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ガラスペンを透かせば、君が  作者: 深水千世
桜色の大岡山
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大岡山の朝

 薫の夢は、いつも『これは夢だ』とぼんやり感じるところから始まる。夢の主役にはなれず、まるで映画を撮影するカメラマンのように夢を追うのだ。


 この夜も目の前で幼い女の子が泣いているのを見つめながら、夢の中にいることを悟っていた。その女の子は他の誰でもない、八歳の自分だ。足元には子ども用の分数バイオリンと弓が落ちている。

 ふと顔を上げると、母親の清良が立っていた。幼い自分が泣きじゃくりながら叫ぶ。


「もうバイオリンなんて弾かない!」


 薫は空気のように漂いながら『この瞬間を知っている』とひとりごちた。

 夢の中の清良が「そう」と静かに答える。薫はぎょっとした。清良の顔に浮かんだのは悲しみでも怒りでもない、冷たい笑みだった。


「お母さん!」


 叫んだと同時に、薫は飛び起きた。寝ぼけ眼で部屋を見回し、すぐに「ああ、そうだ、群馬だ」と、ひとりごちる。額はうっすら汗ばんでいた。


 どうして今になってあんな夢を見たのか。どっと疲れが押し寄せ、彼女は深いため息を漏らした。

 あれは自分の過去だ。母親からバイオリンの手ほどきを受けていたが、八歳になって「もう弾かない」と、楽器を投げつけたのだ。あのとき母親は夢の中と同じように『そう』とだけ答えた。


 十年たった今、そのときのことを思い出す日はなくなり、母親がどんな顔をしていたかまでは覚えていなかった。

 夢で見るということは、何かしらのサインかもしれないと、唇を噛む。予知夢とまでいかなくても、自分の潜在意識が夢と化すのはよくあることだ。

 実のところ、彼女は母親がどうしているか気にはなっていた。枕元の携帯電話にはなんの通知もない。両親はそれぞれ気ままに生きているようだ。


 時計は既に八時を過ぎていた。いつもだったら洗濯機を回し終えている時間だ。

 ここはまだ雪の残る札幌ではない。寒さに震えながら母親の朝食を作る必要もない。卒業した今となってはどれだけ朝寝坊しても学校に遅刻することはない。

 好きで札幌に生まれたわけではないし、たまには母親が朝食を作ってくれたらいいのにと文句ばかり言っていた。それなのに、いざ何もしなくていいとなると拍子抜けする。


 着替えを手に浴室に向かおうと部屋を出ると、キッチンの奥からエプロン姿の雅が顔を出した。


「おはよう、薫」


「おはよう……」


「あなた、昨日あのまま寝ちゃったでしょう? お湯、沸かしてあるから入ってらっしゃい」


「あ、ありがとう……」


 卵の焼ける匂いを感じながら、薫は言われるまま浴室に向かう。昨日初めて会ったとは思えないほど、雅の態度は自然なものだった。

 身支度を調えて洗面所から出てくると、リビングで朝食と雅が待っていた。


「薫はコーヒー? 日本茶?」


「ああ、じゃあコーヒー」


「お砂糖は?」


「ブラックでいい」


「まぁ、大人ねぇ。私はお砂糖がなくっちゃ飲めないのよね」


 自分のほうがずっと大人のくせに何を言っているのかと思ったが、からかっているわけではないらしい。のらりくらりと穏やかな口調ではあるものの、そういうところが母の清良にそっくりだった。


 差し出されたコーヒーを味わいながらテーブルを見ると、脂ののった焼き鮭と納豆に嬉しくなった。朝日に白く浮き上がる湯気が、心をほっこり和ませてくれる。

 鮮やかな緑色のおひたしを見つけて、「これは?」とたずねる。初めて見る野菜で、ほうれん草より、もっと細い茎をしていた。


「根三つ葉よ」


「へえ。初めて見た」


「北海道じゃあまり食べない?」


「さあ。私、あんまり料理のレパートリーないし、どう料理していいかわからないものは買わなかったし」


 雅はすぐに自分の娘が料理をしなかったことを察したようだった。


「家事は全部あなたが?」


「うん。お父さんは家に寄り付かなかったから、実質、お母さんと二人の生活だったけど」


 小学生の頃には、すでに父親は何人かいる愛人の家を行ったり来たりしていた。母親も朝から晩までレッスン室にこもりきり。薫が家事をこなすようになるのは自然なことだった。

 それを聞いた雅は食卓を挟み、こう切り出した。


「ここで一緒に暮らすために、いくつか決め事をしましょう。あなた、これからどうするの?」


「どうって……」


「また受験するなら予備校に行くのかしら? あら、でもこっちに来てくれたってことは北海道の大学は諦めたってこと? それとも求職?」


 一気に現実に引き戻された気がしてうつむいた。


「わからないの。なんだか拍子抜けしちゃって、自分が何をしたいのかもわからなくなっちゃった」


「ああ、そうなの。受験勉強なんてどこでもできるものね。就職するのもいいけれど。焦らず決めたらいいと思うわ」


「そうだけど、決まるかな」


「何言ってるの、決めなきゃ」


 呆れたように雅が肩をすくめる。


「ここではあなたは何をしてもいいわ。予備校に行くも良し、何もせずに寝ているも良いでしょう。ただ、アルバイトでもよそで働くなら生活費は入れていただきます。ただし、私の仕事を手伝ってくれるなら生活費は給料から差し引きますから払わなくていいわ」


