第四章 あやかし
一
神田の橋本町に着くと、夜空は薄雲が覆い、星はおろか月までもが薄すらと隠れる天気となっていた。
しかも、冷たい夜風の中に生暖かな風が、そよ吹いている。
人の心に不可思議で、奇妙な気持ちを与えるものがあった。
青白い顔をして駕籠から降りた俊太郎は、待ってましたとばかりに、その冷たい風を肌に浴びて、心地好い気分に浸る。
「私たちは、ここら辺を、しばらく歩いてくる。おまえたちは、屋台か居酒屋で暖を取り、またここへ戻って来てもらいたい」
「へいっ。かしこまりやした」
駕籠かきに駄賃を渡して別れ、二人は手に持った提灯の灯りを頼りに夜道を歩き出した。
遠くから聞こえてくる、時の鐘の音の数を指折り数えて、
「暮れ五つ(現在の八時頃)……夜分に入ったようだ」
と、綾之新は言った。
俊太郎は、着物の袖で額の脂汗をぬぐいながら、
「そうか。いよいよか。気を引き締めなければなぁ」
「……駕籠は苦手か?」
「自分の足で散々、野山を駆け回っていた所為かもしれない。どうにも好きになれない。あ、おまえの気遣いには、感謝しているよ」
「空回りの気遣いを感謝されてもなぁ。反省と苦笑いを浮かべるばかりだ」
「反省ついでに、口を滑らせてもらえないか?」
「何を聞き出したい?」
「凶宅」
「やはりそれか」
「噂話の通りなのか、事実は異なるのか?」
「この化け物は、凶宅からやってくるとでも考えているのか?」
「可能性は、あるだろう?」
「そうだなぁ……ともかくだ? あの空き屋敷に住んでいた家族、奉公人にいたるまで、皆殺しにあうという凄惨な事件が数回、起きたというのは確かだ。当初は、押し込み強盗の仕業とされていたんだが、遺体の損壊が あまりにも酷くてな。金品にいたっては、盗まれたような形跡もなく、『特殊な殺し』だけが目的のようだったらしい」
「だから当時の奉行所は、『人ならざる者の仕業である』と、結論づけたわけか」
「まっ、そういうことだな。実際、何度目かの場合では、押し込み強盗と思しき数名の者たちまでも、首や四肢が胴体から ねじ切られるように分断されていただけでなく、内臓までも内側から破裂するかのように、畳の上に、ぶちまけてあったらしいからな」
不意に強めの冷たい風が吹き抜けて、二人は同時に身震いをした。
「でも犯人は、捕まったのだろう?」
「最後の事件のことか。土佐藩を脱藩したとかいう男がな、格安物件という一点だけに着目して、空き屋敷を買い取って家族と移り住み、『呪われた屋敷に住む勇猛な武士』と触れ回って、どこかの大名屋敷に召し抱えられようという腹づもりだったらしい。
ある日の夜、その男は、原因は分からないが気が触れて、二本の刀を持って家族を皆殺し。そのまま屋根へと上がり、半裸で血まみれのままで、空に向かって わけの分からぬ言葉を張り上げ続けていた所を捕縛されたのだそうだ。それから男は、裁きを待たずに牢獄で自ら命を絶ったらしい。
それを最後として、二十年以上も経った今でも、もう誰も住もうとはしなくなった。意識して近づく者でさえ居ない。取り壊そうにも祟りを恐れて、大工たちは命惜しさに、どこも引き受けてはくれず、仕方なく、そのままにしてあるとか」
「……なあ? じゃあ、一番最初に被害にあった住人は、どんな奴らだったんだ? それに、一番最初の事件が起きる、その前に住んでいた人達は、引っ越したのか?」
「それなんだがな? これが、妙」
「ご苦労さまで ございます」
手前からやって来た、帰路の途中らしい老人から通りすがりに声を掛けられ、綾之新は話を止めた。
「道中、気をつけて帰られよ」
老人の足音と気配が、充分に遠ざかるまで、二人は押し黙ったままだった。
そうして綾之新が、ポツリと呟くようにして、先に口を開いた。
「凶宅が近い所為か、本当にここら一帯は、真っ暗だな。町の中というより、森の中をさまよい歩いているかのようだ」
「誰も住もうとはしないのか?」
「さすがにな。人生というものは、山あり谷ありが当然だ。しかし近所に凶宅があると、どんな不幸ごとも、それの所為にしてしまいがちになるというものだろう? 凶宅の周囲、屋敷や民家も含めて、人は住んでは いないらしい」
「なるほどな……」
本来ならば、武士が住む屋敷であろうその敷地の周りを囲むようにしてある白い塀が、永遠のように連なって見えるのは、暗さの所為か、不気味という感情がもたらす幻影か。
そのすべてを飲み込んでしまうような、目の前に広がる闇の奥に、またポウッと小さな明かりが灯ったかと見ると、それが どんどん大きくなって、それが手に持った提灯のものだと分かると、どちらからともなく安堵して、肩の力を抜いていた。
やって来たのは、黒い着物を着て、手拭いで顔をほっかむりし、左の脇に丸めた筵を抱えて、右手に提灯を持った、女と思しき人物だった。
この暗さに加えての ほっかむりとあっては、顔はよく見えるはずもないのだが、通りすがりざまに二人から顔を背けるようにして、足早に去って行く。
「喪服か……近くで葬式でもあったようだな」
と、ポツリと呟く俊太郎に、綾之新は小さく笑った。
「あれは、夜鷹だよ。身売りだ。そうでもしなければ生活が成り立たない、家計を支える女の最後の手段と言っていい」
「身売り……しかし、こんな所で客なんて、取れるものなのか?」
「縄張りや、客に自分の素性がバレる危険性を 鑑みると、遠くまで、こういった場所を選ぶ他はないのさ」
「……世知辛いな」
「止まぬ雨はない。明けぬ夜もない。笑う門には福来る。朝晩と飽きずに、しけた顔してりゃあ、やっとやって来た福の神すら、見向きもせずに去ってしまうもんさ。泣くより笑おう。上向きゃ涙も、目薬だ……なんてな。芝居でな? そんな台詞が、あったんだ」
「へー」
「おまえの女房が書いた、脚本の芝居だよ。知らないのか?」
「いやぁ、全然。見ようとは思ってはいるんだけど、芝居が嫌いというわけでもないんだけれど、なぜかな? 自分でも、よく分からない。進んで見てみようとは、どうもな?」
「そうか。だが、これだけは言っておく。はずれはない。どの芝居も面白いぞ。どれも これも、オススメだ。天才だよ、おまえの女房は?」
「……」
俊太郎は何も答えず、ただ我が事のように喜びを噛み締めているようだった。
それを横目で盗み見た綾之新は、口元に薄らと笑みを浮かべると、夜空を仰いだ。
相変わらず雲が空を覆っていて、星も月すらも、どこにあるのか見えはしなかった。
「この天気だと、明日は雨かな?」
「例の現場は、そろそろか?」
「んっ?」
「おっ?」
偶然に息が合ってしまい、二人の声が重なって、お互いに相手の言った言葉が聞き取れなかった。
と、その時である。
最初は、星だと思った。
雲のわずかな切れ間から偶然に現れた、他の星よりも強く自分の力で光を放つ星、恒星。
それが見えたのだと思った。
しかし、真っ白に発光するその点は、見る間にどんどん膨らんでいく。
――あれは、何だ?
