第一章 用心棒
一
江戸の町には、いくつかの盗賊が存在してある。
彼らは決して江戸に住み暮らしているわけではなく、他の土地で遊んで金がなくなると、また江戸で盗みを働くという連中ばかりだった。
それこそピンからキリまであるわけだが、そのほとんどが、火付盗賊改を はじめとする捕り手に捕縛され、厳しく処分されている。
にも拘らず、その数は一時的に減りはしても、犯行がなくなる事は決してなく、真面目にコツコツと働くよりも 楽にパッと稼げる方がずっといい、などという考えを持つ人間が後を絶たないということも意味していた。
そして地方の貧困問題にも原因がある。
一生懸命に汗水を流して働く農民と、その近所で、何不自由なく暮らしている庄屋という構図。
方や、その日の食べ物にも困る生活を、一生 続けていくという家。
もう一方では、食べ残しを平気で出来る生活を送れる家。
「少しぐらい頂いても、きっと仏様は見逃して下さる」
「今回だけ! 今回だけ!」
などと盗みに入ったのがキッカケで、そのまま悪の道へ転がり落ちるなどという輩も少なくはない。
すべては貧しさが悪い。親が悪い。あいつが悪い。こいつが悪い。
などと言い訳と納得を繰り返して、『可哀想な自分が罪を重ねている。嗚呼、何て悲劇』などと解釈している輩も少なくはないのだ。
だがしかし、だからといって、同情の余地があるとはいえ、犯したその罪が すべて許されるわけではない。
特に、外道を極めた『ひとでなし』には容赦なく、人の目にさらして、それこそ残虐に処罰されていた。
充分な抑止力にはなっているはずだった。
しかし それでも、ひたすら外道を突き進み、凄惨な強盗を繰り返す、盗賊があった。
その名を、烏咬という。
戦国時代に暗躍した忍者たちの残党、成れの果てとも言われ、盗賊の捕縛に慣れた役人たちでさえ、もっとも注意すべき集団であった。
ここ 二十年あまりのうちに、この烏咬を捕縛しようという行為が原因で、少なくとも火付盗賊改方長官が四人、同心が十五人、命を落としていた。
たいてい盗賊というものは、多勢に無勢のもと、逃亡を基本としているはずなのだが、この烏咬はそこが違っていた。
捕り手が現れたものならば、盗み出そうとする物を放ってまで、必ず、頭の首を取りにかかるのである。
狙った大店の屋敷にいる、家主ら家族は もちろんのこと、奉公人らまでも皆殺しにした上で、雇われた用心棒や屋敷のそばを偶然に通った者のみならず、現れた捕り手らの頭である火付盗賊改方長官の首を取りにかかる。
それが成功すれば、放った お宝に目もくれず、追っ手を始末しながら逃亡するという。
失敗した場合は、明け方頃に、事前に飲んでいた毒が体中に回って、死ぬだけ。
これが、盗賊 烏咬だった。
それ故に、この中に入り込んで、役人に情報を流すなどといった行為は、命懸けだった。
発覚した裏切り者には、容赦しない。
どこまで逃げても、必ず見つけ出され、隠れ家に連れて行かれる。
ただ殺すのではなく、特殊な薬品を投与して、意識のある状態のままで、のこぎりを使って両腕両足を切断される。
隠れ家の庭に必ずある、異臭を放つドブのような池。
それを塞いでいる上の板を取り払って、それから四肢を失った裏切り者をその池の中に落とすのである。
あぶあぶと溺れている裏切り者を囲んで、烏咬たちは豪勢な宴を楽しく行う。
小便を催したら、男も女も その池の中へ、用を足す。
裏切り者の息の根が止まるまで、その狂った宴は続けられるのだった。
女子供を含めて、五十人以上にも及ぶ、この集団。
お頭は、今度で七十を越す小柄な老人、閻魔の災蔵といった。
長屋住まいの浪人、霧島 俊太郎が、役人ですら恐れをなす盗賊 烏咬が、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>を 狙っていると知ったのは、三日前のことだった。
いつもの口入屋で、用心棒の仕事を探してもらっていた時のこと。
この店の主で、店番をしている お龍が、そこから見える空をぼんやりと眺めながら、煙管を吹かしつつ、ふと口にしたのである。
「死人がでるんだねぇ」
不吉なつぶやきだった。
お龍は、顔の左半分から首の左半分、左肩から左胸、そして左のヒジにかけて大火傷を負っており、赤黒く変色している為に いつも包帯を巻いている、三十路の女だった。
そんな怪しげな女の口から突然に発せられた、死神じみた台詞に、店にいた ほぼ全員がゾクッと寒気を感じた。
火傷を負って、ほぼ失明している左目に、何かを見たのかと思えたほどだった。
「そうなんですか?」
俊太郎が、尋ねた。
「烏咬がでるんだよ」
「ウカミ? ウワバミ?」
「盗賊のことだよ。そこの連中は、他人の命に容赦がなくてね。店の者も役人も、通りかかった者だろうが、皆殺しなのさ。狂ってるね。人間じゃないよ、ありゃあ。あれこそ、『ひとでなし』って奴さね」
「ひとでなし……化け物ってことですか?」
「クックックッ、その通り。人間の皮を被った、化け物って奴さ」
「…………」
「ふん、そんな化け物が相手じゃ、まっとうな人間のお役人さまが、そりゃあ太刀打ちできるはずが ないんだよォ。可哀想にねぇ。七日ほど前から、逃げるよう警告が出されているようだけど、半ば諦めているようだよ。バカだねぇ。命あっての物種だろうに。つうか、金持ちであることが、命を狙われるほど悪いことなのかねぇ? どう思うよ、俊太?」
お龍は、いつも俊太郎の名前を、『郎』まで呼ばない。
何か言おうと口を開きかける俊太郎の顔面に、するとお龍は、フゥーッと煙草の煙を浴びせた。
むせながら手で煙を払う俊太郎の姿に、お龍は「クックックッ」と可笑しそうに笑って、吸い殻を煙草盆の中に、煙管をポンと叩いて落とした。
「仕事は見つかったかい? ないだろう? 江戸の町は広いもんだから、人が多いし、職探しが目的の奴も多い。おまえのような浪人の数だって、そうさ。用心棒の仕事なんざ、あっという間になくなっちまう。残念だったね。また明日、来な?」
「どうして、ウワバミの話を知っているんですか?」
煙管に きざみ煙草を詰めている、お龍の手が止まった。
「……なんだって?」
「用心棒の仕事が入ってるんですよね?」
「やめときな、やめときなよ? 賭け事に、どっぷりとハマッてるわけでもないだろう? 吉原に好いた女でも、できたわけでもないだろう? 腕試しでもしたいのかい? それとも、死に場所を探しているのかい? あんた、かみさんが居ただろう? いつも家には居ないみたいだけど、かみさんが帰ってきたら、骨壺の中で出迎えてやろうって腹なのかい? 誰が笑うよォ、そんなバカッ話? 寄席でも聞かないよ。それとも、同情でもしたのかい? バカだねぇ。人間って奴は、それこそ毎日、必ず一人以上は、どこかで死んでるものさね。自然死、病死、それこそ殺しだってあるだろうさ。自らが望まない死なんて、どれだけの人間が経験していると思うんだい、ええ? そういうもんなんだよ。人間さまは、犬や猫や鳥とか、それら生き物とは違うなんて偉ぶる輩もいるけどねぇ? 結局は同じさ。同じなのさ。だから、いいかい? 他人の為なんかに、たった一つの命を捨てるんじゃない。自分の為に、自分の大切なモノの為だけに、そのたった一つの命、使いな! いいね!」
とまあ、長々と真剣に俊太郎を説得しながらも、お龍のその体は、近くに居る番頭の半吉に、身振り手振りで「盗賊 烏咬と、今度、襲われる予定の店の資料を持ってこい」と指示していた。
番頭の半吉は、この店一番の年長者で、年齢は三十路を半ばほど過ぎたくらい。
顔立ちは面長で、頬がこけており、黙っていれば日本人離れした、今でいうチョイ悪オヤジ風であり、笑った顔は無邪気っぽさがあって、そのギャップが一部の娘たちに人気があった。
もと腕の立つ大工職人という経歴まで持つ彼が、二冊の帳面を探し出してくると、しゃべり続けている お龍に黙って差し出した。
お龍は、もっともらしい上辺だけの説教を続けながら、それらをペラペラとめくると、切りのいい所で、開いたその二冊を俊太郎によく見えるように差し出した。
「うちの銀次が、調べて来たんだよ。どうだい? うん?」
俊太郎はまず、盗賊 烏咬に関する情報が書かれた帳面を手に取り、すぐに眉間にしわを寄せながら、読み続けた。
