第五章 生命をけずる刀
一
日はとうに半分を通り過ぎて、、西側に昇っていた。
宿屋や宿泊のできる茶店や飯屋で働く小僧や娘たちが、旅人に声を掛けては、自分の店をおすすめしている。
太陽が西に傾いたかと思ったら、すぐに沈んで暗くなるこの時季は、早めに宿を取ろうと心がけている旅人が多いからである。
足早に歩いている俊太郎を旅人と誤解して、笑顔で近寄るも、荷物を持っていないのに気づいて、真顔に替えて離れて行く。
だが、そんな出来事に目もくれず、俊太郎は必死の思いで、小間物問屋を探し回っていた。
いや、小間物屋がどこにもないわけではなく、目的に合った店を探しているのである。
若い女性への贈り物。
正直に言って、どんな物を贈れば心変わりするほど喜ばれるのかなんて、さっぱり分からない。
そこで、この時刻になっても女の客の出入りが多い小間物屋を、探しているというわけだった。
つまりそれだけ、人気のある商品を売っている店だという算段。
これに懸けていた。
十代から二十代と思しき女性の集団が、小間物問屋<十六夜>から満足げに笑顔で出て行くのを目に留める。
これ幸いと、勇んで足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
紙をキッチリと整えた店主が、お面でも付けているのではと思えるほどにの、満面の笑顔で迎えてくれた。
加えてお辞儀をしながら、俊太郎の容姿を、髪型から身に付けている物、草履にいたるまで観察してくる。
どうやら来客の見た目を査定して、どのくらいの値段の品なら買って下さるだろうかと、長年の商売の経験から素早く判断できるようだった。
結論としては「見込めない」と判断したようだが、それでも笑顔を崩さない。
「贈り物でございますか?」
「はい。そうなります」
「ご相談の際は、気がねなく声をかけてくださいませ。ごゆっくり、品定めのほどを。ささ、どうぞ?」
店の中は、あまり広々とはしていなかった。
七人ほどが一同に入店したのなら、それ以上はもう入れないといった具合。
小ぢんまりとした造りなのは、小間物屋は基本的に小間物売りとして、あちこちで売り歩いているからであろう。
客が訪れるのを待たず、歩いて客を探し回って売るという手法に、重きを置いているからだと思われる。
ともあれ、入ってすぐに左右に長方形の腰かけ椅子があり、ここに座りながら、じっくりと商品を品定めをすることが出来るのだが、気が急いでいた為に利用せず、立ち続けていた。
平台陳列棚の上には、平たい桐箱が上下に五箱ずつ、全部で十箱が客に見やすいように、斜めに立てかけてある。
売られている商品は、化粧品、櫛、かんざし、紙入れ、煙草入れ、扇子、手ぬぐいなど。
月と鯉と桜という絵柄の煙草入れが目につき、口入屋のお龍の顔が頭に浮かんだが、すぐに掻き消えた。
「若い娘に人気のある品は、どれですか?」
「そうですね。やはりそこは、手ぬぐいでしょうか」
「手ぬぐい?」
「芝居小屋帰りの若い娘さんであれば、好みの歌舞伎役者の屋号と家紋入りの手ぬぐいを、ええ三枚ほど、ご購入されますね。それから少し値が張りますが、扇子でございます。当店では、役者絵を扇子に貼りまして、裏側には家紋と、その役者の名言といいますか、芝居の台詞が書いてございまして。扇子を開かぬかぎりは、中身が分からない。閉じたままであれば、誰に見られても、とりあえずは恥ずかしくないという作りとなってございます」
「なるほどー」
奥ゆかしい日本人ならではの発想である。
「これはいい」とは思ったが、しかしこれを、あの葛の葉が気に入るかどうかと考えると、さながら疑問である。
今の所は浅い関係、知り合い程度の間柄ではあるが、あの短いやり取りだけで性格だけでなく、彼女の趣味嗜好まで、何となく理解できたような気がした。
「よくご覧になられますか?」
「いえ、結構」
視線が他の商品に移る。
しかし、どれもこれも、ピンと来ない。
「これだ!」という確信が、どうにも持てなかった。
うーんと唸りながら、ポリポリと頭を掻く。
(そもそも女の人に贈り物なんて、したことがないからなぁ。これは困ったぞ?)
腕組みをしながら、もう一度、うーんと唸らずには いられない。
これは決まるまでに時間がかかりそうだと、店主の眉間に、わずかに皺が寄る。
その時、俊太郎の鼻に、すると心地好い花の香りが漂ってきた。
知っている香りだ。
きっとスミレの香りだろう。
御香の匂いが、着物などに付着したままなのだ。
自分の横に立つ、その香りの発生源に、顔を向けて見てみる。
見知った顔がそこにあったが、俊太郎が声をかける前に、店主が喜びの声をかけていた。
「これはこれは、立花 葵さま! お待ち申し上げておりました!」
髷を結わず、少女のような顔立ちで、スラリとした細身の体格に、病弱に見えるほど真っ白な肌。
白の生地にスミレの花柄という女物の質素な浴衣を、胸を肌蹴るようにして着ており、その上に男物の どてらを羽織って、指先で器用に、花魁煙管をくるくると回している。
朱染めの日本刀を、だらしなく腰に提げて、雪駄を履いていた。
立花 葵、本名、橘 蒼太。
俊太郎たちとは同郷の仲で、四つほど年下。
当時、ガキ大将だった黛 一馬を慕って、剣術の道場は異なるのに「兄貴! 兄貴!」と金魚のフンのように、いつも付き従っていた、つまりは腰巾着の後輩だった。
俊太郎たちとは遅れて数年後、一馬を頼って江戸へとやって来たのだが、俊太郎に話した所によると、
「兄貴の足手まといになるのは、嫌なんで。へえ、兄貴から直接、言われる前に、屋敷を出てきたってわけでさぁ」
と、寂しそうに笑っていたらしい。
今は、『立花 葵』という芸名を名乗って、日本橋芳町にある陰間茶屋に、身を置かせてもらっているらしい。
ちなみに、
「同郷の恥さらし! 黛のもとに居られなくなったのであれば、とっとと実家に返ればいい!」
と言って、綾之新は今の彼の生き方を、ひどく嫌悪していた。
ともあれ、先に来店していた俊太郎になど気にも留めない様子で、普通の表情で、
