上
長いため、上・下2編になっています。
天高く馬肥ゆる秋──。
十月のとある日。この日、日本は穏やかな高気圧にすっぽりと覆われ、全国的に雲一つ無い秋晴れの空が広がっていた。
テレビをつければ、あらゆるニュースや情報番組で、こぞってこの青く澄み切った空が映し出されていた。実は、どの番組の青空も同じ場所から撮影されたものだった。そこは、三重県伊勢市宇治館町。「伊勢神宮」と言った方が分かり易いだろう。正確には、伊勢神宮内宮の敷地へと通じる宇治橋の前の広場だ。
その理由は、今日のトップニュースにあった。そのニュースとは、伊勢神宮で行われる「遷御」だ。
ちょっと、聞き慣れない言葉かも知れない。
三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮は、日本の神社の頂点に立つ最も位の高い神社だ。その伊勢神宮には二つの正宮があり、一般的に内宮と外宮と呼ばれている。館町にあるのは内宮の方で、内宮には、日本で最高の神、天照大御神が祀られている。ちなみに、天照大御神は女の神様だ。
そして、伊勢神宮には、特別なしきたりがある。
二十年ごとに社殿を作り替えるのが決まりとなっていて、その習わしは古来より連綿と現代まで続いている。これを「式年遷宮」という。新しい社殿は古い社殿の隣の敷地に新造され、その度に神さま、つまり天照大御神が引っ越しをすることになる。一回の遷宮における様々な儀式は数年に及ぶが、その中でもメインの儀式が、引っ越しそのものである「遷御」だ。その「遷御」が、今日の夜、午後八時から、伊勢神宮の内宮でとり行なわれる予定なのだ。
番組のリポーターの後ろに映る大きな鳥居の向こうに見えるのが、五十鈴川にかかる宇治橋。参拝客は宇治橋を渡って、内宮の敷地に入ることになる。
「一般参賀は、午後一時で終わりになります。そのあとはここが閉じられて、もう中へ入ることが、出来なくなりまーす」
現地リポーターの言葉に、スタジオのキャスターが問いかける。
「一般の人は、新しい社殿には、いつお参りできるのですか?」
「明日の朝、午前五時です。みなさん、朝一番にお参りするため、遷御の儀が終わるのを一晩中、ここで待つんですよー」
へえー、と、スタジオで驚きの声が上がった。
「でも、今日はいい天気で、本当に良かったですねー」
そこで、リポーターたちは、とっておきの言葉を言い放つのだ。
「まさに、これこそ天照大御神様の御力ですねっ!」と──。
ところで、今、まさにこの時。鳥居前にいるリポーター達は知るべくも無いが、そこから南西に百二十キロ離れた和歌山県那智勝浦で、もしかしたら式年遷宮よりも大ニュースをもたらすかも知れない実験が行なわれていた。
那智勝浦の山裾の、天照大御神の御光など全く届かない地下深くで、その実験は始まっていた。
核融合発電。それは、原子力発電に代わる、未来を担う次世代の発電方法だ。
プラズマ状態では電子と原子核は分離されている。電子がはぎ取られた剥き出しの水素の原子核同士を衝突させると、核が融合して、別の原子核を作り出す。さらに核融合が繰り返されて、ヘリウムができる。これら核融合の反応で、若干の質量が失われる。
正確に言えば、およそ、0・7%の質量が失われるのだ。
この失われた質量がエネルギーに変換される。E = mc2。エネルギー = 質量×光速の二乗。アインシュタインが特殊相対性理論の帰結として導き出した、質量とエネルギーの等価性を表す式は、一度は目にしたことがあるだろう。
この核融合からエネルギーが作り出される反応は太陽を含む恒星内で起こっている現象と同じで、ゆえに、核融合炉は<地上の太陽>とも比喩される。
核分裂を利用して反応を制御・抑制しなければならい原子力に比べれば、反応を持続させなければならない核融合の方が、コントロール上の安全性ははるかに高い。さらに、どこにでもある水素からエネルギーを取り出すこの核融合発電は、夢のエネルギー技術と言われている。特に東北大震災における原発事故以降、俄然脚光を浴びてきた技術だ。夢を実現化させる研究に拍車がかかっている。
現在、さまざまな手法が模索されているが、どの計画にしても、実用化までにはまだ長い年月がかかると言われている。国際熱核融合実験炉──通称ITERが、日本・EC・アメリカ・ロシア・中国・韓国・インドの参画で建造されているが、成果を納めるのはまだまだ先の話だ。
だが、ITERの実験炉の建設地をフランスに取られた日本の意地、と言うか、底意地の悪さとでも言おうか、悪あがきとも揶揄されるこの那智勝浦の新型熱核融合実験炉は、画期的な独自の新理論により、飛躍的な成果を上げるかも知れないという期待も持たれているのも確かだった。
もしかすると、核融合発電の未来を大きく塗り替える可能性があった。成功すれば、何十年も先と思われていた技術が手に入るのだ。とんびが油揚げをかっさらえられるかも知れないのだ。
もちろん、成功すれば──、だが。
期待とともに午前十時丁度を以て始まった実験は、しかし、わずか数分後に異常事態に陥っていた。
1
この俺の計算に間違いは無い……。
壁に大きく掲げられたデジタル時計の赤い数字を食いいいるように見つめて、有畑一石は思った。
あと、二十分……、否、あと、十五分保てば……。
「有畑統括主任! どうしますか!?」
コントロール卓に座った技師の一人が振り返り、切羽詰まった声で問いかけてきた。
一台のビデオカメラがぐるりと回って有畑の顔を捉えた。それと同時に、有畑の横に立つ女性もこちらを見たのが分かった。俺の端正な顔に見とれているわけではあるまい。顔を見なくても、眼鏡越しの冷徹な視線を想像することができた。
久遠寺里乃。ぴったりとした黒いスーツ姿に赤い細身のフレーム眼鏡がトレードマークのこの女は、文部科学省のバリバリのキャリアだ。
政府側の管理責任者として数年に及ぶこのプロジェクトの担当だった前任者は、今年の春に定年になった。その代わりのプロジェクトマネージャーとしてこの新型核融合炉プロジェクトを遂行する独立行政法人日本核融合研究開発機構に出向して来たのが、この女性、久遠寺里乃だった。
三十歳そこそこのはずだが、これだけのプロジェクトの管理責任者をまかされるのは、並の力量ではないのだろう。もっとも、有畑自体、三十八歳という若さでこの日本、否、世界の未来を担うかも知れないプロジェクトの統括主任をまかされているほどの頭脳の持ち主だ。
有畑は、声をかけて来た技師の顔を見返すことも無く、激しく明滅する炉の中を映し出すモニターを見つめた。
「温度は?」と、顔色ひとつ変えること無く有畑は聞いた。
大丈夫。声はうわずっていない。この俺がうろたえる姿をこの女に見せるわけにはいかない。
「五億二千万度……、二千五百万度……、三千万度……。上昇中」
「プラズマ、不安定です」
保つか?
保つに決まっている、当たり前だ。俺の計算に間違いは無い。
有畑がハーバートとMITの大学院に在籍中に書いた論文は、今でも核物理学に関する引用論文トップテンに三編も入っている。三十歳にしてプラズマの魔術師と呼ばれたこの男は、自分が作り出した核融合実験炉ARLYが失敗するはずが無いと信じきっていた。
ARLYはアーリィと読み、有畑のアメリカ時代の愛称──もちろん、有畑自身が友人たちに呼ばせたもの──で、Arihata’s thermalfusion Reacter for Liberty and energYの略称でもある。略称としてはあまりうまくいってないかも知れないが、それは有畑の愛称の方を優先させたからだ。
そうまでして自分の愛称を付けたこの実験炉は、自画自賛するほど画期的で独自の理論を利用した新型だった。達成できるプラズマの温度は現代核融合技術の常識をくつがえすものだったし、それを可能にするだけの熱処理システムも備えられていた。
「五億七千万度……、七千五百万度……」
すでに五億度を超えている時点で、この新型実験炉がトカマクだのヘリカルだの逆転磁場配置型などといった他の有象無象の実験炉のレベルを遥かに超えていた。フランスのカダラッシュに建設中の国際熱核融合実験炉は完成前にして、もはやゴミクズだ。
しかし、原始恒星と同じ核融合反応であるD─D反応を可能にするには、十億度という温度が必要だった。有畑型熱核融合実験炉ならば、この温度も夢では無い。まさに、寸前まで来ているのだ。
突然、コントロール卓の赤いランプが付いた。
……あれは何だ?
有畑には何のランプだか分からなかった。今まで、コントロール卓などまじまじと見たことなど無かったから無理も無い。実際の実験炉の製作は、有畑の理論に従って正確に技術屋がやればいいだけの話なので、コントロール卓の設計など有畑には全く興味がなかったからだ。だが、予測はついた。赤いのだから何らかの警告灯に違いない。
ビデオカメラマンの一人がズームしてその警告灯を捉えている。
くそ! 余計なものを撮るんじゃないっ! そう怒鳴りたい心境だったが、なんとか我慢した。
「ブランケット、異常振動です!」
その声に炉の中を映し出すモニターに目をやると、明滅が激しさを増していた。プラズマが不安定なのだ。
ついに隣に立つ久遠寺里乃が口を出した。
「このまま続けるのですか?、有畑統括主任」
久遠寺がどれほど頭が切れようとも、所詮役人としてやり手であるにすぎない。文系である久遠寺は、物理学的なことなどほとんど理解していないが、金とスケジュールのことだけは口うるさい。
実際この半年間、久遠寺は有畑に対し、予算が無いとか血税を無駄に使うな、などと、口やかましく言い続けて来た。
日本のエネルギー事情を一変させる画期的な俺にだぞ!
有畑は表情を変えること無かったが、心の中で思い切り悪態をついていた。
ついでに言うなら、こいつは俺のデートの誘いも簡単に断りやがった。なぜ文系の奴など、出向させるのだ。俺のすばらしい有畑マジカルプラズマ理論を寝物語に聞かせられる女が、なぜ来ない!
「八億度超えました!」
その声にコントロールルーム内に思わず感嘆のどよめきが流れた。しかし、それも一瞬のことで、モニターを見つめる技師の声に打ち消された。
「ダイバータ、異常値です!」
そうだ、俺のせいじゃない。予算も時間も足りなかったから、的確な素材の検討も充分な構造体も用意出来なかったのだ。いや、技術屋のレベルが低すぎたんだ。俺の理論を実現する能力を持ち合わせない技術屋を雇った機構の連中のせいだ。科学を、物理を理解できない女が予算を握っているのが、問題なのだ!
返事をしない有畑の顔を久遠寺は見つめた。その目線がすらりと伸びた有畑の鼻梁をたどる。確かにいい男だ。これで性格がまともならモテないはずは無いのに。
ふと、そう思ったが、あっさりと頭の片隅に追いやった。そんなことは、どうでもいい。 久遠寺は、もう一度言った。
「このまま続けるのですか?、有畑統括主任。炉を壊してしまっては元も子もありませんよ」
全く、この女はこの後に及んで、なんと冷静なことか。こいつは、金とスケジュールと費用対効果のことしかプログラムされていない、アンドロイドじゃないのだろうか。
だが、久遠寺の言うことは一理ある。実験炉の修繕にどれだけの金と時間がかかるか。
しかし、ここで止めてしまっても、データは不十分だ。八億度を超えたとしても、それがどれほどのことなのか、一億度と八億度の違いなど文部科学省の役人共には理解出来まい。そう、結局は、国民が、否、役人自体が理解し易いインパクトのある実験結果を出さなければ、次の予算など降りないのだ。
そして、俺にとっても、十億度を超えなければ失敗も同然!
「八億五千万度!」
コントロールモニターで刻一刻と変わる数字群を食い入るように見つめる技師を除き、全員の目が有畑に注がれた。
今、この俺の判断が、日本の、そして地球の未来を変えるのだ。リスクに怯えていたら、科学の進歩などありはしない。パラダイムシフトは目の前にあるのだ。
有畑はすばやく、実験開始時からのラップタイムを刻むデジタル数字とプラズマの温度を交互に見た。赤く光り続けるランプは見ないようにした。
いける! いけるはずだ! 俺の計算に、間違いは無い!
有畑の顔を右正面から捉えているビデオカメラを意識して、いつにも増して冷静な口調で有畑は言った。
「ダイバーダは、あとどれくらい保つ?」
「えーと……」と、データを見つめている技師が言った。
「もう、だめです」
2
「つまらん」
黙々と夕食を食べていた呉場友人は、最後に一口で食べたデザートの赤福をお茶で流し込むと、正座したまま、そう言った。
「修学旅行の夕食なんて、こんなもんだろ?」と、僕──新木走太──は、海老のマヨネーズ焼きを口に運んだ。
「まあまあおいしいと思うけど、伊勢エビじゃないよな」
僕たちは東京近郊にある私立高校の二年生。今、伊勢に修学旅行に来ている。でも……。
今どきの高校生なら海外でしょ? 台湾くらい行くでしょ?
