大夢は若年性認知症に罹りあわれ青年奈落の底へー
輝く朝焼けの下、僕は君と手をつないで、朝陽が昇るのを待っている。きらめく太陽が少しずつ姿を現し、辺りはいっそう明るくなる。僕のちょっと悪い頭でも、この時間がどれほど素晴らしいものかわかる。どれほど愛おしいものかわかる。大夢は知的障害者だ。進行性のそれは思った以上に速く大夢の脳を蝕んでいく。健常者の香無菜はそんな大夢を愛している。一緒にいられる時間がそれほど長くは無いことを知りながら。
「出会い」
5年前―
大夢は17歳、高校2年生だった。当時、知的障害は大夢にはまだ発現しておらず、平常の日常を送っていた。大夢は身長が183cmあり、恵まれた体格をしていた。その体格を活かし、大夢はバスケットボール部に入った。インターハイで優勝したこともある強豪校だ。裕也が大夢にパスを回す。大夢はそのままドリブルして、ディフェンダーをフェイントでかわすと、レイアップでシュートを決めた。歓声が沸き起こる。気持ちが高ぶり、身震いした。この瞬間がたまらなくてやっている。朝練、夜8時までの練習はきつかったが、やるだけの価値はある。大夢は自分が何をしたいか、何になりたいかわからなかったが、バスケにだけは夢中になれた。大夢は勉強も頑張った。夜9時から深夜2時、3時まで勉強した。睡眠時間は3時間くらいだった。それでも将来の為、部活と勉強を両立させようと必死だった。
裕也は同級生で親友だった。昼休み、よく駄弁りながら弁当を食べた。裕也が大夢をいじるのが常で、よく絡んできてはプロレス技をかけたりしてじゃれあって遊んだ。
「おい大夢、隣町の病院跡の廃墟に出るのだってさ」
「出るって何が」
「バカ、出るって言ったら幽霊に決まっていんじゃん、今夜、肝試しに行ってみようぜ」
「今夜って部活もあるし、勉強もあるし」
「バカ、一日くらい体調不良とか親戚が亡くなってとかいってバックレても構わないよ。勉強ばっかしてっと馬鹿になるぞ。たまには気晴らしに行こうぜ」
「まあそれもいいか」
その日の夜、大夢は裕也の家へ行った。出てきた裕也の影に一人の少女がいた。
「こいつ、幼なじみのカンナ。男だけで肝試ししてもつまんないから連れて来た」
香無菜は同じ高校の1年生だ。大夢との最初の出会いだった。3人で隣町の病院跡地まで自転車で行った。病院が見えてくると、嫌な感じがした。月明かりに浮かんだ病院は、黒い影を孕んでおり、うっそうと生い茂り壁を伝う木々の蔦が不気味だった。病院の前まで来ると自転車を止めた。
「ここで、医療ミスによる入院患者の死亡事件が2件立て続けにあって、閉院したらしい。点滴による薬物投与量を10倍にしていたらしくて、業務上過失致死傷で看護師が刑務所に入ったって聞いているけど今は定かではない」
香無菜が怖がる。「嫌だ。怖い。止めようよう」
「バカ、ビビってんじゃねえよ」
裕也がスタスタと病院の敷地内に入っていく。
残された二人は顔を見合わせたが、裕也のあとに続いた。病院の玄関のドアは裕也の言った通り施錠されておらず、簡単に開いた。裕也の持つ懐中電灯の明かりを頼りにゆっくりと中へ進む。「ここが診察室だ」中に入って辺りを見回す。「何もないな」あるのは大きな机と椅子、患者が座る小さな椅子がポツンとあるだけだった。「病室へ行ってみよう」裕也が先導する。「もう止めようよ」香無菜がしきりに怖がる。2階に上がる階段を上り、病室が並ぶ廊下へ出た。死亡者が出たと言われる203号室の前で止まった。「ここだ。ここで事件があった」裕也がゆっくりとドアを開けて、中へと入っていく。裕也が先頭、香無菜が真ん中、しんがりが大夢だ。3人で病室の真ん中に突っ立って、身じろぎもせずにいた。病室には6台のベッドが未だに据えられていた。背後でカチャリとドアの閉まる音がした。
「大夢、ドア閉めたか」
「いや、閉めてないよ」
「やべえ」
その時、裕也の足元の床が抜けた。片足を丸ごと床下にもっていかれた裕也が悲鳴をあげた。「ひいいいい」裕也は全力で足を引き抜くと、ダッシュで逃げ出した。
