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太陽が消えた夜  作者: 古方乱人
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 それは、単なるサーチライトだった。

 否、単なる、ってのは、おかしいかな。こんなジャンクションの真ん中がサーチライトで照らされるのは普通あり得ないし、それは頭上のヘリコプターから投光されていた。しかも、そのヘリコプターの下面にも、「神特」の文字が書かれていた。

「こいつらは、文部科学省の連中じゃないのか?」と、有畑がフロントガラス越しに見上げながら、久遠寺に聞いた。

「いいえ」

 突然、ハウリングが響いた。ヘリコプターかららしい。

「あー、あー。マイクのテスト中」

 すごく分かり易いな。

「あー、皆様、本日はお日柄も良く……。え? 本題? 分かっとるわい! 物事には順番があるんじゃ。おまえさんのように、短気直情型の……。分かった、分かった」

 何か、もめているようだ。

「あー、失礼いたしました。えー、皆様、申し訳ありませんが、伊勢湾岸自動車道を直進下さい。東名阪道名古屋方面には行けません」

「冗談じゃないわ」と、テンコ。

 テンコは窓を開けた。途端にヘリコプターが巻き起こす風が車内に入って来た。その風に抗えるかのように、テンコはヘリコプターに向かって大声を張り上げた。

「あのーっ! あたしたちぃぃっ、名古屋にぃっ、行きたいんですぅっっ!!」

「なんですとぉぉっ!?」と、スピーカーから聞こえた。

 否、そっちは怒鳴らなくていいんだけど。

「だからーっ、あたしたちはぁっ、な、ご、や、にぃっ!……」

「すいませぇぇーん、よく聞こえませぇぇーん。とにかくー、東名阪道名古屋方面はぁ、封鎖されてぇえ、え、え、げほげほげほっ!!」

 だ、大丈夫だろうか。

 だが、実際、機動隊姿の男たちが東名阪道を塞ぐように整列している。怪物に押しつぶされてしまったが、ワゴン車両も残骸ともどもまだ道路上に横たわっている。僕たちが進むなら、伊勢湾岸自動車道しかないのだ。

 有畑は決心したのか、ギアを入れると、そろそろと動かし始めた。さすがにテンコも諦めて、窓を閉めたようだ。

 伊勢湾岸自動車道に入って行くと、道の両側に赤く光るパイロンが整然と並んでいた。

「まあ、いいわ。しばらく行けば東海ジャンクションがあるから、そこから北上して名古屋に向かえばいいわ」背後から、そう言うテンコの声がした。

 だが、そううまくいくだろうか。サイドミラーには、僕たちが伊勢湾岸自動車道に入った直後に入り口を塞ぐ男たちの姿が映っていた。つまり、僕たちは体よく隔離されたのだ。

 ヘリコプターは先導するかのように、サーチライトで僕たちの前を照らし出している。有畑もそれに従うように、スピードを抑えめにしているようだ。メーターを見ると、大体時速五十キロぐらいで走っている。

「なんか、綺麗ね」と、テンコが呟いた。

 確かに、サーチライトを先導に、赤いパイロンの列の間を走るのは、なんとも幻想的な感じだった。

「ちょっと、遷御みたい」

 テンコが余計なことを言った。あにはからんや、久遠寺が聞いて来た。

「あなた、遷御の儀を見たの? あれは、特別奉拝者しか見られないはずだけど」

「あ、いや、えーと」と、うろたえる。

「ネ、ネットテレビで中継していたんです」

 テンコはでまかせを言ったが、幸いなことに本当に中継をしていたらしい。

「ああ、そう。いくつかのチャンネルでやっていたらしいわね。あなたみたいな若い子が遷御に興味を持つなんて、意外ね。……この子は別のことに興味があるみたいだけど」

 別に無理矢理つけたさなくてもいいんですよ?

 それはさておき、確かに幻想的、神話的感じのする行幸ではあるが、僕は心配だった。いつまたあの怪物が復帰してくるか。このスピードでは間違いなく追いつかれてしまう。

「ん?」と、有畑が上を見上げて言った。

「ヘリが速くなったな」

 確かにヘリコプターは速度を上げると、道なりに進んで、視界から消えた。

 だが、有畑は車のスピードを保ったまま走らせ続けた。相手の──謎の組織の出方をみているのかも知れない。

 ヘリコプターで現れた連中は、あの怪物について確かに何かを知っているはずだ。他のみんなも同じ思いなのか、誰も口をきかなかった。

 それにしても、いつまでも単調に続くパイロンの列には催眠効果があるのだろうか、眠くなって来た頃、前の方に明るい光を感じた。

「あ」と、テンコが声を発した。

 それと同時に、有畑が車のスピードを落とした。

 道路の端に置かれた投光器が、センターライン上に着陸しているヘリコプターを照らし出していた。軍用タイプらしいヘリコプターは黒く塗られ、横腹にも、例の「神特」の文字が白く書かれていた。ドアはすでに開いていて、まさに人が降りて来ようとしていた。そして、ヘリコプターから降りて来たのは──。

 なんと、白装束の神主姿の男だった。

 ヘリコプターのローターが起こす風に、男はよろめいた。装束がバタバタと煽られ、頭に乗せた帽子──冠、と言うんだっけか?──が、飛ばされない様に必死のようだ。その神主装束姿の男に続いて、もうひとりの男が降りて来た。防弾チョッキに身を包んだ、機動隊風の服装の大男だ。頭をモヒカン刈りにしている。どこかで会った気もするが、機動隊に知り合いはいないし、モヒカン刈りの男となるとなおさらだ。気のせいだろう。

 ヘリコプターのドアを閉めるその背中に、「手束」という文字が白く書かれていた。名前だろうか。男はヘリコプターの操縦席に向かって、親指を突き立てた。それを合図に、ヘリコプターはゆっくりと舞い上がって行った。

 暴風からようやく解放された白装束姿の男は、膝に手を当てて前屈みになり、ぜえぜえと荒い息をしていた。機動隊風の男は背筋を伸ばしてその横に立つと、両腕を後ろ手に組み、神主姿の男を横目で見下ろしていた。

 僕たちの車はいまだ完全に停まること無く、ゆっくりと近づいていた。彼らとの距離が、五、六メートルくらいになった時、有畑は車を停止させた。

 なんとか息切れが治まったらしい神主姿の男は、ようやく僕たちの車に気が付いた。すると、突然あわてた様子で駆け出してくると、立ちふさがるように車の前で両手を広げた。こちらはすでに停まっているのだから、あまり意味は無い。

 近くで見ると、男は、六十手前ぐらいの歳だろうか。冠の下の髪はかなりの白髪まじりだ。男は、後ろを指差した。

 ヘリコプターが居なくなった道路の真ん中に、一本の木札が立てられていた。そこには、墨文字で黒々と「下馬」と書かれてあった。

 馬では無いが、意味は分かる。車を降りろということだ。

 驚いたことに、最初にドアを開けたのは呉場だった。まあ、正確には見えなかったのだが、音でわかった。続いて、おそろおそるテンコが、そして、あきらめたように、有畑もドアを開けた。

「ねえ、こうして居たいのは分かるけど、降りてくれるかな」と、久遠寺が言った。

 こっちだって降りたいのは、やまやまだ。だが、久遠寺に不自然な形で押しつぶされている現状では、ドアのインナーハンドルに手が届かないのだ。おそらくここら辺、と、まさぐるも、指はむなしくレザーの内張りに触れるばかりだ。

「……もう、困っちゃうな。そんなにモゾモゾしないで」

 ドア開けろって言ったのはあんたじゃないか! こっちは努力してるんだぞ!

「あの、すいませんが、運転席側から降りてくれませんか?」

「こっちはシフトレバーが邪魔で、降りにくいのよ。あなたは女性にシフトレバーをまたがせる気? それで、あなたは何を見ようと言うの?」

 そんなこと思ってない! と、言うか、そっちは見えない!

 そう言おうとした時、突然ドアが開いた。圧縮されていた力が解放され、のけ反るような形で上半身が車外に飛び出したとき、一瞬、鬼のような形相のテンコの顔が見え、その後──。

 もし神さまが本当にいるなら、神に誓おう。僕は何も見ていない。

 大体、この暗さなのだ。常識で考えても、見えるわけが無い。しかも、仁王立ちになっていたテンコのスカートの真下に顔が行ったのは、偶然だ。不可抗力だ。というか、テンコがいきなりドアを開けたのが、悪いのだ。

 だが、人生は無情だ。青春は誤解ばかりだ。

 弁解の時間も与えられることも無く、のけ反った姿勢の無防備な鳩尾に、テンコの的確なパンチが決まった。夕食以降、何も食べていなかったことに感謝だ。

 きっと、何秒か──否、何分か、気絶していたに違いない。なぜなら我に返った時、すでに久遠寺は外に出て、何事も無かったようにスカートの埃を払っていたところだった。腹を押さえて立ち上がる僕を、白装束の神主姿の男が眉をひそめて見つめている。当のテンコは、車の反対側に移動して、しれっと立っていた。

 白装束の男はとりあえず立ち上がった僕を上からしたまでゆっくり眺め、そのあと、ぎょっとしたように僕の下腹部のシミに目を落とした。

 僕の視線に気付いたのか、あわてたように視線を逸らすと、ひととおり全員を眺め回し、

「私は小見川常世おみかわとこよと申します。小さいに、見るに、三本川の小見川です。式部官長をさせていただいております」と、頭を下げた。

 シキブカンチョウというのがどういう役職なのか分からなかったが、声には聞き覚えがあった。ヘリコプターのスピーカーで喋っていたのはこの男だ。

 小見川と名乗った白装束の男は、何かを待つように黙った。そして、小見川の斜め後ろで背筋を伸ばして立つ機動隊風の男をいらだった風に横目で見た。

 遠目で見た時にモヒカン刈りだと思っていた頭は、髪では無く、神主が被る黒い冠の小さめの物をスキンヘッドの上にちょこんと乗せていたのだった。がたいがいいので、冠がなおさら小さく見え、モヒカンのように見えていた。冠ならば、白装束の神主姿とはお似合いなのかも知れないが、機動隊風の防弾チョッキにはそぐわない。

 我慢しきれなくなったのか、小見川が口を開いた。

「この男は……」

「警衛部特務衛士長、手束てづか」と、機動隊男は、小見川の言葉を遮って、自己紹介した。機動隊男は、これで充分と言った風で、沈黙した。小見川は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、僕は思い出していた。

 エシ長。遷御の儀で見かけた男だ。あの時は、駅長のような制服を着ていたが……。

 そう思ってまじまじと見ていると、突然、手束がぎろりと睨んだ。僕はあわてて目をそらした。

 小見川は無理に笑みを浮かべたが、ひきつったような笑みになった。

「皆様、お疲れのところ誠に申し訳ありませんが、ここからは歩いて向かっていただきます」

「どこへですか?」と、久遠寺がストレートに訊いたが、小見川は質問に答えなかった。

 どうぞ、こちらへ、と、小見川が奥の闇を振り返ると、二つの火が近づいてくるのが見えた。松明だった。遷御の儀で見たのと同じく、一メートル半程の棒の先に炎が灯っている。これまた冠装束姿の男たちが持っていたが、こちらは黒い上衣に紫の袴を身につけていた。

 松明を持った男たちは、小見川のところまで来ると、立ち止まった。松明を下げて足元を照らすようにすると、小見川を先導して、再び道の奥に向かって歩き出した。

 久遠寺が歩き出した。有畑も少し遅れて歩き出した。テンコ、呉場、そして、もちろん僕も後に続く。エシ長の手束が、僕の後ろから、間を置いて付いて来た。

 素足にアスファルトが冷たい。こうなると、スリッパを死守したテンコは正解だったと言える。

 鼻を潮の匂いがくすぐる。どうやら海が近いらしいが、防音壁で何も見えなかった。真っ暗な道路を、松明の灯りだけで進んで行く。周りはコンクリートの中央分離帯や防音壁で味気ないが、それでもまさに、遷御の儀、そのものだ。

 僕は、素直に感動して、思わず口をついた。

「綺麗だな」

 その瞬間、前を歩くテンコが振り返って、僕を睨みつけた。

「誰が? あの久遠寺って女?」

 なぜそうなる?

「人前でいちゃいちゃして、あーんなに鼻の下伸ばして!」

 それは、誤解だ。否、嘘だ。テンコの席から僕の顔が見えるわけが無い。

 テンコは、ふん、と鼻をならすと、

「見えなくたって分かるわよ」と、理不尽この上無いことを言った。

「パシリ、昨日の夜から、もう絶好調だよね。散々触りまくれるわ、見まくれるわ。しかも、私の口び──」

 一瞬、言いよどんだ。

「まあ、あれは無かったことにするわ。とにかく、もう、ラッキー中のラッキー! 超絶好調じゃない! 仏滅も双手を挙げて逃げ出すわ。もうあんまり絶好調すぎて、明日死んじゃうんじゃない?」と、テンコは一気にまくしたてた。

 仏滅が双手を挙げて逃げ出す、ってどういう状況だよ。否、そんなところを突っ込んでもしょうがない。大体、どう考えても、昨日から僕はラッキーなことは全くない。絶不調と言ってもいいくらいだ。

「呉場に付き合わされるわ、怪物に追いかけられるわで、何が絶好調だよ」

「僕を巻き込まないでくれ」と、突然、呉場が口を挟んだ。

 え?、と、驚いて呉場を見た。

「僕を巻き込まないでくれ」呉場はもう一度、同じことを言った。

 僕は首を振って、言い直した。

「……夜通し怪物に追いかけられて、何が絶好調だよ」

「それは、ずるいわ」と、テンコが言った。

 えー、何がー?

「あいつに追われたのはあたしも一緒よ。だから、共通項はカウントしないで」

 え?

「その通りだ。僕も追われている。差分で考えるのが、論理的だ」と、呉場が相槌を打つ。

 え、そうなの? カウントしちゃいけないの?

「ほら、ご覧なさい。あいつに追われているのを除いちゃったら、あとは、散々触りまくっているか、見まくっているか、私の口び──は、いいとして、楽しいことばかりじゃない!」

 そ、そうなのかな? そうなっちゃうのかな?

