臆病は消化されました
イメージした花、オシロイバナの花言葉は「臆病」らしい。
降り注ぐ太陽光、若草がいっぱいの絨毯。黄色、赤、白、紫と、あちこちにちりばめられた小さな花。
その中にぽつりと立っていたのは、多分、俺だった。
俺は、自分のほかに誰かがいないかと不安に思い、キョロキョロと周囲を見回した。けれどあるのは、映画の舞台にでもなりそうな草原があるだけだった。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても。同じ風景写真を張り合わせたように同じ景色が続くばかりだった。
どっしりとただずむ大樹の前にあった、赤く細長い蕾。
遠くからでもかなり大きいとわかるその蕾は、他の小さな花々よりも、俺の目を引いた。心が惹かれて、その蕾に近づいていくと、だんだんとその蕾を見上げるようになっていった。だらりと下に垂れ、先の部分がわずかに膨らみを見せている。朝顔の蕾に似ているなと感想を持ったが、何の花なのかはわからなかった。
近づくと、わさわさと茂る葉の中心に鎮座しているその蕾の大きさは、一層恐怖を呼んだ。もしもこれが、花開き、人間を食べる花だったらひとたまりもないな、と、過った考えに背を震わせて、かぶりを振った。
その赤い蕾の真下にたどり着くと、大きな蕾と同じような形の蕾がいくつもあった。大きさはそれぞれ。普通の花の大きさから、金平糖ぐらいの大きさのものまでさまざまで、色もバラバラだった。たくさんの蕾の中、もう一度、一番大きな蕾を見ようと首を反らした。
すると、降り注いでいたはずの太陽の光がふっと消えた。舞台上の照明が落ちたかのように、あたりが暗闇に包まれた。そのことに驚き、上を見上げたままでいると、だんだんと空が姿が見えてきた。
ただ、今の空は、橙、青、灰色のグラデーションがかかっているようで、まるで夕暮れ時のようだった。一瞬で空の色が変わるという不思議な現象にあっ気にとられていると、俺と空とを遮る様にして、ぬっと、大きな物体が目の前に現われた。
そして次の瞬間、迫ってきたその物体に、俺はパクリと食べられた。
◆
目を覚ますと、Tシャツも掛け布団も汗でぐっしょりとぬれていた。心臓はドックドックと騒ぎ立て、止まらない冷汗に触れる空気に寒さを覚えた。夢だったのかと安堵して、ふぅ、と息を一度吐き出すが、胸のざわめきは止まらなかった。身体を起こし、数度深く呼吸をして、心を落ち着かせるよう伸びをした。
たかが夢。されど夢と、思い込もうとしたが、モヤモヤとしたものが心に残った。
そのモヤモヤを取り払えないまま朝食を食べ、身支度をする。
徒歩で十分もかからない学校までの道を、いつにも増して思い足取りで歩いた。門をくぐり、靴を履き替えて、教室に着く。
おはよう、おはようと、あいさつの飛び交う教室の中で、適当な返事を返しながら席に着く。窓際、一番後ろの席。皆がうらやむこの席は、先週行われた席替えで与えられたばかりだ。授業中、ぼーっと外を眺めるのもあり。手で顔を隠しながらの居眠りもしやすいし、あてられにくい。いいこと尽くめだと思われているこの席を、俺も最初は喜んでいた。
けれど、最近気が付いた。
一番後ろ、一番端のこの位置からは、クラスの皆のことが見渡せる。
例えば、伊藤は鹿島をしょっちゅう見ているとか、授業中、机に隠してスマートフォンを弄っている笹本と中島は、よく目を見合わせて声を出さず笑っている。伊藤は鹿島を好きなのだろうし、笹本と中島は、メッセージアプリでいつでも会話を楽しんでいるのだろう、仲の良いこった。
と、こんな感じで良いことも、悪いことも見えてくる。
その中でも、一番最悪だ、知りたくなかったと思えることが一つある。
それは、立花尚音に、見えたことだった。
立花は同じクラスで、色が白く体格も細い。あまり話したことはないが、先生の話によると、小さい頃は大病を患っていたらしい。今はほとんど完治してはいるものの、あまり激しい運動はできず、体育の時間はいつも見学。
一見すると女子と間違えられそうなほどに、かわいい顔をしていて、ついこの間、男の先輩から告白された……とかいうことを、うわさで聞いた。