せめて北海道か九州と思うのだが、二十年に一度の神さまのお引っ越しがあるとかで、「一生の記念のために是非伊勢に」というマエダの一言で伊勢になってしまったらしい。ちなみにマエダというのは、生活指導担当の社会科教師だ。ついでに言えば、生徒からの評判はすこぶる良くない。
全く、高校の修学旅行が、二十年に一度の神さまのお引っ越しにダブるなんて、タイミングの悪さにはがっかりだ。
そりゃ、ま、伊勢神宮や天照大御神くらいは知っているけど、大体、今回を逃したって、また二十年後にあるのだ。おそらくその次も。アル中気味でいつ肝硬変を起こしても不思議ではないマエダならいざ知らず、こっちはまだまだ人生があるのだ。チャンスはあるのだ。……もっとも、だからと言って、将来自分から伊勢神宮に行きたいと思うことはないだろうけどね。
まあ、遠い未来の話なんぞはどうでもいい。それに引き換え、青春ど真ん中の修学旅行は今回だけなんだぞ!
しかも、今日はまさにお引っ越しの当日ということで、ラッシュアワーの新宿駅の方がまだマシというほどの参詣者でごった返す状況の中、ようやく賽銭箱の前にたどり着いたものの、柏手を打つ暇もあらば、あっという間に押しやられた。神さまだって引っ越し直前の忙しい時に来られても、願い事なんか聞いている場合じゃないだろうし、当然ご利益も期待できない。奮発して百円を賽銭箱に入れたが、すでに後悔しているよ。
「ロブスターか何かだろ。どこ産か分からんが」と、呉場は眼鏡の奥から見下げたような目線で僕を見た。否、実際、正座している呉場は僕を見下ろしているんだけど、正面向きの顔を全く動かさずに僕の方を見るので、見下げた感がものすごく強い。
呉場は変わった奴だ。
成績も学年で一、二を争うトップクラスだし、知識も豊富だ。成績、品行とも教師陣から信頼されていると言っても過言ではないのだが、でも──。
やっぱり、どこか変だ。
なんと表現すればいいのか難しいが、興味の観点が他人とずれているような、我が道を行くという感じなのだ。
「ちなみに、伊勢エビの漁獲量が最も多いのは千葉県だ」と、呉場が言った。
「え、そうなの?」
「ところで、僕がつまらない、と言っているのはこの夕食のことじゃない」
「ああ、そうなのか? じゃ、なんだい?」
「夕食が終わったということは、あとは、風呂に入り、枕投げをして、女子および下半身系の話題を語り合い、大いに盛り上がった末に、寝るだけだ」
枕投げ以降は必須じゃないけどな。
「仕方無いだろ。夜は外出なんて出来ないぞ。それとも抜け出すのか?」
「なになに、抜け出すの?」
そうひそひそ声で話しかけて来たのは、同じクラスの女子、宇津美天子だった。こいつは、クラスメイトである以前に僕の幼なじみで、天子はアマネと読むのだが、通称テンコで通っている。
「関係ねえだろ、テンコ」
「あたしはパシリには話してないの」
パシリとは僕のあだ名だ。あだ名というか、テンコがそう呼んでいるだけだが。
「そのパシリっての止めてくれよ。走太だからパシリなんて単純過ぎる」
「天の子でテンコ、って方が単純じゃないの」と、テンコが実に正当なことを言った。
「いや、えーと、まるで、僕がパシリみたいに聞こえるじゃないか」
「え? 違うの?」
え? 違うよな? 僕、テンコのパシリなの?
仕方無いなあ、とテンコは口を尖らせた。
「じゃあ、少し可愛くしてあげるわ。えーと、じゃあ、パシリン♪」
否、全然可愛くなってねーよ。
「仲がいいな、二人は」
呉場がそう言うと、テンコは、全然!、と速攻否定した。「二人は」の「は」とかぶっていたくらいの早さだ。早過ぎるだろ。
大体、テンコは昔から調子がいいのだ。いい男、賢い男と見ると寄って行く。
以前そう言ってやると、
「当たり前じゃない。今から将来の稼ぎ頭くんたちにツバつけとくのよ」と、平然とのたまった。
薄々分かっているのだが、最近はどうも、呉場を狙っているらしい。呉場には一言注意しておいた方がいいかも知れん。
その時、大きく手を叩く音が聞こえた。まさかここを伊勢神宮と勘違いしている奴がいるわけでもあるまい。音の方を見ると、大広間の入り口で、ジャージ姿のマエダが大きく手を広げていた。社会科教師のくせに、体育の教師よりガタイが良い。禿げてあご髭を生やしているので、ジャージ姿で両手を大きく上げている姿はまるでいっぱしの柔道家のようだ。
「あと十分で、飯の時間は終了だぞ! さっさと済ませて、それぞれ部屋に戻れ! 風呂はA組から順に、しおりに書いてあるスケジュール通りに入ること!」
すでに飯を終えている連中がざわざわと立ち、大広間を出て行く。
「ねえ、赤福食べないの?」と、僕のお膳を見てテンコが聞いて来た。
「いらない」
テンコは、僕が甘いものが苦手なのを知っていて、わざと訊いているのだ。
「んじゃ、もらおう!」
テンコは大口を開けて天井を向くと、赤福を落とし込んだ。よくもまあ、お茶も飲まずにそんなものが食べられるもんだ。まあ、テンコは無類の甘い物好きだからな。そのくせしょっちゅう、その代償を嘆いているが、見た目には本人が言うほど太っているようには見えない。
呉場は立ち上がる様子も見せずに言った。
「つまらん。風呂でち◯こ比べなどして、何が面白いんだ」
しなけりゃ良いじゃないか。マエダだって、そんなこと言ってないよ。
「ち◯こ比べのことなんてどうでもいいよ」
テンコが、モロに言いやがった。お前の後ろでオタクの原がぎょっとした顔してるよ。
「お前も一応世間ではオトメと言われる年頃なんだから、そんな思いっきり……」
「うるさいわね、さっきから! 話が全然進まないじゃないの!」
黙る僕を尻目に、テンコはもう一度呉場に聞いた。
「ねえ、抜け出すの?」
「抜け出す? いや、抜け出すわけないじゃないか」
呉場は相変わらず、目だけでテンコを見下ろして答えた。天井を仰いで、なーんだ、とがっかりするテンコに向かって、僕は思い切り意地悪く言ってやった。
「当たり前だろ。絶対、バレるぞ。どうやってクラスメイト全員の口を封じるんだよ。バレたら、ただじゃすまないぞ。停学まではいかないだろうけど、内申にひびくぞ」
うらめしそうに睨み付けるテンコを放っておいて立ち上がろうとした時、呉場がぽつりと言った。
「もちろん、合法的に出かければいい」
「合法的?」
「納得づく、というべきか。さすがに僕独りでは難しいかも知れないが……。君たちが付き合ってくれるなら、もしかすると……」と、呉場は僕とテンコを見回した。
「付き合う、付き合う!」
テンコはまるで、交際でも申し込まれたかのように目をキラキラさせた。
呉場は「では」と立ち上がり、大広間の入り口に仁王立ちしているマエダの元へとスタスタと歩き出した。あわてて、僕とテンコはその後を追ったが、僕はまだ、付き合うとも付き合わないとも言っていないことに気が付いた。
「先生!」と、呉場は邪気など微塵も感じさせずに、元気よくマエダに声をかけた。
「ん、なんだ、呉場」
担任でもないのに顔だけですんなりと名前が出てくるとは、さすがは呉場だ。
「今回の修学旅行の行き先を伊勢神宮に選んだのは、前田先生でしたよね」
「ああ、うん。まあな」
「実に慧眼です。この千三百年にもおよぶ歴史と伝統を身を以て味わってこそ、日本国を守り、これからの未来を作り上げて行く日本人としての心を培うことができると思います。
さすが、前田先生。単に校内での生活指導に収まらず、卒業してからのことまでも想うその心情、まさに前田先生ならではです!」
「え? ああ、そ、そうだな」
嬉しそうなマエダの顔が赤いのは、照れているばかりではなく、すでに酒が入っているようだ。もちろん夕食に酒など出ていなかったが、隠れてひっかけたに違い無い。
「ですが、先生! 私はまだ満足できていません!」
「あ?」マエダがきょとんとした。
「式年遷宮のクライマックスである遷御の儀を体感せずして、何が遷宮でしょうか!」
「ええと……」
センギョノギってなあに?、と、テンコがひそひそ声で聞いて来たが、僕は黙るように手振りをした。言うまでもなく、僕にも分かってない。
「前田先生のお志を少しでも理解しようと、不肖呉場友人は式年遷宮について調べました。ものの本によりますと、浄闇の中で取り行なわれる遷御の儀は、この世のものとは思えないほど幻想的で、まさに日本人のDNAを深く揺り動かすほどの感動をおぼえるとか。
私もここまで来たら、それも見ないわけにはいきません。──いえ、見ないままで東京に帰れませんし、もしこのまま東京に戻ったとしても、後悔で授業など手につかないでしょう! そして、遷座の儀を修学旅行の行程に組み込まなかった前田先生を恨みます!」
いきなり恨まれることになったマエダの顔が真っ青になった。一気に酔いも冷めただろう。後ろで聞いている僕も吃驚したんだから、そりゃあ本人はもっと驚くよ。
マエダはうろたえたように言った。
「いや、く、呉場君、待ちたまえ。遷御の儀は、特別奉拝者しか拝観できんのだよ」
え!?、と、呉場の顎が数センチ下がった。アメリカのアニメなら、顎が床に着いているところだ。
「遷御の儀は、特別奉拝者という、選ばれた文化人や政財界の著名人しか拝観できんことになっておる。私がいくらがんばったとて、君たちに遷御の儀を見学させるようなことはできんのだよ」
「なんと! そうでしたか……」呉場はそう言うと、床に目を落とした。
「……呉場友人、一生の不覚。あれだけ前田先生の心根を察しようといろいろと調べたのに、そんな初歩的なミスを犯すとは……。自分の不学さを棚に上げて、前田先生を責めてしまい、誠に申し訳ありませんでした!」と、呉場はマエダに向かって深々と頭を下げた。
なんだ、ダメじゃん。呉場がこんな勘違いするなんて珍しいけど、まあ、そう簡単に夜間外出なんて出来ないよな。
「まあ、しかし」と、マエダが肩を落とす呉場に言った。
「わしも四十年前の遷御の儀の時、父親に連れられて宇治橋の外から遥拝したが、それでもなかなかのものだったよ。まだ小学生だったが、宇治橋の向こうで行なわれている日本古来から続く神聖な儀式に立ち会っていると思うと、眠さなど吹っ飛んで、身が引き締まる思いだったよ」
「それです!」と、突然、呉場が顔を上げた。
「僕もせめてそれを体感したい。遷御の儀は八時からと聞いています。まだ七時です。幸い、この旅館は宇治橋まで二キロもありません! まだ間に合います! 外出の許可を!」
「いや、しかし……」と、マエダはうろたえ気味だ。
「先生! そこまで聞かせておいて私たちに遷御の儀を遥拝するななんて、ひどい仕打ちです!」そう、いきなり言ったのは、テンコだった。
「私たちにも先生と同じ感動を味合わせてください!」
マエダは困ったような顔をしてテンコと呉場の顔を上目づかいに見ていたが、突然視線を僕に向けた。
「君も行きたいのかね?」
え、僕は……、と言おうとした時、尻にするどい痛みが走った。テンコが尻に箸を突き立ててきたのだ。
「は、はい、是非」
ふうむ、と、マエダはあご髭を撫でた。
「……さすがに呉場だけだと問題だが……。君たちも確かD組の……」
「はい、宇津美天子です」
「新木走太です」
「宇津美と新木だな。わかった。宇治橋前には他にも大勢の参詣者がいるから大丈夫だと思うが、問題を起こさないように。遷御の儀は八時から三十〜四十分で終わるはずだから、九時には旅館に戻って来て報告しろ」
「あの、担任の真島先生にも許可をとらないと……」と、呉場がおずおずと言った。
「真島先生か。あの先生は数学のことしか頭に無いからな。君たちのそういう殊勝な心を理解できんだろう。それに、これから引率の先生方で会議をしなくちゃいかんから、わしから言っておく」
「有り難うございます!」そう言って深々と頭を下げる呉場に、気をつけるように、と言い残すと、マエダはそそくさと大広間を出て行った。
「すげえ! やったじゃん」
「呉場君、すごい、すごい!」
呉場は顔を上げてマエダの去った方を見ながら、言い捨てた。
「なにが、会議だ。飲み会だろうに」
「いやあ、一時はどうなることかと思ったけど、まさか、本当に夜間外出許可が下りるなんて」
「……どうなることかと思った?」と、呉場が顔を向けた。
「いや、なんだっけ、魚屋のセールみたいな、……鮮魚の日だっけ? それが特別の人しか見れないって言われた時には、もうダメだと思ったよ。呉場にしては、珍しい知識不足だったな」
「特別奉拝者のことか?」と、呉場が言った。
「そんなの知っていたに決まっているじゃないか。そんなこと、ちょっと調べればすぐわかる。事前調査は万全だ」
え? そうなの?