「おい待てよ。暗くてわかんねえよ」大夢が叫ぶ。香無菜が泣き出した。怯えて足がすくんでいる。大夢は香無菜の手を握ると手探りで病室を出た。暗闇の中を香無菜の手を引いて、少しずつ歩く。目が闇に慣れてきて、早足になる。ふっと何かが大夢の頬を撫でたような気がした。背筋が凍った。
外に出ると、裕也が半泣きで立っていた。「足痛いよ。俺帰る」さっさと自転車に乗りそこから立ち去った。震えている香無菜を見て大夢が肩をさすってやった。何回も何回も。
翌日、裕也は学校を休んでいた。休み時間に香無菜が教室に来て、大夢と喋った。
「裕也やっぱり来てないかあ。昨日は取り乱してごめんね。私、ホラーとか苦手だから。行くのじゃなかった。トラウマになるよー」大夢も昨晩はなかなか寝付けず、寝不足気味だった。それでも朝練には参加した。
「そうだ。行くべきじゃなかった。ひどいものだった。肝試しなんてろくな事無い。しかし裕也の奴、女の子みたいに絶叫していたなあ。キャーって。」
「そう、今思い出すとうける。私、帰りに裕也の家寄ってみるね。取りつかれてエクソシストみたいになっていたらどうしよう。じゃあまた。」
香無菜が裕也の家に行くと、左足を包帯でぐるぐる巻きにした裕也が出てきた。
「参ったよ。捻挫だってさ。俺、幽霊に足引っ張られたのだよ。やばかったな。ごめんよ、先に逃げちまって。あまりにも驚いたから。いや心底びっくりしたのだ。怖くはなかったよ。ただ、びっくりしてさあ」
結局、裕也は3日間、学校を休んだ。久しぶりに大夢に会うと、開口一番まくしたてた。「大夢、あれはひどかったよ。散々だった。捻挫してさ、まともに歩けなかったのだよ。幽霊に足を引っ張られたのだぜ 。足に幽霊の手形が残っているのじゃないかって、散々足を見回したよ。取りつかれなくて良かったよな、カンナとも話していたのだけど、ああいうので、死んだり、行方不明になったり、精神病院送りになったりすること結構あるのだってさ。まじやばかったよ」
「バーカ、建物が老朽化して朽ちていて床が抜けただけだよ。幽霊なんかいるものか」大夢はそう言ったが、頬を撫でられたような、あの感触がまだ残っているといったことは言わなかった。
それからというもの、香無菜が大夢達の教室に来て3人で喋ることが増えた。物理の先生最悪とか、中間テストの結果どうだったとか、昨日のドラマどう思ったとか、ドラマの話題には時間の無い大夢はついていけなかったが、他愛も無い話ばかりだったけど楽しかった。香無菜はクリクリとしたよく動く眼で、よく笑った。
「大夢さんは大学に進学するのですか」一度確信的な事を聞かれたことがある。大夢は「まだ決めてないけど、たぶんね」とはぐらかした。
2学期が終わり、冬休みに入った。12月24日の終業式の夜、3人はクリスマスパーティーを裕也の家でやることにした。料理は裕也の母がふるまい、ケーキを大夢と香無菜が調達することにした。2人は街のデパートの前で待ち合わせた。香無菜は白のタートルネックにブルーのダッフルコートとチェックのロングスカートで現れた。デパ地下のケーキ屋で2人はなかなか決められずにいた。
「これ可愛い。デコレーションがインスタ映えする」
「えー、このでかいのがいいよ。3人で食べるのだから、これくらいでかくないと」
結局、香無菜の選んだ映えするケーキを買って、裕也の家へと向かった。途中にある商店街を歩くと、クリスマスイブの準備に勤しむカップルや家族連れが行きかい、騒めいていた。そんな人々とすれ違う度に大夢もどこか気分が高揚した。
裕也の家に着くと、裕也がサンタの帽子を被り白髭をつけて現れた。
「ダサッ」
「何被っているの、脱ぎなよ」香無菜が軽蔑の眼で見る。
「ちぇっ、せっかく盛り上げてやろうと思ったのに塩反応かよ」
裕也の母が作った手料理がテーブルの上に所狭しと並んでいる。メインは中央に据えられた丸鶏のローストチキンだ。生春巻と大きなサラダもある。母は女友達と飲みに行くということで、いそいそと出掛けて行った。「若者は若者だけで楽しんで」
まずはシャンパンを開ける。裕也がコルク栓をにじりにじりと押し出すと、ポンと大きな音を立ててコルク栓が飛んで天井に当たった。「おおおっ」歓声があがる。