 ふん、と、テンコは鼻を鳴らすと、有畑と久遠寺を追い越して、ずんずん先に行った。

「こいつら、仲がいいだろ?」と、有畑が言うと、

「そーお?」と、久遠寺がいぶかしげに応えた。

 真っ当な反応だ。

 そして、自動車専用道路上に存在するには全然真っ当では無いものが見えて来た。



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 驚くほど短時間で作ったはずだが、りっぱな祭祀場だった。

 まず、足元に大きなかがり火を備えた巨大な鳥居があった。真新しい白木で出来ており、内側の高さは、優に五メートルはあるだろう。柱も一人では抱えきれないくらいの太さだ。上部には、これも巨大なしめ縄が飾られている。

 鳥居を潜ると、道の両側にはかがり火が並んでいる。そして、その先に行くと、かがり火の前には、雅楽の楽師たちが並ぶ台がしつらえてあった。かがり火を背に受けてシルエットをなす楽師たちは、微動だにせず、まるで等身大のひな人形のようだ。

 そして、さらにその先には、三車線の道路いっぱいに、白い布で作られた巨大な囲いがあった。それは、遷御の儀で神主たちが形作っていた布の囲いを、さらに巨大にしたものだった。高さは、鳥居と同じく、六メートルは優に超えているだろう。八角形を成す頂点の棒の先には、遷御の儀の囲いと同じように、稲妻型の白い紙の飾りがついている。

 囲いの手前の脇の方には、左右に二本ずつ、これも高さ七、八メートルはあろうかという真っ白な幡が立っていた。その幡の間、つまり巨大な囲いの正面には、布の重なった部分があり、そこが入り口と思われた。そこには、門兵のように黒い装束姿の男が二人、長大なさす叉のようなものを持って、身じろぎもせずに立っている。さす叉の長さは、囲いの高さにも匹敵しようかというぐらい長いものだった。

 テンコがあんぐりと開けた口を閉じるのも忘れて見つめているのも頷ける。それら全てが、かがり火の揺らめくオレンジの光によって闇の中に浮かび上がり、遷御の儀以上の幻想的で美しい光景を描き出していた。

 そして、その真正面に、ひとりの老人が居た。

 教科書にある古代の肖像画に出てきそうな大きな垂れのついた冠をかぶり、黒い上衣に、白い袴、手には笏を持っている。その顔は角張っており、深い皺が刻まれていたが、決して痩せぎすでは無く、血色の良い張りのある膚だ。太くて固そうな白い眉にするどい眼差し、薄い唇は頑固そうに一文字に結ばれていた。

 僕たちは、数メートルの間をおいて、その老人に対峙した。

 小見川が進みでて、その老人と並んでこちらを向くと、そこに控えるように身を縮こませて低頭した。手束は小見川と逆の側に、老人から数歩離れたところに直立して、宙を見つめた。

 老人はゆっくりと僕たちを見た。そして、顔を曇らせた。

 老人の気持ちも分からないではない。どう見てもこの五人はここに相応しい風体では無い。否、昼日中の街中であっても、変であろう。制服姿の呉場やキャリアスーツの久遠寺はまだしも、ジャージに裸足の男子高校生、ブラウスにスカートでスリッパの女子高生、はてはサングラスにマスクの上に執拗にマフラーを巻いている謎の男、の集まりなのだ。

 しかも、やっぱり、僕の下腹部を凝視した。

 老人は小見川を睨むように横目で見て、何か小声で言った。……本当に、この中に居るのか、とかなんとか。小見川がさらに縮こまるように頷くと、老人はうーむ、と唸って、もう一度、僕の下腹部を見、全員を見回した。

「わしは、神社本庁長官の白栖川しらすがわという。神社本庁の最高責任者だ。もっとも、わしらは昔ながらの役職名で、神祇伯と言っておるが」と、老人は自己紹介した。その声は老人と思えぬほど朗々としていた。

「神社本庁の代表は、統理、と思いましたが」

「ほう、よく知っておるな、久遠寺さん、か」

 老人は、久遠寺の下げているパスを見て言った。

「……日本核融合研究開発機構……?」

「出向先です。元々は文部科学省です」

「なるほど、わしらの管轄組織というわけか」と、老人は頷いた。

「ここに、おまえさんがいるのは、偶然か? それとも……」

「偶然です。行きがかり上──」と、久遠寺はちらりと有畑を見て言葉を続けた。

「ここまで来る羽目になりました」

 老人は頷くと、先程の久遠寺の質問に答えた。

「統理は、表向き、事務方向きの役職でな。神祇官以来の正当な祭祀の継承と実践は我々が行なっている」

「ジンギ……カン?」テンコがつぶやいた。

「神祇官は、律令時代から祭祀を司って来た組織だ。現代では、官とは、長官や秘書官のように個人の役職をさすことが多いが、この場合は組織のことだ。今でも官庁という言い方が残っている」そう解説を始めたのは、呉場だ。

「ちなみに、神祇伯は神祇官の長のことだ。神祇官は、明治には神祇省になり、さらに宮内省の一部になったりしたが、戦後、国の組織からは分離され、宗教法人として独立した。日本のほとんどの神社を包括している」

「ほう。若いのに、よく知っているな」と、老人は顔色一つ変えずに言った。

「神社って、宮内庁が管理してるんじゃないの?」と、テンコが小声で聞いてきたが、僕にもよく分からない。だが、幸い呉場にも聞こえたらしく、ちゃんと解説してくれた。

「今の宮内庁は、天皇関係の祭祀や国事行事が役務だ。神社は宗教の一つとして政教分離の原則にのっとり、国家機関からはずされたんだ」

「でも、国の一組織では無くなったので、問題もあるわね」そう続けたのは、久遠寺だ。

「行きがかり上文部科学省の管轄になってはいるけど、なかなか宗教法人のタブーに踏み込めないから、私たちとしても実態が把握できていない、というのが本当のところね。実際、非課税特権の裏側で、さっきのヘリや機動隊もどき、それにこんなことが行なわれているなんてね」

 久遠寺はそう言うと、冷徹な視線で周りを見回し、最後に手束に目をやった。手束は、久遠寺の言うことなど聞こえていないかのように、なんの反応もない。

「我々には国家や政治などとは関係なく、なすべきことがあるのでな。踰越な口出しは御勘弁願いたい」と、老人は威圧的に睨みつけて言った。

「なすべきこと、ですか」と、久遠寺はそんな老人の態度を気にかけた様子も無い。

「私たちがここに連れて来られたのも、そのなすべきこととやらのひとつですか?」

「当然だ」老人は答えるのも馬鹿馬鹿しいという風に頷いた。

「それは、あの──生き物と関係があるのですか?」久遠寺は核心的な質問をした。だが、老人は、久遠寺の質問には答えなかった。

「さて」と、老人は小見川を見た。

「まだか?」

 小見川は頭を下げた。

「もうそろそろかと」

 その言葉に、手束がほんの少し動いたような気がした。

 もうそろそろって、何が?

 すごく、悪い予感がした。そして、予感はすぐさま現実となって、あの音が聞こえた。忘れかけていた、あの音が。見なくても分かったが、思わず振り返ってしまった。否、振り向かざるを得なかった。

 そして、それはそこに居た。

 あれが、あの怪物が道路を突進してくるのが見えた。その巨体は興奮しているのか、明るく光っていて、闇の中でもはっきりと見えていた。まだ遠いのに、圧力のような熱を感じた。

 怪物は猛スピードで近づいてくる。何本もの脚を器用に繰り出しながら。跳ねるように、跳ぶように。怪物が繰り出す一歩一歩で、アスファルトが砕け、高架の道路がたわんで揺れた。

 あまりの迫力に脚がすくんだ。逃げることを忘れた。否、逃げれなかったと言った方がいいのか、誰かが──テンコに違いない──が、僕の肩を痛いほどの力で掴んでいたからだった。

 あっという間に怪物は鳥居を通過したが、そのスピードが弱まることは無かった。

 このままじゃ、踏み殺される!

 そう思った瞬間、何者かが僕たちの前に出た。

 ものすごい大きな音をたてて、アスファルトがめくれ上がった。自動車道が揺れ、僕たちはよろめいた。怪物の脚元で、基礎の鉄骨が何十本も掘り返され、蛇のようにねじ曲がった姿をさらした。

 猛烈な土埃が舞い上がり、ようやく怪物は道路にめり込んだ形で停止した。僕たちまで、およそ五メートルの近さだった。否、四メートルか。

 呉場も、久遠寺も、おそらく有畑も、呆然としている。誰も腰を抜かしていないのが、不思議なくらいだ。手束が、老人を守るようにその大きな背中で隠し、身構えていた。敵ながら、さすがと言えよう。

 だが、手束よりも、すごい奴がいた。怪物のわずか数十センチメートル前で、怪物を止めた男。白い装束姿の男──両手を広げた小見川だった。

 武田鉄矢よりすごいぞ!

 恐怖と驚愕とテンコに押さえつけられて動けない僕は、まじまじと目の前の怪物を見上げた。怪物は停止したときの覆いかぶさるように少し傾いたままの恰好で微動だにしていないが、興奮が冷めてきたのか、怪物の輝きは次第に収まってぼんやりと光る程度に戻って行った。

 小見川はゆっくりと両手を下げた。すると、怪物が少し身を起こした。

 僕を掴むテンコの手に力が入った。肉ばなれを起こしはしないかというぐらい、すげえ、痛い。これで怪物が立ち上がったら、肉を引きちぎられるんじゃないかな。

 怪物がゆっくりと、身を起こした。頭の上に乗っていた、アスファルトの破片が道路に落ちて、大きな音を立てた。

 さすがに、思わず身を引いた。正確に言うと、テンコに押さえられていたので、身は引けなかったけど。有り難いことに、肉は引きちぎられなかった。

 怪物は、うめき声と言うか、唸り声と言うか、そんな変な音を発しながら、辺りを見回した──ように見えた。丸太のような脚に力が入り、ゆっくりと怪物は再び立ち上がった。さすがに逃げなくては、と思い直した時、突然、しかし、静かに、雅楽の演奏が始まった。

 小見川は、後ろ向きに歩きながら脇にどくと、頭を下げて、その場に控えた。

 怪物はなんとなく所在なげにもぞもぞと動いていたが、やがて、ゆっくりと動き出した。かがり火に照らし出された白い円筒形の巨体が、ゆっくりと目の前を歩いて行く。わずか、二メートルほどの近さだ。何本もの太い脚が、次々に繰り出されながら、目の前をすぎていく。

 呉場は食いいるように、怪物を見つめている。久遠寺はさすがに少し怯えたように、だが屹然と見上げていた。有畑の表情は分からなかったが、彼もまた、微動だにせず怪物を見上げていた。

 かがり火によってオレンジ色に揺らめくその巨体は、雅楽の持つ独特な音と曲調がBGMとなって、幻想的だ。さらに、至近距離で眺める怪物の持つ生々しさが産み出す恐怖と相まって、畏敬の念さえ覚えて、鳥肌が立った。

「音楽が好きでいらっしゃいます」いつの間にかすぐ近くに来ていた小見川が小声で言った。

 誰が?、と聞く前に、小見川は怪物を追いかけるように、僕たちの前を通り過ぎて行ってしまった。

 巨大な布囲いの正面が開けられていた。入り口の両側に控えていた装束姿の男たちが、持っていた長いさす叉で布を支え上げ、正面に五角形の入り口を開けている。

 老人も入り口の脇で、頭を下げてじっと控えていた。その数歩後ろには、同じく頭を下げた手束が控えていたが、目だけはじっと怪物を追い、いつでも動けるように全身を緊張させていた。

 老人の前を通り、怪物は、なんとなく機嫌が良さそうに──否、そう見えただけなんだけど──、布囲いの中に入って行った。

 僕は恐る恐る、布囲いに近づいた。怪物もとりあえず暴れていないし、怖いもの見たさでもある。もちろん、がっしりと僕の肩を掴んだテンコも、引きずるように一緒だ。でも、さすがに小見川の前まで出る勇気はなく、肩越しに覗き込んだ。

 怪物の自ら発する光で、囲いの中が照らし出されていた。真ん中に巨大な円形の舞台がしつらえてあった。それは神社の軒飾りのような彫り物で飾られ、極彩色に塗られていた。ここからでも、しかも僕でも、相当な巧みの技だと分かる。

 否、それは舞台では無かった。怪物は、どっこいしょと、まさにそんな感じで、そこに座ったのだ。それはまったく自然で、とても慣れた動きだった。椅子は一瞬、少しだけしなったものの、しっかりと怪物の体重を支えていた。

 椅子に座った怪物は、雅楽の音を聞きながら、たぶん楽しげに、身体をゆっくり揺らしはじめた。

「わ、分かったわ」と、僕の後ろでテンコが言った。

「あれは、アフリカかどっかで見つかった、新種の生き物なのよ! それで、この人たちは、曲芸師なのよ。あれは、サーカスのテントみたいなものね。屋根は無いけど。

 ほら、サーカスから象が逃げ出して、街で暴れたりすることって、よくあるじゃない。ニュースだか投稿映像で見たことあるわ! そうよ、きっとそう! これで一件落着よ」

 テンコがどうだとばかりの自慢げな笑顔を見せた。

 それが事実としても何も落着してないし、残念ながら、最初の「新種の生き物」ってところで、すでに大問題だと思うけどな。

 呆れた目でテンコを見ていると、

「そんなに見つめないで」と、少し怒った口調で横を向いた。

 違うだろ? 呆れた目線だろ? テンコの顔が赤いのは、かがり火のせいだよな?

「サ、サ、サーカスの象などと一緒にしおって……」

 その声で見ると、後ろ姿でも小見川の肩が震えているのが分かった。ゆっくりと振り返った小見川の目は怒りに燃えていた。テンコが再び僕を盾にした。

「あそこに座す御方をどなたと心得るっ!」

 えーと、水戸黄門には見えないな。

 小見川が大きく息を吸った。そして。

「アマテ──」

「天照大御神」

 そう言ったのは、呉場だった。



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 呉場の言葉はすぐには頭に入って来なかった。

 アマテラスオオミカミ、って、何だっけ?

 一瞬、ゲシュタルト崩壊を起こしたのは、あまりの理解不能さ加減に、頭が拒んだ結果に違いない。

「君、何を言っているの? どういう意味?」と、久遠寺が眉をひそめて呉場を見た。

「言ったままですよ。あれは、天照大御神です。伊勢の内宮に座す太陽の神。日本の最高神──天照大御神です」

 そうですよね、と、呉場は、小見川に訊いた。

 呉場にセリフを取られた小見川は悲しそうな顔をしていたが、あわてて気を取り直すと、威厳を取り繕った顔で、うむ、と頷いた。

「これに座すは、我が日の本の中国なかつくにを照らしたもうアマテ──」

「おぬし、なぜ、それが分かったのじゃ」

 そう口を挟んだのは、黒装束の老人だった。小見川はひどく悲しそうな顔をした。

「なんとなく、見当はついていました。まずは、昨夜の遷御の儀の不可思議な出来事。巨大な生き物の鳴き声。」

「やっぱり、あなたたち、遷御の儀を見ていたのね! どうやって入ったの!?」と、久遠寺が言ったが、呉場はそっぽを向いた。

「それに関しては、後で、私からも聞きたいことがある」と、今までひと言も喋らなかった手束が思わず口をはさんだ。

 怖ええよ。どうしよう。

 呉場は気にせず、後を続けた。

「それに、遷御の儀の中断とその後に続く、内宮での混乱」

「き、貴様、遷御の儀の後も内宮にいたのか!」と、手束が顔を真っ赤にして怒鳴ったが、呉場はしれっとして、答えた。

「いやあ、なかなかの混乱ぶりでした。なんでしたっけ、PS-Tナントカがまだ用意できないとか……」

「PS……、なんじゃそれは」と、小見川が聞くと、手束は、知らん、何かの聞き間違いだ、と、そっぽを向いた。

「とにかくあれは、内宮の裏山を抜けて、旅館を襲いました。伊勢神宮で動物を飼っているわけがありません。もし、僕たちの知らないもの、見たことが無いものが居るとすれば──」呉場は眼鏡を上げた。

