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霧島俊太郎 あやかし始末  作者: 皆月 夢助
第一話 空から降ってくる夜
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第一章 用心棒


     一


 江戸の町には、いくつかの盗賊が存在してある。

 彼らは決して江戸に住み暮らしているわけではなく、他の土地で遊んで金がなくなると、また江戸で盗みを働くという連中ばかりだった。

 それこそピンからキリまであるわけだが、そのほとんどが、火付盗賊改を はじめとする()り手に捕縛(ほばく)され、(きび)しく処分されている。

 にも(かかわ)らず、その数は一時的に減りはしても、犯行がなくなる事は決してなく、真面目にコツコツと働くよりも 楽にパッと(かせ)げる方がずっといい、などという考えを持つ人間が後を()たないということも意味していた。

 そして地方の貧困問題にも原因がある。

 一生懸命に汗水を流して働く農民と、その近所で、何不自由なく暮らしている庄屋(しょうや)という構図。

 方や、その日の食べ物にも困る生活を、一生 続けていくという家。

 もう一方では、食べ残しを平気で出来る生活を送れる家。

「少しぐらい頂いても、きっと仏様は見逃して下さる」

「今回だけ! 今回だけ!」

 などと盗みに入ったのがキッカケで、そのまま悪の道へ転がり落ちるなどという(やから)も少なくはない。

 すべては(まず)しさが悪い。親が悪い。あいつが悪い。こいつが悪い。

 などと言い訳と納得を繰り返して、『可哀想な自分が罪を(かさ)ねている。嗚呼(ああ)、何て悲劇』などと解釈している(やから)も少なくはないのだ。

 だがしかし、だからといって、同情の余地(よち)があるとはいえ、犯したその罪が すべて許されるわけではない。

 特に、外道(げどう)(きわ)めた『ひとでなし』には容赦(ようしゃ)なく、人の目にさらして、それこそ残虐(ざんぎゃく)に処罰されていた。

 充分な抑止力(よくしりょく)にはなっているはずだった。

 しかし それでも、ひたすら外道(げどう)を突き進み、凄惨(せいさん)な強盗を繰り返す、盗賊があった。

 その名を、烏咬(うかみ)という。

 戦国時代に暗躍(あんやく)した忍者たちの残党、()れの()てとも言われ、盗賊の捕縛(ほばく)()れた役人たちでさえ、もっとも注意すべき集団であった。

 ここ 二十年あまりのうちに、この烏咬(うかみ)捕縛(ほばく)しようという行為が原因で、少なくとも火付盗賊改方長官が四人、同心が十五人、命を落としていた。

 たいてい盗賊というものは、多勢に無勢のもと、逃亡を基本としているはずなのだが、この烏咬(うかみ)はそこが違っていた。

 ()り手が現れたものならば、盗み出そうとする物を放ってまで、必ず、(かしら)の首を取りにかかるのである。

 狙った大店の屋敷にいる、家主ら家族は もちろんのこと、奉公人らまでも皆殺しにした上で、(やと)われた用心棒や屋敷のそばを偶然に通った者のみならず、現れた()り手らの(かしら)である火付盗賊改方長官の首を取りにかかる。

 それが成功すれば、放った お宝に目もくれず、追っ手を始末しながら逃亡するという。

 失敗した場合は、明け方頃に、事前に飲んでいた毒が体中に回って、死ぬだけ。

 これが、盗賊 烏咬(うかみ)だった。

 それ故に、この中に入り込んで、役人に情報を流すなどといった行為は、命懸けだった。

 発覚した裏切り者には、容赦(ようしゃ)しない。

 どこまで逃げても、必ず見つけ出され、隠れ家に連れて行かれる。

 ただ殺すのではなく、特殊な薬品を投与して、意識のある状態のままで、のこぎりを使って両腕両足を切断される。

 隠れ家の庭に必ずある、異臭を放つドブのような池。

 それを(ふせ)いでいる上の板を取り払って、それから四肢(しし)を失った裏切り者をその池の中に落とすのである。

 あぶあぶと(おぼ)れている裏切り者を(かこ)んで、烏咬(うかみ)たちは豪勢な(うたげ)を楽しく行う。

 小便を(もよお)したら、男も女も その池の中へ、用を()す。

 裏切り者の息の根が止まるまで、その狂った(うたげ)は続けられるのだった。

 女子供を含めて、五十人以上にも及ぶ、この集団。

 お(かしら)は、今度で七十を越す小柄な老人、閻魔(えんま)災蔵(さいぞう)といった。



 長屋住まいの浪人、霧島(きりしま) 俊太郎(しゅんたろう)が、役人ですら恐れをなす盗賊 烏咬(うかみ)が、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>を 狙っていると知ったのは、三日前のことだった。

 いつもの口入屋で、用心棒の仕事を探してもらっていた時のこと。

 この店のあるじで、店番をしている お(りゅう)が、そこから見える空をぼんやりと(なが)めながら、煙管(きせる)を吹かしつつ、ふと口にしたのである。

「死人がでるんだねぇ」

 不吉なつぶやきだった。

 お龍は、顔の左半分から首の左半分、左肩から左胸、そして左のヒジにかけて大火傷(おおやけど)を負っており、赤黒く変色している為に いつも包帯を巻いている、三十路(みそじ)の女だった。

 そんな(あや)しげな女の口から突然に発せられた、死神じみた台詞(せりふ)に、店にいた ほぼ全員がゾクッと寒気を感じた。

 火傷(やけど)を負って、ほぼ失明している左目に、何かを見たのかと思えたほどだった。

「そうなんですか?」

 俊太郎が、尋ねた。

烏咬(うかみ)がでるんだよ」

「ウカミ? ウワバミ?」

「盗賊のことだよ。そこの連中は、他人の命に容赦(ようしゃ)がなくてね。店の(もん)も役人も、通りかかった者だろうが、皆殺しなのさ。狂ってるね。人間じゃないよ、ありゃあ。あれこそ、『ひとでなし』って奴さね」

「ひとでなし……化け物ってことですか?」

「クックックッ、その通り。人間の皮を(かぶ)った、化け物って奴さ」

「…………」

「ふん、そんな化け物が相手じゃ、まっとうな人間のお役人さまが、そりゃあ太刀打ちできるはずが ないんだよォ。可哀想にねぇ。七日ほど前から、逃げるよう警告が出されているようだけど、(なか)(あきら)めているようだよ。バカだねぇ。命あっての物種(ものだね)だろうに。つうか、金持ちであることが、命を狙われるほど悪いことなのかねぇ? どう思うよ、俊太?」

 お龍は、いつも俊太郎の名前を、『郎』まで呼ばない。

 何か言おうと口を開きかける俊太郎の顔面に、するとお龍は、フゥーッと煙草(たばこ)の煙を浴びせた。

 むせながら手で煙を払う俊太郎の姿に、お龍は「クックックッ」と可笑(おか)しそうに笑って、吸い(がら)煙草盆(たばこぼん)の中に、煙管(きせる)をポンと叩いて落とした。

「仕事は見つかったかい? ないだろう? 江戸の町は広いもんだから、人が多いし、職探しが目的の奴も多い。おまえのような浪人の数だって、そうさ。用心棒の仕事なんざ、あっという間になくなっちまう。残念だったね。また明日、来な?」

「どうして、ウワバミの話を知っているんですか?」

 煙管(きせる)に きざみ煙草(たばこ)を詰めている、お龍の手が止まった。

「……なんだって?」

「用心棒の仕事が入ってるんですよね?」

「やめときな、やめときなよ? 賭け事に、どっぷりとハマッてるわけでもないだろう? 吉原に()いた女でも、できたわけでもないだろう? 腕試(うでだめ)しでもしたいのかい? それとも、死に場所を探しているのかい? あんた、かみさんが居ただろう? いつも家には居ないみたいだけど、かみさんが帰ってきたら、骨壺(こつつぼ)の中で出迎えてやろうって腹なのかい? 誰が笑うよォ、そんなバカッ話? 寄席(よせ)でも聞かないよ。それとも、同情でもしたのかい? バカだねぇ。人間って奴は、それこそ毎日、必ず一人以上は、どこかで死んでるものさね。自然死、病死、それこそ殺しだってあるだろうさ。自らが望まない死なんて、どれだけの人間が経験していると思うんだい、ええ? そういうもんなんだよ。人間さまは、犬や猫や鳥とか、それら生き物とは違うなんて(えら)ぶる(やから)もいるけどねぇ? 結局は同じさ。同じなのさ。だから、いいかい? 他人の為なんかに、たった一つの命を捨てるんじゃない。自分の為に、自分の大切なモノの為だけに、そのたった一つの命、使いな! いいね!」

 とまあ、長々と真剣に俊太郎を説得しながらも、お龍のその体は、近くに居る番頭の半吉(はんきち)に、身振り手振りで「盗賊 烏咬(うかみ)と、今度、(おそ)われる予定の店の資料を持ってこい」と指示していた。

 番頭の半吉は、この店一番の年長者で、年齢(とし)三十路(みそじ)(なか)ばほど過ぎたくらい。


 顔立ちは面長(おもなが)で、頬がこけており、黙っていれば日本人離れした、今でいうチョイ悪オヤジ風であり、笑った顔は無邪気っぽさがあって、そのギャップが一部の娘たちに人気があった。