では、こいつは全部計算づくで、話をもっていったってわけか。恐るべし、呉場。
テンコもさすがに唖然としたが、すぐに切り替えた。
「折角許可が下りたんだから、さっさと行きましょ。真島のせいで話が変わらないうちに!」そう言うと、真っ先に大広間を出た。
その通り、と、呉場も続いたので、僕もあわてて追いかける。
「さすがに夜は寒いかな。セーター着た方が良いかな」と、テンコはすでに浮かれ気味だ。
一旦部屋に戻る途中で玄関ロビーに出たところ、待ち合い椅子でだべったり売店でたむろする生徒たちの中、明らかに異質な男が旅館のフロントで和服姿の受付と話していた。否、異質と言うか、変質というか。
「えー、外、そんなに寒いの?」と、思わずテンコが口に出したように、その黒いコートの男は、マスクをしている上にしっかりとマフラーを巻いていた。おまけにサングラスもしている。どこからどう見ても、怪しさ満点だ。
「どこも一杯で断られた。もう、七件目なのだ」フロントの女性にそう訴える男の声は意外にもいい声だ。
「そう仰られても、うちも満室でございますし……」
「俺は疲れているんだ。さすがにもうこれ以上運転は無理だ」
「ですが……」
「こんなに子供どもがうじゃうじゃいるじゃないか。こいつらを押し込めれば、一部屋くらい空くだろう!」
おいっ! 今でさえ、八人部屋だぞ! しかも、大部屋を襖で区切っただけの部屋だ。
「なんとかならないか! 金ならある!」
「ま、確かにコートもファッションも上物だけど……」と、さすがにテンコは目ざとく品定めしている。
「お金があっても、あの恰好じゃーねー」
テンコの言葉が耳に入ったのか、男はこっちを振り返った。もっとも、マスクにサングラスをしているので、その表情は伺い知れない。
フロントの和服姿の女性はとりなすように、付け加えた。
「お客様、本当に満室なんです。しかも、今日はお伊勢さんのお引っ越しですんで、他の旅館さんも満室やと思います」
「オイセサン……、引っ越し?」
「伊勢神宮です。今日は天照大御神さんのお引っ越しです」
ああっ!、と、男は突然フロントのテーブルをこぶしで叩いた。
今までこそこそと覗き見ていた生徒たちも、しんとして、男を見つめた。
振り返って、自分を凝視するたくさんの目をサングラスの奥から見回した男は、それでもまだあきらめがつかない様子で受付を見直した。一瞬何か言いかけたものの、男は首を小さく横に振ると急に踵を返し、大股でロビーを横切って旅館を出て行った。
自動ドアがぴたりと閉まるのを待っていたように、呉場が言った。
「さ、僕たちも急ごう」
3
旅館を飛び出した男は駐車場に止めてある赤い車に乗り込んだ。老舗旅館の灯りをきらきらと跳ね返すそのボディには、高級外車であることを雄弁に語る踊る馬のエンブレムがある。男はドアを閉めるないなや、もがくようにマスクとマフラーをむしり取った。
もちろん、この変態姿の男は、那智勝浦にある新型熱核融合実験施設の統括主任、有畑一石だ。
「なんてことだ、伊勢神宮はこの辺りなのか。しまったな。そうか、シキネンセングウとか言うやつか……」
今朝聞いたばかりのその言葉にどんな漢字をあてるのか、有畑はまだ知らなかった。
あれは、実験が始まる十五分前──、つまり今朝の午前九時四十五分、有畑がコントロールルームにやって来た時のことだった。
有畑はゆっくりと室内を見回した。怪訝そうな雰囲気が顔に出ていたのだろう、久遠寺里乃がヒールの音も高らかに歩み寄って声をかけて来た。
「どうなさいました?」
細い眼鏡の奥から、細い目が有畑を見据えている。
「いや……、報道陣がやけに少ないかな、と……」
少ないと言うか、ビデオカメラ二台だけだった。しかもカメラマンだけで、まだ、記者の姿は無い。
「今日は式年遷宮ですから、報道はそちらの方にかり出されているのでしょう」
「シキネン……セングウ……?」
確かに、有畑は物理、科学、数学以外のことはあまり関心も無く、一般の人間より知らないかもしれない。だが、この時は、久遠寺の目に浮かんだ無知を呆れるような気色にいらっときた。
それなら、おまえは、ヘリカルコイルを説明できるのか?
「天照大御神が伊勢神宮に祀られているのはご存知ですね?」
もちろん、それぐらいは知っている。中学生レベルだ。否、小学生レベルかな?
でも、伊勢神宮がどこにあるかまでは、よく分からなかった。だが、またあの呆れた目で見られるのが嫌だったので、有畑は急いでうなずいた。
「伊勢神宮は二十年ごとに立て替えられます」
新事実だった。そんなに頻繁に立て替えるなんて、なに様のつもりだ? ──否、神様か。
「そして、今日がその引っ越しの、まさに当日なのです」
ははあ、そうなのか。なんと、間が悪い。実験をむりやり俺の誕生日に合わせたのが、まずかったか。しかし──。
「神サマごときの引っ越しよりも、日本の、いや、世界のエネルギー事情を変えるこの有畑型熱核融合実験炉の方がニュースバリューがあると思うのだがね」
皮肉たっぷりに言った有畑の台詞を、そうですね、と、久遠寺は軽く受け流した。
「……まあ、万が一ということもありますので、あまりプレスの方々に来られても」
かちんと来た。
「万が一とはどういうことだね?」
「失敗するということです」
こいつ、はっきり言いやがった!
「でも、万に九千九百九十九は失敗しないと信じております。なにせ、有畑統括主任のプロジェクトですから」
本心かどうか、有畑には無表情な久遠寺の顔から伺い知ることはできなかった。
「大丈夫です、記録映像は委託業者によって完璧に撮らせておきますから」
ということは、このビデオカメラマンたちも報道関係者ではないのか、と、有畑は、ジーパン姿の薄汚いカメラマンたちをながめた。セッティングを終えたカメラマンたちは、手持ち無沙汰に時計を見たり、無精髭の生えた顎を掻いたりしている。
「成功したあかつきには、プレス発表用に編集もしますし、お気に召さなければ、撮り直しもさせます。なあに、視聴者には実際の映像か再現映像かなんて、わかりませんよ」
いけ好かないが、何から何まで用意周到だ。この歳でこの大型プロジェクトの管理をまかされているだけのことはある。
ふん、と、有畑は時計を見た。
「あと五分か。そろそろ文部科学大臣に入室してもらわないといけないんじゃないか?」
「文部科学大臣なんていらっしゃいませんよ」
なんだと?
「今日は遷宮の式典に出られるので、こちらにはいらっしゃいません」
くそ! また、シキネンセングウとやらか……。
「しかし、こんな世紀の実験に文部科学大臣がおられないのは残念ですね。あとで、プレス発表の映像に映っていなかったら、恥ずかしいのでは?」と、有畑は精一杯の嫌味を言ったが、久遠寺はにっこりと笑った。
「お気遣い無く。そこはうまく編集いたします」
そして、長い髪を書き上げると、こう付けたした。
「……それに、最近は合成なんて簡単にできるんですよ」
悔しいが、久遠寺の判断は適切だった。
「もう、だめです」
コントロール技師がそう言った直後、大きな揺れが起こった。炉の中を映していたモニターは、一瞬明るく発光し、そのまま消えた。コントロール内の灯りは何度か明滅はしたものの、幸い実験棟全体が停電には至ることはなかった。人的被害は無かったが、実験炉はかなりの損傷を被ったはずだった。
久遠寺里乃の、じっとこちらを見つめる細い目を思い出す。
ちくしょう! あの目はしばらく夢に見そうだ。
有畑は久遠寺の指示のもと、夕方近くまで、ニュースに向けてのプレス発表用のデータの整理に追われた。久遠寺は、さすがにやり手の役人だけあり、失敗した実験に対しても、さまざまな角度からひと通りの資料を手配した。
それでも、文部科学省とプレスとの対応に追われる久遠寺の忙しさは桁外れだった。久遠寺の能力を持ってしても、ひとまずのデータ整理から解放されて専用ルームのソファでぐったりとしている有畑に目が行き届かなかったことは、仕方が無い。
やや放心状態の有畑は、ソファから起き上がると、ふらふらと研究所の廊下を歩いた。所員たちは破損した核融合炉の始末に大わらわで、そこには誰もいなかった。
有畑は、裏口から駐車場に出ると、愛車の赤いフェラーリに乗り込んだ。そのまま有畑は、新型熱核融合実験施設をあとにしたのだった。
どこをどう来たのかすら覚えていないが、旅館のありそうな町がここだった。
まさか、ここに伊勢神宮があるとは思いも寄らなかった。
しかも、ここまで来てもシキネンセングウとやらにつきまとわれるとは、悪魔だか妖怪だかと思いたくなる。
もちろん有畑は、悪魔や妖怪はもとより、神様さえも信じてはいなかったが。
4
旅館を出た僕たち──、つまり新木走太、呉場友人、宇津美天子の三人は山と住宅街の狭間にある道を市街地に向かって歩いていた。街灯もほとんど無い小石だらけの道だ。それぞれが持つスマホが顔を明るく照らし出している。
僕たちが泊まっている旅館は、伊勢神宮内宮の北寄りの裏手にあった。地図で見ると、内宮の敷地からわずかに数百メートル程度だが、山の麓と市街地の境にあり、街の喧噪からはほど遠い。
その代わりに耳が痛くなるほどの虫の大合唱だ。
「ここのフォンダンショコラ、超おいしそう! あ、でも、こっちのシュークリーム、関西一だって!」と、テンコは伊勢のスイーツを検索しながら、虫の声もものともせずに独りで盛り上がっている。
「あー、どっちに行こうかなー。迷うなー!」と、嬉しそうにスマホを押付けて来た。
「ねえ、ねえ! どっち行きたい、パシリン?」
パシリン、本採用かよ!
しかも、どっちも行きたくない。テンコと違って、甘いものは勘弁だ。しかも。
「何、言ってんだよ。俺たちはこれから何時間か寒空の元にたたずまなきゃいけないんだぞ。そんな店、行ってるヒマないよ」
「何、真面目なこと言ってんのよ。そんなに神さまのお引っ越しなんか見たいわけ?」
テンコは呆れ顔をこっちに向けた。スマホの灯りのおかげで、ばっちりだ。
「俺じゃないよ、呉場だよ!」
「呉場くんだって、本気のわけないでしょ。旅館を抜け出す口実に決まっているじゃないの! 子供じゃあるまいし」
それはテンコが呉場を知らないからだ。あいつは、賢いが子供だ。子供以上に子供かも知れない。面白いと思ったことを思い通りにやるのが呉場なのだ。しかも、その面白さの感覚が、他人とずれている。
だが、確かに、神様の引っ越しをぼーっと待つような男では無い。そんなことで教師のマエダのように感動するとは思えないし、そもそも、呉場って、感動などするのかな?
「待ってよ、呉場くん!」
呉場に向かって小走りに走り出すテンコの声で我に返ると、いつの間にか呉場は随分先を歩いていた。
あれ、あれ?、と僕はあわててスマホの地図を確認した。やはり、ここで曲がらないと、橋の方には出られない。あわてて二人を追いかけた。
「おい、呉場! 橋、……えーと、宇治橋はそっちじゃないぞ!」
呉場は立ち止まると、首だけ曲げて振り返った。
「静かにしろ。こんな時間にこんな静かなところで、大声を出すな」
充分、虫の声がうるさいけどな。
「でも」と、僕は、一応声をひそめた。
「宇治橋へ行くなら、こっちじゃないぞ?」
「誰が宇治橋なんぞに行く?」
え?