「常識では信じられないことですが、可能性としてはひとつです。あれは、神様だ。しかも内宮に居るとすれば、天照大御神に違いない、と」

 僕たちは、布囲いの中の怪物──否、天照大御神を見た。

 アマテラスは、相変わらず雅楽に身を任せるように巨体を揺らし、脚をぶらぶらさせていた。

「ち、ちょっと待って、信じられないわ」と、久遠寺が、とても常識的なことを言った。僕も同意見だ。

「天照大御神が本当にいるっていうの? いや、天照とかが問題じゃないわ。神様が本当にいるっていうの?」

「当たり前では無いか。現に神社がそこいら中にあるであろう」と、小見川が答えた。

「そういうことではなくて、神様に実体があるってこと?」

「もちろんだ。わが国土ができる遥か以前から、神々はおられた。我々は、道具を持つ遥か以前から、彼らを敬い、あがめ、祀ってきた」と、老人が答えた。

「ちょっと待って。この生き物がなんだか分からないけど、あなたたちが勝手に神様扱いしているだけでしょ?」

「失礼なっ!」と、小見川が割って入った。

「こちらは本物の太陽神、アマテ──」

「えーと、だとすると、古事記とか日本書紀に書かれていることは本当なの?」と、テンコが口を挟んだ。

 タイミングを考えろよ。小見川が呆然としてるじゃないか。

「概ね」老人が頷き、

「多少の脚色はあるがな」と、付け足した。

「何を馬鹿なことを」そう言ったのは、有畑だった。

「太陽神だと? こいつが太陽の化身だというのか」

「こ、こいつとは失礼な! しかも化身などではない! ここに座すは、太陽そのものであらせられるアマテ──」

「太陽、つまり恒星は、水素とヘリウムの巨大な塊だ」有畑は、小見川を無視した。

「その巨大さゆえ中心はとてつもない高温高圧となり、核と電子は分離されてプラズマ状態になっている。その中で、水素の核同士が衝突して核融合を起こし、重水素ができる。この時、失われた質量が熱に転換される。

 この重水素に水素の核が融合することによってヘリウム3を作り出し、熱が発生する。さらにヘリウム3同士が融合することでヘリウム4になり、ここでも熱が発生する。これらの核融合で生み出される熱によって、太陽は輝き、地球や他の惑星を照らし出している」

 そう言えば、有畑が壊したのは核融合実験施設とか言っていたな。なるほど、さすがに専門家だけあって、よく知っている。

「この生き物が何かわからんが、天に輝く太陽や恒星とは何の関係もない」と、有畑は頭上の満天の星を指差した。

 小見川が無言で近づいて来て、有畑の腕を掴むと、指先をアマテラスの方にねじ曲げた。

「あの御方が、太陽そのものであらせられます」

 当のアマテラスは顔の周りを飛び回る蝿を気にしているようだった。

 有畑は、ふんと鼻を鳴らして、小見川の腕を振り払った。

「あれが天照大御神でも、いいんだけど……」と、テンコが言った。こいつ、順応速いな。

「私たちは、なんで追いかけられたの?」

 その言葉に、老人は、

「手違いだ。間違いだ」と、吐き捨てるように言い、ぎろりと小見川を睨んだ。その後ろに立つ手束も忌々しそうに小見川を見た。小見川は一層身をすくませて頭を下げた。

「ちょっと、待って。どういうこと?」テンコが言った。

 全くだ。手違いであんなのに追いかけられては、たまらんぞ。

「話せば、少しばかり長いことになりますが……」と、小見川は僕たちに向かって話し出した。

「昨日の朝突然に、大御神様が、遷御の際に雨儀廊を通りたいと仰せになられました」

 ウギロウ? どこかで聞いたな。

 ただ、テンコの突っ込みどころは違ったようだ。

「……仰せになられた、って、あれは、おしゃべりするの?」

「意思疎通はできます」と、少し胸を張って小見川が言ったが、老人に睨まれて、また小さくなった。

「ウギロウ……雨儀廊……。ああ、確か、雨儀廊が無いのは変だとか言ってたよな」と、僕は呉場を見た。

「ほう!」と、小見川が感心したように呉場を見た。老人も呉場を睨みつける。

「それで?」と、久遠寺が小見川に先を促した。

「もちろん、いつもですと、雨儀廊を通る絹垣の中は、ご神体が納められております」

「絹垣とは、あの、白い布の囲いのことだ」と、呉場が解説を挟んでくれた。

「通常、大御神様は旧社殿と新社殿の間につくられた秘密の門を通り、直接移動されるのですが……」

「雨儀廊を、通りたい、と?」と、呉場が続けた。

 小見川は頷いた。

「大御神様は、気まぐれですので。元々、式年遷宮も、大御神様の気まぐれのご発案だったようです」

 そうなの!? 何か意味のある伝統行事じゃないの?

「大御神様とは言え、式部どもが甘やかしすぎなのだ」

 一度喋って口が軽くなったのか、手束が言った。

「でも、言うことを聞かないと、……暴れますからな」

 小見川の言葉に手束は忌々しそうに呻くと、布囲いの中をちらりと見た。アマテラスはまだ頭──だと思う──に止まる蝿を気にして、頭を揺さぶっていた。

「それはともかく、突然、遷御当日の朝に言われましたわけで、大御神様が通るには雨儀廊の高さが足りませんし……」

「それで今回は雨儀廊が無かったということか」と言う呉場に、小見川が頷いた。

「ただでさえ忙しいのに、未明から総出で雨儀廊の取り外しです。おまけに絹垣も大御神様が隠れる大きさにしなければなりません。予行演習の時間などありませんし、階段で脚を引っかけたとしても一概に絹垣を持っていた禰宜を叱咤するわけにはいきません」

 あの、階段を踏み外した神主姿の男のことか。確かに、そんな突発的な大変更があったなら、アクシデントのひとつやふたつ起こっても不思議は無い。

「でも、あれは、それほど大したことじゃないでしょ。あの人だって、ひっくり返っちゃったわけじゃないし、ちょっと、よろめいただけだったじゃない。中身……、あの神様だって、見えなかったよ。ねえ?」と、テンコは僕に同意を求めた。

 僕は、頷くことが出来なかった。あの時……。

「えーと、見た、というか……、見られた、と言うか……」

 僕の曖昧なもの言いに、久遠寺とテンコはいぶかしげな顔で僕を見た。有畑は元々表情が見えないが、さっきからもう関係ないとばかりにそっぽを向いている。そして、呉場はなぜか、破顔した。

 手束は眉間に皺を寄せ、老人は唸るようなため息をついた。

 小見川がぽつりと言った。

「ひと目惚れ、なさいまして」

 ……。

 突然、全く突然に、アマテラスは椅子から跳び降りると、地響きを立てて布囲いを飛び出した。入り口の布が頭にひっかかり、布をさす叉で支えていた男が引っぱられて倒れ、さらに布を支えてた梁が折れて囲い全体が崩れた。

 逃げる間もなく、ややのけ反り気味の僕のすぐ目の前には、白い巨体がそびえ立っていた。アマテラスの頭には布が引っかかったままだ。まるで飼い主が遊んでくれるのを息を切らせて待つ子犬のように、身体を上下に揺らしている。

 恐怖で身体が動かない僕は首だけをねじ曲げて、小見川を見た。

「え……と、……なんですって?……」

「ひと目惚れだそうでございます」

「……えー。……誰が?」

「大御神様であらせられます」

 ちらりと目の前の巨体を見た。

 ほんのり身体がピンクがかって見えるのは、錯覚か?

「だ……、誰を?……」

「あなた様で、いらっしゃいます」

 アマテラスは大きく、恥ずかしそうに身体を揺すった。正確には、ぐねぐねと身体を揺らしただけだが。

「大体、禰宜どもの教育がなってないのだ!」と怒鳴る手束に、

「だが、これは警衛部の失態でもあるのだぞ! 高校生の侵入すら防げないとは!」と、小見川がやり返した。

 だが、そんなやりとりは僕の耳に入っていなかった。目の前がくらくらした。いろんなものが二重に見えた。久遠寺の唖然とした顔、呉場の笑い顔、テンコが驚きのあまり大きく口を開けているバカ面が、何重にもなって、目の前をぐるぐる回っている。

 そして、僕は叫んでいた。

「い、嫌だあっ! こんな、化け物ぉっっ!!!!」

 その瞬間──。

 すべてが静止した。小見川が、手束が、老人が──、たぶん、その場にいた全ての神社本庁の関係者が凍り付いた。

 恐ろしいほどの静寂の後、かがり火がパチンとはぜた。

 アマテラスが動いた。一瞬、踏み殺されるかと思った。身をこわばらせ、目をつぶってしまったのは確かだ。

 しかし、何も起きなかった。僕は恐る恐る、目を開けた。

 アマテラスは、よろめくように、後ずさっていた。道路に広がった白い布を引きづりながら、後戻りした。

「……まずい、まずいぞ……」という、小見川のつぶやく声が聞こえた。

 アマテラスは専用にしつらえられた椅子のところまで戻った。そして、椅子の段差に脚を取られるように、椅子に尻餅をついた。国宝級の椅子がベシャリと潰れた。

 その瞬間、風が吹いてきた。

「あ」と、テンコがスカートを押さえ、僕を睨んだ。

 え? 僕のせいじゃないだろ?

 だが、抗議をしている雰囲気では無かった。何か、変だ。背中を押してくるような風は、いつまでも止まない。気を許すと、身体が持って行かれそうになる。

 囲いの一部だった白い布が舞い上がり、アマテラスを包む混むように引っ付いた。

 風は止むこと無く、次第に強くなってきた。かがり火がバタバタと倒れ、火の粉をまき散らしながら、アマテラスの元へと飛んで行く。なぜか、風はアマテラスに向かって吹いていた。

 手束は老人をかばうように覆うと、ヘッドセットに向かって、

「特務機動第一小隊、前進! 退路を確保!」と、怒鳴った。

 次の瞬間、背後から強いライトが浴びせられた。いつの間にこんなに近くにいたのか、二台の大型輸送車が進み出て、中から機動隊員たちが飛び出して来た。特務機動隊員がヘルメットに付けている照明のビームが、かがり火を失った闇を切り裂いて交差する。彼らは、僕たちとアマテラスの間に盾を構えて並び、道路一杯の壁を作った。あっという間の整然とした行動だった。

 輸送車両のヘッドライトと特務機動隊員たちが放つ照明のビームが、アマテラスに集中し、辺りを昼のように明るく照らしていた。その光が、アマテラスの周りで起こっている、不思議な光景を照らし出した。

 押し潰された椅子の木片が舞い上がると、アマテラスに吸い寄せられるようにくっ付いた。まるで、磁石にくっつくクリップのようだが、木片だからあり得ない。

 さらに尻の下で震えていた板が、のけ反るように折れ、これも、アマテラスの下腹部にぴったりとくっ付くと、そのまま砕かれ始めた。椅子を構成していた板や木片や匠の飾りが次々に吸い付いて砕け、さらに細かく砕けると、アマテラスの身体にシミのように広がった。

「なんだ、これは?」と、有畑が呟いた。

「小見川! どうしたというのだっ!」どこかで老人が叫ぶ声が聞こえた。

「何が起こっているっ!?」

「神祇伯っ! ひとまずお下がり下さい!」と、これは、手束の声だ。

「……こ、これは……最悪だ……」小見川の声がどこか近くで聞こえたが、どこに居るのか見えなかったし、続きも聞こえなかった。むしろ全く聞こえなかった方が幸せだったかも知れない。

「……今、最悪、って聞こえなかった?……」すぐ後ろでテンコの声が聞こえた。いつの間にか僕の後ろで身を潜めていたらしい。

 テンコの質問に、僕は答えなかった。僕自身も聞かなかったことにしたかったし、それよりも僕はアマテラスの変化に釘付けになっていた。

 アマテラスの脚元周りが翳って来たのだ。後ろから照らす車両のヘッドライトが暗くなったのかと思ったが、そうでは無かった。実際に、黒いもやのようなものが、脚元から沸き上がっていた。

 アスファルトだった。道路の表面から剥がされたアスファルトの細かい粒子が、アマテラスに吸い寄せられていた。アスファルトの白く色あせた表面がはぎ取られ、その下の黒い部分が露出するのだろう。黒いシミの円が、アマテラスの脚元から、ゆっくりと広がり始めた。

「隊列維持の上、後退ー!」手束の叫ぶ声が聞こえた。

 盾をかざした機動隊員たちが、隊列を崩すこと無く、後退を始めた。僕たちも、彼らに押されるように後退する。だが、風はさらに強くなっていた。テンコは飛ばされないように、僕のジャージの背中をしっかりと握っている。

 アスファルトを覆う黒いシミは刻一刻と広がっている。一方、アマテラスの脚元では、大きな黒いアスファルト片が剥離し始めた。剥がれたアスファルトは脚元からアマテラスを覆って行く。

 アマテラスから広がる黒いシミの円が中央分離帯にまで達すると、設置されている金網が一気にアマテラスの方へ折れ曲がった。捻れはシミとともに広がって行く。側壁のコンクリートにもひびが入った。老朽化していたコンクリートの小片が剥がれ、中の鉄骨がむき出しになって行く。

 風はますます強くなり、次第に隊列も乱れて来た。機動隊員たちも盾を押さえるのが精一杯だ。否、すでに盾が飛ばされ始めていた。盾は一気にアマテラスまで飛んで、アルミのようにへしゃげて張りついた。さすがにやばい。僕は風に逆らって逃げ始めた。しかし、風と、背中にしがみついたテンコが邪魔になって、なかなか思うように進めない。

 一気に、無数の亀裂が道路に走った。同時に、道路が地震のように揺れだした。

「あれ何!?」

 背後のテンコの声で振り返ると、アマテラスの周りの道路が盛り上がっていた。そこからさらなる土ぼこりやコンクリート片が湧き上がり、アマテラスは濃厚な暗い灰色の霧に飲み込まれていた。

 嫌な振動とともに、アマテラスの周りから蛇のようなものが現れた。コンクリート基礎の鉄骨だ。ねじ曲がった鉄骨が次々とコンクリートから引き抜かれ、アマテラスの周りを蛇のように舞って、巻き付いていく。それとともに巨大なコンクリート片が、アマテラスの回りを固めていった。中央分離帯上の金網の一部も一気に引きはがされ、アマテラスの方へと飛んで行った。

 すでに道路に広がる黒いシミは僕たちを追い越すまでに大きくなっていた。道路全体にもやが立ちこめたようになっていた。もや、というより、いつかテレビで見た、南極平原を吹きすさぶ雪埃が近いかも知れない。ただ白ではなく、一様に黒いだけだ。その細かいアスファルトの粒子が裸足の足に当たって痛い。

 逃げなくては。そう思って向き直ると、いつの間にか目の前に機動隊員たちの乗ってきた輸送車両がいた。

 助けに来てくれた──。

 そう思ったのは一瞬だった。運転席に誰も乗っていなかった。

 誰も乗っていない二台の輸送車両が、アマテラスに向かってずるずると進んでいた。しかも、不規則に上下にバウンドしている。そして、その一台が大きくバウンドした時。

「あぶないっ!」と、声を出したのはテンコだ。

 輸送車両の前には、機動隊員たちが居た。彼らは盾を押さえることと前方の異常な光景に神経を集中させていたので、輸送車両の事態には全く気が付いていなかった。だが、テンコの発した声が機動隊員を助けた。彼らが振り返るのと、一台の輸送車車両が浮き上がるのが、同時だった。

 それでも、隊員たちが逃げる時間があった。逃げられなくても、伏せる時間があった。幸いにもバウンドして浮かび上がった車両は、伏せた機動隊員の頭上を越えると、道路に着地して横倒しになった。

 さらに一台の輸送車両が倒れた車両にまっすぐ突っ込んで行った。倒れた車両の下部に突っ込んだ輸送車両は運転席がつぶれ、勢いで大きくバウンドして、道路を転がり続けた。道路に衝突するたびに、火花とともに車体は潰れ、破壊されて行く。