裕也が鳥を切り分ける。肉汁が溢れ出て更に食欲をそそる。一口食べると濃厚な旨味が口いっぱいに広がり、それはそれは美味だった。生春巻きにはニョックマムを漬けて頂く。この魚醤のコクが、ライスペーパーにマッチしてそれに包まれた蒸しエビと野菜の味を引き出しこれもまた美味だ。
「おまえの母さん、料理天才だな」
「ほんと、どれもすごく美味しい」
「ああ、若い頃、料理学校に行っていたらしいよ」
一通り料理を食べ尽くすと、次はケーキだ。ローソクを立てていく。
「クリスマスケーキに立てるローソクの本数ってなんか決まりあるのかな」
「イエスキリストの歳の数だけ立てるとか」「特に決まりは無いらしいよ。海外ではローソクは立てないって」香無菜は物知りだ。4本のローソクを立て、火をつけた。室内の明かりを消すと、幻想的な雰囲気になる。
裕也が言う「歌でも歌う?きよしこの夜とか、ジングルベルロックとか」
「歌うかよ」「歌わないでしょ」
香無菜の顔が、ローソクの揺れる灯りに照らされて、夜の中に浮かんでいる。その容姿には神聖な美しさが佇んでいる。
「写真撮るよ。インスタに載せるからね」香無菜がスマフォで上や横から写真を何枚か撮った。お気に入りのケーキの写真が撮れてご機嫌だ。
裕也が、食後の紅茶を入れてくれた。ダージリンティー、けっこういい代物。
「これ、紅茶に入れるとうまいのだぜ」裕也がそう言って持って来たのは親父の書斎からくすねてきたヘネシーⅤSOP、2万9千円のブランデーだ。1cmくらいずつ入れていく。
「いい香り。美味しい」
「確かにうまいな。ヘネシーすごいな」
しばらく喋って、大夢と香無菜は裕也の家を出た。香無菜の家は3軒隣にある。街路樹に施されたイルミネーションが青、緑、黄色に点滅していく。少し酔ったのだろうか、香無菜が大夢の左手を握って言った。「肝試しの時、手を握って引いてくれてありがとう。怖かったけど嬉しかった」そして手を離すと走って家の中へ入って行った。
年が変わり、2月になった。香無菜は大夢に渡すチョコレート作りに奮闘中だ。ガトーショコラを作っているのだが、ボロボロと崩れたり、固くて歯が立たなかったり、試行錯誤した。ようやく出来たガトーショコラを綺麗にラッピングして、大夢に渡した。大夢は驚いたが、照れながら快く受け取った。
「予兆」
ある日、大夢は帰宅途中の橋のたもとでチュウチュウ鳴いているものに出くわした。近づくと大きなネズミだった。今時、ネズミなんて珍しいなと思っていると、いきなり茶色い毛並みの猫が走って来てネズミに襲いかかった。ネズミも負けてはおらず、取っ組み合いの乱闘になった。大夢はこんなのに巻き込まれてはかなわないと思い、その場を去った。少し歩くと、別の猫が仰向けになり、血まみれになって死んでいた。やはり茶色の猫だった。親子だろうか。チュウチュウという鳴き声が背後から大夢を追いかけてきた。噛まれると変な病気を移される可能性がある。大夢は走って逃げた。とても恐ろしかったし、気味が悪かった。家に駆けこむと、新聞受けの隙間から外の様子を窺った。ネズミはいなかった。家の何処か隙間から侵入してくるのではないかと思い、嫌な気持ちがした。
夜中の1時、暗記したばかりの英単語が思い出せない。英単語が表記された例文の挿絵は思い出せるのだが、肝心の英単語が思い出せない。そのうちその挿絵の記憶も2匹の猫の血まみれの死骸の情景に変わって、大夢は辟易した。まだ勉強を続けるか、いっそ寝てしまおうか。大夢は思案したが、結局、ベッドに崩れるように寝てしまった。夢を見た。あのネズミが足に喰らいつき、離れない。殴っても蹴っても離れない。足からおびただしい血が滴り落ちる。手で掴んで振り払おうとすると、今度は手に噛みついてきた。手から血が噴き出す。「ああああああああ」大夢は叫び声をあげ、自分の声に驚いて目を覚ました。
ホワイトデーに大夢は香無菜をデートに誘った。映画を観た。盲目の女性が主人公の純愛ものの邦画だった。バイオレンスもあり、かなり良くできた映画だった。もう1回観たいねと言い合いながら映画館を出て、近くのカフェに入る。