 もと腕の立つ大工職人という経歴まで持つ彼が、二冊の帳面を探し出してくると、しゃべり続けている お龍に黙って差し出した。

 お龍は、もっともらしい上辺だけの説教を続けながら、それらをペラペラとめくると、切りのいい所で、開いたその二冊を俊太郎によく見えるように差し出した。

「うちの銀次(ぎんじ)が、調べて来たんだよ。どうだい? うん?」

 俊太郎はまず、盗賊 烏咬(うかみ)に関する情報が書かれた帳面を手に取り、すぐに眉間(みけん)にしわを寄せながら、読み続けた。

 それから お龍は、そんな俊太郎に、先ほどまで あんなに お喋りだったのに、打って変わって 急に黙りだしてしまう。

 煙管(きせる)に詰めた きざみ煙草(たばこ)に、火口(ほくち)で火を()けて、吸っては静かに溜め息()じりに煙を吐いていた。

 ようやくして、俊太郎は口を開く。

「この用心棒の依頼、引き受けたいのですが?」

「ああ、そうかい」

 お龍はちっとも驚かなかった。

 説得は無理だと(あきら)めたというより、予定通りとばかりに、そばに置いておいた一枚の紙を差し出す。

 それは、依頼を引き受けましたという(あかし)の書面。

 途中下車など早々はできない、地獄行きの片道キップのようなものだった。

 こちらの都合で途中下車をしてしまった時は、違約金という多額の借金(しゃっきん)を背負わされるはめになったりする場合も、あるということである。

「じゃあ、ここに拇印(ぼいん)を押して? 商談成立だ」

 字が書けない人でも、仕事が受けられるようにするべくの配慮(はいりょ)だった。

 俊太郎は親指に朱墨(しゅずみ)をつけて、書面の下にそれを押しつけた。

 書かれてあるのは、以下の通り。

 依頼人の名前、住所、依頼の内容、必要人数。

 引き受けた者が命を落としたり、役人のご厄介(やっかい)になるようなことがあっても、紹介した店 (およ)び、依頼人には決して、その責任を問わない。

 依頼を果たした時に支払われる報酬(ほうしゅう)金の全額。

 この依頼を引き受けられる期限、などだった。

 期限切れまで、あと三日。

 依頼人の名前は、江戸本町三丁目、薬種問屋<藤田屋>。

 豪商で有名とあって依頼達成の金額が、目玉が飛び出そうなくらい破格(はかく)だった。

「それからね、相手があの烏咬(うかみ)とだけあって、奉行所からも ご褒美(ほうび)の話が あってね。もちろん、手柄は役人のものだし、口止めという厳守(げんしゅ)な約束のもとなんだけど、依頼達成の報酬(ほうしゅう)の額は そこに書かれてある以上だから、期待していいよ」

「そうですか。楽しみです」

 感情のない生返事だった。

 今の俊太郎にとっては、金になど興味はなかった。

 人が言う、人間の姿をした化け物とは、どれほどのものなのか知りたかった。

 化け物と呼ばれる人間の基準が知りたかった。

 烏咬(うかみ)に関する情報を知っても、心に浮かんだのは恐怖ではなく、純粋(じゅんすい)な興味だったのである。

「骨は、あたしが拾ってあげるよ。責任もって、あんたの かみさんに届けてやるから、安心して成仏(じょうぶつ)しな!」

 バンと勢いよく書面の左上に、『口入屋お龍』の赤い印鑑(いんかん)が押された。

 これほど生き生きした お龍を見たことがない、と思えるほどに、彼女はとても楽しげだった。

 他人の不幸は、蜜の味――か。

 依頼人に渡す為の証文(しょうもん)にも印鑑(いんかん)が押され、それを持って俊太郎は口入屋を出た。

 その足で、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>へと向かう。

 裏の勝手口ではなく、表側の正面へ行くと、水を()いている丁稚(でっち)に、

「おい、坊主? 悪いがこの紙を、旦那さまか女将(おかみ)さんに、見せてきてくれ?」

 と言って、(ふところ)から出した証文(しょうもん)を手渡すと、丁稚(でっち)は素直に店の中に入って行った。


 それからすぐに、家主と奥方の両名が、喜びを(ふく)んだ驚いた顔で やってきたが、必要人数に足りていない、俊太郎ただ一人だけだと解ると、すぐにその顔を(くも)らせていた。

 「居ないよりは、まし」、「ただ死体がもう一体、増えるだけではないか?」といった複雑(ふくざつ)そうな表情だった。

 ともあれ俊太郎は、日が暮れると店へやって来て、夜が明けるまで屋敷に居座るということとなった。

 俊太郎は、あまり酒を飲まない。

 だから用意される夕食の後は、夜食用にと、大福とお茶を用意してもらった。

 毎日の夕食は、豪華だった。

 金持ちだからというわけではなさそうで、雰囲気からして、『最後の晩餐(ばんさん)』のようなものだったのだろう。

 家主から奉公人の全員が、同じ部屋で、同じ物を飲み食いし、(にぎ)やかに過ごした。

 明日、失うかもしれない命に、(おび)えて、食べ物が(のど)を通らない者など、郷里(くに)に帰らずに残った者たちの中には一人も居なかった。

 きっと全員、それぞれが誰かを気遣っていて、それが(にぎ)やかで楽しげな輪を作り上げていたのだろう。 

 用心棒である俊太郎は、それを別室で耳にしながら同じ物を食し、ほのかに笑みを浮かべていた。


     二


 情報が()れていると知っていて盗賊 烏咬(うかみ)は、ただ静かに決行の日を待っていた。

 実力や武力に自信はがないわけではないが、その日は烏咬(うかみ)にとっての、吉日であるからに他ならないからだった。

 時の運というのは、持ち合わせている実力や武力にも勝るのである。

 そうして、決行の当日。

 実行犯たちは江戸市中にある、忍者に(ゆかり)ある古びた神社の本殿に集合していた。

 お(かしら)である閻魔(えんま)の災蔵の含めて、その数、十人。

 細見、長身、大柄、小柄、普通と、体格には一貫性はなく、しかしながら全員が、同じ黒茶色の忍び装束(しょうぞく)を着ていた。

 他の九人よりも前に出た、閻魔(えんま)の災蔵が、振り向いて口を開く。

「じゃあ、そろそろ、行くとするか。いいか、おまえら? 烏咬(うかみ)(ほこ)りを、忘れるんじゃねぇぞ?」

 (おだ)やかながらも威圧(いあつ)してくるような、その口調。

 烏咬(うかみ)(ほこ)りとは何なのか、誰もうまく説明はできないが、全員が何となく理解はしていた。

 その証拠として(うなず)くと、手にしていた小さな飴玉(あめだま)らしき物を、それぞれが口に(ふく)んで()(くだ)く。

 それから中に入っていた液体ごと、ごくんと飲み込んだ。

 その途端(とたん)皮膚(ひふ)を突き(やぶ)らんばかりに筋肉は()り、血管は浮き出て、目は血走って、疲れは吹っ飛んだ。

 長年の人体実験によって完成した、筋肉増強剤といったところだろう。

 ただし数時間ほどで、飲んだ者を 死にいたらしめる副作用もある為、夜明けぐらいまでに解毒剤なる物を飲む必要があった。

 ともあれ、それから盗賊 烏咬(うかみ)は神社を出ると、三艘(さんそう)(ふね)に乗って川を下った。

 適当な場所に(ふね)を着けると、降りるなり、一斉に目的地に向かって走り出す。

 時刻にして、誰もが寝静まる、深い深い夜の闇が訪れた頃。

 音もなく町の中を駆け抜けるその姿は、さながら黒い突風のようだった。

 目撃者があれば、それが例え見廻りだろうが、酔っ払いだろうが、屋台の店主だろうが、身売り帰りの女だろうが、命はない。

 今夜は運よく、その死神の鎌が振り下ろされることはなく、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>に到着した。

 早速、裏手に回り、(へい)をたやすく飛び越えた者が、勝手口の つっかえ棒を外して両開きの門扉(もんぴ)を開け、全員を庭園へと入れる。

 虫の鳴き声さえも聞こえて来ない状況のもとで、盗賊 烏咬(うかみ)(よど)みなく事を進めていた。

 小柄の男と、体格のよい大柄の男の二人は、蔵へと向かう。

 蔵の(かぎ)を開ける者と、千両箱を運ぶ者である。

 細身の二人が、縁側を閉ざしている雨戸を足掛かりに、屋根へ上がった。

 屋根の上から、人の気配と屋内から()れる明かりがないかを調べ、時として屋根の上から奇襲(きしゅう)をする為である。


 この二人は(ふところ)に吹き矢を、片手には(つか)の部分が自在に伸縮(しんしゅく)する、三叉槍(さんさそう)を握っていた。

「ホウホウ! ホウホウ!」

 フクロウの鳴きマネが聞こえてくる。

 問題なし、屋内からの明かり漏れがなければ、屋外で見張っている者、出歩いている者が見当たらないという合図だった。

 それを耳にして今度は、普通の体格をした二人の男が動く。

 彼らは他の者たちより多くの、様々な刃物を身につけていた。

 どれだけの人数が屋敷の中に居るのか わからなければ、殺害しすぎたり反撃でもされて、刃を()ったり落としたりしてしまった場合の為でもあった。

 二人の男たちは皆殺しをする為だけに、音もなく雨戸を開けると、縁側へ足を踏み入れて、そのまま屋敷の中へと消えて行った。

 お頭である閻魔(えんま)の災蔵は、大金を運び出すのと皆殺しが済むまで、庭園で じっと屋敷を(にら)みつけるようにして、待機していた。

 その両側には、日本刀を(たずさ)えた屈強な猛者(もさ)が二人、いつでも動けるよう待機している。

 彼らの役割は、全員を無事に帰す為の殿(しんがり)、そして火付盗賊改方長官を始末する役目も(にな)ってもいた。

 残る一人は、近くを通りかかった者を始末するべく、すでに外を見張っている。

 すべて いつも通り、順調に事は進んでいた。

 もうじき、心地好い魂消(たまぎ)えの音が聞こえてくる、頃合いだ。

 低音も 高音も、閻魔(えんま)の災蔵にとって好物だった。

 体中に血液が激しく駆け巡るのを感じ、十歳以上も若返る思いがするのだった。

 想像するだけで(のど)(かわ)きを(おぼ)え、酒が飲みたいと思った。

 次の瞬間、


 ドドォーン!!


