第三章 稲荷
一
霧島 俊太郎には、肉親がいない。
物心がつく前から柊木家に引き取られて、『春吉』という名をもらい、育てられてきたという経緯を持つ。
それは捨てられていたのを拾われたのか、あるいは合意の上で預けられたのかは解らないが、我が子のように育てられてきたということは理解しているつもりである。
自分の肉親がどんな人なのか、尋ねたこともない。
もしも極悪人であったならば、この先の将来が決まってしまう気がして、怖かった。
それに自分が赤の他人の子供だと知ったのは、七歳くらいになってからのことである。
もうすでに、育ての親である柊木 雪舟斎と共に、自分は小太刀を携えて、猟師を伴って害獣退治に山狩りに参加していた頃のこと。
親からの期待に応えられず、どうにも剣術の腕が上がらない悪友から、
「さすが鬼っ子だよなぁ。おまえは鬼の子供だから、俺たちよりも強くなれるんだよ。調子に乗るんじゃねぇぞ! 柊木家の人間でもねぇくせによォ! い~や、そもそも人間じゃなかったっけ! あははははっ!」
などと罵られたのがキッカケだった。
衝撃的な事実ではあったが、違和感があったのはそれが理由だったのかと納得した。
家族から、わずかばかりの心の壁を感じていたのは、それが理由だったのかと納得した。
しかし、事実を知ったからといって、特に変わることは何もなかった……と思う。
ただ、『元服したら、この家を去ろう』という強い意志を持つようになり、その思いが剣術の磨きに更に専念するようになった要因だったような気がする。
元服する前に今の妻、千鶴の方から『結婚の話』を切り出された時は、酷く驚いた。
狙いは、『一緒に江戸へ行って、脚本家になろう』という腹づもりなのだろう。
両親は小太郎(綾之新)と結婚して、この家と道場を継いでくれるものと考えていたらしいのだが、千鶴は頑なに拒み続けて、春吉(俊太郎)の方を譲らなかった。
そうして元服すると、霧島 俊太郎の名を承り、育ての親と門下生らとで、千鶴との簡単な祝言を挙げて、江戸へとやってきたのである。
仲間たちと一緒に、大きな希望を持って。
だがしかし、まあ結果は、「全員ダメだった」という、お粗末なものだったのだが……。
井の中の蛙だったのだ、ある一点に置いて、 あまりにも無力だったのだ。
さて、田宮夫妻の話をしよう。
『お岩』という女は、雪舟斎の妻、お咲の実の妹である。
当時は、江戸のどこかの屋敷に女中として働いていて、年に一度か二度ほど、姉の嫁ぎ先である柊木の屋敷にやってきて、泊めてもらうというのが常だった。
俊太郎たちとは十歳ほど年の離れた年上の娘で、大人の美しさと少女のような可愛らしさを持ち合わせており、ほんのちょっぴりニコッと微笑んだだけで、相手の心にパアッと花を咲かせる、心が奪われそうになる、そんな魅力があった。
周りの男たち、道場の門下生たちも含めて、春吉(俊太郎)もまた彼女を見かけるたびに、胸を高鳴らせるほどだった。
何を隠そう、初恋の相手でもある。
彼女を前にすると、どうにも体が硬直して、思うように体が動かせなくなり、言葉が上手く発せられず、顔を真っ赤にしてしまうのだった。
それほどまでに愛しい人が、田宮家に嫁ぐと知った時、春吉(俊太郎)は夫となる伊右衛門を、あからさまに睨みつけたほどである。
侍といえば、自尊心が高く、子供であろうとも生意気な態度を取られたものならば、侮辱されたとして殴られても、仕方のないこと。
当然、それを覚悟していたし、意地でも返り討ちにしてやろうという意気込みもあった。
しかし、その時の彼は激怒するどころか苦笑いを浮かべて、穏便に春吉(俊太郎)の感情を静めようと慌てるばかりだったのである。
この時、春吉(俊太郎)は理解した。
なぜ、お岩が、この男に心惹かれたのか。
――この人は、いい人だ。
――とても、とても、いい人だ。
ちょいと刀を抜いて、ちょいと振ってみて、ちょいと斬ってみて、びびらせてやれば簡単なのに……。
自分の身分になど笠に着ず、こんなクソガキをうまく説得しようと悪戦苦闘しているその姿に、春吉(俊太郎)は負けを認めた。
剣術の腕は、雪舟斎が一目を置いていることは知っている。
その上で、相手を温かく包み込むほどの、度量の大きさ。
――お岩さんと、お似合いだ。
それをつくづく理解し、同時に初めて失恋を味わうこととなった春吉(俊太郎)は、一晩中、布団の中で泣いた。
ふと、「もっと早く生まれていれば、こんなことに ならなかったのではないか?」と考えた。
そして、空想する。
そうすれば、お岩さんを連れて、この家を出て、どこかで一緒に仲良く暮らせたはずだ。
……が、そこに伊右衛門の野郎がやって来て、お岩さんの方へ手を伸ばし、お岩さんは俺の手を放して、アイツと一緒に駆け落ちを……。
などと、例え話でも幸せな終わりを迎えられず、春吉(俊太郎)はまた泣いた。
それから……年に二、三度、柊木の屋敷に夫婦で訪れるようになると、春吉(俊太郎)は二人に顔を合わせずらくなってしまっていた。
会うことを、ずっと拒み続けていた。
それなのに、また顔を合わせることができたのは、綾之新の所為……いや、お陰だった。
江戸で暮らすようになって、生活に慣れてきた、ある日のこと。
「上の人に挨拶に行くことになってな。霧島? 付き合ってくれないか?」
と変なお願いをされて、共に行った先というのが、田宮の屋敷だったのである。
予期せぬ再会に、全身を強張らせて戸惑うばかりの俊太郎に代わり、綾之新が色々と、これまでの経緯を話してくれた。
事前に柊木夫妻から、あれこれ聞いていたようで、特に驚きを見せることはなかった。
それにしても、数年ぶりに顔を合わせてみて、俊太郎の目には田宮夫妻がまったく変わっていないように思えた。
見た目だけでなく、節々から感じられる性格からしても、なんら変わりがないようだったのである。
そして俊太郎 自身もまた、自分の気持ちが、あの頃とまったく変わっていなかったことに気づかされた。
今もまだ、結婚しても尚、お岩のことを好いているという自分に驚き、呆れ、『これは、どうしようもないことなのだな』と諦めのような納得をしたほどだった。
だから、なるべく田宮の屋敷がある四谷には、どうしてもという用事がある以外で、近づかないよう意識していたのだが……。
俊太郎は布団の中で、何十回目かの寝返りを打っていた。
眠れない、一睡すら出来ずにいる。
朝が来たら、四谷へ行かなくてはならない。
寝不足した情けない顔を、田宮夫妻に見せるわけにはいかない。
わかってはいる、わかってはいるのだが、どうにも こうにも眠れずにいた。
そうしてとうとう明け烏が、屋根の上から けたたましい鳴き声を、次々と上げ始めた。
「うるせぇな、このくそカラスがァ!!」
と、まっさきに怒鳴り声を上げたのは、大工職人の熊五郎だろう。
「てめぇも うるせぇんだよ、熊公!!」
と、続けて怒鳴っているのは、同じ大工職人の八兵衛だろう。
二人は親の代から、ずっとこの長屋に住んでいて、幼馴染みで、まるで血の繋がった兄弟のように仲が良いのだが、それでいて、どうにも二人は喧嘩っ早くてしょうがないのだった。
「カラスと一緒に、ギャアギャア喚くんじゃねぇ、このスットコドッコイ!!」
「だ~れがスットコドッコイだ、この野郎!! 文句があるなら、表に出やがれ!!」
……シーンと静寂が訪れた。
共に暖かな寝床から、吐く息が白くなるほどの、くそ寒い表には出たくはないらしい。
それは季節問わずの、いつものやりとり。
引っ越してきて、初めて耳にした住民であれば驚くところだが、俊太郎たちのような長くここへ住んでいる者にとっては聞き慣れすぎて、眠りの妨げになるなんてことは滅多にないくらいだった。
現に、先程の二人のやり取りの所為で、赤ん坊の泣き声すら聞こえては来ない。
失笑した俊太郎は、体を起こすと、そのまま布団から出ることにした。
布団を畳んでから、表戸を開けて外へ出てみる。
朝が始まったばかりで、白色が多い景色を見渡してから、両腕を上げて「う~ん」と伸びをする。
結局、眠れなかったと諦めて、浴衣から着物に着替えて、早めの朝食の準備に取り掛かることにした。
他の住人たちが起き出して、女や独身の男たちが朝食の支度をし始める頃、朝食を済ませて後片付けも済んだ俊太郎は一人、部屋で座禅を組んでいた。
頭の中から、邪念と煩悩を追い払う為に。
田宮夫妻、特にお岩と顔を合わせたとしても、例え二人きりという状況の最中に目と目が合ったとしても、動揺しないように。