「頼んでいたヤツ、取りに来たぜ?」
「はいはいはい。できております。できておりますとも。少々、お待ちください」
店主は急いで畳に上がると、部屋の奥に並んである、小物入れ箪笥から一つを選んで膝立ちをすると、目の前の引き出しを開けて、小さな風呂敷に包まれた細長い桐箱を両手で大事そうに持って、戻ってきた。
「こちらでございます。いかがでございましょうか?」
葵はそれを受け取ると早速、無造作に包みを解いて、桐箱の中を検めた。
横から、つい覗く格好となってしまった俊太郎は、ハッと息を呑む。
それは一見すると、銀細工の髪飾りに見えたが、よくよく見ると、そうではなかった。
プラチナのかんざしで、飾りには一輪の花を模しており、中央には赤珊瑚の小玉、花びらの部分には紅玉、青玉、翠玉、金剛石が散りばめられていて、さながら夏の夜空に咲く一輪の大きな花火のようだった。
この手の商品に、まったく興味のなかった俊太郎ですら、一瞬で感動を覚えて、目を奪われてしまっていた。
一方で、それを注文していた葵はというと、これといって表情を変えず、じーっと見つめたあげくに、ふんと鼻を鳴らすだけだった。
「いいんじゃねぇか? よくは分からねぇけど、職人はいい仕事をしたと思うぜ? オイラの代わりに、ねぎらっといてやってくれ?」
「はいっ、ありがとうございます」
「ほらよっ? 残りの金だ」
桐箱を小さな風呂敷に包み直して、懐に入れると、代わりに大きく膨らんだ巾着を取り出して、ポ~ンと店主の頭上高く放り投げた。
あわてて両手で受け取った店主は、一瞬だけ腰を抜かしそうになる。
その時、俊太郎は巾着から、わずかにチャリという甲高い音を聞き取って、中身がすべて小判だという目星をつけていた。
「釣りは、いらねぇよ。足りているかどうか確かめたら、証文を持って来てくんな?」
「か、かかか、かしこまりィーーッ!!」
おそらく「残りの金」とやらは、あの膨らみの半分以下だったのだろう。
頭を真っ白にする店主に、落ち着いた声で指示を出して、葵は腰かけ椅子に腰を下ろしていた。
店主は転げるようにして、大急ぎで奥へと引っ込んで行ってしまう。
葵は一仕事でも終えて疲れたかのように、肩を上げて、首を鳴らしながら、ぐるりと回した。
と、ここで初めて、来ていた客が俊太郎であることに気づいて、血の通った人間らしく目を丸くしていた。
「おやおやおやおや……誰かと思ったら、意外や意外。霧島の旦那じゃないですかい」
「おう。贈り物かい?」
「ええ、まあ、そうなりますね」
あれほどの特注のかんざしを贈られる人とは、一体どんな人なのだろう。
一応、気にはなるが、今はそれよりも、
「相手は、若い娘さんかい?」
「まあ、そんな、ところ、ですか、ねえ? ええ、多分、ええ」
異常なほどに歯切れが悪い。
訊いて欲しくない事情でもあるのだろう。
葵は顔をそらして、やたらと首を傾げてばかりいる。
俊太郎は構わず、
「今の若い娘は、かんざしに目がないのか?」
「…………えっ? えっ? えっ? そっちこそ贈り物ですかい? 若い娘に? 霧島の旦那ァ? それは、いけませんぜ? 奥さんが長いこと不在してるからって、若い娘と浮気たァ? ねえ、旦那? 女って生き物はその辺、剣豪なみに勘が鋭いもんですぜ? よしねぇ、よしねぇ。あんたらしくもねぇ」
「いや、そうじゃないんだよ」
と理由を語ろうとすると、そこへ店の奥から丁稚が、湯気の立つ湯呑みを一個だけ乗せたお盆を持って、笑顔で、作り笑いを顔に貼りつけてやって来た。
葵の前まで来ると、正座をしてお盆を畳に置き、スウッと差し出して、
「立花さま、いつも ありがとうございます。今後とも、どうぞ ごひいきに、よろしくお願いします」
と、少々たどたどしい口振りをして、つと両手をついて頭を下げていた。
店主、あるいは女将の差し金なのだろう。
可愛らしくはあるが、不愉快さも否めない。
葵はニコッと笑むと、
「こちらこそ。また、お願いするよ。ただ、そのお茶だけは、いただけねぇ。どうにも苦くてな? 甘い菓子でも添えてくれりゃあ、丁度いいんだろうが、この苦さに合った、甘い甘い菓子なんてあったかねぇ?
などと言って、返答に困っている丁稚をよそに、湯呑みを乗せたままのお盆を片手で、スッと俊太郎の前に移動させた。
「霧島の旦那はどうです? 渋茶は、平気ですかい? よかったら、どうぞ?」
と前屈みに、下から見上げるようにして俊太郎の顔を見ると、目を大きく見開いて、口はポカーンと開けて固まっていた。
よほどに衝撃的なことが、あったらしい。
「どうしたんです?」と尋ねようとする葵の肩を、俊太郎は不意に叩いて叩いて叩きまくり、
「そ、そそそ、それ! それだよ、それそれ! 『かんざし』なんかより、『それ』だよ! 助かったァ!」
「……はい?」
「助かったよ、ありがとう! 今度また、一緒に飲もうな? じゃあ!」
「は、はあ……はあ?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする葵に別れを告げて、俊太郎はとても興奮した様子で小間物問屋をあとにした。
二
うっかりしていた。そう言えばそうだ。
花より団子。
それが一番しっくりしている確信が強く、俊太郎を激しく急き立てる。
(甘い物、甘い物、土産物屋は、ないのか? 街道の茶屋まで行かないとダメか? だったら、つい最近できて、人気のある甘い菓子の店はないのか?)
西に傾いた太陽が沈んでしまうのは、あっという間だ。
こうやって探し回っている間に、夜の帳が下りてしまうのも、時間の問題だろう。
次々と今日の営業を終えて、店じまいしてしまう。
どこかへ入って、さっさと買わねばならない。
しかし、どこの店の、何を買えばいいというのだろう。
そもそも、ここは、人形町。
ということは、人形焼か? 人形焼がよいのか? 人形焼が一番、喜ばれるのだろうか?
っていうか自分が人形町に居るから、「人形焼」が頻繁に頭に浮かぶだけで、他の町ならば、こうはならないはずである。
(なぜ俺は、人形町へ来てしまったんだァーーッ!!)
