに居ない筈だ、何処の誰で有ろうかと、明子は記憶を巡らせるが、直ぐには何も思い浮かばないでいた。痺れを切らしたらしく、相手の女性が声を上げた。

「ヤダ!忘れたの?そうかこの格好でこのメイクではね。じゃあ源氏名なら覚えているかな、レイナよ、レイナ!」

「レイナ?(暫し思い出しにかかる)そうかレイナか!あ!御免サクラよね」

 彼女は明子が水商売時代の同僚のサクラだったのだ。当時の源氏名を言われて漸く思いだせた。本名では頻繁に呼ぶ事が無く、その名を言われても余りピンと来なかった。何よりもその出で立ちが、当時のギャルメイクのサクラとは、著しく違っていたので、明子はすぐに思い出せないでいたのだ。

「サクラか、久しぶり、元気だった?今はどうしているの?」

「私は元気よ、明子も見た処元気そうね。それより、何よ、こんな処で働いて、玉の輿に乗って良い人と結婚して、悠々自適の生活をしていると思っていたけど?」

「そうなのだけど、色々事情が有ってね、子供の事とか色々お金がかかるのよ、家計の足しに働いているの」

「そう、家計の足しか、大変なんだね・・・それよりさ、久しぶりに色々話がしたいな、何時迄シフト?」

「うん、後10分」

「そう、終わったら時間有る?あそこの角の席に座っているから、終わったら話そうよ」

「うん、了解」

 明子は久しぶりに旧友に会い、帰宅迄に少し時間に余裕が有ったので、一時をサクラと過ごす事にする。

シフトを終え、着替えを済ませて、念のために浩二の留守電に帰りが遅れると入れる。手には自分で入れたコーヒーを持って、サクラの待つ席を目指した。

「お待ちどうさま、見違えたよ、サクラ何?その見た目、何処かのお金持ちの奥様だよ、高そうな服着てさ」

 サクラの恰好はたしかに、見るからに高級そうな品で飾られていた。

「そうでしょう、今日はちょっとだけ、めかし込んではいるかな、気合いれたの」

「私の事、玉の輿とか言って、さては自分も良い相手見つけたな」

 明子の問いにサクラは横に頭を振り、黙って鞄から名刺入れを出す。その一枚をテーブルに乗せて見せて来た。名刺には人材派遣業、家庭のヘルプ、家政婦派遣所、ブルーリボン代表取締役社長朝峰サクラと書いてあった。

「人材派遣!社長!凄いじゃない、サクラ社長なの!」

「まあ、そんなに規模は大きく無いけどね、

スタッフ4人で、慎ましくやっています」

「それでか、その恰好は、社長と成ると、

其れなりに儲かるのね」

「私はね、その点上手く行っているかな、でも普通の家政婦派遣だけでは、それ程儲からないと思うけどね」

 意味有り気な言い回しだ、何か秘密でもありそうで、明子はその事が気に成る。

「普通って?普通以外に何が有るのよ」

 サクラはここぞとばかりに明子に顔を近づけて、囁き声で話す。

「表の会社は普通だけど。裏で別に会員制のセックス付の家政婦派遣所も経営していてね」

サクラから想定外の事を言われて、明子の返答が驚きを込めて大きく成ってしまう。

「セックスって!それ買春でしょ!」

 大きな声で答える明子にサクラは思わず、

{し!}と口に指を宛てる。

「やだ、声大きいよ、周りの事気にしてよ」

 指摘を受けて明子は身を屈めて小声で聞き返した。

「御免、でも、如何してそんな事始めたの」

「何を言うのよ、明子だって、お水時代にお客取った事有ったでしょ、綺麗事だけでは、お金儲けなんて出来ないのよ」

 確かに明子は何度か買春をした事が有った、だからサクラの言わんとする事は解った。でもあの頃の明子は、半ば自暴自棄に成って、自分を落ちる処迄落としてやろうという気持ちから、体を売っていたのだ。こんな私は如何になろうと良いと。そう言う気持ちからだった。だからあの時は、誰と寝ようと何も感じていなかった、お金もそれが目的では無かったので、散財しないで、ちゃんと貯金していた。そんな時だった文彦と出会ったのは、文彦の御かげで明子は立ち直れた、それ以来明子は一度も買春はおろか、勿論浮気もしていない、文彦以外の男には目もくれていない。だから未だに買春業を生業にしているサクラに少なからず驚いた。

「私は、もうそういう事卒業したの、今は夫一人だけよ、あれ以来体を売るとか考えた事すら無いよ」

「私もだよ、私はお客の要望に沿って女の子を派遣するだけ」

「じゃあサクラは人を集めて派遣しているだけなの」

「基本そうよ、沢山派遣しないと、お金入ってこないでしょう」

「其れなりに儲けているのなら、そんなに需要が有るのね、そうか・・・」

 知らないのは私だけか、世の中は色んな仕事が有るものだと感心した。

「でもそういう処で働く女子ってどんな子が多いいの?若い子でないと務まらないでしょう」

 サクラは手にしたコーヒーをテーブルに置き、その点に付いての説明を始めた。

「それがそうでも無いのよ、私の処は特にそう。今の時代色々趣味趣向が有ってね、ただ単に若いだけでも駄目なのよ」

「そうなの、例えば?」

「例えば、そうね、多いいのは、チャンとした食事を作れないと駄目とか。ゲームに付き合う事が条件とか」

「そんな趣味趣向が有るの?見た目の良さとかでは無いの?」

「そうね、見た目の良し悪しも勿論あるよ、でも面白いのが人柄の趣向かな、若くて子持ちとか、既婚で子無、既婚で子有り、熟女で子無、熟女で子有りとか」

「そんな趣向が有るの、既婚?それじゃあ、

主婦がバイトでしているの?」

「そう、私の処は主婦が多いいのよ、特に今は熟女ブームでしょ。年が行っていても結構な人気が有るのよ。そう明子なんか、需要有ると思うよ、見たところ体の線は崩れてないし、相変わらず美人だし。そういうギャップが有ると良いのよ。熟女で子持ちだけど、スタイル抜群とか、見た目は清楚だけどアッチは激しいとか。(サクラの視線は明子の体をひとなめする)明子に当てはまるんだよな、

美人で子持ちだけどスタイル抜群でしょ。ちなみにアッチは激しいの?それが合っていれば完璧!」

「何を考えて居るの!私をスカウトする気なの?」

 明子の断りの言葉も無視して、サクラは言いたい事を続ける。

「そうだ明子は楽器出来るでしょ、以前いたんだよな、ピアノ弾いてくれる方希望というお客さんが」

 サクラの言いまわしは、まるで明子が自分の会社で働く事を前提にしている様だ。流石に明子も呆れ果てキッパリと否定で答えた。

「止めて、私は論外、サクラには残念だろうけど、私はそこまでお金で困っていませんから」

「でも、此処で働いているじゃない、お金必要なんでしょう?」

「そうだけど、今はこの仕事で充分なの、だから変な期待しないでよ」

 明らかに不問の態度をされて、サクラも漸く諦めた様子だった。

「はいはい、解りました。・・・何だ、残念だな。でも、私に何か相談が有ったら何時でも連絡して、一応名刺渡しておくから」

 サクラは明子に名刺を渡す、明子は黙ってそれを受け取り、財布の中にしまい込む。まあ金銭での相談の連絡は無いと思うが、旧友だ、何かの時には話し相手にでも成って貰おうと思う。


 週末に成り、明子は文彦と二人で姉の咲子の入院している病院へ見舞にやって来ていた。

二人部屋に並べられたベッドの窓側に咲子が横たわり、二人と談笑中だった。

「明子さん色々苦労を掛けて御免なさいね、仕事はどうなの、子供達には負担かけていない」

「大丈夫です、家事に負担の無き様に、シフト組んでいますから、子供達との時間は減りましたが、出来る事はしていますから」

「そう、それなら良かった、文彦、貴方は本当に幸せ者よ、こんなに尽くしてくれるお嫁さん、今の時代中々居ませんよ、感謝しているの?」

「感謝していますよ、当たり前です。明子が居なかったらと思うと{有難う}この言葉以外に見つかりません」

 文彦は咲子の前でこれ見よがしに明子に頭を下げる。

「まあ、貴方、やだ、お姉さんの前で止めてよ」

 明子は文彦の肩を戻す。

「それと、文彦、私がこうなったから話すけど、貴方もそろそろ健康管理しっかりしなさい、明子さんからも聞いているけど、油物控えなさいな。何なのそのお腹、余り太ると明子さんに心配かけるでしょう」

