第1章 異世界日本
ごくごく普通の小学生だった光が異世界に渡ってヒカル王女として成長していく物語です。
ほんのおまじないだと思っていたことが、実は、自分の持つ魔力によって引き起こされているとしたら…
第1章異世界日本
ドアを開けるとカランと明るいカウベルが響く、コーヒー専門店ハーフムーン。ダークブラウンの調度品とアンバーやブロンズの器具類に囲まれたカウンターでは、優雅な雰囲気をまとったマスターが「いらっしゃいませ」と柔らかい笑顔を見せる。緩く波打つ薄茶の短髪と色素の薄い瞳は、武骨なイメージのこの店を程よく中和していた。駅から少し歩いた先にあるこの店は、紳士的な店長の人気と、本格的なコーヒーの味わいの相乗効果でそれなりに来客数も多い。
ランチタイムが終わって、店内は二人ほどの客が残っているだけになった。マスターは冷蔵庫の食材を取り出し、軽食用のサンドウィッチの仕込みに入る。流しでレタスやトマトを洗っていると、背後でカランとカウベルの音がする。「いらっしゃいませ」急いで手を拭いて振り向くと、どうやら残っていた客の連れがやってきたようだ。
「ごめんね。家の鍵が見つからなくて…。ずいぶん待たせちゃったね」
「そうね。でも…、どうしても会いたかったの」
男はあからさまに緊張を緩め、満足げにほほ笑んだ。
「さっき、理沙からメールが来てたわよ。あなたが離してくれないからバイトに遅れそうだって。だから、あなたには一言伝えておかないとって思って」
緩んだ表情が再び緊張の度合いを高める。まだ幼さの残る女性はすっと席を立つと、目の前の水をビシャッと男にかけて、捨て台詞を投げつけた。
「二度と目の前に現れるな!」
さっさと店を出て行く女性を、男は茫然と見送っていた。
「お客さん、お支払いお願いします」
「え? ちっ!」
遅れてきた男は仕方なく代金を支払うと、不機嫌を隠そうともせずに帰っていった。その後ろ姿を見送って、マスターは食器を片付ける。一人残ったサラリーマン風の客も、居心地悪そうに立ち上がると、代金を払ってそそくさと帰っていった。
「ふぅ、ひどい男だなぁ。しかし、女性は強いね」
テーブルを拭きながら、あきらめたようなため息をつく。コトンっとカウンター内で何かが落ちたような音がしたが、マスターの耳には届かなかったようだ。カウンターの内側にある棚の扉がそろりと開いて、中から金色の瞳が辺りの様子を探っている。
「さて、そろそろ光が帰ってくるころかな」
壁掛けの時計をちらっと見てつぶやく。マスターはトレイに食器を乗せると、カウンター内へと戻って来て、固まった。
「え? 何?」
そこには、いるはずのないものがいた。
「…何って、猫なんだけど」
「いや、それは分かるけど…、って、いやいや、猫はしゃべれないから!!」
「えー? こっちの猫はしゃべらないのか?」
「しゃべらないよ!君、だれ?」
流しに洗い物を入れると、マスターはしゃがみ込んでまだ若そうな黒猫と対峙した。当の猫はというと、丸かった瞳をすぅっと細め、マスターを値踏みする。
「俺はリッキー。ちょっと人を探してるんだ。でもその前に…」
「その前に?」
反射的にマスターが身構える。
「ねえ、何かない? お腹が減って動けないんだ」
「はぁ? あ、いらっしゃいませ」
マスターが抗議しようとした時、店のドアがカランと明るい音を立てた。
「いいかい、食べ物を出す店に猫がうろついてたら衛生上だめなんだよ。しばらくカウンターの中でじっとしてて! お客さんに見つからないでよ!」
それだけ言うと、マスターはすぐさま営業スマイルで客の元に向かった。その後姿を見送って長い尻尾をゆるりと揺らすと、リッキーは大きな金色の瞳で店内をじっくり観察した。
落ち着いた雰囲気、天敵もいなさそう。これで食べ物にありつけるなら、ここを自分のアジトにしてもよさそうだ。リッキーは満足げに毛並みを整え始めた。
客が帰ってしまうと、すぐさまマスターがやってきた。
「ねえ、君。どうしてしゃべれるの?どうしてうちの店の中にいるわけ?」