しかし人間という生き物、『言うは易く、行うは難し』である。
一度、頭に住み着いたものを、追い出そうとすればするほど、抗おうとすればするほど、それは大きく成長したり、新しいものに掏り替わってしまったりするものである。
ぎりりッと奥歯を噛み締めて、額には汗を滲ませている俊太郎もまた、同様に。
お岩の笑顔、お岩の唇、自分の頭を撫でてくれた優しい手、買い物の帰りに手を繋いで帰ったあの日、冗談のように「一緒にお風呂に入ろうか?」と誘ってくれたあの日、昼寝をしていたら膝枕をしてくれた夏の日、ヒグラシの鳴き声が心地好かったのを覚えている。
「くっ、俺には無理だ……頭の中から追い出すなんて、あまりにも強敵すぎる……」
すっかり忘れていた出来事まで思い出してしまい、正座したまま上半身は畳の上に突っ伏して、赤面しながら畳を何度も叩いてしまっていた。
と、その時である。
『キャアーッ!?』
どこからともなく、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
俊太郎は咄嗟に、壁に立てかけてある日本刀に手を伸ばす。
『キャア、キャア、キャアッ!?』
『うわあッ!?』
女のみならず、男の驚いた叫び声まで聞こえてくる。
これは只事ではない。
しかし、「あッ!」と心当たりがあった俊太郎は、掴んだ日本刀をまた壁に立てかけた。
続けて外から、
『みんなぁ、てぇへんだぁ!! 稲荷小僧が出たぞォ!!』
一気に長屋中が、騒がしくなった。
ネズミ小僧ならぬキツネ小僧……いや、イナリ小僧が現れたという。
十年ほど前から現れるようになった正体不明の……おそらくは義賊。
そこは実在している「ネズミ小僧」や、それを主役とした芝居が影響しているのだろう。
ある日、突然に長屋にやって来て、どこかの稲荷神社の御朱印に包まれた小判を表戸の前に、家族の人数と同じ枚数分、こっそりと置いて去って行く。
そのお陰で、借金を返せた者や結婚ができた者、新しく商売を始めた者や良い医者に診せることができて病気が治った者、他にも、夜逃げや愛人と駆け落ちした者までいたそうな。
はてさて稲荷小僧、その正体は本当に義賊なのか、それとも金持ちの気まぐれか。
しばらくすると、表戸を叩く音がした。
「はーい? あ、お梶さん」
表戸を開けると、外に立っていたのは、八兵衛の妻のお梶だった。
俊太郎と年齢はあまり離れてはおらず、どこか妖艶で、肉付きは程よく、気が強い。
長屋の女たちの頭領のような存在で、金太郎とお花という二人の子供がいる。
寝間着の浴衣を着たままで、着崩れに気づいていないのか、豊満な胸元を強調したような格好になっていた。
「あらっ? とっくに起きてたのかい。……あんたの所のかみさん、まだ帰って来てないみたいだね?
俊太郎 越しに部屋の中を覗き込んで、呆れたように お梶は言う。
「ええ、まあ、あははははっ」
「まあ、いいわ。稲荷小僧が、出たようなんだよ。お宅の所にも、来たんじゃないのかい?」
「ああ、はいはいはい。来てましたよ。ほらっ? 二枚」
懐から、今回は、麹町にある太田姫稲荷神社の御朱印に包まれたままの小判を二枚、取り出して見せた。
「ふーん……これでみんなで豪華な花見でもして、パアッと使っちゃおうって話になっているんだけどさ、ねっ? どうする? あんた今度こそ、参加しなよ?」
「いやぁ、すみません。今回も大事な用がありますので、不参加にしていただきたく思います……」
「そうかい? 残念だねぇ。用事があるんじゃ、仕方ないね」
「あっでも、どうか気にせず、俺たちの分も楽しんでください。これ、今回のお詫びということで?」
俊太郎は、御朱印に包まれたままの小判を一枚、手渡した。
お梶はそれを受け取りながら、やっと自分の胸元が大きく開いていることに気づいて、「おっと!」と驚いて後ろを向いて、着付けを済ませる。
「そうかい? あんたがそう言うんだったら、遠慮せず戴いとくよ。でも、次こそは一緒に、酒でも飲みたいものだねぇ?」
「ええ、はい。いずれは。その時は、うまい酒が飲めそうです」
純粋にニコッと爽やかな笑みを浮かべる俊太郎に、お梶は若い娘のように頬を赤く染めて、
「……うん、それじゃあ。邪魔したね」
と俯き加減に、はにかむようにして、自分の家に戻って行った。
その途中、俊太郎の家の隣に住んでいる老人が飼っている、タマという老いた猫とでくわし、「おや、タマじゃないか? チッチッチッチッチッ」と自分の方へ招こうとするも、タマはお梶を一瞥して鼻を鳴らすと、足早に自分の主の家の中へ入って行ってしまった。
俊太郎は空を見上げて、天気というより、太陽の高さによる周りの明るさを確認してから、表戸を閉めた。
箪笥から、【早く帰る】と書かれた自分の短冊を取り出して、箪笥の上の妻の短冊の横にそれを斜めに立てかけてから湯具を持って、勇んで湯屋へ出かけることにする。
八兵衛の家の前を通った時、表戸が開けっ放しになっていたので、中から不意に声を掛けられた。
「おう! 俊太郎! 今日も、しみったれた顔してやがんなぁ? ひとっ風呂でも浴びて、もっとシャキッとしろ! シャキッと!」
すぐそこで八兵衛が、腰かけながら煙管で煙草を呑んでいたのである。
「あは……どうも」
褒められたわけではないのだが、これが彼なりの親しい人への挨拶だという事をよく知っているので、俊太郎は苦笑いを浮かべて簡単に挨拶を返して立ち去った。
するとすぐに背後から、八兵衛お梶夫婦の大声によるやり取りが、ハッキリと聞こえてくる。
「子供たちの将来や、私たちの老後の為に、少しくらい金を取って置いても いいんじゃないのかい?」
「うるさいね、おまえは? 何度も言わせんじゃねぇや。いいか? お稲荷さまといやぁ、キツネのことだよォ? いつ小判が葉っぱに変わるか、解ったもんじゃねぇや。それに こちとら、生まれも育ちも江戸っ子よォ。小判のうちにポポーンと使い切っちまった方が、スッキリして気持ちがいいやな。おまえはいつまでもゴチャゴチャ言ってねぇで、とっとと朝飯 作っちまえってんだ、こんちくしょうが!」
「ああ、そうかい! わかったよ! もう勝手にしな!」
などと険悪な雰囲気ではあるが、誰も心配などしない。
いつもの光景、いつもの夫婦のやり取り。
これが殴り合いや、物を投げ合うなんてことになったら、さすがに長屋の住人たちは止めに入る。
しかし、声のみの怒鳴り合いだったら、カラスや鶏、野犬の鳴き声と一緒。
うるさい、早く鳴り止んでくれ、この程度。
本人たちですら、「毎朝、このやり取りをしなくては、一日中、調子が悪くっていけない」などと言うくらいだから、夫婦というものは本当、解らないものである。
まあ、子供たちにとっては、いい迷惑に他ならないのだが。
ともあれ、俊太郎はそのまま湯屋へ行くと、必死になって体を洗った。
隅々まで思いつく限りの箇所を、一生懸命に磨いて綺麗にする。
ちょっとでも汚れがあれば、汚い、不潔な男などと最悪の印象を与えかねない。
無我夢中で必死に洗うその姿に、客も三助ですら、気安く近寄れない状態だった。
温度の高い湯に、ずっと浸かっていたわけでもないのに、頭のてっぺんから爪先まで真っ赤にして、足下をふらつかせながら帰路についた。
その横を若者が「おっと、ゴメンよ!」と言って駆け抜けて行くと、長屋に入って行く。
そして、外に出て集まっていた男たちに、息を切らせながら報告していた。
「どうだったい?」
「ゼェゼェ、へい! はっつぁんの言う通り、隣町の長屋でも稲荷小僧が出たらしくて、ハァハァ、『これから花見だ』って騒いでたぜ!」
「どうするよ、ハチィ?」
「決まってんだろ、熊公? 去年は散々、隣町の長屋連中に出し抜かれてんだ。今年はぜ~んぶ、こっちが主役と行こうじゃねぇか! まずは、花道を飾るぞ! 酒と食い物は、女どもにドーンと任せとけ! 俺たちは、場所取りだ! おまえらぁ、行くぞォ!」
「おおぅ!!」
「『花道を飾る』って、役者が引退するって意味じゃあ?」
「細けぇことは、いいんだよ」
「おう、ちょいと待て? おい? 誰か、西念のジジィに、声かけたか? ……誰もいねぇのか? ったく、しょうがねぇな、まったく!」
と、八兵衛は踵を返すようにして、長屋の奥へ向かうと俊太郎の隣の家へ、表戸を叩いてから入って行く。
その後にぞろぞろと、男たちも付いて行く。
