第2章 アイスフォレスト王国の現状
こちらは異世界アイスフォレスト王国です。
突然の転移、父の正体、淑女教育や魔術教育など、目まぐるしく変わる環境変化。だけど、ヒカルはがんばるのです! だって、お父さんと一緒なんだもん。きっと大丈夫!
第2章 アイスフォレスト王国の現状
天井の高い廊下をコツコツと規則正しい足音が響いていた。無表情で怖いと陰口をたたかれることもある、ウィリアム・フォリナーだ。クライツ首相の執務室に向かっていた。執務室前に到着すると、すぐさま護衛兵が扉を開けた。
「第二騎士団団長、ウィリアム・フォリナーです。本日はお時間を頂き誠にありがとうございます」
騎士の礼とともに、穏やかな声が響く。執務室にはクライツ首相のほか、第一騎士団団長のジーク・ウェリントンも立ち会っていた。もちろん、アラン王太子殿下に関する報告があるからだ。ウィリアムは、早速ベスから預かった封書を手渡した。
「ご苦労。して、あちらの様子はどうだった」
「はい、妹エリザベスからの報告ですと、アラン王太子殿下は健康状態に問題なく、健やかに過ごされているとのことでした。ただ、護衛のボーグ氏とはやはりはぐれたままになり、異世界にて現地の人間に助けられ、今はコーヒー専門店を経営されているとのことです。経営状態も良好とのことですが…」
ウィリアムの歯切れの悪さに、クロイツ首相とジークが顔を合わせた。
「どういうことだ。詳しく話してくれ」
「にわかには信じられないのですが、その、妹が言うには、殿下は異世界で婚姻を結ばれ、お子を儲けられたと。しかし、その後婚姻は解消され、今はお子と二人で暮らしておられるとのことでした。 お子は姫様で「ヒカル」様と名付けられていると」
その場にいるすべての者が言葉を失った。王家の、それも王太子の婚姻がそのような軽はずみな状態で行われ、また解消されて良いはずがない。ましてや子どもまで。
「なんという…、そうか。ご苦労だった。ガウェイン陛下の容体が悪化しなければ良いのだが」
クライツ首相は頭を抱えて呟いた。
「フォリナー殿、報告、感謝する。昨今のリオン王子の落ち着きも、貴殿の力によるものだろう。リオン王子はいろいろ誤解されやすい方だが、決して人を貶めるような方ではない。どうかこれからも力になって差し上げてほしい」
「ウェリントン殿。温かいお言葉、ありがとうございます。では、これにて失礼いたします」
ウィリアムが退室すると、二人は大きなため息をついた。アランの無事が分かってほっとしたのもつかの間、今度は世継ぎ問題に発展しそうな様相だ。どうしたものか、二人がどんなに悩んでいても、アランたちが帰ってくる日は確実に近づいている。首相はすぐさま受け取った封書を確認し、再び大きなため息をつくことになった。
そのころ、王城に近い場所に建つ立派な館のテラスに、同じように大きなため息をついている者がいた。美しく波打つブロンドの髪と透き通るようなブルーグレイの瞳の麗しい令嬢、レイナ・マッコーエンだ。気の弱い彼女は、幼い頃から第1王子アランの許嫁として、淑女として、また王妃として申し分のない教養を持つよう厳しく育てられ、周りに言われるがまま耐えることばかりがうまくなっていった。そして、本来、アランの帰還が決まったという知らせは、「彼女が待ちわびていた知らせ」のはずだった。
―どんなに取り繕っても、王太子殿下をだまし続けるなんてできないわ。とても怖いけれど、ここはどんな罪に問われるとしても、真実をつげなくてはー
胸もとに輝くエメラルドのペンダントを掌にそっと包み込み、瞳を閉じる。その美しい色彩は送り主である第2王子リオンの瞳とそっくりだ。これは王太子に対しての明らかな裏切り。レイナはおびえる心を奮い立たせて、決意を新たにした。
ついにアランたちが帰る日がやってきた。ガウェイン王の体調も落ち着いているとのことで、久しぶりの再会となった。
扉が開き、衛兵がアランの来訪を告げる。クライツ首相やジーク第一騎士団長の複雑な表情とは対照的に、ガウェイン王の瞳は薙いでいた。
「陛下、お久しぶりです。長らく王国を離れてしまったこと、申し訳なく思います」
「アラン、すっかり大人になったな。ボーグとはぐれて苦労していただろう。無事帰ってきたこと、喜ばしく思う」
「有り難きお言葉。本日は、陛下に紹介したい人物がおります」
ガウェインが頷くと、アランは後ろに控えていた光をそっと前に進ませた。
「私の娘、ヒカルです。もうすぐ12歳になります。異世界の女性との婚姻で授かりました」