綾之新は歩きながら、視線が外せずにいる。
そんな彼の様子に気づいた俊太郎は、釣られるようにして、その視線の先を追って夜空を見上げた。
そしてすぐに『何を見ているのか』が分かると、俊太郎もまた同じように正体不明のそれに釘付けになった。
「……んんっ?」
大人の拳ぐらいの大きさの真っ白なそれは、三度笠ぐらいの大きさにまで膨れ上がってもなお、膨らみを止めなかった。
ふと気づく。
音がする……その音がどんどん大きくなっている……。
物音のような、そうじゃないような、風を切る音のような……いや、違う。
鉄の棒で、鉄の棒を叩くような甲高い笑い声と、ガマガエルのような低い笑い声。
その二つの両極端な笑い声が渦を描いて、綾之新と俊太郎だけに聞こえる音波となっているようだった。
と、真っ白な丸いそれは、カッと人間の顔のように大きな二つの両目を見開いた。
続けて、薄い真っ赤な唇が、耳まで裂けるようにして現れる。
そうして、二人のどちらに対してなのか、おおっぴらに愉快げに真っ白な歯を剥き出しにして、
「ゲェッゲェッゲェッカァッカァッカァッ」
と下卑た笑いをしながら下降を加速させた。
怖い、恐ろしい。
頭では分かっているのに、二人は見上げたままの姿勢で逃げることもできない。
体を自由に動かすことができなかった。
見たこともない生き物が近づいてくる。
本能で記憶をさかのぼり、あれとよく似たものを見たことはないか、絵でもいい、誰かの話の中ででもいい、知っていることのすべてを思い起こしてみるが、どれにも当てはまらない。
頬が膨れた『おかめ』のような、女の生首。
斬首刑にあって胴体から切り離されて、晒し首された、罪深い女の生首。
しかし、あれは死んでいる。
動くわけがない。
ああして笑うわけがない。
あんなに巨大であるはずがない。
それが今、それが今こうして、空から降ってくる……。
「霧島ぁ!!」
怒鳴り声のような活を入れた綾之新の叫びに、俊太郎がハッと我を取り戻すと同時に、横に取んだ。
突き飛ばされたのだ。
何度か地面を転がって、倒れたまま顔を上げると、
ドスン!!
「あっ!?」
島田髷をした、真っ白な肌の巨大な女の生首が、綾之新を押しつぶしたところだった。
あまりの出来事に目を大きく見開き、口はポカーンと開き、その上に耳鳴りが生じて音がうまく聞き取れない。
まさに、茫然自失だった。
そんな俊太郎に目もくれず、女の生首は、下敷きにした綾之新を見下ろしながら全身を揺すって、ぐりぐりぐりと更なる圧迫を与えているようだった。
不意に、それはまるで死に際に見る走馬灯のように、俊太郎の脳裏に綾之新との思い出が駆け巡る。
幼い頃の数々の出来事と、江戸に来てからの出来事すべて、何もかも。
そのことが俊太郎の中から、恐怖心を完全に払拭させた。
それどころか心の奥底から、全身に流れる血液が沸騰しそうなくらいの熱い思いが込み上げて、それは憤怒へと変化した。
「ぬぅわぁああああああッ!!」
両目が血走り、体中の皮膚から血管が浮き出る。
吠えながら吐き出す、息が白い。
俊太郎は立ち上がりざま、とてつもない速さで大刀を引き抜いて、両手で振り上げた。
足に力を込めると、草鞋が軋み、硬いはずの土は粘土のように柔らかくも容易く、踏み込みやすい へこみを作る。
そのまま全身全霊を持って、女の生首へ目掛けて、闇を斬り裂かんばかりの強烈な一撃を食らわせた。
パキィーーン!!
振り下ろした大刀が、女の生首にぶち当たった個所から真っ二つに折れて、そのまま勢いよくどこかへ飛んで行ってしまった。
あっという間に俊太郎の瞳が、絶望の色に染まる。
両手だけでなく肘にかけて、感覚を失うほどの痺れが生じていた。
大刀を握っていられない。
両肩に激痛が走る。
折れた分だけ軽くなった大刀を持って、構えることすらできない。
見た目からして、大福のように柔らかいものだと思った女の生首は実際、墓石よりも硬い硬い物だった。
女の生首が、下卑た笑いを崩さずに、ギロリと眼を俊太郎に向ける。
「ヒィッヒィッヒィッヒィッ」
急に引きつった笑いを上げ始めると、
「ヒィハハハハハハァーーーーッ!!」
高笑いをしながら飛び上がり、高く高く浮上すると、そのまま夜空の闇へと煙のように消えてしまった。
かろうじて、指と指との間に引っかかるようにして持っていた、刃のほぼ半分が折れた大刀が、死んでしまったかのようにカチャリと地面に落ちた。
いつの間にか普通の状態に戻っていた俊太郎は、膝から崩れ落ちそうになるのを何とか堪えながら、夜空のあちこちを見渡した。
あの女の生首は、ただ消えただけかもしれない。
またあの暗闇から、笑いながら降ってくるかもしれない。
冷静さを欠いたように、懸命にその姿を探すが、どこにもそれらしきモノは見当たらなかった。
「う……ううう……」
ハッとして目を落とす。
死んだと思われた綾之新から、かすかな呻き声が聞こえてきた。
生きている!