「おいッ! このくそジジィ! まだ生きてやがるだろうな、この野郎! 今日は花見だぞ! こんな時に、おっ死んでみろ! 閻魔の所ォ行って、意地でも連れ帰ってやるからな! 覚悟しやがれ! 聞いてんのか、おいッ! ……なんだって? そっとしとけだぁ? な~にくだらねぇことォ言ってやがんだ、この野郎ォ! こんな埃臭ぇ場所でくたばってみろ? あの世へ行っても、ろくな場所ォ、案内なんざしてくれねぇぞ? 折角もう、くたばるんだ! どうせなら桜の綺麗な場所で、くたばりやがれっつってんだよ! ……なんだぁ? 自分では、動けねぇだァ? そんな事ァ、百も承知よ! おぅい! そこの表戸を、すべて外せ! それから、丈夫な木戸を一枚、持って来い!」
「へ、へいッ!」
「ガッテンだ!」
八兵衛に言われて若者が一人、どこから抜いてきたのか雨戸として使っているらしい木戸を持って、すぐに戻ってきた。
「よォし、おまえら! このジジィを布団ごと、木戸に乗せろ! ……よし、いいぞ。木戸の端っこ、持て。死にぞこないのジジィの一人や二人、俺たちにとっちゃあ、神輿を担ぐより、ずっと軽すぎらぁ。行くぞ、おまえらァ! このまま花見の場所取りだァ!!」
「おおぉーーッ!!」
「せぇのッ! よいしょお! そォらぁ! ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ!」
「ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ! ワッショイ!」
西念とは、俊太郎の隣の家で、老いた猫と暮らしている老人である。
どこかのお寺の和尚だったが、故あって暮らせなくなり、流れ流れて江戸へやって来て、この長屋に住むようになったらしい。
江戸市中を念仏を唱えながら歩いては、親切な人達から わずかばかりの施しを受けて、その日暮らしをしていた。
……のだが、去年の辺りから体調を崩して寝込むようになり、最近では、まったく布団から出られなくなってしまっていた。
それほどに老衰してしまった西念老人を、たった今、長屋の男たちが布団ごと木戸に乗せて、まるで神輿でも担いでいるかのように、景気よく運び出して行ってしまったのである。
(これは、ひどい……)
俊太郎は、苦笑いを浮かべて遠い目をしながら、黙ってそれを見送った。
それから噴き出すようにして、楽しげに笑う。
俊太郎はここの長屋の人々が、まるで本当の家族のように大好きだった。
井戸の近くで かみさん三人組が、大きな木製の桶と洗濯板を使って、衣類やら褌やらを洗っている。
お梶と、でっぷりとした体形で、亀吉という赤ん坊を負ぶった お徳、それからこの三人の中では年長者で、お梶とは六歳ほど年の離れた お崎という、いつもの三人組だった。
そういえば、お崎は髪結い師だったことを思い出し、俊太郎は自分の髪を触りながら声をかけことにする。
「あのう、お崎さん? 俺の髪、整えてもらっていいですか?」
「あー、はいはいはい。構いませんよ」
後ろ髪は自分で切ったが、全体的にまだボサボサだ。
と、いうわけで熟練した手さばきで散髪してもらって、いつもの髪型になると、残る問題はあと一つ。
さて、何を着て行こうか。
腕組みをして、家の中でぐるぐると歩き回り、迷惑にならない格好を考える。
こっちは職なし、金なしで、腰に一本差した、ガラの悪さで定評のある浪人である。
そんな輩が訪問しては、相手の家に大迷惑だろう。
だからこそ、一目で浪人とは気づかれない格好が必要なのだと、俊太郎は考える。
うーんと考えて、「あっ! そうだ!」と思いついたのが、紋付羽織袴だった。
俊太郎の育ての親であり、妻の千鶴の実母である お咲が、もしもの時の為にと葛籠に入れて、持たせてくれた物がある。
早速それに着替えると、不思議と自信が湧いてくる。
これなら大丈夫と安心し、家を出ると胸を張るようにして、そのまま長屋を出ようとした。
と、それを目撃した、長屋の女達。
八兵衛の家の前で、花見の件で買ってくる物や、これから作る物、役割分担とを、あれこれ話し合っている最中だった。
俊太郎の姿を一目見るなり、目を丸くする人が ほとんどだったが、お梶だけは二度見するほど、とても驚いたようだった。
声を掛けずには、いられない。
「ちょいと、あんた? ちょっと、お待ちよ? これから誰かさんの祝言なのかい?」
「えっ? いや、あははははっ……とても大事な人と、会う予定があるんです」
「なんだね? それって、もしかして、あれかい? 女かね?」
「ええ、まあ。あははははっ。初恋の人でして……はははっ」
「あら、まあ……隠さずに照れちゃって、まあ……てめぇの女房が居ない間に、そんな派手な格好して、堂々と浮気しようたぁねぇ。呆れちゃうねぇ」
「そうではありませんよ。ほら? この格好をした方が、相手に迷惑が掛からないでしょう? 周りの目には、俺が浪人だとは、とても見えませんし?」
「……ぷっ!? あら、やだ。あっはっはっはっはっ。そういうわけだったのかい。あんた、大馬鹿だねぇ。逆だよ? そんな格好して、行って会ったら、相手が恥ずかしいったらありゃしないよ。やめな、やめな。とっとと脱ぎな!」
「そ……そうなんですか? そんなに変ですか?」
「ほらっ? いつもの、あの着物でいいんだよ。変に格好つけないで、いつものあんたの姿で、バァーンと会えばいいんだよ。肩の力を抜きな。みっともないったら、ありゃしないよ?」
「な、なるほど……わかりました。じ、じゃあ、着替えてきます」
「まったく……あ、ちょっと! その紋付羽織袴、きちんと畳めるのかい? まったく世話の焼ける人だねぇ」
俊太郎の後を追うようにして、お梶も一緒に、彼の家に入って行ってしまった。
他の女たちは黙って、それを見つめている。
ほどなくして、二人は家から出て来た。
俊太郎の格好は、いつもの浪人らしい、地味な色の着物と袴と一本差しに、すっかり変わっている。
振り向いて、後から出て来た お梶と向き合うと、
「ありがとうございます。お梶さんが居てくれて、助かりました」
「あ、ちょっと待って?」
と、俊太郎の着物の襟の、わずかなズレを両手で調整する。
「うん、よし! ほらね? いつものその格好の方が、ず~っと男前だよ。自信持って、その女に会って来な?」
「はい! では、行ってまいります!」
「行ってらっしゃーい! 道中、気を付けるんだよー!」
先程の紋付羽織袴を着ていた時と同様に、お梶から自信をもらった俊太郎は胸を張って、長屋を後にした。
長屋の女達への挨拶を忘れるほどに、彼女たちが視界に入っても認識できないほどに、俊太郎の頭の中は お岩の事でイッパイのようである。
そんな彼の後ろ姿を見送って、お梶は表戸をしっかりと閉めてから、自分の家の前に集まっている他の女達のもとへ、小走りに戻って行った。
すると、迎えてくれた長屋の女達が、ニヤニヤニヤニヤと わけありげに、お梶を見ている。
お梶は顔を背けて、暑そうに手で顔を扇ぎながら、
「まったく。世話が焼けるったら、ありゃしないよ。早くあいつのかみさん、帰って来て欲しいもんだわ」
「そうねー」
「ねえ? 苦労するわねぇ? まったくねぇ?」
「大変よねー」
「さっ! 続き、続き!」
パンパンと両手を叩いて、お梶は女達の輪の中心へと入って行った。
夫の居る人、別れて一人身の人、まだ良い縁談の来ない人や、未成年の若い娘まで入り交じっての話し合いは、ちょくちょく雑談に逸れるほど、賑やかなものだった。
二
あんなに ごねては いたものの、肝が据わってしまうと、こうも態度が違ってしまうものかという次第で。
大手を振って歩いていたはずが、早歩きになり、小走り、走り、全力疾走となってしまっていた。
顔が、にやける。
堪え切れない喜びが表情として表れ、喉から口へと溢れ出してしまってもいた。
「あははははははっ! うはっ! うはっ! うはははははっ!」
大笑いしながら、全速力で走り抜けて行く浪人ほど、怖いものはないだろう。
大刀を腰に差しているのだから、そこら辺の頭のおかしくなった輩より、ずっと危険である。
春、それは人の頭の中にまで、花を咲かせる季節。
どこをどう走って来たものか、記憶に留め切れないほど逆上せ上がった俊太郎が四谷に入ったのは、明け四つ(午前十時頃)を回った頃だった。
四谷一丁目に入ると、西念寺のある方角の道を通り、観音坂、戒行寺坂を通ると、南側に見えてきた西応寺を尻目に、女夫坂の前を通って、左門町へと入る。