 (いきお)いよく、二枚の雨戸が同時にぶち(やぶ)られて、先ほど中へ入って行った仲間が 二人、庭園へと素っ飛ばされて来た。

 それから何度もゴロゴロと転がって止まると、白目を()いたまま、口から(あわ)を吹いて、意識を失っていた。

 よく見ると、二人とも首が あらぬ方向へ向いていて、生きてはいるが、虫の息という具合だった。

 動揺(どうよう)を隠せずにいる両側の男たちと比べて、静かに(にく)しみを込めて、じっと屋敷の中を(にら)みつけている閻魔(えんま)の災蔵の視界が、着物を(たすき)がけにして、暗闇の中から こちらを(にら)み返してくる、一つの人影を(とら)えた。

「ううん? …………一人かぁ? 腕に自信があるようだなぁ……()めやがって」

 閻魔(えんま)の災蔵は(ふところ)から どすを引き抜くと、足下に(ころ)がっている、使い物に ならなくなった二人の子分を、これが お(かしら)(つと)めであるかのように、どすを突き刺して息の根を止めた。

 それを、ただ傍観(ぼうかん)していた人影である俊太郎は、引き抜いて右手に持っていた大刀を(さや)に納めて、やや姿勢を低くして、いつでも引き抜けるように身構えた。

 そして、半歩、半歩と、ゆっくりと前進する。

 一方で屋根の(はし)には、縁側から出てくるであろう俊太郎を奇襲(きしゅう)すべく、すでに細身の男が一人、三叉槍(さんさそう)を持って身構えていた。

「おーい? 聞こえるかい? 何者なんだい、おまえさんは? ……なあ? よかったら、俺たちの仲間にならねぇかい? 丁度 今、二人 減っちまってなあ。なあ、おまえさん? よかったら、どうだい? うん?」

 閻魔(えんま)の災蔵は、二人の子分を始末したまま、しゃがんだままの姿勢で、ニッコリと笑みを浮かべながら優しい声で、俊太郎を勧誘(かんゆう)した。

 当然、本気で俊太郎を仲間に加えようとは、これっぽっちも考えてはいない。

 しかし当然、俊太郎の方も仲間になる気など、これっぽっちもない。

 ただ黙って、ゆっくり ゆっくり、じらすようにして、半歩 半歩と前進し続けている。

 閻魔(えんま)の災蔵は、笑顔を(くず)さない。

 半歩、半歩、半歩……と、俊太郎は急に動きを止めた。

 おそらく縁側で身を隠しながら、目をギラつかせて身構えている奴が居るのではないかと、警戒したのだろう。

「どうした、おい? 返事ぐらいしてくれても、いいじゃないか。うん? それとも」

 閻魔(えんま)の災蔵が何かを言い出すその前に、俊太郎はすでに足に力を込めていた。


 屋内に居るとはいえ、裸足(はだし)ではなく足袋(たび)()いており、その上に更に草鞋(わらじ)()いている。

 これならば、(たと)(たたみ)の上で斬り合いになったとしても、足下が(すべ)るという事はないのだ。

 ぎちぎちぎちと、草鞋(わらじ)(うめ)き声にも似た音を立てている。

 と、出し抜けに畳を強く蹴って、庭園へと飛び出した。

 耐え切れずに(たたみ)(わら)が数十本、紙吹雪(かみふぶき)のように細かく宙に舞い上がって、(たたみ)に深い穴をあけた。

 それに構わず俊太郎は、大刀の鯉口(こいくち)を切る。

 まっすぐに閻魔(えんま)の災蔵に目掛けて、飛び掛かりながら大刀を()き払うつもりのようだった。

 咄嗟(とっさ)に、両側に居た屈強な猛者(もさ)たちが反応する。

 一人はその一撃を(ふせ)ごうと、閻魔(えんま)の災蔵の前に立ち(ふさ)がり、もう一人は、その一撃よりも先に俊太郎を仕留めようと、日本刀を抜いて斬りかかった。

 更には屋根の上で、俊太郎の姿を目で(とら)えた細身の男が、即座に そこから飛び降りて、そのまま背中を突き刺そうと三叉槍(さんさそう)を突き出した。

 そんな絶体絶命の最中に、すると俊太郎は驚くことに、急に地面に足をつけるなり爪先(つまさき)の反動だけで後ろへと、縁側の部屋の入口の辺りまで、飛び退(しさ)っていたのである。

 この予想もつかない突然の出来事に、男たちは対処できず、(いきお)いを殺せないまま、俊太郎に斬りかかっていた男は、屋根から飛び降りてきた男を、仲間の首を斬り払ってしまう。

 驚いた表情のままで、胴から斬り離された仲間の首が宙に飛んで行くのを、つい視線で追ってしまう男の首へ目掛けて、今度は閃光が走った。

 すでにまた、すぐ近くにまで迫っていた俊太郎が、首を切断された男の背後から、大刀を横に()(はら)っていたのである。

 しかしそれは、刃の方ではなく、峰打ちだった。

 だが、細い鉄の棒で思いっ切り ぶっ叩かれるのだから、(たま)ったものではない。

 勢いよく素っ飛んで行った。

 何度も地面を(ころ)がって、生きてはいるが、白目を()いて口から泡を吹き、地面に倒れた。

 素っ飛ばした後、続けざまに俊太郎は、首を切断された男の背中を踏みつけて(かが)ませ、切り口から噴き出る血飛沫(ちしぶき)を、閻魔(えんま)の災蔵を守るようにして立ち(ふさ)がる目の前の屈強な猛者(もさ)に ぶっかける。

 せめて目に入らないようにと、咄嗟(とっさ)に片手で血飛沫(ちしぶき)(ふせ)ぐその男へ目掛けて、踏みつけた背中を踏み台にして飛び上がった俊太郎が、これも(みね)打ちで、脳天に大刀の一撃を浴びせた。

 男は、それを()けることも(ふせ)ぐこともできず、あっさりと叩きつけられて、うつ()せに無様に倒れたまま意識を失った。

 それは三秒にも満たない、ごく(わず)かな時間内に起きた、尋常ではない出来事だった。

 不意打ちだったのだろう、先に二人の子分を失い、更に今こうして、(またた)く間に 三人も失った。

「…………」

 閻魔(えんま)の災蔵の表情は、すでに人間のそれを()えていた。

 (こら)え切れないほどの怒りが、顔に現れたのだろう。

 黙って ゆっくりと立ち上がると、大刀が届く距離にまで接近していた俊太郎を下から(のぞ)き込むようにして、もう一度、(にら)みつけた。

「あんた……俺たちが誰なのか、知らねぇんだろうなぁ? 知っていたら、こんなこたぁ、できねぇもんなぁ?」

「化け物らしいな?」

「役人でさえ恐れをなす、盗賊 烏咬(うかみ)その(かしら)閻魔(えんま)の災蔵たぁ、俺のことよ!」

「…………」

「へっへっへっへっへっ、あんたが何者なのか知らねえがなぁ? たった一人に、天下の烏咬(うかみ)が やられたとあっちゃあ、こっちは面目、丸潰れよ! 死ぬよか、つれぇ! したがって このまま、素直に引くわけには行かねぇんでぇい!」

「…………」

 俊太郎は機会を(さぐ)っていた。

 大刀の届く範囲(はんい)に、相手は居る。

 だが、こちらが振るより先に、素早い小さな動きで、攻撃を仕掛けてくるのではないかと、考えていた。


 ならば こちらも、素早い小さな動きで、相手を倒せば いいだけのこと。

 大刀を握っていない、利き手ではない左手の(こぶし)で、鳩尾(みぞおち)に一撃を食らわせてやろう。

 いや、着物の下に頑丈(がんじょう)(よろい)でも、身に着けているかもしれない。

 ならば顔面に目掛けて、強烈な頭突きを……。

 などと考えていると、首筋(くびすじ)にチクッと痛みが走った。

 刃物で刺されたというより、針だか(とげ)だかが刺さったかのような感覚。

 それからすぐに、めまいと寒気と(だる)さと眠気とが、背中から(おお)(かぶ)さってきた。

 顔から、みるみる血の気が引いていくのが自分でも(わか)る。

 その上で全身から、滝のように汗を噴き出してもいた。

 閻魔(えんま)の災蔵は、今度は不気味に、勝ち(ほこ)った笑みを浮かべた。

「どうだい? ええ? どんな気分だい? ああ? あっはっはっはっはっ! 怖いだろう? 死にそうな気分だろう? 即効性のある猛毒でな。もう、あんた、助からないよ?」

 大刀を持つ手が、ぶるぶると震えて、指先にまで力が入らなくなっていく。

 だが、もう一方の手で、首筋に刺さった物を、何とか引き抜いた。

 それは一本の、矢羽のついた針だった。

 屋根に上がっていた、もう一人の細身の男が、細長い筒を吹いて当てたのである。

 不覚だったと反省しても、もう遅い。

 閻魔(えんま)の災蔵は(ふところ)から、手の平に(おさ)まるくらいの、一個の赤い玉を取り出した。

「残念だがね、その猛毒に効く解毒剤は、ここには ないんだよ。残念ながらな? ふへっ、ふへへっ、ふへはははははははっ。だからといって、毒で おっちぬのを放っておくほど、今の俺ァ、優しくはねぇんでね。これ、この赤い玉ァ、何だか(わか)るかい? んん? 俺たちは、『火遁玉(かとんだま)』って呼んでるんだ。破裂させるとな? 中の液体が引火して、大きな炎を上げるんだよ。どんなに水をかけたって、消えやしねぇ。いわゆる地獄の業火ってヤツでな? ふっへっへっへっへっ。これから、あんたに何をするのか、わかったかい? ううん? なあ、オイッ? 聞いてるのか! 俺の大事な子分をなぁ? 痛めつけやがった、そのお返しだよ! よォ~く味わえッ!」

 たやすく俊太郎の口をこじ開けると、その赤い玉を口の中へ押し込んだ。

 しかし、すぐに吐き出してしまう。

 地面に落ちる前に、吐き出されたその赤い玉を、閻魔(えんま)の災蔵は(つか)まえた。

「ああ、そうかい。ああ、そうかい。それじゃあ、仕方がねぇなぁ。外側から、灰になっちまいなよォ?」

 飛び退(しさ)って充分に距離をあけると、苦しむ俊太郎に目掛けて、赤い玉を投げつけた。

 当然、それを(かわ)すことなどできない、俊太郎。

 すると赤い玉は、俊太郎の体に、着物の上から ぶつかるなり破裂して、火の気もないのに炎を発した。

 (わず)かな飛沫(しぶき)までも引火して、俊太郎の全身を、赤、青、白の三色の炎が包み込む。

 俊太郎は夜空に向かって、獣のような断末魔の雄叫(おたけ)びを上げていた。

 ニヤリと笑う閻魔(えんま)の災蔵は、もう俊太郎に興味を失っていた。

 (にく)(かたき)は死んだ。

 あとは屋敷の中の連中を、自分の手で始末するだけ。

 久し振りの皆殺しに、若い頃を思い出したのか、心が(おど)り出していた。

「まったく、とんでもねぇ日だ。この俺の手を(わずら)わせるたぁよ。まあ、いい。その分、じっくり楽しませてもらおうじゃねぇか。へっへっへっ。何人だぁ? 何人、屋敷の中に隠れてんだ? んんっ? へっへっへっ。楽しみだねぇ」