それを知り、喜びの後すぐに、「ここから早く逃げ出さなねば!」という感情が、俊太郎を急き立てた。
「誰かァーーッ!!! 誰か居ないかァーーッ!!! 駕籠屋ァーーッ!!! こっちへ来てくれぇーーッ!!!」
喉が張り裂けんばかりに、心から叫んだ。
その声は夜の闇を、どこまでも こだました。
何事かと、わずかな雲の透き間から、ひょっこりと月が顔を覗かせていた。
二
翌朝、俊太郎は見舞いの品を手に、貴鼓の武家屋敷を訪れていた。
門番に名を名乗り、綾之新の在宅を尋ねてから、中へ通してもらう。
年相応の顔立ちと身なりをした奥方、お律に出迎えられて、案内されるようにして一緒に綾之新の寝室へ向かった。
綾之新は寝間着の浴衣姿で、布団の上でうつ伏せになっていた。
あの後、すぐに医者に診せた所、急性腰痛症、つまり「ぎっくり腰」との診断で、それ以外の異常は見られないとのことだった。
しかし、この状態では、とてもじゃないが仕事に行けず、自由に起き上がれず、床離れができないながらも綾之新は、仕事の資料を部屋に持ち込んで、枕もとで、正常な時以上に仕事に励んでいるようだった。
「あなた? ご友人の霧島さまが、お見舞いに伺ってくださいました」
「おお、そうか。いやぁ、わざわざすまんな?」
「気分はどうだ?」
俊太郎は帯から鞘ごと大刀を引き抜いて、布団の側に座りながら横に置く。
心配そうな俊太郎に反して、綾之新はケロリとしていて、ある意味、休養を満喫しているかのような笑みを浮かべた。
「だいぶ、いいよ。ただ、横になっているのも退屈なんでな。奉行所から気になる資料を持って来てもらって、暇潰しをさせてもらっているよ」
「そうか」
「それは、何だ?」
「これか? おまえの見舞いにとな。中身は、モナカだ」
「丁度いい。甘い物が食べたくて食べたくて、仕方がなかったんだ。お律? 熱いお茶を頼む?」
「はい」
お律は亭主である綾之新に会釈し、それから俊太郎に頭を下げてから、静々と退室して廊下の奥へと消えて行った。
俊太郎は風呂敷を解いて、木箱を出し、蓋を開けて綾之新の前に出す。
綾之新は適当に一個を選んで、指でつまむと、口に運んで かぶりついた。
「うん、甘い! 欲しかった甘さだ」
「……綾之?」
「何だ?」
「昨夜は、本当にすまなかった」
「やはり気にしていたのか。はっはっはっ。勝手に同行したのは、私の意思だ。気に病むことはないぞ?」
「しかし!」
「むしろ謝るのは、私の方さ。すまなかった。急にぎっくり腰を患って、意識を失うとは。医者の話によると、『働きすぎ、過労が原因』なのだそうだ。やれやれだよ。老いを自覚せずには、いられない」
「……憶えていないのか?」
「うん? 何がだ? 意識を失う前に、私はおまえに、何か約束でもしたのか?」
「いや、そうじゃなくて……えっ? おまえ、いつ、倒れたんだったっけ?」
「はあ? えーっと、あれは…………そう、あれだ。あの時だ。凶宅がどうのこうのと、話していた時だ」
「…………」
「はっはっはっ。そういえば、祟りなんじゃないかと、妻は顔を青くしていたよ。祟りであれば病状が分からぬまま、衰弱していくものだろう? まったく……ふっふっふっ。あー、早くお茶が欲しいものだ」
「安心したよ。本当に、元気そうで」
「実は妻もな? あれで内心は喜んでいるんだ。この頃はまったく、親子だけでなく、夫婦の時間さえも、なかなか持てなくてな。これも、『怪我の功名』というものなのかな? ふふふっ。ありがたいことだ」
嘘、偽りのない、心の底から幸せを噛み締めている、そんな笑顔だった。
釣られて俊太郎も「……そうか」と答えながら、笑みを浮かべていた。
とにかく、命に別状がなくてよかった。
そして俊太郎は、悟る。
別に自分に気を遣って、嘘を吐いているわけではないらしい、と。
綾之新には、記憶がないのだ。
昨夜の出来事を、まったく憶えてはいないらしい。
――人に覆い被さるようにして、踏みつけてくる妖怪。
――そして踏みつけた相手に、腰痛を患わせて、その上に記憶を奪う。
そして……そして……。
綾之新を見舞った俊太郎はその足で、神田の橋本町は、昨夜の事件現場を訪れていた。
夕暮れまでには、まだ時間があり、提灯の灯りを必要としない時刻。
背筋にスゥスゥと寒気を感じながら、屈みつつ、うろうろと地面を調べ回って、やっと己の大刀の破片を見つけることができた。
拾い上げてみると、女の生首にぶち当たった部分が、刃こぼれしている。
「大事に使ってきたつもりだったんだけどなぁ……」
江戸にやってきてすぐに、三人で、自分は なけなしのお金をはたいて、刀屋で初めて買った、日本刀だった。
名刀ではない、名刀には遠くおよばない。
安い安い、いわゆる鈍刀というヤツである。
それでも、それを手にして腰に差すと、すがすがしいほどに胸を張られ、とても誇り高い気持ちになれたのは事実だった。
『よォし! 俺たちはこれを機に、もっといい刀を買えるよう、どんな苦しみも乗り越えて、成り上がって行くぞォ!!』
地元のガキ大将で、みんなを江戸に誘った黛 一馬の力強い号令に、俊太郎と綾之新は、『おおぅ!!』と力強く応えたものだった。
ともあれ昨夜の出来事を、回想する。
構え、心構え、振り方に、一点の動揺はあっただろうか。
墓石斬りの経験がないわけではない。
しかも偶然というわけではなく、意志を持って、二、三度ほど。
魂抜きがすんで、古寺の片隅で雨風にさらされながら処分されるのを何年も待っている物や、試し斬りや腕試しの類で、墓石のように長方体に加工された石材などを。
経験した数は少ないが、袈裟斬りに分断する、その時の手応えや体の動きは、充分に身についているはず。
昨夜のあの一撃は、頭上に振り上げて、真下へ振り下ろすといったものだったが、斜めに振り下ろすよりも、『斬る』という効果は高いはずである。
にも拘らず、刀はあの妖怪に ほんのわずかでも傷を与えることはできず、逆に刀の方が二つに折れてしまったのだ
しかも相手にもされず、妖怪は笑いながら飛び去って行ってしまった。
――硬い、硬すぎる……きっと岩石よりも、ずっと硬い。
どうする? どうやって倒す?
