プロローグ
二つの影が薄暗い廃墟の中を突き進んでいた。一つの足取りは荒々しく、その心に激しい怒りが満ちているのは誰の目にも明らかだった。もう一つの影は静かにその後を追う。
前者はパトリシア・メルトワール。この国メルトガリア王国の第十位王位継承権保有者。
後者はレイチェル・ウィンドラン。隣国アインツリュートからの留学生にしてパトリシアの親友だ。
二人はパトリシア直轄の騎士を引き連れ、打ち捨てられた遺跡に蔓延った違法ギルドの討伐に来ていた。この討伐は、低位とは言え王位継承権を持つ者としての義務感に留まらず、そのギルドが行っている非道に目を瞑ることが出来なくなったからだ。長い歴史が有るとはいえ、否、長い歴史が有るからこそこの手の違法ギルドはある種の必要悪で有ることは理解している。どれだけ民の為に腐心しても、表が有れば裏が有り、王家の手が届かない貧困層には、裏の秩序を保つ者も必要なのだ。しかし、この遺跡を根城にした賊共には、そんな悪の矜持の欠片も無かった。魔法学的な調査を終え監視が無くなっていたとはいえ、自身の領内に在る遺跡がそんな賊に使われている事が、気高いパトリシアの心を荒ぶらせていた。
所々に掛けられた松明と自身の持つ輝鉱石ランプの明かりが少女達の姿を照らし出す。黄金の如き長髪と怒りを宿し煌めく強い意志を感じさせる双眸。その女性的で在りながら神々しい、太陽を思わせる王女の後に付き従う氷を擬人化したような冷たくも美しい少女。二人の服装が魔法学院の制服で無ければ、この様子は宛ら戦乙女を描いた神話画の一枚と錯覚する事だろう。
一心不乱に遺跡の心臓部である儀式の間を目指す彼女を、遺跡に着いてから何度目かの奇襲が襲った。ある者は拙い魔術で作った剣で切り掛かり、またある者は我が身を顧みない魔導で特攻を仕掛けてくる。その殆どは人種も性別も異なる、パトリシアより幼い子供らだ。咄嗟に反撃しそうになる親友を目で制し、安定した数字を起点に面を作り、そこに断絶の意味を重ね、数秘術の魔術障壁を展開する。衝突音が止み埃が晴れた時、無傷のパトリシアとレイチェルが立っていた。
「私は君達を保護しに来た王国の者だ!君達は不当な扱いを受けている奴隷で有る事は理解している。いま引けば一切の罪は特赦し、新たな……正規の扱いを行う主人の元へ預けると約束しよう!!」
そう、この国では王政の下に奴隷が公認されている。本来は凶作で発生した飢饉やや戦乱に巻き込まれて間引かれる幼子の命を守る為の制度であり、騎士や貴族、領主や大商人が労働を課す代わりに衣食住を提供し、成人を迎えた時に市民権を復権させる物だ。パトリシア自身や同行した騎士達も家事手伝いなどで多数の奴隷を抱えている。むしろ富裕層は積極的に奴隷を買い、亡くす必要の無い命を守ることが美徳でさえある。無論、奴隷の売買には厳しい審査があり、薬物・暗示・洗脳・暴力といった非人道的な行いは厳罰を以て対処している。認可を受けず奴隷売買を手掛ける違法ギルドも存在するが、大半は異国の出身者で認可が下りなかったり、王国への上納金を収めるのを嫌がってのことだ。奴隷を買った主人が管理局へ届け出る際、親から直接買ったことにして誤魔化しているのは公然の秘密だ。それで助かる命が有るならと、パトリシアはその手の組織には「やりすぎるな」と定期的に釘を刺すだけで留めている。
しかし、この組織は明らかに違っていた。この場に辿り着くまでも何度も奴隷の襲撃を退けたが、千差万別の容姿をした子供らは唯一恐怖と絶望に染まった瞳だけが共通していた。そして、暗く閉ざされた彼らの心に言葉は通用しない。パトリシアの言葉を聞いてなお、子供らは魔法の行使を止めることは無かった。
「パティ、辛いなら私がやるよ」
「いいえ、レイチェル。これは私の義務と責任よ」
親友の優しさを断り、障壁はそのままに意識を切り落とす魔術を行使する。今までの子供らがそうで有ったように、防御のすべを教えられていない彼らは一瞬の内に昏倒した。そんな彼らが床に打ち付けられる前に、氷で出来たレイチェルの魔道人形が優しく抱き止める。一人一人の傷の看て命に別状が無い事を確認するとパトリシアは口を開いた。
「レイチェル。この子たちをお願いして良い?」
「良いよ。入口の騎士に引き渡しておく。でも、パティはどうするの?襲われるたびにこうして奴隷たちを運んでるけど、もう私以外の人は居ないよ」
「大丈夫よ。儀式の間は直ぐそこだし、もう人を待機させておける場所も無いから」
「……なるべく早く戻ってくるから、絶対に無理しないでね。まっ、貴女の『断絶』を超えて傷を付けられるような腕利きはそう居ないと思うけど」
信頼とも軽口とも取れる言葉を残しレイチェルは魔道人形を引き連れて来た道を戻っていった。
「無理するな……か。それこそ無理な相談ね」
レイチェルが十分離れてから、パトリシアは独り言ちた。レイチェルの言う通り、奴隷を無力化するたびに同行していた騎士たちに同じ事を命じて来た。そして本来居ない筈の、余剰人員とも言えるレイチェルさえも送り出さなくてはならない程、違法な奴隷に襲撃を受けた。
「私の領内で、ここまで私を虚仮にしてくれたんだから。相応の覚悟が有るんでしょうね」
先程まで滲ませていた怒気を抑えることなく、パトリシアは儀式の間の方角を睨み付ける。例え何十人の魔法使いが待ち構えていようとも、引き下がる気は更々無かった。
パトリシアの想定通り、靴音を鳴り響かせながら進もうとも襲撃を受けることは無かった。儀式の間の前に着くと、耳を澄ませて一応中の様子を窺う。あまりにも静かなため待ち伏せかとも思ったが、元より真正面から叩き潰すつもりの彼女は儀式の間の豪奢な扉を力強く押した。遥か神代に創られたその豪奢な扉は金属の軋む音を立てながらゆっくりと開いていく。
(さーて、どんな歓迎が有るのかしら?)