「神サマの引っ越しをまんじりともせず待っていて、何が面白い?」
否、僕は面白くないんだけど……。横で、ふふん、と、自分の得意気な顔をスマホで照らし出しているテンコに腹が立つ。勝ち誇った薄ら笑いの目をスマホに落とすと、操作を始めた。スイーツ店の選定に戻ったらしい。僕は首をすくめ、もう一度地図を見た。
「街に出るにしても、さっきの場所で曲がらないと……」
そう言っている間に、呉場は再び歩き出した。
「おい、待てよ」と、あわてて追いかける。テンコも成り行きがよく分からず、付いてくる。
「待てったら。そっちには何もないぞ?」
「何も無くはないぞ。見ろよ、内宮の裏の杜がある」そう言って呉場が指差す方に、薄明かりの夜空を背景に、木々が真っ黒なシルエットを形作っている。否、だから、何にも無い、と表現したんだけどね。しかし、呉場は引き返す気は全くないようで、歩調を緩めることも無い。そうこうするうちに民家も無くなって来た。
「ねえ、呉場君。ちょっと暗くなってきたよ、この辺り」と、いぶかしげに付いてきたテンコが気味悪そうに周りを見回した。
そんなテンコの言葉にもおかまいなく、そのまま黙々と呉場は寂しい道を進み続けると、やがて鬱蒼とした木々の合間にビルの灯りが見えて来た。スマホの地図を確認してみると、どうやら神宮司庁という建物らしい。名前から察するに、伊勢神宮の事務棟みたいなものなのだろうか。
ふいに呉場が道をはずれて、脇の林に分け入った。
あわてて、僕も追いかけると、草の中から無数の小さなものが飛び出すのが、スマホの灯りに照らし出された。さっきまで楽しげに唄っていた節足動物門昆虫綱直翅目の連中だ。
テンコが、何とも言えない聞いたこともないような声を上げて僕の制服のすそを掴んで来たが、とりあえず放っておいた。こちらは、頼りないスマホの灯りの中で呉場を見失わないように必死なのだ。
「ち、ちょっと、待ってよ、パシリン! どこ行くのよ!」
「知るか!」
「痛い痛い! ぎゃっ! なんか触った! 待ってよ、パシリン!」
男の僕でさえ腰まである草の中をかき分けて進むのは勘弁してもらいたいのに、スカート姿のテンコにとっては、さぞ地獄だろう。同情する。
「パ、パ、パシリン! お願い! 待てって言ってんだろっ、パシリっ!」
あっと言う間にパシリに戻ったが、おかげで同情心も薄れた。その時、ようやく立ち止まった呉場に追いついた。ところが、呉場は追いついた僕たちを振り返ることもなく、上の方へ──。
……え? 上!?
金網だ。呉場は、目の前に貼られた金網の塀をあっという間によじ上った。
「え? おいっ!?」
「あたし登れないわよ、スカートだしっ!」
「しっ!」
塀の上で呉場がするどい声を出した。そのあまりに緊迫した感じに、僕もテンコもぴたりと止まった。おそるおそる呉場を見上げると、金網の上から遠くを見やっているらしい。
ふいに呉場は自分のスマホの電源を切ると、
「急げ、エシだ」と、小さく、しかし、するどく言い放って、金網を乗り越えた。
エシとは何か分からなかったが、僕もあわててスマホを消した。同時にテンコの灯りも消えた。手近な灯りが消えたことで、木々の向こう、おそらく僕たちが道から外れた辺りで、明るい光がちらつくが見えた。多分、懐中電灯だろう。
「早く!」と、テンコを促した。
「無理よ。高いし、学生靴だし、スカートだし」
懐中電灯の光が執拗にこちらを照らしている感じがするのは、錯覚だろうか?
僕は急いで金網に下に四つん這いになると、息を飲むテンコに向かって、するどく言った。
「早く、登れ!」
一瞬躊躇したテンコだったが、
「覗かないでよ!」と、すぐに返事が返って来た。
こんな暗がりで見えるわけが無い。と言うか、テンコのパンツなど、幼い頃から公園の滑り台やジャングルジムで見飽きるほど見ている。大体、こいつは僕より運動神経が良く、いつも僕の前にいたのだ。今は呉場の手前で恥じらいを見せているつもりなのだろうが……、!!!
折角の夕食を戻しそうになった。
テンコの言っていた甘いものの「代償」という奴が初めて分かった。
こいつ、着やせするタイプなのか? 密度はどうなっているんだ?
思わず呻き声を漏らすと、上から歯ぎしりのような音が微かに聞こえた。あわてて呻き声を飲み込んで、テンコの重さに耐えて地面を見ていると、金網の足元に直径三十センチメートルほどの丸い石が落ちているのに気が付いた。さらに不自然なことに、石には赤いマーカーで丸い印がついていた。
背骨をへし折るかのごとくの圧迫の後、ジャンプとともに、僕の背中はテンコの体重から解放された。次の瞬間、僕は急いで立ち上がると、金網をあっと言う間に乗り越えて、飛び降りた。僕はバランスを崩して、前に倒れ込んだ。咄嗟に出した両手で、無様に倒れ込むことは無かったが。
飛び降りた場所が悪かった。
ぎりぎりで身体を支えたものの、目の前にテンコの顔があった。
否、暗闇の中で見えたわけではない。目の前に何かあるという、微かな熱を帯びた圧迫感。自分のものではない、静かだが震えるような小さな息づかいが、僕の口元辺りに感じられていた。それは、おそらくあと一センチでも動けば、キスしてしまいそうなくらい目の前にテンコの顔があると、僕に告げていた。
もちろん、この状態は本意では無い。テンコにこれほど顔を近づけているのも、ツイスターゲームのような姿勢もだ。
体勢を立て直そうとした瞬間、思いがけず近くでした男の声に身体が凍り付いた。暗闇の中でも、顔の下のテンコも息を飲んだのが分かった。
身体を極力動かさず目だけを音の方に向けて見ると、道でちらついていたはずの懐中電灯の灯りはいつの間にか、僕たちが通り過ぎてきた薮の中に分け入り、数メートルの近さまで来ていた。今はそれが、二人と分かる。
「もう、いいだろう?」
「待て、待て」
「お前、真面目すぎんだよ」
「今日は遷御の儀だからな。今日、何かあったら、俺たちのクビが飛ぶだけじゃすまんぞ」
「クビが飛んじまったら、後は知ったこっちゃねーだろ」
小さな声で独りごちた男に、思わず、そりゃそうだ、と相槌を入れたくなった。
呉場がエシと呼んだ男たちは、僕とテンコがついさっきまで居た金網の向こう側で立ち止まった。男たちの顔は判らなかったが、二人ともまるで昔の駅長のような服装だった。
「もういいだろ、猫だよ。こないだもそうだったじゃねえか」と、男の一人はさっさと踵を返し、道へと戻り始めた。
もう一人の男も懐中電灯で辺りの木々を照らしていたものの、
「こないだのは、狸、だろ」と言うと、諦めたように歩き出した。
「あんな丸い猫がいるもんか」そう言いながら草をかき分ける音が、次第に遠ざかって行った。
──安堵。
それが、僕の現在の状況を忘れさせた。思わず、がっくりと頭を垂れてしまったのだ。
その時、何かすごく柔らかいものが僕の唇に触れた。否、本当に触れたのかな、そんな感じのあまりに微かな触感──。
その一瞬の後、強烈な衝撃と痛みが腹部を襲い、僕は横様に倒れ込んだ。突然の脇腹の激痛に声を上げなかったのは奇跡と言える。横っ腹を押さえて呻く僕を容赦なく灯りが照らし出した。
「何してる」と、飽れた顔で呉場が言った。
「腹が痛いのか? 夕飯の食い過ぎか?」
テンコはいつの間にか呉場の後ろの方にいたが、その表情は伺い知れなかった。腹を殴られたときにそのまま崩れ落ちることなく脇に倒れ込んだ僕を、褒めて欲しいものだ。否、違うか。もしテンコの上に倒れ込んでいたらどうなっていたか、考えるのも恐ろしい。
呉場が容赦なく続けた。
「午後八時になると、灯りが消える」
どこの?
「内宮全部だ。浄闇と言う。遷御の儀の始まりだ」
行くぞ、と、呉場が林の中を歩き出した。
あわてて、テンコが後を追う。僕も起き上がると、スマホの電源を入れ直して駆け出した。腹にはまだ鈍い痛みがずっしり残っているが、走れないことは無い。股間を蹴られなかっただけでも、マシだったのかも知れない。
先を行く呉場は、なぜか、くねくねとルートを変えて木々の間を抜けて行く。速歩き程度のスピードだが、急に曲がるので、追いかけるのも大変だ。
ついに、呉場のすぐ後に続いていたテンコが根を上げた。
「ち、ちょっと待って! ねえ、呉場くん!」
呉場はぴたりと止まった。
「静かにしてくれ。ここは、警衛部の建物が近い」
ケーエーブ?
まさか、経営部では無かろう。呉場の発する聞き慣れない言葉に漢字が思い浮かばない。「さっき巡回していた衛士たちの組織だ。……しっ!」と、突然、呉場が強く静止した。瞬間、呉場のスマホのディスプレイも消えた。
僕とテンコも、<だるまさんが転んだ>よろしく、その場でぴたりと静止した。
植え込みに隠れるようにして外を見ていた呉場が、僕たちに向かって手を下げる動作をした。僕らは、ゆっくりと、最大限に音を立てないように努力をして身をかがめた。
息を殺して待っていると、靴音が聞こえた。同時に、懐中電灯の強い光が近くの植え込みをよぎった。テンコの息を飲む音が、小さく聞こえた。僕はさらに身をかがめた。植込みの隙間から、燈明の灯りに照らし出された男の姿が見えた。
男のやや後ろ気味から灯りが当たっているので見えづらいが、四十歳前半から半ばというところだろうか。がたいも良く、大男だ。さっきの若い衛士と同じ、駅長のような恰好をしているが、風格、体格ともはるかにこの男の方がりっぱに見えた。
その時、別の──、今度は二人組らしい足音が、逆の方向から歩いてくる音が聞こえた。
「特務衛士長殿!」と、男たちは最初の男の前に来ると、ぴたりと静止し、指先を帽子のつばに当てて敬礼した。
「長」が付くなら、やはり偉いのだろう、特務衛士長と呼ばれた男は鷹揚に頷いた。
「いかがなさいました?」と、若い声の男が訊いた。
「声が聞こえた気がしたのだが……」
やばいっ!
「おまえたちは聞かなかったか?」
衛士長の言葉に、二人は顔を見合わせた。
「我々の声だと思います。つい今しがた、定刻通り遷御の儀を取り行なう旨の連絡を受けましたので」若い男はそう言ったが、衛士長は少し腑に落ちないようだ。衛士長が何も応えないので、若い男がおずおずと切り出した。
「……あの……、今朝未明から、式部の連中が慌てふためいていますが、何かあったのですか?」
今度は、衛士長もすぐさま言い返した。
「祭りをしきる連中も、二十年に一度の祭祀とあっては、緊張しているのだろう。お偉い方々も大勢、来られるしな。あいつらはただの祀りバカの、ケツの穴の小さい連中だからな」そう言うと、衛士長は呵々と笑った。
若い二人はどう応えて良いかわからない風だったが、とりあえずつきあい笑いをすることにしたようだ。
衛士長がふいに真顔になった。付き合い笑いの二人は笑顔のままこわばった。
「わしはそろそろ、特別奉拝席へ向かう。おまえたちは引き続き、スケジュール通りの警護任務を続けるように。事前手はず通りに警備していれば、何の問題も無い。粛々と任務を遂行せよ!」
二人の男は、背筋を伸ばして衛士長に敬礼をすると、足早に巡回に戻って行った。
衛士長は男たちの歩いて行った方をしばらく見つめていたが、突然、懐中電灯で僕たちの居る辺りを照らし出した。
僕はより一層、頭を下げた。姿勢としては、もう限界だ。
ゆっくりと植込みをなぐように懐中電灯の光が移動して、消えた。靴音が再び聞こえ、次第に離れて行った。そのまましばらくは同じ姿勢で遠ざかる靴音を聞いていたが、やがて聞こえなくなった。
「あれが衛士長か……。インターネットで見た写真とは違うな……。いや、特務衛士長と呼ばれていたな。特務……衛士長。そんな役職あったか……?」呉場がつぶやく声がした。
こいつ、何、調べてるんだ?
そう思ったが、とりあえず、身体を起こすのが優先だ。異様な姿勢で固定していたため、身体が変にこわばっている。
テンコも、あー、と大きなため息をついた。スカートが汚れるのも気にせずに、土の上に脚を投げ出して座っている。
「で、何だい、宇津美君?」と、呉場がスマホの電源を再び入れながら、テンコに訊いた。
テンコも一瞬考えたが、警備員の出現で言いそびれたことを思い出したようだった。
「えーと、あたしたちはどこに向かってるの? しかもなんで、隠れまくっているわけ? 何かのゲーム? お宝や賞金があるの?」
いい質問だ。
呉場は怪訝な顔をした。スマホの灯りの中でも、呉場が眉をひそめたのが分かった。
「最初から言っているだろう?、遷御の儀を見る、と」
え?
「でも、それって、特別な──、政治家とか有名人とかしか見れないんだろ?」と、僕。
「だからこうして忍び込んでいるんじゃないか」
「ほ、本当に見に行くの?」テンコもさすがに呆れ顔だ。
ふふん、と、今度は僕が鼻で笑ってテンコを見てやった。テンコはまださっきのアクシデントを怒っているのか、僕とはちらりとも目を合わせようとしなかったが。
「当たり前だ。折角のチャンスだ。遥か彼方の宇治橋の向こうから指をくわえて見ているなんぞ、愚の骨頂。ましてや、儀式を想像するだけで胸が熱くなるとは、なんと薄っぺらい!」
……マエダ先生、散々な言われようだな。
テンコは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
どうだ、呉場はバカなヤツだろう。とは言え、僕も呉場がこんな呆れたヤツだとは初めて知ったが。
「あたし、帰るよ」歩きだそうとしたテンコを呉場が遮った。
「いくら成績優秀、品行方正な僕でも、独りだったら、さすがに外出は許可されなかったろう」
……言ったよ、自分で。しかも、伊勢神宮に無断侵入しているくせに、品行方正とは。まあ、教師の前では、という条件なら認めざるを得ないけど。
「それについては、そこそこの成績と品性の君たちが同行してくれたことに感謝する」
腹は立つが、それもまたその通りだ。
「もちろん、君たちにまで遷御の儀を付き合わせる権利など僕には無いし、君たちにも義務は無い。君たちの自由だ。判断は任せる」
ただし──、と、呉場はすぐ近くにある、地面につきたっている木の杭のようなものを指差した。
「赤外線カメラだ」
え!?