それから お龍は、そんな俊太郎に、先ほどまで あんなに お喋りだったのに、打って変わって 急に黙りだしてしまう。
煙管に詰めた きざみ煙草に、火口で火を点けて、吸っては静かに溜め息混じりに煙を吐いていた。
ようやくして、俊太郎は口を開く。
「この用心棒の依頼、引き受けたいのですが?」
「ああ、そうかい」
お龍はちっとも驚かなかった。
説得は無理だと諦めたというより、予定通りとばかりに、そばに置いておいた一枚の紙を差し出す。
それは、依頼を引き受けましたという証の書面。
途中下車など早々はできない、地獄行きの片道キップのようなものだった。
こちらの都合で途中下車をしてしまった時は、違約金という多額の借金を背負わされるはめになったりする場合も、あるということである。
「じゃあ、ここに拇印を押して? 商談成立だ」
字が書けない人でも、仕事が受けられるようにするべくの配慮だった。
俊太郎は親指に朱墨をつけて、書面の下にそれを押しつけた。
書かれてあるのは、以下の通り。
依頼人の名前、住所、依頼の内容、必要人数。
引き受けた者が命を落としたり、役人のご厄介になるようなことがあっても、紹介した店 及び、依頼人には決して、その責任を問わない。
依頼を果たした時に支払われる報酬金の全額。
この依頼を引き受けられる期限、などだった。
期限切れまで、あと三日。
依頼人の名前は、江戸本町三丁目、薬種問屋<藤田屋>。
豪商で有名とあって依頼達成の金額が、目玉が飛び出そうなくらい破格だった。
「それからね、相手があの烏咬とだけあって、奉行所からも ご褒美の話が あってね。もちろん、手柄は役人のものだし、口止めという厳守な約束のもとなんだけど、依頼達成の報酬の額は そこに書かれてある以上だから、期待していいよ」
「そうですか。楽しみです」
感情のない生返事だった。
今の俊太郎にとっては、金になど興味はなかった。
人が言う、人間の姿をした化け物とは、どれほどのものなのか知りたかった。
化け物と呼ばれる人間の基準が知りたかった。
烏咬に関する情報を知っても、心に浮かんだのは恐怖ではなく、純粋な興味だったのである。
「骨は、あたしが拾ってあげるよ。責任もって、あんたの かみさんに届けてやるから、安心して成仏しな!」
バンと勢いよく書面の左上に、『口入屋お龍』の赤い印鑑が押された。
これほど生き生きした お龍を見たことがない、と思えるほどに、彼女はとても楽しげだった。
他人の不幸は、蜜の味――か。
依頼人に渡す為の証文にも印鑑が押され、それを持って俊太郎は口入屋を出た。
その足で、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>へと向かう。
裏の勝手口ではなく、表側の正面へ行くと、水を撒いている丁稚に、
「おい、坊主? 悪いがこの紙を、旦那さまか女将さんに、見せてきてくれ?」
と言って、懐から出した証文を手渡すと、丁稚は素直に店の中に入って行った。
それからすぐに、家主と奥方の両名が、喜びを含んだ驚いた顔で やってきたが、必要人数に足りていない、俊太郎ただ一人だけだと解ると、すぐにその顔を曇らせていた。
「居ないよりは、まし」、「ただ死体がもう一体、増えるだけではないか?」といった複雑そうな表情だった。
ともあれ俊太郎は、日が暮れると店へやって来て、夜が明けるまで屋敷に居座るということとなった。
俊太郎は、あまり酒を飲まない。
だから用意される夕食の後は、夜食用にと、大福とお茶を用意してもらった。
毎日の夕食は、豪華だった。
金持ちだからというわけではなさそうで、雰囲気からして、『最後の晩餐』のようなものだったのだろう。
家主から奉公人の全員が、同じ部屋で、同じ物を飲み食いし、賑やかに過ごした。
明日、失うかもしれない命に、怯えて、食べ物が喉を通らない者など、郷里に帰らずに残った者たちの中には一人も居なかった。
きっと全員、それぞれが誰かを気遣っていて、それが賑やかで楽しげな輪を作り上げていたのだろう。
用心棒である俊太郎は、それを別室で耳にしながら同じ物を食し、ほのかに笑みを浮かべていた。
二
情報が洩れていると知っていて盗賊 烏咬は、ただ静かに決行の日を待っていた。
実力や武力に自信はがないわけではないが、その日は烏咬にとっての、吉日であるからに他ならないからだった。
時の運というのは、持ち合わせている実力や武力にも勝るのである。
そうして、決行の当日。
実行犯たちは江戸市中にある、忍者に縁ある古びた神社の本殿に集合していた。
お頭である閻魔の災蔵の含めて、その数、十人。
細見、長身、大柄、小柄、普通と、体格には一貫性はなく、しかしながら全員が、同じ黒茶色の忍び装束を着ていた。
他の九人よりも前に出た、閻魔の災蔵が、振り向いて口を開く。
「じゃあ、そろそろ、行くとするか。いいか、おまえら? 烏咬の誇りを、忘れるんじゃねぇぞ?」
穏やかながらも威圧してくるような、その口調。
烏咬の誇りとは何なのか、誰もうまく説明はできないが、全員が何となく理解はしていた。
その証拠として頷くと、手にしていた小さな飴玉らしき物を、それぞれが口に含んで噛み砕く。
それから中に入っていた液体ごと、ごくんと飲み込んだ。
その途端、皮膚を突き破らんばかりに筋肉は張り、血管は浮き出て、目は血走って、疲れは吹っ飛んだ。
長年の人体実験によって完成した、筋肉増強剤といったところだろう。
ただし数時間ほどで、飲んだ者を 死にいたらしめる副作用もある為、夜明けぐらいまでに解毒剤なる物を飲む必要があった。
ともあれ、それから盗賊 烏咬は神社を出ると、三艘の舟に乗って川を下った。
適当な場所に舟を着けると、降りるなり、一斉に目的地に向かって走り出す。
時刻にして、誰もが寝静まる、深い深い夜の闇が訪れた頃。
音もなく町の中を駆け抜けるその姿は、さながら黒い突風のようだった。
目撃者があれば、それが例え見廻りだろうが、酔っ払いだろうが、屋台の店主だろうが、身売り帰りの女だろうが、命はない。
今夜は運よく、その死神の鎌が振り下ろされることはなく、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>に到着した。
早速、裏手に回り、塀をたやすく飛び越えた者が、勝手口の つっかえ棒を外して両開きの門扉を開け、全員を庭園へと入れる。
虫の鳴き声さえも聞こえて来ない状況のもとで、盗賊 烏咬は淀みなく事を進めていた。
小柄の男と、体格のよい大柄の男の二人は、蔵へと向かう。
蔵の鍵を開ける者と、千両箱を運ぶ者である。
細身の二人が、縁側を閉ざしている雨戸を足掛かりに、屋根へ上がった。
屋根の上から、人の気配と屋内から漏れる明かりがないかを調べ、時として屋根の上から奇襲をする為である。
この二人は懐に吹き矢を、片手には柄の部分が自在に伸縮する、三叉槍を握っていた。
「ホウホウ! ホウホウ!」
フクロウの鳴きマネが聞こえてくる。
問題なし、屋内からの明かり漏れがなければ、屋外で見張っている者、出歩いている者が見当たらないという合図だった。
それを耳にして今度は、普通の体格をした二人の男が動く。
彼らは他の者たちより多くの、様々な刃物を身につけていた。
どれだけの人数が屋敷の中に居るのか わからなければ、殺害しすぎたり反撃でもされて、刃を折ったり落としたりしてしまった場合の為でもあった。
二人の男たちは皆殺しをする為だけに、音もなく雨戸を開けると、縁側へ足を踏み入れて、そのまま屋敷の中へと消えて行った。
お頭である閻魔の災蔵は、大金を運び出すのと皆殺しが済むまで、庭園で じっと屋敷を睨みつけるようにして、待機していた。
その両側には、日本刀を携えた屈強な猛者が二人、いつでも動けるよう待機している。
彼らの役割は、全員を無事に帰す為の殿、そして火付盗賊改方長官を始末する役目も担ってもいた。
残る一人は、近くを通りかかった者を始末するべく、すでに外を見張っている。
すべて いつも通り、順調に事は進んでいた。
もうじき、心地好い魂消えの音が聞こえてくる、頃合いだ。
低音も 高音も、閻魔の災蔵にとって好物だった。
体中に血液が激しく駆け巡るのを感じ、十歳以上も若返る思いがするのだった。
想像するだけで喉が渇きを覚え、酒が飲みたいと思った。
次の瞬間、
ドドォーン!!