 文彦は指摘されたお腹を摩り、パンと手で叩いて見せる。

「姉さん、油物は俺の唯一の好物なの知っているよね、太ると言ったって、この程度、中年太りだよ、そんな健康管理だなんて、大げさな事今から気にしてもさ」

「貴方、私もその事最近気にしていたの、随分お腹出て来たよ、お姉さんの言う通りよ」

 先程叩いたお腹辺りに手を宛てる、弛んだ肉を掴み、咲子に{ほら!}と示す。

「ほらね、明子さんも私に同意見でしょ、少しは気にしなさい」

「はい、はい解りましたよ、参考にします」

 三人の談笑の声が静かに木霊した。其処へ

ナース長らしき女性が文彦を呼びに来た、文彦はそのナースと共に出て行く。部屋に残されて二人に成る。咲子は何やら明子にお願い事が有るとの事だった。

「明子さん、文彦が居ない時に話すけど、今から話すこと、守って欲しいの」

「何の話でしょうか」

「実はねあの子、私の為に幾らでもお金はかけると言ってくれるのだけど、それね、何度も私は辞意したの。でもあの子聞き入れなくてね、これ以上私はもう望は無いのよ、何時死んでもいいの。だからもし、あの子がもっと私にお金をかけると言い出したら、その時は私のこの言葉をあの子に話して上げてね。私は望まないと、何よりあなた方の子供達に金銭的に迷惑になるなら尚更お断りだと、必ずそう話してね」

「お姉さん、でもそれは」

「いいから、約束して、私は心配なの、音楽は、お金が沢山出て行くでしょう、だから余計心配なのよ。私にかけるお金が有るなら、そのお金は子供達に、ね、お願い」

 咲子は明子の手を取り懇願する、ここまで言われて明子は仕方なく承諾するしか無かった。

 その日の終わり二人ベッドに入った。文彦は何か考え事をしているのが伺えた。病院でナースに呼ばれて、帰って来てから家までずっとその事が気に成っていた。一人で何やら考えている節だったのだ、それはベッドに入った今でも変わらなかった。明子は何やら気になりだして、文彦に聞かずにはいられない。

「貴方、何を考えているの?ずっと一人で。

話してよ、分るのよ、貴方が何か悩んでいるの、水臭いじゃない」

 明子に急かされて、文彦は体を明子の方に寝返る、

「実は、ナース長に呼ばれて、主治医に会って来たのだけど、そこで有る提案をされてね。

今日話すか、明日にしようかと思っていたのだけど、うん今話すよ」

「なんだ、そんな事、で、どんな提案なの」

「うん、新薬の投与をしてみないかと言われてね」

「新薬?効果は有るの?」

「アメリカでの臨床報告では、姉さんの様な患者では劇的に改善が報告されているらしくてね、余命1年と言われた患者が、一時帰宅が出来るまで回復して、結果3年近く生きたそうなんだ」

「そんなに効果が有るの!その提案乗るべきじゃない、何をそんなに考えているのよ」

「そこなんだよ」

 文彦は明子の頬をさすり、瞳を見つめる。

「日本では未だ未承認でね、実費なんだ」

「未承認?実費」

「そう、だから保険も使えないし、高額医療還付金も適応外だ」

「じゃあ、いったい幾ら位掛かるの?」

「そう、主治医の見積もりでは、一月に大体20~30万は掛かると」

 その金額を聞いて明子は思わず起き上がり、

体を文彦に向けてその顔を見つめる。

「20~30万!今の金額以外にあと20~30万」

「そう、だから即答出来無くてね、少し考える時間が欲しいと話したが。早くに始めれば、効果もあるが、先に延ばせば伸ばすほど、効果も期待出来ないらしいのだ。なあ、明子、

どうかな、何とかならないかな」

 明子を見上げる文彦の目はそれを訴えかけていた。

「何とかならないか?じゃあ貴方は処方の提案に賛成なの?」

 反対の素振りを見せた明子に、文彦も起き上がる。

「何だよ、明子も今乗るべきと答えてくれただろう」

「それは、金額を聞く前よ、その金額聞いて

はい解りましたとは行かないは」

 それを聞き文彦の表情は暗く成る、下を向いて声も落ち気味だ。

「金か、やはりそうだよな、俺は医者に提案された時に、即答でOK出そうと思っていたが、一応明子の意見を聞こうと思って、それで時間を貰ったのだよ。きっと明子は反対するだろうと、それで何時切り出すか悩んでいたんだ」

「じゃあ、貴方の答えはもう出ているのね、OKで決まりなのね」

「そうだ」

 身勝手な文彦の考えに明子は流石に怒りが湧く。

「貴方も解っていると思うけど、私が働いて

もギリギリの現状で、この先その金額をいったいどんな方法で捻り出すと言うのよ」

 文彦は何か考えが有りそうな気配だった、

明子があれ程頭を振り絞って、自分が働くまでして今の状況だ。何か方法が有るのか?明子は固唾をのんで文彦の話を待った。

「そこだけど、子供達の学校の事、今から公立校へ変更出来ないかな、春奈は芸大へ、浩二は都立高校の芸術系へ、今からなら来年の受験に間に合うだろう、誰でも出願すれば受けられるし」

「待って、ちょっと待って!」

 明子の語気が荒々しくなる、相当心外の様子が伺えた。

「受験って!簡単に言わないで。ねえ、あの子達の為にわざわざ立川音大付属選んだの、何のためなの?私の母校でも有るけど、受験無で大学まで進めるからじゃないの?それに家だって近くが良いと、此処に買い求めたよね。

一番に言える事は、あの子達に今から外部受験をさせるの?何も準備もしていないし、そんな状態で受けても、受かるかどうか

解らないじゃない、落ちたらその時は如何するの?あの子達に音楽諦めろと言うの?」

「そんな事、受けてみないと分からないじゃ無いか、あの子達の技量ならきっと受かるよ、な、そうしないか、そうすれば学費が随分浮く、それなら何とか成るじゃないか」

 明子は呆れてしまう、文彦の自分勝手な提案に、ほとほと嫌気がさしてきた。

「ねえ、音楽って技量だけじゃないの、その学校の特性とか、方向性とか、そういう事に

対策とか取らないと、受かる者も受からないの。ねえ解る?この意味、あの子達は今までずっと立川音大の方針とか特色とか、そういう指導を受けているの。それに、慣れ親しんだ友達とか、先生とか沢山居るのよ、学費が安く済むからと、簡単に公立になんて考えないでよ」

 文彦はそうかと、諦め顔になるが、今一度気を取り直す。

「では、この家を売るのはどうだ」

 又しても突拍子も無い提案だ、明子も流石に呆れ気味で答えた。

「え!家を?住む処はどうするのよ、何を考えているのよ?」

 呆れて答えて来た明子をまあまあと宥めてから、文彦は新たな提案内容を話した。

「実は、新しく社宅を建てている最中なんだ、今から申し込めば間に合う筈だ、この家、頭金を多く入れただろう、ローンも後8年で完済だから、今売れば清算しても800万は残るだろう、それに社宅なら今払っている月々の金額の半分以下になる、それなら800万を宛てて、尚且つ家賃が今の半分に成れば、何とかなるだろう」

 明子は文彦のこの提案に、すこしだけだが可能性を見いだせていた。言われて暫し考える、そうかと思い始めていた、でも気に成る事が一つ有る、その社宅の場所だ。

「それ、もしかしていけるかも。でも気に成るのは、その社宅、何処に有るの?」

「千葉だ、ユーカリが丘の近くだ」

「ユーカリが丘?」

 明子はスマートフォンを取り検索する、ユーカリが丘から学校が有る西国立駅まで検索を掛けると最短で2時間と出た。

「駅から駅で2時間?じゃあドアツードアでは約2時間半じゃない。論外よ!往復で通学に5時間掛けて、あの子達何時練習するのよ、個人レッスンを受ける時間も取れないじゃないの、論外よ」

「じゃあ、いったいどうすれば良いのだよ、

姉さんの事」

 明子は懇願気味の文彦の顔を見て、今日咲子に言われた事を話そうと決意して、その内容を文彦に伝える。聞いている横で文彦はそうだろうと項垂れた。

「姉さんらしい考えだ、俺も姉さんならそう言うと思っていたのだ。だからだよ、そう言われると余計に俺は、姉さんに少しでも長く生きて欲しいのだ。後であの時にもっと、色々してやれればと思いたく無いのだよ、自分の限界迄、ギリギリまでやり切ったと思いたいのだ、なあ、解るだろう」