「いや、こっちの世界の猫がしゃべれない方が驚くよ。ここに来たのは、最近転移魔術が大きく発展したからだ。まあ、そのあたりは俺も詳しくないんだけどね。 ていうか、ほんと、死にそうにお腹がすいたんだけど、何か食べさせてくれよ」
上目遣いに訴える真ん丸な金色の瞳に飲まれそうになるのを、寸でのところで堪える。
「いや、言ってる意味が分からないよ。とりあえず、お店から出て行ってくれる?もうすぐ娘が帰ってくるのに。君みたいな得体のしれない生き物を見たら、きっと怖がるよ」
「得体のしれないとはなんだ!俺はれっきとした…」
リッキーが叫ぶのと同時に店のドアがカランと音を立てた。
「ただいまー!」
「あ、お帰り~。ほらほら、あっちで手を洗っておいで。手を洗ったら先に宿題を済ませるんだよ」
「はーい」
ランドセルを背負った少女は、ハーフアップに結んだ薄茶の巻き毛をくるくると揺らしながら、住居部分の方に進んでいった。それを確かめて、マスターは素早くくぎを刺す。
「あの子には絶対にしゃべってるところを見せちゃダメだよ!」
「わ、分かったよ。その代り何か食べ物を…」
はぁ、とため息をつくと、マスターは急いで自宅エリアに行くと、ごはんに鰹節を振りかけたおにぎりを作ってリッキーに差し出した。
「これを食べたら出て行ってね。そろそろティータイムで忙しくなるから」
再び軽食の準備に取り掛かっていると、カランカランとにぎやかにカウベルが鳴り響く。
「こんにちは、マスター!今日は友達を連れてきたの」
「わあ、ホントだ。イケメン!」
「きゃあ、来てよかったわ」
「あはは。いらっしゃいませ。奥のお席をご案内しますね」
にこやかに客をあしらうマスターを横目に見ながら、口の周りに鰹節をつけて黙々とおにぎりを食べ、ぼそりと呟く。
「女たらし…」
次々客が来店する。この時間帯から仕事帰りの客が来る時間帯は目の回る忙しさだ。注文を聞く、コーヒーや紅茶を淹れる、洗い物をする。バタバタしている間に、宿題を終えた娘の光も手伝いにやってきた。主に洗い物を担当しているが、来客が多い時は、注文を取ったり運んだりもする。マスターにとっては相棒ともいえる存在だ。
「ありがとうございました」
最後の客を送り出し、ドアの前にCLOSEの札を掛けると、一区切りだ。
「光、今日もありがと…」
「ねえ、お父さん。この猫ちゃんどうしたの? うちで飼ってもいいの?!」
期待に満ちたキラキラした瞳は、父親譲りの薄いとび色をしている。マスターは光の後ろにいるリッキーに鋭い視線を向けたが、リッキーは素知らぬ振りでにゃーんと鳴いてみせた。
娘に甘いマスターは、結局リッキーが飼い猫として居座ることを許してしまった。
「ねえ、お父さん。この子の名前、何にしよう」
「リッキー…かな」
夕食を囲んで今日あったことを報告し合うのはいつものことだ。その日はリッキーが加わって光はご機嫌だった。しかし、マスターがさっさと名前を決めていたのに驚いて、光は父親の顔を見返していた。
「え、ごめん。なんとなく、ね」
「ふ~ん、この子が名乗ったの?」
「え、いや、まさか。ははは」
マスターがごまかすように笑うと、光もそれ以上追及しなかった。
「今日、学校でね、ゆかりちゃんと遊んでたら、ゆかりちゃんのお姉ちゃんっていう人が来て、なんだかケンカしてたよ。あんまりしつこいから、やめてって、私、蹴散らしちゃった」
「おいおい、よそのお家のことに口出しはしない方がいいよ」
「だって、…なんだかお姉ちゃんって言いながら本物のお姉ちゃんじゃないみたいだったもん…」
「なんだ、そりゃ。危ないことには首を突っ込まないでくれよ」
「はーい。ご馳走様」
光は元気に席を立つと、「リッキーのベッドを作らなくちゃ」と自室にむかった。
深夜、光が眠ったのを確かめて、一人と一匹は対峙する。
「で、何をしにきたの? この世界に来たのは偶然じゃないんだろ?」
「まあね。 とりあえず人探しをしているんだ。そいつの身内が体調を崩しているから呼んで来いという指令だ」
「じゃあ、探している人物もそっちの世界からやってきたってことなのかい?」
リッキーは困ったような呆れたような様子で頷いた。