ここまで来ると、北側に御先手組組屋敷を遠目に、今度は南側の雑木林を真ん中に伸びる道を選択する。
民家はなく、正体不明の鳥獣の鳴き声を聞き流しながら歩き続けること、数分。
森林がひらけると、あぜ道で区切られた田んぼが、三つほど現れた。
その奥には納屋のある農道があり、畑が、これもあぜ道で区切るようにして、二つほどあった。
畑のあぜ道の奥には、ザニガニやメダカが居そうな小川が流れており、申し分 程度の板の橋が架かっていて、細道が横に伸びていた。
その先には竹林があって、その奥に板塀があり、こぢんまりとした二階建ての平屋がある。
そこが目的地である、田宮の家だった。
武家屋敷と呼ぶには程遠く、民家と呼ぶのに相応しい家構えだった。
遠目でも解る、家の前の道を竹箒で掃き掃除をしている、可憐かれんな大和撫子の姿。
今すぐ駆け寄って抱き締めたいという衝動を抑えながら、こっとりと大きく深呼吸を繰り返して、ごく自然に進む速度を普通に変えていく。
それから唇を舐めて、口を大きく開けたり、横に広げたりしてから、舌の運動をして、小さく咳払いをして、喉の調子を整えた。
ぐるぐると両肩を小さく回しながら、板の橋を渡って、細道の前を通り過ぎる。
そして、竹林の横を通り過ぎようとした辺りで、
「こんにちは!」
と元気に、内心は、それでも口から心臓が飛び出そうなくらい激しく緊張しながら、挨拶をしていた。
しかし、こちらに気づいて顔を上げて、「あ、おはようございます」と丁寧に挨拶を返されて、俊太郎は「おはようございます」ともう一度、今度は訂正して挨拶をするのだった。
「夫の伊右衛門から、お話は伺っておりますよ。大事な御用があるそうで?」
「は、はい!」
「でも、ごめんなさい。伊右衛門は急な小用で、今、出かけているの。もう少ししたら帰ってくるはずだから、家に入って待っていて欲しいのだけど。いいかしら?」
俊太郎は何度も頷いて、やっと「はい!」と返事をした。
お岩に案内されて家の中に入ると、縁側を通って、そのまま客間へ通された。
とても掃除が行き届いている。
綾之新の話だと、家事をする奉公人は居らず、裁縫、炊事、洗濯、掃除などの家事はすべて、お岩が一人でこなしているらしい。
そして残る子供の躾は、二人でだそうである。
客間は八畳の部屋に、座卓が一台あり、横につけるようにして伊右衛門用の文机が一台、縁側の方にあった。
俊太郎は下げ緒を解いてから、腰の大刀を鞘ごと帯から引き抜いて、腰を下ろしながら自分の右側に置く。
その場から見える庭の景色は、これもまた、この家に似合って こじんまりとしていながらも柿の木と、満開に咲いた梅の木とが植えられていた。
それを見て、ふと思う。
梅がある、板塀の奥に竹林がある。
梅、竹……では松は、いずこにあるのだろう。
「梅の木、竹林……そして、待つ(松)。なんつって」
「霧島さん? もしよかったら、これ? 味見していただけませんか?」
「は、はいっ! 俺でよろしければ、喜んで!」
不意に襖が開いて、お盆を持って入って来た お岩に、姿勢を正して、そう返答する。
お盆の上には、煎餅とおかきの入った菓子器と、お茶を淹れた湯呑みが一つ、それから煮物の入った深皿と、箸置きと一組の箸が乗せられていた。
お岩は、それらをすべて座卓の上に置くと、
「伊右衛門は、もうそろそろで帰ってくるはずだから。どうぞ、ごゆっくり」
「はい」
座ったまま会釈をして、何も乗っていない お盆を持って客間を退室すると、襖は静かに閉じられた。
俊太郎は、お岩の気配と足音が遠ざかるのを待ってから、「ほお~っ」と全身から力を抜いて猫背になり、だらしのない顔つきになる。
箸を手に取ると、「いただきます」と手を合わせてから、お岩の手料理の煮物に箸をつけた。
具材は、鶏肉、厚揚げ、人参、レンコン、大根、椎茸。
よく味が染み込んでいて、白飯に合わないはずはない。
むしろ欲しくなり、山芋をすった とろろもあれば、天にも昇る気持ちだったろうにと、心の中でホロリと泣いた。
ふと庭に人の気配を感じ、モグモグと よく噛んで味わいながら そちらを見ると、それは お岩だった。
手には小皿を持っていて、その上に油揚げが二枚、乗せてある。
それをどこへ持って行くのだろうと、ぼんやり見ていると、なんと柿の木と梅の木の間に、小さな祠があるのに気づいた。
一瞬、お墓に見えてしまったが、ともあれ、お岩はその小さな祠に油揚げの乗った小皿を お供えすると、しゃがんだままで手を合わせて目を閉じて、簡単なお祈りをしていた。
俊太郎は、視線を部屋の中へと戻して、ぼんやりと天井を仰ぐ。
(稲荷の祠か……そういえば、近所の稲荷の神社に毎日、お参りをすることで、ある日から運に恵まれるようになったとか。それで付いた あだ名が、『狐憑きの伊右衛門』……)
ゾクッと不意に背中が寒くなり、もう一度、庭を見てみた。
「ッ!?」
狐がいた。野ギツネだ。
親ギツネと呼ぶには小さく、子ぎつねと呼ぶには大きい。
お岩が居なくなったのを好機とばかりに、祠に供えられた油揚げを器用に二枚、口に銜えて持ち上げたばかりの所だった。
振り返ると、客間に居た俊太郎と目と目が合うなり、その無垢で つぶらな瞳が、ますます大きく見開いた。
驚いてはいるようだが、銜えた油揚げを手放すつもりはないらしい。
「こらッ!」
と叱ってもみたが、逃げ出すどころか目を細くして、身を屈めるだけ。
「お供え物を、盗るんじゃない! ご利益が、なくなるだろうが!」
お岩のことを思い、箸を置くなり、座ったままで畳を蹴って、一瞬で縁側まで駆けつける。
これにはさすがに野ギツネは驚いて、その場で飛び跳ねた。
俊太郎も驚く――草履がない。
矢を放つ前の弓のように身を仰け反らせて、何とか勢いを殺すと、身を翻して玄関へ走った。
「こんのォ、油揚げドロボーが……」
草履を急いで履いて、走り出そうとすると何かに蹴躓き、「おっとっとっと」と片足でピョンピョンと表へ出ると、また掃き掃除をしていた お岩と出くわした。
「まあ! そんなに慌てて、どちらに?」
「あっ、あのっ、えっ、あー、うー、……あっちへ!」
「……ぷっ! ふふふふふっ」
「あの、すぐに戻りますんで、お構いなく!」
「はい」
可笑しそうに笑う、ほんわかとした お岩の笑顔に、俊太郎は額と背中がじっとり汗ばむほど、恥ずかしそうに赤面した。
そして、この場から逃げ出すように駆け出す……と、すぐにその足がピタリと止まる。
ふと、見落としている気がした。
気にかかる……先程の庭での場面。
二枚の油揚げを銜えている野ギツネが一匹だったが、今更ながら、その気配は二つだったような気がする
では、どこに、他にその気配を感じ取ったのか、探る探る。
木の陰、祠の陰、板塀の下、上……居ない、そこじゃない……。
記憶の中の視線を、下へと移す。
あ、居た、多分、見間違いかもしれないが、縁側の下に赤茶色の耳がひょっこりと。
「まさかッ!?」
俊太郎は慌てて踵を返すと、脱いだ草履を懐に入れて、客間へと取って返した。
すると悪い予感が的中しており、野ギツネが一匹、すでに部屋に入り込んでいて、座卓の上の深皿に顔を突っ込んで、食べかけの煮物を夢中で貪っていた。
ピンと伸びた耳が俊太郎の足音を聞き取るや、厚揚げを銜えたまま、そちらにヒョイと顔を向ける。
目と目が合って、そのつぶらな瞳が大きく見開いたが、口に銜えた厚揚げを、ハグハグと食べてしまった。
「うぉい!」
そのふてぶてしい態度に、肩を怒らせて怒鳴らずには いられなかった。
するとこの野ギツネ、油揚げ泥棒の野ギツネとは違い、クイッと口の端を上げて「ニヤッ」と笑う表情をすると、よく染みた大根を一切れ 銜えて、身を翻して庭へと飛び出して行ってしまう。
「おいッ! 待てッ! こらっ!」
今度は懐の中に、草履がある。
履いて庭へ出ると、野ギツネは、祠の後ろの板塀の下にあいた小さな穴を通って、向こう側へ逃げて行ったばかり。
見逃さなかった俊太郎は、板塀に飛び掛かった。
板塀の上の笠木に手を掛けて、足で板塀を蹴って飛び越えるつもりだったのだが、お岩の顔が浮かんで「足跡をつけて汚してはいけない」という心遣いが働いてしまい、腕の力だけで上がることにした。
しかし、ここで「ミシッ!」という自分の体重を支え切れないという、板塀からの悲鳴が上がってしまった為、それを聞き取った俊太郎は咄嗟に手を放してしまい、持ち上げていた足と相まって、頭から地面に落ちてしまっていた。
ドスン!!