刀が悪いのか? 自分が弱いのか?
俊太郎は、懐から懐紙を一枚だけ取り出すと、破片を丁寧に包んで、着物の袂に入れた。
立ち上がると下唇を噛んで、気がすむと手の甲で湿った唇をぬぐう。
「刀……新しいのを、買わないとな」
ポンポンと腰に差した大刀の柄を軽く叩くと、俊太郎は帰路についた。
実は、名刀を持っていない、というわけではない。
江戸に来る前日、三人しか居ない道場で、それぞれが新しい名前を雪舟斎から授かったその時、綾之新と一緒に、名刀も授かったのである。
刀匠、岩本 鉄衛の作品であり、剣豪として名高い雪舟斎がそのデキを認めた名刀が、二振り。
そのうちの一振り、『刹那海風』と銘打たれた日本刀を、綾之新へ。
もう一本の、『刹那浮雲』と銘打たれた日本刀は、俊太郎へ。
刀袋と一緒に授けられたのである。
それから雪舟斎は、訊いた。
「岬 綾之新? おまえはこの刀で、何を斬る?」
「はい。私は、弱きを助け、強きをくじき、世の中を正しく導く、」
綾之新がまっすぐな目で、優等生ならではの正義感あふれる、まっとうな回答をしている間、その横で俊太郎は、虚ろな表情を浮かべていた。
――この名刀で、『何を』斬る?
深く考えもせず、パッと素直に頭に浮かんだのは、人間以外の獣たち。
人を襲い食らったヒグマ、それを筆頭とした害獣と、人でなしの山賊どもだった。
しかし、だからといって、弱い人々を助けたいわけではない。
自分の腕に相当な自信があるわけでもない。
気違いよろしく、ツワモノ退治に興じたいわけでもない。
正義感でもなく、本音を言うとそれは自分の中の本能が、ただひたすらに訴えかけてくる回答だった。
「うむ。で、おまえは、何を斬る?」
雪舟斎の鋭い眼差しが、こちらに向けられるのを合図に、急に我に返された俊太郎は目を大きく見開いて、餌を欲しがる鯉のように口をパクパクさせた。
しばらくしたのち、
「わたくしも、寸分たがわず、同じように使いたいと思っております」
と言って、深々と頭を下げたものだった。
その後だったか、翌日だったか、綾之新が刀袋の中の名刀を手に持って、誇り高い笑みを浮かべながら言った。
『柊木先生から いただいた、この刀? 帯刀せず、家宝にしないか? 守り刀にするのもいい。どうかな?』
『守り刀って、短刀だろう? これは、大刀だぞ?』
『細かいことは、気にするなよ。なあ? 大事に大事にしよう?』
まるで、この世にたった一つの自分だけの宝物を手に入れたかのように、その瞳をキラキラと輝かせていたのが印象的だった。
綾之新は今、その名刀を、あの大きな屋敷のどの場所に、大切に保管しているのだろう。
俊太郎の名刀は、刀袋に入れたまま、箪笥の一番下の引き出しの中に置いていた。
自宅に帰った俊太郎は、箪笥の前に正座をして、一番下の引き出しを開けて、置いたままの名刀を前に、じっと見つめていた。
腰から鞘ごと引き抜いた大刀を刀袋に入れて、その上に、袂から取り出した破片を包んだ懐紙を重ねるようにして置いて、その引き出しの奥へと置いた。
それから腕組みをすると、また刀袋に入れたままの名刀を見つめ直す。
「う~ん、この名刀なら、あのバケモノを斬れるか?」
と、手を伸ばすと、
「い……いやいや、こんなことに使っては、ダメだろう」
と、手を引っ込めた。
「いや、しかし?」
と、また手を伸ばすと、
「いやいやいやいや」
と、また手を引っ込める。
「いや、でもなぁ?」
と、またまた手を伸ばす。
といった繰り返しを、優柔不断さながらに、何度も何度も続けていた。
今は独り暮らしの為、その行動を止めてくれる人は誰も居らず、そのまま夜がふけていった。
三
翌日、珍しく大刀を腰に差していない俊太郎は、腕組みをしながら四谷左門町の大通りを歩いていた。
田宮 伊右衛門に用があって、そこへ向かっているわけではない。
昨夜、名刀を使うか、使わないか、迷いに迷っている間に、ひらめいたのだ。
腹が減ったら、飯屋。人が死んだら、お寺。人が殺されたら、番屋。
そして幽霊や妖怪の類には、祓い屋が一番。
能力や実力を目にしたわけではないが、彼女なら何とかしてくれるという確信が、なぜだかあった。
真神稲荷神社。
そこへ向かって歩きながら、田楽屋から香ってくる味噌の香りに腹をぐうっと鳴らし、二つの意味で険しい表情を浮かべていた。
(美味そうな香りだなぁ。それにしても、この話に乗ってくれるだろうか? 帰りに田楽屋に寄ろう。あの娘はどうにも、ひねくれている気がする。みそ田楽といえば、やっぱ酒かな? だが祓いに関しては、別だと信じたい)
おんぼろ神社の中で暮らしている風のあの巫女と、みそ田楽とを、ごちゃ混ぜに考えながら歩いている俊太郎だった。
そうして目的地の神社に到着して、境内に足を踏み入れるなり、手土産を持って来ていないことに気づき、くるりと振り向いて引き返そうとも考えたのだが、『今回は』ということにして、今日の所は手ぶらで訪問させてもらうことにした。
(う~ん……昨夜から、ずっと優柔不断に取り憑かれている気がする。刀が折れた所為かな? これじゃあ、いけないよなぁ)
ゴミでも振り払うかのように顔を左右に振ってから、両手で同時に自分の頬を叩く。
一回、二回、三回、乾いた音が境内に響いた。
その様子に左右の狛狐が、ニヤリと笑んだ気がする。
構わず、気合の入った俊太郎は、声を張り上げた。
「よしっ! ごめん! 拙者、霧島 俊太郎と申す者! 昨日、偶然、ここへ訪れた浪人者にござる! お暇あらば、お話したきことがあり、参上つかまつった! ごめん! どなたか、おられないか!」
誰も居るはずがない。