「まあな。俺自身は顔も見たことがないんだけど、近くにいたらきっと分かるって団長から言われてるんだ。とりあえず、明日から街中を探るつもりだ」
「団長…。 顔も知らないでどうやって探すのさ」
「まぁ、魔力の属性とか、その身内に似たところがあるとかで、ね」
「ふーん」
マスターは改めてリッキーを観察する。なんの変哲もない、金色の瞳がやや大きめの、どちらかというとかわいい黒猫が、長い尻尾を垂らしてなぜかバツの悪そうな表情だ。
「と、ところでさぁ。光の母親はまだ帰ってこないのか?」
「ん、もう、帰ってこないよ。麻紀は、光の母親は僕らを置いて出て行ったんだ。あの頃は、僕の自覚が足りなくてね」
マスターは肩を落として苦笑いした。
「なんだかよく分からないんだけど、若い女の子たちがいろいろプレゼントをくれるんだよ。それが気に入らなかったみたいでさ。まぁ、定職にもついていなかったしね」
「はぁ?」
困ったような顔つきで語るマスターを、胡乱気な目でみつめる。定職にも就かないで結婚?子ども? 確かに、品のいい雰囲気だし、顔もいい。背も高くてすらっとしている。背が低めなことを気にしているリッキーからしたら、憎らしいほどのスペックだ。だけど、だ。
「ま、だから一念発起してこの店を始めたんだ。これなら光を一人ぼっちにしなくていいしね」
背中を丸めたマスターの横顔を見ながら、やっぱり女たらしかよと心の中で毒づいて、リッキーは「女たらし」という言葉をどこかで見たような気がしていた。ま、いいか。今はマスターより自分の人探しだ。そう考えて、光が作っておいた寝床にもぐりこんだ。
「とにかく、光が飼いたいというから認めたけど、しゃべれることや異世界から来たことはばれないようにね。これ以上、あの子に負担になることは避けたいんだ」
「分かったよ」
リッキーは寝床の毛布の隙間から答えると、そのまま大きな瞳を閉じた。マスターは丸くなったその姿を見つめながら、この先に何かが起こる予感を感じていた。
翌朝、光が学校に行くのを見送ると、リッキーは早速街の中を捜索し始めた。
「それにしても、魔法のない世界っていうのは大変だなぁ。この姿を維持するだけでも魔力が奪われていく。いっそ人型に戻すか」
ビルの隙間に入り込むと、リッキーは青年の姿になって出てきた。ウインドウに姿を映して服装を確かめる。さっき駅に向かって走っていた青年の服装をそのままコピーしているおかげで、違和感はない。駅前のビルによりかかって、人々の行き来を観察した。
「へえ。魔法がないなんてどうやって暮らしてるのかと思ったけど、なんだかいろいろうまくやってるんだな。電気は雷属性の人間しか使えないと思っていたけど、当たり前のようにみんなが使ってるじゃないか」
駅前の往来を観察した後は、あてもなく歩いて神社に出くわした。静かな魔力が感じられ、思わず深呼吸する。すると、境内の奥から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「まぁまぁ、重い荷物なのに、ありがとうね。」
「うふふ。真子は神様に守られてる子だから、いっぱいお手伝いするといっぱい元気をもらえるだって。だから大丈夫よ!」
腰の曲がった老婆と5,6歳の女の子が連れ立って歩いてくる。確かに、この幼女にも魔力が感じられた。
―神様に守られている子、か。 俺の捜し人が陛下と同じ魔法属性なら、風と火の属性になるはずだが、さっきの子どもみたいに魔力はあっても使い方を知らないままこっちに来ているかもしれないのか。―
それは、数日前に遡る。
「団長、お呼びでしょうか?」
アラン王太子殿下の護衛であるジーク第一騎士団長に呼ばれたリッキーは、上司の表情が険しいことで国王の容体が思わしくないことを悟った。
「お前には、異世界に飛んでもらう。どうやらアラン王太子殿下がいらっしゃる場所が特定できたようだと転移省捜査課から報告が上がった。早々に殿下にはお戻りいただかなくては」
「分かりました」