などと心の中で泣き叫んでも、後の祭り。
今日の所はここで引き揚げて、また明日、今度は美味しい和菓子を江戸市中で探そうなどという発想は、今の俊太郎にとって危険である他にない。
きっと明日は今日よりもずっと、ヘタレていることだろう。
きっと明日は妖怪など、もう、どうでもいいと考えるようになっているだろう。
それが恐ろしい、明日はすっかり別人になっているであろう自分が、とても恐ろしい。
望んでなどいない自分に、すっかり変わってしまう事が、今は何よりも恐ろしかった。
精神的に追いつめられている所為か、めまいがしてくる。
足早に歩き続けている疲れが出たのか、呼吸が荒くなってくる。
この程度で、これしきの事で。
(医者を呼んでくれ……どこか、どこかで休ませてくれ……)
額には脂汗が次々と浮き出て、玉を作るか、頬を伝って流れ落ちている。
きっと顔色は土気色をしているだろう。
次々と弱気が押し寄せて、背中に伸しかかったり、胸を圧迫したり膨張したりという感覚を、不愉快という形で与えてくる。
(日が沈む……明日が来る……)
果てのない大海原で、地に足がつかず、うまく呼吸ができず、もがき苦しんでいるかのような心境。
足が もつれてしまうのは、当然の結果だった。
ヨタヨタと酔っぱらいのように よろめいて、倒れそうになるが、誰もそれを受け止めてくれる人は居らず、そのままどこかの店内に突っ込むようにして倒れてしまった。
罪悪感が どっと込み上げて、すぐ立つようにと自身を強く急き立てる。
何か掴める物はないか、それを頼りに立ち上がるつもりで片手を宙に漂わせると、陳列棚に使われている敷板に手が触れて、これ幸いと、よく考えもせずに力を込めて何とか身を起こした。
途端に、物を壊してしまったら弁償しなくてはならないという不安がよぎり、すぐに手を離すと、その棚で売られている商品が無事なのかどうか確かめるべく、見てみる。
ぎょっとなった。
まず、この店内は、他の見慣れた商店の内装とは異なり、陳列棚が出入口から見て横向きに、向き合うようにして六台あり、さらには壁棚まであった。
しかし、だからといって、売り物だらけというわけではなく、売れて在庫がないのか、そもそも商品が足りないのか、あちこちの棚の上がスッカスカだった。
だが、それを見たから、とても驚いたというわけでは、もちろんない。
当然、そこに売られている商品に対して、である。
商品の一つ一つに名札が添えられていて、ざっとその場から見渡してみて、「夜な夜な抜け出してくる幽霊の掛け軸」、「夜な夜な抜け出しては宴をする七福神の屏風」、「金魚が棲む石」、「しくしくと泣きじゃくる日本人形」、「蕎麦食い地蔵」、「お経をあげる木魚」、「首を落とされた囚人が噛んだ石」、「お七の着物」、「鶴が織った反物」、「天女の七色羽衣」などなど。
とんでもない店に、偶然とはいえ入ってしまったと、後悔した。
思わず身震いしてしまう俊太郎を、すると奥の陳列棚から、ぬっと現れた大男の大きな両腕が伸びてきて、むんずっと胸倉と襟の後ろ部分とを掴まれるなり、ひょいっと軽々と持ち上げられてしまった。
足が宙に浮くが、じたばたと暴れては商品を壊しかねないので、堪えることにする。
顔を斜め下へ向けることで、やっと視界が大男の姿を捉えることができたが、またもや ぎょっとなった。
(でかいッ!?)
まっさきに頭に浮かんだ職業は、力士だった。
身長は ゆうに、2メートルを超えている。
しかも俊太郎の着物を、前後から掴み上げている その手や腕は、岩石をその形に削り取ったかのように、ゴツゴツとしていた。
例え甲冑を まとっていたとしても、この拳で殴られては、ひとたまりもないかもしれない。
針金のように硬そうな、短い髪。
継ぎ接ぎによって大きさを調節された、ちゃんちゃんこ と半股引。
手縫いの腹巻。
裸足で、雪駄を履いている。
ひとめ見ただけで、子供ならば恐怖して泣き出しそうな外見ではあるが、しかし毛虫のような太い黒い眉毛は、まっすぐ斜めには傾かず、穏和に虹のような弧を描き続けていた。
「ヘ、ヘイ、ヘイデンデズ。マ、マダ、ギデ、グダダイ」
それは聞き取りにくい、濁った声だった……が、こちらに敵意がないことと、かすかに優しさを感じ取ることはできた。
「えっ? なっ? ちょっちょっ?」
聞き返す俊太郎を無視して、持ち上げたままの姿勢で、店の外まで直接 出そうと、のしのし歩き出す。
するとそこへ、
「まあ、まあ、善堂さん? よろしいでは ありませんか? 閉店間際に、私が店に居る時にやってきた。これは縁だと、私は思います。さっ、こちらへ。私が、お相手いたしましょう」
店と隣り合った奥の部屋から出てきたのは、見るからに商人といった身なりの初老の男だった。
のっぺりとした顔立ちに、まん丸の眼鏡をかけて、禿げ上がった頭には、申し訳 程度の丁髷が乗っている。
履いている下駄を わずかに鳴らして、横に移動すると、
「ささっ、こちらへ、どうぞ?」
と、奥の部屋へと続く、段差のある仕切りの所へ腰を下ろすよう、座布団を敷いて勧めてきた。
すでに善堂と呼ばれた大男から解放されていた俊太郎は、引きつった笑みを浮かべる。
(これは、逃げられない……)
すっかり臆病風に吹かれてしまっていた。
明日を待たずとも、迎える前に、人格が変わってしまいそうだった。
おずおずと、その、この店の主らしい初老の男の ご厚意に甘えることにして、仕切りの所の座布団へ腰を下ろした。
ふと店内を見渡すと、あの大男、善童の姿は消えていた。
あの見た目のわりに、機敏に動けるようである。
「おや、まあ、これは いけない」
「?」
俊太郎の横に座ろうとするや否や、顔をひとめ見るなり、店主らしき初老の男は彼の前に立って、右手の人差指と中指とを顔の前に突き出し、左手は拳を作って自分の腰の辺りに あてがう。
一部の職種にたずさわる者ならば、すぐに分かる、刀印という結びと構えだった。
もちろん俊太郎は、そんなことなど知るはずもない。
きょとんとする彼の目の前で、それはまるで、トンボを捕まえる前に指をくるくると回すが如く、スッスッスッと素早く動いた。
それは文字なのか、絵なのか、何を空間に描いているのか、さっぱり分からない。
しかも何やら小声で、ぶつぶつと呟いている。
チンプンカンプンで、わけの分からない状況が、しばらく続けられたのち、
「えいッ!」
気合の入った声と共に、二本指で、俊太郎の全身を真っ二つにするかのように、振り下ろした。
「……なんちゃって」
「なんちゃって?」
それから俊太郎の両肩を、両手で同時にパンパンと叩くと、横に腰を下ろして振り返る。
ぽかーんとしている俊太郎に、背後に置いたお盆から取った、カラッポの長湯呑みを手渡すと、急須を傾けて液体をそそぐ。
それは見るからに お茶ではない、白い色をした生ぬるい液体だった。
訝しげに顔をしかめる俊太郎を、気にも留めない様子で、
「まあ、まあ、まあ。何と言いますかなぁ? あれですよ、あれ。そうそう。顔色が悪うございましたのでね? 元気が出る、おまじないといった所で ございますよ。ささ、どうぞ? まずは、一杯?」
「は、はあ……」
笑顔で勧められて、見知らぬ液体を飲むべきかどうか、戸惑った。
決して、悪い人ではない……とは思う。
仮に毒だったとして、この男にどんな利益があるというのか。
しかし、よく知らぬ相手が信用に足る人なのかどうか、よく分からないうちは、警戒するに越したことはないだろう。
まず俊太郎は、「いただきます」と飲むふりをして、匂いを嗅いでみることにした。
(んんっ?)
