その1!コンディションは最初からクライマックス!
逆境に遭遇して苦難に耐えたことのない者は、自分自身の本当の力というものを知らない。
〜ベン・ジョンソン〜
「おかしい」
朝。まだ眠い目を擦り、僕は呟いた。
何がおかしいのか。トイレだ。
僕が開けたのは、自宅のトイレの扉だったはずだ。
それは間違いない。
しかし、目の前に広がるのは、どこまでも白く、広大な空間。
僕の家は、確かに最近リフォームしたばかりだったが、それでも、敷地は一般家庭の平均的な広さ程度しかない。外見も普通の二階建て一軒家だから、家の中にこんな途方も無い空間が存在する訳が無い。それが地下ならまだしも、一階のトイレなのだから尚更おかしい。というか我が家に地下は無い。そして、トイレも見当たらない。
「昨日の夜は普通だったのに」
恐る恐る、といった調子で、真っ白な空間に足を踏み入れた。瞬間、背後にて扉が閉まる音がする。驚き振り返ると、そこに在る筈の扉は、影も形も見当たらず、ただ白い空間が果てしなく続くのみ……つまり僕は出口を失った事になる。それはまずい。一応制服には着替えてあるが、このままでは学校に遅刻してしまう。
「もしかして……まだ寝ぼけてるのかな」
起きてすらいないのかもしれない。きっとそうだ。
僕は夢だと思う事にした。
そうでなければ説明がつかない。
説明がつかなければ、僕は混乱する事になる。
混乱して良い事など一つもない。体力を無駄に浪費するだけだ。
なら努めて冷静でありたい。
ぴんぽんぱんぽーん
『プレイヤー名:土方六乃助の登録が完了致しました』
どこか機械的なアナウンスが、空間に広がり流れる。
壁などないはずなのに、少し反響して音が聞こえるのは何故なのか。
いや、深くは考えまい。夢とは唐突なものだ。いつも意味不明な展開を僕に押し付ける。
さて、次は何が起きるのかな?
ぱかっ
足下からそんな音が聞こえた。と、同時に体が重力に従い、落下を始める。
音の正体と、何が起きたのかを理解するのに、時間はかからなかった。
足下の床下には落とし穴があり、その入り口が開いたのだろう。
そして、無力感に苛まれつつも、逆らう事の出来ない、リアルなこの感覚。間違いない。
この落とし穴は、本物だ。
「って、これ夢じゃなああああああぁぁああぁぁぁぁいぃぃぃぃ」
落ちる、落ちる、落ちる。
なんでこんな目に……僕はただ、おしっこがしたいだけなのに。
おしっこがしたいだけなのにっ!!!!!!
♂♀
垂直落下を続けること10秒、白くて大きな部屋に行き着いた。
時間にしたら大した事は無いが、距離で考えるならかなり落ちたはずだ。
着地の瞬間は色々覚悟した。しかし、衝撃や痛みはまったく感じなかった。
落ちた先の床は、トランポリンのように弾力があり、衝撃を吸収してくれたのだ。
痛みはなかった。とは言え、弾んだ際の、独特の浮遊感が膀胱を刺激する。
(やばい、ちょっと逝ったかっ!?)
自分の股間の布地を確認する。オーケー、セーフだ!
しかし、なんと恐ろしいトラップだろうか。
僕は戦慄した。
ここでは、一瞬の気の緩み、もとい膀胱の緩みが、生死を分つのだろう。
この罠、トイレの入り口に設置してある辺り、何者かの悪意を感じる。
これは推測に過ぎないが……
もしかしたら僕は、何か大きな陰謀に巻き込まれたのかもしれない。
「ま、また誰か落ちて来たわ!」
「はぁ……これで7人目だぜ」
おっといけない。漏れそうになった事で、一瞬思考が飛んでいた。
落ち着きを取り戻した僕は、状況を整理するため、周囲を確認する。
部屋は目測で、高さ4m、広さ80平方メートルといったところか。まあ広い。
白い壁、白い天井、白い床。白い背景に浮き出る、6人の人影。
さっきの声の正体は、この6人の内の誰かだろう。
「くそ!出口はねぇのかよ!!」
右手の壁付近に立っている、大柄の男が声を荒げた。サングラスに黒い革ジャン、剃り込みを入れた頭。いかにも怖い人、といった風貌の男だ。他に特筆すべき点はない。強いて言うなら何故か内股だ。
「まあまあ兄貴、少し落ち着きましょうぜ」
その傍らに立つ若い男は、グラサン男の舎弟だろうか?虎の顔が刺繍されたスカジャン、虎柄のバンダナに、ダメージジーンズ、まるで黄巾族だ。その他、特筆すべき点は、内股だという事くらいか。
「ちょっと、あんまり大きな声出すの、辞めてくれる?」
部屋の中心部から女性の声が聞こえ、そちらに視線を移す。格好からしておそらくOLだろう。ウェーブのかかった茶髪をかき上げながら、気怠そうに溜め息を吐く。なんだか色っぽいお姉さんだ。いや、しかしよく見たら、かなり化粧が濃いな。年齢に触れるのは辞めた方が良さそうだ。他の特徴は……内股だな。
「フッ、騒がしいな。これだからルーキーは……」
左側の壁にもたれ掛かった男が呟く。整った顔立ち、澄み切った声、制服を着ているから、学生で間違いは無いだろう。隣町の、有名市立高校の制服だ。顔も良くてエリートとか、実に羨ましい。この部屋のメンバーの中でも、特に落ち着いた雰囲気を感じる。腕を組み、ニヒルに微笑む彼の姿は、余裕がある、と言うか焦りがないように見えた。きっと、小刻みに震えて見えるのも気のせいだろう。あと、内股だ。
僕が注目されたのは、落ちて来た一瞬のみ。
すぐにグラサンとOLの口論が始まる。
結局、状況が掴めず、その場に座り込んだままの僕に、声がかけられた。
聞き覚えのある声だ。
「えっ?もしかして、土方?」
部屋の奥の壁側から、一人の少女が駆け寄って来た。内股で。
何だろう、最近は内股が流行ってるのかな?