 そして破壊され、はずれた細かい部品とともにアマテラスの作り出す埃の塊の中へ消えて行った。暗い灰色の埃の中で、廃車車両がプレスにかけられるような音が聞こえた。横倒しになっていた車両も火花を上げて引きずられていたが、ぼろぼろになった道路の凹凸で大きくバウンドしながら転がり、もう一台と同じ運命をたどった。

 これで機動隊員たちの士気が吹っ飛んだ。盾を手放すと、三々五々逃げ出したのだ。あっという間に僕たちを追い抜いて逃げ、そして、僕たちは取り残された。

 照明が無くなったせいで、辺りは真っ暗だ。否、それだけのせいではない。道路上を吹きすさぶ土ぼこりのせいで視界が悪い。

 すぐ近くの道路上を何かが、ものすごい音を立てて転がって行った。土ぼこりの中で緑色の灯りが明滅していた。非常電話のボックスだった。

 僕は力を振り絞って風に逆らうように進み、思い切り伸ばした手でなんとか側壁に掴まった。すでに風はかなり強く、腰から下が風に持って行かれそうになる。肩にしがみついているテンコの体重が乗っていても、引っぱられる僕の身体は、ともすれば浮きそうになる。側壁を掴む腕がちぎれそうだった。

 否、これは風のせいなのだろうか。僕の身体自体が引っぱられているんじゃないのか? アマテラスに吸い付く瓦礫のように。

 近くにあった非常電話の表示塔が折れた。次の瞬間、灯の根元がコンクリートから抜けて吹き飛んだ。非常電話ボックスの灯りが消え、へし折れる音がした。背中からテンコの悲鳴が聞こえた。

 その悲鳴をかき消すように、背後でものすごい音が起きた。何かとてつもないものが崩壊する音だ。

「何、あれ?……」

 揺れと音が大きくなり──。

 次の瞬間、目眩かと思ったが、道路が大きく傾いていた。

 身体の下から道路の感覚が無くなった。いまや、僕の身体──と、テンコの身体──を支えているのは、側壁を掴んでいる僕の両手だけだ。しかも揺れと崩壊音は鳴り止まない。何が起こっているのか、全く分からないが、とんでもないことが起こっているのは確かだ。

 近くで何かが崩れる音がして、再び、道路が大きく傾いた。僕の片手が側壁から離れて、バランスが崩れた。その瞬間、小さな叫び声とともに、僕の肩を掴んでいたテンコの力が、ふいに緩んだ。

 僕は、思わず手を伸ばした。

 その手が、テンコの手首を掴んだのは全くの偶然だった。テンコも僕も宙に浮いていた。側壁を掴む手も、テンコを掴む手も千切れそうだった。

「掴まれ、テンコ!」

 大きな揺れは収まっていたが、身体の下では、まだ何か大きな崩壊音が続いている。剥がれた大きなコンクリート片や鉄骨が、すぐ近くを落ちて行く。テンコは空いている手を必死に伸ばそうとした。だが、風に翻弄される中では至難の業だった。

「無理っ!」

「掴まるんだ!」

 突然、大きく道路が下がった。僕はかろうじて耐えたが、テンコがバランスを崩した。ほんの数ミリだが、僕の手から抜けそうになった。

 テンコは僕の顔を見て言った。

「放して」

「諦めるなっ!」

 そうテンコに言ったのは、自分自身を奮い起こすためでもあった。側壁を掴む僕の手も限界だった。

「パシリっ、放してっ!!」

「放さないっー!!!」

「走太ーーっ、放せーーーっ!!!」

「離すかああぁーーっっっ!!!」

 次の瞬間。

 突然、引っぱられる力が無くなった。

 テンコが落ちた!

 蒼白になった瞬間──。

 僕は、全身を打った。アスファルトの上に落ちたのだ。そして、僕の手の中には、まだテンコの腕がしっかりと握られていた。僕たちを翻弄していた力が消えたのだった。

 幸いなことに、大きく傾いではいたものの、まだ僕たちの下に道路はあったのだ。引っぱられる力で、重力の感覚が──上下横の感覚が狂っていたのだろう。

 何か冷たいものが、ぽたりと手の甲に落ちた。

 雨?

 暗くて分からなかったが、それで、僕はまだしっかりとテンコの手を握っているのに気がついた。いつまでも握っていると、また悪態をつかれる。僕は離そうと手を開いたが、テンコはまだしっかりと握ったままだった。

 仕方なく、僕は代わりに側壁を掴んでいた手を離した。指がこわばっていて、思った様に開かない。小さな擦り傷だらけで血がにじみ、しびれるような感覚しか無かった。

「……テンコ、大丈夫か」

 暗闇の中、握っている手の方に言った。

 一瞬、さらに強く握られたが、ふいに、手が離された。引きずるような音が近づいて来た。テンコが上ってきたようだ。

 思ったよりすぐ近くで、ふいに微かな声が聞こえた。

「……がと……」

 なんだって? よく聞こえなかったんだけど。

 次の瞬間、僕の唇に何か柔らかいものが触れた。そして、それは、あっという間に消え去ったのだけれど。もう、その感覚さえ思い出せない、それくらい、微かな仄かな感触だった。何かの錯覚だったのかも、とさえ思い始めている。

「……もし」

 今度は、テンコが静かに、はっきりと言った。

「もし、あの時、パシリが手を放していたら、孫子の代まで祟ってやるつもりだった」

 離せって言ったじゃん!

 そんなに重要な運命の選択だったのか。すっげー、危なかった!

 その時、何か発射音が響いた。火花が夜空を駆け上って行った。数秒だが、場違いに、星が綺麗だな、と思った。次の瞬間、辺りが昼のように明るくなった。今さっき上がったのが、照明弾だと気が付いた。

 逆光に、僕の近くで四つん這いになっているテンコの姿が浮かび上がった。テンコが照明弾の方を振り返る一瞬、頬に光るものが見えた気がしたが、そんなわけは無いだろう。それより僕は、灯りの中に自分の現在の境遇を見て唖然とした。自分たちがまさに危機一髪だったのが分かった。

 僕たちの周りの道路はあちこちで亀裂が走り、大きな段差ができていた。段差から、見える歪んだ鉄骨や千切れた配線が生々しい。そして、僕たちからわずか二、三メートル先では、高架の道路は大きく落ち込んで、恐怖の滑り台と化していた。その先は、照明弾の光も届かず、漆黒の闇が口を開けていた。

「おい、大丈夫か?」と、呉場の声がした。振り返ると、瓦礫の上から呉場が見下ろしていた。

「ああ、なんとか」と、立ち上がった。

 傾いた道路を上がろうとすると、

「手ェ、貸してよ」と、四つん這いのままのテンコが僕に向かって手を伸ばしていた。

 自分で立てるだろう、と思ったが、手を握った。一瞬、テンコは顔を背け、手を引っ込めようとした。

 嫌なら手なんか出さなければいいじゃないかと思ったが、また強く握り返して来たので、思い切り引いて立ち上がらせてやった。テンコは少しよろめいた。

 さっきはあんな暴言を吐いたが、案外、腰でも抜かしていたのかも知れないな、と思った。まあ、所詮は、女の子だ。こいつでも女らしいところがあるということか。

 すると、テンコは、

「冷たいし、痛いわ!」と、言った。見ると、裸足だった。

「スリッパ、持っていかれちゃったじゃないの!」と、僕を睨んだが、僕のせいではないだろ? 命があっただけでも御の字と思えよ。第一、僕なんか、昨日からずっと裸足だぞ。

「パシリとおそろいなんて最悪」

 前言撤回だ。こいつに、女らしいところは無い。というか、人間らしいところが無い。

「ところで、さっきと今、私の手を握ったことも、ラッキーデーポイントにカウントよ」

 そう言うと、僕をさっさと追い越して、上がって行った。やっぱりかよ、とため息をついて、後を追うように、僕も上がった。

 辺りを見回すと、被害は一定の範囲内だけだったらしい。逃げ切った楽師や装束姿の男たちが呆然として集まっているのが見えた。命からがら逃げた機動隊の連中も、あまりの事態に不安気だ。

 有畑も、久遠寺も居た。有畑は、あの騒動の後でもしっかりとマスクとサングラス、それに、相変わらずマフラーをしていた。神社本庁最高責任者を名乗った老人も居る。歩きにくそうな木靴で瓦礫を踏みながら、老人は悪態をついていた。

 手束が崩れた道路の端に立って、下を見下ろしていた。手束の手には太い銃のようなものが握られていた。察するに、彼がこの照明弾を上げたのだろう。

「これは、どういうことですか?」久遠寺の声がした。久遠寺は老人を捕まえ、詰問していた。

「うるさいぞ、女っ! 小見川はどうした!」

 そう言えば、あのおじさんはどうしたのだろう。姿が見えないが、もしや……。

「とにかく、あなた方神社本庁は文部科学省の管轄にあります。この件は大至急、文科省に報告します」

 久遠寺が出したタブレットを、老人は笏でたたき落とした。タブレットは瓦礫にあたり、ガラスに無数のひびが入って壊れた。

「何をするんです?」

 突然タブレットを壊されたにしては、久遠寺の声は冷静だった。老人はぎろりと久遠寺を睨んだ。

「女。たかが文部科学省の小役人が、出過ぎた真似をしない方がいい。おまえさんたちなど、どうとでもなるのだぞ。このことは忘れるのが一番じゃよ。他言無用。もっとも……」と、老人は続けた。

「おまえさんが報告しても、上まではいかんじゃろうが……」

 老人の鼻先で笑ったような顔を、久遠寺は静かに見つめ返した。

「……いけすかない爺いね。まるで水戸黄門に出てくる悪代官」と、テンコが小声で言った。

 老人は久遠寺との話に切りを付けると、辺りを見回して怒鳴った。

「小見川、小見川はどうした!」

 本当にあの人、死んだんじゃ……?

 そう思った時、中央分離帯の向こうから白装束の男が顔を出した。小見川だった。ちゃんと生きていた。さすが団塊の世代はしぶといな。

「小見川っ!! 一体、これは、何事だ! 説明せい!!」

 小見川は老人の声に答えなかった。見ただけでも、相当うろたえているのが分かった。老人の声など耳に入っていないのだろう。小見川は中央分離帯沿いによろめき歩くと、分離帯の崩れた部分から、崩壊した道路の下を見つめた。

「た、た、た、大変だ……」

 僕は小見川が見つめる先を見た。そこは道路が落ち込んだ先で、空をゆっくりと落ちてくる照明弾の灯りからは陰になっていた。

 あそこに何があるのだろう。そう言えば、あの怪物──アマテラスはどうなったのだ?

 一筋の光芒が走った。手束が握っている強力なライトが闇を裂き、底を照らし出した。

「あれは、何……?」いつの間にかそばに来ていた久遠寺がつぶやいた。

 ……瓦礫、だろう。そうとしか見えなかった。

 別なビームが走った。小隊の連中が集まって来て、それぞれのヘッドライトで谷の底を照らし出していった。高速道路の上から見下ろす人々にざわめきが広がって行った。

 その光の中に見えたのは、やはり瓦礫だった。だが、ただの瓦礫では無い。巨大な瓦礫の塊だ。コンクリートや金属で出来た巨大な瓦礫のボールが、粉砕された道路の山の上に鎮座していた。

「なんだ、これは……」と、老人が言った。

「大変だ、大変だ……」青くなってうろたえ続ける小見川に、老人は一喝した。

「何を言っている、小見川! 大御神様はいかがなされたのじゃっ!」

「大御神様は──」小見川は、真っ青な顔をこちらに向けた。

「岩戸隠り(いわとごもり)されました」



               16


 照明弾の灯りがふいに薄暗くなり、やがて瞬いて消えた。辺りは再び闇になったが、機動隊のヘルメットで輝くライトのおかげでかなり明るい。

「引きこもり?」と、テンコが訊いた。そうじゃなかったと思うが、僕も確信が持てない。

「……岩戸隠り、だと?」

 瓦礫の塊を見下ろしていた黒装束姿の男の一人がつぶやいた。

「あれがそうなのか?」

「初めて見たぞ」

 集まって来ていた他の楽師や装束姿の男たちの間でざわめきが走る。

「ねえ、引きこもりってどういうこと?」と、またテンコが訊いた。

 イワトゴモリだってさ。意味は知らないけど。

「古事記にあるわね。確か──」と、久遠寺が言った。

「弟のスサノオの命があまりにも傍若無人だったので、天照大御神はそれを嘆いて、天の岩戸という岩屋に閉じこもってしまった。太陽神が隠れてしまったので、世界は闇になったと。それから、まあ、なんやかやで、機嫌を直した天照大御神が出て来て、ああ、良かった、とかなんとか。それが、天照大御神の岩戸隠りの話」

 という感じよね、と、久遠寺は小見川たちにではなく、呉場に訊いた。

「ええ」と、呉場は、瓦礫のボールを興味深げに見ながら応えた。

「なんだ、やっぱり、引きこもりじゃん」と、テンコ。

 有畑は瓦礫の塊を見つめ、

「……一体、どういう力が働いたんだ?」と呟いた。

「物理学はあなたの専門でしょ」久遠寺がそう言ったが、有畑はそれを無視した。否、耳に入っていないのか。

「距離の二乗に反比例……巨大な引力ということか……? しかし、そんな馬鹿な……、あの大きさからすると質量は……」

 ぶつぶつと呟き続ける有畑に、久遠寺は肩をすくめると、僕の方にやってきた。

「やあ、モテ男クン」

 すげえ、嫌味だ。もしや、タブレットの恨みを僕で解消する気なんじゃないだろうな。

「これであなたも一安心ね。もう、強烈なストーカーから追われなくて済むんだし」

 まあ、確かにそうだ。

「青少年をストーカー被害から守るべく力を入れているわが文部科学省にとっても、嬉しい限りです」

 嬉しいと言いながら、久遠寺の顔は相変わらず無表情だけど。

「とりあえず、僕たちは解放されるのかな……」そう言うと、手束がぎょろりと睨んだ。

 ダメらしい。

「さてと、この、女性にぐいぐい身体を押付けて下半身を濡らしてしまった男の子クンはともかく……」

 手束がぎょっとした顔で僕を見、視線を僕の下腹部に落とした。

「どうやら私たちには直接関係のないことのようなので、そろそろ私たちは解放して欲しいんですが」と、久遠寺は立ち尽くしている老人に言った。

「この事態については、ひとまずあなたのご意見に従います。それよりも、私たちは火急にしなければならないことがあります。那智勝浦核融合実験炉の廃炉についてのスケジュールを……、あら?」と、突然、久遠寺が言葉を切った。そして、僕たちに言った。

「この人、気絶している」

 久遠寺の言葉に老人を見ると、なんと老人は立ったまま白目を向いて気絶していた。

「今、なんと言った!?」そう言ったのは、有畑だ。

「……この人、気絶している」と、久遠寺は答えた。

「違うっ! 有畑型核融合実験炉を廃炉にするだとっ!?」

「有畑統括主任。おそらく、もう何時間かで退任の辞令が下ると思いますが、わが文部科学省はこれ以上、実現性の無い有畑型核融合実験炉の事業計画の取りやめを決定しました」

「いや、まてっ! 実現性がないだとっ? そんことは無いっ! この俺が考えたシステムだぞっ! 有畑型核融合方式は前例のない画期的なシステムだぞっ!