「森ひかるです。よろしくお願いします」
そっと頭を下げた光を、その場にいたすべての大人たちがじっと見つめていた。
年頃のヒカルには、異世界転移や父の本当の身分を知る事など、あまりにも衝撃が大きかった。日本に残ることも考えたが、母の記憶のない子どもの光には一人で生きていくすべはない。そんな時、背中を押したのは、リッキーの一言だった。
「光には、強い魔力があるじゃないか。向こうの世界は魔素がたっぷりあるから、その力、発揮できるんじゃないか?」
あの時、踏切りがついた。自分は、魔法を使って人の役に立ちたい。光は、ゆっくりと顔を上げると、まっすぐにガウェイン王を見つめた。その様子をじっと見つめていたガウェイン王はふいに頬を緩ませた。
「そうか、ヒカルというのか。出生についての事情は聴いている。私はおまえの祖父、ガウェイン・アイスフォレストという。それにしても、その意志の強そうなまなざし、若い頃のソフィアにそっくりだな」
知らない名前に首をかしげるヒカルに、「お父さんのお母さんだよ」とアランが耳打ちした。それを聞いた途端、好奇心いっぱいの瞳で「早く会いたいです」とほほ笑んだ。
「ソフィアは今、私の代理で隣国マーリン共和国の元首の結婚式に参列していてね。じきに会えるだろう。今日からしばらくはこちらの世界に慣れるようゆっくり過ごしなさい」
「ヒカル殿、ひとまずお部屋にご案内いたします。お父上はお仕事の話がありますので、後程向かわれます。ジーク、ご案内を」
クライツ首相がそう告げると、ジークがすぐさまヒカルを伴って廊下へ出て行った。
「それにしても、侍女もつけずに生活していたとは。よく耐えてくれたな。して、ヒカルの母親はどうしているのだ?」
二人が退室するのを見届け、ガウェイン王は父親の顔になって尋ねた。
「それを聞かれると辛いのですが…。ボーグとはぐれて行き場のない私を助けた異世界の女性は、豪快で大胆な人でした。しばらくは彼女の家で世話になっていましたが、ある日、無理やり酒を飲まされ、正体不明のまま、その…。ですが、ヒカルが生まれたとき、間違いなく我が子だと確証を持ちました。髪や瞳の色もそうですが、なにより魔力に恵まれていたのです。責任を取る形での婚姻でしたが、相手には私は頼りない男のように見えたのでしょう。ヒカルが生まれて1年もしないうちに、ほかの男のところに行ってしまいました」
「なんと…、そういう世界なのか?」
おののくようにつぶやくガウェイン王に、アランは静かに首を振った。
「いえ、そんなことはないと思いますが、どこの世界でも女性は強かですよね」
その言葉にクライツ首相が深く頷いていた。
「ところで、国内の様子はいかがですか? リオンとは、一度ゆっくり話をする機会を設けたいと思っていますが、気がかりはリオン派と言われている貴族たちです。財界の中心にいる貴族たちの所業には、私の転移以前からリオン自身とは異なる思惑を感じていました」
「うむ、奴らもいろいろと手を回していたようで特定が難しかったが、調査も終盤だ。近く全容が明らかになるだろう」
そう答えるガウェイン王は、ひどく疲れた表情を浮かべていた。
「陛下、そろそろ」
「うむ、そうだな。すまないね。これでも今日は体調が良い方なのだが。無理をすると後で響いてくるのでな」
12年の時の流れを経て、転移前に見ていた父の鋭いまでの威圧感はない。ゆっくりと玉座を立ち、ガウェイン王が出ていく姿を愕然として見送るアランだった。
転移してすぐに通された控えの間とは別の、王宮の奥の間の扉がそっと開かれる。
「さぁ、こちらが王太子殿下のお住まいです。お入りになって左手がヒカル様のお使いになるお部屋です。後日、専属の護衛と侍女をご紹介できると思いますので、しばらくこちらでおくつろぎください。その間に今までの生活のことやこちらでの暮らしについてお伺いいたします。」
ここは王宮の奥、王族が暮らすエリアだ。背の高い扉の先には、ゆったりとした応接室があり、その左右の壁にはそれぞれの部屋に続く扉がある。一歩踏み出した途端、あまりの広さと豪華さに立ち止まって見渡してるヒカルに、ジークが優しく微笑んだ。ジークとともにやってきた侍女長フランソワは穏やかな大人の女性で、子どもの扱いにも慣れているのか、すんなりとヒカルをソファに座らせると、二人に紅茶と焼き菓子を差し出した。
「私たちとの打ち合わせなどでは、こちらの応接室を使っていただきます」
そして、部屋の左のドアを開いて声を掛ける。