おんぼろ神社の中には、埃をかぶった神輿が部屋いっぱいに、一基だけあるのみなのだから。
それを知る大通りの通行人たちは、俊太郎の背中に憐れむような眼差しを送って、通り過ぎて行く。
本当に誰も居ないのか、昨日のあの光景は幻だったというのだろうか。
初めてここへ訪れた時と違って、格子戸が閉じたままであることもあり、不安が背中に覆い被さってくる。
俊太郎の掛け声に応じて、誰かが格子戸を開けて出てくる気配や、足音すらも聞こえてはこない。
格子戸の透き間から見えるのは一向に、神輿ぐらいのものだった。
俊太郎は思い切って、痺れを切らしたように格子戸に手を掛けると、横に引いて中へと入ってみることにした。
「やったーーッ!! にじゅーーッ!!」
元気で明るい声が、俊太郎の体を通り抜けて行った。
俊太郎は内心、ホッと安堵する。
よかった、京の都にある公家屋敷の一室のような絢爛な部屋が、確かにそこに広がっていた。
同じ顔をした長髪と短髪の二人の幼い巫女と一緒に、将棋盤を囲んで、白い着物に朱色の袴を穿いた若い女が一人、居る。
短髪の巫女、楓が、ご機嫌に大はしゃぎしていて、長髪の巫女、紅葉は、広げた扇子で口元を隠しながら、忍び笑いをしている。
若い女、葛の葉はその真ん中で、右肘に左手の甲を乗せてながら右の拳を右の頬に乗せながら、幼くも美形といった顔立ちに、眉間に皺を寄せて、くしゃっと険しいものに変えていた。
どうやら三人で回り将棋をしているらしく、楓がたった今、四枚の金将をすべて裏側で出すことができて、大喜びをしているようだった。
で、葛の葉は、どうやらビリのようである。
「はい、次は葛の葉さまの番ッスよー?」
「わーっとるわい!」
四枚の金将を、右手で将棋盤の上から すくい取ると、その右手に左手を被せた。
「あーっ! ずるーい! 法力は禁止ですよー?」
「込めてねぇし! 願掛けしてるだけだし!
今回もまた誰も、俊太郎が訪れたことに、ちっとも気づいていないようである。
俊太郎はそんな一連の流れを見守った後、この辺りで声を掛ければよかろうと空気を読んで、息を吸うと、また大声で声をかけてみた。
「ごめん!」
「許さん! どりゃあ!」
気合を込めて、手の中の四枚の金将を、将棋盤の上に放った。
三枚だけが裏返る。
「いち、ですね。次は、わたくしの番ですわ。そ~れ……まあ!? 駒が一つ、横に立ちましたわ。あと、表向きの金将が三枚なので、合計して八進むですね。あらららら? また、葛の葉さまの駒を追い抜いて、辻斬っちゃいました。どうしましょう? またまたまたまたまた、誰かが横を通って助けてくれるまで、お休みですわね?」
「だりゃあーーッ!!!
とうとう溜まりに溜まった怒りが爆発したらしく、葛の葉は将棋盤を思いっ切り、ひっくり返してしまう。
その結果、火山が噴火したかのように、駒が部屋のあちこちに飛び散ってしまった。
せっかく独走していた楓は、驚きと不満とで顔をしかめ、紅葉はやはり扇子で口元を隠して、楽しげに微笑んでいた。
俊太郎は、すぐ側まで飛んできて転がった駒を、黙って一つ拾うと、草履を脱いで、上がりかまちを上がり、前屈みになって落ちている駒を一つ一つ拾いながら、三人に近づいて行く。
「まったく、もう……葛の葉さまの、こういうクソガキな部分、大嫌いだわ~」
「賭博を嫌って、何が悪い? そもそも、遊びに賭け事を加えること自体、倫理的に」
「はいはいはいはいはいはいはいは~~い」
「わたくしは嫌いになんて、なりませんけどねぇ♪」
「紅葉は、おかしいんだよ」
葛の葉の肩に もたれかかる紅葉をいちべつして、楓はぷくうっと頬を膨らませてムスッとしながら、ひっくり返った将棋盤を戻すと、畳の上に落ちた駒を拾っては、その上に置き始めた。
しかし、四、五、六個と拾っては将棋盤の上に置くという動作を繰り返した所で、残る駒をすべて取りつくした俊太郎が、楓のよりも大きな片手を差し出して、「はい」とそれらを彼女に手渡す。
「あっ、どうも」と楓は緊張ぎみに両手で受け取ると、それらをドサッと乱暴に将棋盤の上に置いた。
そしてまた、将棋盤の横に腰を下ろす。
「足りてるよね? 無くしてないかなぁ?」
「紅葉? あたしは、お茶。客人には、梅茶を用意してあげて?」
楓の疑問には答えず、葛の葉は一つ一つ駒を取ると、まるでドミノのように立てて並べ始める。
紅葉は小さく「ハイ」と返事をして、縁側を通って奥の間へと引っ込んで行った。
俊太郎は、葛の葉と向き合うようにして、将棋盤の前に腰を下ろす。
にも拘らず、一向に葛の葉は、彼を見ようとはしなかった。
きょとんとして二人を交互に見る楓をよそに、俊太郎は申し訳なさそうに深々と頭を下げる。
「許可なく無礼にも、身勝手に上り込んでしまい、大変に申し訳ございません。拙者、霧島 しゅ」
「名乗りは、無用だよ。聞こえてたから」
「あ……さようですか。んっんー。えー……あなた様を、有能で優秀な祓い屋と見込んで、お願いに参りました」
「ぷぷッ♪ 『ゆーのー』で『ゆーしゅー』だって?」
「あからさまに笑うな、楓。で、何だよ? どんな願いなんだい?」
「はい。これは、一昨日の夜の出来事でございまして、」
と俊太郎は真顔で、あの女の生首と一戦を交えた出来事を、身振り手振りを加えて、真剣に語った。
少しでも笑える所があれば、冷やかしと思われてしまわなくもない。
バカバカしい作り話だと一蹴されるわけには、いかないのだ。
楓はその話に、神妙な面持ちで耳を傾けてはいるのだが、肝心の真正面に居る葛の葉はというと、ひたすらに将棋盤の上の駒を並べるように立てている。
しっかりと聞いてくれているのか、疑わしいものだった。