「分かるだろ、内宮全域にこういうものが仕掛けてある。神宮衛士の巡回もある。ほら、さっきの彼らも言っていたろう? 今日は二十年に一度の伊勢神宮最大のイベントだ。お偉いさんも大勢来ている。見つかれば、まあ、ただでは……」
これが赤外線カメラか、と、改めて杭のようなものを見つめた。上部に四角い孔が空いていて、なるほど良く見ればレンズや金属が灯りを反射している。
そうか、と思いついた。呉場がくねくねとルートを変えながら歩き回っていたのは、監視カメラを避けるためだったのか。
だけど──。
「なんで、おまえ、赤外線カメラの位置が分かってるんだ?」
呉場はスマホを振ってみせた。
「SNSの仲間たちの手助けだ。既存のゲームなんぞで時間を無駄にするより、リアルなゲームを解いた方が面白いし、スリルがあるだろう? そういう仲間がたくさんいてね」
乗り越えた金網の下に在った印入りの石を思い出した。あれも、呉場の仲間の仕業か。
「さあ、もう時間が無い。ここで、じっとしているか……」
うらめしそうに赤外線カメラを見つめていたテンコがため息をついた。テンコの答えは決まっていた。
もちろん、僕も。
5
奉拝席のざわめきが寂とした森の中に吸い込まれて行く。競い合うように高く延びる杉の木立の上には、覆いかぶさるように満天の星空があった。東京で見上げるより何倍も星が多く、はっきりしていて、空がぐんと近くに感じた。ぐるりと見回してみたが、月は見えなかった。
僕たちは奉拝席の後ろの林の中に隠れていた。奉拝席のざわめきと後ろから微かに聞こえる五十鈴川のせせらぎを聞きながら、もうそろそろ始まるであろう神さまのお引っ越しを待っていた。もっとも、待っているのは、この三人の中では呉場だけだ。テンコと僕は終わるのを待っているといってもいいだろう。じっと潜んでいるせいで、さすがに薄ら寒くなってきていた。
居並ぶ特別奉拝者の人数はかなりのものだ。二〜三千人もいるんじゃないかな。もっと少人数で秘儀っぽいものかと思っていたが、結構開けっぴろげみたいだ。
「……データ改ざん、IT関連会社家宅捜査。……政界再編加速か、社産党分裂……」
呪文のような声の主はテンコだ。スマホの灯りがふてくされたテンコの顔を闇に浮かび上がらせている。もし、間違って誰かに見られたりでもしたら、伊勢の森の怨霊と思われるに違いない。否、それで済めば良いだろうが、警備員──エシだっけ──に見られたりでもしたら、大変だ。特に、あの大男。エシ長って言ってたな。あいつに見つかったら、手足の一本くらい簡単に折られちゃうぞ。
「……和歌山県那智勝浦の実験施設で爆発事故、けが人無し……」
スマホを消すように、呪文を唱えるテンコに合図した。
「……オレオレ詐欺、被害額過去最高……」
無視された。
アレ以来、いまだに口を聞いてもらっていない。もう一度、スマホを消すように、テンコに合図した。
「そう言えば、母さん助けて詐欺、とか言う名称、もう誰も使わないわね。警察すら使ってないんじゃないのかしら。改名の陣頭指揮をとった人は、もう忘れてしまいたいでしょうね」
「……テンコ」
「人には忘れたいことがあるもんよねっ!!!」ものすごい目で睨みつけられた。
「ウギロウが何かおかしいな……」と、奉拝席のあたりを眺めていた呉場が言った。
ウイロウ?
「いつもならば、旧社殿から新社殿まで、雨天に備えて屋根の付いた廊下のようなものを作るんだ。雨が降った場合の儀式用の廊下で<雨儀廊>。そこを遷御の行列が通る。昨日サイトにアップされていた動画では例年通りに作られていたんだけど……」
枝の間から覗き見ると、屋根付きの廊下のようなものは無かったが、通路とこちら側の境に簡単な板境のようなものが長々と置かれていた。よく分からないけど、間に合わなかったんじゃないの。
その時、特別奉拝者たちのざわめきがひときわ大きくなった。次々に灯りが消えて行くのが見えた。
「これが、浄闇。清らかな闇のことだ」と、横に立つ呉場が解説してくれた。
「よく知っているな」
「予習は万全だ」
回りの灯りが消えて行く中、さすがにやばいと思ったのだろう、背後でテンコがスマホを消したのが分かった。
立ち上がって見やると、灯りが全て無くなったわけではないようだった。神社から続いている階段の下で、かがり火が燃えている。特別奉拝者たちのざわめきは、すぐに静寂へと変わって行った。虫の声と身じろぐ音、そして時折聞こえる乾いた咳の音だけが、寂とした森の中に吸い込まれて行く。
突然、静寂を破るように、遠くから声が響いて来た。なにかのかけ声のようだった。
「鶏鳴三声。鶏の鳴きまねだ」
呉場の言う通り三度、声が聞こえたと思ったら、辺りは再び静かになった。
やがて雅楽がどこからとも無く響いて来た。特別奉拝者たちのざわめきで何かが始まったことは分かったが、暗いし、遠いしでよく分からなかった。
「よく見えんな」呉場はそういうと、ためらいも無く、さっと薮を出て行った。あわてて追いかけようとすると、また制服の裾を掴まれた。テンコだ。
このままここで待とうかとも思ったが、苦労してここまで来たわけだし、興味は無くともやはり見ておかないと損な気もする。貧乏性なのだ。
「ゆっくり行くから」そう言って、薮から抜け出した。テンコも僕の制服の裾を握ったまま付いて来ている。居並ぶ特別奉拝者たちの向こうに、ようやく、松明を持った神主のような装束姿の男たちがやってくるのが見えた。
行列は、呉場が言った通り、奉拝席の前に作られた長い廊下のようなものを通って近づいて来た。雅楽の響く中、ゆらゆらと揺らめくオレンジの炎に照らし出された男たちの行列は、ちょっとした感動ものだった。否、本当に、見もしないでつまらないものと決め込んでいた自分を恥じたよ。
松明を持った男たちが過ぎ、かがり火も消された。その闇の中を提灯の灯りだけを頼りにやって来たのは、白い巨大なものだった。
高さは四メートル、否、五メートル以上あるかも知れない。
何人もの装束姿の男たちが長大な棒を掲げ持って、円陣を作っている。棒には白い布が巻き付けられており、巨大な白い布の角柱を形作って、中にある何かを隠しているようだった。隠し囲いを作り上げているそれぞれの棒の先には、稲妻型におられた紙の飾り──ほら、しめ縄にぶら下がっているやつだ──が付いていて、ちらちらと夜空にはためいていた。
そして、その巨大な布囲いの回りをさらに何重もの装束姿の男たちがとりまいている。
呉場の解説は無いが、この中にきっと天照大御神……サマのご神体があるんだろう。昔、授業で天照大御神のご神体は鏡だと教えられた記憶がよみがえった。鏡しかないにしては、巨大な隠し囲いだ。
そう言えば、呉場は廊下──ウギロウだっけ──が無いのがおかしいようなことを言っていたが、目の前に見える巨大な囲いが入るとすれば、とてつもなく高い屋根が必要となってしまう。考えにくいことではあるが、呉場の勘違いじゃないのかなあ。
巨大な布囲いの中には灯りが在るらしく、白い布を闇の中に幻想的に浮かび上がらせていた。黄色ともオレンジ色ともつかない、ともすると青色にも見える不思議な灯りでほんのり輝く布は、行列が進行していく中で布が作り出す陰と相まって、柔らかく揺らめいてさまざまな形を闇に描き出していた。
「……きれい」つぶやくように、テンコがそう言ったようだった。多分聞き違いでは無いだろう。その証拠に、僕の制服を掴む力が強くなっている。ちょっと、痛いぐらいだ。
目の前を通り過ぎて、白い布の巨大な囲いは階段を上がって行く。昼間、修学旅行で参詣に来た時、階段の上に真新しい社が見えたところだ。いよいよ、新居に入居するというわけだ。
白い布の囲いは神主装束の男たちによってゆっくりと一段一段慎重に進んで行く。提灯を持った男たちがその後に続く。棒や布の重量はかなりのものだ。しかも歩きにくそうな木靴のような変な靴を履いている上に、足元も暗くほとんど見えない中、階段を登っているわけだ。慎重にならざるを得ないだろう。案の定とも言えるアクシデントが起きたのは、その時だった。
白い布を持った男の一人が階段を踏み外し、よろめいたのだった。
布を支える棒が傾き、オブジェ全体が崩れそうになり、奉拝席から小さな悲鳴が上がった。
しかし、さすがに踏みとどまった。布囲いを支える他のメンバーがなんとか堪えて、惨事になることは避けられたようだった。
ただ、ほんの少し、背後──、つまり僕たちの側にあった布の重なりがほどけた。ほんの少しだけ、ほんの一瞬。
その瞬間、僕は何かを見た。
否、見られた……、のだろうか。
何を見たのか、どうして見られたと思ったのか、僕ははっきりと表現することが出来なかった。
布の重なりがほどけた一瞬、中の灯りを見た気がした。ぼんやりとした暖かいその光の中に何かを見た気がした。そして見られた気がした。
光が強くなったと思った次の瞬間、突風が吹いた。
「きゃあ!」と、背後でテンコの悲鳴が聞こえた。
突風は砂や埃を巻き上げて、背後へと抜けて行った。不思議なことに、十月の夜の空気とは思えないほど、異様に生暖かかった。
目と口に入った砂を拭うと、階段正面に近いところに座っていた奉拝者たちが、椅子ごとバタバタとひっくり返っていて、大騒ぎになっていた。どこからかエシたちも駆けつけていて倒れたお偉いさんたちを起こすのに手をかしている。
その近くに、あの大男のエシ長の姿があった。しきりに辺りを見回しながら、的確に警護と救護をこなしているようだ。
「何よ、もう。ひどい風!」と、テンコも口を拭う。
「テンコ、見たか?」
「見たって、何を?」
まさか、と、なぜかテンコはスカートを押さえつけた。
「あんた、もしかして、今の風で私のパン……」
違うよっ!
「あの……」布の中、と言おうとして振り返ると、行列は体勢を立て直して階段を登っていた。今までの厳かでゆったりとした雰囲気ではなく、かなり急いで。僕が見上げた時、すでに階段を登りきった白い布の囲いは、門の中に消えて行くところだった。
「あの中に……」
結局、相変わらず何を見たのか説明できないことに気が付いた。それに、特別気にすることでもない。
「……いや、なんでもないよ」と、ごまかすように見回すと、奉拝席の騒ぎも収まりかけてきていた。
「もう、終わりなの?」
呉場が居ないので、よく分からなかったが、行列の最後も見えなくなった。いつの間にか、雅楽の演奏も終わっている。
提灯を持った装束姿の男が新殿に続く階段からあわてたように降りて来た。階段下に居た男たちと何やら話していたが、何人かは旧社の方へと走って行った。なんだか、今までの伝統的な雅さと打って変わって、随分とあわただしい。まあ、引っ越しの儀式自体には大きな支障はないんだろうけど、突風みたいなアクシデントもあったわけだし。
灯りが付く前に戻った方が良さそうだ。
「見つかる前に薮の中に戻ろう」と、テンコをうながした。
目は随分と暗がりに慣れてはいたけど、行列を見に出た時と違って、さすがに灯りのほとんどない闇の中で自分たちの居た場所を探すのは困難だった。
行きあぐねていると、
「こっち」と、テンコの声がした。
野生動物並みの視力らしい。僕はその声のする方向にそろそろと歩き出した。やはり、月も出ていない闇の中を進むのはなかなかの困難だ。前を行くはずのテンコの制服さえ、闇に溶け込んで全く見えない。
ぶつからないように、手を前に出した。ヘタにぶつかると、蹴りを食らうぐらいでは済まないからね。
──と言う、僕の思慮深い思いは、無駄になった。
前に出した手が何かを掴んだ。何か、えーと……、とても柔らかいものを。
テンコが悲鳴を上げた。
もちろん、そう思うのが当たり前だ。まさにそういうシチュエーションだったし。
しかし、次の瞬間、テンコの悲鳴では無いことに気が付いた。さすがの野生児テンコでも、こんな声は出せないだろう。
それは動物の咆哮のようだった。遠くの方から聞こえたその雄叫びは風に乗り、神宮の杜に溶け込んで行った。あとには、一層の静寂が戻って来た。
脇腹辺りの制服を痛いほど思い切り握られた。テンコだ。
「……い、今の何?」
分からない。
「……近くに動物園とか、あるんじゃないかな……」
どんな動物の鳴き声か見当がつかなかったが。
特別奉拝者たちが怯えと不安にざわつき始めた時、ようやく再び、かがり火に灯りがともった。そのおかげでみんなも一気に落ち着きを取り戻した。灯りが灯ったことで周りが少しばかり見易くなったが、すなわち僕たちも見つかり易いというわけだ。実際、新殿の方を凝視しているエシ長の姿も見えた。
こちらの方には灯りが無いので、さすがに僕たちが見えるわけはないだろうが、なんとなくあの男の眼力なら闇の中でも見えそうな気がしてならない。あわてて、僕──と必然的に、脇腹を掴むテンコも一緒に──、元居た薮の中へと潜り込んだ。
薮の中からもう一度見ると、かがり火の灯りの中で、何人かの神主装束の男たちが行き来している。いつの間にか、エシ長の姿は消えていた。やがて一人の男が奉拝席の前に進み出ると、大きな声で言った。
「えー、ほ、本日の特別奉拝は、これにて終了させていただきます」
奉拝席からざわめきが上がった。
「では順番に、お帰りください。宇治橋へご案内いたします。え?、いや、式次第通りでございます。はい、すいません。足元にお気をつけ下さい」
ざわざわと奉拝者たちが立ち上がり始めた。
「やれやれ、やっと終わった……」ようだ、と言おうとしたが、声が出なかった。テンコに襟首を掴まれていた。
えーと、僕、何かしたかな?