すると酸っぱいような、それでいて、爽やかな気持ちにさせる香りがする。
恐る恐る、少しだけ飲んでみることにする。
ズズズッ……ゴックン。
「……うまいッ!?」
それは確かに酸っぱく、塩のような、柑橘系の果物のような味がした。
悪くない、むしろ、もっと飲みたくなる味だった。
だから残りを一気に飲み干した俊太郎に、初老の男はニッコリと笑んで、カラッポの長湯呑みに お代わりを、なみなみと そそいだ。
「大変に汗を お掻きになった時は、これを飲むのが一番でございます」
そんな言葉を聞き流すようにして、俊太郎は一息でそれを飲み干す。
「ぷはーっ! ……御仁? このォ……水は、一体?」
「あっ……えー、失った汗の代わりとなる物でして、遠い遠い平和な国の飲み物でございます」
「はあ……大変に、お高い物なのでしょうな?」
「…………」
初老の男は何も答えず、作り笑顔で俊太郎の長湯呑みを引き取って、後ろを振り返ると、また別の長湯呑みを取って、彼に手渡した。、
今度はお茶なのだろうなと、ふと予想する俊太郎に、すると初老の男は先程とは別の急須を替わりに手に取って、中の液体を長湯呑みの中に そそぎ始めた。
「今度は、どうでございましょうな? 嫌いだという お方と、この刺激が 堪らないという方が、おりますので」
「はあ……」
今度の見知らぬ液体は、タンポポのような黄色い色をして、あちこちパチパチと弾けていた。
沸騰でもしているのか、しかし、どちらかというと冷たい。
(火薬でも入れてあるのかな? そんな物を飲んだりしたら、お腹が破裂してしまうのでは なかろうか? んんっ?)
不安げに初老の男を見ると、
「元気が出る、お薬でございます。それゆえ、舌と喉に痺れのような痛みが生じるでしょうが、それ一杯で命を落とすということは、ございませんので。ささっ? どうぞ、どうぞ?」
「……はあ」
つい先程の白い液体といい、この初老の男は俊太郎の為にと、弱った体によい物を 勧めてくれているのだろう。
それを理解したからこそ、拒むことができず、俊太郎は渋々、飲んでみることにした。
ズズズーッ、ゴクン。
「うッ!?」
確かに喉に、痛みが走る。
しかし、俊太郎は飲む行為を止めず、どんどん喉の痛みが増すのを堪えて、最後まで飲みきってしまう。
これにはさすがに、初老の男は心配するあまり、あわてた。
「あっ!? ちょっとッ!? そんなッ!? ゆっくり……」
「ぷふぅーーッ……」
苦しみからの解放に、俊太郎は自然と笑みが浮かんだ。
次の瞬間、ぐぐぐっと喉の辺りに圧迫が感じられ、瞬時に具合が悪くなって顔をしかめる。
途端に、
「げふっ!?」
下品にも、それはまるで大食いをした時のような大きなゲップが、喉の奥から吐き出された。
なんという、屈辱。
恥ずかしさのあまり、顔が真っ赤になる。
しかし、だがそれ以上に、よく晴れた日にスッキリと目覚めた時のような、とても すがすがしく気持ちのよい感情に満たされてもいた。
「し、失礼! とんだ失礼をいたしました!」
「いやいやいやいや、そう頭を下げずに。それより、いかがでございますな? ご気分のほどは?」
「はっ?」
「元気が出ましたかな?」
「…………そういえば……なんというか、力が湧いてくるような……」
「それはよかった。しかし先程、申し上げたように、お薬でございますので。飲み過ぎはお体に、毒でございますので」
言葉の最後は早口となって、俊太郎の手から長湯呑みを引き取ると、振り返って、今度は普通の大きさの湯呑みを手渡した。
実をいうと、もう一杯、飲んでみたい気持ちでいただけに、これには少々、残念な気持ちになった。
しかし、今度はどんな飲み物が味わえるのだろうかと、期待が大きく膨らんでもいた。
また別の急須に持ち替えた初老の男は、中に入った液体を湯呑みにそそいだ。
それは見るからに、よく見知った お茶のようだった。
手から伝わってくる温度は、温かめといった具合。
香りも、お茶だった。
一口 飲んでみたが、やはり間違いなく確かに お茶だった。
「元気が出たと申しましても、それは、一時的なことでございます。わたくしは医者でも、拝み屋でも、ございませんので。店の中をごらんの通り、物を売る商人でございますので。その辺はどうぞ、ご理解いただきとう存じます」
「はい……」
お茶だったことが、あまりにも期待外れすぎて、ほとんど話が耳に入っては来ないまま、素直な返事をしてしまっていた。
それほど落胆している俊太郎に苦笑いを浮かべて、初老の男はやっと尋ねることにした。
「それで……あなた様の身に、何がございましたかな?」
「えっ? あ、はい。あのォ……」
俊太郎はふと、店内を見渡した。
これほどの、禍々しい物を集めている店だけに、それなりに信じてはくれるだろうが、もしかしたら当然にも対処法を知っているかもしれないという希望が、芽生え始めていた。
「こんなことを言うと、作り話に思えるでしょうが……」
「かまいません、かまいません。ささっ、どうぞ、どうぞ?」
「はい。実は……一昨日の夜のことなのですが……」
「ふんふん」
綾之新の名前と職業を話すのだけは控えて、神田の橋本町であった出来事を、語って聞かせた。
初老の男は聞き耳を立てながら、一回、三回、二回と、たびたび頷いてみせていた。
話し終えると、初老の男は ぼんやりと、顔と視線とを店内へと向けて、
「なるほど……ほっほー……ふむふむ……さようなことが ございましたか……ほう……」
「信じていただけますか?」
「疑う余地など、ございません」
「そうですか! それでは、あのう……このような場合、どう対処したらよいのか、ご存知では ございませぬか?」
「ああ、それはァ……先程も申し上げた通り、これごらんの通り、わたくしは ただの物を売るだけの商人で ございますので……」
「そうですか……そうですよね……」
「ええ、ですので、その祓い屋という若い娘さんの、気持ちを変えさせられるかもしれない物なら、ございます」
「ほ、本当ですかッ!? それは一体、どんな……」
俊太郎の驚きと喜びの声は、語尾の方が ほとんど聞き取れないほど、声量はしぼんでいった。
店内に並べられた商品の数々を見ると、「それは勘違いでは、ないだろうか?」という考えが、みるみる期待を不安へと塗り替えていったのである。