そうして話し終えると、楓は顔を葛の葉へと向けた。
「妖怪なんですかね?」
「さあねぇ? あたしが直接、見たわけじゃないからねぇ。でも、だとしたら、あれじゃないか? あのォ……何だ?」
「ああ、あれね。あの……そうそう、たんたん坊!」
「大かむろじゃなかったっけ? ともかく、だとしたら正体は単純、タヌキだ。化かされたのよ。知らぬ間にどこかで、眉毛の数を数えられたな?」
「そうなのでしょうか? 実際に体験した身ではありますが、俺には、とんと……自覚がないもので」
「『化かされる』とは、そういうものなのさ。折れた刀の破片が落ちていた辺りを、よく調べてみるといい。何かしらの痕跡なり証拠なりが、見つかるはずだ」
「はあ……」
いつの間にか自然と腕組みをしていた。
考え込むようにして、眉間に皺まで寄り、小さく唸ってしまうほどだった。
確かに信頼を持って助けてもらいに来たわけなのだが、その回答にどうにも釈然としない。
「タヌキは……化かすだけでなく、腰痛や記憶を奪うなどといったすべまでも、持っているということですか?」
「あん?」
思いがけない質問に、葛の葉は目を丸くするようにして、顔を上げた。
初めて近距離で目と目を合わせることになった俊太郎は、ハッと息を呑む。
何と葛の葉の瞳の色は、よく見慣れた日本人のそれとは異なり、初夏の若葉のような、つややかで爽やかな色彩をしていた。
故郷の夏の野山をふと思い出させるほど、吸い込まれそうなくらいに魅力のある緑色をしていたのである。
食い入るように見つめてくる俊太郎の視線から逃れるように、葛の葉は顔をそらして頭の後ろを掻きながら、
「あー、そのー、なんだー?」
と返答の言葉を濁した。
どうやらよく話を聞いた上で、しっかりと適した解釈をしたわけではなく、それらしい適当な回答をしていただけのようである。
不可思議な現象、その正体の定番といえば、ちまたでは、キツネやタヌキに化かされたという話が一番多い。
だからこそ簡単に信じ込むと予想していたようだが、俊太郎には効果がなかったらしい。
しかし、そんな葛の葉のその態度の真意に気づけず、俊太郎は小首を傾げるしかなかった。
そこへ、二個の湯呑みをお盆に乗せた、紅葉がやってきた。
「何のお話ですか?」
尋ねながら紅葉は、俊太郎の側の畳の上に茶托を置いて、その上に梅茶を淹れた湯呑みを置く。
それから葛の葉の側の畳の上に、同じく茶托を置くと、こちらには お茶を淹れた湯呑みを置いた。
その間に葛の葉が、
「うん? ああ、なんでもさ? 生首の女の妖怪が、出たらしい」
などと簡潔に説明すると、紅葉は「生首」と小さく呟いた。
「ありがとうございます」と会釈する俊太郎に目もくれず、ぼんやりと考え込むようにして葛の葉の横に座ると、「あっ!」と思いついたらしく目を丸くして、ポンと手の平を拳で打ちつける。
「ろくろ首とも呼ばれる『飛頭蛮』とか、『鬼一口』ですね? 大かむろや、たんたん坊も そうですけれど、飛頭蛮や鬼一口の場合でしたら、人を喰う妖怪なので、危険ですね?」
「人を喰う!?」
「なるほど! そういえば、そんな奴らも居たっけね」
「さすが、モミちゃん。勉強熱心だこと」
「楓? 葛の葉さまに お仕えする身である以上、あなたも お役に立てるよう、努力なさい」
「ボクは遊び相手してるから、いいの」
「へりくつ屋!」
「猫かぶり女! べぇーッ!」
「んまあ!? あなたって子は、もう、どうして」
「まあまあまあ! 落ち着いて! 紅葉さんと、いいましたね? その妖怪であれば、人を喰うのですか?」
「はい。そのような話が、昔読んだ文献に」
「人の記憶は、喰われないのですか? 腰痛を起こしたりとかは?」
「……なかったはずですけれど、ね? 葛の葉さま?」
「そうだっけ?」
「葛の葉殿? この妖怪、どうやら新しい物の怪なのやもしれません。どうか、お力添えいただけないでしょうか? なにとぞ、色よい返事のほどを。お願いいたします」
俊太郎は両手をついて、深々と頭を下げた。
紅葉だけが、同情の眼差しを送る。
一方で葛の葉は、ドミノのように将棋の駒を立てて並べ終えたらしく、螺旋を描いたその先端に王将と書かれた駒を置いた。
そして、デコピンをするのと同じ要領で、親指で押さえた中指を、ぴんっと弾いた。
カタカタカタと心地好い小さな音を立てながら、次々と倒れて行く。
俊太郎は思わず顔を上げて、それを眺めていた。
螺旋の終着点には仕掛けがあり、倒して置いた駒に、斜めに駒を立てかけて、さらにその上に金将の駒を寝かせて置いてある。
次々と滞りなく倒れていく駒が、その終着点の、斜めに立てかけてある駒に当たると、その駒を勢いよく立たせて、その反動で上に乗せてある金将の駒を、トーンと高く空中に飛ばした。
何の事はない。
ただ終着点にある、斜めに立てかけた駒と、その上に乗せてあった駒とに、事前に法力を込めてあったのだ。
飛んだ駒を、ぼんやりと見つめている俊太郎の目の前で、すると葛の葉は、それを手の平で掴むなり、そのままもう片方の手の甲に押し当てる。
「裏と表、どちらだ? 当てたら無料で、その化け物を退治してやろう」
「本当ですねッ!? 約束ですよ!」
高額な対価を吹っかけられるかもと、予想していた所もあるだけに、それは願ってもない条件だった。
何かしらの細工をしてはいないかと、葛の葉の表情を見ると、眠たそうな気だるそうな顔をしているだけで、悪巧みをしているようには思えない。
これは真剣勝負なのだと受け取り、視線を手の甲に戻すと、手の平の下に隠れて見えない将棋の駒を強く思った。