「これ、お返し」大夢は市販のクッキーの入った袋を香無菜に渡す。
「カンナは進学組だろ。俺も一応そうなっているけど、最近、成績が伸び悩んでいるというか少しずつ落ちて来ていて。前と同じ以上に勉強しているのに何でだろうな」
香無菜は少し考えたが、わからなかった。
「時の運というのもあるからあまり気に病まない方がいいのじゃないかな」それくらいのことしか言えなかった。
「勉強していると微熱が出るのだよな。37度5分くらいだけど。そうなるともう何も頭に入ってこなくなって」
大夢が高3になると、成績は学年でも底辺の方まで落ち込んでいた。両親が心配して家庭教師を付けたり、塾に行かせたりしたが、成績は上がらず、理由もわからなかった。
「頭しんどいな。体熱いな」そう言うのが口癖になった。
香無菜とは度々、学校の近くの公園でブランコに座って喋った。裕也がまた馬鹿をやったとか、体育の授業のマラソンきつかったとか、そんなたわいもないことばかり長い間喋った。大夢は成績が急激に落ちたことで、部活動を休部していた。本当は塾へ行く時間なのに香無菜と一緒にいたかった。
大切な実力テストで大夢は学年ワースト3の結果を出してしまった。その日の帰り、また香無菜とブランコに座っていた。大夢はさすがに落ち込んでいて、元気がなかった。
「俺の頭狂ったよう。前に覚えたこと、数式も英語も物理の法則も何もかも忘れてしまった。俺の頭狂った。俺の頭狂った。俺の頭狂った。俺の頭狂った。俺の頭狂った」泣きながら連呼する大夢に香無菜はどうすることもできなかった。ちょっと怖くなって、「今晩よく寝たら、明日は気分も晴れるよ。もう帰ろう」そう言って立ち上がると大夢が香無菜の手を掴んだ。「傍にいてくれよう。傍にいてくれよう。傍にいてくれよう」大夢のこんな情けない姿を見るのは初めてだった。しばらくの間、大夢の手を両手で握ってやった。クラスの男子生徒達が見えたので慌てて手を振りほどいて香無菜は走って行った。
家に帰ってベッドに寝転んだ。「どうして香無菜にあんなこと言ってしまったのだろう」後悔した。自分が嫌になった。喉が渇いたので冷蔵庫を開けるとビールしか入っていなかった。「もうビールでもいいや」大夢は缶ビールをプシュッと開けると、ごくごくと一気に飲み干した。またベッドに横たわると、脳がリラックスしていい気分になった。そのままうとうとと寝てしまった。夜中に目が覚めた。ひどい頭痛と吐き気がした。トイレで吐いた。胃液しか出なかった。気持ち悪くて眠れなかった。翌朝になっても気分が悪く、その日は学校を休んだ。裕也と香無菜が学校の帰りに見舞いに来てくれた。
「実力テストの結果のせいで落ち込んでいんだって?」
「大丈夫?」香無菜が心配そうに顔を覗かせる。
「いや、昨晩ビール飲んじゃって二日酔いで。参ったよ。まだ頭が痛い」結局、その日一日中寝て過ごして、夜には少し楽になった。勉強しようという気はまるで起きなかった。どうせ覚えられないし、すぐ忘れてしまう。「本当に俺はどうなったのだろうか」ふいにあの夜、肝試しの夜、頬を撫でられた感触を思い出した。「呪い?そんなわけねーか」一笑してまたベッドに横たわった。
そんな時、大夢は事件を起こした。同学年のバスケットボール部員にからかわれたのだ。「へーい大夢、お前馬鹿になったのだってな。部活も辞めちまってダメダメ人間だな」
体が大きかったので誰が相手でも怯まなかった。そいつの胸倉を掴むと力一杯突き飛ばした。相手は吹っ飛び、黒板に頭を強打した。そして気を失った。それがひどい問題になった。すぐに意識を取り戻したが、狂乱し、喚き散らして騒ぎ立てたのだ。数人の教師に囲まれて大夢は黙った。執拗に尋問が行われたが、黙秘した。結局、2週間の停学処分となり、大夢の経歴に傷がついた。それ以来、大夢は引きこもるようになった。学校には行ったが、誰とも話さなくなった。成績も底辺を彷徨った。大夢にとって香無菜だけが、現実の世界とを繋ぐ綱になった。
「高校はちゃんと卒業するよ。そして就職する。どこの会社が雇ってくれるかわからないけど」
「告白」