「何かですって? あんた、さっきしたこと、無かったことにしようなんて虫のいいこと思ってんじゃないでしょうね?」
「さっきのことって……」
……あ、あの柔らかい何かを掴んだことかな?
「仲がいいな、二人は」そう呉場が突然割り込んで来なかったら、僕は確実に蹴りを喰らっていたと思う。しかも、テンコは、
「全然っ!!!」と、速攻で答えていた。脊髄反射かよ!
しかし助かった。僕はあわてて、言葉をつないだ。
「もう終わりなんだろ?、そろそろ帰ろうぜ」
これ以上、ここにテンコと居るのは身が保たない。
うむ、と呉場は、ちょっと考えたようだった。
「僕はもう少し残るよ」
「え、まずいんじゃないか」
マエダは九時には戻ってくるように言っていた。
「だから、君たちだけ先に帰って、マエダ先生に帰って来た旨を報告すれば良い。何、どうせもう酔っぱらっているはずだから、僕が本当に帰って来たかなどとわざわざ確かめるわけがないから問題ない」
確かに呉場の言う通りだろう。
「オーケー、分かったよ」と、僕は頷いた。
「君たちは、ボタンをちゃんと締めて、神妙な顔をしてこの特別奉拝者の連中に紛れたまえ。宇治橋から外に出られる」
了解だ。
そろそろ身体も冷えて来た。この時間に旅館の風呂に入れるか分からないが、僕はさっさと帰ることにしよう。
呉場と別れて、特別奉拝者の帰途の列に加わった。奉拝者たちは二十年に一度のイベントの興奮も冷めやらぬ感じで、僕たちのことなど気にすることも無かった。
テンコは、その奉拝者たちを縫う様にスタスタと歩いて行く。なるべく目を引かぬように、僕は小声でテンコの後ろ姿に声をかけた。
「おい、待てよ、テンコ! そんなに急ぐなよ」
テンコは歩調を緩めることなく、しかたなく僕はその後を追った。宇治橋は特に混んでいて歩きにくかった。ともすれば見失いそうになるテンコの背中を追って、ようやく宇治橋を渡り終えた。
宇治橋の前の広場には大勢の参詣者とたくさんの報道のカメラがあった。疾しいことこの上無い身の上なので、思わず顔を背けてしまう。すると、テンコが思い切り、報道正面の方へ歩き出していた。
旅館はそっちでは無い。
宇治橋の前の人ごみの中で、なんとかテンコに追いついた。
「おい、旅館はそっちじゃないよ」
「知ってる」
うーむ、確実に怒っている。声音があり得ないほど平坦だ。初音○クの合成音声の方が、人間的だ。
「パシリはさっさと帰って、マエダに報告しておいて。三人とも、無事帰還、ってね」テンコは僕の顔も見ずにそう言うと、人ごみの中に消えて行った。
こういう時のテンコのパターンは読めている。体重が何百グラムか増える、ということだ。僕は、ため息をつくと、この冷えた身体を暖めるべく温泉にありつけることを願って、旅館への帰路についた。
6
僕が旅館に戻ったのは、丁度、九時だった。
ロビーと売店には、まだ何人かの生徒たちがたむろっていた。男子も女子もジャージ姿だ。
僕は、ロビーを抜けると、引率教員たちの部屋へと向かった。教員用の部屋は生徒たちの大部屋を区切っただけのものと違い、ドアも付いているちゃんとした部屋だ。さすがにちょっと緊張の面持ちでノックしようとした時、ドアが勝手に開いた。
酒臭い!
目の前には浴衣姿の顔を真っ赤にしたマエダがいた。手には手ぬぐいを持っている。
「おおっ」と、マエダは少しフラフラしながら、僕を指差した。
「おまえはあー……、あ、あら、あら……」
「新木です」
「おお、そうだった、そうだった。えー……、で、どうした?」
こいつ、俺たちに外出許可したの、もう忘れているんじゃないか?
「ええと、新木、呉場、宇津美、只今、伊勢神宮から戻りました」
「伊勢……?」
「遷御の儀、ですよ。先生。呉場に許可したじゃないですか」
マエダは天井の方をしばらく見上げていたが、
「あーあー、そうだ、そうだ」と笑ったが、目は完全に泳いでいた。。
本当に覚えてなさそうだな。
「遷御の儀か。懐かしいのお。あの、遠くから響いてくる、鶏声。なんとも言えんかったなあ」と、マエダは遠くを見る目をした。真っ赤に充血した目では、思い出を反芻しているというより眠そうにしか見えなかったが、僕はとりあえず適当に合わせることにした。
「ええ、心が洗われるようでした!」
そうか、そうか、とマエダは笑うと、
「風呂はまだだろ。一緒に入ろう。背中を流しながら、是非、遷御の儀について、日本人の心に刻まれた歴史と伝統について語り合いたい」と、手ぬぐいを持ち上げた。
それは、勘弁願いたい。そういうことは、呉場にまかせる。
「き、今日は、風邪気味で。ごほ、ごほ! 失礼します」
そう言って僕は頭を下げると、マエダの返事を待たずに踵を返して、さっさと部屋へと帰った。残念ながら、温泉は断念だ。
二階にある大部屋の襖を開けると、襖で仕切られた十二畳の小区画に八人分の布団が敷いてあった。二つ並んだ僕と呉場の布団が空いているが、あとはクラスメイトがごろごろしていた。
僕を見ると、萩が顔を上げた。
「あれ、新木、早いじゃん」
「何が」と、僕は制服を脱ぎながら訊いた。
「だって、呉場をダシにして、宇津美としけこんだんだろ?」
冗談はやめて欲しい。
「テンコと僕が、呉場のダシにされたんだよ」
本当に、遷御の儀というものにつき合わせられたことを言った。もっとも、中に不法侵入したことは内緒だが。
「マジかよ」と、萩が目を丸くした。
「そう言えば……」と、陸に上がったくじらのように巨体を寝そべらせていた原が美少女キャラのコミックから顔を上げて、鷲掴みにしたポテトチップスをほおばりながら言った。
「さんじゅプバリボリ、まジャリに、なんか、バリボリのとガリボリ……」
食うか喋るか、どっちかにしろよ!
原は口一杯のポテトチップスをぐびりと音を立てて飲み込んだ。音を立ててものを飲み込むなんて、ビールのCMかサザエさんぐらいしか知らないよ。
「三十分くらい前に、なんか、熊の遠吠えみたいのが聞こえたんだけど、知ってる?」
三十分くらい前……。あの咆哮のことか。知ってるもなにも、今思い出しても、ぞっとする。しかし──。
「いや、別に聞かなかったけど」
面倒臭かったのでそう答えると、ふーん、と、原の関心はすぐに美少女キャラに戻っていった。
ジャージに着替えると、僕はスマホを枕元に投げ、ごろりと布団に寝転がり、大きく伸びをした。しかし、今日は呉場のせいで、ひどい目にあった。身体中、特に腹部が痛い。
「そういや、呉場はどうしたんだ?」と、萩が聞いた。
「ああ、伊勢神宮に残ってるんだ。なんか、まだ見たいものがあるんだそうだ」
「変わってるなあ」
萩も呆れ顔だ。
「頭のいい奴は、変わり者が多いんだよ」と、誰かが言った。
突然、音楽が鳴り響いた。僕のスマホだ。画面に「新着メッセージがあります」の文字が出ていた。タップすると、メッセージが表示された。
<すこぶる面白い>
呉場からだった。全く、意味が分からない。その時、またスマホが鳴った。
また、「新着メッセージがあります」の文字が出ていた。タップすると、今度はテンコだった。
<死ね>
と、一言だけで、なんだか凄惨なスタンプが付いていた。
こんなスタンプ、どこで手に入れるんだよ……。
スマホを投げ出すと、枕に顔を埋めた。恐ろしく疲労困憊だ。
消灯は九時半のはずだったが、それを待たずして、僕はあっという間に眠りに落ちて行った。
7
テンコがタクシーで旅館に戻って来た時には、もう十一時半を回っていた。
スイーツを思う存分堪能し、腹ごなしのカラオケで独り紅白に興じ、腹の虫もようやく治まった。実に充実した二時間をすごし、カラオケで唄った歌を口ずさみながら、テンコは旅館に戻って来たのだ。
タクシーを降りると、なんだか空気が生温かった。カラオケ屋を出たときは結構寒くなっていたのに。実際、手足は冷えきっていた。
原因でも探すかの様に、テンコはぐるりと辺りを見回した。だが、もちろん、何も変わったものは見当たらなかった。どこかで犬の鳴き声がした。
玄関のガラス越し見ると、すでにロビーの明かりは落とされ、誰もいないフロントだけが電灯に照らし出されていた。出入り口の自動ドアの横には従業員用らしき木製のドアがあったが、自動ドア自体も、この時間でも動いていた。
テンコは教師たちを警戒しながら、薄暗いひと気のないロビーを抜けて、宿泊棟へと続く廊下へと進んだ。廊下に入る直前、すなわちロビーに隣接した棟に、男子たちの部屋がある。女子生徒の部屋は、廊下をさらに先に行った棟にある。男子の棟より、若干、新しめで綺麗なようだ。
階段の横にある部屋は、引率の女性教員用の部屋だ。テンコは足音を偲ばせて、階段へ向かう。歴史を感じる太い手摺の階段を上がって、二階にある自分の部屋に戻った。
部屋の前の廊下には、脱ぎ散らかされた靴やスリッパがずらりと並んでいる。入り口で靴を脱いで、出来るだけ静かに部屋の襖を開けた。
まだ十二時前というのに、同じ部屋のクラスメイトたちはすでに寝ているようだった。みんな、普段ならまだギンギンに起きている時間だろうが、さすがに修学旅行ともなると、疲れが出るのだろう。それにしても、化粧を落とした顔といい、カーラーを巻いた髪といい、決して男子には見せられない姿だ。
テンコはスマホを懐中電灯代わりにして自分の布団の所に行くと、スマホを軽く口にくわえ、制服の上着をハンガーにかけた。
白いブラウス姿になったテンコは、鞄を開け、中からポーチとタオルを取り出した。旅館の温泉は正真正銘の掛け流しで、二十四時間入れることはすでに確認済みだった。折角だし、冷えた身体を暖めてから眠りたい。
その時、隣の布団で寝ていた朋美が寝返りを打つと、
「今、何時?」と、呻くように、テンコに訊いた。
テンコは口からスマホを取って見た。
「十一時四十分」
朋美は顔の下で枕を抱きしめて、テンコを眠そうな目で見た。
「早かったじゃん。朝帰りかと思ったのに」
「えー、なんでよ?」
「だって、パシリ君と一緒だったんでしょ」
なんでパシリと朝帰りしなくちゃなんないのよ!