 早速、行為に(およ)ぼうとする閻魔(えんま)の災蔵を余所(よそ)に、屋根の上の細身の男は、不審げな表情を一人、浮かべていた。

 これは一体、どういうことなのだろうか――と。

 体中には猛毒がすでに回っているはずで、しかもどう見ても、ゴウゴウと激しく全身が燃え(さか)っている……というのに。

 助かるはずはない。

 呼吸ですらままならず、ずっと息を止めているような状態のはず。

 もうすでに生きているはずはない。

 なのに俊太郎は、まだ倒れてはいなかった。

 雄叫(おたけ)びを上げると、やや前屈(まえかが)みになった姿勢のまま立ち続け、しかも右手には、まだ大刀を握り締め続けている。

「まさか……あれで? まだ、生きているとでも いうのか?」

 屋根の上で、背筋(せすじ)に寒気を(おぼ)えた細身の男は、思わず姿勢を低くして、身を隠してしまっていた。


 そんなことは露知らず、屋敷の中へと向かう閻魔(えんま)の災蔵は、自分に向けられる(するど)い視線を感じ取り、無意識にそちらに顔を向けてしまっていた。

 すると、俊太郎と目と目が合った。

 真正面を向いていたはずの俊太郎の視線は横を向き、閻魔(えんま)の災蔵を(にら)みつけていたのである。

 これには、さすがに驚いた。

 鳥肌が立った。恐怖を感じずには いられなかった。

 そう、幼い頃に忘れてきた恐怖という感情が、何十年も経った今、心の底から()き上がり、閻魔(えんま)の災蔵の全身を電流のように駆け(めぐ)ったのである。

 立て続けに本能が、逃げろと警告までしてくる。

 閻魔(えんま)の災蔵は、舌打ちをした。

「とっとと、くたばりやがれッ!!」

 引き抜いた どすを逆手(さかて)に持つと、燃え(さか)る俊太郎に目掛けて振り下ろす。

 いや、振り下ろしていたのかどうかは、わからない。

 目にも留まらぬ速さで大刀が振り(はら)われ、閻魔(えんま)の災蔵の右腕が、どすを握ったまま(ひじ)の上から分断されて素っ飛び、遠くの(へい)にベチャッとぶち当たっていた。

 もう一度、目と目が合う。

 俊太郎は、心の底から理解した。

 自分が(たと)え死んだとしても、皆殺しを止めようとはしない、あんなに素敵な人達を全員、その手に掛けようとしている閻魔(えんま)の災蔵に対して、俊太郎はキレてしまっていた。

 瞳は真っ赤に()まり、血走り、顔や首に腕、おそらくは全身に(およ)ぶのだろう、血管が皮膚(ひふ)を内側から持ち上げるようにハッキリと浮かび上がっており、今も火傷(やけど)()って黒く変色しているはずの皮膚(ひふ)は、赤く赤く()まっていた。

「ひぃッ!?」

 今度は思わず恐怖のあまり、口から悲鳴が()れ出てしまう。

(俺たちは、 烏咬(うかみ)。そう、身も心も人間離れした、化け物 集団よ。ところが、どうだい? こんな所に、本物の化け物が居るじゃねぇか。くそッ! 本物の化け物が相手じゃ、天下の 烏咬(うかみ)も、お手上げってもんよォ)

「このォ外道(げどう)がァ!!」


 ズドォーン!!


 (すき)だらけの閻魔(えんま)の災蔵の脳天に目掛けて、俊太郎は峰打ちを 容赦(ようしゃ)なく叩きつけた。

 顔面を地面に減り込ませて閻魔(えんま)の災蔵、そのまま地獄へ 真っ(さか)さまに落ちて行く感覚を 全身で浴びながら、意識を失った。

 ここへ来る前に 神社で飲んだ、あの秘薬、いわゆる『筋肉増強剤』の お陰なのだろう、命を落とすことはなかった。

 全身を燃やしながら、俊太郎。

 ふっと冷静になり、自分の頭を触りながら、困ったような表情を浮かべる。

「毒は、たいしたことは なかったけれど、このままだとハゲるんだろうか? まいったなぁ……妻が帰ってきたら、何て言われるか……どんなに弁明しても、愛想を尽かされるんだろうなぁ……」

 ところが、ふと思い出したように蔵へ向かって歩き出した。

 すると予想通り、鍵を開けた蔵から、今も小柄な男が千両箱を一箱ずつ運び出しては、大柄な男の左右の肩に、一箱また一箱と(かさ)ねていた。

 (たと)え、金を運び出すだけの役目を任せられている下っ()とはいえ、そこは恐れ知らずの盗賊 烏咬(うかみ)の一味である。

 大抵のことでは、動揺(どうよう)などしない。

 しかし、今の俊太郎の姿を見て、驚かないはずはなかった。

 ゴウゴウという轟音(ごうおん)のような音が近づいてくるのに気づいて、そちらを見やると、全身を燃え(さか)る炎に包まれた人間が、こちらに近づいてくるのが見えた。

 心に(わず)かに残った人間らしい感情が、『こいつは人間ではない、地獄からの使者だ』と激しく警告を鳴らす。

 小柄な男は(たま)らず、悲鳴を上げて蔵から飛び出し、目についた(へい)に 飛び掛かった。

 見た目通り、逃げ足が早い。

 俊太郎は、焼き()げた足袋(たび)が貼りついている足に力を込めると、地面を蹴って追いかけ、(へい)を登り切るその前に、小柄な男の背中に峰打ちを叩きつけた。

 一方で、大柄な男の行動は、小柄な男のそれとは違っていた。

 どうせ今、逃げ切ったところで、また何度も追いかけてくるのだろう。

 だったら――とばかりに、両肩に(かさ)ねていた千両箱をその場に捨てると、地獄の使者と勘違いした俊太郎へ、背後から(おそ)いかかった。

「うがーーッ!!!」

 狂った雄叫(おたけ)びを上げ、腕力を武器に(おそ)いかかる。

 それを俊太郎は、(おく)せず振り向きざまに、(つか)(かしら)鳩尾(みぞおち)を突き、立て続けに刀を逆手(さかて)に持って飛び上がるようにして、下から(あご)に目掛けて、またも(つか)(かしら)で強打した。


 あっさりと脳震盪(のうしんとう)を起こした大柄の男は、白目を()いて、仰向(あおむ)けにズシンと倒れた。

 俊太郎は、ふぅーっと肩で大きく息を吐いて、全身から力を抜くと、大刀を納めて歩いて庭園へ戻ることにした。

 なおも燃えながら、腕組みをして考える。

 さて、どうしたものか。

 用心棒としての仕事は、これで済んだはずだが、それをどうやって伝えるべきか。

 このまま屋敷に入っては、火事になる。

 大声で店の者を呼んだところで、逆に警戒されるのではないか。

 きっと今も店の者たちは、一番奥の部屋で、布団を頭から(かぶ)って、一塊(ひとかたまり)になって(ふる)えていることだろう。

 早く安心させてやりたいが、さて、どうしたものか。

 すると、ふと雨戸の透き間から、外の様子を(さぐ)っている、小さな人影を見つけた。

 透かさず俊太郎は、声をかける。

「おいッ!」

「ひぃッ!?」

 小さな人影は、子供だった。

 この店に用心棒として(おとず)れた際に、一番最初に話しかけた、丁稚(でっち)定吉(さだきち)だった。

 (かわや)(トイレ)に用があって、どうしても通りかかったのではないのだろう。

 おそらく、一番 負けた奴が様子を見に行くという決まりで、皆でジャンケンでもして、運悪く当たってしまったのだろう。

 可哀想に、驚いたあまり尻餅(しりもち)をついて、腰まで抜けて、動けなくなってしまっているようだった。

「俺だ! 用心棒の霧島だ!」

「へっ!? き、き、き、霧島さまでございますかッ!? なぜ、燃えているので ございますッ!? 熱くはないので ございますかッ!?」

「うん。まあ、熱いというか、痛い! それより、やってきた盗賊たちは全員、片づけた! 自身番に行って、ここで倒れている連中と、蔵近くの(へい)の所で伸びている二人を捕縛(ほばく)するよう、伝えてきてくれ!」

「か、か、かしこまりました!」

「あとそれから、水を頼む! この火を、どうにかしてくれ!」

「へ、へいッ!」

 定吉は四つん()いになって、一目散に皆の居る一番奥の部屋へと向かった。

 話を聞いた家主は、すぐに番頭を自身番に走らせ、残った者たちで、俊太郎の体を焼き尽くそうとする炎を消す作業に取りかかった。

 井戸から水を()み上げては、(おけ)(うつ)し替えて、それを手から手へとリレーで運んで、俊太郎の頭から ぶっかける。

 足下は あっという間に、豪雨でもあったかのように、大きな水溜りを作りあげていた。

 しかし、

「消えませんな……」

 最後尾(さいこうび)の家主が、(あきら)()みた言葉を発する。

「そういえば……そこで倒れている(じい)さんが、『水では決して消えない炎』だとか、言ってましたなぁ」

「はぁ……」

 人間は全身に大火傷(おおやけど)()うと死ぬと聞いたが、この人が異常なのか。

 それとも、水では消えないこの炎が、特殊なのか。

 自分は起きているようで、もしかすると実は寝ていて、夢を見ているのではなかろうか。

 そういえば最近、よく眠れていなかった。

 などと、ぼんやりと考えながら、家主は尋ねた。

「あのご老人は、何者です?」

「この盗賊の、お(かしら)の……なんていったかなぁ?」

烏咬(うかみ)の お(かしら)なのですかぁ!?」

「ええ、自分で そう名乗っていましたよ」

「はぁ……それで全員、退治なされたので?」

「ええ、まあ、視界に入った奴は、(かた)(ぱし)からですけど。あッ! そういえば、(へい)の外を見張っていた者が居たかもしれません。ああッ! そういえば、あの毒針……屋根の上にまだ誰か居たのかも……?」