大夢は高校を卒業すると、地元の建設会社に就職した。道路や橋の土木工事を行う会社だ。体が大きかったので、すぐに現場に配属された。最初に就いたのは橋梁工事の現場だった。日中の現場作業は体力勝負の仕事だが、どうってことなかった。しかし、それが終わって事務所に帰ると、その日の施工の進捗報告や数量計算、翌日の施工計画等の仕事が待っていた。何よりもその煩雑さに大夢は閉口した。知的障害が始まっている大夢にとって、それはいっそう過酷なものだった。仕事は深夜にまで及んだ。家に帰って寝るだけの日々が続いた。香無菜も受験勉強が本格化して忙しくなり、たまにしか会うことはなかったが、ラインのやり取りは毎日した。1年が過ぎ、香無菜は高校を卒業して地元の国立大学の心理学科に進学した。臨床心理士になるのが夢だ。一般教養課程は楽なもので、香無菜もテニスサークルに入るなど、キャンパスライフを楽しんだ。2週間に1度程度は二人で会って遊んだり食事したりした。たまに大夢が途中で寝てしまうことがあったけど、「忙しくて疲れているのだな」と香無菜は思った。
6月8日は香無菜の二十歳の誕生日だった。大夢と香無菜は高級なフレンチレストランで誕生日を祝うことにした。半年前から予約をしなければならない程の人気店だった。当日、大夢はチャコールグレーのスーツ姿で現れた。香無菜はフォーマルなダークブルーのドレスで着飾っていた。香無菜はブルーが好きだ。店に入って予約を告げると、ホールスタッフが恭しくテーブルへと案内した。大きなテーブルにキャンドルが設えられ、輝くフォークやナイフが並んでいた。
食前酒のシャンパーニュを飲むとオードブルが出てきた。キャビアを中心とした色とりどりのカナッペだ。スープが出され、魚料理には金目鯛と真鯛のポワレが出された。どれも美味だ。食事の内容に合わせてグラスワインを頼んだ。ソルベが出て、メインの肉料理には仔牛とフォアグラのロッシーニが供された。大夢はフォアグラを初めて食べた。こんなに旨いものがあるのかと思った。そしてフロマージュが出され、デザートへと進んだ。大夢はエスプレッソ、香無菜は紅茶を頼み、一息ついた。
「これ誕生日プレゼント」丁寧にラッピングされた小さな箱を大夢は渡した。
「開けていい?」
ベルベットの箱に入っていたのはダイヤのネックレスだった。
「すごーい。高かったでしょ。ありがとう。大切にするね」
大夢はエスプレッソを飲み干すと切り出した。「折り入って話があるのだけど」
「なになに?」
「カンナ、君のことが好きだ。付き合ってくれないか」率直過ぎて気が抜けるほど素直な告白だった。
「いいよ。何?私の方が先に大夢のこと好きになったんだよ。今更?」香無菜は嬉しそうに笑った 。店を出るとどちらからというわけでも無く、自然にハグを交わした。
それからは出来るだけ二人で時間を作って、最低でも1週間に1回は会うようにした。
「知能の空洞化」
「所詮、はくちには無理だな」先輩社員に揶揄されて、大夢は頭がカーッと熱くなった。掴みかかろうと一瞬思ったが、自分はもう21歳だ。社会人だと考えて止めた。午前3時、事務所で昨日の数量計算をしている。数が合わない。また微熱が出ているだろう。いや、38度くらいにはなっているかもしれない。大夢は椅子に身を委ねたまま眠ってしまった。翌朝の7時、上司に散々罵られた。
数日後、大夢は大きなミスを犯す。重要な資材を発注するのを忘れていたのだ。その為に工期が1週間遅延した。上司に言われる。「お前病気なんじゃないのか?一度病院に行った方がいいぞ」大夢は翌日、有給を取って病院へ行った。認知度の検査を受けた。結果は要介護3に相当する認知症もしくは知的障害だった。頭部MRIの検査も受けた。脳に空洞が見られた。高度若年性アルツハイマー型進行性認知症、それが医者の見立てた診断結果だった。大夢は会社を休職して入院した。香無菜が毎日見舞いに来てくれた。病室で大学の勉強をした。
雲海が眼下に水平線の向こうまで広がっている。初日の出を観に二人は苦労して登山してきた。今、陽が昇ろうとしている。大夢は香無菜の手をしっかりと握りしめている。陽が雲の上に姿を現すと、歓声が上がった。美しかった。大夢はこの光景を眼に焼き付けた。香無菜はもう2度と大夢とこれを見ることも無いかもしれないと思った。