「こちらは、ヒカル様の私室となっております。ドレスや靴なども取りそろえております。夕食はガウェイン陛下と同席されることになりますので、湯あみと着替えのお手伝いをさせていただきますね」
ヒカルが声も出せずに驚いていると、フランソワは楽し気に笑い声を出した。
「ではまず、こちらでの生活について侍女長フランソワから説明してもらいましょう」
おっかさん気質のフランソワと、紳士的なジークに誘われて、ヒカルはゆっくりと緊張を解いて今後のことを話し合った。
「読み書き、計算は大変優秀でいらっしゃいますね。あとは、魔術などはどうでしょう?」
ジークに言われてヒカルの表情がパッと明るくなった。
「そう!魔術に興味があるんです。前のところでは、誰も魔術を使ってなくて、なんだか見つかったらダメみたいだったから、全然使っていないのです。だけど、リッキーが魔術の話をしてくれたから、ちょっとやって見せたら、すごくほめてくれて。私、もっと自由に使えるように練習したいんです」
「ほう、リカルドの話では、あちらの世界は魔素がまったくないと聞いています。それで出来てしまうというのは、相当魔力が必要だったでしょう?」
ジークは改めてヒカルを見つめた。華奢な体つきながら、魔力は決して少なくない。それでも、若い部下のリカルドが姿を変えて長時間いられないと聞いている異世界で、まだ子供のヒカルが魔術を使えるというのは驚きだ。
「では、今夜陛下にお目にかかる際に、お願いしてみてはいかがでしょう」
ジークが部屋を退室すると、フランソワがほかの侍女を連れてやってきた。
「ふふふ。さぁ、姫様、今日はどのドレスにいたしましょう。アラン王太子殿下も正装されたヒカル様の姿をご覧になったら、きっと驚かれますわ」
光の部屋からは華やかな女性たちの笑い声が響いていた。
アランはガウェイン王との面談を終えて、懐かしい自分の部屋へと向かう。
「あ、アラン殿下よ!素敵!」
「まあ、すっかり大人になられて、一層美形具合に磨きがかかっているわ」
廊下の隅で頭を下げる侍女たちが囁きあう声が聞こえている。昔はそんな干渉がたまらなく嫌だった。教育係の女性にまで迫られて、逃げまどったりもしていた。若かったんだなぁと、感傷的な気持ちを微かに感じながら、ヒカルの待つ王太子の間へ入っていった。
「まぁ、殿下。ちょうど良いところへ。今、ヒカル様の支度が整ったところです」
そういうと、私室のヒカルに声を掛けた。やがて衣擦れの音とともにやってきたのは、姫君と呼ぶにふさわしい可憐な少女だった。 アランの前に出ると、そっと淑女の礼をこなし、はにかんだ微笑みを見せた。
「え…。ヒカル?」
「ほほほ。ほら、殿下はきっと驚きすぎて声も出ないでしょうって、言った通りでしたね」
「お父さん、お姫様って、大変なのね。今、淑女の礼を教わっていたところなの」
アランは今一度、目の前の娘を上から下まで眺め、感嘆のため息を漏らした。
「驚いたよ。すっかり淑女じゃないか。…急にこちらの世界に来ることになって、驚いただろう? これからゆっくり慣れていこうな。」
ヒカルが頷くと、ふんわりとアランの腕の中に包まれた。大丈夫、お父さんの腕の中にいるなら、どっちの世界だって頑張れるはず。ヒカルは心の中で自分に言い聞かせた。
その頃、耳ざとい貴族たちの間では、アラン王太子が戻ってきたとの情報がすでに広まりつつあった。財界トップと言われるルクセン伯爵家にも、その話は確認済みとなっていた。
「アルフォート! その情報は間違いないのか?」
「はい、王城勤めの者からの情報で、お姿も拝見できたので間違いないとのことです。アラン王太子殿下は行方知れずとされておりましたが、どうやら、王城では事情が分かっていたようで、無事お戻りとのことです」
腰辺りまで伸びた明るい金髪を緩く束ねた美麗な執事アルフォートは、穏やかな様子でそう伝えた。しかし、ルクセンは反って苛立った様子だ。
「チっ、まったく、今までどこにいたと言うのだ! 巷では、王城内で若い女性を襲っていると良からぬ噂が出ているというのに。陛下はそんな所業をご存知なのか? どう考えても理性的なリオン王子の方が、よほど王にふさわしいではないか」
その問いかけには、薙いだ青の瞳と無表情で返す。これまでも、アルフォートは何一つ意見を返すことはない。ただ執事として、美しい姿や所作からは程遠いほどの愚直さで仕事をこなすのみだ。
「ふん、まったく。 ジーノをここへ」
「承知いたしました」