「いってぇ!?」
受け身も取れず、もろに頭を したたか打ちつける。
痛みでゴロゴロと転がりたい所だが、強打した頭を痛そうに手で押さえたまま、歯を食い縛って起き上がると走り出す。
そして表側の道へと出ると、この板塀の裏へ回り込んだ。
すると、そこは細道になっていて、板塀と向かい合わせに竹藪があり、細道の先は竹藪を真っ二つに裂くようにして、賑やかな大通りへと伸びていた。
それよりも野ギツネの姿がない、足跡がない、気配すらも。
すでに逃げ込んでしまったのだろう、竹藪に目を凝らしながら耳を澄ますと、カサッカサッと静かに落ち葉を踏み締める音と共に、移動している小さな生き物の影を捉えた。
「そこかッ!」
屈んで爪先に力を込めるや、低姿勢で飛び掛かった。
うんと手を伸ばして、小さな生き物の影の体の辺りを掴む。
「きゃいん!? きゃいん、きゃいん!?」
それは、酷く毛並みのボロボロな野良犬だった。
人間に強いトラウマがあるのだろう、酷く怯えた様子で身をよじって掴まれた手を放れ、何度も転がりながら無我夢中で逃げて行ってしまった。
「あっ!? す、すまん!」
人違いならぬ、動物違いを謝るなり、すると今度は頭上の方から、カサカサッと笹の葉がこすれるような音がする。
見上げると、小さな塊の影を見つけるなり、
「そっちか!」
と地面を蹴って飛び上がるなり、忍者の如く竹の節を辺りを蹴って、二本の竹の間をジグザグに素早く飛び上がって、小さな塊の影を掴んだ。
「ピィーッ!?」
今度は、トンビだった。
「あっ! ごめん! ごめんよォ!」
放してやると、その腕を蹴って飛んで、こちらも慌ただしく逃げて行ってしまった。
俊太郎は、てっぺんに近い竹の節の辺りを片手で掴んで、竹をしならせて ぶら下がったまま、溜息が出る。
完全に見失ってしまったのだと、半ば諦めながら、とりあえずこの場から地面の方を一望してみた。
やはり、それらしい物を発見することはできなかった。
そもそも この竹藪へ、逃げ込んだのではないのかもしれない。
また溜息を漏らすと、手を放して下りようとしたその矢先、息を殺して潜んでいた野ギツネが、竹藪から ひょっこりと細道へ飛び出すようにして現れた。
そのまま大通りの方へと、一生懸命に走って行くのが見える。
(ううん? 居たッ! あんにゃろ~!)
隣の竹に飛び移ると、「よっほっほっほっとっ」と声を出しながら、節の辺りを掴んでは放すを繰り返して下りて行く。
そして無事に地面に着地すると、足音と気配に注意して、後を追った。
野ギツネは一度として、振り返る素振りすら見せなかった。
追跡されているとも知らない様子で、寄り道もせずに、そのまま真っ直ぐに大通りを目指して行く。
人に飼われているわけではあるまい、だとすると、どこかの民家か店の床下に棲みついているのかもしれない。
などと予想しながら後を追っていると、大通りに出た野ギツネは、左手に曲がって行く。
俊太郎は走って一気に距離を縮め、顔だけ大通りに出して、野ギツネがどこに向かうのか窺った。
大通りは店が多く、人通りも多いこともあり、俊太郎が何をしているのか不審に思う者も居たが、ほとんどの人は気づかずだったりで無関心のようだった。
ともあれ、俊太郎がジィッと野ギツネの動向を観察していると、まっすぐに歩いていたそれは、また急に左手に曲がり、視界から消えてしまった。
竹藪の中へ入って行ったように見えたが、その場へ駆け寄ってみると、そこは意外にも境内で、狛犬の代わりに狛狐が向かい合わせに二体あり、奥には古びた小さな神社がポツンとあった。
霞んだ朱染めの鳥居の側にある、雨風に曝されて少しボロボロになった神社の幟立には、『真神稲荷神社』と書いてある。
どうやら野ギツネの棲み処は、ここらしい。
よく見てみると、賽銭箱の所にある木製の階段の先にある神社の扉が、わずかに開いているようだった。
ということは床下ではなく、神社の中、本殿に棲みついている可能性が高い。
「まさか……? なんて、罰当たりな……」
俊太郎は身を低くしたままで、境内に入ることにした。
砂利によって生じる足音に注意しながら、建物に近づくと、とりあえず格子戸から中を覗いてみる。
すると本殿は薄暗く、色あせて埃をかぶった神輿が一基だけ、安置されているのが見えた。
しかし耳を澄ましてみると、動物が居るらしい足音や息づかい、鳴き声すら聞こえては来なかった。
(……ううん? ここでは ないのか? 通り道だったとか?)
とにかく中へ入って直接、確かめてみることにした。
格子戸である出入口をそっと開けて、滑り込むようにして中へと入ってみる。
すると……
「ッ!?」
俊太郎は驚愕した。
確かに、格子戸を通して見えた景色は、薄暗くて、部屋いっぱいに神輿が一基あるのみだった。
なのにこうして中へ入ってみると、そこは屋外に居るかのように明るい、十二畳ほどの畳敷きの部屋だった。
真っ白な部屋には窓はなく、その代わりに左手には色鮮やかな几帳があり、右手には浮世絵屏風が飾られてある。
正面の奥は縁側となっているようで、御簾が半分ほど垂れ下がっていた。
さながら京の公家の邸宅の一室のよう。
そして縁側に、どうやら白い着物に朱色の袴を身にまとった女が一人、こちらに背を向ける格好で、手枕で横になっているのが見える。
俊太郎が入って来たことに、ちっとも気づいていないようで、寝ているのか、庭の景色を眺めながら心地好い春の陽射しを満喫しているかの、どちらかのようだった。
戸惑いながらも俊太郎は、部屋中を見渡してから一応、気を落ち着かせて挨拶してみることにする。
「ごめん!」
「うるせぇ!」
迷惑そうな少女の声が、即座に返ってきた。
どうやら俊太郎が入って来たことに気づいていたらしい。
しかし体を起こそうとも、寝返りを打とうともせずに、そのままの姿勢を続けている。
「おかしな奴が入って来たのではないか?」とか、気にならないのだろうか。
「あ……コホン。えー……あなたは、こちらに住んでおられるのですか?」
「あん? おう。なに不自由なく暮らしてっから、構わんでいいから。帰れ、帰れ」
手枕にしていない もう一方の手で、シッシッと追い払うように手首を振ってみせる。
「……あなたは一体、何者ですか? ここは小さな神社の本殿だったはず。なぜこのような広い部屋が、存在しているのですか?」
少女は一向に、こちらを振り返ろうともせずに、ただ答えるのが面倒臭そうに片足の指の爪で、もう一方の足のかゆい所をポリポリと掻き始めていた。
「それを尋ねて、どうすんのよ? おめぇに得でもあるんかい?」
「この中に、野ギツネが入っては来ませんでしたか?」
「知らんなぁ」
「俺が見ている この光景は、幻ですか?」
「さ~てね」
「あなたは……人間なのですか?」
俊太郎は、少女の後ろ姿を見すえながら、意識は大刀に置いている。
キツネ、幻覚、見知らぬ女……これなどから自分は今、化かされているのではないかという疑念を抱いた、その結果だった。
すると少女の口から、意外な言葉が返ってきた。
「そういうあんたは、人間なのかい?」
「!?」
「『自分は確かに人間だ』という証拠でも、持ち歩いてるのかい?」
「…………」
息を呑んだ俊太郎は、落ち込んだように俯いてしまう。
返す言葉が、見つからない。
すると少女は、小指で耳の穴をほじくりながら、チラッと俊太郎の様子を盗み見て、フッと息を吹きかけてから着物で拭き取った。
それから鼻の穴をほじくって、鼻くそを指でピンと弾き飛ばしながら、初めて俊太郎に話しかけてきた。
「まあ、いいじゃないの。そんなこと、どうだって。別に迷惑をかけているわけでもなし。適当で行こうじゃないの、お互いにさあ? のんびりと生きなよ。肩の力を抜いてさあ? 人間って生き物は大概、そういうもんだ」
「あのう……本当にあなたは一体、何者なのです?」
見た目と声質から、明らかに年下なのだろうが、言っていることは年上の説教のようだった。
だからこそ、ちょっと身に染みて感動してしまう自分が居たし、ちぐはぐさが、どうにも胡散臭さを匂わせてもいただけに、その辺をハッキリさせたいと強く思うようになってしまっていた。
と、その時である。
右手の浮世絵屏風が一枚、勢いよくバターンと倒れると、そこに巫女装束の姿をした少女が二人、現れた。