「はぁ……」

 家主は屋根の上を、覗き込むような素振りをした。

「しかし、まあ、もう逃げてしまったのでしょう。お(かしら)が、ああなってしまったことですし」

「それから、あのう……申し上げにくいのですが?」

「なんでしょう?」

敷地内(しきちない)では、血や臓物(ぞうもつ)を ぶちまけないようにとの お約束でしたが、守れませんでした。しかし、腕は私でも、首をやったのは私では ないので、どうか ご勘弁(かんべん)を願いたい」

「はぁ……」


 家主は薄目を開けて、右腕を血止めで縛られたまま倒れている老人と、縁側の近くで倒れている首なしの遺体を見た。

 家主の顔が、すぅっと青ざめる。

「ま、まあ、この程度であれば、(かま)いませんよ。はっはっはっ。何より こっちらは、命が助かったのですからね」

「よかったぁ……ああ、それから多分、斬られた首は、あちらの方へ飛んで行ったはずですので。右腕は……ああ、あそこ! (へい)についた血が、目印になっておりますので」

「あっはっはっはっはっ、それは それは、(まい)りましたなぁ」

 家主の顔色が、ますます悪くなった。

 ともあれ、炎は一向に消える気配がない。

「あのう? よく見ると火は、着物と(はかま)足袋(たび)だけを、焼いているみたいなんですが?」

 丁稚(でっち)の定吉が、よく観察をした上で、そう二人に意見した。

「なるほど!」

()いでください。さあ、早く」

 俊太郎は言われるがまま、着物と(はかま)足袋(たび)()いだ。

 しかし、それらは炎の熱で()けて、皮膚(ひふ)と一体化するように付着してしまっていた為に、皮膚(ひふ)ごと引き()がすはめとなってしまった。

 その、べりべりべりという、おぞましい音と おぞましい光景といったら、もう。

 偶然、それを見てしまった女中は悲鳴を上げて、丁稚(でっち)の定吉は声も出せずに、同時にその場に倒れてしまう。

 すぐ目の前で、それを見聞きしていた家主だけが、何とか耐え忍んでいた。

 しかし、連続して意識が飛ぶようで、何度も ふらついていた。

 (ふんどし)のみの姿になった俊太郎は、引き()がした皮膚(ひふ)から(あふ)れ出した血が、あっという間に瘡蓋(かさぶた)となって、止血してくれていたが、安心はできない。

「ほう、やっと火から解放された。よかったぁ。あのう、これから医者の所へ行こうと思うのですが、よろしいですか?」

「どっ、どうぞ、どうぞ。お供をつけて、明かりを持たせましょう」

「よろしいのですか?」

「そのような格好、周りが見たら、(あや)しまれて当然でございます。しっかりと、ご説明できる者がいいでしょう。権助(ごんすけ)?」

「へい」

「水は、もういい。提灯(ちょうちん)を持ってきて、霧島さまを お医者さまの所まで、足下を()らしておやりなさい」

「へい」

「それから、わかっているね?」

「へい、わかっておりやす」

「うん。では、霧島さま? 夜道、どうかお気をつけて? 今回は まことに、ありがとうございました」

「いえいえいえいえ、こちらこそ。どうも、はあ、どうもです」

 俊太郎は()(くさ)そうに、どもっていた。

 それから、明かりの(とも)った提灯(ちょうちん)を持ってきた、髪の(うす)初老(しょろう)の権助と共に、勝手口から屋敷を後にした。

 それを丁寧(ていねい)に見送ってから、家主はやっと全身の力を抜いて、縁側に倒れ込み、そのまま意識を失った。

 やっと熟睡(じゅくすい)ができる喜びと、悪夢からの解放感からであろう。

 その寝顔は、とても心地の良いものだったそうな。


     三


 組屋敷の多い八丁堀の深夜を小走りに、医者の住まう宅へ向かっていた。

 薬種問屋である<藤田屋>が贔屓(ひいき)で品物を(おろ)している医者が居るのだが、そこではなく、俊太郎が住んでいる長屋のある深川の海辺大工町付近にも医者の家があるのだが、そこでもなく、俊太郎が信頼を置いている医者が居る、八丁堀を選んだのだった。

 用心棒を職としている以上、大小なり怪我(けが)を負う。

 そのたびに世話になっている、医者だった。

 (ほね)()ぎ<鶴亀堂(つるかめどう)>の山峰(やまみね) 幸庵(こうあん)という白髪の初老(しょろう)の男で、幕府お(かか)えの奥医師だったが、将軍のお世継ぎである一人息子の新之助(しんのすけ)が、流行(はや)(やまい)で帰らぬ人となったのを機に、職を()して、ここで開業医をしているのだが、そんな経歴を知っている者など、そうはいない。

 (ほね)()ぎではあるが、外科、内科、心療まで (こな)していたりする。

 ともあれ、この<鶴亀堂>に着くと、表戸を必死に叩いた。

 叩きながら、大声を張り上げる。


「ごめん!! ごめん下され!! 霧島にござる!! 幸庵殿!! 急患(きゅうかん)にござる!! 開けて下され!!」


 ドンッドンッ!!

 ドンッドンッドンッ!!


「はいはい! 今、開けますので、しばらく お待ち下され!」

 心張り棒を外す様子が、表戸越しに感じられる。

 と、すぐに表戸は開かれ、蝋燭(ろうそく)の火の(とも)った手燭(てしょく)を持った、山峰 幸庵が姿を現した。

 そして俊太郎の姿を見て、目を丸くする。

「うおおッ!? これは これは、霧島殿……追い()ぎにでも()われましたか?」

「いえ、あのその、それが全身に大火傷(おおやけど)を負いまして、どうしても火が消えず、すべて()いでから、ここへ(まい)ったしだいで」

「なんとッ!?」

 蝋燭(ろうそく)の明かりで、俊太郎の体をざっと確認してみる。

「うむ。確かに、これは いかん。至急、治療に当たります(ゆえ)、ささ、中へ。

これ、お(つう)! 部屋に明かりを ()けなさい! 福太郎(ふくたろう)! 火傷(やけど)()く、塗り薬の用意を!」

「ハイッ。紫雲膏(しうんこう)で ございますね? ただちに!」

 二人の若い医者の見習いたちが、(あわ)てて薬棚や行灯(あんどん)へと走り回る。

 俊太郎は()れているようで、中へ入ると、まっすぐ部屋の奥の一角に(もう)けられた、診察台のある(たたみ)()かれた診察室に入り、木製の診察台の上に横になった。

 一方、俊太郎が中へ入って行ったので、その背後から提灯(ちょうちん)を持った権助が、ぬっと姿を現す形となった。

 彼、一人で来たものとばかり思い込んでいた為、幸庵は多少なり驚くこととなった。

 しかし悲鳴を上げず、鼓動(こどう)(はげ)しく鳴らしながら、落ち着いた口調で尋ねる。

「霧島殿の、お連れの方ですかな?」

「ええ、わたくし、江戸本町三丁目の薬種問屋<藤田屋>の使いの者で、権助と申す者で ございます」

「あー、はい、はい」

「あのお方は、うちで用心棒をした際に、大怪我(おおけが)()ったしだいで ございまして」

「ああ、そうでしたか。はい、はい」

「そういうわけですので、治療にかかるお金はすべて、こちらで持たせて頂きますので、よろしくお願いいたします」

「はいはい、わかりました。ああ、そうそう。肩代わりついでにだがね? 知っての通り、霧島殿は(はだか)だ。そちらで新しい着物、(はかま)草履(ぞうり)、それから(ふんどし)だな。買い(そろ)えて、持って来てもらいたい」

「はい。そうさせて頂きます」

「では、明朝(みょうちょう)。気をつけて、お戻りなさい?」

「はい。よろしくお願いいたします。失礼いたします」

 権助は、挨拶(あいさつ)を済ませて振り向くと、(あらた)めて、提灯(ちょうちん)の心細い明かりを あっさりと飲み込んでしまう深夜の暗闇に、ハッキリと ゾクッと体を大きく震わせた。

 そして、込み上げてくる恐怖と不安とを振り払うように、首を左右に振ってから、小走りに江戸本町へと戻って行った。

「先生、準備ができました」

「うむ」

 幸庵は、表戸を閉めて心張り棒をかけてから、俊太郎の居る診察室へ向かった。

 その部屋は普段、(へだ)たりがないので風通しも良いのだが、福太郎が木戸を取り付けて周りを囲み、小部屋にしていた。

 今居る病人と、これから来るであろう病人への配慮(はいりょ)だった。

 幸庵は、診察室へ入る前に薬棚へ向かい、いくつもある引き出しを前に、一つの引き出しを選んで開けた。

 その中にある、三角に()られて(ふく)らんでいる小さな油紙を 手に取ってから、診察室へと入る。

 そして、手に持った小さな油紙を広げながら、診察台の上で横になっている俊太郎に声をかけた。

「さっ、霧島殿? いつもの睡眠薬で ございますぞ?」

 そう言われて、(うたが)いもせずに開けた俊太郎の口の中へ、真っ白な(こな)を サラサラサラッと落としてやる。

「あとの事は我々に お(まか)せして、安心して ゆっくりと お休みくだされ?」


 俊太郎の口の中イッパイに広がる、(なつ)かしい香りと甘い味。 

 どこか遠くから子守唄が聞こえてきた気がして、俊太郎は心(おだ)やかに、赤子のようにグッスリと眠りについていた。

 寝息を立て始めた俊太郎の様子を確認してから、幸庵たち三人はじっくりと、火傷(やけど)瘡蓋(かさぶた)とに(おお)われた彼の全身を観察し始めた。

 (まばたき)きを忘れた、まん丸の目で、福太郎は尋ねる。

「先生? いつもながら、驚きを禁じえません。この方は一体、何者なのでしょうか? これほどの火傷(やけど)と傷を()えば普通、脳が死ぬことを選び、命を落とすものでございましょう? こんなの普通じゃございません」