「本当に?」


 ガタッと腰を浮かせるが、すぐに「いやいや」と座り直す。


「まず教えてよ。おばあちゃんの仕事って何?」


「簡単に言えば管理人ね。今一番力を入れているのが野菜直売所」


「へえ!」


「ここの一階に地元の農家さんの野菜を置いているんだけどね、みんなが作った惣菜と漬物、あと私のおにぎりも売っているの」


 雅の顔がいきいきと輝き、年齢を感じさせないほど溌剌としている。


「すごくやりがいのあることよ。でも、おかげさまで店が賑わってきて、準備をするのも手が回らなくなってきたから清良とあなたを頼ったわけ」


「なるほど、じゃあ私は直売所を手伝えばいいのね」と、薫は小さく頷いた。


「考えてみる。今は何も見えてないから、もう少し周りを見渡せるようになるまで待って」


「ええ、もちろんよ」


 雅がにっこり微笑んだ。


「まずはこの辺りを散策してごらんなさいな。ああ、今日は詠ちゃんが案内してくれるって言ってたわね」


「あ、そうだった」


「待たせちゃいけないわね。さあ、いただきましょう」


 両手を合わせた雅を真似て、薫も「いただきます」と合掌する。思えば、ずっと一人の食卓で『いただきます』と口にすることも久しぶりだった。

 熱い味噌汁が胃袋に落ちると、自然と「はあ」とため息が漏れる。根三つ葉のおひたしを口に入れた途端、セリ科独特の香味と歯ざわりが口いっぱいに広がった。


「クセがあるけど、悪くないね」


 はにかむ薫を、雅が目を細めて見ていた。


 食事を終え、薫が外に出たのは九時のことだった。


「へえ」と、ぐるっと敷地を見回す。昨夜の暗闇ではわからなかった景色が、そこに広がっていた。

 駐車場は結構なスペースがあり、三つある店舗のうち、一番左にある建物は空いているらしかった。中央にある一番大きいのが雅たちの住む建物で、野菜直売所にはまだシャッターが降りている。そして一番右にある建物には『櫻井ガラス工房』という木の看板がたてかけてあった。店はもう開いているようだ。


 視線を店先に移し、薫は口元を緩ませる。店の前に置いてあるベンチに二匹の猫が寝そべっていたからだ。小柄で薄い色合いの三毛猫と、ちょっと太めの白とグレーの猫だ。


「可愛いなぁ」


 そろそろと忍び寄ると、二匹はひょいと顔を上げて薫を見た。だが、すぐに興味なさそうにまたぐでんと伸びる。

 猫たちは近寄っても逃げる気配がない。ただ、『あんた、誰?』とでも言いそうな目でちらりと見たきり、尻尾を揺らしている。

 猫を横目に店へ入ろうとすると、先にドアが開いて詠人が顔を出した。


「おはよう! よく眠れた?」


 朝からテンションが高い。苦笑しつつ「おはようございます」と返す。

 詠人の姿に気付いた猫たちが一斉に起き上がり、「にゃあ、にゃあ」と鳴きながらすり寄った。


「わかってるよ。はい、どうぞ」


 彼は手にしていた皿を置く。猫たちは黙々とキャットフードを頬張り始めた。


「紹介するね。うちの看板猫だよ。三毛猫が『ウメ』で、グレーとホワイトの子が『タイコ』だよ」


「ネーミングセンスが和風ですね」


「正式な名前は『紀州梅』と『明太子』なんだけどね」


「あ、もしかして、おにぎり?」


「ご名答! 昨日のご馳走に、雅さんのおにぎりあったでしょう? 美味しいかったでしょう!」


 おにぎりと聞いて、軽自動車に乗った客におにぎりを差し入れた大輝の姿を思い出した。

 なぜ、雅はすぐにおにぎりを包み、大輝に持たせたのか。そしてなぜ大輝が話をしただけで不協和音が止んだのか。


『もしかして二人ともわかるの?』


 自分に不協和音が聞こえるように、もしかしたら彼らもなんらかの方法で危険な存在に気づくのだろうか。

 大輝を問い詰めてみたい気もした。けれど彼は少しとっつきにくい。

 そう考えたとき、詠人が「そうだ」と手を打った。


「ごめん、今日ね、店番する日だったの忘れてたんだ。代わりに大輝が大岡山を案内するから許して」


 うっと言葉に詰まる。大輝とまた二人きりになるのはなんとなく気が重かった。しかし詠人はそんな様子に気づくこともなく、話し続ける。


「この山は親水公園もあるくらい水が綺麗なんだ。高楯湖たかだてこってダム湖もあってね、自殺の名所なんだけどねぇ」


 薫は口をぽかんと開け、その言葉を聞いていた。

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