勢いよく、二枚の雨戸が同時にぶち破られて、先ほど中へ入って行った仲間が 二人、庭園へと素っ飛ばされて来た。
それから何度もゴロゴロと転がって止まると、白目を剥いたまま、口から泡を吹いて、意識を失っていた。
よく見ると、二人とも首が あらぬ方向へ向いていて、生きてはいるが、虫の息という具合だった。
動揺を隠せずにいる両側の男たちと比べて、静かに憎しみを込めて、じっと屋敷の中を睨みつけている閻魔の災蔵の視界が、着物を襷がけにして、暗闇の中から こちらを睨み返してくる、一つの人影を捉えた。
「ううん? …………一人かぁ? 腕に自信があるようだなぁ……舐めやがって」
閻魔の災蔵は懐から どすを引き抜くと、足下に転がっている、使い物に ならなくなった二人の子分を、これが お頭の勤めであるかのように、どすを突き刺して息の根を止めた。
それを、ただ傍観していた人影である俊太郎は、引き抜いて右手に持っていた大刀を鞘に納めて、やや姿勢を低くして、いつでも引き抜けるように身構えた。
そして、半歩、半歩と、ゆっくりと前進する。
一方で屋根の端には、縁側から出てくるであろう俊太郎を奇襲すべく、すでに細身の男が一人、三叉槍を持って身構えていた。
「おーい? 聞こえるかい? 何者なんだい、おまえさんは? ……なあ? よかったら、俺たちの仲間にならねぇかい? 丁度 今、二人 減っちまってなあ。なあ、おまえさん? よかったら、どうだい? うん?」
閻魔の災蔵は、二人の子分を始末したまま、しゃがんだままの姿勢で、ニッコリと笑みを浮かべながら優しい声で、俊太郎を勧誘した。
当然、本気で俊太郎を仲間に加えようとは、これっぽっちも考えてはいない。
しかし当然、俊太郎の方も仲間になる気など、これっぽっちもない。
ただ黙って、ゆっくり ゆっくり、じらすようにして、半歩 半歩と前進し続けている。
閻魔の災蔵は、笑顔を崩さない。
半歩、半歩、半歩……と、俊太郎は急に動きを止めた。
おそらく縁側で身を隠しながら、目をギラつかせて身構えている奴が居るのではないかと、警戒したのだろう。
「どうした、おい? 返事ぐらいしてくれても、いいじゃないか。うん? それとも」
閻魔の災蔵が何かを言い出すその前に、俊太郎はすでに足に力を込めていた。
屋内に居るとはいえ、裸足ではなく足袋を履いており、その上に更に草鞋を履いている。
これならば、例え畳の上で斬り合いになったとしても、足下が滑るという事はないのだ。
ぎちぎちぎちと、草鞋が呻き声にも似た音を立てている。
と、出し抜けに畳を強く蹴って、庭園へと飛び出した。
耐え切れずに畳の藁が数十本、紙吹雪のように細かく宙に舞い上がって、畳に深い穴をあけた。
それに構わず俊太郎は、大刀の鯉口を切る。
まっすぐに閻魔の災蔵に目掛けて、飛び掛かりながら大刀を抜き払うつもりのようだった。
咄嗟に、両側に居た屈強な猛者たちが反応する。
一人はその一撃を防ごうと、閻魔の災蔵の前に立ち塞がり、もう一人は、その一撃よりも先に俊太郎を仕留めようと、日本刀を抜いて斬りかかった。
更には屋根の上で、俊太郎の姿を目で捉えた細身の男が、即座に そこから飛び降りて、そのまま背中を突き刺そうと三叉槍を突き出した。
そんな絶体絶命の最中に、すると俊太郎は驚くことに、急に地面に足をつけるなり爪先の反動だけで後ろへと、縁側の部屋の入口の辺りまで、飛び退っていたのである。
この予想もつかない突然の出来事に、男たちは対処できず、勢いを殺せないまま、俊太郎に斬りかかっていた男は、屋根から飛び降りてきた男を、仲間の首を斬り払ってしまう。
驚いた表情のままで、胴から斬り離された仲間の首が宙に飛んで行くのを、つい視線で追ってしまう男の首へ目掛けて、今度は閃光が走った。
すでにまた、すぐ近くにまで迫っていた俊太郎が、首を切断された男の背後から、大刀を横に薙ぎ払っていたのである。
しかしそれは、刃の方ではなく、峰打ちだった。
だが、細い鉄の棒で思いっ切り ぶっ叩かれるのだから、堪ったものではない。
勢いよく素っ飛んで行った。
何度も地面を転がって、生きてはいるが、白目を剥いて口から泡を吹き、地面に倒れた。
素っ飛ばした後、続けざまに俊太郎は、首を切断された男の背中を踏みつけて屈ませ、切り口から噴き出る血飛沫を、閻魔の災蔵を守るようにして立ち塞がる目の前の屈強な猛者に ぶっかける。
せめて目に入らないようにと、咄嗟に片手で血飛沫を防ぐその男へ目掛けて、踏みつけた背中を踏み台にして飛び上がった俊太郎が、これも峰打ちで、脳天に大刀の一撃を浴びせた。
男は、それを避けることも防ぐこともできず、あっさりと叩きつけられて、うつ伏せに無様に倒れたまま意識を失った。
それは三秒にも満たない、ごく僅かな時間内に起きた、尋常ではない出来事だった。
不意打ちだったのだろう、先に二人の子分を失い、更に今こうして、瞬く間に 三人も失った。
「…………」
閻魔の災蔵の表情は、すでに人間のそれを超えていた。
堪え切れないほどの怒りが、顔に現れたのだろう。
黙って ゆっくりと立ち上がると、大刀が届く距離にまで接近していた俊太郎を下から覗き込むようにして、もう一度、睨みつけた。
「あんた……俺たちが誰なのか、知らねぇんだろうなぁ? 知っていたら、こんなこたぁ、できねぇもんなぁ?」
「化け物らしいな?」
「役人でさえ恐れをなす、盗賊 烏咬その頭、閻魔の災蔵たぁ、俺のことよ!」
「…………」
「へっへっへっへっへっ、あんたが何者なのか知らねえがなぁ? たった一人に、天下の烏咬が やられたとあっちゃあ、こっちは面目、丸潰れよ! 死ぬよか、つれぇ! したがって このまま、素直に引くわけには行かねぇんでぇい!」
「…………」
俊太郎は機会を探っていた。
大刀の届く範囲に、相手は居る。
だが、こちらが振るより先に、素早い小さな動きで、攻撃を仕掛けてくるのではないかと、考えていた。
ならば こちらも、素早い小さな動きで、相手を倒せば いいだけのこと。
大刀を握っていない、利き手ではない左手の拳で、鳩尾に一撃を食らわせてやろう。
いや、着物の下に頑丈な鎧でも、身に着けているかもしれない。
ならば顔面に目掛けて、強烈な頭突きを……。
などと考えていると、首筋にチクッと痛みが走った。
刃物で刺されたというより、針だか棘だかが刺さったかのような感覚。
それからすぐに、めまいと寒気と怠さと眠気とが、背中から覆い被さってきた。
顔から、みるみる血の気が引いていくのが自分でも解る。
その上で全身から、滝のように汗を噴き出してもいた。
閻魔の災蔵は、今度は不気味に、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「どうだい? ええ? どんな気分だい? ああ? あっはっはっはっはっ! 怖いだろう? 死にそうな気分だろう? 即効性のある猛毒でな。もう、あんた、助からないよ?」
大刀を持つ手が、ぶるぶると震えて、指先にまで力が入らなくなっていく。
だが、もう一方の手で、首筋に刺さった物を、何とか引き抜いた。
それは一本の、矢羽のついた針だった。
屋根に上がっていた、もう一人の細身の男が、細長い筒を吹いて当てたのである。
不覚だったと反省しても、もう遅い。
閻魔の災蔵は懐から、手の平に収まるくらいの、一個の赤い玉を取り出した。
「残念だがね、その猛毒に効く解毒剤は、ここには ないんだよ。残念ながらな? ふへっ、ふへへっ、ふへはははははははっ。だからといって、毒で おっちぬのを放っておくほど、今の俺ァ、優しくはねぇんでね。これ、この赤い玉ァ、何だか解るかい? んん? 俺たちは、『火遁玉』って呼んでるんだ。破裂させるとな? 中の液体が引火して、大きな炎を上げるんだよ。どんなに水をかけたって、消えやしねぇ。いわゆる地獄の業火ってヤツでな? ふっへっへっへっへっ。これから、あんたに何をするのか、解ったかい? ううん? なあ、オイッ? 聞いてるのか! 俺の大事な子分をなぁ? 痛めつけやがった、そのお返しだよ! よォ~く味わえッ!」
たやすく俊太郎の口をこじ開けると、その赤い玉を口の中へ押し込んだ。
しかし、すぐに吐き出してしまう。
地面に落ちる前に、吐き出されたその赤い玉を、閻魔の災蔵は掴まえた。