「解るけど、厳しい事を言うようですまないけど、どうしてそこまで姉さんにして上げたいの、ねえどうして?」

「それは何回も話したろう、今俺が有るのは姉さんの御かげだと」

「でも、子供達は如何するのよ、貴方には姉さんと子供達どちらが大事なのよ」

 明子は言ってしまって{あ!}と思う、聞いてはいけないフレーズだった。この例えだけは決して文彦に聞くまいと思っていたが、

思わず口が滑ってしまった。

「お前、それだけは、聞くなと・・・・もう良い」

 文彦は背中を向けて布団に包まってしまった。

「御免、貴方、お願い少し私に時間を下さい、1週間で良い、私も何か方法が無いか考えるから、ね」 

 明子は振り向き寝ている文彦の背中を摩って何度もお願いをした。


 明子は朝食の支度をしながら昨夜の事で考え事をしていた、何度考えても子供達の夢を壊す事だけは避けたかった。でも、それを叶えるには、そして咲子を見捨てずに事を上手く進めるには、何か手立ては無いのかと、頭の中で様々な思考が錯綜した。が、駄目だ、幾ら考えても光は見えてこない、普通の事、普通の思考では答えは出せないでいた。

その時、明子は先日のサクラとの出会いを思い出した。そうだサクラに相談したら、もしかしたら、何か手立てが有るかもしれないと。明子は財布の中からサクラの名刺を取り出し眺める、少しの時間その名刺と睨めっこをする。でも、やっぱり駄目だと思い直す。サクラに相談したら、幾つか方法は有るかもしれない、けど、それは自らを貶める事に成る、何より文彦を裏切る事に成るに決まっている。明子は名刺を戻して、財布を仕舞う。


 祐樹が自宅で電話を掛けながら掃除をしていた。片手にダイソン掃除機を持ち、何やら忙しくしていた。雑然とした広いリビングは見るからに埃だらけで、豪華な装飾品などもハタキが必要なのは明白だ。

「なあ、駄目か、そうか、暇を出したのは俺だから、しょうがないか、何度も電話してすいません。諦めます」

 慣れない掃除機を掛ける、その度に床に直置きしたオブジェを避け、狭い処も掃除機の先を忍ばせるが、結構手間がかかり、中々捗らないでいた。

「はあー、新しいお手伝いさん探しますか」

 一人で広いリビングを掃除していると、祐二がドアを開けて入って来た。

「何だよ、兄貴用事って?」

「見れば分かるだろう、掃除手伝ってくれよ、一人だと大変でね」

「お手伝いさんは、呼べと言ったよな」

「それがな、もう仕事先決まってしまって、

何度もお願いしても、断れないと言われてね、今から探すにも、こういう事は美鈴が仕切っていたろう、だから今日だけ手伝ってくれよ」

 祐二は何だと手を上げて、祐樹の手にする掃除機を取り上げる、そのまま掃除機を仕舞い込み、祐樹を外出へ誘う。

「こんな事後でしようぜ、なあ、久しぶりに二人でジムにでも行かないか?その後ユックリサウナに入って、マッサージ受けて、夜に行きつけのバーにでも行ってさ、リフレッシュしようぜ」

「でも、今日しないと、又来週になるし、それに」

「いいから、付き合えよ!」

 祐二は半ば強引に祐樹を連れ出しジムへ向かう。

 祐樹と祐二が着替えを済ませて、ジムのメインフロアに来た。久し振りに行う真面な運動だ、少々不安も有り何から始めるか迷っていた。

「兄貴、暫くぶりなんだから無理するなよ。そうだ今日はトレーナー付けろよ、俺が今頼んでくるから」

 祐二は目星を付けていたのか、若くて可愛いトレーナーに声を掛けて、祐樹の元へ連れて来た、

「兄貴、最近入った新人のトレーナーさんの

横川さんだ」

「横川です、お願いします」

「あ、はい、近藤の兄の祐樹です、よろしくお願いします」

祐二の奴、女性のトレーナーに頼まなくても、出来れば男の人と思っていたのに。それに何もこんなに若くて可愛い子にしなくても、久しぶりなのだから、恥ずかしい処見られたくないのにと思う。

「兄貴を宜しく、じゃあ俺はアッチで一人やっていますから」

 祐二は早々にその場から去っていく。祐樹は女性と二人に成るのが久しぶりなので、最初に何を話すか迷ってしまう。

「あの、あれ?何から始めますか、私は久しぶりなのでね、余り体を動かして無かったので、慣らし運転が必要かと」

「解りました、では膝への負担とかも考えて、先ずはエアロバイクから始めましょうか、

20分漕いで体を温めて下さい」

 僅かな会話でも、久しぶりに女性と会話すると、テレ半分、嬉しさ半分、新鮮な気持ちになれた。そうか祐二の奴、俺に何か楽しみを与えようと、色々と考えてくれているのだなと思った、それならば祐樹はその意気に答えようと精一杯頑張った。

 運動を終えて、サウナに入り、マッサージを終えると、流石に疲れを感じた。何時もの

バーに二人で連れ添い、席に着き、生ビールを注文して、一気に飲み干す。

「はー!この最初の一杯は死ぬほど旨いな、

この為だけに、汗を流す価値が有るな」

 飲み終えたグラスを置くと、ウエイターにもう一杯とお願いした。

「そうだろう、俺も同感だよ」

 祐二も追っかけで注文した。

「祐二、有難う、今日ジムでは、事前に段取りしていたのか?あのトレーナー」

「あぁ、あの子かい、そうね、今度兄貴と来たら面倒見てねとお願いしていてね。でも新鮮だったろう、若い子と話が出来て」

「ああ、そうだな、美鈴以外の女性に興味が無かったからな。遊びも控えていたから、他の女性と話すなんて、やっぱり新鮮な気持ちになるな」

「気に成ったかい?あの子?」

 唐突な祐二の突っ込みが可笑しかった。

「バカを言うな、あの子幾つだ?年が離れすぎているよ」

「そんな事、今時関係ないよ、20歳離れた夫婦なんて今時幾らでも居るよ」

 祐二は冗談交じりに祐樹を茶化す。その時に祐二の視線の先に中年と思わしき二人組の女性が案内されて来た、それを見て祐二はじっとその女性を見つめて、女性の一人と視線が会うと、グラスを傾けて挨拶をする。

「お前今日はやけに積極的だな、何だよ、下世話な話しだけど溜まっているのか、俺に乗れと言うのなら、今日なら乗っても良いが、あの二人落とせる自信が有るのかよ」

 溜まっている、この言葉に祐二は笑顔になり、祐樹を見る。

「溜まっているのは兄貴じゃないか、ちょっと試していたのだよ、兄貴が大丈夫かどうか。でも安心した、俺に付き合う気が出るのなら、あっちの方は平気そうだな」

「あっちかよ?」

「そう、いや実はさ、精神科医の友人に兄貴の事で相談していたのだけど、そいつがさ、

ショックで、精神的に参ると、男性不全になる患者が居ると言っていてね。もしかしてと思って試していたのだよ。でも、心配無用だね、今日の兄貴の態度を見て安心したよ」

「なんだ、そんな事まで」

「でも大切な事だぜ、あっちが駄目なら、再婚だって、まあ再婚までしなくても、恋愛だって出来ないからな。この先一人では寂しいだろうし、だから俺なりに心配していたのだよ」

「この先一人で寂しい思いだと、おい、独身貴族を気取っているお前に、言われたくないセリフだな、お前の方こそどうなのだよ。そう言えば此処1年近く新しい彼女とか連れて来てないじゃないか。あ、そうかやっぱり溜まっているな、なんだ、そうか」

 祐樹にまくし立てられるが祐二は余裕の表情だ。おもむろに懐に手を入れて、名刺入れから自信有り気に1枚の名刺を取り出しテーブルに乗せる。

「残念ながら俺は此処の御かげで、その方面の心配には及ばないよ」

テーブルに置かれた名刺には、人材派遣業、家庭のヘルプ、家政婦派遣所、ブルーリボンと書かれていた。

「うん?これが何で?お前が利用している、家政婦紹介所じゃないか、此処の御かげでどうして心配無用になるのだ」

 祐二は祐樹に顔を寄せて、小声で囁く。

「実はさ、これは飽くまで表の顔、此処はね

裏の会員に成ると、セックス付の家政婦を派遣してくれるのさ」

 祐二は自慢気な顔をする。

「お前、それって、あ!そうか、それでか、

お前たまにマッサージで抜けて、暫く帰って来ないのは、この為だったのか。こいつ、業務中に上手い事やりやがって!」

 祐樹は睨み付けるが、その顔は笑っている、

しょうがない奴!と言いたいのだろう。

「まあ、まあ、固い事は抜きにして、俺の大切な情報を兄貴に進呈するのだから、その辺は許してくれよ。で、此処なのだけど、結構レベルが高くてね、あ、これは容姿の方ではないよ、ちゃんと家政婦の仕事とアッチの始末をしてくれて、その他の顧客の要望にも応えてくれるのだよ」