 予算さえ、予算さえあれば、確実に動作するんだ! 日本の、──地球のエネルギー問題を根底から覆す、画期的な核融合炉だぞ!」

 熱い口調の有畑に対して、久遠寺は冷静だ。

「確かに実験炉の基本的な原理とシステムは画期的です。ですが、それを支える構造体の強度や材質には、まだ未解決の問題があります」

「その開発にも予算が必要なのだ!」

「実験炉はすでにかなりの損傷を被っています。損傷部分の撤去だけでもどれだけの月日と費用がかかるか。いいですか、文部科学省の予算には限界があるのです。費用対効果が見込めるものに最優先の予算が配分されるのはいたしかないことです。無駄には出来ないのです、国民の税金ですから」

 久遠寺は、壊れた道路を見回し、

「これも、税金が使われるのかしら……」と、小さくつぶやいた。久遠寺は有畑に向き直り、さらに言った。

「大体、あなたは逃げ出しておいて、今更何を仰っているんです? どうせ、アメリカかドイツ辺りに高飛びするつもりだったんでしょう?」

 立ちつくしていた有畑は、その場にしゃがみ込むと、何かぶつぶつ呟きながら指で地面に数式を書き始めた。

「……大人の世界って、つらいわねえ」と、テンコが呟いた。

 反応は、子供だけどな。

「ええいっ! お前たちはこの大事な時に、何を呑気なことを言っておるのだっ!!」と、小見川が駆け寄って来た。

 地球のエネルギー問題は、呑気なことでは無いと思うけど。あと、有畑にとっては生涯の研究者生命とかかかってんじゃないのかなあ。

「ねえ、この人、気絶しちゃっているみたいなんだけど」と、久遠寺は、小見川に老人を指差した。

「じ、神祇伯殿っ!!」

「この人が気絶しちゃっているってことは、あなたが責任者でいいのかしら? 私たち、早々に引き上げたいのですが」

「何をこの大事な時にっ! お前たちを帰すわけにはいかんのだっ!」と、小見川が言った。

「特務衛士長っ!」

「第一小隊っ、固めっ!!」手束の号令ととに、機動隊の連中が僕たちの周りを囲んだ。盾はすでになかったが、いずれも警棒で武装していた。驚いたテンコが僕の脇腹を掴んだ。

「……ぶっそうね」と、久遠寺が呟いた。

「一体、何が一大事というの? まあ、確かに、この自動車道の惨状は一大事ね。でも、あの──」と、久遠寺は道路下の瓦礫のボールを顎で示した。

「状態は、逆に好都合でしょ? あのままさっさと、伊勢神宮に運んでしまえば良いじゃないの。丁度、中のあいつも衆目にさらされないで済むし。

 急いでやった方がいいんじゃなくて? いつまでもだらだらやっていると、夜が明けて、見物人が増えれば、いろいろ作業に支障が出るんじゃないの?」

 そう言いながら最後に久遠寺が見たのは、手束だった。確かに、小見川より手束の方が現実的なタイプだ。実際、手束は躊躇したように、小見川を横目で見た。

「おまえは、何を言っているんだ。大御神様は岩戸隠りされてしまったのだぞ」

「ええ、だから、今のうちに運んでしまえばいいと言っているの。夜が明けないうちにね」と、久遠寺は冷静に同じことを繰り返した。

「だから、岩戸隠りされてしまったから、夜は明けないのだ!」

 え?

「何を言っている?」と言ったのは、仲間であるはずの手束だ。

「おまえこそ、何を言っている」と、小見川は手束を睨んだ。

「知っているはずだぞ。いや、知っていなければならんのだ。衛士長は、過去の祭祀や出来事に関して、書庫内の全ての書物や文献に目を通す決まりなのだから」

「あそこは」と、スキンヘッドは、宿題を忘れた学生のように目を逸らした。

「カビ臭くて、好かん」

「これだから、頭が筋肉のヤツは……」と、小見川が毒づいた。

「ちょっと、待って。そんなことより、夜が明けないって、どういうこと?」と、久遠寺が割り込んで、筋肉バカと祀りバカの争いに終止符を打った。

「だから、何度も言っておろうが! 貴様もさっき古事記を読んだと話していたではないか! 天照大御神様が岩戸隠りして太陽が隠れた、と! 見ろ! 天照大御神様は岩戸隠りされたのじゃ! だからもう、太陽は二度と昇らないのだっ!」

「どうやら、本当のようだぞ」スマホを操作しながら、呉場が言った。気絶している老人以外の全員の視線が、呉場に集まった。地面に数式を書いていた有畑すら顔を上げて呉場を見た。呉場は、忙しくタップやフリックを繰り返して、さらに言った。

「世界各地で、太陽が突然消えたらしい」

 呉場らしい冗談だ。

「ねえ、君。そんなつまらない冗談は──」そう言いかけた久遠寺の言葉を、テンコが遮った。

「本当みたい……。<太陽><消えた>で検索すると、ものすごい数のブログやツイッターがヒットするわ」

 その言葉に久遠寺の眉が曇った。彼女にしてはレアな表情だ。

「ちょっと、貸して!」と、久遠寺がテンコのスマホを奪った。久遠寺は、抗議の声をあげるテンコを無視して、呉場同様にすばやい動きでスマホを操作し始めた。

 ふくれたテンコが俺を睨んだ。僕を睨んでもなあ……。

「……なんだ、これは……。一体、どうなっている?……」

 いつの間にか、有畑も自分のスマホをいじっていた。サングラスでよく見えるもんだな。

「……本当に、太陽が消えた……」

 久遠寺はスマホから顔を上げると、呆然とそう言った。

 テンコはチャンスとばかりにスマホを奪い返すと、そそくさと僕の後ろに隠れた。お前は、子供か。猿か。否、そんなことより。

「太陽が消えた? マジで?」

 久遠寺が僕の顔を見た。その顔は今まで見たことも無いほど、青ざめていた。

「パニックが起こり始めているわ……」

 マ、マジかよ?

「ちょっと、待て。本当なのか? 太陽が消えた?」そう言ったのは、手束だ。

「そんな馬鹿なことがあるか!」

「本当よ」と、久遠寺がやけに静かに言う。実務的な人間なのだろう。事実と判断したら、どんな突拍子も無いことも受け入れてしまうようだ。まだ少し、顔色が悪かったが。

 久遠寺の容赦ない簡潔な言い方に、一瞬手束はひるんだものの、

「俺はこの目で見ないと、そんなことは信じられんぞ!」と、吐き捨てた。

「今、三時四十五分だ。今日の名古屋の日の出の時刻は……、五時四十八分。普通ならば、あと一時間半くらいで東の空が明るくなり始めるはずだ」と、スマホから顔を上げた呉場は破壊された道路の向こう側の空を指差した。

 僕と、そして、その言葉を聞いた人たちが全員──、小見川を除いた全員が、東の空を見た。月の無い空には、満点の星が輝いていた。

「あと一時間半で、自分たちの目で確かめられるのか」と、僕は言った。

「全世界から太陽が消えた──。私はそのことについてはもう疑っていないわ。でもなぜ、アレが閉じこもると、太陽が消えるのかが知りたいわね」と、久遠寺が言った。

「大御神様を、アレ呼ばわりするでない! 何をいまさら言っているのだ」と、小見川は呆れた表情で──幾分、自慢げな表情で、言った。

「何度も言っておろう。あちらに座すは、本物の天照大御神様じゃ。本物の太陽の神であらせられるぞ。太陽が隠れられたら、太陽が消えるのは当たり前。

 『かれ、ここに、天照大御神畏みて、天の岩屋戸を開きてさしこもりましき。ここに高天原、皆暗く、葦原中国、悉に闇し』

 古事記にもそう書いてある。おまえさんも言っていたでは無いか」

「ちゃんと読んでいるわけではないわ。学習指導要領にも入ってないし、知識として知っているだけ。でも、あれは、ただの物語……」

「ではない、と、言ったであろう」

「待て、待て、待てぃ!」と、時代劇の魚屋よろしく割り込んで来たのは、有畑だった。

「水素とヘリウムの塊である太陽と、あの生きものと一体、どんな関係があるというのだっ!」

「また、おまえさんか……」と、小見川が嫌な顔をした。

「待てよ、待てよ、待てよ……」と、これは、有畑の独り言のようだ。どうも、自分が理解できないことが起きて、少しおかしくなってるみたいだ。

「確か、そんなSFがあったな。『鞭打たれる星』か? 確か、恒星の別の存在形態が地上に現れる話だったな。フランク・ハーバートだったか? ……いや、しかし、あれはSFだ、フィクションだ、ファンタジーだ!」

「何を言っているのか、全然分からん」と、小見川は眉をしかめた。

「だが、その、フランク・ソーセージという輩は、天照大御神様のことを知っていたのかも知れんな」

「そんな、わけが無かろうっ!!!」と、有畑は激昂して即座に否定した。

「いや、ハーバートのことはどうでもいいんだ。どうして、あの生き物が隠れると、太陽が消えるのだ?」

「それは、天照大御神様は、太陽そのものであらせられるからだ」

 まるで堂々巡りだ。

「……全然科学的じゃない。物理法則はどうなる?」

「科学だの、物理学だのとは、たかだか数千年、ここ最近のことであろう?」と、小見川が言った。

 ……うーむ、数千年が最近なんだ。

「我々は、いつのことは言えぬほど遥か太古の昔から、天照大御神様をはじめ、様々な神々を祀り続けもうしておる」

 今、さらっと言ったけど、やっぱり他にもこういうのが居るってこと……? 誰かつっ込んでくれないかな。僕は怖くて聞けないけど。

「天照大御神様に対しては、毎日毎日、太陽が昇るように機嫌を取り、あがめておるのじゃ。お前たちが当たり前のように日々太陽の恩恵を受けられるのは、我らが務めのおかげじゃぞ! それを──」と、小見川は、手束を睨んだ。

「祀りバカなどと言いくさりよって」

 手束は苦虫を噛み潰したように、岩戸隠りしたアマテラスを見下ろした。

「でもなんで、日本が全世界を代表してアレを祀っているの?」久遠寺がまっとうなことを聞いた。僕もそこが知りたい。

「他の国のことなぞ知らんわ。大体、国などという概念が始まるより前から、我々の祖先は天照大御神を祀り申し上げておる。まあ、ほれ、日本の天皇も昔は『日出づる処の天子』と称したではないか。これこそ、我が国こそ天照大御神を祀り申し上げることが適任という証ではないか」

 それは、こじつけだと思うがな。

「ところで、太陽が昇らないってことは、日焼けとか気にしなくていいのかしら?」と、テンコが能天気なことを言った。

「太陽が無ければ、気温は上がらない」と、呉場が言った。

「寒くなるのかあ」と、テンコは制服のスカートをちょっとつまんだ。

「ミニスカート、つらくなるなあ。今でも、冬はつらいんだよねえ」

 そうなのか? 皮下脂肪が多そうだが。……絶対、口に出して言えないけど。

 大丈夫、と、呉場は続けた。

「そんな心配は無用だ。植物は育たず、食物連鎖がくずれ、人間を含め動物は死に絶える。地球は全球凍結し、99%以上の生物が絶滅するだろうね。地球誕生以来最悪の大量絶滅だ」

「えー、まずいじゃん」

「太陽光発電が使えんというだけでは済まんのか。このあいだ家の屋根に取り付けたばかりなのだが」と、手束も言った。ここにも、テンコ並の人間がいたよ。

「ねえ」と、久遠寺が言った。

「確か、古事記では、再び天照大御神が現れたのよね」

「うむ」と、小見川が自慢げに語り出した。

「『かれ、天照大御神出でましし時、高天原も葦原中国も自ら照り明かりき』」

「そんなのは、良いのよ」と、久遠寺はあっさり、切り捨てた。

「一体どうやったの? 同じ方法は使えないの?」

「もちろん、それしかありますまい」と、小見川が答えた。

「なになに、解決策があるってこと!? 一体、どうするの?」と、テンコ。

 ふむ、と、小見川は顎をさすって、巨大な瓦礫の玉を見た。

「では、まず、下に降りましょうか。……天照大御神様を見下ろすとは、不敬虔極まりないですからな」



               17


 僕たちは、自動車道に設置された非常階段を使って地上に降りることになった。神社本庁の特務機動隊員たちが道路面から降りるための折り畳みはしごを手際よくセットする。そこを降りると自動車道の脇に取り付けられた階段に出た。

 辺りを見回すと、街頭で照らし出されている町並みにあまり民家は見えなかった。どうやらここらは倉庫街らしい。道理で潮の香りもしたわけだ。なるほど、神社本庁もリスクは最低限に押さえて、この場所を選んでいたということか。

 歩く度に鉄の階段に大きな音が響く。僕もテンコも装束姿の男たちに靴を借りることが出来ていた。靴と言っても、彼らと同じ木靴で、大きくて履きにくい歩きにくいことこの上ないが、裸足よりマシだ。下に降りれば、瓦礫だらけなのだ。ちなみに、桐の木で出来ている、と、木靴を渡してくれた装束姿の男が言っていた。

「赤ずきんちゃんみたい」と、テンコは案外お気に入りだ。赤ずきんちゃんって、木靴だったっけか?

「そうじゃないの? オランダ人て、木靴でしょ?」

 まあ、オランダ人はなんとなく木靴のイメージはあるが、その前に、赤ずきんちゃんってオランダ人だっけ?

 非常階段は自動車道の下側へ入り、急な螺旋階段へと続く。

 テンコは螺旋階段にさしかかると、

「パシリ、後ろ、振り向かないでよ」と言った。

 別にスカートの中なぞ見えやしないだろう。

「突然の突風てこともあるじゃないの」

 突風は常に突然だよ。それに、後ろに目は無いんだから、見えるわけが無い。

「そうなの? パシリならあるんじゃない? それだけのために無理矢理進化してそう」

 そんなわけあるか。

「だったら、先に行けよ」

「嫌よ。後ろから突き落とされるかも知れないじゃない」

 そんなことしねえーよ! どんな人間だと思われているんだよ、僕。

 地上に降りると、自動車道が崩れたところを中心に、今は見慣れた白囲いで覆われていた。作るのにも、もう、手慣れたものなのだろう。大きさ的には今までで最大級のこの布囲いも、特務機動隊とともに、あっと言う間に作り上げていた。

 布囲いの前には、気絶から復帰した神祇伯の老人がいた。相変わらず苦虫を噛み潰したような顔で、小見川と話をしている。

「用意ができるまで、わしは外で少し休む」

 小見川が、はは、っと頭を下げると、神祇伯の老人は、

「手束!」と叫んだ。

 その声に、手束が布囲いから出て来た。手束は老人とともに僕たちの脇を通り、装甲車が並ぶ方へと歩いて行った。すれ違う際、手束はヘッドセット越しに誰かと話していた。

「……そうか、……15は、移送中か。よし、いそげ……」

 小見川は布囲いの入り口を開け、僕たちを中に招き入れた。

 布囲いの中には、あの巨大な瓦礫の玉があった。すでに機動隊の連中が、投光器を設置して、瓦礫の玉を明るく照らし出している。もう、かがり火だの、松明だのという演出は、止めにしたらしい。

「これが、岩戸隠り……」

 久遠寺が瓦礫の固まりを見上げて言った。

「……俺は認めんぞ。認めんぞ……」

 有畑が後ろでぶつぶつと呟きながら、忙しくスマホを操作している。黒々としたサングラスに、サーチライトに照らし出された瓦礫の玉がくっきりと反射して映っていた。

 僕は、瓦礫の玉を丹念に見た。

 あれは、輸送車両のウインカーだろうか。あれは、機動隊員の盾みたいだ。……金属やコンクリート、プラスチックなど様々な瓦礫が、みっしりと丸い玉を形成している。前衛芸術家の作ったオブジェと言われても、違和感の無いものだ。

 ただし、でかい。直径は七メートルはあるだろうか。アマテラスも大きかったが、そのアマテラスがすっぽりと入る大きさなのだ。この大きさだと、さらなる迫力がある。しかも、三メートルほどの瓦礫の山の上に鎮座していた。

「すげえな……」と、思わず口をついた。

 僕の声に反応したのか、突然瓦礫の玉の真ん中に亀裂が入った。思わず、みんな後ろに下がった。

 囲いの中で作業をしていた装束姿の男や機動隊員たちも、動きを止めた。全員が息を飲み、空気が張りつめた。

 だが、それ以上、何も起きなかった。否、正確には、僕以外は気が付かなかったと言った方が良いだろう。

 僕は見られている感じがした。亀裂の向こう──アマテラスに。

 否、もう一人、そのことに気が付いている人物がいた。小見川だ。小見川は、僕のところに近づいてくると、手をすりあわせながら言った。

「いかがですか、そのお、大御神様とおつきあい願えませんか。さすれば、これより先、手間ひまかけずに万事うまくいくのですがねえ……」

 久遠寺がするどい目で眼鏡の奥から、僕を見つめている。いつの間にか控えていた手束も、興味津々の顔で僕を見ている。テンコは他人の恋バナにわくわくしている小学生のような顔で僕を見ている。呉場はにやにやと笑っていた。そして、有畑もスマホから顔を上げて、僕を見ていた。有畑のサングラスには、情けない顔をした僕が映っていた。

 僕は、大きく息を吸って、答えた。

「嫌だっ!!」

 ガシャっ!、という大きなものが潰れるような音がして、瓦礫の球体に開いていた亀裂がぴったりと閉じた。囲いの中の全員に、嘆息めいた雰囲気が流れた。どこかで舌打ちさえ聞こえた。

 ちくしょう、他人事だと思いやがって!