「ああ、そうかい。ああ、そうかい。それじゃあ、仕方がねぇなぁ。外側から、灰になっちまいなよォ?」
飛び退って充分に距離をあけると、苦しむ俊太郎に目掛けて、赤い玉を投げつけた。
当然、それを躱すことなどできない、俊太郎。
すると赤い玉は、俊太郎の体に、着物の上から ぶつかるなり破裂して、火の気もないのに炎を発した。
僅かな飛沫までも引火して、俊太郎の全身を、赤、青、白の三色の炎が包み込む。
俊太郎は夜空に向かって、獣のような断末魔の雄叫びを上げていた。
ニヤリと笑う閻魔の災蔵は、もう俊太郎に興味を失っていた。
憎い仇は死んだ。
あとは屋敷の中の連中を、自分の手で始末するだけ。
久し振りの皆殺しに、若い頃を思い出したのか、心が躍り出していた。
「まったく、とんでもねぇ日だ。この俺の手を煩わせるたぁよ。まあ、いい。その分、じっくり楽しませてもらおうじゃねぇか。へっへっへっ。何人だぁ? 何人、屋敷の中に隠れてんだ? んんっ? へっへっへっ。楽しみだねぇ」
早速、行為に及ぼうとする閻魔の災蔵を余所に、屋根の上の細身の男は、不審げな表情を一人、浮かべていた。
これは一体、どういうことなのだろうか――と。
体中には猛毒がすでに回っているはずで、しかもどう見ても、ゴウゴウと激しく全身が燃え盛っている……というのに。
助かるはずはない。
呼吸ですらままならず、ずっと息を止めているような状態のはず。
もうすでに生きているはずはない。
なのに俊太郎は、まだ倒れてはいなかった。
雄叫びを上げると、やや前屈みになった姿勢のまま立ち続け、しかも右手には、まだ大刀を握り締め続けている。
「まさか……あれで? まだ、生きているとでも いうのか?」
屋根の上で、背筋に寒気を覚えた細身の男は、思わず姿勢を低くして、身を隠してしまっていた。
そんなことは露知らず、屋敷の中へと向かう閻魔の災蔵は、自分に向けられる鋭い視線を感じ取り、無意識にそちらに顔を向けてしまっていた。
すると、俊太郎と目と目が合った。
真正面を向いていたはずの俊太郎の視線は横を向き、閻魔の災蔵を睨みつけていたのである。
これには、さすがに驚いた。
鳥肌が立った。恐怖を感じずには いられなかった。
そう、幼い頃に忘れてきた恐怖という感情が、何十年も経った今、心の底から沸き上がり、閻魔の災蔵の全身を電流のように駆け巡ったのである。
立て続けに本能が、逃げろと警告までしてくる。
閻魔の災蔵は、舌打ちをした。
「とっとと、くたばりやがれッ!!」
引き抜いた どすを逆手に持つと、燃え盛る俊太郎に目掛けて振り下ろす。
いや、振り下ろしていたのかどうかは、わからない。
目にも留まらぬ速さで大刀が振り払われ、閻魔の災蔵の右腕が、どすを握ったまま肘の上から分断されて素っ飛び、遠くの塀にベチャッとぶち当たっていた。
もう一度、目と目が合う。
俊太郎は、心の底から理解した。
自分が例え死んだとしても、皆殺しを止めようとはしない、あんなに素敵な人達を全員、その手に掛けようとしている閻魔の災蔵に対して、俊太郎はキレてしまっていた。
瞳は真っ赤に染まり、血走り、顔や首に腕、おそらくは全身に及ぶのだろう、血管が皮膚を内側から持ち上げるようにハッキリと浮かび上がっており、今も火傷を負って黒く変色しているはずの皮膚は、赤く赤く染まっていた。
「ひぃッ!?」
今度は思わず恐怖のあまり、口から悲鳴が漏れ出てしまう。
(俺たちは、 烏咬。そう、身も心も人間離れした、化け物 集団よ。ところが、どうだい? こんな所に、本物の化け物が居るじゃねぇか。くそッ! 本物の化け物が相手じゃ、天下の 烏咬も、お手上げってもんよォ)
「このォ外道がァ!!」
ズドォーン!!
隙だらけの閻魔の災蔵の脳天に目掛けて、俊太郎は峰打ちを 容赦なく叩きつけた。
顔面を地面に減り込ませて閻魔の災蔵、そのまま地獄へ 真っ逆さまに落ちて行く感覚を 全身で浴びながら、意識を失った。
ここへ来る前に 神社で飲んだ、あの秘薬、いわゆる『筋肉増強剤』の お陰なのだろう、命を落とすことはなかった。
全身を燃やしながら、俊太郎。
ふっと冷静になり、自分の頭を触りながら、困ったような表情を浮かべる。
「毒は、たいしたことは なかったけれど、このままだとハゲるんだろうか? まいったなぁ……妻が帰ってきたら、何て言われるか……どんなに弁明しても、愛想を尽かされるんだろうなぁ……」
ところが、ふと思い出したように蔵へ向かって歩き出した。
すると予想通り、鍵を開けた蔵から、今も小柄な男が千両箱を一箱ずつ運び出しては、大柄な男の左右の肩に、一箱また一箱と重ねていた。
例え、金を運び出すだけの役目を任せられている下っ端とはいえ、そこは恐れ知らずの盗賊 烏咬の一味である。
大抵のことでは、動揺などしない。
しかし、今の俊太郎の姿を見て、驚かないはずはなかった。
ゴウゴウという轟音のような音が近づいてくるのに気づいて、そちらを見やると、全身を燃え盛る炎に包まれた人間が、こちらに近づいてくるのが見えた。
心に僅かに残った人間らしい感情が、『こいつは人間ではない、地獄からの使者だ』と激しく警告を鳴らす。
小柄な男は堪らず、悲鳴を上げて蔵から飛び出し、目についた塀に 飛び掛かった。
見た目通り、逃げ足が早い。
俊太郎は、焼き焦げた足袋が貼りついている足に力を込めると、地面を蹴って追いかけ、塀を登り切るその前に、小柄な男の背中に峰打ちを叩きつけた。
一方で、大柄な男の行動は、小柄な男のそれとは違っていた。
どうせ今、逃げ切ったところで、また何度も追いかけてくるのだろう。
だったら――とばかりに、両肩に重ねていた千両箱をその場に捨てると、地獄の使者と勘違いした俊太郎へ、背後から襲いかかった。
「うがーーッ!!!」
狂った雄叫びを上げ、腕力を武器に襲いかかる。
それを俊太郎は、臆せず振り向きざまに、柄の頭で鳩尾を突き、立て続けに刀を逆手に持って飛び上がるようにして、下から顎に目掛けて、またも柄の頭で強打した。
あっさりと脳震盪を起こした大柄の男は、白目を剥いて、仰向けにズシンと倒れた。
俊太郎は、ふぅーっと肩で大きく息を吐いて、全身から力を抜くと、大刀を納めて歩いて庭園へ戻ることにした。
なおも燃えながら、腕組みをして考える。
さて、どうしたものか。
用心棒としての仕事は、これで済んだはずだが、それをどうやって伝えるべきか。
このまま屋敷に入っては、火事になる。
大声で店の者を呼んだところで、逆に警戒されるのではないか。
きっと今も店の者たちは、一番奥の部屋で、布団を頭から被って、一塊になって震えていることだろう。
早く安心させてやりたいが、さて、どうしたものか。
すると、ふと雨戸の透き間から、外の様子を探っている、小さな人影を見つけた。
透かさず俊太郎は、声をかける。
「おいッ!」
「ひぃッ!?」
小さな人影は、子供だった。
この店に用心棒として訪れた際に、一番最初に話しかけた、丁稚の定吉だった。
厠(トイレ)に用があって、どうしても通りかかったのではないのだろう。
おそらく、一番 負けた奴が様子を見に行くという決まりで、皆でジャンケンでもして、運悪く当たってしまったのだろう。
可哀想に、驚いたあまり尻餅をついて、腰まで抜けて、動けなくなってしまっているようだった。
「俺だ! 用心棒の霧島だ!」
「へっ!? き、き、き、霧島さまでございますかッ!? なぜ、燃えているので ございますッ!? 熱くはないので ございますかッ!?」
「うん。まあ、熱いというか、痛い! それより、やってきた盗賊たちは全員、片づけた! 自身番に行って、ここで倒れている連中と、蔵近くの塀の所で伸びている二人を捕縛するよう、伝えてきてくれ!」
「か、か、かしこまりました!」
「あとそれから、水を頼む! この火を、どうにかしてくれ!」
「へ、へいッ!」
定吉は四つん這いになって、一目散に皆の居る一番奥の部屋へと向かった。
話を聞いた家主は、すぐに番頭を自身番に走らせ、残った者たちで、俊太郎の体を焼き尽くそうとする炎を消す作業に取りかかった。
井戸から水を汲み上げては、桶に移し替えて、それを手から手へとリレーで運んで、俊太郎の頭から ぶっかける。
足下は あっという間に、豪雨でもあったかのように、大きな水溜りを作りあげていた。
しかし、
「消えませんな……」
最後尾の家主が、諦め染みた言葉を発する。