「うむ……」

 幸庵は手術用のメスを手に取ると、焼かれてガチガチに(かた)くなった皮膚(ひふ)瘡蓋(かさぶた)とを切ってみた。

 すると驚いたことに、その下には もうすでに、新しい皮膚(ひふ)が再生されているではないか。

「いつもながら目を見張る、異常な回復の早さだ……」

「体質ですか?」

 お通の声はその顔に似合って、ほんわかとしたものがあった。

「うむ。一体、どのような環境で、生まれ育ってきたものか。あるいは、ご両親の体質が遺伝(いでん)したものか……わからぬなぁ。江戸には、様々な土地から やってくる者ばかりだが、この方 以外でまだ、これほどの回復力を持つ者を、(いま)だかつて()たことがない」

「それだけ医者を、必要としていないからでしょうね」

 福太郎からの(するど)いツッコミが入る。

「うむ、確かに」

「それにしても、あの、(くだ)いた白い飴玉(あめだま)(こな)()めただけで、眠りにつくなんて……この体質と何かしらの関係が、あるのでしょうか?」

「わからん。以前、それとなく尋ねてみたことがあるが、首を(ひね)っておったよ。本人ですら知らない事情が、あるのだろう。ともかく、おしゃべりは ここまでとしよう。メスを持ちなさい。私は、下半身を担当する。上半身は頼んだぞ?」

「ハイッ」

 そうして三人は、それぞれ手術用のメスを手にすると、作業に取り掛かった。

 俊太郎の特異体質を利用した、外科手術の体験学習といったところか。

 瘡蓋(かさぶた)とガチガチの皮膚(ひふ)にメスを入れ、切って()がす。

 さながら巨大な幼虫の脱皮(だっぴ)を、手作業で行っているかのようだった。

 (あやま)って深く切りつけてしまっても、相手は回復力が高い。

 出血をしても、すぐに瘡蓋(かさぶた)になって、(ふさ)がっていた。

 しかし、それを幸庵に見つかっては「これ!」と(しか)られ、「すいません」と(あやま)るということが、たびたび繰り返された。

 頭皮にもメスを入れて、頭部の皮膚(ひふ)()がすと、毛髪ごとズルッと()がれて、その下からは まるで、剃刀(かみそり)()ったばかりのお坊さんのような、ツルッツル

の頭皮が現れた。

 そんなこんなで俊太郎の全身がまるで、(から)()いた()で卵のようにツルツルとなると、それから全身に火傷(やけど)用の塗り薬が万遍(まんべん)なく塗られ、ガーゼのような物を (あて)がわれると、それから全身を包帯でグルグルに巻かれていた。

 さながら、エジプトのミイラのような状態となった、俊太郎。

 さすがに鼻と口だけは、呼吸ができるように()き間が作られていた為、なおも安らかな寝息が立てられていた。

 空が白み始めた頃に それらを終えて、後片付けを済ませると、「ふう」と(つか)れから()め息を()らしながら、すべての明かりを消して、奥の隣接(りんせつ)した自宅へと戻り、各自、自分の寝床(ねどこ)へと入るのだった。


     四


 俊太郎が権助を(ともな)って、八丁堀を目指して小走りに移動していた頃、自身番と北町奉行所は、蜂の巣を(つつ)いたような騒ぎとなっていた。

 そんじょそこいらの盗賊が、(とら)えられたわけではない。

 あの悪名で名高い盗賊 烏咬(うかみ)、しかもその(かしら)が生きて(つか)まったとあって、知らせを受けた 火付盗賊改をはじめとする 与力や同心たちが飛び起きて、自身番に集まっていた。

 一番奥の部屋で、取り調べが始まる。

 当然、誰も飯を食してはおらず、長丁場になることを見越して、定町廻(じようまちまわ)りの同心が、近くの小料理屋を起こして、握り飯と みそ汁を手配していた。

 自身番は、表戸を開けると土間となっており、そこに、首と一緒に首のない遺体と、急所を刺されて亡くなった二人とが、(むしろ)を掛けられて横たわっていた。


 寝ずの番も しなくてはならなくなった月番の町人、二人の男は、土間とは段差のある、囲炉裏(いろり)のある六畳(ろくじょう)ほどの居間の片隅(かたすみ)で、身を(ちぢ)めて静かに将棋を()している。

 囲炉裏(いろり)(まわ)りには、物々しい同心たちが(かこ)んでおり、冷えた体を(あたた)めているからだった。

 春の夜風は冷たく、(あたた)かな日が昇るまでには、まだ時間がある。

 自在鉤(じざいかぎ)に掛けた薬缶(やかん)のお湯で、お茶をすすって体を(あたた)めたりもして、いつでも動けるよう待機していた。

 土間はL字型になっており、その奥に木戸がある。

 その木戸の先が取り調べが行われる場所、いわゆる拷問(ごうもん)部屋だった。

 (とら)えられた盗賊 烏咬(うかみ)の連中はすでに、強制的に意識を取り戻されて、拷問(ごうもん)が行われていた。

 首を強く打たれた屈強な猛者(もさ)の男一人だけは、どうにも意識が戻らず、部屋の(すみ)に放置されている。

 残る、お(かしら)閻魔(えんま)の災蔵、頭を叩かれた屈強な猛者(もさ)の男、蔵から金を盗み出そうとしていた小柄と大柄の男たち二人、計四人に、凄惨(せいさん)拷問(ごうもん)が行われていたのである。

 その内容は、水()め、竹刀(しない)打ち、石抱(いしだき)焼印(やきいん)、更には爪と肉の間に、針や竹串(たけぐし)を差し込むといったものだった。

 普通の人間が、こんな拷問(ごうもん)に耐え切れるわけがない。

 どんなに我慢しようとも、精神も肉体も 持たないだろう。

 だがしかし、誰一人として、口を()ることはなかった。

 それどころか、悲鳴を上げたり苦悶(くもん)の表情を見せずに、ひたすらニタニタニタニタするばかり。

「いい加減に吐けぇ!!」

「いい加減にして欲しいのは、こちらの方でございます。ウミカミのオカシラ? はて? 一体、何のことで?」

「ここは、どこォ? 私はダ~レ? うけけけけッ♪」

「くっ!!」

 盗みに入る前に、神社で飲んだ秘薬の効果なのだろう。

 どんな肉体的な苦痛にも、耐え切れるようだった。


 だから俊太郎は それを見抜いた上で、気絶による自由を(うば)うべく、首や頭に集中した攻撃しかしなかったのだろう。

 役人たちは、(あせ)りと苛立(いらだ)ちから、(こぶし)を強く握り締めた。

 更に拷問(ごうもん)を強めれば、死んでしまうことになりかねない。

 それだけではない。

 夜明けと共に、こいつらは()()()()()()()()()()、死んでしまうことも知っている。

「口を()らねば、このまま朝が来る。そうなれば、おまえたちは死ぬのだぞ? 命が()しくはないのか?」

「はて、何のことで?」

「解毒剤を、持って来てやると言ってるんだ! 正直に吐け!」

「ゲドクザイ? 何ですか、それぇ?」

「くうーッ!!」

 思わず竹刀(しない)で、頭を叩きつけてしまう。

 頭皮が切れて、血が噴水(ふんすい)のようにピューッと飛び散り、顔面を赤く染めたが、それでも男たちは笑っていた。

 死など、ちっとも恐れてはいない、そんな風だった。

 役人たちは口を()らせる すべが、他には何も思い浮ばず、時間だけが無情に過ぎていくばかり。

 江戸本町三丁目、薬種問屋<藤田屋>に、事情聴取(ちょうしゅ)()けつけた同心たちも、同じ心境だった。

 縁側の前で、()れても火の消えない、()ぎ捨てられた着物と(はかま)足袋(たび)を回収した上で、奉公人たちに、何があったのか(くわ)しく聞いて回った。

 だがしかし、誰も反応は、いまいちだった。

 時刻的にも眠たくて仕方がないというのもあるだろうが、何より、あの盗賊 烏咬(うかみ)に狙われていると知っていながら、見捨てて置いて、事が済んだら のこのこと やってきた役人たちに、腹が立って仕方がないという風だった。

 しかも、

烏咬(うかみ)を退治した用心棒は、もしかすると烏咬(うかみ)の仲間だった、裏切り者だった可能性があるのです」

 だとか、

「次のお(かしら)の座を狙っての、今回の大活躍だったのかもしれません」

 などと言い出すものだから、ますます反感を買って、店の者たちは ますます口を(かた)く閉ざすのだった。

 (こま)()てて 夜空を(あお)いだところで、解決するすべは何も思い浮ばず、ここでも無情に時間が過ぎていくばかりだった。

 そんな最中の事である。

 外側から、自身番の表戸を叩く音がした。


 ドンドン!

 ドンドンドン!