ジークはほのかに光る小さな水晶玉をリッキーに渡すと、頼んだぞっと声を掛けて部屋を出て行った。水晶玉にはアラン王太子殿下に関するデータが入っていて、おおよその居場所が分かる仕組みになっている。また、本人に近づくとどんなに変装しても魔力を隠しても強い光で反応する。
そっと掌に乗せ、もう片方の手の平から魔力を流すと、王太子のプロフィールが浮かび上がった。学業は優秀ながら、幼いころから束縛を嫌がって逃げ回り、側近を困らせたという。そして常に女性に囲まれている。いわゆる女たらし。
―えっ、こんな人を呼び戻しても、仕方ないんじゃないだろうかー
リッキーの眉間に深いしわが刻まれた。絵姿を見ようとしていると、転移省の職員に呼ばれた。いよいよ転移か。大魔術師でもない限り、異世界への転移はままならない。この転移省は、どうしても行かなければいけない場合にのみ、場所や時間を見定めて、職員数人が魔力を集結し、普通程度の魔術しか使えない者でも転移させることが出来るシステムを作り上げ管理している。
逸る気持ちを胸に、職員に続いて歩いていると、突然、後ろから何者かに抱きつかれた。
「リッキー! もう行ってしまうの?」
シンプルなお仕着せに身を包んだベスが、しがみついている。
「ああ、行ってくる。まあ、すぐ帰ってくるさ」
「お兄様から聞いているわ。でも、異世界への転移なんて、まだあまり聞いたことがないもの。ちゃんと帰って来てね」
「心配すんなって。てか、今日はジュリアーナ様のところに行かなくていいのか?」
「う…。だって、リッキーが行っちゃうんだもん。…ちゃんと見送ったら馬車を飛ばして間に合わせるわ」
言葉こそけなげだが、しっかりとリッキーにしがみついて離れようとしないベスの手を必死に引っぺがして、職員が入っていった転移室に逃げ込む。ため息をつくリッキーに職員は楽しそうに声を掛ける。
「あの子、フォリナー侯爵家のお嬢さんだろ? 美人だし、スタイルもいいって、ずいぶん社交界では人気があるらしいね。そんな風に冷たくしないで、しっかりつかまえとかないと、誰かにかっさらわれるよ」
あんなお転婆が人気者だなんて、なんか間違ってないか? リッキーは心の中でつぶやいた。その頃、転移室の外では、ベスが何かを拾い上げていた。
「これ、何かしら? リッキーのお落とし物? 帰ってきたら渡してあげなくちゃ」
踏切の遮断機が大きな音とともに降りてきて、我に返る。自分が転移した後のことなど知る由もないリッキーが、しばらく街中をぶらついていると、見覚えのある服装の集団が目の前を通り過ぎた。
―あれは、確か光が学校に行くときに着ている服だ。ただ、光とは着こなし方が少し違うな。上の学年か?―
なんとなくつかず離れずの状態で後ろを歩く。
「それにしても、今日は最悪!まさか邪魔が入るなんて」
「ああ。あいつ、お前の妹のクラスの女子だろ? なんとかヒカルってやつ。確か、車に引かれそうなばあさんを助けたとかで表彰されてたよな。カッコつけやがって、救世主にでもなったつもりかよ」
「ふふふ。自分からターゲットになりたいなんてね。ゆかりもそろそろ限界だったし。ちょうどよかったじゃん」
集団の連中は悪ぶる様子もなく、ゲームセンターへとなだれ込んだ。
―光って、まさかマスターんちの光のことじゃないよな?―
気になりながらも、リッキーは踵を返す。これ以上つけていても仕方ないことだ。それにしても…、と空を仰ぐ。転移するとき、大切な水晶玉を落としてきたのだ。あれがないと捜し人の位置が分からない。目標の人物はあの店のあたりにいるので間違いないのだが。
午後を過ぎたころ、ショッピングセンターの人気のない階段の踊り場で、リッキーはばったり光と出会った。
「どうしてくれるのよ! ゆかりは、いつもこいつに小遣いを渡してくれてたのに。もしもこいつが餓死したら、アンタのせいだからね!」
「そんな…ご飯なら、家で食べればいいでしょ?」
どう見ても年上のグループが光を取り囲んでいる。背の高い連中に囲まれても光は気丈にも言い返していた。やはり午前中に出会った集団の話は光のことだったのか。
リッキーはそっと光の近くに歩み寄った。
「よお!光ちゃんじゃないか?大きくなったなぁ。 覚えてるかな? 君の父さんの後輩のリッキーだよ!」