「その他の要望?何なのだ、それ?例えば」

「そうだな、指定したら料理は勿論だけど、買い物だろう、俺の場合はマッサージだよな、ペットの散歩もやってくれるし、まあ、リクエスト出せば、出来る範囲で探して、それに見合う人を派遣してくれるんだよ。その代わりに容姿は二の次だけどね」

「容姿二の次?それが一番重要なのでは無いのか、そこが」

 容姿が一番と言われて、待って居ましたと

祐二はゆとりを見せる。ここは自負が有る様だ。

「兄貴も解って無いな、容姿重視は他もやっている事だろ。今の時代、趣味趣向は千差万別なんだよ。聞いた話だと、家で話し相手してくれるだけで、良いというお客もいるらしいんだぜ、要は心の《癒し》なんだよ。だから兄貴も良かったら試しに利用してみな。家政婦必要なんだから、最初は表の家政婦だけでも利用して、その後に気が向いたら裏の会員に成ったら良いのだから」

 祐二は名刺の裏面に自分のアクセスコードを記入する。

「この番号、俺の会員番号、裏のページに飛んだらこの番号を入力してくれ、会員の紹介ページに入るから、紹介が有れば簡単な手続で登録出来るからな」

「その裏へはどうやって飛ぶんだ」

「ホームページのブルーリボンのロゴの下、

この辺り、空白に成っている処をクリックすると、飛べるから、まあ、気が向いたらで良いから、兄貴も気晴らしに、な」

 祐二は祐樹に名刺を渡す、祐樹は黙ってその名刺を眺めている、こんな処が有るのかと半信半疑でいた。


 その夜祐樹はパソコンに向かい、例の家政婦紹介所のページにアクセスしようか迷っていた。家族を亡くし日が浅い。立ち直ったとは言え、こんな事不謹慎だという思いと。祐二の言う通りに、何時までも一人で居ても、寂しさが募るのではと言う不安の心との間で、気持ちが揺らいでいた。何よりも結婚して以来美鈴以外の女性とは、体の関係を持った事など無い。祐樹に執っては家族が全てだったから、当たり前の事だった。大切な物を失う様な行為は、避けていたからだ。 

しかし今は一人身なのだ、祐二が今日引き合わせてくれた、あの若いトレーナーと、少し話をしただけで、祐樹はとても新鮮な気持ちに成れたのも事実だった。これからこのまま一人では、それは余りに寂しいだろう。そうかと言って、今更一から恋愛を始める気にも成れない。きっと家族、そう美鈴と比較してしまうだろう、それは相手に失礼になる、だったら今のままでも良いのでは。そう思う気持ちも有る、祐樹は迷っていた。

その時ふっと祐二の言葉を思い出す、{そう言えば話し相手になるだけのお客も居たな}そうか、そういう利用も有りだな、だったら最初から自分の気持ちとか、考えを相手に伝えて、お金で割り切る関係も出来るか、そうか、こういう処はそういう事を金で解決出来る処なのだ、と。そう思うと気が楽に成り、アクセスしようと試みる事にする。

開いたページの正面にはブルーリボンの下{もと}で貴方がたをお待ちしております、と意味有り気に描かれている、事情を知っている祐樹は思わず笑ってしまう。

「成程、ブルーリボンの下か、ここの空白をクリックすれば、その裏のページに飛べるのか」

 祐樹は迷わずクリックする、すると祐二の話した通りにログインページに飛んだ。慌てず紹介欄に祐二の番号を入力すると、話していた通りに、すんなりと祐樹は会員登録を終える事が出来た。面倒な手続きも不要だった、こういう処は身元確認にてこずる筈だが、祐二の紹介が有った御かげでアレコレ迷わず終わる事が出来た。

ここからは自分の希望を入力するページだ、まずは最初に年齢欄、ここを40歳前後とした、その次、(未婚、既婚)欄は既婚へ丸、子供の(有無)有へ丸、人数、二人と記入、その構成は、上が女、下が男と記入した、容姿の要望欄(普通、普通以下、可愛い系、美人系)祐樹はここで手が止る、美鈴の事、顔を思い出していた、美鈴が基準ならば、普通だろう、普通以下では無い、でもここは美人系に丸をした、祐樹はクリックして、最後の其の他の要望に次の様に書き込む(音楽に明るく何か楽器が出来る事希望、出来ればピアノが弾ければ嬉しい)と、ここまで書き込み祐樹はそのメールを発信する、すると最後に返信が来た、開くとそこには、{ご希望に添えます様に当社も努力いたします、ですが、必ずしも叶える事が出来ない事も御座います、その時は、近しい方をご提案いたします、その時に派遣予定の女性のお写真も添付してご連絡を差し上げます}と。

祐樹はメールを一読して、希望は希望だ、このような俺の望、簡単に見つかる訳ないと呟き、{はっと}成る。何だ、結局は美鈴の様な人を希望しているじゃないかと。立ち直ったと言え、未だ引きずっているのだなと、改めて思い直す。そして気長に待とうと思いパソコンを閉じる。

  

 明子が勤め先のコーヒーショップで接客をしている最中、サクラが店にやって来た。何やら顔が躍っている。順番待ちが待てないのか、待ちのお客さん越しに、仕切りに何時までと腕時計に手をやり、時間を聞いて来た。明子が遠くから片手で3時、3時と合図すると、サクラは了解と手でサインして、外で待っているからと目配せで返答して来た。いったい慌てて何だろう、でも悪い事では無いらしい、顔の踊り具合からして、きっと朗報なのだろうと予測出来た。時間に成り、明子は早々に帰り支度を済ませて、サクラの待つ店先へと向かった。


 店を出て、場所を替えて二人は落ち着いた

喫茶店に入り、奥の目立たない席に座る。サクラが瞳を輝かせて話を始めた。

「御免ね、急に押しかけて」

「そうよ、いったいどうしたの」

「実はね、明子に相談というか、そう、よかったらなんだけど、スカウトに来てね」

 まさかスカウトに?明子の頭に昨日の事が過る、サクラの名刺を見て連絡するか迷った事だ。まるで今の明子の窮状を知っている如くのタイミングだ、明子は何かの関わりを感じていた。

「スカウト?この間も話したよね、私に余り期待しないでよ」

「先ずは話を聞いてよ、明子にピッタリのお客さんが居てね、それが良い条件なのよ」

 この間サクラに会った時の明子なら、ここまで聞いた時点で即答断りのジェスチャーをしていた筈だ。だが今はそれが出来ないでいる、如何しよう、話しだけでも聞いてみるかと、明子は無表情のつもりで考えていたが、その表情を見たサクラは明子の迷いに感付く。

「あ!迷っているな、さては脈有か、良かった、この間の明子の態度を見ていたから、無碍も無く断られるかと思ったのだけど、それなら相談の余地有りで良いのね」

 苦楽を共にした旧友らしく、明子はサクラに見透かされていた。下手に胡麻化すよりここは正直に居ようと決めた。

「うん、実はあの時とは少し事情が変ってね、この先お金が必要に成ってね」

「何?良かったら話してよ」

 サクラに乞われて、明子は自分の家庭に起きた支出に関する変化を話した。話す内容が内容だけに、サクラも真剣に聞いていた。

「そうか、それは大変だな、でも旦那さん、

幾ら育ての親同然とは言え、何もそこまで肩入れしなくても良いのにね」

「そう思うでしょう、でもね、あの人の気持ちも解るの、だから私も辛くてね。何より私は旦那に恩を感じている。あのどん底の人生から私を救ってくれて、今の家庭を与えてくれたあの人に、少しでも私成りに恩返しがしたいの。でも、でもね、昔経験が有るからと言っても、体を売るのは、やっぱり抵抗が有るの、あの人を裏切る事になるのは。そう思うとヤッパリ」