「ごめんくださいまし? もし? ごめんくださいまし?」

 囲炉裏(いろり)の周りに居た同心たちが、一斉に立ち上がって自分の刀に手を掛けて、視線を心張り棒を掛けた表戸に向ける。

 もしや仲間を助けに、盗賊 烏咬(うかみ)の者たちが、ここへやって来たのか。

 そうでなくても、こんな時刻に自身番に来訪者など、そうそうない。

 奉行所の誰かなのだろうか。

 同心たちは不意に顔を見合わせ、誰も心当たりがないという風に、首を横に振っていた。

 同心の一人が顔を動かして、月番の町人に、心張(しんば)(ぼう)(はず)して表戸を開けるよう、指示を出す。

 月番の町人は青ざめた顔で、おっかな びっくり、一人が心張(しんば)(ぼう)(はず)して、もう一人は表戸をゆっくりと開けた。

 その背後では、腕に自信のある草履(ぞうり)()いた同心が、表戸の()き間から飛び掛かってきた場合を見()えて、鯉口(こいくち)を切って(かま)えていた。

 月番の町人が(おび)えた様子で、やってきた者へ声をかける。

「こ、こ、こん、こんな夜分に、どっどっどちらさまで ございましょう?」

「へい、ご迷惑は承知でございます。あたくし、豆腐屋の伝七(でんしち)と申す者でございまして」

「……豆腐屋?」

 豆腐屋と聞いて、ますます同心たちは、その男を(いぶか)しがった。

「豆腐屋が こんな時分に、豆腐売りを?」

「いえいえ、とんでも ございません。吟味方筆頭(ぎんみがたひっとう)与力、貴鼓(きつづみ) 綾之新(あやのしん)さまより、ここへ来て“ちから”を貸すようにと、こうお願いされましたものですから、大急ぎ、()け足で(まい)ったしだいで ございまして」


吟味方筆頭(ぎんみがたひっとう)与力さまが? ここへ来るようにと?」

「湯豆腐でも、馳走(ちそう)してくれるのか?」

 誰かが発した冗談に場がなごみ、同心たちは刀から手を放して、その場にまた座り出していた。

 場の緊張を(やわ)らげる為の出しに使われて、伝七は少し気を悪くしたが、おくびにも出さない。

 変わらない表情と口調とで、話を続ける。

「どなたか、話の(わか)る お方は、()られませんか? あたくしが不必要とあらば、ただちに帰らせていただきますが?」

 同心たちは、また顔を見合わせた。

 役職はどうであれ、与力とあれば、自分たちにとっては、上司という立場に(ほか)ならない。

 しかも、筆頭(ひっとう)である。

 このまま帰しては、多少なり軋轢(あつれき)(しょう)じかねないだろう。

「ちょっと待っていろ? 尋ねてきてやろう」

 まだ(うたが)いが晴れないのか、伝七を自身番の中に入れてやらずに 外で待たせたままで、同心の一人が奥の木戸を開けて取調室に入ると、中に居た与力の一人に声をかけた。

 これこれこういうわけでと、小声で事情を話すと、その与力は眉間(みけん)(しわ)を寄せて、不愉快そうにその名を口にする。

「豆腐屋の伝七だとォ?」

 続けて「知らん。今すぐ追い返せ」とでも怒鳴るように言い出しそうな、不機嫌な顔だった。

 だがその名を耳にして、パアッと目を輝かせる、一人の与力が居た。

神通力(じんつうりき)の伝七だ! 来ているのか? ただちに! ただちに ここへ、連れて来なさい!」

 そろそろ定年を(むか)えそうな、老いた与力で、知らせに来た同心に早口で指示を出していた。

 (あわ)てて立ち去る同心に目もくれず、何も知らない与力が、疑念(ぎねん)(まな)差しで尋ねる。

「なんですか、その『神通力(じんつうりき)の伝七』というのは?」

「不思議な“ちから”でな? これまで、数々の難事件を解決へと(みちび)いてきた、優秀な男だよ」

「はあ……」

「そう、とても優秀なのだが、貴鼓殿のみに(つか)える気難(きむずか)しい性格の岡っ引きでなぁ……そうか! 今は、娘婿(むすめむこ)(つか)えていて、彼をここへ(つか)わせてくれたか! ありがたい。おい、皆の者? これですべて、解決するぞ?」

「はあ……」

 誰もその言葉を、鵜呑(うの)みにすることはできなかった。

 まず「うさんくさい」、それから「そんな話、父や周りの者たちから、一度も聞いたことがない」、「何かカラクリが あるのだろう」といった具合だった。

 木戸が開いて、同心に連れられて、伝七が入って来た。

 いかにも物売りといった風情(ふぜい)で、物腰の低い猫背の小柄な男だった。

 周りをキョロキョロしながら、「へい、どうも。どうも。へい、どうも」と小声で何度も呟いており、「敵意はありません。(あらそ)い事は勘弁(かんべん)してください」を(うった)えているかのようだった。

 年齢(とし)は、二十代後半か、三十代前半といったところか。

 気の弱い、おどおどした男。

 地獄の拷問(ごうもん)部屋と化した、その部屋に入って来たのだから、その反応は当然といえば当然だろう。

 伝七の応対には、彼をよく知っているらしい、老いた与力が当たった。

「おおっ! あなたが、『神通力(じんつうりき)の伝七』殿で あられますか?]

「やめてくだせぇ。あっしが売りにしているのは、あくまでも豆腐でごぜぇやす」

「わかった、わかった。ともかく、やってくれるか? 時間がないのだ。そこに居る烏咬(うかみ)(かしら)から、すべてを聞き出してもらいたい」

「へい、わかりやした。しかし、(しば)られているとはいえ、()みつかれたら(たま)ったものじゃあ ございやせん。(さる)ぐつわを お願いしやす」

 道具で口を閉ざしてしまって、それでどうやって、口を()らせようというのか。

 周りの与力たちは小馬鹿にして、忍び笑いをする。

 真面目に事に当たったのは、老いた与力だけだった。

「これで、よいか? それで、どうする?」

「へい。“み”ます」

「見る? 見る……それは一体、何を?」

「記憶でございます」

 あまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず「ぷっ!」と吹き出す与力たちが数人。

 (かま)わず伝七は、正座をさせられている盗賊 烏咬(うかみ)のお(かしら)閻魔(えんま)の災蔵の目の前にしゃがむと、()き手とは逆の左手を広げて、相手の顔に近づけた。

「お(かしら)さん? どんなにボケた振りをなさっても、(たと)え薬や事故よって、本当に記憶を失っていたとしても、無駄でござんすよ。あっしにはすべて、お見通しで。包み隠さず、すべて“()”させていただきやす」

 そうして顔を(おお)うように左手が()れた途端(とたん)閻魔(えんま)の災蔵は目を大きく見開いて、口が(さる)ぐつわで(ふさ)がれているのも(かま)わずに、絶叫(ぜっきょう)を上げていた。


 ……それから、数時間後のこと。

 北町奉行所では、火付盗賊改方長官の青山(あおやま) 播磨(はりま)たち与力と、配下である同心たち、()り手たちは、広げられた江戸の町の地図をもとに、入念に計画と注意とが話し合われた上で、物々しく武装し、十六もの小隊に()かれて、まだ目覚めない江戸の町を、四方八方に目的地に向かって走って行った。

 そうして東の空が白み始めた頃、一番鶏(いちばんどり)ならぬ ()がらすが 鳴きながら頭上を飛び去って行く中、武装した役人たちは物陰に身を(ひそ)めて、視線の先にある建物を(にら)みつけながら、じっと合図を待っていた。

 血気盛(けっきさか)んなのか、よほどの(うら)みがあるのか、やたらとソワソワする者が居て、そのたびに肩を掴まれては、何度も気を落ち着かされている。

 合図は まだか。合図は まだなのか。合図は いつなんだ。

 伝達係が、奉行所のある方角の空を、ひたすらに注視(ちゅうし)している。

 まさか、この()(およ)んで、中止になったわけではあるまい。

 僅かばかりの不安がよぎり始めた、その時だった。

 一筋(ひとすじ)の光が尾を引いて、まだ星の見える空へと(のぼ)ると、音もなく一輪(いちりん)の真っ白な花を咲かせた。

 間違いない、奉行所からの合図だ。

 伝達係から与力へそれが伝えられると、(うなず)き、軍配(ぐんばい)を力強く建物へ向けた。

 するとそれを合図に、配下たちは雄叫(おたけ)びを上げて、一斉に突撃を開始する。

 表戸や雨戸、裏戸を蹴破(けやぶ)り、大声で叫ぶ。

「火付盗賊改方である!! 盗賊 烏咬(うかみ)その一味、観念してお(なわ)につけぇ!! 抵抗(ていこう)すれば、容赦(ようしゃ)はせんぞォ!!」

「御用だ! 御用だ!」

「神妙にしろォい!」

 すっかり安心して熟睡していた老若男女たちは、突然に現れた役人たちに、寝耳に水だった。

 逃げようとしても、逃げ遅れ。

 混乱の最中、無事に逃げられたとしても、抜け道の出口を待ち()せされて、あっけなく捕縛(ほばく)される。

 抵抗(ていこう)しようにも、武器を持って寝てはいなかった為、容赦(ようしゃ)なく十手(じって)や刀の(みね)の部分で打ち()えられて、ここでも あっさりと捕縛(ほばく)される始末。

 というのも隠れ家の周りには、大小なりの(わな)が張り(めぐ)らされており、敷地内に不審者が入り込めば、屋内に居る者たちが、ただちに それを知ることとなる。

 それだけではない。

 その不審者に、多少なりの負傷(ふしょう)()わせる(わな)でもあった。

 そういった内容の仕掛けであるから、安心していたというのに、(わな)は一つとして作動しなかったのである。

 すでに突撃の前に、すべて(ひそ)かに解除されていたのだ。

 その(わな)の、場所と種類と解除(かいじょ)方法を知っている、役人たちによって。

「父上の(かたき)ぃーーーーッ!!!」

「兄上の(かたき)ぃーーーーッ!!!」

 などと(さけ)んで、何とか武器を手にした盗賊 烏咬(うかみ)の者を、(にく)しみを持って叩き()せる役人が 数人いたとか、いないとか。

 盗賊 烏咬(うかみ)の隠れ家は、掘っ建て小屋から商家(しょうか)の店、まさかの武家屋敷や長屋一帯(いったい)という、まったくもって様々な見た目を()していた。

 役人たちは、部屋で寝ていた者たちのみならず、行き止まりに見える壁の向こうや、(たたみ)の下の隠し部屋、屋根裏に居た者たちさえも残らずに(つか)まえた。

 その中には、お(かしら)閻魔(えんま)の災蔵らと共に薬種問屋の屋敷を(おそ)ったものの、仲間たちの敗北っぷりを見て、逃げ帰ってきた二人の男たちの姿もあった。

 (つか)まった仲間を助けに行かなかったのが()やまれる、そんな表情だった。

 そして、(つか)まったうちの誰が口を()ったのか、怒りとも疑念(ぎねん)ともつかない、そんな表情を浮かべているようでもあった。

 人体実験や、秘薬の開発を(おこな)っていた隠れ家も押さえられ、そこにあった研究の資料やら薬物やらを残らず押収(おうしゅう)されていた。

 その中には毒薬や毒針、火遁玉(かとんだま)(しび)れ玉などの他に、火付盗賊改方たちがもっとも(にく)むべき物、閻魔(えんま)の災蔵が(ふところ)に入れて使わずにいた、色んな薬を()ぜ合わせて強化された、麻薬玉(まやくだま)が数個あった。

 あとで(わか)ったことだが、この玉を破裂させると煙幕(えんまく)が出て、多少なりの視界や呼吸を(うば)うだけでなく、幻覚・幻聴を見せるという。

 それも、()ったように足下が覚束(おぼつか)なくなった上で、目についた者が、おぞましい化け物に見えてしまという、とんでもない物だった。

 これがもし、免疫(めんえき)のない役人たちが吸い込んでしまったとしたら、同士()ちなど不可避(ふかひ)であろう。

 ――まさか?