光が戸惑っているのを無視して、リッキーは続ける。
「これからちょうどお店に行こうと思ってたんだ。一緒に帰ろうか。ってことで、君たちはお友達かな? 悪いけど、先に失礼するよ」
「何勝手な事言ってるん…!!」
背の高い少年が二人の間に割り込むが、リッキーに睨まれて一瞬ひるんだ。その隙に二人はさっさとその場を後にした。
店の近くにある公園まで行くと、リッキーは光をベンチに座らせ、ジュースとコーヒーを買って戻ってきた。
「はい、これなら飲めるだろ?少しは落ち着いたか?」
「今日は助けてくれて、ありがとう。でも、どうして人の姿になってるの?」
「えっ?」
リッキーが固まったのも無理はない。光の目の前にいるのは、人型のリッキーなのだから。しかし、光は驚く様子もない。小首をかしげて好奇心旺盛な瞳で見つめている。
「はぁ。仕方ない。これから話すことは、誰にも、お父さんにも内緒だぞ」
リッキーは、異世界から来た話や魔法のことを光に話した。光は楽しそうに聞いていたが、ふいに立ち上がって、エイっと目の前の草花に掌を突き出した。すると、フワっと風が吹いて小さなつぼみができ、ゆっくりと花開いた。
「光は魔法が使えるのか!?」
「うん、よくわからないけど、ちょっとだけできるみたい。でも、前に友達の前でやったら、気持ち悪いって言われたから、それからはやってない。お父さんにも内緒よ」
「そっか。こっちは魔法のない世界だもんな。だけど、肩の力を抜いてもうちょっと掌に意識を集中したら、楽に魔力を出せるんじゃないか?」
「え?こう?」
前に出した掌に意識を集中させ、ふうっと深呼吸して肩に力を抜くと、隣の草花がぽぽっと一度に3つも咲いた。満面の笑顔を返すヒカルに、リッキーはふと思い立って尋ねた。
「ところで、さっきの連中だけど、大丈夫なのか?」
さっきまで楽し気に話していた光は、その話題になったとたん、視線を落とした。そうして、しばらく考えてから、決心したようにつぶやく。
「私、先生にちゃんと言う! ゆかりちゃんは、言わないでって言ったけど、代わりに来いって、あの人たちに引っ張られた時、止めてくれなかったし。やなものはやだって言わなくちゃ、大人は助けてくれないもん」
「そうか。じゃあ、何かあったら俺も人型になって手助けするから、言ってこいよ」
光は静かに頷いた。そして、思いついたようにランドセルの中からキラキラしたわっかを取り出し、リッキーに差し出した。
「これ、あげる。助けてくれたお礼」
リッキーが受け取って手首につけるとぴったりだった。大き目のビーズを透明なゴムで通したブレスレットだ。
「お小遣いで買ったお守り石が入ってるよ。自分で作ったの。」
「へぇ、きれいだな。ありがとな…あ、雨だ。さ、急いで帰ろう」
「うん」
ヒカルはすっくと立ちあがると、ちらっと空を見上げて呟いた。
「もう、雨キライ。どっかいけぇ」
「あはは、このぐらいならすぐにやむはず… あは、ほんとにもうやんでる。一瞬だったな。さて、マスターが待ってるぞ」
「ホントだ。今日は金曜日だからお客さんが多いんだった。あ~ん、魔法使うんじゃなかったかなぁ」
「ほどほどにしておけよ」とリッキーに頭を撫でられながら、光は我が家へと急いだ。
それから数日が経って、不良集団は地元の中学生達だったことが分かった。光が担任に話したところをもみ消そうとされたが、なぜか校長から厳しく叱責され、中学生共々処分が決まった。一本の電話から、校長の様子が一変したと、職員室内では囁かれていたが、それが誰からのどんな電話だったのかは、校長以外誰も知らない。
リッキーはその日も駅前で人の流れを見ていた。あの水晶玉がない以上、自分の目で確かめるしか方法はないのだ。王に似ているなら薄茶の髪にグリーンの瞳だ。せわしなく改札口に流れていく人々を見ながら、深いため息が漏れる。空を見上げても、水晶玉が落ちてくるわけもなかった。が…
「え? なんだ?」