 サクラはその手を明子の手に乗せる、温もりが感じられた。サクラの優しさが伝わって来た。

「解るよ、その気持ち、でもさあ、兎に角条件だけでも聞いてよ。実はね今回我が社の上客の紹介でね、身元はハッキリしていて安心なの。しかも新宿の落合の資産家の御曹司でね、紹介者がその人の弟さんだから、人となりとかは心配無い。何よりお金持っているから、こういうお客はさ、現場でチップも弾んでくれるし、気に入ると、定期的に指名をくれるの、上手く行くと専属契約出来て、伺うのはその家だけとかに成る時も有るのよ。そうしたら、変な話し何時も同じ人を相手するだけだからさ、危ない人に当たるとか、そういう心配も無く成るのよ。その人の要望が正に明子その者なのよ、ね!興味無い?」

「その要望って?」

「そう、既婚子供二人で上が女で下が男、音楽に明るくて、出来ればピアノが弾ける人、それに美人系、ね!明子その者でしょう、私はこの間明子に会ったその後で、この方からのメールを貰って、運命を感じたの、この依頼は明子の為に有ると」

 サクラは何を思ったのか、うら若き少女が何かを思いだした様な可愛い仕草をする、ウットリした頬に両手を包んで見せた。

「ちょっと、何を勝手に決め付けているの、

それに何なのその仕草!いい歳こいてアニメの主人公に憧れる女の子じゃ無いでしょう、全く、私の為とか言って、要は貴方が儲かるからでしょう」

「へへぇ、本音を言えばそうなるけど、でもね、明子がこのオファーを受けてくれると、私も助かるな。私の処は容姿を重視して無くて、色々な要望にきめ細かく対応して、それで信用を得ているから。こういう上流階級の方々に認知される事が、一番の宣伝になるのよ、ねぇ明子どう?」

 サクラは明子の目を真剣な眼差して見据えた、明子もまんざらでもない様子だった。それはサクラにも伝わっていた。

「どうって、まあ一応労働条件話してみて」

「そうね、基本派遣時間は3~4時間、その間に掃除、洗濯は必須ね、でもそれ以外はお客様次第、その後の過ごし方は要相談ね。勤務時間はお客様と相談だけど、今回の方は昼間希望だから、ここはクリアね。で!諸々の仕事の時間以外に御奉仕ね、それで終わり」

「お金は、それで幾らに成るの、それが一番聞きたい事」

「まあまあ、今から話すから、この内容で、

交通費支給で明子には手取りで2万5千かな、どう?」

 2万5千円!そんなに、たった3~4時間で。其れなら週に4日働いて10万に成る、月に約40万、今働いている時間よりも少なくて、約4倍になる。経験有る世界の事だが、明子は改めて、体を売るという行為のポテンシャルの高さに驚く。

「一回で2万5千か、そうか、そんなに成るのか」

「ね。どうかな、このお客さん、明子ならきっと専属狙えるよ。要望を100%満たしていたら先ず間違いなく専属契約に持って行けるの。それに明子は美人系では無くて、正真正銘の美人だし。ね!明子、お金困っているのでしょう、私の処で働いてよ」

 明子も正直迷っていた、嫌むしろ、その方向で考え始めていた。でも、しかし、やっぱり、と明子は文彦への思いが立ち切れずに、

今一歩が踏み出せずにいた。

「やっぱり少し考える、旦那の事を思うと、幾ら条件が良くても、そうそう簡単に答えは出せないよ」

「明子、それ解るよ、うちで働いている子達も、何人かはその悩みを抱えている子居るから。でもね、良く言うけどさ、体は売っても心は売らなければ良いのよ、大切なのは心よ。私も若い頃沢山お客と寝たけどさ、心は決して売らなかったよ。まあそのお陰で、今の会社を始める資金を溜められたのだけどね」

「そうだよね、サクラはそういう処割り切っていると言うか、あっけらかんとしたと言うか、本当にドライに捉えているよね」

「それ褒めているの?」

「勿論、変な意味では無いよ」

「明子がそこら辺の事を、そう捉えるなら話は簡単だよ。金を持っている男なんて、金さえ払えば良いのだろうと、あっちも割り切った者だから、明子が思っている程に、気にする事なんて無いのよ。要は金を持っている男から金をタンマリせしめて、それで心の男に貢の、私なりにこれが本当の内助の功だと思うけどね」

 内助の功か、聞こえは良いが、この場合は如何なものか。そういう捉え方が出来るサクラは流石に商魂たくましく、羨ましくさえ思えた。

「内助の功か、私の場合はそう成るのかな、

「成るよ、間違いなく、だって、それで、旦那さんのお姉さんと子供達が助かるのだよ、

知られた処でいったい誰が責めるのよ。私が旦那さんの立場なら、責める処か感謝するけどね」

 自信たっぷりに話すサクラに少々呆れるが、

明子も少し真剣に検討した。そうか、私が、

私一人が我慢すれば、文彦もお姉さんも、何より子供達も救われるのかと。救われる、そうなのか、私は家族を救えるのか。そうなるのなら、私が犠牲に成って、家族が救われるのなら、明子の心は大きく動いた。でも、未だ一つ問題が有る、その高額な収入の言い訳だ。単なる家政婦でそんなに稼げる訳が無い、

この事をいったい如何に言い訳するのだ、その事をサクラに問うとサクラは名案が有ると

発する。

「それならさ、うちの売りは表も同じで、色々お客様の細かい要望に応える事なの。だからさ、ピアノ講師兼家政婦でどう?派遣の仕事の掃除、洗濯、料理にプラス、ピアノを教えるの」

「でもそれ、私は手首が腱鞘炎でピアノ講師は諦めて、それでコーヒーショップで働いているの、それなのに・・・」

「そこはさ、初心者の幼稚園児を教えるで、行こうよ、それなら言い訳出来るでしょ、プロを目指す子なら無理だけど、初心者の子供なら、明子だって今でも平気でしょ」

「でもそれでそんなに高額のお金は請求出来無いよ、相場幾らか知っているの?」

「そこは私に任せてよ、もし旦那に突っ込まれたら、名の有る有名音大出身者という事で、高く設定して、私がお客様と交渉したと、

ね。あれ?これさあ、明子、うちで働く方向で話が進んで無い?明子オーケーで良いのね」

 サクラの目はパット輝き、明子の顔と体を見回していた。その視線の強さに明子も押されていた。

「あ、そうか、そう、うん。一日だけ、明日まで時間ちょうだい、必ず返事するから」

「解った、期待して待っているよ」

 サクラは一人で高揚していた、彼女の中では明子が働く事は既成事実の様だ。その制かサクラは一人両手で握りこぶしを作り、その手を上下に動かして、明子の気持ちを鼓舞していた。お水の時代もそうだったが、相変わらずサクラはテンションが高い。能天気で憎めない性格のサクラを明子は嫌いに成れなかった。

 

 その夜寝室で、明子は転職の事で文彦に報告をしていた。一応文彦の出方を見たかったが、この時には既にサクラのオファーを受ける気でいた。本当の事は話せないから、仕事の内容にアレコレ詮索を入れさせない様に布石を打っていた。

「仕事を代わるのか、それで何処で働くのだい」

 寝間着に着替えながら文彦は聞いて来た。

「えぇ、実は古い友達に誘われてね、それが良い条件で、その仕事に変ればお金の事解決しそうなのよ。貴方も覚えているかしら、お店で一緒に働いていた子なのだけど、サクラさん、源氏名はレイナだった人、あの子今会社経営していてね、そこで働かないかと誘われてね」

 明子はサクラの名刺を差し出して、文彦に見せる。文彦はその名刺を見ながら、何かを思い出していた。

「あの子か、覚えているよ。俺が鞄持ちしていた、本部長のお気に入りで、入れ込んで随分と貢いでだからね。あっちの付き合いまでに相当お金つぎ込んでいたな。だから一夜を共にした翌週には、自慢げにベッドのツーショットまで見せられたから、良く覚えているよ」

 文彦はその時の事を思い出している様だった。

「まあ、そんな事が有ったの、初耳よ」

「家族が有るのに、あんなに金使って、よくやるなと呆れていたのだ。まあ、部長も金には細かいとブツブツ言っていたけど、当時部長はメロメロだから、あの可愛い顔でオネダリされると財布の紐が緩くなると、御惚気ていたな。そうか、あの子がね、そうか、部長からせしめたお金が、こんな会社に変りましたか、やり手だな」