 この事実は、一部の者だけが知るだけで、下の者たちには決して伝えられず、内々(ないない)()せられた。


 ともあれ、こうして東の空が明るくなって太陽が(のぼ)った頃、江戸市中が目覚めた頃には もうすでに、事は終わっていた。

 自身番では、自分たちが飲んだ秘薬の効果で、更に遺体が五つ増えていた。

 土間に(なら)べられて、(むしろ)が掛けられ、放置されている。

 それらに気にも()めない様子で、囲炉裏(いろり)(まわ)りには夜明け前から、豆腐屋の伝七と 人相書(にんそうがき)の得意な同心、老いた与力とが(かこ)っていた。

 人相書(にんそうがき)の得意な同心は、幼い頃から絵心があったと見えて、伝七が話す顔の特徴(とくちょう)を、うまく描き切ることができていた。

 山のように()まれた人相書(にんそうがき)には、一枚一枚、その顔をした人物の名前と罪状(ざいじょう)とが、細かく書かれてある。

 それを三個に分けて、それぞれを丁寧(ていねい)に風呂敷に包んでいる同心のその前で、伝七は(ふところ)から()(たた)まれた油紙を取り出して、中の丸薬(がんやく)を口の中へ入れて()(くだ)いては、湯呑(ゆの)みの中の白湯(さゆ)をゴクゴクと飲んでいた。

 どうやら頭が痛むらしい。

頭痛(ずつう)かね? “ちから”を使うと、よく?」

「へい……まあ、今回のように一人以上、長く使いますってぇと、へぇ……」

「では私は、これを届けに戻りますので?」

「うむ。道中、気をつけてな?」

 同心は老いた与力に頭を下げてから、三個の風呂敷包みを 背負ったり両脇に(かか)えるなどして持ち、表戸を足で開け閉めして自身番を立ち去った。

 自身番の中は、伝七と 老いた与力の二人だけになった。

「月番は用事があると行ったっきり、戻っては来ぬなぁ」

(あきな)いとは、そういうものでござんす。あっしもそろそろ、帰ろうかと思います」

「まあ、待ちなさい。もうしばらく、もうしばらく……この年寄りの話し相手になってくだされ?」

「……へぇ、では、将棋でも()しましょうか?」

「いや、頭が痛むのだろう? それは、また今度といたそう」

「…………」

「今の貴鼓(きつづみ)殿に、(つか)えているそうだが?」

「へい……」

「前の貴鼓(きつづみ)殿が亡くなって、どれくらいになる?」

「さあ……忘れてしまいました」

「そうか……娘婿(むすめむこ)貴鼓(きつづみ)殿は、優秀かね?」

「それはもう……あのお方と同様に、良いお方でございます」

「そうか……うんうん……それは よかった。あ、そうそう。握り飯とみそ汁が残っているそうだ。どうせ、もう誰も食べまい。(あたた)め直して、おじやにして食べてしまおう。おじやは好きかね?」

「嫌いでは ございません」

「それは よかった」

 自在鉤(じざいかぎ)に掛けられた薬缶(やかん)を外して、みそ汁の入った(なべ)を掛け、(あま)っていた四個の握り飯を その中に(しず)めた。

 そして杓子(しゃくし)で、握り飯の形を(くず)しながら()()ぜている老いた与力の姿を伝七は、些細(ささい)な おかずとして握り飯に()えてあった沢庵(たくあん)をポリポリと食べながら、観察するように見ていた。

 遠い昔に会ったことがあるような気がした、この男に……。

 もう一枚の沢庵(たくあん)に手を伸ばした時、伝七は さりげなく尋ねてみた。

「ご無礼(ぶれい)かとは存じますが、お名前を お(うかが)いしても よろしいですか?」

「うむ、(かま)わぬよ。猪熊(いのくま) 忠兵衛(ちゅうべえ)と申す」

 伝七は特に反応を(しめ)さず、沢庵(たくあん)を口に(くわ)えて、()んだ。


 カリポリ……。


 ぐつぐつと()えた、(なべ)の中の おじや。

 忠兵衛はそれを杓子(しゃくし)(すく)って、みそ汁を入れるはずのお(わん)の中へ(そそ)ぐと、()(ばし)()せて、湯気の立った熱々のそれを伝七に差し出した。

「さっ、熱いぞ。(した)火傷(やけど)せぬよう、気をつけて食べなされ?」

 すると伝七の目が、大きく見開いた。

 遠く遠く置いてきた(おさな)き日の記憶が、頭の中にワッと浮かび上がる。

 頭がズキンと痛んで、(たま)らず目を閉じて、頭を横へ払う仕草をしてしまう。

「大丈夫かね? どうした? 医者でも呼ぶか?」

「いえいえいえいえいえ、ご心配無用でございます。へえ、ありがたく頂戴(ちょうだい)いたします」


 伝七は、ますます青ざめた顔色で、それでいて笑顔で、お(わん)を両手で受け取った。

 親に捨てられ、乞食(こじき)として その日暮らしをしていた、あの頃。

 バタバタと死んでいく、自分と同じ境遇(きょうぐう)(ほか)の子供の遺体を見るたび、「こうなってたまるか!」「自分も こうやって、死んでいくのだろうか?」「誰か助けてくれ!!」と涙の()れた顔では泣けず、心の中で泣き(さけ)んでいた、あの地獄のような日々。

 そんな自分たちに、ある日から自腹で()き出しをしてくれた上に、奉公先を探してもくれた役人が、たった二人だけ居た。

(そうか……そうだったのか。貴鼓(きつづみ)さまと一緒に居た、あの……もう一人の……)

 伝七は、おじやを食べながら、たびたびスウッと目を閉じた。

 とても味わっているようで、実はそうではなく、思い出したくない(おさな)い頃の記憶を、また遠くへ遠くへと追いやる為、封じ込める為の自己暗示のような行為だった。

 過去があるから、今を歩けている者が居る。

 しかしその一方で、過去を忘れることで、今を歩ける者もまた居るのだ。

 伝七のように。


 ドンドン!


 不意に自身番の表戸を、誰かが叩く音がした。

「開いていますよ? お入りなさい」

 老いた与力、忠兵衛の声に(こた)えて、表戸が開いた。

 現れたのは、若い与力だった。

 取調室で、伝七の事を知らず「追い払うように」と指示しようとした、あの与力である。

 (けわ)しい表情で一言、

「今し方、盗賊 烏咬(うかみ)は、壊滅(かいめつ)した」

「……そうか。良い知らせだ」

「では、あっしはもう必要ありやせんね? (あきな)いが ありますんで、これで失礼いたしやす」

 お(わん)(はし)を置いて、そそくさと立ち去ろうとする伝七を、若い与力は呼び止めた。

 そして(ふところ)から、丁寧(ていねい)に和紙に包まれた、()円形の円柱の(かたまり)を差し出す。

「おい! ……そら、受け取れ。今回の報酬(ほうしゅう)だ」

「いりません」

「何を言う? これは菓子ではない、大金だぞ? 豆腐を十年、売り歩いても(かせ)げない金額だ。実は、今回の一件でな? 上の方たちは大層(たいそう)、おまえを()めちぎっておってな? おまえのお陰で、もう二度と烏咬(うかみ)による被害者が出なくなったのだ。江戸の町を救ったのだ。なあ? 格好をつけるな。何を強がる必要がある? 遠慮(えんりょ)はいらない。ほれ? 胸を()って、ほれ?もらっておけ。ほれ、ほれ?」

「勘違いをなさってもらっては、(こま)ります」

「なんだと?」

「あっしの協力は、これが最後だと思ってくだせぇ。次は、ありやせん。感謝したいのであれば、貴鼓(きつづみ)さまにしてやってくださいまし? あっしは、あの お方に頭を下げられて、(いた)し方なく ここへ来ただけの話で ございましてね、ええ。ポンと出せるその大金は、(まず)しくて(こま)っている町人たちの為に使ってくださいまし。では、あっしはこれで。失礼いたしやす。ごめんなすって。」

 表戸の前を(ふさ)ぐようにして立っている若い与力に、体のどこにも()れないよう、まるでヘビのように スルリと器用に外へ出て、一度も振り返らずにスタスタと早足で 去って行ってしまった。

 若い与力は、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「何なんだ、あの態度は? ……調子に乗りやがって。(つか)まえたのは、俺たちだぞ? いけすかない野郎だ」

「……」

「で、どうします、これ? 中身ぃ、小判(こばん)ですよ? 二人で山()けしちゃいますか?」

「どうするも何も、伝七の言葉を()えて、返して来なさい」

「まあ、まあ。そう(かた)い事は、言いっこなしで。実の所、借金(しゃっきん)があるんですよォ。しかも今月、色々と()り用で。そういった事情ですから、ここは一つ? 山()けといたしましょう? だ~れも見ちゃいませんし、ねっ? ねっ? そういたしましょう。そういたしましょう」

「私が見ておるよ」


「!?」

「おまえさんの事情は、よくわかる。だがそれは、おまえさんの為に用意された金ではないのだ。返して来なさい。伝七の言葉を()えてな?」

(こんのクソジジィ!!)

 若い与力は、(うつむ)いて奥歯を()()めて、込み上げてくる怒りを押さえ込む。

 それから大きく(うなず)くと、(きびす)を返し、表戸を(いきお)いよく閉めて去って行った。

 忠兵衛は、それをまったく気にも()めない様子で、お茶をすすって(つぶや)く。

「うん、うまい」

 こうしてまた、それぞれの長い長い一日が始まった。

            <第一章 終>

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