自分よりも ずっと年上と思しき、この初老の男が、若い娘の好みを本当に理解しているのかを疑った。
だが、そんな俊太郎の心配をよそに、初老の男は後ろを振り返ると、中くらいの茶色い紙袋を、まず自分の膝の上に置いて、口の部分を指で折り始める。
「若い女子というものは、昔から、甘い物に目がないと申します。この中身は……そう、異国の甘い菓子と、温かな飲み物でございまして。どうか、傾けたりなどしないように。そんなことをなさっては、中身がこぼれて台無しとなってしまいますので。大変に ご注意して、その祓い屋さまに、お渡しくださいますよう?」
と断りを入れてから、俊太郎にその紙袋を差し出した。
俊太郎は、この突拍子もない救いの手に何度も小刻みに頷いて、素直に受け取ろうとしたその手をピタリと止めると、懐に入れて財布を探した。
「おいくらですか? 足りるとよいのですが……あっ、足りなくとも、必ず残りは」
「まあまあまあまあ、いえいえいえいえ。お支払いは結構。こちらは、取引の品となっております」
「取り引き?」
「さようです。必ずや、その妖怪を、退治していただきたい。それがこの品を、あなた様へ お譲りする条件でございます」
「! そ、それはもう! はい! 守ります! 多分! いえ、きっと!」
「ほっほっほっ♪ 信じております」
初老の男はニッコリと優しい笑みを浮かべて、右手で紙袋の口元を、左手で底を支えるようにして持って、手渡した。
俊太郎はその持ち方を、そっくりマネるようにして受け取る。
「あっ! そうそう、うっかりしておりました。わたくしはここ、不可思議問屋<物部堂>の主、鴨野と申します。以後どうぞ、お見知りおきを」
「はい。拙者は、深川大工町、貧乏長屋住まいをしております、霧島 俊太郎と申します。見ての通り、浪人をしております」
「さようですか、うんうん。霧島 俊太郎さま、よい名前をお持ちだ。うんうん。おっと! これ以上、ここへ長居しては、せっかくの贈り物が冷めてしまいます。ささっ、霧島さま? 祓い屋さまのもとへ、お急ぎくださいませ?」
「は、はい! どうも、ありがとうございました! 失礼いたします!」
「足下に、お気をつけくださいませー! …………ほっほっほっ。なかなかに興味深い、宿命を背負ったお方だ……」
足早に立ち去る俊太郎を、その背中に声をかけながら座ったまま見送った鴨野は、その姿が見えなくなると、ポツリと呟いていた。
陳列棚の影から滲み出るようにして、大男の善童が出てくると、彼もまた俊太郎が出て行ったばかりの出入口を、ぼんやりと見つめていた。
三
風が吹き抜けた。
それはまるで俊太郎の顔を狙った、悪戯のような砂埃の混ざった突風だった。
咄嗟の事だったが、俊太郎は紙袋を持つ手に意識を集中させながら、目の中に入らないよう目蓋を閉じて、顔をそむけた。
すぐに止んだことに安堵して、目を開けると、そこは四谷左門町の大通りで、真神稲荷神社の境内が、すぐ目の前にあった。
驚いた俊太郎は、思わず後ろを振り向く。
なんと、つい先程、出たばかりの不可思議問屋<物部堂>という小さな店は、そこにはなかった。
しかも、さらに驚くべきことに、とうに沈んだと思われた夕日が、まだ西の方角に丸くあって、まぶしく俊太郎の顔を照りつけていたのである。
ボーッと眺めている間に、頭の中に、『日本橋人形町から どうやって、ここまで来たのか』という記憶が滲み出るようにして浮かび上がり、疑問や驚きは 瞬く間に掻き消えていった。
(おっと! こんな所で、ぼうっとしている場合じゃない!)
ここまで来た理由を思い出し、あわてて振り向くと、小走りに境内へと入って行った。
俊太郎は、巫女の姿をした三人を前にして、慎み深く正座をしていた。
一人、頬杖を突いて胡坐を掻いている葛の葉の前には、鴨野から譲り受けた、中くらいの茶色い紙袋が置いてある。
将棋盤など一式は、片づけられていた。
俊太郎と向かい合わせに、横に並んで座っている三人は、その紙袋に興味津々で視線を向けている。
「ふっうーーん……物で、ご機嫌を取ろうという作戦か。まあ、嫌いじゃないよ。でも、へぇーー、異国の? 甘い菓子と飲み物ねぇ。カステラと何だろうね?」
葛の葉には紙袋の中身が、お見通しのようだった。
俊太郎は肩をすくめる。
中身は知らないが、なるほど、カステラとすれば納得できる。
あれほど高級な南蛮菓子を、一般の若い娘が口にできるはずがない。
が葛の葉の、この口振りはどうだ。
食べ慣れているか、あるいは、食べ飽きているかのようである。
俊太郎の心に不安が芽生えて、みるみる膨らみ始める。
そんな彼の心情を読み取ったのか、葛の葉はチラッと顔を見ると、ニヤッと笑んで紙袋をつかんで引き寄せた。
そして、紙袋の口を開けて中身を見てみるなり、フッとその顔から笑みが消えて、真顔になる。
両脇に座っている紅葉と楓は、その横顔に、何事かと眉をひそめた。
「な~んだ、こりゃ?」
葛の葉は紙袋の中に片手を突っ込むと、上の部分を鷲掴みにすることで、半透明の白い蓋のついた、厚い和紙で組み立てられたらしい長湯呑みのような物を取り出して、畳の上に置いた。
思わず楓が手を伸ばして、それに触れてみる。
「生温かい? 何なんスかね、これ?」
「こらっ! 楓!」
「おまえが もらったわけじゃないだろ? そうやって気安く触るんじゃないよ。あたしへ掛けるはずだった罠が、おまえに掛かりでもしたら、大変だろう? 外からの贈り物には、警戒心を持て?」
「……はーい。ちぇッ、叱られちった」
「自業自得です」
「いやッ、あ、あのう! 拙者は別に、罠だとか迷惑をかけようなどとは、少したりとも考えては おりませぬ」
「ここへ来て、あたしに頼み事をする行為 自体、迷惑だって教えたばかりだと思うんだけどねぇ?」
「はい。確かに、憶えております。はい。申し訳ございません。失礼を、真に心から承知している所存にございます」
「団扇でも あるまいし、そう何度もペコペコ頭を下げるんじゃないよ。生じる風も、うっとうしい。で、この短時間で、どこで、こんな物を買って来たのやら……?」
「まあまあ、葛の葉さま? 肝心のお菓子は? お菓子は、どんな物が入っていらっしゃるのですか?」
好奇心なのか気遣いなのか、紅葉が葛の葉の興味を紙袋の中に戻してくれて、俊太郎は内心、とてもホッとした。
