静かな
深谷がゆっくりと手を動かした。そして、指揮し始めた。宮嶋は目を疑った。
驚くほど普通であった。なんのひねりもなかった。表現をしようという意思すら感じられなかった。村田先生の方がまだ奇抜な動きをするし、朝会の時校歌を指揮する女子の方が表現力があるように思われた。(その二人は、指揮がうまいというよりも個性的な動きをしているだけのように思えていたが)とにかくなんの個性もなかった。
深谷先生が急に指揮をやめた。
「トロンボーンの音が強すぎますね。始めからいきます。」
宮嶋は驚いた。曲が始まって10秒ほどしかたっていないこと、たったそれだけ言うために曲を止めたこと、それ以外何も言わないこと、言葉のチョイスが普通すぎることに驚いた。深谷先生はすぐにまた指揮を始めた。すぐにやめた。
「クラリネット、ここの音は『小さく』というより『遠く』です。遠い音にしてください。始めからいきます。」
少し表現者らしいことを言ったと思ったが、やはり簡潔であった。
そうやって何回も繰り返した。曲の開始10秒からちっとも進まなかった。汗っかきでない宮嶋の汗が頬を伝って楽譜に染み込んだころ、少しだけ進んだ。何度も繰り返しているのに、宮嶋は一度も注意されなかった。村田先生はいつのまにか音楽室から去った。夏なのに、日が暮れるまでやっていた。
「全部通しましょう。」
宮嶋は苛立っていた。しかし荒ぶってはいなかった。静かな炎が瞳に宿った。
何も変わらない普通の動きで、深谷先生は指揮を始めた。
トロンボーンが寂しげにメロディを歌い始めた。どこからかクラリネットの音が響いてきて、トランペットが辛そうに共鳴した。チューバがゆっくり歩き始めた。サックスは妖精のように、小さく軽やかに踊った。静かな歩みであった。古びたトンネルを妖精と歩いた。時々グロッケンの水音が鳴った。サックスは長い音を少しずつ小さくした。妖精は長い長いトンネルを、すーっとひとりで行ってしまった。どこまでもどこまでも進んでいって、見えなくなったと思ったら、後ろにパッと現れた。音楽室の気温は30度を超えていたが、この時は誰も汗をかかなかった。トンネルは長く、ひんやりと湿っていた。チューバは歩調を乱すことなく、ゆっくり歩き続けた。足音がこだました。トンネルには穴が空いていて、所々に、爽やかなフルートの日の光が差し込んでいた。苦しくて寂しいところだが、鳥肌が立つほど美しい場所であった。ひとりぼっちで歩いていった。サックスの妖精は現れたり消えたりして、フルートの日の光と戯れたりした。クラリネットとトランペットのトンネルは少しずつ深くなっていった。日の光もだんだん見えなくなってきて、あたりは真っ暗になった。チューバは歩調を乱さず少しずつ深いところへ進んでいった。妖精はたまにチラッと光った。少しずつ、少しずつ深いところにいって、辛くて苦しくてたまらなくなってきた。寂しさでクラリネットの心臓がキュウと締められたと思ったら、カッと眩しすぎるくらいのトランペットの日の光で、視界が真っ白になった。トンネルの出口であった。妖精は光に溶けていった。チューバは歩みを止めた。
「悪くないと思いますよ。これで終わりにしましょう。」
深谷先生がさらりと言った。宮嶋は不思議な感覚に陥っていて、急に現実に戻された感じがした。
「もう遅いので椅子はこのままでいいです。起立。ありがとうございました。」
部員たちの声は小さかった。宮嶋は仕方ないと思った。