直ぐに障壁を張れるよう、式を待機させたまま一気に足を踏み入れる。しかし、彼女の想定はここで裏切られた。四方に配置されていたはずの使徒像や中央の魔法陣、調度品の数々が壊されているのはショックだが理解できる。大方証拠隠滅の為だろう。
その荒れた広間の中央に、一人の少年が立っていた。
ボロボロの衣類や煤に塗れた身体を見れば奴隷であることは一目瞭然だ。出入口が一つしか無く転移の魔法も遺跡の中では無効かされる以上、今回の討伐は事前に察知され、違法ギルドの連中は事前に逃げていたということだ。今回の討伐令は王族と連れてきた騎士しか知らない筈だ。その情報を知りえたということは、この組織はかなり大きいことを意味する。しかしそれは今重要なことでは無い。
何故この少年だけがここに居たのか。手足を縛られている訳でも鎖で壁に繋がれている訳でも無い。つまり、自分の意志で残っていたことになる。もしかしたら奴隷の中のリーダー格で、組織に関する情報を持っている可能性が有る。そう考えたパトリシアは構えを解くことなく語り掛けた。
「少年。私は……」
「あっ、投降の呼びかけならお断りです。ここの生活は最悪その物だけど、それでも大切な妹分の……家族の帰ってくる場所なんで。あいつらの命令通りなのは癪だけど、可能な限り抵抗させて貰うよ?」
この遺跡に来て初めて、パトリシアは雄叫びや悲鳴以外の奴隷の声を聞いた。劣悪な環境からか、多少弱々しい印象を受けるものの、声にも瞳にも、確かな個としての意思を感じた。
確かに少年は奴隷だった。彼の身形や言葉がその証左だ。しかし、譲れない物の為、自分の意志で立ち塞がることを選択してきた。
「そうか。ところで、その妹分というのはここに来るまでに配置されてた奴隷の中に居るのか?もしそうなら私達が全員保護した。君が争う理由は無くなるのだが」
パトリシアの問いに少年は苦笑を浮かべる。
「そうだったら良かったなぁ。そうすれば僕も助けてもらって『ハイ、お終い』だったんだけど。妹は優秀らしく、仕事で外に行ってるんだよ」
「それは残念だ。君みたいに理性的に話せる子は居なかったから、今回ばかりは話し合いで事が済むと思ったんだが」
少年は返答代わりに肩を竦め、話はお終いとばかりに無手の格闘術の構えを取った。パトリシアも意識を対話から闘いに切り替える。ただし、これまで打ち倒した子供らの様に守るべき弱者では無く、彼らを扱ってきた組織の人間の様な憎むべき対象でも無い。違法奴隷に堕とされながらながら、大切な者の為に自らの意志で敵対した、敬意を払うべき相手として少年を扱うと決めた。
少年から魔力の流れも感じ、身体強化による格闘戦を想定しパトリシアは待機させている障壁の数を増やしておく。
「私はパトリシア。パトリシア・メルトワール。第十位王位継承権利者にして『断絶』の魔術師だ。少年、君の名は?」
その変化を感じ取った少年は一瞬きょとんとしたが、作法を知らないながらも、精一杯の敬意を込めて名乗りを返した。
「バゼル・バレット。連中から『バレル』とかいう魔導を植え付けられた、ただのしがない奴隷だよ」
汚れ切って尚燃えていると見間違うほどの赤髪の少年は、紅玉のような瞳を輝かせて笑い、その背後に魔法陣を展開させた。