空から何かが落ちてくるのが見えた。小さな粒に見えていたものは降下とともにいよいよはっきりと姿を現し、リッキーの前にストンと降り立った。えりぐりの大きく開いたドレスに身を包んだその人物は、金色の長い巻き毛を整えて、リッキーに微笑んだ。その手には、ほのかに光るものが握られている。
「リッキー!会いたかったわ」
「ベス!おまえも王太子殿下探しを手伝ってくれるのか?」
「えっ。リッキーの任務って、王太子殿下探しだったの?」
ベスの表情が途端に曇ってしまう。
「そうだよ。ジーク隊長からの直々の指令だ」
異世界で同郷の人間に会えた嬉しさで、ベスの表情が変化しているのにリッキーは気づかないでいた。そして、その手に握られたほのかな光にも。
「そう。残念だけど、私は別の任務なの。じゃあ、お仕事がんばってね」
「あ、ベス!その恰好はこっちでは合わないぞ。ちゃんと肌を隠して」
リッキーが肩にふれようとした瞬間、ベスはとっさにその手を払ってしまった。
「あ、ごめんなさい。私…」
ベスは困惑した様子で一気に空に飛びあがり、自分の名前を呼んでいるリッキーを振り返ることもできず、やみくもにその場を離れた。そして、人気の少ない公園に降りると、深いため息があふれ出る。
―どうしよう、せっかくのチャンスを…。この水晶玉、渡してあげたかったのに。―
手の中で淡く光る水晶玉は転移の際にリッキーが落としたものだ。しかし、肩に手が触れた瞬間、つい先日の悪夢がよみがえって、とっさに払いのけてしまった。
―あの時、警備の人が来なかったら、私は…―
考えただけで恐怖に負けそうになる。あの日、仕事仲間と話し込んで、帰りが遅くなったベスだったが、王宮の中は安全だと思い込んでいた。あんなところに暴漢が出るなど、想像すらしなかった。無理に引っ張られた腕の感触や服をはぎ取ろうとする狂気じみた力、むせかえるようなムスクの香りと熱を孕んだ荒い息遣い、建物から漏れる光で一瞬見えたグレーの瞳は卑屈にゆがんでいた。
警備兵の声に驚いて、男はすぐに走り去っていったが、そこには第一王子の紋章が入ったボタンが落ちていた。行方が分からないと言われていた第一王子はすでに王太子と認められていながら、その執務もこなさないでいる。
―リッキーは一生懸命王子を探しているけど、もし、あの犯人が第一王子ならここにはいないことになるわ。―
ベスは握りしめた手をそっと開いて、水晶玉をのぞいてみた。淡い光は魔術学校に通っていたころを思い出させる。
―あの頃、リッキーはいつも傍にいてくれたわ。いっぱい笑って、いっぱいケンカして…今度は私が力になりたいのに。ー
「お姉さん、一人? お姫様のコスブレかい? 俺が王子様になってやるから、ちょっとつきあってよ?」
突然男がどさっと肩に腕を回して、ベスの胸の谷間を見ながらニヤニヤしている。冗談じゃない!ベスは小鳥に変身すると、近くの木の枝に飛び移った。
「え? あれ? どこに行った? やべぇ。幻覚か?」
男が立ち去るのを見下ろしていると、不意にリッキーの言葉がよみがえる。
「あ、ベス!その恰好はこっちでは合わないぞ。ちゃんと肌を隠して」
そうだ、あの時も自分のことを心配してくれていた。ベスは一人、唇をかみしめた。第二王子の護衛である兄ウィリアムの口利きで1日だけの転移許可をもらってきたベスには、時間が限られている。ベスは気持ちを切り替えて、再び駅へと向かうと、近くを歩いていた女子高生の服装をコピーしてリッキーを探し始めた。
その頃、リッキーはハーフムーンに戻って遅めの昼食にありついていた。いつの間にか、客にも受け入れられ、この時間帯はアクリル板のケースの中で、ちょっとした招き猫になっている。
「マスター、ほんとにかわいいネコちゃんね。なんていう種類なの?」
「え?えっと。友人から預かってるネコなんで、種類まではわからないんですよ」
リッキーとマスターの視線がぶつかる。しかし、ふいっとマスターは視線をそらし、何かを思い悩んでいるようだった。客の女性はそんなこととは知らず、食後の毛づくろいをしている姿に見惚れている。
そして、客がいなくなると、リッキーはさっさと人探しを再開した。
駅の改札口でぼんやり立っていたベスが、やっと戻ってきたリッキーを見つけて、駆け寄ろうとしたその時、ごつごつした大人の手にガチっと腕を掴まれた。