大夢の容態は日を追うごとに悪くなっていった。まず、自分のことを「俺」ではなく、「僕」と言うようになった。しばしば思考の錯乱が診られた。
初めのうちは文意があった。
「おとろし、おとろし、そこにいたのは誰だ。そこにいたのは誰だ。そんな、馬鹿な。そんな、馬鹿な」
「僕のプリン誰が食べたの。僕のプリン誰が食べたの」そう言って泣きじゃくることがあった。そのうち、意味不明な言葉を連発するようになった。
「ゲジゲジ、ゲジゲジ、ゲジゲジがやってくるよ。死で虫、死で虫、死で虫がでるよ。死で虫は怖いよ。死で虫は怖いよ」
「僕チンはゲジゲジだから。ゲジゲジのゲジゲジによるゲジゲジの為の、ゲジゲジ!」と叫んだ。
奇行も目立つようになった。「アジサイが咲いたから。アジサイが咲いたから」と泣きわめきながら、夜中に病院内を徘徊することがしばしばあった。「トピトピキュータクピイートキプュー、トピトピキュータクピイートキプュー、ドルトムントフントカント、ドルトムントフントカント、ダリジキキーダス」ダリジキキー、ダリジキキーダスダリジキキー」などとわめき、狂気とも取れるような言動を繰り返した。後には支離滅裂になった。
それから1年が経過した。大夢の病気は悪化し、「あー、うー」としか言わなくなった。時々「ハハハハハ」と空笑した。香無菜は大学を休学し、看病し続けた。
「ユマニチュード」
香無菜がテレビで認知症についての番組を見ていると、見覚えの無い言葉が目に入った。「ユマニチュード」早速ユマニチュードをネットで検索してみた。1979年にフランスの体育教師だったイヴ・ジネスト氏とロゼット・マレスコッティ氏が創出した哲学、技法で人間らしさを取り戻すという意味がある。その一つにアイコンタクトを取るという技法がある。認知症の人は視野の範囲が狭くなったり、介護する人が近くにいても気付かなかったりすることがある。そこで重要なのが相手の正面に入り、視線をしっかり交わすこと。これを行うとスムーズに意思疎通が取れるようになり、言葉を発しなかった人が再び話すようになった。寝たきりだった人が立ち上がり歩けるようになったという飛躍的な効果が診られるというものだった。実際、88歳のアルツハイマーで寝たきりの言葉も発しなかった老女がこの手法を取り続けることで、歩けるようになり、会話も出来るようになったという動画が掲載されていた。
ユマニチュードには他にも種々の技法があるが、香無菜はアイコンタクトを取る。触れる。余計な事でもいいから視線を合わせて話しかける技法を実践し始める。
「大夢、今日はいいお天気だよ。昼ご飯何が食べたい?」
「あーうー、カレー」いつもカレーとしか言わなかったが。「彼岸花ってどんな花かわかる?」無言の大夢。「今朝、河原をゴイサギが飛んでいたよ。白くて綺麗だった。自然の中にいて、あんなに綺麗にしていられるのって、よほどお手入れしているのね」
無言。
香無菜はしばしば大夢の背中をさすってやりながら、唄を歌った。控えめな声で。
そして1か月それを続けた時、大夢が自分から視線を合わせてくれていることに気づく。
「今日、プリンとカレーライスを食べたい」
「僕、カンナを好き」
やがて片言ながらも喋れるようになり、香無菜の問いかけにも応じるようになる。そして半年後、大夢は退院し、仕事はまだ無理だが、日常生活を送れるようになった。奇跡的な回復だった。ユマニチュードを続けた香無菜のおかげだ。2人は手を取り合って喜び、そして抱きしめ合った。「香無菜、君のおかげだ。ありがとう。やっぱり呪いなんかなかったのだな」「何?呪いって」「何でもない」「大夢が頑張ったからだよ」2人はもう一度抱きしめ合った。
それから3年後、職場にも復帰した大夢は、現場では無く、事務職の方に変えてもらって時短勤務で働いた。そして大夢と香無菜は結婚し、翌年に子供を授かった。女の子だった。名前は芹菜。3人で出掛けて公園で遊ぶのが日課になった。大夢は時々こんがらがることもあったが、脳の空洞化の進行も止まり、普通の生活が出来るようになった。
―了