「パニックが広がっているな」と、スマホに目を戻した呉場が言った。

「特に、日中に突然太陽が消えたアメリカ大陸が大変だ。宗教的祈りの集会はまだしも、各地で暴動が起きている」

 さもあらん、と、小見川が頷いた。

「大御神様のご威光無くば、このざまじゃ」

「それで、古事記ではどうなっているの?」と、久遠寺が聞くと、小見川は胸を張って語り出した。

「古事記によりますと、『ここに以ちて八百万の神、天の安原に神集ひ集ひて』──」

「それは、いいから」と、久遠寺がいらだって遮った。

「えー、まずは、常夜の長鳴き鳥を集めて鳴かせた、と、ありますな」

「トコヨのナントカ、ってなあに?」と、テンコ。

「ようするに鶏だ」呉場が言った。

「鶏……?」

「鶏は朝に鳴くだろう? つまり、朝が来たと思わせるわけだ。朝だから、さっさと外に出て、世界をお照らしください、と」

「超ダサな作戦ねー!」

 テンコは容赦ない。小見川が、むっとしたが、僕も同じ思いだ。

「昨夜、遷御の儀が始まる時──」と、呉場が続けた。

「鶏鳴三声、つまり、鶏の鳴きまねが三度しただろう? あれは、この岩戸隠りの故事に由来する」

 ああ、そんな事があったな。

「で、それで、──そんなことで、めでたしめでたしだったの?」と、久遠寺が訊いた。

 確かにそんなので解決するのなら鶏を連れて来て鳴かせれば済むことだ。

 案の定、小見川は首を横に振った。

「古事記によれば、少し、お覗きになられたものの、また籠られてしまわれたとある。さすがは大御神様、このようなことで騙されはせん!」と、胸を張って言った。

 でも、少しは開いたんだ……。

「古事記に曰く、『天宇受女命あめのうづめのみこと、天の香山の天の日影を手次にかけて、天の真拆を鬘として、天の香山の小竹葉を──』」

「暗唱はいいから」と、再び久遠寺は容赦なく遮った。

「計画書は分かり易く、簡潔に。資料、付表は別添えで提出。企画計画書、予算書、資料は各十部づつコピーし、本日午前十時までに、東京都千代田区文部科学省十五階特別政策局支援課事業推進室へ提出のこと」

 え、え、え?、と、小見川がうろたえた。

「……ですが、緊急事態ですので、特例で口頭提案を認めます」と、久遠寺は言った。

「で、次は?」

「え、あ?、そうか、すまんの……」と、小見川は久遠寺のペースに嵌まっている。

「古事記に記されている次の計画こそが、メインイベントじゃ」小見川の顔が引き締まった。

「この作戦は、ここにいる全員に参加していただく。皆の力にかかっておる」

 小見川はするどい目付きで、僕たちの顔を見回すと言った。

「覚悟は良いか?」

 これは質問では無い。確認だ。誰も口をきかなかった。テンコですら緊張の面持ちだ。

 呉場もじっと、瓦礫の玉を見つめている。ただ──。

 なんとなく呉場が薄ら笑いをしているような感じがするのは、気のせいか?

 そして、久遠寺が静かに言った。

「……わかったわ。何をすればいいの?」

「パーチー、じゃ!」

 ん?

 パーチーとはどういう字を当てるのだろう? 今日は古語や専門用語ばかりで知恵熱が出そうだよ。

「パー……チー……?」

 久遠寺にも分からないらしい。

「パーチーじゃ、パーチーじゃ」と、小見川はもどかしそうに言う。考えてみるが、見当がつかない。聞き様によっては中国語っぽいが。その時、珍しく眉をひそめていた呉場が、ああ、と思いついた声をあげた。

「パーティーのことだな」

「それじゃ! パーチーじゃ!」

「パーティー?」今度は、久遠寺が眉をひそめた。

「つまりじゃ、古事記によれば、岩戸隠りされている天照大御神様の前で、神々が飲めや歌えの大騒ぎをしたのじゃ。すると、そのあまりの盛況ぶりに、私を差し置いて皆だけで大騒ぎしているのはけしからん!、と言って出て来られた、ということじゃ。だから──」と、小見川は、真顔で僕たちを睨んだ。

「各々、心して、大騒ぎするように」

 ……。

 沈黙が流れた。

「バっカじゃないのっ!?」と、久遠寺が叫んだ。さすがの久遠寺も壊れたみたいだ。顔を真っ赤にして小見川を怒鳴りつけた。

「そんなことで、こいつが出てくるの? 太陽が昇るの? 地球が救われるの?」

 ……でも、こいつなら出てきそうだよなあ、と、僕は巨大な瓦礫の玉を見上げた。

「大御神様をこいつ呼ばわりするでない!」と、小見川の怒りどころは、そこだった。

「却下、却下。文部科学省はこの計画書を不採用といたしました。次の計画書をご提出ください」

「次の案など、ありはせん! 古事記では、これで天照大御神様がお出になられたのだ。『高天原も葦原中国も自ら照り明かりき』、めでたし、めでたし、となったのじゃ」小見川は、そう言って、久遠寺を睨んだ。

「後には、ひけんぞ」

 久遠寺は横目で小見川を睨むと、鼻を鳴らして顔をそむけた。

「しかし……」と、小見川が言った。

「この作戦にはひとつ問題がある」

 え? 問題だらけだと思うがな。

「天照大御神様は馬鹿では無い。実は、怪しんだ大御神様は、わずかしか岩戸をお開けにならなかったのだ」

 でも、開けたことは開けたんだ……。

「そこで、一人の力持ちの神が、岩戸の扉をこじ開けたという」

 僕たちは、巨大な瓦礫の玉を見た。

 ……それは無理だろう。

 全員にどんよりとした空気が流れた時、

「それは、わしに任せてもらおう」そう言ったのは、手束だった。腕を組んで、地面から突き出したコンクリートの大きな破片の上に片足を乗せて、ポーズを取っていた。

「PS-T15、起動準備」と、手束はヘッドセットに言うと、布囲いの入り口を振り向いた。

 全員がつられたように入り口の方を向いた。同時に、入り口の布が外から開かれ、それが見えた。

「……アニメみたい」そうテンコが言ったのも無理は無い。輸送車両の荷台に、四メートルくらいの黒いロボットがうずくまるようにいた。

「なんじゃ、あれは……?」小見川も初見のようだ。ぽかんと見ている。

「対アマテラス用パワードスーツ、PS-T15だ」と、手束が自慢げに言った。

 小見川が怒りの形相になった。

「対アマテラスなどと、大御神様を怪獣みたいに言いおってっ!!」と、小見川はご立腹だが、充分、怪獣だよなあ。

 手束も小見川の怒りなどどこ吹く風で、自慢げに解説を始めた。

「こいつは、大御神が暴れ出した時用に、特務衛士で極秘に試作していたパワードスーツだ。この十五号機は完成間近だったのだが、昨夜の事態を受けて大急ぎで仕上げさせた。

 先程ようやく最終チェックが終了したので、もしもの場合に備えて、こちらに配備させておいたのだ」

 なるほど、胴体には人が乗り込むスペースが空いていて、パワードスーツというのも頷ける。頭部は無く、全体的に装甲もがっしりとしている。腕も長くて大きく、脚は短く、なんとなくゴリラのような感じの安定したプロポーションだ。デザインも機能優先らしく、ロボットというより重機に近い。大きさからしても、確かにアマテラスと互角に戦えそうだった。

 ……ただ、十五号機ってことは、十四台失敗しているってことだろうな。

「まったく、あなたたちは、どれだけお金を使っているの?」と、久遠寺が呆れ果てていた。

 手束は、ふん、と、鼻を鳴らすと、小見川に向かい、

「隙間をこじ開けるのは俺にまかせてもらおう。もっとも、その隙間を作れるかどうかはおまえの責任だ。さあ、さっさと始めるのだ!」と言うと、パワードスーツの元へと大股で歩いて行った。小見川は、忌々しげに顔を歪めたが、諦めて大声を上げた。

「禰宜ども! 急いで宴の準備じゃっ! 音楽も必要だ! 楽師はまだおるな? さあ、急げ!」

 装束姿の男たちは小見川に低頭すると、あわてて囲いを飛び出して行った。小見川はそれを見届けると、久遠寺を振り返った。

「実は、おまえさんには、やってもらいたいことがある」

「私に?」と、久遠寺が小見川を見返した。

「踊ってもらいたいのじゃ」

 え?

 さすがの久遠寺も、口が開いたままだ。

「な、なんですって?」

「古事記によれば、天宇受女命という女の神が踊って、パーチーを盛り上げた、とある」

「い、嫌よ! 私は踊らないわ!」

 珍しく久遠寺が声をあらげて、感情的に拒否した。

「運動神経が鈍そうだからな」と、スマホに視線を落としたまま、有畑がぽつりと呟いた。きっ!、と、久遠寺は有畑を睨みつけたが、反論はしなかった。

「別に踊りはうまくなくてもいいんじゃが……。その場を盛り上げて──」

「はいはいはーいっ!!」と、テンコが手を挙げて割り込んで来た。

「あたしが踊るー!」

「おぬしがかあ……?」と、小見川が嫌そうな顔をした。

「あたし、ダンス得意なんだよ!」

「おぬしがか……」と、小見川は、諦めきれないようすで久遠寺をちらりと見たが、睨み返された。小見川は首を振った。

「……仕方無いの」

「いやっほーーっ!」と、テンコは超楽しそうだ。こいつに世界の運命がかかっているってのは、最悪だと思うなあ。

 ふと気が付くと、呉場がにこにこと小見川たちを見ている。こいつは途中からやけに楽しそうだな。こんなに呉場が楽しそうなのも珍しい。一体、こいつは何を考えているのやら……。

「ねえねえ、衣装はかわいいのがいいな!」

 小見川が突然何かに気付いて、大股で歩き出した。小見川が向かった先には、宴の準備をする装束姿の男たちがいた。いくつも並べられた白木の台の上に、食べ物を置いていた。小見川がその男たちに怒鳴った。

「な、なんじゃ、これはっ!」

 男たちは顔を見合わせた。紺色の装束姿の男の一人が、おずおずと答えた。

「ええと、宴の準備をせよとのご命令で……」

「違うわっ! これは何かと訊いておるっ!」

 えーと、と、装束姿の男が目を落としたのは、コンビニの弁当やおつまみだ。しっかりと有名コンビニチェーンのレジ袋もある。

「……ですが、短時間では本格的な御膳は用意できませんし、ましてや豊受大御神様に頼むわけにもいきませんし……」

 今、さらっと、別の神様の名前が出てこなかった?

「ここらで調達するといたしましても、この時間では開いている店も」と、若い下っ端の装束男が言い訳をする。

 装束男には同情するし、僕ならコンビニ弁当でも全然文句無いが。思えば、昨夜の旅館の夕食から何も食っていないのだ。

「もう、この靴、歩きにくいわねっ! 最悪!」と、ようやくテンコが小見川の元にたどりついた。さっきは、赤ずきんちゃんみたいでお気に入り、って言ってたじゃないか。

「ねえねえ、AKBみたいな衣装がいいと思うんだけど。こう、フリフリのスカートで……」

「なんじゃ、うるさい! 今、それどころではないわ」

「でも、盛り上げるには、それなりの衣装が……」と、テンコもしつこい。

「衣装など必要ないじゃろ。どうせ、服など脱ぐんじゃから」

「はい?」と、テンコが固まった。

「『胸乳をかき出で、裳緒を御陰におし垂れき』

 ようするに、ストリップじゃ。裸踊りじゃ。ただのダンスで大の大人が大騒ぎするわけなかろ……、うぎゃああーあーーーっっ!!!」

 ものすごい絶叫が響いた。白囲いの中で作業する人々──否、多分、囲いの外で作業する人々も凍り付いたに違いない。

 テンコの膝が、小見川の腹に埋まっていた。……老人相手にマジ蹴りしたのだ。

 小見川は、そのまま後方に吹っ飛んだ。

「な、な、な、何、馬鹿なこと言ってんのよっーー!!」

 テンコは顔を真っ赤にして仁王立ちになり、息も荒く肩を上下させていた。

 その時、異様な機械音が響いた。次の瞬間には、入り口の布を引き裂いて、巨大なものが飛び込んで来た。

 あのパワードスーツだった。しかも、手束自らが操縦していた。スキンヘッドには、たくさんの配線が生えたヘルメットを被っている。腕は両脇にある操縦桿を握っていた。

 大手を振って、跳ぶように、パワードスーツはテンコたちの方へ突っ込んで来た。その姿は本当にゴリラのようだった。悲鳴を上げてすれすれで飛び退けたテンコの脇を通り、パワードスーツはいとも簡単に白木の机を吹き飛ばした。せっかくの弁当が、瓦礫の上に散らばった。

 パワードスーツは一気に瓦礫の山を駆け上ると、瓦礫の玉の表面に開いた亀裂にがっしりと両手を差し込んだ。

 いつの間にか、瓦礫の塊が開いていたのだ。

 おそらく、外が騒がしかったからだろう。そうだ、あの小見川の叫び声。アマテラスは、外で何が起こっているか気になったのだ。ちょっとばかり趣は違ったが、大筋で古事記通りになったということだ。

 それにしても、わずかな瞬間を見逃さなかった手束は、さすがだ。

 その手束は必死の形相で、パワードスーツを操っていた。亀裂をこじ開けるように差し込まれたパワードスーツの両腕のモーターが唸る。トルクが上がる音がして、パワードスーツの背中側、白で書かれた「神特」という文字の下の空いたスリットの列から、多量の青白い煙が吐き出された。

 軋むような、金属の塊が押し潰れるような音がして、少し亀裂が広がった。

「おおっ!」と、人々から嘆声がもれた。

「行けー、ガンダムー! カプールをやっつけろーーっ!」テンコが能天気な声援を送る。

「ふーん、なかなかやるじゃない」と、腕組みして傍観していた久遠寺が言った。

「作業用ロボットとしてはすでに実用化できているわね。放射線防護が可能ならば、原子炉での特殊作業もこなせるかも知れない」

 久遠寺は、冷静に文部科学省目線で見ていた。

 次の瞬間、腕の付け根辺りからも煙が上がり出した。肘や手首の辺りから異常なモーター音がし始め、両腕が痙攣のごとく振動している。ぐらり、と、瓦礫の玉が揺れた。パワードスーツに向かって、のしかかってきたのだ。

「あぶないっ!」テンコが顔を両手で覆った。

 だが、手束はアマテラスを受け止め、必死に支えた。パワードスーツの脚が、瓦礫の山にめり込んで行く。なおもぐいぐいと押し続ける塊のせいで、パワードスーツの上半身が大きくのけ反ってきた。背後から吹き出る煙が黒く、どんどん濃くなっていく。しかも、咳き込むように、不安定だ。

「なかなかやるな。ここまで良くやった、敵ながら褒めてやる」手束が笑いを浮かべた。

「大御神様を敵呼ばわりするなっ!」いつの間にか戻って来た小見川が腹を抱えながら言った。

 おお、まだ生きているよ、この人。テンコの蹴りをまともにくらったのに、本当に団塊の世代はしぶといな。

「だが、ここまでだ。我々は最終オペレーションに移行する!」と、手束が言った。

「最終オペレーション!?」機動隊員たちに動揺が走った。

 なんだ!? 何か、最終兵器があるのか?