「そういえば……そこで倒れている爺さんが、『水では決して消えない炎』だとか、言ってましたなぁ」
「はぁ……」
人間は全身に大火傷を負うと死ぬと聞いたが、この人が異常なのか。
それとも、水では消えないこの炎が、特殊なのか。
自分は起きているようで、もしかすると実は寝ていて、夢を見ているのではなかろうか。
そういえば最近、よく眠れていなかった。
などと、ぼんやりと考えながら、家主は尋ねた。
「あのご老人は、何者です?」
「この盗賊の、お頭の……なんていったかなぁ?」
「烏咬の お頭なのですかぁ!?」
「ええ、自分で そう名乗っていましたよ」
「はぁ……それで全員、退治なされたので?」
「ええ、まあ、視界に入った奴は、片っ端からですけど。あッ! そういえば、塀の外を見張っていた者が居たかもしれません。ああッ! そういえば、あの毒針……屋根の上にまだ誰か居たのかも……?」
「はぁ……」
家主は屋根の上を、覗き込むような素振りをした。
「しかし、まあ、もう逃げてしまったのでしょう。お頭が、ああなってしまったことですし」
「それから、あのう……申し上げにくいのですが?」
「なんでしょう?」
「敷地内では、血や臓物を ぶちまけないようにとの お約束でしたが、守れませんでした。しかし、腕は私でも、首をやったのは私では ないので、どうか ご勘弁を願いたい」
「はぁ……」
家主は薄目を開けて、右腕を血止めで縛られたまま倒れている老人と、縁側の近くで倒れている首なしの遺体を見た。
家主の顔が、すぅっと青ざめる。
「ま、まあ、この程度であれば、構いませんよ。はっはっはっ。何より こっちらは、命が助かったのですからね」
「よかったぁ……ああ、それから多分、斬られた首は、あちらの方へ飛んで行ったはずですので。右腕は……ああ、あそこ! 塀についた血が、目印になっておりますので」
「あっはっはっはっはっ、それは それは、参りましたなぁ」
家主の顔色が、ますます悪くなった。
ともあれ、炎は一向に消える気配がない。
「あのう? よく見ると火は、着物と袴と足袋だけを、焼いているみたいなんですが?」
丁稚の定吉が、よく観察をした上で、そう二人に意見した。
「なるほど!」
「脱いでください。さあ、早く」
俊太郎は言われるがまま、着物と袴と足袋を脱いだ。
しかし、それらは炎の熱で溶けて、皮膚と一体化するように付着してしまっていた為に、皮膚ごと引き剥がすはめとなってしまった。
その、べりべりべりという、おぞましい音と おぞましい光景といったら、もう。
偶然、それを見てしまった女中は悲鳴を上げて、丁稚の定吉は声も出せずに、同時にその場に倒れてしまう。
すぐ目の前で、それを見聞きしていた家主だけが、何とか耐え忍んでいた。
しかし、連続して意識が飛ぶようで、何度も ふらついていた。
褌のみの姿になった俊太郎は、引き剥がした皮膚から溢れ出した血が、あっという間に瘡蓋となって、止血してくれていたが、安心はできない。
「ほう、やっと火から解放された。よかったぁ。あのう、これから医者の所へ行こうと思うのですが、よろしいですか?」
「どっ、どうぞ、どうぞ。お供をつけて、明かりを持たせましょう」
「よろしいのですか?」
「そのような格好、周りが見たら、怪しまれて当然でございます。しっかりと、ご説明できる者がいいでしょう。権助?」
「へい」
「水は、もういい。提灯を持ってきて、霧島さまを お医者さまの所まで、足下を照らしておやりなさい」
「へい」
「それから、わかっているね?」
「へい、わかっておりやす」
「うん。では、霧島さま? 夜道、どうかお気をつけて? 今回は まことに、ありがとうございました」
「いえいえいえいえ、こちらこそ。どうも、はあ、どうもです」
俊太郎は照れ臭そうに、どもっていた。
それから、明かりの灯った提灯を持ってきた、髪の薄い初老の権助と共に、勝手口から屋敷を後にした。
それを丁寧に見送ってから、家主はやっと全身の力を抜いて、縁側に倒れ込み、そのまま意識を失った。
やっと熟睡ができる喜びと、悪夢からの解放感からであろう。
その寝顔は、とても心地の良いものだったそうな。
三
組屋敷の多い八丁堀の深夜を小走りに、医者の住まう宅へ向かっていた。
薬種問屋である<藤田屋>が贔屓で品物を卸している医者が居るのだが、そこではなく、俊太郎が住んでいる長屋のある深川の海辺大工町付近にも医者の家があるのだが、そこでもなく、俊太郎が信頼を置いている医者が居る、八丁堀を選んだのだった。
用心棒を職としている以上、大小なり怪我を負う。
そのたびに世話になっている、医者だった。
骨接ぎ<鶴亀堂>の山峰 幸庵という白髪の初老の男で、幕府お抱えの奥医師だったが、将軍のお世継ぎである一人息子の新之助が、流行り病で帰らぬ人となったのを機に、職を辞して、ここで開業医をしているのだが、そんな経歴を知っている者など、そうはいない。
骨接ぎではあるが、外科、内科、心療まで 熟していたりする。
ともあれ、この<鶴亀堂>に着くと、表戸を必死に叩いた。
叩きながら、大声を張り上げる。
「ごめん!! ごめん下され!! 霧島にござる!! 幸庵殿!! 急患にござる!! 開けて下され!!」
ドンッドンッ!!
ドンッドンッドンッ!!
「はいはい! 今、開けますので、しばらく お待ち下され!」
心張り棒を外す様子が、表戸越しに感じられる。
と、すぐに表戸は開かれ、蝋燭の火の灯った手燭を持った、山峰 幸庵が姿を現した。
そして俊太郎の姿を見て、目を丸くする。
「うおおッ!? これは これは、霧島殿……追い剥ぎにでも遭われましたか?」
「いえ、あのその、それが全身に大火傷を負いまして、どうしても火が消えず、すべて脱いでから、ここへ参ったしだいで」
「なんとッ!?」
蝋燭の明かりで、俊太郎の体をざっと確認してみる。
「うむ。確かに、これは いかん。至急、治療に当たります故、ささ、中へ。
これ、お通! 部屋に明かりを 点けなさい! 福太郎! 火傷に効く、塗り薬の用意を!」
「ハイッ。紫雲膏で ございますね? ただちに!」
二人の若い医者の見習いたちが、慌てて薬棚や行灯へと走り回る。
俊太郎は慣れているようで、中へ入ると、まっすぐ部屋の奥の一角に設けられた、診察台のある畳が敷かれた診察室に入り、木製の診察台の上に横になった。
一方、俊太郎が中へ入って行ったので、その背後から提灯を持った権助が、ぬっと姿を現す形となった。
彼、一人で来たものとばかり思い込んでいた為、幸庵は多少なり驚くこととなった。
しかし悲鳴を上げず、鼓動を激しく鳴らしながら、落ち着いた口調で尋ねる。
「霧島殿の、お連れの方ですかな?」
「ええ、わたくし、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>の使いの者で、権助と申す者で ございます」
「あー、はい、はい」
「あのお方は、うちで用心棒をした際に、大怪我を負ったしだいで ございまして」
「ああ、そうでしたか。はい、はい」
「そういうわけですので、治療にかかるお金はすべて、こちらで持たせて頂きますので、よろしくお願いいたします」
「はいはい、わかりました。ああ、そうそう。肩代わりついでにだがね? 知っての通り、霧島殿は裸だ。そちらで新しい着物、袴、草履、それから褌だな。買い揃えて、持って来てもらいたい」
「はい。そうさせて頂きます」
「では、明朝。気をつけて、お戻りなさい?」
「はい。よろしくお願いいたします。失礼いたします」
権助は、挨拶を済ませて振り向くと、改めて、提灯の心細い明かりを あっさりと飲み込んでしまう深夜の暗闇に、ハッキリと ゾクッと体を大きく震わせた。
そして、込み上げてくる恐怖と不安とを振り払うように、首を左右に振ってから、小走りに江戸本町へと戻って行った。
「先生、準備ができました」
「うむ」
幸庵は、表戸を閉めて心張り棒をかけてから、俊太郎の居る診察室へ向かった。
その部屋は普段、隔たりがないので風通しも良いのだが、福太郎が木戸を取り付けて周りを囲み、小部屋にしていた。
今居る病人と、これから来るであろう病人への配慮だった。
幸庵は、診察室へ入る前に薬棚へ向かい、いくつもある引き出しを前に、一つの引き出しを選んで開けた。