「サクラもお水時代に溜めたお金で、と、話していたから、部長さんも貢献した口か」

「そうだな、それで、この名刺に書かれる内容だと家政婦の仕事かい」

 名刺を裏表にさせて、確認して来た。

「そう」

「でも高々家政婦で、そんなに稼げる物なのかい、解決するって言ったら相当な額、稼ぐのだろう」

「それがね、サクラの処は只単に家政婦だけの派遣では無くて、そこに付加価値を付けているの、お客様のご要望に細かく答えているのよ」

「例えば?」

 明子はパソコンに向かい、電源を入れた、

文彦を隣に来させて、ブルーリボンのホームページを見せる。仕事の内容の欄をクリックして、文彦の問いに返答する。

「そうね、此処を見て。その他のオプションと有るでしょう。家政婦の仕事プラス、家庭教師とか、お年寄りのお話し相手とか、幼稚園の送り迎えとか。そういう対応をして、オプション代で稼ぐの、私の場合はピアノの講師ね。それでこのオプション代は交渉なのよ、

だから金額はまちまちだけど、これがバカに成らないのよ」

「お前、でも、手首は大丈夫なのかよ、パートもそれは、外したのに、今更出来るのかい」

 文彦は明子の手を取り、その手を見つめる。明子は逆に手を握り返す。

「それがね、初心者の幼稚園児なの、それなら私もそれ程負担に成らないから、それなら出来そうと思ってね。それで、家政婦の仕事とピアノの講師一日計3~4時間で、2万5千円に成るの、気に入って貰ったら専属で週に4日とか通う事に成るけど、そうしたら、月に40万近くに成るの。それだけ有ればお金の事解決出来る、ね、貴方悪くないでしょ」

 そうか、成程と文彦も納得の顔だった。でも未だ少し疑っている様だった。何が不審かと明子が問うと次の様な問いが来た。

「初心者の幼稚園児に教えてそんなに貰えるのか、良すぎないかその条件」

「そこはね、サクラが先方と交渉してくれたの、さっきも話したけどオプションは交渉次第だったでしょ。それで、名の有る音大出身者だからと、サクラ吹っ掛けてくれたみたいなの、安売りは出来ませんとね。私の実入りが多い程、サクラの実入りも比例して多く成るのよ」

「そこら辺は、お金に細かいあの子らしいな、でも、その条件でなら、俺も助かる、反対の余地無だよ。悪いなあ色々面倒ばかりかけて・・・結局今回もお前の負担で乗り切っていて。不甲斐ない旦那ですまん」

 文彦は深々と頭を下げた。

「貴方、頭を上げて、夫婦でしょ、何事も二人で解決するの、第一私は未だ、貴方が私にくれた幸せに大して、半分もお礼出来て無いと思っているから」

「明子、それは何度も言うが、俺はお前からこそ幸せを貰ったのだ、だから、変な恩義は捨ててくれと言ったよな」

「でも」

「でもじゃない、{文彦は明子の頭を抱き寄せてから}今回の事、心から感謝しているよ、本当にありがとう、仕事頑張ってくれ」

 真実を思うと明子は心苦しくなる、でもこうして文彦が安心した顔を見ていると、体だけ、心は何時も貴方と有るのと訴えていた。


 翌日に成り明子はサクラのオフィスを訪ねる、事情を察知したサクラは満面の笑みでガッツポーズをして明子を迎え入れた。

「待っていたよ、そう決断してくれたんだ、嬉しい、又明子と仕事出来るのね」

「うん、宜しくね」

「此処では何だから、奥の私の部屋に行こう、そこならゆっくり話せるから」

 明子は招かれ、サクラの個室へと入っていく。見たところ、風俗の関係のオフィスとは

かけ離れた内装だ。ここで本当にその手の派遣をしているのかと、疑いたく成る造りだ。

「サクラ、事務所の人達、あの人達も裏の仕事の方?」

「あの子らは、表のスタッフ、裏のスタッフは新宿にオフィスが有るの、ここ立川の事務所はあくまでも表の事務所よ。あの子達にも裏の仕事は秘密にしているの」

「じゃあ私はこれから新宿に行くの?」

「その必要は無いよ、明子はここで写真撮りして、そのデータを送って、それでプロフィール作るから」

「そうか」

「ねえ。処で旦那さんの方は平気?上手く誤魔化せたのだよね、だから今日此処に来たのでしょう」 

 サクラが心配して聞いた問に、表情が暗く成る、やはり今でも後ろめたさを引き摺っていた。

「うん、その点は大丈夫。でもね、いざと成ると、こうして此処に来たのは良いけど、やっぱり何か心が痛むな」

「もう明子、今更ヤダとか言わないでよ、上客なのだから、頼むよ」

 暗い顔の明子を覗き込む、明子は気持ちを

固めて、顔を上げてサクラの目線に合わせる。

「大丈夫、今から止めるとは言わないから、

もう覚悟はできている。只心が痛むだけ、それだけだよ」

 明子の気持ちをサクラは確認すると、早速プロフィール用の写真撮りを簡単に済ませる。壁を背にして、辺りの風景が入らぬ様に注意して、何枚かスマホで撮影した、その内の気に入った3枚をデータ送信して、サクラはパソコンに向かい、あれこれとデータ入力した。

「そうだ、源氏名何にする、お水時代の名前を使う?アカネで良い」

 そんな事何でも良い、その名が馴染んでいるから、明子はそれで良いと素っ気なく答える。

「それからさ、連絡方法だけど、スマホが良いかな」

「それは、そうだな、急にスマホを見る回数が多く成ると、良く言われるのが浮気のサインとか言うから、スマホは止めとく、用心に越したことは無いから」

「じゃあ家のパソコンは」

「それも、旦那は良く使うから」

「あぁ、それなら大丈夫、内のホームページ見たでしょ、これ」

 サクラは自分のパソコン画面を向けて見せる。そしてブルーリボンの下辺りの秘密のクリック場所の事を教える。

「ここから入るの、秘密のクリック場所だよ、

知らないと飛べないの。ここクリックしたらログインページに飛ぶからさ、それでね、間違ってこのページに飛んでも大丈夫、ログイン番号無いと、入れないから。明子用に会員番号出すから、ログインして、そこからメール読めるから、これなら旦那さんにも見つからないでしょう、どう?」

 成程、之ならば、文彦にも解るまい。間違ってクリックしても、ログイン番号が無ければ、アクセスすら出来ない。これならば安心だ。

「じゃあ、出来上がったプロフィールとかここに送るから、後に家で確認して。それと間違ってもプリントアウトしないでね、以前それを始末しないでいて、見つかって危うく成った事有ったから、絶対だよ。序でに諸々の詳細とか、スケジュールもメールしとくね、それ以外の個人的な事なら、別にスマホでも良いでしょ」

「うん、勿論、じゃあそういう事で、連絡まっているね」

「うん、今日は有難う、頑張ろう、家の為、家族の為ね、ね!」

 帰り際にサクラは体に力を込める仕草をして、気合を入れる様にして来た。相変わらずあっけらかんとした物だ、真似の出来ないそのサクラの性格に憧れてしまった。

 

 祐樹は仕事を終え、自宅に帰り風呂を浴び、バドワイザーを片手に書斎のパソコン前に座る。缶を置き、電源をオンにして、何か来ていないかと確認していた。そうだ家政婦、要望を出してから一週間が経つ、そろそろ何かリアクションが無いかと、例のホームページをクリックして、ログインページに入る。するとそこには先方からの返信メールが来ていた。

「何々、来ていましたか、拝見と行きますか」

 祐樹は期待半分、不安半分でメールを開ける、そこには予め先方より挨拶文が来ていた。{この度はご入会頂き誠に有難う御座います、今回幸運にも、貴方様のご要望に100%沿う家政婦をご紹介出来る運びと成りました}と有る。

「え?100%どれどれ」

 内容は祐樹の希望に全て沿うものだった、

既婚で子持ち、上が女で下が男、楽器はピアノが演奏出来、そして美人。成程こちらの要望には100%答えていた。さらに名の有る有名一流音大出身とまで書いて有る、なんだかこの部分、妙に協調している。

「有名音大?我が子が通っていた浅草学園かな、それとも芸大?嫌それは無いか。だったら私大名門音大なら、東の浅草とくれば西の立川、立川音大か?まあそんな事どうでも良いか。でもだとしたら、音楽の講師でもやれば良いのに。それとも出来ないのか?何か事情がありそうだな」