「たいしたもんじゃないでしょ」と、また紙袋の中に手を入れて、指に触れた物を取り出してみる事にする。
するとそれは、カステラのような物のようだった。
だがしかし、カステラよりも太く、長細く、丸みを帯びていて、手の平に収まらないほど大きい。
上の半分ほどが、焦げたような色をしていて、下の半分が黄土色をしている。
ニオイを嗅いでみると、ほのかに甘い香りがした。
誰もその食べ物が『エクレア』という、この時代には存在しない食べ物であるとは知るよしもなく、
「ふーん……カステラ辺りを、改良でもしたのかねぇ? まあ一応、食ってみっか。あーん!」
味をよく分からぬそれを、葛の葉は思い切って、パクッと かぶりついていた。
すると、どうだろう。
皮はパリパリ風で薄く、すぐに破れては、口の中に生クリームの甘い味と香りとが広がって、皮に塗られたチョコレートと混ざり合い、この上ない幸福を たった一噛みで、葛の葉の脳髄へと直撃させていた。
きりりとしていた葛の葉の顔立ちが、ふにゃふにゃと だらしなくゆるんだ表情へと一変する。
「んんんんんッ!!?」
片手で、こぼれ落ちそうな頬を押さえて、あふれ出しそうな幸福感を口を閉ざすことで封じ込めた上で、言い知れぬ歓喜の声を上げてしまっていた。
この表情と仕草とで、一目で理解する、かなり美味な菓子なのだということを。
俊太郎は思わず、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
楓はそれが間に合わず、口の端からヨダレを垂らしている。
紅葉は両手の甲で、交互に唇をぬぐってから、
「そんなに美味しいのですか?」
と尋ねると、葛の葉はエクレアを銜えるなり、もう一本だけ入っていたそれを紙袋から出すと、二つに千切って、紅葉と楓の二人に手渡した。
二人は遠慮せずに、それにかぶりつく。
「んんんーーッ!!?」
すると二人は、ほぼ同時に、歓喜の声を上げていた。
葛の葉は、ゆっくりと味わいたい考えがありつつも、その美味しさの魔力には勝てず、あっという間に食べつくしてしまう。
そして続けざまに、飲み物に手を伸ばすと、蓋を取って、中の泥水のような色をした液体を警戒もせずに、ゴクゴクと飲み始めた。
エクレアがあまりにも美味しかったので、他の贈り物に対する心配が薄れたのが原因なのだろう。
しかしやはり、心配するには及ばなかったらしい。
その飲み物、やはりこの時代には存在しない『カフェモカ』を、美味そうに一息に飲み干してしまっていた。
「ふー」と満足げな声が口から漏れ出して、続けてゲップまで漏らすという始末。
「葛の葉さま……」
紅葉は我が事のように、顔を赤くしていた。
一方で楓は、指についたクリームだかチョコレートだかを、しゃぶっている。
それらをよそに葛の葉は、年相応の満面の笑みを浮かべると、
「そなたの ご機嫌取り作戦は、大成功じゃのう。よは満足じゃ」
「あははっ♪ どこの殿様だよ?」
「大満足? それは真ですね? そ、それでは!」
「うむ、褒美を取らす。近う寄れ?」
「はっ? い、いえいえいえ! 褒美は結構! その褒美よりも、」
「苦しゅうない。つべこべ言わず、近う寄れっちゅうに……来いッ!」
「は……はあ……」
結局、機嫌をそこねさせてしまい、軽く叱られてしまった。
これ以上、悪化させては、せっかくの作戦成功が台無しになってしまうことを恐れて、俊太郎はとりあえず自分の意見を飲み込んで、従うことにした。
立ち上がらずに座ったまま両手の拳を使って、ズイッズイッと間に人が座れない距離にまで近づくと、葛の葉は「よろしい」と言わんばかりに、コクリと一つ頷いて、座ったままで急に姿勢を正す。
すると表情だけでなく、雰囲気までもが ガラリと一変して、この部屋にある空気までもが少し息苦しさを感じるほどに、緊張のようなものを帯び始めていた。
葛の葉は静かに手を合わせると、目を閉じて、意味不明な言葉の羅列を唱え始める。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九十。布瑠部 由良由良止 布瑠部」
これを繰り返し繰り返し、現在の時刻で二分ほど、何度も唱え続けていた。
するとどうしたことか、何をしているのかわけが分からず、ぼんやりとその様を眺めていた俊太郎の目の前で、風もないのに葛の葉の髪と着物とが わずかに揺れて、全身が ほのかに白く輝いたような気がした。
両目をパチクリとさせている俊太郎の目の前で、今度は拍手を二回 打つと、また手を合わせて、今度はこのような文言を唱え始める。
「我求 天照」
と、拍手を二回 打った。
「八咫 也 崇奉、秘封 御剣、賜え 賜え 賜え」
そしてまた二回、拍手を打つ。
「神願、賜りませり、急々如律令」
と今度は四回、ゆっくりと部屋中に響くほどに拍手を打ち鳴らすと、それから広げた両手を上向きにして、それぞれ膝の上に置いた。
次の瞬間、頭上から突然に、深紫色をした鞘の日本刀が一振り、落ちてきた。
「えーッ!? えっ? ……えっ? えっ? えっ?」
さすがに驚愕した俊太郎は、目の前の大刀と天井とを、交互に見て確かめずには いられない。
いつの間に、天井に大刀を取り付けていたのだろうか。
どういう仕掛けと合図とで、望んだ都合のよい時機に落とすことが出来たのだろうか。
あまりにも突飛で、あまりにも不可思議で、それが俊太郎にとって、この場所や目の前の三人は、本当は存在していないのではなかろうかという疑念までも抱かせるほどの出来事だった。
「落ち着け。そして、耳の穴ァかっぽじって、よォく聞け? いいか? 褒美として、この刀を おまえに貸してやる。この刀を使って、化け物退治をするが よよいのよい」
「よよいのよ……。いえ、あの……えっ? ……はあ?」
「ただこの刀は、そんじょそこいらの刀とは大違いでのう。使えば使うたびに、使う者の命、生気、寿命を吸い取り続ける、いわゆる妖刀と呼ばれるものだ」
「ッ!?」
「安心せい。ただ持っているだけでは、何の害もない。鞘の内側にな? 経文が刻まれていて、妖刀という災いは封じられておる状態なのじゃ」
「…………」
「どうだ? 人のみならず、あやかしすらも斬ることのできる、この妖の剣。借りるか? 借りてみるか? この機会、逃せば二度とないぞ? どうする? うん?」