裏か表、二つに一つ。
腕組みをしながら、ふと天井を見上げるようにして出した選択は、
「表です!」
「はずれ。裏だ」
「えええっ!?」
まだ結果が出たわけでもないのに、葛の葉はそう断言した。
なぜ分かる、なぜそう自信を持って言い切れてしまうのか。
言葉にしなくても葛の葉は、それらの疑問に答えてみせた。
「手の平の感触で、分かるのさ。この駒には文字を削った、へこみがないってな」
そう言って、手の甲から手の平を離して見せると、言った通り、手の甲には何も書かれていない側の金将の駒が乗っかっていた。
肩を落として小さく溜息を吐く俊太郎に、
「さっ、お茶でも飲みなよ?」
手の甲に乗せていた駒を将棋盤に置きながら、葛の葉はお茶を勧めた。
「はい。いただきます」と言って梅茶をすするのと同時に、葛の葉も自分の湯呑みを手に取って、こちらはただの緑茶をすする。
すると俊太郎は目を大きく見開いて、あからさまに驚いた。
『うまい。手作りなのだろうか。お代わりしたいほどだ』などと、次々と感動の言葉が頭の中を駆け巡る。
葛の葉は意味ありげな笑みを、ニヤリと浮かべた。
「お代わりしたいだろう?」
「はい。えっ? あっ……」
「そりゃあ、分かるさ。たいした理由じゃない。おまえはな? 駕籠が大の苦手な為に、自分の足で江戸市中を歩き回るくせに、塩分をあまりとらない。不足しているんだよ、おまえの体には。充分な、塩分がな」
「なるほど……まるで、お医者さまのようですね」
「何事も、やり過ぎ、とり過ぎは、体に毒だがな? とらなさ過ぎも、体には毒なんだよ。おまえの体の健康管理をしてくれているらしい女房は、ずいぶんと長い間、不在のようだから、そういうことに無頓着な おまえが、自分の体を気にしなくてはダメだろうが? このバカタレが」
「す、すいませんでした。……んっ? あれ? どうして俺が、駕籠が大の苦手ということや、妻が居て、長く不在しているということを、ご存知なのですか?」
「なぜ あたしが、そんなことを知っているのかなど、たいした問題じゃない。いいか? おまえは自分の事が見えていない。そりゃあ、幼馴染みの親友がやられて、長く使い慣れた刀が使い物にならなくなって、動揺するのは当然だ。が、いつまで そう、ふわふわしているつもりだ?」
「…………」
「いい加減に、しっかりと地面に足をつけろ。おまえは あたしに、お祓いを依頼しに来た。まあ、あたしだったら解決できるだろう。だが、その後はどうする? 怪異があるたびに、そのつど ここへ来て、あたしを頼るのか?」
「…………それは……」
「あたしはね? 確かに『ちから』はあるけど、お祓いを家業としているわけじゃない。宣伝だって、してないだろう? 正直な所を言わせてもらうと、迷惑なんだよ。やりたくもない。面倒臭い」
「で、では一体、どうすればいいと、おっしゃるのですか?」
「そんな場所、通らなければいい。人でも立たせておけよ? 肝試しとか面白がって、痛み知らずのアホゥどもが入り込むことも あるだろうからな」
「…………」
「これにて、一件落着だな。相談料は いらんよ。さっ? とっとと出て行け」
「……大変に失礼いたしました」
「うん」
俊太郎は丁寧に頭を下げると、素早く立ち上がって、上がりかまちへと歩いて行く。
酷く落ち込んでいるようで、その背中に哀愁が漂っている。
悲しげにその背中を見つめている紅葉は、草履を履いて出て行ってしまった俊太郎のあとを、堪え切れずに早足で追いかけて行った。
楓は天井を仰いで、「あーあ」と あからさまに溜息を吐く。
「悪い奴じゃないと思うけどねぇ?」
「愚か者では あるのさ」
「やってあげれば いいのにィ?」
「自分で何とかできる」
「そうなの!?」
「でも、あいつは覚悟を決めているようでいて、その実、心の底からは覚悟を決められていない。そこが問題なんだよ。本気の覚悟がなければ、自分が気づかぬ間に 心が荒んでいき、気づいた頃には もう遅い。自分自身もまた、化け物の仲間入りという流れになる」
「『ミイラとりが、ミイラになる』だね?」
「意味は違うけど、文字通りって所だな。でもな? あたしは諦めるのは、悪いことだとは思わない。人の生き方にはね? 千差万別、色んな姿、色んな形が あるもんなんだよ。刀が折れたのは、いい機会なのかもしれない。過去がどうであれ、この先は刀のない、刀を差さない人生を選択しても いいんじゃないのかねぇ。あたしは、そう思うよ」
「ふーーん、ボクにはよく分からないけど、また来るかな、あいつ?」
楓の質問に葛の葉は何も答えず、将棋盤の上の駒を掻き集めて、適当に山を作ると、黙々と今度は将棋崩しを始めていた。
四
「霧島さま! お待ちになって下さいまし!」
二つの狛狐の間を通って、境内を出ようとする俊太郎を、紅葉は慌てて呼び止めた。
落ち込んで、暗くトボトボと歩いていた俊太郎が振り返り、そのまま後ろを振り向く。
「はい? 何でしょう?」
「あのう、葛の葉さまのこと、悪く思わないで下さいましね? 口は悪いですけれど、あのお方なりの考えが あるのでございます。気に障るような発言の数々、あのお方に代わって謝罪いたします」
「いえ、それは結構です」
悲しげに驚く紅葉に、俊太郎は頭の後ろを掻きながら苦笑いを浮かべて、こう言った。
「すべて言い当てられて、返す言葉もなく、自分が情けないかぎりなのです。ごらんください。今の俺に足りない物が、分かりますか?」
両腕を広げるようにして、一度だけ くるりと回ってみせた。
紅葉は困惑したままで、一生懸命に考えあぐねている。
俊太郎は、苦笑した。
「ははは……刀が、ないんですよ」