「えー。だって仲いいじゃん」
「よくないっ!」
「早っ! 今、私が、仲、って言った辺りにかぶってたわよ。機嫌悪いなあ。なんかあったの?、パシリ君と」
「何も無いっ!」
思い出したくも無い。
その時、どこか外で犬の鳴き声が聞こえた。
「ちぇっ、まただ」と、朋美は嫌な顔をして、枕で頭を覆った。
「さっきから、どっかの犬が鳴き続けてんだよね。こんな夜中に、近所も迷惑よ」そう言うと、朋美はごそごそと布団の中に潜っていった。
テンコは暗い部屋の中で独り、犬の声に少しばかり耳を傾けていたが、やがて立ち上がって部屋を出た。適当に目に付いたスリッパを引っ掛ると、テンコは風呂場へ向かうために、再び階段を降りて行った。
女子教員用の部屋の前を、音を立てないように慎重に横切る。大浴場は女子たちの寝ている棟の奥にある。旅館のサイトによれば、男風呂、女風呂の大浴場の他に、貸し切りできる露天風呂もあるようだ。
しん、と、静まり返った廊下を歩く。右手に並ぶ窓からは、男子たちが寝ている棟が見えた。
突き当たりに大浴場があった。女、と筆文字の書体で書かれたのれんをくぐり、脱衣所を見回した。どの籠も空で、さすがにこの時間は他の生徒も居なかった。もちろん、引率の教師も居ない。
靴下を脱ぎながら、大浴場を覗いて見た。驚くほど多量の湯気が脱衣所に入って来た。石で囲まれた、大浴場という名にふさわしい広さの湯船だった。
テンコはもどかしげに手ばやく服を脱ぐと、タオル片手に浴場に入った。湯気の割には、浴場の中の空気は冷えていた。テンコはいそいでかけ湯をすると、湯の中に脚を入れた。
少し熱いな、と思ったのは最初だけだった。あっという間に身体が慣れ、テンコは肩まで湯に浸かると、思い切り手足を伸ばした。
「きっもちい〜っ!!」
広い湯船を独り占めだ。しけた国内修学旅行にげんなりしていたテンコだったが、
「やっぱ、日本人は温泉ねー」と、今は上機嫌だ。
湯気で曇る窓の外は漆黒の闇が広がっている。インターネットの旅館のサイトにあった浴場の写真では、確か外はすぐそばまで山の斜面が迫っていた気がする。位置的には、伊勢神宮の裏山にあたる。紅葉した木々の見える昼間もいいだろうが、漆黒の闇もまた一興だ。
顎まで浸かってその闇をぼんやりと見ていると、うとうとしてきた。
その時、ふいにテンコは、視線を感じた。
反射的に身を縮めると、
「誰っ!? パシリっっ!?」と、新木走太が聞いたら、思い切り機嫌を悪くしそうなことを言った。
振り返って脱衣所の曇りガラスを凝視するが、その灯りの中に人の動く気配はなかった。テンコはゆっくりと湯船の縁に身を寄せ、浴場の中を見回した。もちろん誰もいない。背中にあたる縁取りの岩が痛かったが、その姿勢のままテンコはガラス窓の向こうの漆黒を凝視した。
耳を澄ましても、聞こえるのは掛け流しのお湯の音だけだ。
錯覚だったのだろうか。
ふいに、テンコは、温泉の中で幽霊を見た話を思い出した。
なんだっけ、あれは……、確か、古い老舗の温泉の中に女の人が……、小説だったかしら、泉鏡花……?
──似合いますか?
テンコは一気にお湯から上がると、流しの前に座った。
「早く、出ちゃお」
わざとそう口に出して、備え付けの液体石鹸を手ぬぐいの上に押し出した。
だが、こうなると、かつて観たホラー映画の場面が次から次へと思い出してしまうのは、人の性のようだ。考えまいとすると、なおさらだ。観なきゃ良かった。そう思っても後の祭りだった。
いそいで手桶を蛇口の前に置くと、上部の金属のボタンを押してお湯を出した。定量出ると止まるしくみだ。ざっと、一気に身体にお湯をかける。
もう一度、桶にお湯を溜めた。
その時──。
再び、テンコは視線を感じた。
間違いなかった。
テンコは流しの前で身を縮め、鏡越しに背後の窓の向こうに広がる闇を見つめた。闇に変わりはなかった。しかし、テンコの身体は何か異常なものを感じていた。だが、それが何なのか分からない。
「パ、パシリだよね? や、止めようよ、覗きなんて……。ねえ、パシリでしょ? ねえ?」
一瞬、窓の外が淡いオレンジ色に光った。テンコが見間違いでは無いと確信したのは、はっきりと木々のシルエットが見えたからだ。
ゆっくりと、テンコは立ち上がろうとした。その時、足元の手桶のお湯に小さなさざ波が走った気がした。窓の外に注意を向けながらも、テンコは手桶を横目で見た。
錯覚?
否。また、さざ波が現れては消えた。
……地震……?
大きく無ければいいけど。救出された時、裸なんて恥ずかしい!
一刻も早く出なくっちゃ。そう思って動こうとした刹那、窓の外の闇の中で何かが動いた気がした。浴場の灯りに照らし出された、何か、ぼんやりと白いものが。ふいに、今日の儀式で見た、巨大な白い布囲いを思い出した。
ゆっくり脱衣所へと後ずさりしながらも、目は外の闇から離せなかった。まだ身体に残っている泡など気にするべくも無く、後ろ手で脱衣所の引き戸を開けた。そのまま脱衣所へと進むと、テンコの身体から落ちたしずくが床に跡を残していく。
背中が脱衣かごの置いてある棚についた。テンコは湯気の向こうに見える真っ黒い窓の外を凝視したまま手探りで下着を掴んだ。濡れたままの身体にすばやく着込んでいく。ブラウスのボタンがなかなか留められない。
それでもなんとかボタンを留めきってスカートに手を伸ばした時、突然、何かが窓の外に押付けられた。
風呂場の灯りに照らし出されたそれが杉の枝葉だと分かった瞬間、窓ガラスが割れて、木々とともに土砂がなだれ込んで来た。
8
音楽ががなり立っている。
辺りは暗い。何が起きているのか、分からなかった。
「誰だあっ!」
「うるせえっ!」
暗がりの中で、不機嫌な声が響く。
「走太の着メロだろっ!?」
「早く、出ろっ! パシリっ!」
テンコのせいで、僕のことをパシリと呼ぶ奴がいる。否、そんなことはどうでもいい。確かにこの曲は僕の着メロだ。重いまぶたを必死で開けて、枕元で楽しげに光っているスマホを覗き込んだ。
画面に表示されている相手の名前は、呉場友人だった。時間は午後十一時五十五分。しかも、通信では無く、通話だった。障子を通して入る外灯からの薄明かりで呉場の布団がきれいに敷かれたままなのを横目で確認しつつ、僕はスマホを耳に当てた。
「なんだよ、まだ帰ってないのか?」
「大変なのだ」そう言う呉場の声はいつも通り冷静で、とても大変には思えなかった。
「そうかい? 今、どこにいるんだ?」
「旅館のすぐ近くだ」
「なら、先生の見回りが来ないうちに早く帰って来いよ」
時間は知らないが、確か、深夜見回りってのがあるはずだ。
電話の向こうで、何か騒音が聞こえた。
「何だ?、何の音だ?」
「聞こえるか?」
「ああ、なんだ? ……家でも壊しているのか?」
こんな夜中に、そんなわけはない。が、呉場が続けた。
「大当たりだ」
「どういうことだ?」
「今に分かる」
そう呉場が言った途端、目眩がした。──否、目眩じゃない。旅館が揺れていた。
「なんだ!? 地震かっ!?」
同じ部屋のクラスメイトが次々と起き出した。
「揺れてるぞっ!」
「やべーっ!!」
「電気、つけろ!」
一瞬付いた灯りが、ジャージ姿のクラスメイトたちと散らかった布団を明るく照らし出したが、すぐに闇に沈んだ。
「なに、やってる!」
「知らねえ! つかねえんだよ!」と言う声とともに、手荒くスイッチを切り替える音が聞こえる。
襖の向こう、廊下の方で、突然大きな音が聞こえた。板が割れ、木が折れる音や、ガラスや金属の音が響いた。どこかで叫び声も聞こえた。
木が割れるような音とともに、廊下側の欄間に亀裂が走った。壁から天井から埃や破片が落ちてくる。よく見ると、梁や柱が傾ぎ、廊下との境の襖がこちらにゆっくりと膨れているようだ。近くにいた萩が、逃げようと立ち上がった。
その時、何かが部屋の下の方から押し入って来た。
押し入って来たと言う表現で間違いないだろう。襖が壊れながら外れ、床板や畳が押し上げられるとともに何か巨大な、おそらく直径二メートルはあろうかという饅頭のようなものが現れた。
次の瞬間、入り口側の畳が抜け、布団とともに萩が一階へと落ちて行った。
巨大なものが動くと、部屋の陥没はさらにひどくなった。梁が折れ、柱が傾いて、悲鳴を上げながら別のクラスメイトが畳に乗ったまま飲み込まれて行く。
僕は、大部屋を区切る襖に突っ込んで、隣の部屋に移った。襖が寝ていた生徒の上に倒れ、さらに僕が、その上を走り抜ける。襖の下で、叫び声が聞こえた。
その後に原が続いて飛び込んで来た。いざとなると、あの巨体でもすばやく動けるらしい。ゾウアザラシが転がり込んで来たところを想像すればいい。倒れた襖の上を通り過ぎたが、その下からはもう呻き声すら聞こえなかった。
隣の部屋では、別のクラスの生徒たちが何が起こったのかと、布団の上で呆然としていた。中にはまだ寝ている奴もいて、原はそいつを踏んづけると、襖を倒して廊下に転がり出て行った。
「うぎゃあ!!」
「なんだ、なんだ!?」
「電気どうした!」
僕が倒した──そして、原が押しつぶした──襖の下から生徒を救出していた一人の生徒が、僕が寝ていた部屋を覗き込んだ。
「なんだ、これ……」
全てを言い終わる前に、そいつは、襖や布団や様々なものとともに一瞬にして消え、土ぼこりの中に再び白い巨大な饅頭が見えた。部屋全体の畳が傾き、さながら蟻地獄のようだ。摩擦の小さい布団の上に居ればなおさらのこと、悲鳴を上げて布団ごと滑り落ちる生徒たちになす術は無い。
僕は傾きかけ始めた畳に足をとられながらも立ち上がると、原が倒した襖から廊下へと飛び出した。
たくさんの生徒たちが廊下に出て、唖然としていた。窓越しに、別棟の女子生徒たちが窓際に集まっているのが見えた。その女子棟の端に、原型をとどめないほど壊された建物があった。記憶をたぐると、大浴場のようだった。
破壊の痕は、大浴場から、僕たちへの棟へと続いていた。そして、その破壊の痕が続く先、つまり僕の目の前の廊下の一部が無惨にも崩落していた。明らかに何か──、あの白い巨大な饅頭みたいな何か、が通過した痕だ。
部屋から聞こえた悲鳴で振り返ると、やっとの思いで襖にたどりついた生徒が廊下に飛び出そうとした寸前、闇の中に消えて行くところだった。否、正確には闇では無い。部屋の中はいつしか、ほのかにオレンジ色に照らされていた。
続いて、柱が歪むのが見えた。廊下の床板がゆっくりとたわみ始めた。次に何が起こるのか、僕は見極めるつもりはなかった。呆然と廊下に立ち尽くす生徒たちをかき分けて逃げ出した。
階段にたどり着いた時、背後で、大きな破壊音と悲鳴が聞こえた。建物が大きく揺さぶられ、転げ落ちそうになりながらも、なんとか階段を駆け下りた。
一階の階段のたもとには、なんとテンコが居た。
「テンコっ!」
テンコはまだ制服だった。正確に言うと、制服の下に着ている白いブラウス姿だった。靴下は履いておらず、制服スカートに素足のスリッパ姿は何となくちぐはぐな感じがした。
しかも、手にはスマホとタオルを握りしめている。ここまで詳しく見えたのは、テンコがほのかな灯りに照らし出されていたからだったが、一階は停電していないのだろうか?