その中にある、三角に折られて膨らんでいる小さな油紙を 手に取ってから、診察室へと入る。
そして、手に持った小さな油紙を広げながら、診察台の上で横になっている俊太郎に声をかけた。
「さっ、霧島殿? いつもの睡眠薬で ございますぞ?」
そう言われて、疑いもせずに開けた俊太郎の口の中へ、真っ白な粉を サラサラサラッと落としてやる。
「あとの事は我々に お任せして、安心して ゆっくりと お休みくだされ?」
俊太郎の口の中イッパイに広がる、懐かしい香りと甘い味。
どこか遠くから子守唄が聞こえてきた気がして、俊太郎は心穏やかに、赤子のようにグッスリと眠りについていた。
寝息を立て始めた俊太郎の様子を確認してから、幸庵たち三人はじっくりと、火傷と瘡蓋とに覆われた彼の全身を観察し始めた。
瞬きを忘れた、まん丸の目で、福太郎は尋ねる。
「先生? いつもながら、驚きを禁じえません。この方は一体、何者なのでしょうか? これほどの火傷と傷を負えば普通、脳が死ぬことを選び、命を落とすものでございましょう? こんなの普通じゃございません」
「うむ……」
幸庵は手術用のメスを手に取ると、焼かれてガチガチに硬くなった皮膚と瘡蓋とを切ってみた。
すると驚いたことに、その下には もうすでに、新しい皮膚が再生されているではないか。
「いつもながら目を見張る、異常な回復の早さだ……」
「体質ですか?」
お通の声はその顔に似合って、ほんわかとしたものがあった。
「うむ。一体、どのような環境で、生まれ育ってきたものか。あるいは、ご両親の体質が遺伝したものか……わからぬなぁ。江戸には、様々な土地から やってくる者ばかりだが、この方 以外でまだ、これほどの回復力を持つ者を、未だかつて診たことがない」
「それだけ医者を、必要としていないからでしょうね」
福太郎からの鋭いツッコミが入る。
「うむ、確かに」
「それにしても、あの、砕いた白い飴玉の粉を舐めただけで、眠りにつくなんて……この体質と何かしらの関係が、あるのでしょうか?」
「わからん。以前、それとなく尋ねてみたことがあるが、首を捻っておったよ。本人ですら知らない事情が、あるのだろう。ともかく、おしゃべりは ここまでとしよう。メスを持ちなさい。私は、下半身を担当する。上半身は頼んだぞ?」
「ハイッ」
そうして三人は、それぞれ手術用のメスを手にすると、作業に取り掛かった。
俊太郎の特異体質を利用した、外科手術の体験学習といったところか。
瘡蓋とガチガチの皮膚にメスを入れ、切って剥がす。
さながら巨大な幼虫の脱皮を、手作業で行っているかのようだった。
誤って深く切りつけてしまっても、相手は回復力が高い。
出血をしても、すぐに瘡蓋になって、塞がっていた。
しかし、それを幸庵に見つかっては「これ!」と叱られ、「すいません」と謝るということが、たびたび繰り返された。
頭皮にもメスを入れて、頭部の皮膚を剥がすと、毛髪ごとズルッと剥がれて、その下からは まるで、剃刀で剃ったばかりのお坊さんのような、ツルッツル
の頭皮が現れた。
そんなこんなで俊太郎の全身がまるで、殻を剥いた茹で卵のようにツルツルとなると、それから全身に火傷用の塗り薬が万遍なく塗られ、ガーゼのような物を 宛がわれると、それから全身を包帯でグルグルに巻かれていた。
さながら、エジプトのミイラのような状態となった、俊太郎。
さすがに鼻と口だけは、呼吸ができるように透き間が作られていた為、なおも安らかな寝息が立てられていた。
空が白み始めた頃に それらを終えて、後片付けを済ませると、「ふう」と疲れから溜め息を漏らしながら、すべての明かりを消して、奥の隣接した自宅へと戻り、各自、自分の寝床へと入るのだった。
四
俊太郎が権助を伴って、八丁堀を目指して小走りに移動していた頃、自身番と北町奉行所は、蜂の巣を突いたような騒ぎとなっていた。
そんじょそこいらの盗賊が、捕えられたわけではない。
あの悪名で名高い盗賊 烏咬、しかもその頭が生きて捕まったとあって、知らせを受けた 火付盗賊改をはじめとする 与力や同心たちが飛び起きて、自身番に集まっていた。
一番奥の部屋で、取り調べが始まる。
当然、誰も飯を食してはおらず、長丁場になることを見越して、定町廻りの同心が、近くの小料理屋を起こして、握り飯と みそ汁を手配していた。
自身番は、表戸を開けると土間となっており、そこに、首と一緒に首のない遺体と、急所を刺されて亡くなった二人とが、筵を掛けられて横たわっていた。
寝ずの番も しなくてはならなくなった月番の町人、二人の男は、土間とは段差のある、囲炉裏のある六畳ほどの居間の片隅で、身を縮めて静かに将棋を指している。
囲炉裏の周りには、物々しい同心たちが囲んでおり、冷えた体を温めているからだった。
春の夜風は冷たく、暖かな日が昇るまでには、まだ時間がある。
自在鉤に掛けた薬缶のお湯で、お茶をすすって体を温めたりもして、いつでも動けるよう待機していた。
土間はL字型になっており、その奥に木戸がある。
その木戸の先が取り調べが行われる場所、いわゆる拷問部屋だった。
捕えられた盗賊 烏咬の連中はすでに、強制的に意識を取り戻されて、拷問が行われていた。
首を強く打たれた屈強な猛者の男一人だけは、どうにも意識が戻らず、部屋の隅に放置されている。
残る、お頭の閻魔の災蔵、頭を叩かれた屈強な猛者の男、蔵から金を盗み出そうとしていた小柄と大柄の男たち二人、計四人に、凄惨な拷問が行われていたのである。
その内容は、水責め、竹刀打ち、石抱、焼印、更には爪と肉の間に、針や竹串を差し込むといったものだった。
普通の人間が、こんな拷問に耐え切れるわけがない。
どんなに我慢しようとも、精神も肉体も 持たないだろう。
だがしかし、誰一人として、口を割ることはなかった。
それどころか、悲鳴を上げたり苦悶の表情を見せずに、ひたすらニタニタニタニタするばかり。
「いい加減に吐けぇ!!」
「いい加減にして欲しいのは、こちらの方でございます。ウミカミのオカシラ? はて? 一体、何のことで?」
「ここは、どこォ? 私はダ~レ? うけけけけッ♪」
「くっ!!」
盗みに入る前に、神社で飲んだ秘薬の効果なのだろう。
どんな肉体的な苦痛にも、耐え切れるようだった。
だから俊太郎は それを見抜いた上で、気絶による自由を奪うべく、首や頭に集中した攻撃しかしなかったのだろう。
役人たちは、焦りと苛立ちから、拳を強く握り締めた。
更に拷問を強めれば、死んでしまうことになりかねない。
それだけではない。
夜明けと共に、こいつらは解毒剤を飲まなければ、死んでしまうことも知っている。
「口を割らねば、このまま朝が来る。そうなれば、おまえたちは死ぬのだぞ? 命が惜しくはないのか?」
「はて、何のことで?」
「解毒剤を、持って来てやると言ってるんだ! 正直に吐け!」
「ゲドクザイ? 何ですか、それぇ?」
「くうーッ!!」
思わず竹刀で、頭を叩きつけてしまう。
頭皮が切れて、血が噴水のようにピューッと飛び散り、顔面を赤く染めたが、それでも男たちは笑っていた。
死など、ちっとも恐れてはいない、そんな風だった。
役人たちは口を割らせる すべが、他には何も思い浮ばず、時間だけが無情に過ぎていくばかり。
江戸本町三丁目、薬種問屋<藤田屋>に、事情聴取に駆けつけた同心たちも、同じ心境だった。
縁側の前で、濡れても火の消えない、脱ぎ捨てられた着物と袴と足袋を回収した上で、奉公人たちに、何があったのか詳しく聞いて回った。
だがしかし、誰も反応は、いまいちだった。
時刻的にも眠たくて仕方がないというのもあるだろうが、何より、あの盗賊 烏咬に狙われていると知っていながら、見捨てて置いて、事が済んだら のこのこと やってきた役人たちに、腹が立って仕方がないという風だった。
しかも、
「烏咬を退治した用心棒は、もしかすると烏咬の仲間だった、裏切り者だった可能性があるのです」
だとか、
「次のお頭の座を狙っての、今回の大活躍だったのかもしれません」
などと言い出すものだから、ますます反感を買って、店の者たちは ますます口を堅く閉ざすのだった。
困り果てて 夜空を仰いだところで、解決するすべは何も思い浮ばず、ここでも無情に時間が過ぎていくばかりだった。
そんな最中の事である。
外側から、自身番の表戸を叩く音がした。
ドンドン!
ドンドンドン!