アルフォートが退室すると、ルクセンはこぶしを握り締めた。まずい。今、アランに出てこられるとまずいのだ。ようやくリオン派が増えてきたというのに。
ドアがノックされ、娘のアンジェリーナが入ってきた。栗色の髪を結い揚げ、ルクセンによく似た少し吊り上がった目じりにツンとした表情は、まさに悪役令嬢の様相だ。
「お父様、近く王城に向かわれるご用はございませんの? もし王城に向かわれるなら、私もご一緒させていただきたいわ。それがダメなら、リオン様によろしくとお伝えいただきたいの。先のお茶会では、お隣に座ることが出来ましたの。優しく微笑んでいただいたわ」
「そういえば、リオン王子にはまだ決まった相手がいなかったな」
「お父様、しっかりしていただきたいわ。リオン王子には王太子になっていただくんじゃなかったのですか? 春の宴には、よりお近づきになれるようにドレスも新調しなくてはいけないわ」
アンジェリーナは最も重要なことのように扇子を口元にあてて思案する。
「では、セイラに相談してきなさい」
「駄目よ、お母さまは。格式がとか、上品さがとか、そんなことばかり気にしているのですもの。ほかのご令嬢を出し抜いてでも、リオン王子のお目に留まらないと話にならないというのに。そうだわ。アルフォートを連れてドレスを選びに行って参りますわ。午後からは宝石商も呼ばないと…」
かわいい一人娘を溺愛してきたルクセンだったが、最近の強気なアンジェリーナには食傷気味だ。げんなりしながらも、首を縦に振った。
「ジーノ様がお見えです」
アルフォートが声を掛けると、乱暴にドアが開き、グレーの鋭いまなざしの男が入ってきた。きつすぎるムスクの香りを扇子で避けながら、アンジェリーナはそんな所作の荒い男をキッと睨みつける。
「まったく、動きが雑なのではなくて」
吐き捨てるようにそう言うと、さっさと部屋を出た。
王宮内では、ガウェイン王との夕食を終え、ヒカルはご機嫌で部屋に戻ってきた。淑女教育と魔術教育を承諾してもらえたのだ。
「お父さん、私、これからがんばるね。ジュリアーナ様もまたお茶会しましょうって言ってくださったし」
「ジュリアーナも妹が出来たみたいだって喜んでくれたし、よかったな」
フランソワがドレスを着替えさせるため、ヒカルを別室に連れて行くと、途端にアランの表情から笑顔が消える。まだやらなければならないことがある。これは、避けられない問題だ。しかし、ヒカルにどう説明するべきか、アランは答えを出せないでいた。
―陛下は早々にレイナに会っておくようにと言われたが、彼女に何も告げないまま異世界に転移することになって10年以上も経つというのに、どんな言葉がかけられるんだ。しかもこちらにはヒカルがいる。王太子にはリオンになってもらって、自分は王位継承権を手放すと告げたら、怒って蔑みの言葉を投げられるだろうか。それとも、自分の時間を返してくれと嘆くだろうかー
王太子が物思いにふけっていると、ドアがノックされジークがやってきた。
「殿下、陛下のご命令通り、レイナ・マッコーエン嬢とのお茶会の日程が決まりました。陛下からは、ヒカル様にも同席してもらって、隠し事なきようにとのことでございます」
「ジーク、それはあまりにもレイナ嬢に失礼なのではないか?」
いたわるような眼差しがアランを包む。内乱に発展しそうな貴族たちの争いで仕方なくとはいえ、アランを転移させたことは王室に係る人々の人生を大きく狂わせてしまったかもしれない。ジークとクライツはこの状況を打開することを最優先課題としていた。
「お言葉ですが、この12年の間、レイナ嬢から我々にアラン王太子殿下について問いただされたことは一度もありません。レイナ嬢にも何か思うところがあるのかと。まずは、直接お会いになって、お互いの考えを確認されてはいかがでしょう」
アランが言葉を返す前に、奥の間からヒカルが入ってきた。ドレスとは違う、身軽なワンピース姿のヒカルは一段とリラックスした様子で、ジークに習ったばかりの淑女の礼をした。
「こんにちは、ジークさん」
「これは、これは!陛下とのお食事の際のドレスもとてもお似合いでしたが、こちらのお姿もまた可憐ですな。明日はアラン王太子殿下と一緒に、許嫁のレイナ・マッコーエン嬢とのお茶会にご出席いただくことになりました。午後からの会ですので、明日の朝はこの応接室の奥にあるダイニングルームに朝食を用意させていただきますゆえ、親子でゆっくりしていただけますよ」
「許嫁? ふ~ん。それより、ソフィア王妃様にはいつ会えますか? 陛下からよく似ていると言ってもらえたから、早く会ってみたいんです」