「君、こんな時間に何をしているの? 学校は?」
「え? と、友達と待ち合わせです」
「平日の昼間にか? 学校を休んで?」
見ると険しい顔つきの男が、ベスを睨みつけていた。掴まれている腕にも力がこもる。
―いやだ!離して!―
ベスの頭の中で、先日の事件がフラッシュバックする。萎縮する彼女の腕を掴んだまま男は口汚くののしるが、ベスには何が悪いのかさっぱり分からない。リッキーに助けを求めたいところだが、いつのまにか通り過ぎたらしくどこにも姿が見えない。
「リッキー!お願い、助けて!」
切羽詰まったベスは必死に声を上げた。残念ながらリッキーは来なかったが、周りにいた人々が集まってきた。
「何をやっているの? 嫌がってる女の子を無理やり連れて行こうなんて!」
「おまえ、本当に指導員か? 偽物じゃないのか?」
駅前にいたことがラッキーだった。たくさんの人に責められ、男が腕を離したとたん、ベスはすぐさま逃げ出し、公園の大きな木の陰に姿を隠して蹲った。腕を無理やり引っ張られただけで、あの恐ろしい夜を思い出す。ベスは自分の肩を自分で抱きしめて、震えが収まるのをじっと待った。
―この世界ってどうなってるの? 恐ろしい男ばっかりじゃない。せっかくリッキーを見かけたのに、もう時間が…ー
駅舎の時計はすでに3時を指している。ベスは水晶玉を握りしめて唇をかんだ。気持ちは焦るが、魔素のないこの世界では人探しは容易ではない。魔術を使う度、体力を奪われ空腹に襲われるのだ。
―気持ちを切り替えて、服装も変えて、とりあえず食事をしよう。―
駅から少し歩いたところに喫茶店をみつけた。カランとカウベルの音がなり、ベスが店内に一歩踏み入ると、突然水晶玉が光り出した。
「え? 何、これ?」
ベスが驚いていると、ちょうどリッキーが帰ってくるところだった。水晶玉が見え、リッキーはすぐさま人型に戻った。
「ベス? どうしてそれを持ってるの?ってか、どうしてここで光ってるんだ?!」
おどおどするベスをしり目に、リッキーはすぐさま水晶玉を受け取り、周りを見渡した。数組の客が珍し気に水晶玉を見ている中、ちょっと困った表情のマスターが深い深いため息をついて手招きしている。
「やっぱりか…。とりあえず、奥の部屋に来てくれる? 説明するよ」
自宅用のキッチンに二人を座らせると、お茶を出して諭すように話す。
「まさかと思っていたんだが、君たちが探しているのは、たぶん僕だよ。だけど、今はちょっと忙しいから、待っててくれる?」
それだけ言い残して店に戻っていった。後に残された二人は面食らったように見つめ合う。
「なぁベス。それ、どうしたんだ?」
「リッキーが転移の時に落として行ったのを渡しに来たの。お兄様に頼んで、今日の日没がリミットだって言われて転移許可をもらってきたのよ。だけど、もしかしてリッキーが探している人って、あのマスターのことなの? 本当にあの人が第一王子?」
ムキになって話すベスの様子をじっと見ていたリッキーが、ぽつりと問う。
「ベスって第一王子に会ったことがあるのか?」
「え?そういうわけじゃないけど。なんだか王子らしくないっていうか」
ベスが何か言いかけたところで、マスターが戻ってきた。
「はぁ、今日はもう店じまいだ。さて、これで落ち着いて話ができるね。ふう。では、自己紹介しておこう。私の名前は、アラン・アイスフォレストだ。それでリッキーの探し人とは、結局私のことだったのか?」
向い側に座ったマスターは、今までとは違う表情で二人を見つめた。それに気づいたリッキーはすぐさま立ち上がり、ひざを折った。
「俺は…あ、いえ。私は、第一騎士団所属、リカルド・マイヤーです。ジーク騎士団長の命を受け、アラン王太子殿下をお迎えに参上いたしました。水晶の光で、ようやく殿下に気づくことができました。これまでの所業、どうかお許しを」
マスターは静かにそんなリッキーを見つめる。
「よくここが分かったな。お前がここに送られたということは、父上の体調が思わしくないということなのか?」