 手束が大声で叫んだ。

「ファイトーーーオォーーーっ!!!」

 機動隊員たちが一斉に応えた。

「イッパアアァーーーッツっ!!!」

 武器じゃないのかよ!

 パワードスーツの背中からいきおいよく煙が吐き出され、全身のモーターが唸りを上げた。パワードスーツは瓦礫の中から足を抜き、一歩前に出した。驚いたことに、パワードスーツは瓦礫の玉を少し押し返した。

「おおっ!」機動隊員やテンコたちから嘆声が上がった。

「ファイトゥーーオォーーーっ!!!」再び手束が大声で叫んだ。

「イップアアァーーアーッツっっ!!!」機動隊員たちが一斉に応えた。

 何発あるんだよ!

 その時、腰の付け根あたりで、モーターが軋むようなかん高い音がし、突然、火花が散った。

 次の瞬間、手束が乗っている上半身が後ろに折れた。巨大な瓦礫の玉はそのままパワードスーツを押し倒してつぶすと、瓦礫の山を転がり落ちた。宴会用の白木の台は粉々に押し壊され、機動隊員や装束の男たちが逃げ惑った。もちろん、僕たちも例外ではないけれど。

 玉は布囲いに突っ込むと、半分かた布を巻き付けたまま転がり出て、パワードスーツを運んで来た輸送車両に激突した。

 輸送車両はつぶれて半倒しになりながら、隣の装甲車にのしかかって止まった。

 その装甲車からは、神社本庁代表、神祇伯の老人が目を丸くしてまろび出て、呆然とその場にへたり込んだ。



               18


 輸送車両は荷台がねじ曲がり、ほとんど潰されていた。近くまで行って見上げると、瓦礫の玉はすでに亀裂をぴったりと閉じ、完全な球体に戻っていた。肩からちぎれたパワードスーツの腕が一本、指を挟み込まれたまま上の方にぶら下がっている。

「あー、ガンダムがー」と、テンコはパワードスーツが壊れたことが残念なようだ。

 小見川が腹を押さえてよろよろとやってきた。テンコが睨むと、一瞬怯えたものの、

「意味も無く、年寄りに蹴りを入れるとは、なんという娘だ」と、避難がましく言った。

 否、意味はあったけどね。

「しかも、折角のチャンスに、あの馬鹿めが……」と、瓦礫の山を振り返った。

 機動隊員によって、手束が瓦礫の山の中腹に埋まったパワードスーツから助け出されていた。支えようとする隊員の腕を不機嫌そうに振り払ったところを見ると、こちらは見かけ通り頑丈のようだ。

「これではわしが蹴られ損ではないか」と、小見川が吐き捨てた。

 まるでテンコに蹴られたのが計画みたいに言っているけど、違うから。

「い、一体、何があったのじゃ! なぜ、岩戸がここにある? 手束は何をしている?」

 正気に戻った神祇伯の老人がわめき散らしながら、いらいらと辺りを見回している。小見川がこそこそと久遠寺の陰に隠れるように移動した。

「さて、次はどうしますか」目の前の瓦礫の玉を見上げて、久遠寺が言った。

「次の案など無いと言っておろう!」と、言うと、小見川は久遠寺を見た。

「ところでどうじゃろう、おまえさん、やってくれんか。わしは最初から思うておったんじゃ。あんな青臭い娘よりおまえさんの方が……」

 久遠寺は小見川の耳元に顔を近づけると、

「殺すぞ」と、囁いた。

 呉場がなんとなく鼻唄でも唄いそうな雰囲気で、瓦礫の中を歩いて来た。こいつ、ほんとに楽しんでるな。

「午前四時四十三分」と、呉場は僕たちに腕時計を見せて行った。

「そろそろ根室では夜明けの時間だ。なかなか明るくならない空に、漁師さんたちは不審に思い始めるんじゃないかな」

 それを聞いた老人が、大急ぎで近づいて来た。

「小見川っ! どうするつもりだっ!!」

「はは!」

 小見川は身を縮こまらせ、そう言ったまま黙ってしまった。もう手だては無い。もう、夜は明けないのだ。

 ──否。まだ、完全に手だてが尽きたわけでは無いのだ。

 小見川が僕を見ていた。そして、いきなり、土下座をした。

「お願い申す! 無理は承知! どうか、大御神様とお付き合いくだされ! ああ、見えても大御神様は気が優しくていらっしゃる!」

 気が優しくて、力持ち……、か。

「もう、初々しいほど、惚れた方には一途であらせられます。どうか、どうか、よろしくお願い致します!」と、小見川は、瓦礫に頭を押し付けるほど、平伏した。

 何か大きなものが落ちる音が聞こえた。驚いて振り返ると、下にパワードスーツの腕が落ちていた。瓦礫の玉にまた、亀裂が開いたのだ。

「もう、あなたしかいないみたいね。あなた、地球を救ってみない? ヒーローになってみない?」そう久遠寺が言うと、

「パシリ、かっこいーっ!! あたし、ヒーローの友だちだ、幼なじみだ。あたしもテレビに出れるかなあ」と、テンコが言った。

 僕は、ちらりと瓦礫の玉に目をやった。亀裂が大きくなっていた。

 僕の一言で、陽がまた昇る。僕が、うん、とさえ言えば、世界が救われる……。

 大きな音がした。金属が、コンクリートが、いろいろな材質のものが破壊される音だ。

亀裂が大きく開いていた。漏れ出す光の中には、自ずから光るアマテラスが垣間見えた。光は熱を伴っていた。全てを優しく包み込むような暖かさだった。

 僕が。

 僕が、うん、と言えば──。

「イヤだーーーっ!!!」

 ……。

 あ。言っちゃった……。

 痛いほどの数秒の沈黙の後、瓦礫の玉が壮絶な音をさせて亀裂を閉じた。

 久遠寺が思い切り僕の胸ぐらを掴んだ。

「きさまあぁーーーっ!!」

「だ、だって、嫌ですよ! あんなのとっ!」

「パシリっ!! あんたってひどい男ねっ! あんたは乙女の告白をつっぱねたのよ! 純真な乙女の心を弄んだのよっ! 最低だわっ!!」

 テンコも食ってかかってきたが、弄んではいないぞ。

「ああ、惜しかったなあ」と、呉場がスマホをいじりながら言った。

「一瞬だが、太陽が現れたらしい」

「ああ、なんてことだ……」と、老人がまた胸を押さえた。小見川と手束が、あわてて駆け寄った。

「じ、神祇伯殿っ!」

「……し、信じられん」スマホを忙しくいじっていた有畑が呟いた。

「……なぜだ。なぜ、こうなる?……」

 有畑はよろよろと、瓦礫の玉に近づいた。

「……何が起こっている? 俺の知っている物理法則とはなんだ? なぜだ、なぜだ、なぜだあっ!」

 そして、サングラスを地面に投げ捨てて打ち砕いた。

「いや、こんなことあり得ない! こんなのは科学じゃないっ!」

 さらに有畑は、マスクごとマフラーをむしり取って、瓦礫の玉に指を突きつけた。

「俺はおまえを認めんぞっ!!!」

 初めて、有畑の顔を見た。

 場違いだが、まあまあ二枚目じゃないか、と思った。

 その時。

 瓦礫の玉が白くなった。否、煙だった。玉全体が一気に白い煙に包まれ、内部から真っ赤な光が漏れていた。次の瞬間、猛烈な光が湧いた。

 辺りが一瞬白光に包まれ、吹き飛ばされた熱い煙が僕たちを押しやった。瓦礫の球の目の前にいた有畑は、のけ反るように尻餅をついた。

 光が弱まると、そこにはアマテラスが居た。アマテラスを覆っていた瓦礫の塊は、綺麗さっぱり無くなっていた。

 アマテラスは、ピンク色がかったやや強い光で、ゆっくりと脈動するように発光していた。アマテラスから発せられる熱で、辺りは、真夏のように暑かった。顔が熱い。否、痛いくらいだ。

「で、出た……」呆然と、久遠寺が呟いた。

「おおおおーーーっ!!」と、老人は感嘆の声を上げて、ひれ伏した。

 そして、テンコは、スカートを押さえ、僕を睨んでいた。

 否、待て。今はそんな場合じゃない。

 小見川が大慌てでアマテラスの元へ駆け寄った。倒れ込むように、アマテラスの前で平伏すると、すぐに立ち上がってそばに駆け寄った。アマテラスは小見川に寄り添うように身体を曲げ、小見川は耳に手を当てて何かを聞き入っている。

「意思疎通はできる、って言ってたわね」と、久遠寺が呟くと、固唾をのんで小見川とアマテラスを見つめた。

 小見川がこちらを向いて、背筋を伸ばした。やや、緊張している感じもする。そして、ゆっくりと居並ぶ僕たちを見回した。

「えー、大御神様は……」一瞬、小見川は、僕を見た。

「……この御仁に惚れられたようです」と、小見川はアマテラスの前でまだ尻餅をついている有畑を手で示した。

「えーーーーっ!?」

 アマテラスが再び明るく光った。熱い空気が押し寄せた。その中でアマテラスは、もじもじと身体をくねらせた。小見川が申し訳無さそうに言った。

「大御神様は、イケメン好きで、惚れっぽいところもありましてな」

 どうせ僕はイケメンじゃねーよ。それにさっきは、一途、って言ってたじゃないか。

 当の有畑は、小見川の言ったことが聞こえたのかどうか、独り言のように呟いていた。

「なんだ、この光は? 熱は?」

 そして、観察するように発光し熱を放出するアマテラスをまともに見つめた。アマテラスは照れているのか、ぐねぐねと身体を捩らせた。

 自信を取り戻した小見川が、胸を張って答えた。

「何度も言っておろうが。天照大御神様は、太陽なのだ。光と熱、そのものなのだ。もちろんこの状態でもセーブしておられる。本気を出されたら、我々など燃え尽きてしまう。いや、先程の岩戸のように、蒸発してしまうじゃろう」

 あの瓦礫の玉は蒸発しちゃったのっ!?

 確か、と、小見川は続けた。

「いつの話じゃったか、ある地方一帯を焼き払ってしまったことがあったな。記録では、火山の大噴火とかなんとかで穏便に片をつけたようじゃが」

 それ、穏便じゃねえよ。隠蔽だよ!

 有畑は黙り込んで、アマテラスを見た。アマテラスは飛び上がるように驚くと、恥ずかしそうに後ろを向いてしまった。えーと、……多分、後ろ、だと思う。

 その時、

「太陽が戻ったぞ」と、スマホ片手の呉場が言った。

「おおおーーーっ」と、また老人が嘆声を上げ、天を仰いだ。

 首を曲げて呉場を見ていた有畑に、小見川が近づいた。

「いかがですか、御仁。我々とともに、来ていただけませんか?」

 アマテラスはちょっと有畑を覗き見るような動きをした。

 久遠寺が、じっと有畑を見つめている。

 有畑は立ち上がった。アマテラスは驚いて、また向こうを向いてしまった。有畑はゆっくりと周りを見回した。そして、まだ星の瞬く東の空に目をやると、しばらく見つめ続けた。

「……わかった」有畑がぽつりと言った。

 受け入れるのか!? 僕には信じられない。

 アマテラスが飛び上がるように振り返り、一瞬、大きく輝いた。

 ふっ、と有畑は自嘲気味に頭を振った。

「どうせ、有畑型熱核融合炉はおしまいだ。俺にはもう、なにも残っていない。このまま太陽が昇らなければ、世界は大混乱の末、地球は終末を迎えるしか無い」有畑はちらりと、久遠寺を見た。

「もともと有畑型熱核融合炉は、地球のエネルギー危機をなんとか救おうという想いで、開発を始めたものだ。残念ながら、その想いはみのらなかったがね……」

 久遠寺は黙って有畑を見つめている。

「方法は変わってしまったが、世界を救うということは一緒だな」

 有畑は、決断するように大きく頷いた。

「世界が救われるなら、僕の身一つぐらいどうということも無い。喜んで、犠牲になろう」

 目をうるませたテンコが非難の目で僕を見た。

 はいはい、どうせ僕にはマネできませんよ。

 そして、有畑は、久遠寺を見た。

「どうだ。これで、実験の失敗は、チャラにしてくれるか?」

 久遠寺はゆっくり、はっきりと頷いた。

「後の処理は、おまかせください」

 気のせいか、久遠寺の目も少し濡れている気がした。そして、驚いたことに、呉場さえ目をうるませているようだった。

 有畑はアマテラスに向き直った。

「さあ、煮るなり焼くなり、好きにしろ」

 アマテラスはもじもじと身をよじらせると、ふいに、少し身を縮ませた。その分、アマテラスの胴は樽のように太った。

 そして突然──全く唐突に──、アマテラスの頭頂部に孔が開いたのだ。縁には歯のようなものがびっしりと並んでいたので、まさしく口のようだった。

 口があるんだ、と、そう思った瞬間。

 アマテラスは伸び上がり、有畑に覆いかぶさるよう身体を曲げると、頭頂部に開いた口で、両手を開いた有畑を一気に飲み込んだ。

 皆、何が起こったのか、分からなかった。

 アマテラスが頭を振上げると、その頭上から有畑の二本の脚がピンと延びていた。仕立てのいいスラックスがずり下がり、すね毛が見えた。アマテラスの胴が大きく膨らみ、再び口が開くと、有畑の脚は、靴を一足落として、アマテラスの中に消えて行った。