孫を見るような優しい微笑みを浮かべて、ソフィア王妃の帰国日程を説明するジークの横で、アランはふっと肩の力を抜いた。どうやらヒカルにとってレイナとの面談はさほど大きなことだと思っていないようだ。
翌日、アランはヒカルを伴って、別館の一室へと赴いた。ドアを開けると、姫君のような若い女性が一人、ソファに腰を下ろしていた。あの方は?とヒカルが横に立つ父に視線を送るが、そっと頷くだけで納得のいく返事はない。この部屋に入ったら、まずは静かに事の成り行きを見定めなさいというのが、アランからの指示だったのだ。
「ご無沙汰しております、アラン王太子殿下」
完璧な淑女の礼をして、その女性レイナははかなげにほほ笑んだ。アランはそっとヒカルを前に引き寄せ、頭を下げた。
「レイナ嬢、貴族たちの争乱を避けるためとはいえ、申し訳ない。長い間異世界に転移していたのだ。その時の事故で、ボーグとはぐれ、帰還の方法が分からなくなっていた。連絡もなしに長らく放置したこと、心から申し訳なく思っている」
「そんな…どうぞ、頭を上げてください」
どこか落ち着かない様子のレイナに、アランは続けて告げる。
「それと王太子は降りるつもりだ。異世界では不本意な形ではあるが、一時期結婚し、ここにいるヒカルも生まれた。結婚は解消したが、転移前とは明らかに条件が違う。君には別の幸せを探してほしい」
「あの…、ヒカルです。よろしくお願いします」
「あ…」
慌てて淑女の礼をするも、レイナの優雅さに圧倒されてヒカルは視線を落とした。
レイナは驚きのあまり返す言葉がなかった。アランがそっとヒカルの方に視線を移した時、突然ドアが勢いよく開かれた。
「失礼する!アラン兄さん、待ってくれ!」
滑り込むように入ってきたのは、弟のリオンだった。額に汗をにじませ、懇願するように訴える。
「兄さん、僕のせいで申し訳ない。無茶な願いと分かってはいるが、でも、どうしても聞き入れてほしいんだ。僕とレイナを結婚させてくれ!」
アランの前で膝をつき頭を下げるリオンに、室内の誰もが驚いた。あとから追いかけてきた護衛のウィリアムが、苦虫をつぶしたような顔で頭を抱えている。
「リオン王子、お待ちください!物には順序というものがあるでしょう!」
「いや、兄さんとレイナが結婚するなんて、僕は、僕は耐えられない!」
取り乱すリオンにアランはそっと手を差し伸べた。
「僕がいない間に、こちらの世界もいろんなことが起こっていたんだな。リオン、大丈夫だ。僕はレイナ嬢と結婚するつもりはない。それで、レイナ嬢の気持ちはどうなんだい?」
困ったような笑顔のアランに、レイナはぽろぽろと涙をあふれさせた。
「ごめんなさい。私…、私は裏切り者です。アラン殿下がいなくなって、最初はとても混乱しました。その後、ジーク様から事情はうかがっていたのですが、リオン王子から声を掛けられたり贈り物をいただいたりして、初めは周りの貴族の方々が言う様にいやがらせなのかと思っていたんです。殿下が留守の間にリオン王子になびくような節操のない者と突き上げるつもりなんだと。でも、リオン王子ったら、どこまでも不器用で、誠実で。前に暴漢に襲われそうになった時も、御身を呈して守ってくださって。この方は本気なんだって気づいたら、もういとおしくて放っておけなくて…」
アランは小さなため息をこぼして、微笑んだ。
「そうか、そうだよね。12年は長すぎる。だけど、相手がリオンなら安心だ。二人でこの国を盛り立てて行ってくれ」
「殿下?!」
周りが驚いている中、リオンが食らいついた。
「兄さん! あの頃の僕は幼すぎて貴族連中の思惑に気づくこともできなかった。だけど、兄さんは、自分を支持する貴族たちにきちんと話をして、姿を消したじゃないか。兄さんがいない間も、兄さんを支持していた貴族が悪事を働くことは一度もなかった。それに引き換え、僕を支持していると表向きは言いながら、やりたい放題の貴族がどれほどいたか。僕にはそれを抑えるだけの力量もなかった。
兄さんが父上の後を継がなくて、誰にそれができるんだよ。兄さんが王になれば、僕は臣下として働くつもりなんだ」
リオンの懸命の説得にも、すぐには首を縦に振れないアランだった。王になるということは、世継ぎを残さねばならないということだ。ヒカルを差し置いて妃を娶るなど、今の自分には考えられない。
「少し、考えさせてくれないか」
心配そうに成り行きを見つめていたヒカルの肩を、ジークがそっと抱き寄せた。