挑発的に問うてくる葛の葉に、俊太郎は 怯えを含んだ戸惑いをみせた。
信じられないが、信じられる内容でもある。
使えば、どれだけの時間で、どれだけの量の生命を、奪われてしまうのだろうか。
場合によっては、今夜が自分の命日という事になりかねない。
その場合、共倒れか、無駄死にとなるのか。
自分の残りの人生、そんな終わり方でいいのか、俊太郎は大いに怯んだ。
そのままの気持ちで、刀を差していない、自分の左側の腰に目を落とす。
今の自分にとって、この状態が一番しっくりくる形だ。
そうだ、刀が欲しいわけじゃない。
祓い屋として、災いを 祓って欲しいだけである。
俊太郎はこれを断ろうと、右手を突き出して、葛の葉の方へ 刀を押し出すようにする行動にでた。
そして「いいえ、これは結構。お祓い、化け物退治の方を、お願い申す」などと、口にしようとした矢先、指がその妖刀に触れた途端に、俊太郎は全身を震わした。
指先に、ピリッと感じた電流のような感覚は、鳥肌をともなって、全身を駆け巡る。
すると、どうしたことだろう。
俊太郎の雰囲気が、ガラリと変わった。
目つき、目の輝き、筋肉の張り、姿勢と、全身から かもし出される、相手が感じ取る気というものが、さっきまでと、すべて真逆に変じたのである。
それに符合して、脳裏に浮かぶ、あの夜の出来事。
幼馴染みで大親友の綾之新が、自分をかばって、あの巨大な女の生首の化け物の下敷きになったこと。
心が瞬く間に悲しみに包まれて、眉尻を下げるなり続けざまに、そんな自分を助けてくれた彼を踏みつけながら 嘲笑う巨大な女の生首に、忘れていた怒りが みるみる込み上げてきた。
その様は葛の葉を「ほう」と小さく驚かせて、紅葉と楓には咄嗟に 二人で抱き付き合うほど、怯えさせてしまっていた。
俊太郎は鋭い目つきで、突き放すはずだったその妖刀をしかと掴み、そして、
「お借りします」
「あいよー」
葛の葉の手から受け取ると、素早く立ち上がって振り向きながら腰に差し、颯爽と表へと出て行ってしまった。
紅葉はやっと、感じたことを口にする。
「何なんですか、あれ?」
「あれがアイツの本性ってヤツだな」
「…………こ、怖ぇ……」
楓は一向に恐怖が ぬぐえず、紅葉を強く抱きしめずには いられなかった。
四
俊太郎は一人、草履から草鞋に履き替えた上で、提灯を持って歩いていた。
場所は、神田の橋本町。
時刻は、暮れ五つ(現在の八時頃)を知らせる鐘の音が鳴る夜分。
頭の中で何度も、あの巨大な女の生首をどうやって倒したものか、想像を繰り返している為に、気が抜けたように ぼんやりとした表情で歩いていた。
ふと気になって、立ち止まって、背後を振り返ってみる。
誰かがついてくるような足音はおろか、提灯の明かりすら見えない、夜の闇が広がっている。
だが、何者かの視線が、向けられているような気がしてならない。
(ネコか? イタチか? タヌキか、キツネか? 人では ないような?)
首を傾げてから、また正面を向いて歩き始める。
しばらく歩いていると、正面の闇の中から、小さな明かりが見えた。
こちらが進みにつれて、その小さかった明かりも、どんどん大きくなっていく。
「こんばんは」
とりあえず俊太郎は、通りすがりざまに声をかけてみたが、相手は何も言わずに顔を逆の方へ向けて、急に足早になって去って行ってしまった。
黒い着物を着て、丸めた筵を脇にかかえて、手ぬぐいで ほっかむりをした女だった。
以前に、この辺りで すれ違った女とは、別人のように感じられた。
しかしだからとって、俊太郎はこれといって興味は示さず、また ぼんやりとした表情を浮かべながら歩き続けた。
しばらく歩いていると、また夜の闇に、小さな明かりが ポッと灯った。
自分の足音と混ざるようにして、草履の音が、どんどん近づいてきて大きくなってくる。
ぼんやりと相手の姿が、わずかながらに確認できると、それは腰の曲がった老人のようだった。
「こんばんは」
このしゃがれた声には、聞き覚えがある。
以前にも こうやって、すれ違ったことのある老人なのだろう。
俊太郎はいらぬ不安を抱かせないよう、つとめて穏やかな顔をして、挨拶を返すべく口を開けた。
「あっ、こんばん……ッ!?」
次の瞬間、言い終える前に、通りすがりざまに会釈したその矢先、カッと俊太郎の両目が殺気を帯びて見開かれた。
以前には感じ取れなかった直感が、鋭く本能に指令を下す。
俊太郎は抵抗もなく、それに従った。
提灯を手放すと、目にも留まらぬ早さで妖刀を抜き放ちつつ、地面に落ちる前の提灯ごと、老人を斬りつけた。
「おまえかァーーッ!!」
俊太郎の怒鳴り声が、闇夜に響き渡る。
間合いでは、完全に相手を仕留められる近距離であったはずだったのだが、剣先だけが相手の体をかすめただけのようだった。
老人の体は、カビ臭い黒い煙となって、消え去った。
そして肝心の頭はというと、奇声を上げて夜空へと飛び去って行ってしまった。
その際に、その顔は みるみる白色に染まり、さらには みるみる膨らんでもいた。
真っ二つに斬られて地面に落ちた提灯が、その体を燃やし尽くして務めを終えてしまう。
目を開けていようが、閉じているのと同じほどの完全な暗闇が、辺り一面を覆い尽くす。
この時の俊太郎は、気づいていなければ見てもいないので知らない事なのだが、妖刀は鞘から抜き放ったその時、刀身は赤黒く錆びついていて、見るからに使い物にならない状態であったのだが、剣先とはいえ相手を斬った途端に淡く青白く発光して、錆びは消えて普通の日本刀と同じ刀身へと変じていた。
さらには刀を失った鞘に、いくつかの梵字が浮かび上がっているのだが、それにも気づいてはいない。
自分の生命を削る妖刀を手に、ただじっと生首が飛んで消えて行った夜空を、睨むようにして見上げていた。
(どうした? さっさと来い。逃げたわけじゃないんだろう? 隠れているだけなんだろう? こちらの様子を、神様のように高い場所から探っているんだろう? お見通しなんだよ。いつまで、そうしている気だ? 来い。来い。来い。来い)
ギリリッと歯を噛み締める。
気が急いているのは、鞘から妖刀を引き抜いた以上、このままでは自分の命が危ういと焦っているわけでは決してない。