「ごめんくださいまし? もし? ごめんくださいまし?」
囲炉裏の周りに居た同心たちが、一斉に立ち上がって自分の刀に手を掛けて、視線を心張り棒を掛けた表戸に向ける。
もしや仲間を助けに、盗賊 烏咬の者たちが、ここへやって来たのか。
そうでなくても、こんな時刻に自身番に来訪者など、そうそうない。
奉行所の誰かなのだろうか。
同心たちは不意に顔を見合わせ、誰も心当たりがないという風に、首を横に振っていた。
同心の一人が顔を動かして、月番の町人に、心張り棒を外して表戸を開けるよう、指示を出す。
月番の町人は青ざめた顔で、おっかな びっくり、一人が心張り棒を外して、もう一人は表戸をゆっくりと開けた。
その背後では、腕に自信のある草履を履いた同心が、表戸の透き間から飛び掛かってきた場合を見据えて、鯉口を切って構えていた。
月番の町人が怯えた様子で、やってきた者へ声をかける。
「こ、こ、こん、こんな夜分に、どっどっどちらさまで ございましょう?」
「へい、ご迷惑は承知でございます。あたくし、豆腐屋の伝七と申す者でございまして」
「……豆腐屋?」
豆腐屋と聞いて、ますます同心たちは、その男を訝しがった。
「豆腐屋が こんな時分に、豆腐売りを?」
「いえいえ、とんでも ございません。吟味方筆頭与力、貴鼓 綾之新さまより、ここへ来て“ちから”を貸すようにと、こうお願いされましたものですから、大急ぎ、駆け足で参ったしだいで ございまして」
「吟味方筆頭与力さまが? ここへ来るようにと?」
「湯豆腐でも、馳走してくれるのか?」
誰かが発した冗談に場が和み、同心たちは刀から手を放して、その場にまた座り出していた。
場の緊張を和らげる為の出しに使われて、伝七は少し気を悪くしたが、おくびにも出さない。
変わらない表情と口調とで、話を続ける。
「どなたか、話の解る お方は、居られませんか? あたくしが不必要とあらば、ただちに帰らせていただきますが?」
同心たちは、また顔を見合わせた。
役職はどうであれ、与力とあれば、自分たちにとっては、上司という立場に他ならない。
しかも、筆頭である。
このまま帰しては、多少なり軋轢が生じかねないだろう。
「ちょっと待っていろ? 尋ねてきてやろう」
まだ疑いが晴れないのか、伝七を自身番の中に入れてやらずに 外で待たせたままで、同心の一人が奥の木戸を開けて取調室に入ると、中に居た与力の一人に声をかけた。
これこれこういうわけでと、小声で事情を話すと、その与力は眉間に皺を寄せて、不愉快そうにその名を口にする。
「豆腐屋の伝七だとォ?」
続けて「知らん。今すぐ追い返せ」とでも怒鳴るように言い出しそうな、不機嫌な顔だった。
だがその名を耳にして、パアッと目を輝かせる、一人の与力が居た。
「神通力の伝七だ! 来ているのか? ただちに! ただちに ここへ、連れて来なさい!」
そろそろ定年を迎えそうな、老いた与力で、知らせに来た同心に早口で指示を出していた。
慌てて立ち去る同心に目もくれず、何も知らない与力が、疑念の眼差しで尋ねる。
「なんですか、その『神通力の伝七』というのは?」
「不思議な“ちから”でな? これまで、数々の難事件を解決へと導いてきた、優秀な男だよ」
「はあ……」
「そう、とても優秀なのだが、貴鼓殿のみに仕える気難しい性格の岡っ引きでなぁ……そうか! 今は、娘婿に仕えていて、彼をここへ遣わせてくれたか! ありがたい。おい、皆の者? これですべて、解決するぞ?」
「はあ……」
誰もその言葉を、鵜呑みにすることはできなかった。
まず「うさんくさい」、それから「そんな話、父や周りの者たちから、一度も聞いたことがない」、「何かカラクリが あるのだろう」といった具合だった。
木戸が開いて、同心に連れられて、伝七が入って来た。
いかにも物売りといった風情で、物腰の低い猫背の小柄な男だった。
周りをキョロキョロしながら、「へい、どうも。どうも。へい、どうも」と小声で何度も呟いており、「敵意はありません。争い事は勘弁してください」を訴えているかのようだった。
年齢は、二十代後半か、三十代前半といったところか。
気の弱い、おどおどした男。
地獄の拷問部屋と化した、その部屋に入って来たのだから、その反応は当然といえば当然だろう。
伝七の応対には、彼をよく知っているらしい、老いた与力が当たった。
「おおっ! あなたが、『神通力の伝七』殿で あられますか?]
「やめてくだせぇ。あっしが売りにしているのは、あくまでも豆腐でごぜぇやす」
「わかった、わかった。ともかく、やってくれるか? 時間がないのだ。そこに居る烏咬の頭から、すべてを聞き出してもらいたい」
「へい、わかりやした。しかし、縛られているとはいえ、噛みつかれたら堪ったものじゃあ ございやせん。猿ぐつわを お願いしやす」
道具で口を閉ざしてしまって、それでどうやって、口を割らせようというのか。
周りの与力たちは小馬鹿にして、忍び笑いをする。
真面目に事に当たったのは、老いた与力だけだった。
「これで、よいか? それで、どうする?」
「へい。“み”ます」
「見る? 見る……それは一体、何を?」
「記憶でございます」
あまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず「ぷっ!」と吹き出す与力たちが数人。
構わず伝七は、正座をさせられている盗賊 烏咬のお頭、閻魔の災蔵の目の前にしゃがむと、利き手とは逆の左手を広げて、相手の顔に近づけた。
「お頭さん? どんなにボケた振りをなさっても、例え薬や事故よって、本当に記憶を失っていたとしても、無駄でござんすよ。あっしにはすべて、お見通しで。包み隠さず、すべて“視”させていただきやす」
そうして顔を覆うように左手が触れた途端、閻魔の災蔵は目を大きく見開いて、口が猿ぐつわで塞がれているのも構わずに、絶叫を上げていた。
……それから、数時間後のこと。
北町奉行所では、火付盗賊改方長官の青山 播磨たち与力と、配下である同心たち、捕り手たちは、広げられた江戸の町の地図をもとに、入念に計画と注意とが話し合われた上で、物々しく武装し、十六もの小隊に分かれて、まだ目覚めない江戸の町を、四方八方に目的地に向かって走って行った。
そうして東の空が白み始めた頃、一番鶏ならぬ 明け烏が 鳴きながら頭上を飛び去って行く中、武装した役人たちは物陰に身を潜めて、視線の先にある建物を睨みつけながら、じっと合図を待っていた。
血気盛んなのか、よほどの恨みがあるのか、やたらとソワソワする者が居て、そのたびに肩を掴まれては、何度も気を落ち着かされている。
合図は まだか。合図は まだなのか。合図は いつなんだ。
伝達係が、奉行所のある方角の空を、ひたすらに注視している。
まさか、この期に及んで、中止になったわけではあるまい。
僅かばかりの不安がよぎり始めた、その時だった。
一筋の光が尾を引いて、まだ星の見える空へと昇ると、音もなく一輪の真っ白な花を咲かせた。
間違いない、奉行所からの合図だ。
伝達係から与力へそれが伝えられると、頷き、軍配を力強く建物へ向けた。
するとそれを合図に、配下たちは雄叫びを上げて、一斉に突撃を開始する。
表戸や雨戸、裏戸を蹴破り、大声で叫ぶ。
「火付盗賊改方である!! 盗賊 烏咬その一味、観念してお縄につけぇ!! 抵抗すれば、容赦はせんぞォ!!」
「御用だ! 御用だ!」
「神妙にしろォい!」
すっかり安心して熟睡していた老若男女たちは、突然に現れた役人たちに、寝耳に水だった。
逃げようとしても、逃げ遅れ。
混乱の最中、無事に逃げられたとしても、抜け道の出口を待ち伏せされて、あっけなく捕縛される。
抵抗しようにも、武器を持って寝てはいなかった為、容赦なく十手や刀の峰の部分で打ち据えられて、ここでも あっさりと捕縛される始末。
というのも隠れ家の周りには、大小なりの罠が張り巡らされており、敷地内に不審者が入り込めば、屋内に居る者たちが、ただちに それを知ることとなる。
それだけではない。
その不審者に、多少なりの負傷を負わせる罠でもあった。
そういった内容の仕掛けであるから、安心していたというのに、罠は一つとして作動しなかったのである。
すでに突撃の前に、すべて密かに解除されていたのだ。
その罠の、場所と種類と解除方法を知っている、役人たちによって。
「父上の仇ぃーーーーッ!!!」
「兄上の仇ぃーーーーッ!!!」
などと叫んで、何とか武器を手にした盗賊 烏咬の者を、憎しみを持って叩き伏せる役人が 数人いたとか、いないとか。
盗賊 烏咬の隠れ家は、掘っ建て小屋から商家の店、まさかの武家屋敷や長屋一帯という、まったくもって様々な見た目を成していた。
役人たちは、部屋で寝ていた者たちのみならず、行き止まりに見える壁の向こうや、畳の下の隠し部屋、屋根裏に居た者たちさえも残らずに捕まえた。
その中には、お頭の閻魔の災蔵らと共に薬種問屋の屋敷を襲ったものの、仲間たちの敗北っぷりを見て、逃げ帰ってきた二人の男たちの姿もあった。
捕まった仲間を助けに行かなかったのが悔やまれる、そんな表情だった。
そして、捕まったうちの誰が口を割ったのか、怒りとも疑念ともつかない、そんな表情を浮かべているようでもあった。
人体実験や、秘薬の開発を行っていた隠れ家も押さえられ、そこにあった研究の資料やら薬物やらを残らず押収されていた。
その中には毒薬や毒針、火遁玉や痺れ玉などの他に、火付盗賊改方たちがもっとも憎むべき物、閻魔の災蔵が懐に入れて使わずにいた、色んな薬を混ぜ合わせて強化された、麻薬玉が数個あった。
あとで解ったことだが、この玉を破裂させると煙幕が出て、多少なりの視界や呼吸を奪うだけでなく、幻覚・幻聴を見せるという。
それも、酔ったように足下が覚束なくなった上で、目についた者が、おぞましい化け物に見えてしまという、とんでもない物だった。
これがもし、免疫のない役人たちが吸い込んでしまったとしたら、同士討ちなど不可避であろう。
――まさか?