「ヒカル様、大丈夫ですよ。お父上もリオン王子も、真剣に国の事を考えているだけなのです。さあ、今日のところはこの辺りでお開きになさいませんか?ヒカル様には少し難しい話になってしまいましたので」
場の空気をするりと変えるように明るい声で言い放つと、ジークはウィリアムに目配せした。
「そうですね。リオン王子、この護衛のウィリアムを突き飛ばして突っ走るのは、今回が最後にしてくださいね。まったく、レイナ様の事となると、必死なんだから」
「おい、ウィリアム!」
ウィリアムも面白がるような口ぶりで合わせてきた。そこには、主従関係というより、友人同士の空気が流れていた。リオンの後ろでは、真っ赤になったレイナが下を向いている。先ほどまでの優雅な淑女の姿はどこに行ったのか。ジークの腕の隙間から、そっと彼らを眺めていたヒカルは、ほっとした表情を浮かべていた。
ふいにヒカルの前に跪いて、輝くようにエメラルドの瞳が覗き込んだ。
「ヒカル、今日は驚かせてすまない。カッコ悪いところを見せてしまったが、この次は美味しいお菓子を用意しておくから、こんな叔父さんのお茶会に来てくれるかい?」
「はい、ありがとうございます。その時はレイナ様とご一緒に待っててくださいね。ね、お父さん?」
周りが驚いている中、アランは苦笑いで答えた。
「そうだね。てか、ヒカル、ずいぶんませたことを言うようになったな」
「ふふ。まんがでよくある展開だもん」
ヒカルは小さな声でぼそっと呟いた。
数日が過ぎ、ソフィアが帰国してきた。アランとヒカルは、早速ソフィアとの顔合わせを行った。
「まぁ、アラン。すっかり大人になったのね。あなたを転移させることになったこと、本当に心苦しく思っていました。
あの頃のリオンは、いわゆる反抗期だったのです。早くに母である第二夫人を亡くして何の後ろ盾もない状態はさぞや不安だったのでしょう。ですが、それを利用して動いている貴族が未だいるようです。クライツ首相からの報告では、最近あなたには婦女暴行の疑いまでかけられているとか。これ見よがしに第一王子の紋章が入ったボタンを落として行くそうですよ。」
思わぬ発言にアランは衝撃を受けた。ソフィアはクライツに目配せすると、微かなため息をついた。
「こちらでございます」
クライツが差し出したのは、服飾業界で調べられた第一王子の紋章のボタンの類似品とその製造元、発注をかけた依頼者の名簿だ。
「事件発覚から、製造元にはさりげなくデザインを変えてもらっているので、証拠として提出されるボタンを見れば、同一犯であることは確認できるわね」
「王城内の警備も多くしておりますので、最近はずいぶん事件は減ってきましたが。王城内にとどまらず、貴族の館に侵入して盗みを働いたり、殿下の手の者だと声高に名乗って、店内を荒らす者もおります。そのたび、リオン王子の騎士団と名乗るものがそれを止めていたりするのです」
ソフィアとクライツはもうすっかり聞き飽きたという表情だ。しかしアランには寝耳に水である。
「ジーク、ウィリアムに確認は?」
「はい。まったく報告が上がっていないとのことです。ただ、ある程度糸を引いている者の目星がついているので、次の夜会でなんとかあぶりだしたいと思っています」
「とにかく、あなたが帰ってきてくれたことで一度王家主催のパーティーをする予定です。そこで一波乱起こすことになりそうですね。それと」
ソフィアはふと、アランの後ろに控えていたヒカルに目をやった。
「私はまだ紹介してもらっていないわ、アラン。異世界でお世話してくれたお嬢さんなの?」
「これは、失礼しました。異世界にいる間に出来た娘です。ヒカルといいます」
優雅だった表情がすっと消え、睨むように問いただす。
「侍女ではなく、娘? あなたはこの国の王太子なのよ?そんな勝手が許されるとでも?」
「申し訳ありません。いろいろと事情がありまして」
鋭い言葉に返す言葉が見つからない。たまらなくなったヒカルが声を掛けた。
「あの…」
「あら、発言を許した覚えはありませんよ。教育がなっていないわね。アラン、長らく異世界にいたとはいえ、ずいぶん感覚が鈍っているようね。帝王学をやり直しなさい。ジーク、先生の手配を。話しはそれからです」
それだけ言い放つと、ソフィアはさっさと部屋を後にした。室内の重い空気を換えたのはやはりジークだった。