 誰も口をきけなかった。

 アマテラスは咀嚼でもするように身体をぐねぐねと動かしていたが、やがて大きなゲップをした。

 後ろの方で、誰かが吐いた。

 機嫌良さそうにゆらゆらと身体を揺すっていたアマテラスは、ふいに何か思いついたように背筋を伸ばした。

 次の瞬間、突然光輝くと、同時に光芒が上空に向かって走った。岩戸隠りを思い出させるような突風が一瞬吹いて、アマテラスは光とともに居なくなった。

 あっけないほどのあっさりとした退去の後、静寂が訪れた。居合わせた人々は、虚脱状態のように、漫然と立ちつくしていた。テンコすら今回はスカートを押さえなかった。

 それでも、

「あ」と言って、空を見上げた。

 いつの間にか、東の空が透き通った青色に染まっていた。テンコも呉場も、そして、久遠寺も、刻一刻と変化する空を無言で見つめた。

 ……えーと、今のはなんだったんだ……? 忘れた方がいいのかな? そうだな、何も起きなかった。何も見なかった。

「……き、きれいな朝焼けね」と、テンコが引きつった笑顔で言った。

「そ、そうだな。いやあ、ほんとにきれいだ」

「よし、分かった」と、言う声に振り返った。小見川が携帯電話を使っていた。ガラケーで、しかも高齢者用少機能大文字携帯だった。小見川は携帯を閉じると、老人の元へ近づき、低頭した。

「大御神様、戻られました」

 老人が、その言葉に、うむ、と、厳めしく頷いた。

 その時、一気に辺りが明るくなった。東の空に太陽が顔を出したのだ。僕たちをオレンジに染めるその光は、瓦礫にいく筋もの陰を描いていた。

「……では、もういいかしら。私にはやることが山ほどあるのよ」

 そう言った久遠寺の声にも疲れが感じられた。老人が言った。

「あの男の後始末か」

「あの男とは誰のことかしら? 実験に失敗して海外かどこかに逃亡してしまった有畑一石博士のことかしら? 私たち文部科学省は、今夜の件とは関係ありません。いえ、今夜何も見ていない、聞いていない。……それでよろしいかしら?」久遠寺はそう言って、老人をきっと睨みつけた。

 すごいな、ホントに何も無かったことにしちゃったよ、あの女。

「じゃ、私たちも帰りましょうか!」と、テンコが無理矢理明るく言った。

「そ、そうだな。帰ろう、帰ろう!」

 呉場を見ると、大あくびをしていた。

「さすがにこの時間になると眠いな。今まで、あくびを我慢するのが大変だった」

 こいつ、さっき目をうるませていたのって……。

「さて、そこの文部科学省のものわかりが良い女役人は良しとして──」と言う声に振り返ると、老人が僕たちを睨みつけていた。

「我が国最大の秘事を目にしたおぬしらは、さて、どうしたものかのお……」



               19


 ……結局、僕たちはお咎めを受けなかった。

 もし何かしらの罰や咎めを受けるようであれば、アマテラスの件を口外するようなことを、呉場が臭わせたからだ。悔しそうに歯ぎしりをしていた手束の顔が傑作だった。

 しぶしぶながらの久遠寺の口添えもあり、この一晩の行方不明に関して、学校側からの追求は何も無かった。残念ながら修学旅行の続きはできなかったけどね。

 マエダら引率教員はかなり訝しんでいたが、それ以上の詮索も無く、あの混乱の中の出来事としてうやむやになった。どうやら、副校長から指示があったようだ。もちろん、学校側に圧力をかけたのは、文部科学省だろう。もしかしたら、久遠寺自身かも知れない。補助金の減額などちらつかされたのだろう、想像にかたくない。

 また、倒壊した伊勢湾岸自動車道は、手抜き工事が原因ということになったらしい。巻き込まれた車両が無かったせいか、責任の所在がうやむやのまま、ひと月もかからずに、再び通行可能になった。

 そして、街を破壊しまくったアマテラスの存在は、映像に残らなかったこともあり、動物園から逃げ出した象の仕業、というのが定説になりつつあった。ただ一部には、バイオ実験施設から逃げ出した新しい生物だったという噂も根強く、今なお都市伝説のように語られ続けている。

 アマテラスに車や家を破壊された人々に対する箝口令も徹底的に完璧だったようだ。どのような手段が使われたのか知りたくもないが、僕たちの高校であの夜の話が出ることは二度となかった。

 アマテラスの話が一般に大きく広まらなかった最大の要因は、それよりもはるかに大きな──全世界的事件である太陽消滅のせいだ。世界中で大問題になり、多くの物理学者、天文学者を巻き込んで大論争を繰り広げた。奇説、珍説が無数に発表されたが、解明することはできなかった。太陽消滅事件を差す「ダーク・アウト」という言葉も流行語大賞になったが、一般の人々からは次第に忘れ去られて行った。


 そして、一年が経った──。


「あー、終わったぁ」と、テンコがテーブルに突っ伏した。

 テーブルの油が顔に付くぞ。

「はい、何にします?」

 おばちゃんが注文を取りに来た。

 僕たち──僕こと新木走太、呉場友人、宇津美天子の三人は、本日、西関東大学付属高校三年二学期の中間試験を終え、街の中華屋で昼飯を食おうとしているところだ。三年生になってクラスはバラバラになったものの、相変わらず三人でつるんでいることも多い。

「タンメン、大盛り」と、呉場。

「地獄タンタンメン、大盛り」と、僕。

 パウチされたメニューを見ながら、テンコは、

「この暑いのに、よく辛いラーメンなんて食べられるわねえ」と言った。

 暑い時は、辛いものを食うのが一番なのだ。大体、甘党のテンコは、暑かろうが寒かろうが、辛いものが苦手だ。

「辛味の元のカプサイシンは、一説には中毒性が高く、脳にダメージを与えるとも言われている」

 え? そうなの? 今回のテストが悪かったのは、そのせいかなあ。

「元々でしょ」そうバッサリ切って、テンコは、冷やし中華を注文した。

「おばちゃん、からし、入れないでね」と、言うのも忘れない。

「あー、暑い、暑い」と、テンコは、メニューでスカートの中をぱたぱたと扇いだ。

「見えるぞ!」

「見んなよ!」

 脊髄反射で返された。

「それにしても、今年はいつまでも暑いわねえ。やっぱ、地球温暖化って、やつかしら」

「まだ残暑の時期だろ。なんでもかんでも温暖化のせいにするなよ」と、僕。

「昨今、地球温暖化による異常気象が世界各地で起きています」

「そう、そう」と、テンコは思わず相槌を打って、その言葉が僕たちでは無いと気が付いた。

「ほう」と、呉場が見た先には、小型の液晶テレビが壁の棚に置いてあった。テンコにとっては後ろの方になる。少し面倒臭そうに振り返った。

 テレビから流れるストイックな声の主は、僕に悪い記憶を思い出せる人物だった。

「あ!」と、テンコがテレビを指差した。

 そう、それは、文部科学省の久遠寺里乃だった。相変わらず黒いスーツ姿で、赤い細身のフレームの眼鏡姿だ。順調にキャリアの道を歩んでいるのか、どうやら、何かの記者会見らしい。

「あたし、あの女、大っ嫌いっ!!」と、テンコはテレビから顔を逸らした。そして、僕の顔を半眼で睨んだ。

「パシリは、いい思いしたもんねー。あ、鼻の下が伸びてる。あら、あら、あら。あんまり広くて開墾できそうよ。新田ね。新木新田だわ」

 なんだよ、新木新田て。

「……地球温暖化防止は、もはや、一刻の猶予もありません。二酸化炭素を初めとする地球温暖化ガスの削減、化石燃料からの脱却、地球温暖化防止は、我々人類の責務です」

 久遠寺は言葉を区切り、前に居並ぶ記者たちを見回した。

「原子力発電は、その危険性、コントロールの困難さが問題になっています。自然エネルギー発電の比率はまだまだ低いままです。では、もっと新しい発電はどうでしょうか。

 ──核融合炉。夢のエネルギーと言われている核融合炉ですが、世界七カ国が共同参画する国際熱核融合実験炉も、実用化まではまだまだ長い道のりです」

「はい、おまっとおさん」と、おばちゃんが料理をテーブルに並べた。

「いっただきまーす」と、テンコは早々に食べ始めたが、呉場はテレビを注視したままだ。

「さて、この度、我が独立行政法人日本核融合研究開発機構では、地球の温暖化やエネルギー問題に対して革命をもたらす、画期的な新発電所の実証運転に至りました。それが、新型核融合炉ARLYです」

 画面の右上に、「新型核融合炉ARLY発表」という文字が出た。核融合炉と言えば、有畑を思い出す。有畑の死……逃亡で完全に頓挫してしまったと思っていたが、久遠寺が計画を引き継いで続けていたのか。

「では」と、久遠寺が言った。

「今回の新型核融合炉の理論およびシステムの責任者であり、計画の統括主任である、有畑一石博士をご紹介いたします」

 え!?

 げほっ、と、テンコが冷やし中華を吹いた。

 フラッシュが点滅する画面に映っているのは──。間違いない、あの有畑だった。

「生きてたのか……」

「食べられたんじゃなかったの?……」

「ある種のカエルや魚は、子供を外敵から守るために、口の中に飲み込むからな」と、呉場がにやにやしながら言った。

 あれは、愛情表現だったというのか。まったく、紛らわしい。これでも結構あのシーンがトラウマとして残ってたんだぞ。

 僕は肩をすくめると、再びテレビに目をやった。

「有畑博士。今回の核融合炉について、システム概要が一切公開されていないんですが」

 記者の質問がとんだ。

「ええ」と、有畑は言った。

「地球のエネルギー問題に革命をもたらすほどの画期的なシステムですので」

「一年前に事故を起こした那智勝浦の核融合実験炉も有畑博士が責任者になっておられましたね。確か、その時も同じようなことを仰っていたと思うのですが、同じようなシステムなのですか?」

 やや皮肉っぽい質問だったが、有畑は気にせず答えた。

「あれはあれで画期的なシステムでしたが」

 久遠寺がちらりと横目で有畑を見た。

「今回の実証炉は、那智勝浦で行った有畑型核融合実験炉とはまったく違った理論と技術によって一からシステムを作り直しています」

「なお、今回の新型核融合融合炉に関しまして、特許出願もいたしません」と、久遠寺が補足した。

「そこまで、極秘に?」

「地球のエネルギー問題を解決する程の画期的なシステムならば、オープンにして、普及させるべきでは?」

 記者たちから次々と声が上がったが、有畑も久遠寺もそれらの質問には答えようとしなかった。それでも記者からは新たな質問が飛んだ。

「今回のこの実証炉ですが、実証炉にしては、桁違いの発電量ですよね。一○○○万キロワットというと、柏崎刈羽原子力発電所七基の総出力を超えていますよ」

「ええ、ですから、画期的なのです」

「海外の核融合炉の専門家からは、現代の技術ではありえない、との声も上がっていますが」

「間違いなく、核融合炉です」と、久遠寺が答えた。

「その指摘をされた専門家が、どのようなご専門か分かりませんが、この新型核融合炉ARLYに関しては、有畑博士が最も精通した唯一無二の専門家です」

 有畑も、にやりと笑って大きく頷いた。

「今回の発電所はあくまでも実証機ですからたかだか一○○○万キロワットに抑えてありますが、本格的な発電所が作られれば、一基で日本全体を、否、世界全体の電気をまかなえるようになるでしょう」

 記者席にざわつきが広がり、そのあと、笑いが起こった。

「なあるほど。一基で全世界の電力量をまかなえるなら、システムも理論もオープンにする必要がありませんね」

 皮肉まじりに苦笑して、記者が言った。冗談だと受け止められたようだ。

 まあ、冗談だろう。一年も経てば、有畑もジョークの一つも言うようになるということか。それにしても。

「あれから、なんかスゴイことやってたんだな。でも、アマテラスとの仲はどうなったんだ?」

「あら、嫉妬?」と、テンコ。

 嫉妬なんかするかよ。今思い出しても、鳥肌が立つ。

「年頃の女の子は、移り気だから」と、テンコが分かった風な口をきいた。その年頃の女の子とやらは冷やし中華の汁が顔についているし、アマテラスが太陽なら、年齢は四十七億歳だ。

「あいつら、やったな」と、呉場が笑った。

 やった? 何を?

「ところで」と、テレビから女性記者の声が聞こえた。

「今回の新型核融合発電所の立地場所なんですが、なぜ、伊勢神宮内宮の敷地内なのですか?」

 げほっと、今度は僕がタンタンメンを吹きだした。

「やめてよっ! ブラウスにシミがついちゃうじゃないっ!」

 カメラが会見席をパンした。そこにいたのは。

「あ」と言う僕の声に、テンコが再びテレビを振り返った。

「あ、あの、お爺さん」

 和服姿で、名札では「神社本庁・統理代理 白栖川忠実」となっていたが、あの時の神社本庁最高責任者である神祇伯の老人だ。カメラのフラッシュの中、不機嫌そうな老人の顔がアップになったが、老人は何も喋ろうとはしなかった。

「相変わらず、無愛想で不機嫌そーねー」と、テンコ。

「核融合というのは──」そう喋り始めたのは有畑だった。老人を写していたカメラがあわてて有畑の方に戻った。

「太陽をはじめとする恒星の内部で起こっている現象と同じなのです。太陽の中でも、原子核同士が融合する核融合反応が起こり、その結果莫大なエネルギーを産み出し、あのように輝いているのです。

 伊勢神宮の内宮にお祀りされているのが、天照大御神というのはご存知ですよね?」

 はい、と返事をする記者の声が聞こえた。

「天照大御神は太陽の神です。太陽神天照大御神の聖所である伊勢神宮内宮こそ、この、地球のエネルギー問題を解決する画期的な新型核融合発電の始まりにふさわしいではありませんか!」

「でも、伊勢神宮ですよ。日本国民の聖地ですよ?」

 有畑は、そう言った記者を指さして言った。

「あなたは、神様について、何も分かってないっ! これだけのすばらしい日本の、いや、地球の未来を担う発電所なら、神様だって許してくださいますよ」

 ねえ、と、有畑は隣の白栖川に同意を求めた。老人は、ますます苦虫を噛み潰したような顔になった。

「ねえ、どういうこと?」と、テンコ。

 僕にも分かった。つまり──。

「有畑にぞっこんのアマテラスを手なずけて、膨大なエネルギーを取り出そう、ってことだ。まさしく有畑一石にしかできない新型核融合炉だな。あの男の夢が叶ったってことか」

 呉場が頷いた。

「日本最大の秘事を逆手にとったわけだ。神社本庁も逆らえまい」

「僕たちが神宮侵入のお咎めを勘弁してもらったのとは、スケールが違うなあ」

 テレビに映った久遠寺は一瞬、横目で白栖川を見た。みんなは気がつかないだろうが、僕はその口元の小さな歪みが微笑みだと気づいた。

「転んでもただでは起きないな、あいつら。面白い」と、呉場は心底楽しそうだった。やっぱり、こいつは変な奴だ。

 テレビでは、

「科学者にしては、随分と、ロマンチストですね」と言われて笑う、有畑の顔のアップが映っていた。

「それでは、この辺で、会見を終了させていただきます」久遠寺の声とともに、会見者たちが立ち上がった。

 会場を出ようとする有畑に、記者からの質問がとんだ。

「有畑博士! 新型核融合炉ARLYのAは、アリハタのAですか?」

「いや。もちろん──」

 有畑は振り返って言った。

「アマテラスだ」


 全編了。


市街地、特に日本の木造家屋を壊すなら、5メートルぐらいのサイズの怪獣が丁度いいな(『大魔神』は良かったなあ)と思って書き始めたのが最初です。

元の元は、学生時代に自主映画を作ろうと思って書いた短編シナリオ。

小説化にあたって、自由気ままに、大いに膨らませてみました。

樋口さん、映画化してくれないかなあ。文化庁の助成も文部科学省推薦も絶対無理だけど。

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