そんな立花は、どうもイジメに合っているらしいと気が付いた。イジメなんて一つもない平和なクラスだとばかり思っていたが、それは、俺が気が付いていないだけだった。確かに立花は、いつも一人で行動していて、昼休みもどこかへ消える。けれど、元病弱少年といえば図書室か、保健室だろうという勝手なイメージから、俺は気にしたこともなかったのだ。
けれどこの席になって、はっきり見えるようになってしまった。
前から三番目の席の立花は、授業中、ゴミや、消しゴムのカスを投げつけられている。プリントを前から渡されたとき、立花だけ飛ばされてプリントが回らない。立花がいないすきに集まった何人かの男女が、勝手に机の中を漁る。教科書やノートに勝手に何かを書かれていたようで、帰ってきた立花は、ノートを開いた次の瞬間、顔を真っ青にさせていた。
何かを隠されるのは日常茶飯事なようで、よく教室中を歩いて回り、何かを探すように歩いている。その時、立花が真っすぐに向かう先は、まずゴミ箱だ。それも、ここ数日で気が付いた。
そして昨日のことだが、朝、俺が教室に着くと、そこにいたクラスの皆が騒いでいた。キャー、という女子の甲高い声に、ワハハという笑い声。それに混じって聞こえる言葉。
「きも……。」
「なにー? 立花はぁ、死んだ虫が友達なのー?」
「やだー。」
「なんで、おまえ、一緒に死んでやらなかったんだよ。」
というようなものばかりだった。
学校に来ていたクラスのほぼ全員が、そう言って立花を指さして笑っていたのだ。どうやら、虫の死骸が、立花の席か、机の中にあったらしい。
きっとそれは、その時立花を指さして笑っていたやつらの中にいる誰かの仕業に決まっている。それを皆も分かっているというのに、笑っている。そんなやつらを見て、俺は初めてイジメというものの恐ろしさを目の当たりにした。俺が驚愕して教室に入れないでいると、一人の女子が声をあげた。
「立花って、残酷―。死んでるからって、虫、ゴミ箱に捨てちゃうわけ?」
ひときわ大きく、高く響いた声に、俺は直感した。
こいつがリーダーか、と、そのときにすぐにわかった。
確かにゴミ箱は可哀そうだが、他にどうしろというのか。
埋めてあげろとでも言うのかと思うと、俺はだんだんと怒りが湧いてきた。けれど何も言うことは出来なくて、ぐっと奥歯を噛みしめる。
そうしているうちに、笑いと嫌みにあふれる空間から、立花は走りながら逃げていった
そして、一時間目が始まる前に、立花は戻ってきたのだ。
◆
壁も床も天井も赤い空間に俺はいた。右も左も、上も下もわからなくなってしまう赤い空間に俺は座っていた。
きっとこれは、昨日食べられた夢の続きなのだと俺は思った。昨日俺を食べたのは、きっと、あの時の大きな蕾が花開き、俺を食べたのだろう。そして昨日と違って、真っ白い猫が一匹、俺の隣にいる。その猫は、顔を隠すようにして丸まって、眠っている様子だった。
他には何も見当たらない。ただ赤しかない世界の中に唯一ある、猫の白い色に俺はほっと安堵した。少しぐらいなでてもいいだろうかと、そろりと猫の背中に手を伸ばす。すると、その白い猫の丸い背中がピクリと、動いた。その動きを見た俺は、伸ばそうとした手を止める。すると猫が、ゆったりと顔をこちらに向けた。猫は、ただ黙って俺を見上げているばかりで、猫からは拒絶も何も、感じられなかった。そのまま手を伸ばせば、触ることも可能そうだとは思ったが、俺は、猫をなでることはできなかった。
◆
「あ、柴田くん。さっき、斎藤先生が呼んでたよ? レポート提出してないの、柴田くんだけだって、怒ってた。」
さて帰るか、と、教室を出ようとしたところで、俺は呼び止められた。
ふんわり、にっこり、といった風にほほ笑みながら、俺に話しかけてきたのは、太田志保だった。太田は、昨日立花に残酷と言った女子だ。
「あっ! 忘れてた、締め切り今日だっけ?」
と、ふだんの調子で太田に返す。
「昨日だよ。でも、一日待ってくれるなんて、斎藤先生優しいよね。早く行ってあげなよ。」
今、目の前にいる太田は、昨日の太田とは別人のようで、優しい表情を浮かべている。
特別美人とか、そういうわけではないが、優しい。そして、雰囲気がかわいらしいと、クラスの男子の中でも人気がある女子だった。俺も興味こそはなかったが、きっと性格もいいのだろうと思い込んでいた。なので、昨日の太田の言動には心の底から驚いた。今も、正直、うーわ、と思っているが、それを表に出すわけにはいかないだろうと、普段通りに振る舞った。