髪型は違うが、顔立ちからして、双子のようである。
そしてどうやら屏風の裏の壁が、襖となっていたようだった。
「葛の葉さまー? 餅入りきつねうどんができましたよ~い」
そう言いながら髪の短い方の少女が、両手を頭の後ろに組んで、倒れた浮世絵屏風を堂々と踏みつけながら縁側へと歩いて行く。
その後に続く、一組の箸と熱々の丼を乗せた お盆を持った髪の長い少女は、同じく浮世絵屏風の上を通り過ぎると、爪先を後ろへ蹴り上げて、倒れたままのそれを、元通りに立たせていた。
目撃した俊太郎の目が、丸くなる。
「おー! 待ってたよー、紅葉ー。もう腹が減って、腹が減って、ズボラしてたわー」
と言って、上半身を起こして振り向いた「葛の葉」と呼ばれた少女は、双子の少女たちは可愛らしい子供っぽさがあるのに対して、こちらは凛とした大人っぽさのある顔立ちで、襟足を刈り上げた短い髪型をしており、年齢は十代後半から二十代前半であるように思えた。
その場に胡坐を掻いて、両手は足首を掴み、ご機嫌に左右に揺れながら歌い出す。
「今日の~♪ ご飯は~♪ なんじゃろ~な~♪ 今日の~♪ ご飯は~♪ なんじゃろ~な~♪」
「恐縮です」
「うん? おい、楓? おまえ、醤油くさいな? つまみ食いでもしたのか?」
「う~~ん? ううん! してない、してない!」
楓と呼ばれた髪の短い少女は、外を眺めるようにして、葛の葉のすぐ横に ちょこんと胡坐を掻いて腰を下ろす。
紅葉と呼ばれた髪の長い少女は、葛の葉の目の前で正座をすると、お盆を差し出して両手を畳みにつけてから、深々と頭を下げると、
「お口に合いますか、どうか?」
「苦しゅうない。やはり寝起き早々の食事は、麺類にかぎるのう」
と、急に紅葉は態度を一変させて、上げた顔はニコッと微笑み、立ち上がると葛の葉の側に移動して、甘えん坊のように寄り添うようにして腰を下ろしていた。
そんな紅葉の行動を、いつもの事と慣れているらしく、特に気にもせずに手を合わせて「いただきます」と言うや、餅入りきつねうどんを食べ始める葛の葉だった。
という一部始終を、ただ茫然と見ていた俊太郎を、紅葉がここで初めて、その存在に気づいた。
「まあ! 葛の葉さま? お客さまですか? わたくし、ちっとも気づかず……」
「ああ、ズルズルズルーッ、気にしなくていいよ、もぐもぐ、ただここへ偶然に、ごっくん、迷い込んだだけだから。ズルズルズルーッ、もう帰るだろうさ。もぐもぐ、他に大事な用があるみたいだし、ごっくん。それより、この餅、美味いな~。とろっとろだ」
「恐縮ですう」
葛の葉の言葉から、すっかり忘れていた『大事な用』を思い出した俊太郎は、部屋中に響き渡るほどの「あッ!?」と驚愕の声を上げるや、慌ただしく外へと飛び出して行った。
短い境内を抜けて、大通りへと飛び出すと、ハタと立ち止まって振り返る。
真神稲荷神社の中に居た、あの娘たちは、何者なのだろうか。
そして部屋の広さと、縁側の奥に見えた、あの景色。
今こうして、神社の後ろ側を見てみると、竹藪が広がっているのが見える。
すべては幻覚だったのだろうか。
だとすると彼女たちは妖怪か、精霊か、神様と呼ばれる類のいずれかなのだろう。
(まあ、いいか。とにかく今は、戻らないと! ああ……今度はこちらが、待たせてないと いいけど……)
一抹の不安を抱きながら俊太郎は、来た道を戻って、田宮の家へ帰ることにした。
三
寄り道をせずに移動してみると、神社と田宮の家とが、さほど離れた距離でないことに初めて気づかされた。
振り返って、細道の奥にある竹藪を見やる。
あの中に先程 行ったばかりの、真神稲荷神社がある。
確かに色々と気にはなるが、今となっては、もうどうでもよい心持ちだった。
もう二度と、あそこへ行くことはあるまいという確信を抱いて、田宮の家へ着くと、玄関の前に立つ。
「ごめんください。何度も訪れて、すみません」
と腰を低くして声をかけると、お岩が笑顔で出迎えてくれた。
「つい先程、伊右衛門がお戻りになられまして。さっ、どうぞ? こちらです」
場所は解っているのだが、お岩は親切に案内してくれた。
客間に入ると、自分用の文机の前に胡坐を掻いた伊右衛門が丁度、煙草盆を引き寄せて、煙管で煙草を呑もうかという所だった。
目を合わせると、俊太郎は即座に会釈する。
「ご無沙汰しております」
「うん、こちらこそ。待たせてすまないね?」
俊太郎が腰を下ろすと、お岩は冷めてしまった湯呑みを持って、「入れ替えてきますね?」と断って退室した。
「お気遣いなく」と声をかけてから、とりあえず彼女の夫である伊右衛門を、嫉妬心 剥き出しで睨みつけることにする。
気づいた伊右衛門は咳払いを一つ吐くと、手に持った煙管を煙草盆に戻して、遠ざけた。
「うん、まあ、煙草の煙を嫌う者も居るからな。すまん、すまん。えー、さっきは待たせて、すまんな? 子供が弁当を忘れてね。寺子屋まで、届けに行っていたのだ」
「そうだったのですか」
と、ここで お岩が部屋に入って来たので、俊太郎は睨むのをやめて、指で眉間をこすりながら にこやかに、「粗茶ですが」と湯呑みを置いてくれた お岩に、「ありがとうござます」とお礼を言った。
俊太郎が気をよくしたようなので、伊右衛門は密かに ホッと胸をなで下ろす。
お岩がまた退室するのを待ってから、伊右衛門は早速、本題に入る。
「それで貴鼓から聞いたのだが、あやかしの始末を、おまえが引き受けてくれるのだそうだな? お鶴ちゃんは、何と言っている?」
「妻は不在中で。なので相談もせずに、勝手に決めてしまいました。いけませんか?」
「物の怪とやらは、逆恨みすると聞く。退治した後で 祟られるという場合も、考慮せねばならんぞ? 知り合いに、祓い屋は居るのかい?」
俊太郎は首を、横に振った。
伊右衛門が「う~ん」と唸って茶をすするのを見て、俊太郎も釣られるようにして茶をすすっていた。
「……祟りは、怖くはないのか? もとより人ならざる者に、恐れを抱きはしないのか?」
「ピンと来ません」
「この神田の橋本町の怪異は、十中八九、人の仕業ではないぞ? 物の怪の仕業だ。もう一度、よく考えて、引き受けるかどうかを決めるといい。おまえは、独り身ではないのだからな。妻が居て、いずれは子ができるだろう。そんな将来を、ようく鑑みるといい」
「……俺に子供が、できますかねぇ?」
「それは……男と女が一つ屋根の下に暮らしていれば、いずれは必ず……まあ、うちは一般でいう所の遅くはあったが、今はこうして大家族に恵まれている。が……そういった兆候は、そちらでは ないのか?」
「不在が多く……」
「あ……なるほど」
「これでは夫婦であるとは、見なされないと思われるのです」
「いや、そこは……しかしだな? お互いだけでなく周りとて、二人が夫婦であると認めているわけだからして」
「妖怪からして見ても、そう思われるのでしょうか?」
「ううん? う~~ん……」
「育ての親は居ますが、実の親や兄弟も居ません。なので、祟りが起きようとも、俺だけに降りかかるのではないかと思うのですが?」
「………………」
伊右衛門は、小さく唸りながら 渋い顔をして、もう一度、お茶をすすった。
今度は俊太郎は、釣られない。
そして渋い顔を崩さないまま、煎餅を一枚 手に取って かじりつくと、
「……やってみるか? 本当にどうなるかは、解らんぞ?」
「はい。よろしく お願いします」
「こちらとしても解決してくれるのなら、これ以上、ありがたいことはない。報酬も出そう。だがな? 失敗して、いかなる損が生じようとも、こちらは一切、責任を負わない。それでも、いいんだな?」
「結構でございます」
「……なあ、俊太郎よ? 生き急ぐなよ? 死に急ぐなよ? もう一度 言うが、おまえには妻が居て、いずれは子供も生まれるはずだ。その点だけでも、生きがいとなるはずだ。早死にだけは、してくれるなよ? どんなに情けなくても、生に しがみつくんだ。いいな? それだけは、約束してくれよ?」
「……はいッ」
俊太郎は視線を落とし、何度も頷いてから伊右衛門を見すえて、ハッキリと声に出して返事をした。
伊右衛門は切なそうに、それでいて ほのかに笑みを浮かべて、溜息を吐きながら小刻みに何度も頷くと、文机の引き出しから一枚の紙を取り出して、俊太郎の前に差し出した。