「はい。転移省捜査課が御身を見つけ出しました。陛下の容体については、ジーク第一騎士団長よりそのように伺っています」
「そうか」
光とそっくりのとび色の瞳が陰りを帯びる。リッキーの隣にいたベスは、おろおろしながら席を立った。そして、しとやかな淑女の礼をして、発言許可を求めた。
「フォリナー侯爵家長女、エリザベス・フォリナーです。普段はジュリアーナ妃の元で侍女見習いをしております。兄ウィリアムはリオン殿下の護衛の任についております。その、リカルドが転移の際にこの水晶を落として行ったので、届けに参りました。兄からの転移許可は本日の日没までとのこと。お話の途中で転移されてしまうかもしれないことを、お許しください」
「うむ。それはご苦労だったな。それで、ジュリアーナは息災か? リオンはどうしている? フォリナー侯爵家の長男とは同級だったはず。リオンは神経質なところがあるが、迷惑を掛けられてはいまいか?」
ベスは思いもしなかった言葉に一瞬言葉を失った。わがままで身勝手で女好きな王太子の噂はなんだったのか? そして、たまに兄ウィリアムが対応に思い悩んでいる第二王子の所業について知っている事にも驚かされる。
「ジュリアーナ様は健やかに美しい姫様に成長されておいでです。兄は、仕事の話はいたしませんが、王家に仕えることが出来て、誇りに思っております」
「そうか」
マスターは抑揚のない声でそういうと、二人に少し待つように言って、ベスの横をすり抜けて別室へと向かった。通り過ぎる際には深いコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。王太子でありながら、職人として働いてきた人の香りだ。
―違う。あの時は、ムスクの強い香りがしていた。あれはやっぱり殿下ではないんだわー
意を決してリッキーに告げようとしたとき、その腕に光るものをみつけて言いよどんだ。
「これって、魔法が込められている?」
「え?あ、これ? これはマスターの娘・光がくれたんだ。ガラス玉をゴムでつないでるんだろうな」
「そうなんだ。でも、なんだか一つだけ力のある石があるのね」
「そうなのか?ベスは魔力も強いから分かるのかもな。光もおまもり石だって言ってたな」
「あの、あのね。」
ベスは躊躇いがちに先日の暴漢に襲われそうになったことを話してみた。
「私、アラン王太子殿下が暴漢なんだって思い込んでいたの。だけど、さっきマスターが隣を通った時、しみついたような深いコーヒーの香りがしていたから、あれはマスターじゃないって確信を持てたの」
躊躇いがちに話すベスと目も合わせず、リッキーは机の一点を見つめてじっと黙り込んでいた。そんなリッキーに不安を覚えたベスが言い募る。
「ごめんね。さっき、リッキーが肩に触れようとしたとき、あの暴漢に会った夜のことを思い出して、とっさに避けてしまったの」
「そんな、そんなことが起こってたのか…。」
リッキーがこぶしを握り締めて怒り出したところに、マスターが第一王子の紋章が入った封蝋が施された封筒を2通持って戻ってきた。そして、それをベスに差し出した。
「これを陛下とクライツ首相に渡してくれ。私がそちらに戻るのに、少し準備が必要だ。それと、もうしばらくリカルドを借りる。この水晶玉で転移の焦点を合わせるのは可能なのだろう?」
「はい。承知いたしました。そろそろ日没の時間です。私は先に戻っております」
そういい終わって、ちらりとリッキーを見て何か言いたげなベスを白い靄が包みこみ、転移は完了した。
マスターはリッキーの手にある水晶玉に目をやった。
「それにしても、これを落としておいてよく僕を探す気になったね、リッキー?」
言われた本人はバツの悪そうな顔でうつむいたが、心の中はそれどころではない状態だ。今、転移して大丈夫だったのだろうか。あいつにもしものことがあったら…。そんなモヤモヤした状態では、マスターがいつもと違う顔で思い悩んでいることなど、気づくはずもなかった。
魔素があるからできたこと、魔素がないからこそ発展したことってあるんでしょうね。さて、次はいよいよ王国が舞台です。