「まあ、早いうちに転移させられたのですから、10年余りの時間分、しっかり勉強していただきましょう。その間に、ヒカル様にも淑女教育をさせていただきます。大丈夫ですよ、ヒカル様。時間が解決してくれることもあるでしょうし、ガウェイン王もいらっしゃるのです。王妃様にとって大切な息子の身に、思いもよらないことが起こっていたのですから、動揺されるのは致し方ないかと。まして、女性の王妃様に男の事情など理解していただくのは難しいでしょう」
アランとヒカルを交互に励ましながら、ヒカルの傍で味方になってくれる人物はいないかと思いを巡らせていた。
私室に帰ったソフィアは、崩れるようにソファに座り込んだ。
「どうしましょう。やってしまったわ。あんな幼い子に私はなんてひどいことを」
談話室の外で待機していた侍女たちはおろおろしながら紅茶を準備した。
「王妃様、ハーブのお茶などいかがですか?長らくの公務でお疲れでしたのでしょう」
「いいえ、驚いてしまって受け入れられなかったのよ。あの子が、アランが子を設けるだなんて。転移したときはまだ16だったのよ!あの子の身に何が起こったの?」
困惑しながらも、侍女が用意した紅茶に口をつけると、ほっと肩の力が抜けるのがわかった。
「あの子にも、悪いことをしたわね。初めて会ったのに、あんなところを見せてしまって。さぞ怖かったでしょう。はぁ、それにしても…ふふ。私にそっくりだったわ。あの目。まっすぐで一生懸命で」
「失礼いたします。王妃様、落ち着かれましたか? ガウェイン陛下もおっしゃられていました。ヒカル様の目を見て、王妃様そっくりだと」
後からやってきたクライツ首相が慈しむような穏やかな瞳で言えば、王妃も同じく表情を和らげて頷いた。
「ヒカル、だったかしら。あの子には、不自由のない暮らしをさせてあげてね。だけど、甘やかしてはいけません。今回のマーリン共和国の元首の婚礼には驚かされました。確かに王国ではないし、仕方がないのかもしれませんが、あの元首はお飾り扱いでした。我が国との貿易も盛んだし、こちらの貴族から同じような制度へと声を上げる者がいてもおかしくないはずよ。最近の財界の人たちには目に余るものもありますもの」
私室へ戻る間、アランはじっと考え込んでいた。先ほどソフィアから言われた婦女暴行疑惑とはどういうことなのか。クライツはいろいろ調べているだろうが、ここはなじみの貴族にも聞いておかなくては。 ヒカルを一人置いて動き回るのは心配ではあるが、後手に回るわけにはいかない。
熟考するアランの隣では、ヒカルが部屋の外で護衛をしているリッキーを見つけて、思わず声を掛けた。
「リッキー!」
「おう、久しぶりだなぁ。元気だったか?」
「リカルド、その口調!」
思わず返した言葉遣いをジークにとがめられ、首を引っ込めるリッキーに、ヒカルはふふっと笑った。
「ヒカル様、リカルドとはそんなに親しいのですか?」
「はい、あちらにいたころ、学校で悪い人に絡まれていた時、助けてもらったんです。魔法の使い方も教えてもらったし」
ねっというように、リッキーに視線を送るヒカルを見て、ジークはほうっと眉を上げた。
「ヒカル様、近いうちにジュリアーナ様とお茶会などいかがでしょう?」
「え?いいの? 嬉しいです!」
表情がぱっと華やいだ。ヒカルにとってジュリアーナは叔母に当たるが、今まで出会った王室の顔ぶれの中では年も近く、気さくなジュリアーナは大好きな存在だ。
「では、少し調整をいたしましょう。その時は、リカルド、お前も同席してくれ」
「承知しました」
一緒にいたアランはピンときたのか、ちょっと楽し気な様子でそのやり取りを見ていた。
「ジーク、いい判断だね。僕もその二人になら任せられると思っていたよ」
「ありがとうございます。殿下はすでに二人と面識がおありでしたね」
不思議そうに見上げるヒカルに笑みを返して、アランは気持ちを切り替えるように声を上げた。
「さて、明日からは忙しくなりそうだね」
今日はジュリアーナ王女とのお茶会の日だ。桜色のオーガンジーを幾重にも重ねた可憐なドレスに身を包み、大き目のリボンで髪を整えたヒカルを、リカルドが迎えにやってきた。
「緊張してるのか?殿下がいなくても、ヒカルだったら大丈夫だ。王女様は優しい方だから」
「リッキーは王女様と会ったことがあるの?」
王族としてまだ正式に認められていないヒカルの護衛は、リッキー一人だけになっている。それをいいことに、お茶会の会場までの間、二人は出会った頃のままの話し方を楽しんでいた。
「え?まあ、ちらっと見たぐらいだけど。ベスがジュリアーナ王女様の侍女見習いをしているんだ」
「ベス? ベスってだあれ?」