それを読んでいる間を使って、硯も取り出すと、水差しで硯池に わずかばかりの水を垂らしてから、硯石を擦り始めていた。
構わず俊太郎は、受け取ったその紙に、目を通すことにする。
すると、そこに書かれていた内容というのが、意外なものだった。
口入屋での、用心棒の依頼の契約書のようなものを想像していたのだが、そうではなく、こう書かれてあった。
『江戸幕府閣僚了承確認書
以下の者を、御用改め あやかし始末 執行人であることを認める。
任務にあたり、万が一、体が不自由となった場合、
精神が不安定となり普通の生活が困難となった場合、命を落とした場合、
本人、および家族に一生の生活が困らないよう支援するものとする。』
左端には達筆な字で、八代将軍の徳川 慶家の名が記されてあり、さらには朱墨による、葵の御紋の捺印までしてあった。
鳥肌が立つ。
これほどに大事になろうとは、夢にも思ってはいなかった。
自覚はないが、とても緊張しているというか、精神的な重圧を感じ取ったらしく、触れなくても自身の顔が冷たいと解るほどに顔色を悪くして、その上、脂汗まで掻いてしまってもいた。
吐き気までも、もようしてくる。
堪らず手で口を押さえる俊太郎を一瞥して、擦り終えた硯と、それから筆を伊右衛門は差し出した。
「度肝を抜いたようだね? はっはっはっ。迫力があるだろう?」
「あの、ついさっき、責任は負わないって?」
「すまん、すまん。あれはね、はったりだよ。家族や将来を見すえて、考え直すと思ったのだがなぁ。とりあえず、作戦は失敗といった所だ」
「はあ……あのう、もしも? へまをしたら、顔に泥を塗られたとして、幕府を敵に回してしまうなんてことは、あるのでしょうか?」
「それは……まあ、幕府を敵に回すような、悪しき行為をするようであれば、だろうね。例えば……そうだね、妖怪をしたがえて、江戸城を乗っ取ろうとしたりした場合とかかな? そういった明確な悪行でない限りは、簡単にはそう見なされたりはしないさ」
「なるほど……」
「それじゃあ、将軍の名前の横に、自分の名前を大きめに書いてくれ?」
「はい」
会話によって気が落ち着いて来たらしく、体調がよくなってきたことを感じ取る。
しかし筆を手に取ると、大袈裟なほどに ぶるぶると震えてしまい、左手で右手を押さえるという形で、自分の名を一文字、二文字とゆっくりとなんとか書き上げていった。
息が詰まる思いで、やっと成し遂げると、筆を硯に置くや、大きく呼吸を繰り返す。
伊右衛門は、『江戸幕府閣僚了承確認書』を手に取ると、書かれた『霧島俊太郎』の名の出来を じっくりと見て、
「うん。よい出来だ」
と頷いて、文机の引き出しの中へしまうと、代わりに今度は、袱紗に包まれた長細い物を出して置く。
そして包みを取ると、出て来たのは厚みの薄い桐箱で、蓋を開けてから俊太郎の前に差し出した。
中に入っていた物は、それは生まれて初めて見る物だった。
丸くて平たい銀の塊に、ネジのようなものが付いていて、その上に輪っかと、小さくて長めの鎖が付いている。
「……これは?」
「懐中時計という物だ。大阪のカラクリ儀右衛門に、特注で作ってもらってね。今から、おまえのものだ」
「は……はあ……これを? いただけるのですか」
「手に取って、蓋を開けてみてごらん?」
『言うは易く、行うは難し』というもので、『あなたは使い慣れていらっしゃるでしょうが、こちらは初めてなんです』といった具合で。
あれこれ試してみて、『ああ、こうやって開けるのか』と納得すると同時に、開け方を覚えたようだった。
何度も開け閉めをして、その音と手応えに酔いしれ始めている俊太郎を注意するが如く、
「蓋を壊さないようにな? 実はそこに、仕掛けがあるんだ」
「あ、はい」
「さっきも言ったように、それは懐中時計というものでね? 蓋を開けると出てくる、文字盤なんだが? それは二本の針、細長いのと太くて短いのとで、現在の時刻を表しているんだよ。それで、早く動いている細長い針が一周するたびに、その細長い針が……」
「はあ……」
「……うん、まあ、使い慣れてみれば、その便利さが解るだろう。そもそも、使うか使わないかは、おまえの自由で構わない」
「はい」
「しかし重要なのは、それに施されている仕掛けの方だ。いいかい? 蓋を閉じて、ネジを左側に回して、カチリと音がしたら、ネジを二回だけ押してごらん?」
「はあ…………やりました」
「じゃあ、蓋を開けてごらん?」
「はあ……うおッ!?」
普通であれば時計の文字盤が現れる所に、何と、黒を下地に、金で葵の御紋が描かれた文字盤だけが現れた。
意表を突かれて、びっくりしたあまり、放り投げてしまう寸前だったが、かろうじて堪える。
伊右衛門もそんな反応に驚いたようで、俊太郎が大事なその懐中時計を放り投げてしまうと思い、落ちる前に受け止めようと咄嗟に身を乗り出した結果、文机の上に突っ伏す形となってしまっていた。
二人とも、お互いに じっとりと、嫌な冷や汗を掻いていた。
「わ、私に、そういう驚かしをするのは、今後とも やめて欲しいな?」
「そ、それは、お互いさまということで……」
「つまりだな? 任務の最中であれ、人為的な不都合が生じた場合には、それを見せれば回避できるだろう。もう一度、蓋を閉めてしまえば、葵の御紋は消えてしまう。決められた動作を行わない限りは、からくりは起動しないという仕掛けだ。それをおまえに授ける。大事にしてくれよ?」
「は……はい」
すっごく責任が重大で、『邪魔なので返します』という本音が言えるはずもなく、俊太郎はペコリと会釈すると、素早く桐箱に入れて蓋をし、袱紗で不器用に包んで、懐に仕舞った。
そして自分に出された湯呑みを手に取り、お茶をゴクゴクと喉を鳴らして、一気飲みをする。
「ぷはーっ! じゃあ、帰ります! 帰って寝ます! 失礼します!」
「あ、ああ。気をつけてな?」
眩暈がする為、手探りでもって自分の大刀を持って腰に差すと、まるで酔っ払いのように よろめきながら立ち上がって、フラフラしながら玄関へと向かう。
これを見ては、さすがに伊右衛門は不安になり、
「ま、待て、おい? 俊太郎? 駕籠を呼ぶから、ここで待て?」
「ご、ご心配なく! 駕籠は無用なので! ここで失礼します!」
草履を履くと、台所の方からやって来た お岩と、心配する伊右衛門に向かって、俊太郎は深々と頭を下げる。
というか上半身だけ不意に力を失って、だらんと垂れて、倒れかけのように見えなくもない。
お岩が何かを言って、何かを手渡してくれた。
俊太郎の視界はグニャグニャと歪み、聞こえるものは耳に水でも入ってしまったかのように ぼやけて、とても遠い音のように感じた。
俊太郎は、「ありがとうございます」と言ったつもりの後で、ニコッと微笑んで、受け取ったそれを袂に入れて、田宮の家を後にした。
どこをどう歩いたのかは、よく憶えてはいない。
人や物に ぶつかりはしたが、このまま一度でも倒れてしまえば 二度と立てなくなる気がして、歪んだ世界を ひたすらに歩き続けていた。
そうして、やっとの思いで自分の家に辿り着くと、開けた表戸を閉める行動すら面倒になり、草履を脱いで、そのまんま畳の上に倒れ込んでしまう。
それからやっと、全身から力を脱いて、意識を失うようにして眠りについていた。
脳がドロドロに溶けて、体中までもドロドロに溶けてしまい、生温かな闇の中に落ちて行くかのような感覚。
絶頂にも似た感覚を全身に感じながら、何もかも捨て去ったような真っ白な心地好さで、俊太郎は深い深い眠りへと落ちて行った。
四
どれほど眠り続けていたのだろうか。
ふと目を覚ますと、表は真っ暗。
太陽は沈んで、すでに夜が訪れている時刻であるらしい。
眠気眼で部屋の様子を探ると、自分は点けた憶えのない行灯に、火が灯っているらしく、それなりに明るかかった。
しかも、『寝ている間に風邪でも引かないように』と親切にされたらしく、自分が使っている掻巻を掛けてもらったのだと思いきや、それは どてらだった。
とても暖かい、心遣いも含めて、とても暖かい。
台所の方から、夕食を調理しているらしい音がする。匂いもしてくる。
(千鶴? 帰って来たのか?)