綾之新を守れなかった、むしろ助けられたという自責の念と、自分自身に対する怒り。
そして手傷を負わせず、相手にもせずに逃げ去った あの化け物を、後悔させてやろうという憎しみ。
それらが混ざり合って、闘志を激しく燃やしていたからである。
「来いッ!!!」
とうとう思いが心の中に留まり切れず、怒声となって口から吐き出された。
張り上げられたその声は、月も星もない夜空へ響き渡る。
そんな、すっかり もとの状態に戻った俊太郎からの挑発に、すると不意に、真っ暗な夜空に月がみるみる満ちて現れた。
だがそれは、地上に優しい明かりをもたらさずに、ただ真っ白に発光しているばかり。
俊太郎は妖刀を握る手に、力を込めた。
そんな反応とほぼ同時に、真っ白な満月に、ニタリと笑んだ女の目と真っ赤な唇とが現れる。
「ゲェッゲェッゲェッカァッカァッカァッ」
その下卑た笑いは癖なのか、俊太郎からの挑発に対する応えなのか。
ともあれ巨大な女の生首は、笑いながら急に落下してきた。
その速さたるや、初めて見た時のそれとは比べ物にならないほどの、流れ星を連想させるほどの素早さがあった。
度肝を抜いた俊太郎は、退治すべく立てた作戦を実行するのに遅れてしまい、かろうじて飛び退ることで回避する。
前屈みに片手を地面につけるようにして顔を上げる俊太郎の目の前で、巨大な女の生首は地面に激突するようにして着地した。
その衝撃で四方八方に、猛烈な突風と共に 砂埃を生じさせる。
しかし俊太郎は構わず、口を閉じて息を止めて、細く目を開けたままで妖刀を横に払う。
だが強風で、刀を振る速度が奪われてしまい、巨大な女の生首は下卑た笑いを上げながら、余裕を持って避けるように飛び上がった。
「あっ、くそう!」
悔しがる今の俊太郎の心の中に、以前に相手に感じた恐怖心は まったくない。
妖刀のお陰なのか、あるいは化け物の様相に慣れたのか、どちらなのか定かではないが、気迫が ますます闘志を増幅させた。
大きく息を吸って、大きく長く吐き出し続ける。
体中の血液が、激しく全身を駆け巡る。
血管が皮膚を、突き破らんばかりに浮き出る。
体中が熱い。
両目は血走り、白目は赤く染まる。
吐き出される息は、白みを帯びていた。
「……来い」
後ろを向いている巨大な女の生首は、完全に夜空の色と同化していた。
今、どこに浮かんでいるのか、あるいは落下して迫って来ている最中なのか、さっぱり分からない状態だった。
下卑た、あの聞く者を不愉快にさせる笑い声すら、聞こえてはこない。
耳の奥が痛くなるほどに、しんと静まり返っていた。
と、その大きな顔は、突如として現れた。
その地上までの距離、わずか三丈(約10メートル)以内。
先程と同じ速度で、落下し迫って来ていた。
しかも、
「ゲェッゲェッゲェッカァッカァッカァッ」
勝利を確信したかのような下卑た高笑い、その吐き出される息が風圧となって、俊太郎の動きを封じ込めようとしてくる。
……もしも俊太郎が、この時、少しでも驚く時間を作っていたならば、一巻の終わりであっただろう。
俊太郎は考えるよりも先に、野生の動物のような本能のみで、瞬時に動いていた。
強く地面を蹴って、落ちてくる巨大な女の生首の後ろへ回り込む、そのつもりだった。
しかし、ここで不運にも草鞋の紐が切れてしまい、体勢を大きく崩してしまう。
だが、転びそうになる所を片手をついて、身を引き寄せる腕力だけで前方へ飛んで、転がった。
すんでの所で踏めなかった巨大な女の生首が、地面に激突し着地する。
それによって生じた風圧を利用して、俊太郎は身を起こしながら飛び退った。
しかし、こちらが着地したのは地面ではなく、土塀。
さらに蹴って、三角飛びで高く飛び上がっていた。
「おい?」
声をかけられて、振り向く巨大な女の生首のその顔から、スーッと笑みが消える。
見上げるほどに高く飛び上がっていた俊太郎が、妖刀を両手に持ち替えて、大きく振りかぶっていたのだ。
「キィーーッ!!?」
巨大な女の生首は奇声を上げて、また安全な夜空へと飛び上がって、回避しようとする。
それが彼女の運の尽きだった。
その飛び上がる勢いと、妖刀を振り下ろす勢いとが ぶつかり合って、墓石よりも硬い硬い物であったはずの巨大な女の生首を、
スパンッ!!
豆腐のように、あっさりと真っ二つに斬り裂いた。
あの折れた鈍刀と同じ刀で、これと同じようなことをしていたら……きっと敗北者は俊太郎となっていたであろう。
俊太郎は、片方だけ草鞋を履いていない足で地面に着地すると、夜空を仰いだ。
真っ二つとなった巨大な女の生首は、空中に留まったままで、打ち上がったばかりの花火のように、まばゆく発光していた。
地上を、真昼のように明るく照らし出すそれに、本当に花火のように破裂して火花を散らすのではないかと警戒する。
だが、そんな心配とは裏腹に、巨大な女の生首は発光の明るさが弱まって行くのと等しく、小さく小さく縮まって、その姿を楕円形の石に変えてしまっていた。
そして今まであった力を失ったらしく、ボトッと地面に落ちてきた。
とりあえず剣先で、それを突っついてみたりしてみる。
ただの真っ二つに斬られた、もとは楕円形の大きめの石のようだった。
カビ臭いうえに所々、苔が生えているようでもある。
「…………これが? あの化け物の正体?」
もとの状態に戻っていた俊太郎は、妖刀を鞘に納めると、懐から風呂敷を取り出して、二個になった大きめの石を包んで持ってみた。
(うん……普通に重いくらいだ)
ともあれ、これで一件落着だ。
風呂敷に包んだ石に向かって、ほうっと溜め息のような大きな息を吐くと、意識して肩の力を抜いた。
そして手に提げて持つと、帰路につくことにした。
しかし、一つの問題を解決すると、もう一つの問題が気にかかってくる。
(俺は あと、どれくらい生きられるのだろう?)
一体どれだけの寿命が、この妖刀に吸い取られてしまったのやら。
近く、妻の千鶴を、未亡人にしてしまうことだろう。
自分が死んだら泣いてくれるのだろうか、どれほど悲しんでくれるのだろうか。
歩きながら ぼんやりと見上げると、化け物を退治したのが要因か、夜空には満天の星が輝いていて、見る者の心から、どんな不安も打ち消す効果があった。
きっと明日は日本晴れだ。
<第五章 終>