 どうでも良い事をあれこれ詮索している自分が滑稽で祐樹は{何を考えて居るのだと}

自分を戒める。事情が有るにせよ、所詮は金で体を売る人だから、きっと割り切った考えの持ち主なのだろうと、自分を覚めさせた。

「最後にプロフィール写真を見ますか」

 祐樹は写真の欄をクリックした、そこには

自分が予想し得なかった程の、美人の明子の写真が、(顔・バストアップ・全身)の3枚が掲載されていた。

「こんな美人?何だよ!祐二の奴、容姿は二の次と言っていたくせに、こんなに美人な人が来るじゃないか」

 祐樹は自分の人生でも滅多に出会った事が無い、美人の明子の写真に見とれていた。

 名前はアカネ、まあ源氏名だろう、そんな事はどうでも良い、大切なのはこの人が自分の要望通りの人と言う事だ。なんてラッキーなのだ、最初でこんなにも美しい人が自分の相手をしてくれるなんて、祐樹はそう思うだけで、男の性と、本能に心を奪われてしまう。

「あぁ、やっぱり俺も男だな、家族を亡くして落ち込んでいた癖に、こんなにも綺麗な人と情事が出来ると考えるだけで、心が躍ってしまうなんて、なんだか情けないな・・・やはり今から辞退するか」

そう思う気持ちだったが、写真に続くスタッフからの文を読むと、祐樹は心が入れ替わる。

{アカネさんは今回が初仕事で御座います、お客様に紹介が初めてでございます。之ほど美しく、又、二人子供を出産しているにも関わらず、スタイルも抜群で御座います。    

然るに、今後知られれば、人気が出る事は必定で御座います。その場合、早いうちに専属契約を頂く可能性が非常に高いと思われます。その時には、二度と他のお客様の元へは派遣できなく成ります、早々にご依頼頂き、ぜひ吟味して頂くのが宜しいかと存じます。

又、お気に入りの場合、専属契約の決断もお早くするのが、名案かと思われます。その点ご精査下さいませ}

この一文で祐樹は自分の性に負けて、申し込みをする、希望日時を入力して、送金も済ませ、パソコンの電源を消す。

「あー、申し込んでしまった、まあ、一度だけ、それなら、良いだろう」


 明子のスマホが鳴る、夕刻の忙しい時にサクラから電話だ。

「あ、明子、仕事決まったよ、詳しい事、パソコンに送ったから、宜しくね。後、念のために表のページにも架空の仕事案件送っておいたから、旦那に何か詮索されたら、それ見せれば納得するだろうから、旦那対策も完璧よ!」

 サクラの弾んだ声が耳に残る、余程今回の仕事が纏まって嬉しいのだろう。

「解った、有難う、確認しとくね」

「それじゃあ、宜しく」

 明子は電話を切ってから、寝室に有る文彦と共有しているパソコンに相対する。ホームページにアクセスして、手順通りにログインし、メールの内容を確認した。其処には派遣先の情報が掲載されていた、派遣先の顧客情報は{新宿区落合〇丁目〇番〇号、近藤祐樹、先方の連絡先自宅電話、既婚未婚欄(不明)年齢、45歳 今回が初めてのご利用、派遣日時12月12日(金曜日)午後2時~午後5時頃迄、持ち物、制服一式、その他要望希望に必要な道具又は資料}と有った、サクラから注意事項の追伸が来ていた。{明子は初仕事だから緊張しないでね、その件は先方に伝え済みなので、心配無用。

教える必要は無いけど、表向きの仕事依頼のピアノの講師に必要な物、忘れずにね、秘匿も怠ったら大変よ。

今回のお客様は我が社の上得意の方のお兄様だから、人となりは安心、何より弟様の様子から、解る事はかなりの金持ちという事。何でも江戸時代から続く、大地主の家柄らしく、どう少なく見積もっても、年収は億を超えると思う、こういうお客様は、お金持ちの横の繋がりが有るから、何としても常連客にしたいから、明子に期待しているよ。

それと無く早めに専属契約をした方が良いと、振って置いたから、もし明子が気に入って貰えて、専属契約の話が出たら、迷う事無く申し出を受けてね。

こんないい客、そうそう当たらないよ、明子も人柄が確かで、同じ処に通えた方が、不安も不満も無く仕事続けて行けると思うから、誠心誠意ご奉仕して上げてね。

それと何でも良いから簡単なプレゼントを持参する事、専属契約の点数稼ぎに成るから用意してね。それじゃあ仕事終わりの報告を期待して待っているよ}

追伸にしては随分と長い文だ、サクラの明子に対する期待値の高さが伺えた。こんなに期待されても、私は只お金が欲しいだけだから、果たして期待に応える事が出来るのか、不安に駆られた。所詮は性欲の捌け口を買うお金持ちの道楽だろう、気に入って貰うも何も、そんなに一人の女に入れ込むとも思えない。まあ今回は初めての仕事だから、サクラも気を利かせて、良いお客をあてがえたのだろうと考えた。

あと一点気になる事が有った、相手方のプロフィールを読んでいて、既婚未婚欄が不明の事だ、住所からして自宅だろうと思うが、まさか既婚の男が自宅に招くとも思えない、だとしたらここはセカンドハウスか、そうとしか思えない。でも指定の住所はサクラの情報からすると、地主の自宅住所にも思える、そうだとしたら、未婚なのか?明子は考えたが、そんな事私には何も関係の無い事、気にしてもしょうがないと考えるのを止めた。 

 

 翌週の金曜日に、明子は指定された住所の家の前に30分も早くに到着していた。

何かプレゼントをすると良いとサクラの助言を受け、新宿に立ち寄り、買い物をしたかったので、その為早くに家を出た。それでもやはり早すぎた様だ。元々時間には正確を期す性分だから、余裕を見過ぎてしまった。未だ呼び鈴を鳴らすのを躊躇い、少し自宅周囲を見学してみる。正面の門は斜面を背にして川面に向いた古い豪華な門だ、この門だけで名門旧家なのが良く解る。

斜面伝いに坂を上がると、塀が坂に沿って崖上迄続いていた、それを右手に見て、歩を進めるとそのまま反対側の坂の道に続き、ぐるりと一周出来てしまった。約1分半、廻るだけでこれだけかかった、とんでもない広さだ、明子は溜息が出る。

「はーああ、居るんだな、こんな金持ち、羨ましい」

 恨めし言を呟く、時計を見ると未だ20分前だ、しょうがない、このまま少しここで待つとしよう。明子は制服の入っているリュックサックを背負い直して、暫く待つとする。

とそこへ、祐樹の運転する黒のポルシェが走って来た。明子を確認すると、それが派遣の家政婦と認め、祐樹はガレージ前に車を止めて、明子の前にやって来た。

「近藤です、派遣の方ですよね」

 サクラから送って来た派遣先内容には写真が添付されていなかったので、祐樹の事を見るのは初めてだった。明子は自分の予想していた人物が、きっと金持ちだから、普段は美食家で過食気味の太っている体だろうと想像していた。裸になれば腹が出ていて、だらしない体形なのだろうと。ところが今、目の前にした祐樹が洗練されていて、スポーツマン風の逞しい体形をしているのに、明子は少々驚いた。言い方を変えると、少し喜びも有った。その為か明子はほっとした気持ちも手伝い、祐樹の顔を見て笑みが綻ぶ。

「今開けますので、車入れる迄待って下さい、その後中から開けますから」

 祐樹は車をガレージに入れて、中から門の鍵を開ける。

「私は鍵で開けますが、そこの横の電子ロックでも開けられます、ボタンで数字を入れるだけです、勿論家の中から遠隔でも可能です、今日は特別ですね」

 祐樹は明子が写真以上に綺麗な容姿をしていて、心が上ずってしまう。初仕事の相手が自分で何だか申し訳無いと思う{こんなに綺麗な女性を相手にするなんて、俺の人生では数少ない事だな}祐樹はそう呟いた。

門を入り正面の旧母屋の前に来ると明子はその荘厳な造りに目を見張る。

「何だか凄い造りですね、このお家何時の建物ですか」

「そう大正の終わりです、私の曽祖父の時代に建てたそうです」

「まあお高そうですね」

「そうですね、今の時代にこれと同じ建物を造るとしたら、だいたい20億だそうです」

「20億ですか」

「ええ、時代が時代ですからね、大工の工賃があの時代とは全く違いますから。それに

今では入手困難な材料とかもありますから、

それ位に成るそうです」

 祐樹はそう言うと更に歩を進めるので、この母屋では無いのかと明子は不信に成り。

「あのこのお家、違うのですか、此方に住まわれているのでは?」

「ああ、この先です、私は向こうに新居を建てまして。此方は生前母が一人で住んでいましてね、今は空き家です」

 祐樹はそう言って明子を裏手の新居に誘う、旧家を過ぎると其処は中庭の対面にコンクリート造りの頑丈そうな新居が有った。

「結婚を期に建てましてね、私は此方に住んでいます」

 結婚?そうか既婚か、でも何故に不明だったのか、明子は訝しく思ったが、何か事情が有るのだろうと思う。そうだ、きっと今は離婚をして、それで一人に成ったのだと、勝手に決め込んだ。