言われてからはたと立ち止まったリッキーの耳が赤い。そんなリッキーをヒカルが見逃すはずもなかった。
「友達、じゃないよね。カノジョ? それとも、コンヤクシャ? 好きな人? 愛してるの?」
言われるたびに反応して焦るリッキーを、にんまりと見つめるヒカル。
「ちょっ、待っ、そ、そ、そんなんじゃ!!」
「リカルド! ドアの前で何を騒いでいる? そしてその言葉遣いはなんだ」
「だ、団長…」
明らかに愉しんでいるジークに気づかず、リカルドはしょぼくれている。周りから朗らかな笑い声が聞こえて、ヒカルはすぐにその声の主に気づいて満面の笑みを浮かべた。
「ジュリアーナ様! 本日はお招きくださってありがとうございます」
「ふふふ、ヒカルったら、淑女の礼もずいぶん板についてきたわね。さぁ、今日は私主催のお茶会だから、気を使わないで楽しんでね。リカルド、エリザベス、ちょっとこちらに」
ジュリアーナ王女が視線を送ると、ジークがすっと傍に立って、周りを見渡した。
「では、私から発表いたします。本日、ヒカル様の専属の護衛と侍女が決まりました。護衛にはリカルド・マイヤーを、侍女にはエリザベス・フォリナーを任命します。」
「エリザベス、今まで頑張ってきたあなたになら、私の可愛い姪のお世話をお願いできると思ったの。受けてくれるかしら」
王女の輝かんばかりの笑顔を受けて、ベスは口元を抑えて驚いている。
「王女様、私、一人前の侍女として認めてもらえたのですか?」
「そうよ。元気で明るくて、一生懸命なあなたなら、できるわ」
その脇では、リッキーがジークを見上げていた。
「ヒカル様とは友達なんだろ? 突然やってきた異世界で心許せる存在は貴重だ。力になって差し上げるんだぞ」
「はっ!ありがとうございます!」
王族の専属になるということは、いずれ騎士団の団長に進むことが約束されたようなものだ。思わぬ昇進に心ここにあらずのリッキーを、ヒカルは嬉しそうに見つめている。
「ヒカルお嬢様、どうぞよろしくお願いします」
「エリザベスさん、こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
ぺこりと頭をさげようとするヒカルを、慌ててジークが止める。
「ヒカル様、侍女に頭を下げてはいけませんよ。それに、さんづけも必要ありません」
「そうなんですか? 私、まだこちらの世界の事、分かってなくて」
「大丈夫です。これからお勉強していきましょうね。私の事は、ベスとお呼びください。」
肩を落とすヒカルに、ベスが笑顔で励ましたが、最後の一言でヒカルの表情がぱっと変わった。
「え? あなたがベスなの!! やったー!リッキー良かったね」
はしゃぐヒカルと真っ赤になるリッキーの前で、ジークが咳払いをしてにんまり笑う。
「お気に召したようでよかったです」
「ふふふ、なんだか楽しそうね。では、お茶にしましょう。私、ヒカルのことをもっと知りたいの。いろいろお話してね」
王女が話を進めてくれて、お茶会は楽しいものになった。
ヒカルがアイスフェレスト王国にやってきて、ひと月が経とうとしていた。朝は支度を整えにフランソワとベスがやってくる。そして、朝食はアランと一緒に摂ることにしている。アランは、朝食を終えるとソフィアに指示された帝王学を、午後からは騎士団の訓練に混じって、なまった剣と魔法の腕を鍛えなおす。ヒカルは、曜日ごとに淑女教育と魔術教育を基礎から学び、その進捗状態をこの朝食の時間に報告し合うのが日課になっていた。
昼食や夕食は、それぞれのスケジュールが合わず、別々になることも多い。ベスは心配そうにしていたが、アランが貴族たちとの打ち合わせに奔走していることをヒカルは理解しているようだった。
「ベス、王太子殿下のご帰還を祝うパーティーの日取りが決まったわ。ヒカルお嬢様のドレスを打ち合わせしましょう。このパーティーが終われば、ヒカルお嬢様の侍女の仕事はあなたがリーダーになってやってもらうことになるから、がんばってね」
フランソワに背中を押されて、おもわず背筋を伸ばすベスは、緊張した面持ちで頼りになる侍女長を振り返った。
「それから、このパーティーをもって、正式にヒカルお嬢様は身分も王女となられるので、呼び方も変えなくてはね」
「それは、つまり王妃様がヒカルお嬢様を認めてくださったってことですか?」
自分の事のように喜ぶベスに、侍女長は満足げに頷いた。
いや、書いてる本人ですが、ヒカルって、偉いなぁっと思います。やっぱりそういう器の人なのでしょうかねぇ。