職員室に寄って、斎藤先生にレポート提出のことで謝り、小言を食らう。斎藤先生の小言は、そこまで多くないので、三分もたたない間に終わった。明日朝一番に提出するという約束をして、職員室を出る。職員室を出て昇降口へと向かい廊下を歩く、下校時刻にはまだ早い。運動部のかけ声に、吹奏楽部の楽器の音。廊下を走る生徒の足音など、いろいろな音が木霊する校内。
その音に混じり、上の階から、微かに叫び声が聞こえたような気がした。
その叫び声が気になってさっき降りた階段を上った。嫌な予感と、急く気持ちに駆られて、知らずと足は早足になったトントン、ドンドンと、階段を蹴る足にも力が入り、音が大きく響き渡った。
そして、屋上に行く階の階段の踊り場に着いた時、俺は言葉を失った。
「……あぁ、柴田か、どうした?」
どうした? は、俺のせりふだった。
そこにいたのは立花で、上半身が脱がされていた。かすり傷一つない奇麗な顔とは対照的に、脇腹、胸、腕と、あらゆるところがうっ血している。大きくて歪な円を描いている紫のあざと、赤く擦れた様な傷。腕もところどころが赤くなっていて、唇の端からは、真っ赤な血が垂れていた。立花がつかんでいる制服のシャツとネクタイは、大きく切れ目が入りボロボロになっていた。
「ごめんごめん。大丈夫、なんでもないよ。けがもたいしたことないし。」
と、言って笑った立花は、涙も、憎しみの欠片も見せず口角を上げて、ほほ笑んだ。その笑顔は、太田のほほ笑みなんて紛い物だとわかるぐらいに、俺には優しく感じられた。
そして立花はさっと立ち上がり、切られずに済んだらしいブレザーを羽織り、階段を降りて行った。
◆
俺は、今日もまた赤い空間にいた。俺の隣には、昨日もいた真っ白い猫が、俺の隣で毛づくろいをしている。でーんと足を開いて、おやじ臭いポーズを取りながら、ペロペロと腹やら足やらの毛並みを整えている。
そして、俺の反対隣には、俺の両手ぐらいの大きさの白い皿が一枚あった。その皿の上には、百円玉ぐらいの大きさの白い花の蕾が一つと、文字の書かれた紙が一枚乗っている。
――臆病なんて食べちゃいましょう――
と、紙には書かれているが、意味がわからなかった。よくその花の蕾を見てみると、その形が、俺を食べた花の蕾の形とよく似ていた。その花の隣にあった一枚の紙。その紙は、名刺ぐらいの大きさで、葉書のように、少ししっかりとしている素材でできているようだった。何気なくその紙を裏返した。
――この花が、あなたの「臆病」です――
と書かれていた。
両面に書かれた文字の意味を組み合わせ、意味を考える。
この花が、俺の「臆病」。
「臆病」なんて食べちゃいましょう、ということは、この花を食べろということらしいと、考えついた。
花なんて食べられるのかと考えた俺は、正直、迷った。
きっと、絶対おいしくなさそうだし、真ん中の、にょんと細く伸びている雌蕊、雄蕊あたりを食べるのはどうも気持ちが悪そうだった。目を細めながら、その花をじっと見ていると、あぐらをかいている俺の上に、白い猫が、のそりと乗ってきた。そして、緩くとがった鼻先を、ふんふんと動かしている。その鼻先は、皿の上の白い花を示しているらしかった。どうやら、この猫も、この花を食べろと言いたいらしいと、俺は思った。
「わかった、わかったよ。」
と、白い猫に向かって言った。すると猫は、後ろ足で、俺の太ももを蹴り上げて、俺の肩の上に乗ってきた。思った以上に痛かった猫の蹴り。その脚力に、いだっ、と声を上げながらも、俺の頬に顔をすり寄せてくる猫相手には、怒ることができなかった。
すりすりすりすり……。と、延々と繰り返される猫の頬ずりに、抱いていた緊張感がわずかに緩んだ。そして、俺は、その白い花を手に取って、口に入れた。もぐもぐもぐもぐと食べると、味は特に感じられなかった。苦さも、甘味も、塩味もない。ただ、口の奥から花の先まで、甘い香りだけは広がったのだ。
◆
俺のクラスでの立ち位置は、ごくごく普通の、クラスの一人。