 玄関を入り吹き抜けの天井を見上げる。此方も豪華な造りだなと、感心して祐樹の後を追って靴を脱いだ。壁には高額そうな絵画が掲げられ、その金額が幾らなのか気に成った。応接間に通されて、改めて自己紹介をする。

「初めまして、紹介所から参りました、アカネです、今日は一生懸命務めさせて頂きますので、どうかよろしくお願いします」

 祐樹は持って居たポルシェの鍵とキーケースを机に慌てて置く。それを見た明子はくたびれたキーケースを見てほっとする、先程新宿で買い求めたプレゼントが馬の鞍の形をした特徴あるデザインのキーケースだったのだ。これだけくたびれていたら、買い替え時だろうと思われた、丁度良かった、タイミングが合うとはこの事かと思う。

「はい、ああ、私は先程言いましたね、宜しくお願いします」

「はい、こちらこそ宜しくお願いします。それと、これ、ささやかですが、初めて伺うので何かプレゼントと思いました。キーケースです、お気に召すでしょうか」

 祐樹は意外な展開に戸惑いながら、そのキーケースを手に取る、

「変わったデザインですね、馬の鞍の形ですか、気に入りました、丁度くたびれたこのケース買い替え時かと思っていました、有難う、使わせて貰います」

 祐樹は気に入った様子、良かったこれで少し点数稼ぎ出来たかもと、明子は安堵した。初めてどうしだから、何だかぎこちない様子

が続く。

「初めにお掃除と洗濯とか、そちらを済ませて貰いますが、よろしいでしょうか?ここで制服に着替えても」

「はい、あぁ、あの、洗濯は業者に出していますから大丈夫です。クリーニングボックス、

毎日回収して貰っていますから。掃除は先日購入したアイロボットが、掃き掃除はしていますから簡単です。そうだな、拭き掃除が出来てないから、それを中心で、後トイレと風呂場は先日済ませていますから、無用です。リビングと廊下、寝室の拭き掃除とダスキンで埃取りをして下さい。着替えが終わったら、リビングへ、私はそこにおりますから」

 なんだ、随分と掃除の方は楽だなと思うが、そうか、家政婦の仕事は次いでだ、そういう事かと納得する。

「はい、解りました」

 祐樹が出るのを確認して着替えるが、その時ふっと思う{後で結局は裸を見られるのに、着替えの時に見られるのを気にするなんて、何だか間抜けだな}明子はそう思いながら着替えを済ませ、祐樹の待つリビングに行く。リビングのドアを開けると、大きな部屋の真ん中に鎮座したスタインウェイ社製のグランドピアノが目に入ってきた、

「凄い、スタインウェイの・・・これはA―188型ですね」

 鏡面仕上げの漆黒の塗装に、目を奪われた。

「流石ですね、一目でお分かりですか」

「はい、ピアノ奏者の憧れですから。1000万以上はしますよね」

「そうですね、それ位しましたね、娘にせがまれまして、断れませんね、可愛い娘にせがまれては」

「娘さんが、そうでしたか」

 我が家と同じで娘がピアノを嗜んでいるのか。成程お金持ちだ、娘にせがまれて簡単にそれが買えてしまう。何と優雅な事なのだろう。そう思う明子の目にキャビネットの棚の、家族写真が視界に入って来た、夫婦の写真、子供達の写真、家族全員での写真だ。どの写真も満面の笑みをたたえ、とても幸せそうな家族写真だ。

「奥様ですね、それに可愛いいお子様、御幾つで」

「娘は18に成ります、高校三年ですね、弟は15です中三です」

 明子は二人の子が自分の家と同じ年と聞き、

びっくりした、偶然とは言え、そんな事が有るのかと。そして、もしかしたら、下の子も音楽を、そうバイオリンを習っているのではと思った。

「あのお聞きしても宜しいでしょうか、弟さんはもしかしてバイオリンを専攻されていますか」

「そうですが、え?何かご存じで?」

 明子は明らかに動揺した、何とした事だ、下の子の専攻まで同じだ。動揺を誤魔化そうと部屋を見回すと隅の棚にバイオリンが置いて有った、それを指して。

「いいえ、あの棚に、あそこです、バイオリンが置いて有ったので、もしかしてそうかと

思いまして」

「あぁそうか、あれ、そうです息子のです」

「あれも結構なお値段ですよね」

「そう300万でしたか」

 明子は上手く言い逃れほっとしたが、下の子まで一緒だ。こんな偶然有るだろうかと、正直驚きの心でいた。それと同時に、不思議な縁を感じていた、何だろうこの関りは、この先に何か待って居るのだろうか?

そう思っている明子の脳裏にもう一つ気になる事が有った。家族は今日如何したのか、居ないのか?外出中?今家族が留守だとしても、祐樹の行動は大胆過ぎる、もし突然に帰宅したら如何する気なのと思っていた。

「ご家族の方々は、今日お戻りしないのですか、何処かへ出かけているのですか」

 祐樹はこの質問に如何答えるか一瞬まよってしまう。真実を言うべきか如何するか。しかし、事が事だけに大げさにしたく無かった。変な気も使って欲しくない。どうせ今日だけの関係だ、無駄な心遣いなどさせても迷惑だろうと思い、曖昧な答えをする。

「今日戻るかですか、そう今日は戻りませんね」

 祐樹の返答が意味有り気な感じだったが、明子は子供も嫁も居る身で、皆が都合よく外出中に、女を家族と住む自宅へ招き入れる、祐樹に対して少々腹が立った。{これ程にも幸せそうな笑みを浮かべている写真が有って。何なの?この人、自分勝手にも程が有る、こういうのを、男の身勝手と言うのよ}と頭の中で思うと、何だか嫌気がさしてきた。サクラの希望は気に入って貰い、専属契約を取る事だけど、私は絶対無理と思う。まあどうせ今日だけ我慢すれば良いのだ、そう割り切ろう。

「では早々にお掃除済ませます」

「はい、終わりましたら呼んで下さい、私はこの突き当りの書斎におりますから」

 祐樹は言い残しリビングを後にする、明子はそれを認め、掃除を始める。リビングの拭き掃除をして、髙そうな調度品は慎重にダスキンで拭き上げた、廊下も同じに掃除して、

次は夫婦の寝室を済ませ、子供部屋に取り掛かる。この時に明子は違和感を覚えた。

「あら?このお部屋使ってないのかしら、お姉さんの部屋よね、何だか生活感がしない」  

その思いは弟の部屋でも同じだった。

「変だな、出かけていると言っていたけど、どこかへ留学でもしているのかしら」

{そう言えば寝室!奥様の物が綺麗に仕舞ってあったな、普通化粧台前に幾つかは、使い慣れている物は置いて有っても良いのに、それが無かった。やっぱり離婚して出ていかれたのかな、でも待って、子供達の学校道具とか制服とか此処に掛けてある、出て行ったなら、制服など置いていかない、変だな}。

明子の不審感は募るが、所詮は今日だけ買われる身だ、そんな事気にしてもしょうがないと考えない事にする。

 

 明子は掃除を済ませていよいよと、覚悟して祐樹の待つ書斎へ向かう。心は決して許さないと決めて来ていた、でも仕事上、体は奉仕しようと思っていたが、祐樹に対する先程の思いが、その事も蔑ろで良いと思わせていた。

あんなに素敵な家族が居て、買春をする祐樹に対して、明子は女として怒り心頭でいた。家族が大事なら、もっと大切にしろ、私が家族の為にこんな事までしているのに、金持ちだからといい気な者だ。だから今日は身も心も此処に有らず、それで行こう。明子はそう誓った。

書斎のドアをノックした。


事実はそれを受け取る人の立場によって、大きく変わるものだ。例えば大切な家族を失えば、それは失った家族には悲しむべき事柄だが、それが敵対するグループには喜ばしい出来事になるのだからだ。

一般常識では悪く言われる行為でも、それによって生きて行く糧を得る人にとっては、良い行為にさえ成り得るのだ。

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