この事実は、一部の者だけが知るだけで、下の者たちには決して伝えられず、内々に伏せられた。
ともあれ、こうして東の空が明るくなって太陽が昇った頃、江戸市中が目覚めた頃には もうすでに、事は終わっていた。
自身番では、自分たちが飲んだ秘薬の効果で、更に遺体が五つ増えていた。
土間に並べられて、筵が掛けられ、放置されている。
それらに気にも留めない様子で、囲炉裏の周りには夜明け前から、豆腐屋の伝七と 人相書の得意な同心、老いた与力とが囲っていた。
人相書の得意な同心は、幼い頃から絵心があったと見えて、伝七が話す顔の特徴を、うまく描き切ることができていた。
山のように積まれた人相書には、一枚一枚、その顔をした人物の名前と罪状とが、細かく書かれてある。
それを三個に分けて、それぞれを丁寧に風呂敷に包んでいる同心のその前で、伝七は懐から折り畳まれた油紙を取り出して、中の丸薬を口の中へ入れて噛み砕いては、湯呑みの中の白湯をゴクゴクと飲んでいた。
どうやら頭が痛むらしい。
「頭痛かね? “ちから”を使うと、よく?」
「へい……まあ、今回のように一人以上、長く使いますってぇと、へぇ……」
「では私は、これを届けに戻りますので?」
「うむ。道中、気をつけてな?」
同心は老いた与力に頭を下げてから、三個の風呂敷包みを 背負ったり両脇に抱えるなどして持ち、表戸を足で開け閉めして自身番を立ち去った。
自身番の中は、伝七と 老いた与力の二人だけになった。
「月番は用事があると行ったっきり、戻っては来ぬなぁ」
「商いとは、そういうものでござんす。あっしもそろそろ、帰ろうかと思います」
「まあ、待ちなさい。もうしばらく、もうしばらく……この年寄りの話し相手になってくだされ?」
「……へぇ、では、将棋でも指しましょうか?」
「いや、頭が痛むのだろう? それは、また今度といたそう」
「…………」
「今の貴鼓殿に、仕えているそうだが?」
「へい……」
「前の貴鼓殿が亡くなって、どれくらいになる?」
「さあ……忘れてしまいました」
「そうか……娘婿の貴鼓殿は、優秀かね?」
「それはもう……あのお方と同様に、良いお方でございます」
「そうか……うんうん……それは よかった。あ、そうそう。握り飯とみそ汁が残っているそうだ。どうせ、もう誰も食べまい。温め直して、おじやにして食べてしまおう。おじやは好きかね?」
「嫌いでは ございません」
「それは よかった」
自在鉤に掛けられた薬缶を外して、みそ汁の入った鍋を掛け、余っていた四個の握り飯を その中に沈めた。
そして杓子で、握り飯の形を崩しながら掻き混ぜている老いた与力の姿を伝七は、些細な おかずとして握り飯に添えてあった沢庵をポリポリと食べながら、観察するように見ていた。
遠い昔に会ったことがあるような気がした、この男に……。
もう一枚の沢庵に手を伸ばした時、伝七は さりげなく尋ねてみた。
「ご無礼かとは存じますが、お名前を お伺いしても よろしいですか?」
「うむ、構わぬよ。猪熊 忠兵衛と申す」
伝七は特に反応を示さず、沢庵を口に銜えて、噛んだ。
カリポリ……。
ぐつぐつと煮えた、鍋の中の おじや。
忠兵衛はそれを杓子で掬って、みそ汁を入れるはずのお椀の中へ注ぐと、割り箸を載せて、湯気の立った熱々のそれを伝七に差し出した。
「さっ、熱いぞ。舌を火傷せぬよう、気をつけて食べなされ?」
すると伝七の目が、大きく見開いた。
遠く遠く置いてきた幼き日の記憶が、頭の中にワッと浮かび上がる。
頭がズキンと痛んで、堪らず目を閉じて、頭を横へ払う仕草をしてしまう。
「大丈夫かね? どうした? 医者でも呼ぶか?」
「いえいえいえいえいえ、ご心配無用でございます。へえ、ありがたく頂戴いたします」
伝七は、ますます青ざめた顔色で、それでいて笑顔で、お椀を両手で受け取った。
親に捨てられ、乞食として その日暮らしをしていた、あの頃。
バタバタと死んでいく、自分と同じ境遇の他の子供の遺体を見るたび、「こうなってたまるか!」「自分も こうやって、死んでいくのだろうか?」「誰か助けてくれ!!」と涙の枯れた顔では泣けず、心の中で泣き叫んでいた、あの地獄のような日々。
そんな自分たちに、ある日から自腹で炊き出しをしてくれた上に、奉公先を探してもくれた役人が、たった二人だけ居た。
(そうか……そうだったのか。貴鼓さまと一緒に居た、あの……もう一人の……)
伝七は、おじやを食べながら、たびたびスウッと目を閉じた。
とても味わっているようで、実はそうではなく、思い出したくない幼い頃の記憶を、また遠くへ遠くへと追いやる為、封じ込める為の自己暗示のような行為だった。
過去があるから、今を歩けている者が居る。
しかしその一方で、過去を忘れることで、今を歩ける者もまた居るのだ。
伝七のように。
ドンドン!
不意に自身番の表戸を、誰かが叩く音がした。
「開いていますよ? お入りなさい」
老いた与力、忠兵衛の声に応えて、表戸が開いた。
現れたのは、若い与力だった。
取調室で、伝七の事を知らず「追い払うように」と指示しようとした、あの与力である。
険しい表情で一言、
「今し方、盗賊 烏咬は、壊滅した」
「……そうか。良い知らせだ」
「では、あっしはもう必要ありやせんね? 商いが ありますんで、これで失礼いたしやす」
お椀と箸を置いて、そそくさと立ち去ろうとする伝七を、若い与力は呼び止めた。
そして懐から、丁寧に和紙に包まれた、楕円形の円柱の塊を差し出す。
「おい! ……そら、受け取れ。今回の報酬だ」
「いりません」
「何を言う? これは菓子ではない、大金だぞ? 豆腐を十年、売り歩いても稼げない金額だ。実は、今回の一件でな? 上の方たちは大層、おまえを褒めちぎっておってな? おまえのお陰で、もう二度と烏咬による被害者が出なくなったのだ。江戸の町を救ったのだ。なあ? 格好をつけるな。何を強がる必要がある? 遠慮はいらない。ほれ? 胸を張って、ほれ?もらっておけ。ほれ、ほれ?」
「勘違いをなさってもらっては、困ります」
「なんだと?」
「あっしの協力は、これが最後だと思ってくだせぇ。次は、ありやせん。感謝したいのであれば、貴鼓さまにしてやってくださいまし? あっしは、あの お方に頭を下げられて、致し方なく ここへ来ただけの話で ございましてね、ええ。ポンと出せるその大金は、貧しくて困っている町人たちの為に使ってくださいまし。では、あっしはこれで。失礼いたしやす。ごめんなすって。」
表戸の前を塞ぐようにして立っている若い与力に、体のどこにも触れないよう、まるでヘビのように スルリと器用に外へ出て、一度も振り返らずにスタスタと早足で 去って行ってしまった。
若い与力は、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「何なんだ、あの態度は? ……調子に乗りやがって。捕まえたのは、俺たちだぞ? いけすかない野郎だ」
「……」
「で、どうします、これ? 中身ぃ、小判ですよ? 二人で山分けしちゃいますか?」
「どうするも何も、伝七の言葉を添えて、返して来なさい」
「まあ、まあ。そう固い事は、言いっこなしで。実の所、借金があるんですよォ。しかも今月、色々と入り用で。そういった事情ですから、ここは一つ? 山分けといたしましょう? だ~れも見ちゃいませんし、ねっ? ねっ? そういたしましょう。そういたしましょう」
「私が見ておるよ」
「!?」
「おまえさんの事情は、よくわかる。だがそれは、おまえさんの為に用意された金ではないのだ。返して来なさい。伝七の言葉を添えてな?」
(こんのクソジジィ!!)
若い与力は、俯いて奥歯を噛み締めて、込み上げてくる怒りを押さえ込む。
それから大きく頷くと、踵を返し、表戸を勢いよく閉めて去って行った。
忠兵衛は、それをまったく気にも留めない様子で、お茶をすすって呟く。
「うん、うまい」
こうしてまた、それぞれの長い長い一日が始まった。
<第一章 終>