当たり障りなく付き合って、必要以上にはべたつかない。秀でて目立つ何かもない俺は、敵視もされないし、特別好かれることもない。それで十分。平和に学校生活を送れればいいと、そう思っていた。
あんなに派手なイジメを立花が受けていなどと気にも留めていなかった俺。自分のクラスでそんなことがあるなどと考えてもみなかった俺は、気が付いた時、どうしようかと迷っていた。
もし、立花をかばおうとすれば、今度は俺が、同じ目に合うかもしれない、平和な学校生活に支障をきたすかもしれないと、考えると知らない振りが一番だ。立花のように制服を買い替えたり、物をゴミ箱に捨てられたり、けがをするかもしれないなんて、ごめんだと思っていた。それになにより、素直に怖かった。
優しい仮面をかぶったクラスメイトの豹変ぶり、どっちが残酷なのかと言いたくなった、心ないセリフを言えてしまう、その心。人を指さし笑える神経と、あれが集団となって自分に向いた時、ましてや、あんなけがをさせられたら、俺は、立花のように笑えないし、立ち向かうこともできないだろう。
そのことが引っかかり、かばおうにも二の足を踏んでばかりだった。
けど――。
「立花。」
今日の朝も、俺のクラスには笑いの渦が巻き起こっていた。その中で、ガサリガサリとゴミ箱を漁る様にして、何かを探す立花に、俺は声をかけた。すると、巻き起こっていたはずの笑いの渦がピタリと止んだ。しんとした雰囲気にガラリと変わった教室で、皆の目が俺に集中している。
その刺さる視線をあちこちから感じると、緊張から湧きだしたのは、手のひらの汗と口内の唾液。その唾液をごくっと嚥下させて、立花との距離を詰めていった。俺に声をかけられた立花は、顔を真っ青にして俺を見た。何か言いたそうに、でも言葉が出てこない、といった状況で、立花の開いた口は半分程で留まった。
「俺も一緒に探す。あと今日、昼飯一緒に食わねぇ? おまえ、弁当? 購買組?」
これ以上開かないというぐらいに、大きく開いい立花の目。その目には、じゅんと涙がにじんでいたが、零れることにはならなかった。ざわり、ざわり、と背後から聞こえるクラスメイトのささやき声。その声に、いい言葉、優しい言葉なんて混じってなかった。
「……おまえらもいい加減に臆病の花、食っちまえ。そしたら、楽になれっから。」
いつも当たり障りのない態度の俺。
どうでもいい普通の人のはずだった俺の大声に、クラスメイトの皆は呆然としているようだった。
こいつらはどう動くのか。
イジメを止めるか、標的を変えて俺にくるか、それとも立花と俺、両方にくるか。
念のための対処法を考えて、イジメに気が付いていないであろう、数少ないクラスメイトの顔を頭に思い浮かべた。
一番端、後ろの窓際の席からは人間模様、全てが見える。
だから、このことに加担していないやつが誰かもわかるのだ。
とりあえずはそいつらと手を組むことは決定で、今は、立花の探し物が最優先。
「何失くしたんだ?」
固まって、動けないでいるらしい立花に、そう聞いた。
「えいわ……の、辞書。昨日学校に、忘れて……。」
と、立花はぼそりと小さな声で答えてきた。
「了解。」
ぽん、と、立花の頭に手を置いて、俺はゴミ箱の中に手を入れた。
昨日の掃除当番はゴミ捨てをサボっていたようで、ゴミ箱は半分ぐらいの量のゴミがたまっていた。そして、上のゴミを軽く避けると、英和辞書が横たわっていた。拾い上げ、中を開くと、赤いマジックでグチャグチャに塗りつぶされているページがいくつもあった。
「俺の、貸してやる。」
立花に、そう言ったところで、チャイムが鳴った。
それと同時に、先生がドアをガラッと開けて入ってきたので、俺たちは皆席に着いた。そして、今日も遅刻してくるだろう俺の隣の席の松岡に、立花と席を変わってもらえるように頼んでみようかと、思いながら窓に目をやる。
すると窓のすぐそばに、あの白い猫が座っていた。
その猫は、にゃぁんと、一つ、うれしそうに鳴き声をあげると、後ろを向いた。
そして、トンと窓の淵を蹴り上げて、二階のベランダの手すりを飛び越え、外へと飛んでいったのだ。
俺は、白い猫に心の中でお礼を言った。
そして身を守るため、空手部にでも入部しようかと考えながら、教壇の後ろに立つ担任に、顔を向けた。
◆
了
現実的に考えれば、オシロイバナは食べたら駄目(毒があるって)。