「あっ!?」
「本当はここへ訪れる前に、刀屋へ立ち寄ろうと考えてはいたのですが、すっかり忘れておりました。違和感すら、なかったのです。あの人が おっしゃられていた通り、見抜いていた通り、自分のことに盲目になっておりました。つくづく情けない話です」
「それは……あの……」
「慰めて下さいますな。よいのです。これはきっと『これを機に、刀を手放せ』という、おそらくは神仏からの お告げなのでございましょう。帰りの道すがら、これからのことを考えてみようと思います。俺には、どんな商売が向いているのか、考えながら帰ろうかと思います。それでは、失礼いたします」
「待ってください! 分かりました。ご友人が記憶を奪われたという話でございますが、霧島さまもまた、奪われてしまったのではございませんか?」
「えっ? それは一体、何を?」
「闘争本能。自分の手で、妖怪を退治してやろうという強い意志、決意でございます」
「……そんな、はははっ……バカな……ありえません。だって、あの時……そのような出来事は一切……された覚えなど……」
「常人には 計り知れないことをするのが、『あやかし』というものでございます」
「ッ!? ……なるほど」
「一度その辺を、疑ってみるのがよろしいかと?」
「なるほど……なるほど……はい、そういたします。いやぁ、目から鱗が落ちた心持ちです。なるほど。考えもしなかった。助言、感謝いたします。失礼いたします」
「はい。道中、お気をつけて?」
紅葉に見送られながら、俊太郎は帰路についた。
腕組みをしたままで、ぼんやりと物思いにふけた面持ちで、俊太郎は歩き続けている。
まったく考えもしなかった。
自分もまた妖怪からの不可思議な攻撃にあって、こちらは記憶でなく、自分で戦うという意志を欠落させられている可能性があったとは。
まったく気づかなかった。
しかし、だとするならば一体どうやって、取り戻すことができるというのだろう。
やはりあの妖怪、『大きな女の生首』を倒す他は、ないのではなかろうか。
「そうだ! 倒すしかない!」
闘志を燃やして拳を握り締めたが、しかしすぐにスウッと抜け出てしまい、疲れた表情でお腹をさすり出していた。
「腹が減ったな。いいニオイがする所為だね、こりゃあ。どこに入ろう? 何を食べよう?」
ふと目についた、こぢんまりとした造りの飯屋とろろ屋に入ると、麦飯を注文して、とろろを掛けたそれを三杯も掻っ込んだ。
締めに熱いお茶をゆっくりとすすりながら、お新香をつまむ。
(居酒屋を始めるのも、いいかもしれないなぁ……)
ここと決めた店に頼み込んで、雇ってもらい、長屋から通うのだ。
真剣に打ち込めば十年ほどで、店を持っても恥じない板前になれるかもしれない。
営業する店は、小さくていい。
刀を包丁に替えて、妻と一緒に……いや、これから生まれてくる子供が大きくなってから、一緒に営むのも悪くはない。
そうやって家族三人、慎ましく江戸で暮らしていくのだ。
「ふふふふふ」
想像しただけで幸福に満たされて、笑いが込み上げて、口から こぼれ出た。
ああ、なんて幸せなのだろう。
俊太郎は、温かくなった お茶を すすった。
「!?」
そして、ブーッと口から勢いよく吹き出した。
驚いて駆け寄る店員の女に、
「なんでもありません。急いで飲んだものですから」
「本当に大丈夫ですか?」
「ええ、すみません。ゴホッケホッゴホッ。ご迷惑を おかけしました」
ゾッとした。
いつ、どんな方法でなのかは分からないが、確かに自覚した。
少し多めに勘定をすませて、早足に とろろ屋を離れる。
冷や汗を かいていた。
生暖かいはずの春風が、肌に突き刺ささるほどに鋭さを帯びて、冷たい。
鳥肌が立つのは、寒さを感じる所為か。
それとも恐怖を感じ取った、その為か。
俊太郎は額の汗をぬぐいながら、今の自分が普通ではないことに、改めて気づかされていた。
そうして紅葉の言葉が、次々と頭に もたげてくる。
――霧島さまもまた、奪われてしまったのではございませんか?
――常人には 計り知れないことをするのが、『あやかし』というものでございます。
ますます顔を青ざめて、俊太郎は足を止めた。
(どうする? どうしたらいい? 確かに俺は今、あの妖怪に、闘争本能を奪われてしまっている。なんてことだ。どうやって、奪い返す? やはり、倒すしかないだろう。では、どうやって? ……やばい。怖気づいている? 諦め始めている。無駄なのか? もう、いい……いや違う! 違う! 違う! 違う! 違う! 違う!)
パン! パン! パン! パン! パン!
俊太郎は、何度も自分の頬を叩いて、前向きになるよう気合を入れた。
周りを行き交う人々が、頭が変な奴が居ると決め込んで、近づきすぎないよう注意して通り過ぎて行く。
「もう一度、あの人に……葛の葉さんに もう一度、頼み込んで、今度こそ、お祓いなり退治なりを 引き受けてもらうんだ!」
「よしっ! よしっ!」と決意を強めると、歯を食いしばって走り出した。
決意の持続が、そうは長くは続かないと見越して、全力で走り続ける。
目指す先は、日本橋人形町。
町の名前に『人形』と付くだけあって、人形を売る店や人形を作る職人が多く住んでいるだけでなく、芝居小屋や芸妓屋、女郎屋が近いともあって、特に女性が喜ぶ品を売る店が多かった。
きっと あの葛の葉が、心変わりしてくれるほどに喜ぶ物が、きっと売っているはずだ。
値段だけが心配ではあるが、きっと足りるはず。
きっと大丈夫。きっと、きっと……。
今の俊太郎にとって、もとに戻る為の希望は、それだけしかなかった。
<第四章 終>