見ざる言わざる
1 婆にまみれて
私が幼稚園児の頃の話だ。
父方の祖母の具合が悪くなったということで、私は家族と共に父の故郷である福島県相馬市に行ったのだった。
父の実家は東京の私たちが住む一軒家とは全く違った田舎の屋敷で、中に入ると何十人もの人たちがドヤドヤと出迎えてくれた。
父は9人兄弟の末っ子だったから、1番上の長男とは20歳以上も年が離れていたらしく、その兄はもちろんのこと、他の兄や姉、私からしたら叔父や叔母にあたる彼らは既に高齢だった。
しかも私は、父が40才を過ぎてから生まれた3人兄弟の末っ子であったから、叔父や叔母どころか従兄弟さえもが高齢に見えていて、どの人が祖父や祖母であってもおかしくはないといった感じがした。
屋敷ではいつも爺たちが集まって広い和室で酒盛りをしていて、これまた広い台所では割烹着を着た何人もの婆達が忙しそうに立ち働いていた。
初めて会った祖母はそんな彼らより更に年老いて見え、布団の中でいつも眠っていて、会話を交わすこともなかった。
2、3日すると、家族が東京に帰ることになり、私も当然一緒に帰るものと思っていたが、あろうことか私だけ何故か残ることになった。
兄や姉には学校があるが、私は幼稚園なので休んでも支障がないということで、「なんならずっとここにいなさいよ」と田舎の婆達が揃って提案してくれたのだった。
婆達は親戚の中で誰よりも小さい私をよく可愛がってくれ、とても親切だった。
屋敷に住む従兄弟の子供の康夫と私はちょうど同じ年だったが、男の子ということもあるのか、毎日見慣れた存在だということもあるのか、いつも私だけをお姫様のようにチヤホヤとしてくれた。
そういうわけで私だけが1ヵ月以上も福島の田舎にそのまま残ることとなった。
田舎での日々は退屈するということが一切なかった。
屋敷は広く、大婆の不調もまだ続いていたので家に来客、滞在する人は絶えなかったから、常に人がたくさんいた。
康夫が村の友達を紹介してくれて、いつも皆で外に出ていろんな遊びをした。
川もあったし、海もあったし、畑もあった。
虫を捕ったり、花を摘んだり、ビニールハウスでイチゴを食べたいだけ採って食べたりした。
たまに、康夫と揉めた時、たいして悲しいわけでもないのにビービーと大げさに泣くと、婆達が駆け寄って来て一斉に康夫を責めるので、そういう時の康夫は毎回しょんぼりとしていた。
康夫が、「さっきはごめんね。」といつも誠実に謝ってくれるので、私はその度にあんなに大げさに泣かなければ良かったなと反省するのだけれど、数日経つとすぐ忘れてまた繰り返したりした。
婆達は迫力があった。
日が経つにつれ、私も少しずつ、婆達の人数と名前を把握できるようになった。
としバア、ひでバア、やすバア、よっちゃん、まさよ。。。
いろんな婆がいたが、よく見ると小柄だったり、太っていたり、怒りっぽかったり、冗談ばかり言っていたり、見分けがつくようになってきた。
そんななかで1人、決して喋らない婆がいた。
いつも控えめに微笑みながら婆達の中にまみれているその婆の名前を私は結局、今でもわからない。
でも、忙しそうな婆達の台所に必ず彼女はいつもいて、いつも温かいまなざしで私や康夫を見つめていた。
幼いながらに、ちらっといろいろなことを私は思った。
もしかしたらとても気の弱い婆で滅多に喋ったりしない人なのかもしれない。
もしくは目が見えないとか耳が聞こえない人がいるように、口がきけない人なのかもしれない。
そんなことを思って勝手に納得していた。
今思うと、勝手に納得などせずに、誰かにそれを追求すれば良かったのではと思うこともある。
それは、ある晩のことだった。
夜中に1人で目を覚ましてしまい、喉が渇いた私は暗がりの中を心細く歩きながら台所に向かった。
家族から何日も離れ、1人で遠い田舎に滞在し、昼間は楽しくてちっとも心細くもなかったが、こんなふうに夜に突然目覚めてしまうと急に心が不安になる。
長い廊下を歩きながら台所に向かっているうちに寂しさや怖さが入り混じって、台所に着いた時には私は声を抑えるように泣きじゃくっていた。
こんな真夜中にワンワンと大声で泣いてしまったら、たちまち屋敷中の親戚が目を覚ますだろう。
まだ会話さえしたことのない怖そうな顔をした爺達もたくさんいたので、彼らを目覚めさせて怒らせてしまったらと思うと、暗がりも恐怖だが、それもまた恐怖だった。
走り込むように台所に駆け込み電気をつけると、そこにはあの喋らない婆がいた。
電気がついた途端、そこに佇んでいたので思わずヒャっと言ってしまった。
ビックリして心臓がバクバクしたが、婆の目はいつもと変わらずとても優しくて、私の心はすぐに安心を取り戻した。
婆は、私をそっと抱きしめて、頭を撫でながら、
「大丈夫だよ。怖いことなんて何もないよ。大丈夫だよ。」
というようなことを言ってくれた。
婆達はいつも福島の方言で話すので、実際は何を言っているのかハッキリとは聞き取れない。
その時も、あの婆がなんと言いながら私を撫でてくれたのか、方言も聞き取れなかったし、記憶もあいまいだ。
でも、とにかくとても優しかったし、心から安心したのを憶えている。
「この婆、喋れるんだ。。」
と私はひそかに思った。 すると婆がくすっと笑って、
「喋れるよ~。」
と言ったので驚いた。 この婆には何でもお見通しなのだなという安心感が高まった。