声をかけて振り返ろうとした時、どてらから ほのかに香る匂いが、妻のそれと異なっているのに気づいた。
男じゃない、女なのだろう、しかし妻ではない。
ひょいっと腰を曲げるようにして、台所の方を振り返って見てみると、後ろ姿だったが、すぐに解った。
「お梶さん?」
「起きたのかい? ダメじゃないかよォ、きちんと戸締りしないと? 表戸が開けっ放しだったから、びっくりしちゃったわよ?」
「すいません……とても疲れてしまっていたもので……」
「どんなに疲れていても、布団でも敷いて、ちゃんと寝な? あのまんま、風邪でも引かれて死なれちゃあ、長屋の連中、み~んなに迷惑がかかるんだからね? しっかりおし?」
「はい、すいません。ご迷惑を、おかけしました」
「……まあ、あたしは、いいんだけどね? 世話好きで、やってることだからさ。それより、お腹すいてるでしょ? とりあえず簡単な物を作ってあげといたから、食べなよ?」
「はい、ありがとうございます。いただきます」
俊太郎は、寝ている間に体中が凝っていたらしく、上半身を起こしてその場に胡坐をかく姿勢をする最中、つねに体中のあちこちで、ボキボキッという枯れ枝が折れるような音を立てていた。
それから両腕を上げるようにして、伸びをすると、やはり背中や肩が音を立てる。
そんな俊太郎に構わず、お梶は一組の箸と食器の乗ったお盆を、彼の手前に置いた。
それは炊き立ての白飯、熱々のみそ汁、それから……
「おかずなんだけどさ? 今日の花見の残り物なんだけど、よかったら食べておくれ? 冷めてても、美味しいはずだから?」
「ありがとうございます。助かります」
確かに、お梶のガサツな性格の表れか、一つの皿に色んな料理がゴチャッと盛られてある。
味は心配だが、まあ、食えないことはないだろう。
「それじゃあ、用が済んだことだし、あたしは帰るとするよ」
「あ、はい。あ、あの、これ、どてら、掛けてくれて、ありがとうございました。とても暖かかったです」
「それはよかった。でも……んー、臭くて、目覚めが悪かったんじゃないかい?」
「とんでもない。優しい温かな香りが いたしました」
「……うふふふふっ」
どてらを受け取り、着ながらクルッと背中を向けると、顔を赤くして、若い娘が恥ずかしがるように忍び笑いをする。
俊太郎はまったく気づかず、両手を合わせて「いただきます」と言うと、食べ始めていた。
「……うん。うまい」
「あのさ?」
「はい?」
「急に、こんなことを言うのも、何だけどさ? 実は長屋のみんなは、『稲荷小僧』の正体を知っているんだよ」
「……はあ、そうなんですか。俺には さっぱり、見当がつきません」
「その人はね、長屋に住んでてね? 優しくて……強いくせして、情けないほど弱くて……だけど、とてもいい奴でさぁ?」
「はあ……そうなんですか」
「でもさ、なんて言うか……みんなと一緒に、わいわい楽しく騒ぐってことが出来ない、不器用な所があってね? その辺が少し、困り者なんだよ」
「へえ、そうなんですかぁ。ふーん」
「みんなでね、大家さんに相談したら、『そっとしておこう』って言うんだよ。そいつがさ、知らないふりをしているのなら、それにトコトン付き合ってやろうじゃないかって。何かしらの深い事情が、あるのかもしれないしさ。だからさ……んー、だから……」
「…………」
「まっ、まあ、あんたにとっては、まったくね? 関係のない、赤の他人の話なんだけどさ?」
「ええ、当然ですよ」
「……ありがとう。今日も本当にありがとうって、そう伝えてやりたいんだ。本当に……あははっ。今日は本当に、楽しかったー。長屋のみんな、みーんな笑顔だったよ」
「……そうですか。きっとその人にも、その喜びは伝わっていると思います。まあ自分は、今回も参加できなかった身ではありますが、それはよかった。花見が楽しかったのは、我が事のように嬉しいです」
「そうかい。本当にあんたは、変わり者だよ」
「あははははっ。小さい頃から、よく言われます」
「……さっ、じゃあ、帰って寝るわ。戸締りと火の始末は、しっかりとね? お願いね?」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ……」
お梶は家を出ると、後ろ手に表戸を閉めた。
実は、豊満な胸元を強調した着崩れをしていたのだが、本人はすでに気づいていたらしく、夜空を仰ぎながら片手であっさりと直す。
満月なのか三日月なのか、雲が月を隠して欠けさせていた。
(自分の女房にしか、興味がないのかしらねぇ。あ~あ、切ない切ない。こちとら いつだって、後腐れのない、お礼をしたっていいくらいなのにさ。あ~あ……)
作戦が失敗でもしたような暗い面持ちで、自分の家に帰ると、
「ちょいと! なに行灯に、火を灯してんだい! 油が、もったいないだろ!」
「なんだとォ? こちとら おまえの為を思って、親切心で、」
寝ずに妻の帰りを待っていた夫の怒声を遮るようにして、お梶は中へ入ると、表戸をぴしゃりと閉めていた。
きっと今夜も、八兵衛と夫婦喧嘩をしながら、床に就くのだろう。
ともあれ俊太郎は、ふと思い出したように着物の袂から、小さめの包みを取り出した。
芝居小屋の近辺で売られている、人気の手拭いを解くと、中から出て来たのは小さな桐箱。
蓋を開けると、食をそそる爽やかな香りと共に、柔らかな果肉となった大きな梅干しが四個、出てきた。
それはお岩が、子供が食べやすいようにと蜂蜜で漬け直した、甘くて酸っぱい梅干しだった。
俊太郎にとっては、これが大好物の一つだった。
小躍りしそうなくらいに満面の笑みを浮かべると早速、ご飯が入った丼にみそ汁をかけてから、その梅干を食べてみる。
「うまい!」
そして、しゃくしゃくしゃくっと、みそ汁かけ どんぶり飯を掻っ込む。
この繰り返しで、たった二個の梅干を食すのに、みそ汁かけ どんぶり飯を三杯も、あまりの美味さに掻っ込んでいた。
残りの二個は、明日の朝食用に、取って置くことにする。
「はあーーっ、美味かった。ごちそうさまでした。……それにしても、」
先程の、お梶の言葉を呼び起こす。
(そうか……バレてしまっていたのか。でも、ありがた迷惑になっていなくて、よかった。郷里は、俺と千鶴からと、それなりの仕送りはしたし。残ったお金の使い道といえば、俺には、これしか思いつかない。これがもしも、千鶴だったら……もっと別の方法が考えつくのだろうなぁ……)
ふと何気に、部屋中を見渡してみる。
「こんなに、広かったっけ?」
不意に、寂しさと人恋しさが、込み上げてくる。
俊太郎は頭を、左右に振った。
それから食器を片づけると、思い出したように懐から取り出した、懐中時計の入った桐箱の包みを箪笥の上に置いて、部屋の真ん中で大刀を引き抜いた。
横に傾けて、刃を見つめると、そこに目元が映り込む。
(斬れるか? こいつで? うん? 日本のどこかで、侍が刀で、化け物を退治したという話は、聞いたことがある。じゃあそれが、自分にも出来るのか? どうだ? 祟りを、恐れるか? 心に迷いはあるか? おまえに、斬れるのか?)
と、俊太郎は眉間に皺を寄せて、自分を睨みつけるような表情をすると、大刀を振った。
部屋の広さを考えて、小振りに、何度も何度も何度も何度も……。
自分の中の怯え、自信のなさ、弱さを、何度も空を切って打ち消していく。
そうして……気が晴れたのか、静かに大きく息を吐きながら、大刀を鞘に納めた。
――行こう!
提灯の蝋燭に、行灯の火を移してから、行灯の方の明かりを消す。
表戸を開けて、家を出ようとした間際、ふと立ち止まって振り返り、箪笥)の上の妻の短冊を見た。
「……必ず、帰ります」
決意や誓いのような挨拶をしてから、家を後にした。
よほどの理由がない限り、長屋の消灯は早い。
油の値段が高い為に、日暮れ前に夕食を済ませて、夜の訪れと同時に眠りにつくからだ。
日中とは違って人気がないからであろう、まるで長屋の住人が全員、どこかへ消えてしまったかのように、不気味なくらい静かだった。
これから本物の化け物退治に行くとあって、臆病風に吹かれて鳥肌が立ち、怖気づきそうになるほど、その不気味さは ひとしおだった。
長屋の出入口 付近まで来ると、向こう側に、提灯のものと思しき 五つの明かりを見つけた。
近づいてみると、誰かを待ち伏せしているらしい二組の駕籠屋と二本差しの武士が一人、居るのが解った。
その武士が、手に持っていた提灯を上げて、自身の顔を照らすようにしながら、やってきた俊太郎の顔を確認するような素振りをする。
「……霧島か?」
「んんッ!? 綾之?」
嫌な予感がして、小走りに駆け寄ると、真剣な表情で尋ねる。
「どうした? 何か、あったのか?」
「いや、おまえに付き合おうと思ってな。入れ違いにならなくて、よかった」
「バカな考えはよせ。帰れ。もしものことがあったら、おまえの家族に、どう償いをしたら いいんだ?」
「大丈夫だ。な~に、命を 奪われるわけではない」
「しかしだな?」
「まあ、聞いてくれ。私は、おまえに比べたら、剣術では勝てぬほどの腕前だ。だから、加勢するつもりはない。足手まといだからな」
「だったら!」
「だが、おびき出す為の餌ぐらいには、なれるはずだ。霧島? 私はおまえの腕を、誰よりも信頼している。ここは友として、いや、奉行所の代表として同行させて欲しい。私に、解決の糸口の、手助けをさせてくれ?」
「綾之……おまえのような生真面目な奴が、そうは剣の腕を鈍らせては いないだろう。餌だなんて、とんでもない。おまえの剣の腕、借りるぞ?」
「ああ! 使ってやってくれ!」
二人は、わずかな不安もない澄んだ瞳で見つめ合い、それから力強く頷き合った。
そして二人はそれぞれ、綾之新が用意した駕籠に乗り込む。
目指す場所は、神田 橋本町。
これから本物の化け物を退治する為に。
<第三章 終>