ショートカットの黒髪、少し日に焼けた肌。僕の通う高校と同じ体操着だ。
誰かと思えば、同じクラスの丸之内緋真里だった。
わけのわからない状況下で、知り合いと出会えた事に、多少安堵する。
気付けば僕は、彼女に不安をぶつけるように、疑問を投げかけていた。
「丸ノ内さん!説明してよ、何が何だかわからないよ!って言うか」
ついでに、これも聞いておこう。
僕は立ち上がり、声を上げる。
「あの、皆さん!揃いも揃って内股で、どうかしましたか?」
「「「「「お前も内股だろうがっっっ!!!!」」」」」
僕も内股だった。
まったく気がつかなかった。
いや、だって、我慢してるんだから、仕方ないじゃない、おしっこ。
それにしてもこの人達。息ぴったりのユニゾン総つっこみだったが。
実は仲が良いのではなかろうか。
「もうやだ。おトイレどこ?お家に帰りたいよぉ」
奥の壁際で、幼い女の子が泣いていた。
ヒラヒラした膝丈スカートの端を両手で握りしめた、おさげの女の子だ。
どう見ても小学生である。
可哀想に、トイレはここだよ!僕だよ!!
……違った。今のは無しにしてほしい。
僕は誓って、ロリコンではないのだから。
♂♀
それから10分の時が経過した。
どうやら、この場所にいる全員が、僕とほとんど同じ状況、つまりトイレに入ろうとしたら、この場所に繋がって出られなくなった、との事だった。一つだけ、決定的に違うのは入り口である。僕と小学生ちゃんとイケメン君は自宅から、兄貴さんと舎弟さんは公園、OLさんはコンビニのトイレに入ろうとして今に至る、との事だった。丸之内さんは、部活の朝練で学校にいたそうな。
普通に考えたら、そんな事はありえない。
別々に離れた入り口から、同じ場所に閉じ込められるなど非常識だ。
しばらくは、新しく人が一人ずつ落ちてくる度に、言い争いになっていたらしい。「お前の仕業か」「あんたが怪しい」「ここから出してくれ」と言った感じで。しかし、6人目に落ちて来たのが小学生だったため、誰もが閉口した。いよいよ言い争う意味が薄くなり、そこに僕が落ちて来たのが10分前の出来事。
なんとも信じがたい話しだが、誰も嘘を言っている様には見えなかった。これはもう、妖怪の仕業に違いない。そういえば、さっきトランポリンみたいに弾んだ床も、今は普通の硬い床になっている。驚くべきテクノロジーが満載だ。
しかし何故にトイレ限定なのか……。
ぴんぽんぱんぽーん
『プレイヤー7名が揃いました。ゲームを開始致します』
突然のアナウンスに、罵声が飛び交う。
「ふざけんじゃねぇぞ!!さっさとトイレ出して俺達を帰しやがれ!!!」
「そうだそうだ!!兄貴はキレたナイフと呼ばれた男なんだぞ!!!」
「軟禁罪で警察に通報するわよ!!」
憤りは叫びとなり部屋に響く。僕も大体、同じ気持ちである。
それより兄貴さん。影で哲郎と呼ばれて、馬鹿にされてませんかねぇ?大丈夫?
『ルール説明を開始致します。皆様、壁面をご覧ください』
批判の嵐など聞こえていないかの様に、機械的な音声は続ける。
と、そこで僕から見て、右手側の壁面に文字が映し出された。
どうやらこの白い壁は、スクリーンとしての役目も担っているようだ。
兄貴さんと舎弟さんは壁から離れ、そこに書かれた文字を、皆が注視する。
壁面には、こう書かれていた。
【出ませ!!限界迷宮!スプラッシュ・マウ○テン】
その時僕は、敵に回してはいけない何かを、敵に回した気がした。
明日も(良い子の視界に映らない時間に)更新するドン!