冷たい麦茶を飲みながら、婆と少し話をした。
何を話したのか全ては覚えていないけれど、
「康夫と仲良くしてやってね。康夫はアカネちゃんがとっても大好きなんだからね。」
と言われた。
その時、私は、この婆だけは見抜いているのだということがわかって恥ずかしくなってしまった。
この婆だけは、私が大げさに泣いているということがお見通しだったのだ。
「康夫は本当に優しい子だからね。アカネちゃんも本当はよくわかってるでしょ。」
というようなことも方言まじりに言われた。
あんなに大勢の婆達が私の味方だったのに、この婆は侮れないと私は思った。
するとまた婆はニヤニヤしながら私を撫でて、
「アカネちゃんは可愛いね~。可愛くて可愛くてたまらんわ~。」
と言った。
婆はとても温かい目でいつも私を見つめるので、その言葉が本心からだということが充分伝わってきた。
婆は布団まで一緒に歩いて私を送り届けてくれたから、戻る時は全然怖くなかった。
手もしっかりと握ってくれたし、その手はとても温かかった。
廊下でひそひそ話をしながら婆は、明日、婆は帰るんだよ、と教えてくれた。
たくさんの爺や婆がいるこの屋敷で、私は誰がこの屋敷の住人なのか、誰が来客なのかもはや全くわかっていない状態だった。
この婆はてっきりこの屋敷の住人の婆なのかと思っていたから、ちょっと驚いて、
「え、帰っちゃうの? だって大婆、まだ具合悪いままだよ。今度はいつ戻るの?」
と聞いた。
私の家族も仕事や学校の休みが揃った日に、またすぐ大婆の見舞いに戻ると言っていた。
すると婆は、
「戻らんよ。大婆も一緒に行くよ。大婆ももう戻らん。婆は大婆を迎えに来たんだよ。」
と言った。
私は訳がわからなかったが、もしかしたら大婆は婆の家に移動するのかもしれない。
大人の事情はいつもよくわからないから、深く考えることはしなかったし、なにより眠かったので、布団に着くなりお礼も言わずに眠りこけてしまった。
朝、寝坊して目を覚ますと屋敷中が忙しそうにざわついていた。
普段からにぎわっている屋敷だったが、この日ばかりは様子が違っていた。
寝坊した私に朝ごはんを出してくれる気配などなく、ポツンと座敷でどうしたものかと佇んでいると康夫が駆け寄ってきて、
「大婆が死んでしまった。急いで大婆の部屋に行こう。」
と言った。
部屋に駆けつけると、もう部屋は人で溢れていて、私などは入り口にも立てないほどだった。
行列に並ぶような格好で廊下に立ちながら、大婆の最後の場を共にした。
その日から屋敷は以前と比べようがないほどに忙しくなった。
しばらくぶりの父や母、兄、姉はもちろんのこと、親戚という親戚全てが大集結したのだった。
葬儀屋やお坊さん、お花屋さん、いろいろな業者さんも来て、皆とても忙しそうだった。
父はあと2、3日でこちらに戻る予定だったのに、と残念そうに話していた。
「でもその頃にはここに住んでない婆のところに行っちゃう予定だったみたいだよ。」
というようなことを説明してみたのだが、皆なんだかよくわからないといった表情をしていたので、私もこれ以上その会話を続けようとは思わなかった。
その後、葬儀があり、何日かして落ち着いてから、私は長らく滞在した福島を家族と共に後にした。
またすぐ遊びに行くね!と康夫と固く約束して別れたのだけれど、あれから40才を過ぎた今も康夫とは1度も会っていない。
約束はちゃんと覚えていたのだけど、家族で引っ越しなどしているうちに、なかなか実現できずにいた。
中学受験をする前に必ず約束は果たしたいと思い、叔母に頼んで福島に連れて行ってもらうことになったのだが、上野に行く電車の中でお腹を壊してしまい、途中下車して引き返し、無念にも行けなかった。
頼まれた叔母と嫌々ながら付き添いを承知した姉だけが新幹線に乗って福島に行ってしまい、残されたその年の夏休みは本当に切なかった。
その機会を逃したのを最後に、中学、高校と忙しくしているうちにもう、田舎のことは忘れていた。
そして2011年3月、東日本大震災による津波で田舎の屋敷はすっかり流されてしまった。
いつかまた行けるだろうと思っていたあの田舎に行ける日は2度とない。
あの屋敷も、いちごのビニールハウスも周辺一帯が全て流されてしまったという。
田舎のことを思い出す時、私はふと、あの婆のことを必ず思い出す。
大婆の死んだ日の喧騒の中でハッキリとは覚えていないけれど、あの婆も姿を消していた気がする。
田舎から帰ったばかりの頃は、親にあの婆のことを何度も聞いたことがある。
ひで婆のことじゃない?とかよっちゃんのことじゃない?とかいろいろ言われると、婆が多すぎて私もどの婆なのかもうわからないし、結局わからずじまいだった。
それになにより、その後の私の人生で私は身をもって学んだことがある。
それは、「見ざる言わざる。。」
厳密には「見ざる」でいられたらどんなに良いか、と何度思ったことかしれない。
だから、「見ざる」ではなく、残念ながら、見えてしまっている。
でも、「言わざる」の信念は貫いて生きてきた。
というのは言ったところでロクなことにはならないと、長年の経験でわかったからだ。
見ざる、言わざるの精神で、見ないように、言わないようにしてここまで生きてきた。
そんな私の信念の出発点がここ、福島にあったのかもしれない。