テンコは呆然としながら僕の方を見ると、
「……あれ、何?……」と、呟やくような小さな声で言った。
その声で、僕は見た。そして、それは、そこに居た。
床を踏み抜き、天井を突き破って、それは廊下を占領していた。白くて巨大な固まりだった。どちらが前だか後ろだか分からない円筒のような胴体──多分、胴体だろう──、タンクのようなその胴体の下に象のような太い脚が何本も生えている。
その足元付近には、散乱した畳や布団、鞄や制服とともに、二階から落ちて来た生徒たちが倒れて呻いていた。生徒たちは頭を抱えたり腰を押さえたりしているが、幸い命には別状が無いみたいだ。
なおも化け物は、壁を破壊しながら廊下を押しつぶしながら、ゆっくりと旅館内を突き進んでいる。
化け物の向こう側で扉が開き、マエダをはじめ、浴衣姿の教師たちが飛び出して来たのが見えた。
「な、な、なんだあっ」今更ながらのマエダの反応がむなしい。
持ち上げられた怪物の脚が床の上に降ろされた。力強くでは無く、むしろゆっくりと踏みしめられた感じであったが、おそらくそのケタはずれの重みで歴史を積み重ねて来た老舗旅館の廊下は簡単に踏み抜かれ、肉の塊のような全身がどよんと揺れた。
触りたいとは思わないが、硬いようでもあり、ぶよぶよしている感じもする。肉が作り出す皺とところどころに生えている毛の束のようなものが、動物然としていやに生々しい。以前見た水木しげるの描いた、ぬりかべだか、のっぺらぼうだかの妖怪を彷彿させる。否、その何百倍もリアルでおぞましいのだけれども。
その上、なんと、こいつは自分で光っていた。光る、と言うほど明るくはないのだが、どういう構造なのか、内部からほのかにオレンジがかった光がぼんやりとにじみ出ているようだった。一階が明るく感じたのはそのせいだった。その光が、テンコを、そして破壊された旅館の廊下を、ぼんやりと闇に浮かび上がらせていたのだ。
天井が嫌な音を立て始めた。何かが限界に達しようとしていた。埃のようなものが落ちて来て、目に入りそうになる。
僕はテンコの腕を取った。
こいつ、石鹸の匂いがするな。と、思った瞬間、天井が崩れ、女子のような悲鳴を上げながら何人かの生徒が滑り落ちて来た。
「危ないっ!!」思わず、そう叫んで、テンコを掴んで後ろに倒れ込んだ。
どこを掴んだかって? そんなこと、分からない。分からないがすごく柔らかかったことは確かだ。
尻餅をつくと同時に、僕の持っていたスマホがどこかにすっ飛んで行った。僕が身体を動かせなくなったのは、テンコの全体重をこの身を以て支えたからだ。分かり易い言い方をすれば、押しつぶされたからだ。
僕は思わずつぶされた蛙のような声を上げた。同時に、白い怪物の動きが止まった。
僕が怪物を見上げた、その時──。
目が合った。
その怪物のどこにも目らしきものなど無いのに、僕は、そう思った。そう確信した。そして、それは、何時間か前、あの遷御の時に感じた視線と全く同じものだった。
突然、辺りが明るくなった。一瞬だが、化け物が目も眩むような明るさに輝いた。それと同時に、熱いぐらいの熱気が襲って来た。
そして、あの咆哮が響いたのだ。視線と同じ時に内宮の森で響いた、あの咆哮だ。
だが、目の前で聞く咆哮は、あの時よりも何倍もおぞましく、さながら地の底、地獄の底から響いてくるようだった。しかも、怪物には口らしいものが無いのだ。まるで、身体そのものを共鳴させて全身から雄叫びを発しているようだった。
咆哮は余韻を残し、再び薄暗くなった旅館内に、重く沈澱し消えて行った。誰も動かなかった。否、動けなかった。落ちた生徒たちすら、うめき声ひとつ上げるのも忘れていた。
おそらく数秒程度だろうが、何時間とも思える沈黙が過ぎた後、再び、破壊音が旅館に鳴り響いた。
何本もの脚が大きく動き出した。明らかに化け物はこちらに向かって来ようとしていた。
化け物の脚元で呻いていた生徒たちがあわてて立ち上がり、いまだ倒れている僕とテンコの横を逃げて行く。
たくさんの脚によって床板が剥がされ、砕かれ、押しつぶされて行く。だが、そのために、怪物の前進は思ったより早くない。それでももちろん、ぐずぐずしている暇は無かった。
「やばいっ、やばいっ、やばいっ!!」そう叫ぶと、僕は、あれほどまでに僕を押さえつけていたテンコをつき放すと、一目散に逃げ出した。火事場の馬鹿力って本当に有るんだって、感心したよ。
その勢いで我に返ったか、テンコも悲鳴を上げた。
「ま、待って! 待てって、言ってるだろっ、てめえっ!!」
もう、パシリでも無かった。ただ、怒号のおかげで、後ろを見なくてもテンコが無事に追っかけて来ているのが分かった。
大勢の生徒たちも逃げ出していた。玄関ロビーに飛び出ると、ジャージ姿の生徒たちが、停電で開かなくなった玄関の自動ドアを必死に開けているのが見えた。
背後から聞こえた叫び声に振り返ると、何人かの生徒が廊下から飛び出して来た。それに続き、怪物が、崩れ落ちる天井の破片とともに現れた。かろうじて天井の梁からぶら下がっていた生徒も、あっと言う間に埃の中に消えた。
ロビーの角の大きな柱が割り箸のように簡単に折れて、壁がくずれた。脇に飾ってあった大きな壷がガラスの台ごと押し倒され、ロビーをごろごろと転がって、僕たちを追い越しつつ、回り込むように前を横切った。僕には値段の見当もつかないが、それなりに高額であろう壷は、逃げている何人かの生徒の足をすくうように転がり続け、椅子に当たって粉々にくだけ散った。
振り返らなくても、怪物の足音が近づいて来ているのが分かった。
ロビーは丈夫なコンクリートの床で、吹き抜けの天井は、四、五メートルはあろうかという怪物の身長でも優に収まるほど高い。すなわち、僕たちにとって嬉しくないことに、怪物の速力は格段に上がっているはずなのだ。ロビーに並べられた革張りのどっしりとした椅子などものともせずに蹴散らして、怪物と僕たちとの距離は確実に小さくなっている。
怪物の頭にシャンデリアが当たった。火花と無数の砕けたガラスの破片がきらめきながら四散した。千切れて吹き飛ばされたシャンデリアが床に落ち、ガラスの飾りが辺りに散らばったが、もちろんそんなことで、怪物のスピードがわずかでも落ちることは無かった。
入り口の自動ドアが生徒たちによってこじ開けられたのが見えた。だが、そのわずかな隙間に大勢の生徒が押し寄せたので、なかなか外に出られず、押しくら饅頭状態だ。
こちらを振り返った彼らの恐怖に引きつった顔を、僕は忘れないだろう。
僕のジャージが引っ掴まれた。振り返らなくてもテンコに決まっている。その瞬間、僕はスピードを落とすこと無く横に逸れた。
予想外の動きにテンコの叫び声が聞こえたが、手を放すことはなかった。次の瞬間、僕とテンコの横を、巨大なものがかすめるようにして玄関の自動ドアに突っ込んで行った。
自動ドアのところでひしめき合っていた生徒たちは、間一髪逃げ出した。否、もしかすると何人かは押しつぶされたかも知れないけど、みんな無事であることを祈るばかりだ。
自動ドアは粉々に砕け、怪物は頭を玄関上部の壁に半分かためり込ませたまま動きを止めていた。怪物の身体から木屑がこぼれ落ちている。
「パシリっ!、あれ、ドアっ!!」そうテンコが言ったので、僕にも分かった。エントランス脇に従業員用らしきドアがあった。壁と同色に塗られていたので気がつかなかった。よく見つけたものだと感心して、そこから外に飛び出した。その瞬間、僕は、裸足だったことに気が付いた。玄関前の石畳が痛く、その上恐ろしく冷たかった。まるで冷凍されたツボ押しマットみたいだった。
そして、僕たちの目の前には、呉場が居た。
──そうだ、思い出した。全ての始まりは、呉場からの電話だった。
「く、呉場っ! あれは何だ!?」
当たり前のように呉場が言った。
「知らん」
がっかりしたが、それはそうだろう。当前だ。
背後で、ガラスが砕ける音がした。その音に振り返ると、旅館の入り口が大きく崩れるところだった。傾いた庇から瓦が流れ落ちて行く。
あらわになった白い巨大な怪物は、ゆっくりと身体を動かして、こちらを見た。
9
赤い細縁のフレームの眼鏡の奥から、久遠寺雪乃の目がじっとこちらを見ていた。
哀れむような、冷徹な目つきだ。
寒い。まるで、本当に寒くなってきたようだ。
それに──。
うるさい。
何かよく分からないことをまくしたてている。無表情で口だけ猛スピードで動く姿は、まるでアンドロイドそのものだ。
しかし、本当にうるさいな。まるでキャンキャン吠える犬のようだ。そう思った時、有畑一石は、目を覚ました。
どこかで本当に犬が鳴いていた。一瞬、自分がどこに居るか分からなかったが、嗅ぎ慣れたフェラーリの匂いで自分の立場を思い出した。
思い出さなければ良かったと思ったが、仕方が無い。じっとりとした寝汗は、つけたままのサングラスやマスクのせいだけではあるまい。
全く、本当に夢に見るとはな……。
有畑一石は、狭い椅子の上で寝返りを打つように姿勢を変えた。
身体が痛い。ため息をついて、有畑は腕時計を見た。ブルーのLEDが深夜○時を回った文字盤を照らし出した。前に見たときは十一時四十五分だった。すると、まだ十五分程しか経っていないということか。その割には、身体の節々が痛かった。もちろん、いくら高級なフェラーリとはいえ、寝るためには出来てはいない。いつもなら有畑の背中にジャストフィットするシートは、今は狭くて硬すぎる。
それにすごく寒い。伊勢神宮の内宮にほど近い小さな公園の駐車場は、冷えきっていた。
近くにあった県営体育館の駐車場は九時に追い出されていた。懐中電灯を俺に向けたあの警備員のぎょっとした不審気な顔。まあ、サングラスにマスクのこの姿では当たり前か。警察に通報されなかっただけでも、マシと考えるべきだろう。
公園の近くで見つけたこの小さな駐車場は時間の制約こそ無さそうだったが、その代わり、薄暗い街灯がぽつんと付いているだけだった。街の灯りからもほど遠いこの辺では、有畑以外に駐車している車もほとんど無い。
付けたままのサングラスもマスクも、多少は防寒効果があるかも知れないが、微々たるものだろう。有畑は頭の中で温存される熱エネルギーを計算し始めた。答えはあっという間に出たが、思ったより少なくて、また、ため息をついた。
ため息ひとつで無駄にされるエネルギーはどれくらいだろう?
これも簡単に計算できそうだったが、計算するのは止めにした。今の有畑にとっては、ため息くらい気にせずにつきたかったからだ。その代わり、首に巻いてあるマフラーにより一層顔を埋めるよう、身体を縮めた。
早朝には出発しなければならない。そのためには、少しでも睡眠を取っておく必要があった。まずは東京のマンションに戻り、荷物をまとめよう。麻布のマンションにはもう手が回っているだろうか。……大丈夫だろう。所詮、お役所連中、お役所仕事だ。さっさと荷物をまとめてしまえば、逃げおおせるだろう。
実験炉なぞ、知ったことか。死傷者が出たわけでも無い。後始末は稚拙な実験炉を作った施工会社とあの女にやらせておけばいい。
とりあえず、渡米すればいい。ドイツでもいいかな。理論は間違ってないのだ。俺の頭脳に金を出す国はゴマンとある。日本の様にしみったれた予算しか出さないような所ではなく、もっと潤沢な金で俺のいい様に実験炉を作れる国があるはずだ。
その時、どこか遠くで、犬が鳴き出したのが聞こえた。
なかなか鳴き止まない。
閉め切った車内なのでうるさいというわけでは無かったが、気が立っているせいか、意識してしまう。
窓の外に視線を走らせたが、ガラスが湿気でひどく曇っていて何も見えない。有畑はフェラーリの中で身体を起こした。背中の筋肉が張っていた。寒かったがこもった二酸化炭素を呼吸し続けるよりはマシだ、と、ドアを開けた。
冷たい、だが新鮮な空気が顔をなで、車の中の澱んだ空気を一掃してくれた。
有畑は車の外に出ると、マフラーとマスクをずり下げて、思い切り深呼吸をした。思いの他、気持ちがよかった。
──その時。
どこかで何かが壊れるような音が響いてきた。
有畑は周りを見回し、耳をすませたが、犬が一層吠え立てているのが聞こえるだけだ。
車の衝突音かも知れない。事故だろうか? 事故、という言葉で、有畑は少し嫌な気分になった。
犬が鳴き止んだ。
やはり何か聞こえる。何か、地響きのような、壊れるような音が微かに続いているようだった。
何だろう。花火か何かだろうか。まさか、こんな夜中には上げまい。
だが、そう言えば、今日は、シキネンセングウとやらだ。何年に一度かの──、二十年だったか二百年だったか──、のお祭りだ。一般的なイベントとは格が違うのかも知れない。
やれやれと、有畑は首を振った。本当なら、今日は今世紀最大のイベントになるはずだった。今宵の記念パーティで、俺は主賓にしてスターになるはずだったのだ。地球の未来を救った男として。
有畑がため息まじりに運転席に腰を下ろした時、その咆哮が夜空に響き渡った。咆哮はねばるような余韻を残して、彼方へ消えて行った。
「なんだ、今のは……」思わず言葉が口をついて出た。
有畑は耳を澄ませてみたが、それ以上、何も聞こえなかった。
動物園の動物が、夜啼きでもしたんだろう。有畑はそう納得した。どんな動物か想像もつかなかったが、そもそも有畑は動物に興味など全くなかった。
有畑は腕時計を見た。そろそろ本当にひと寝入りすべきだったが、眠れそうになかった。
手を伸ばすと、ドリンクホルダーに置きっぱなしの紙コップを手に取った。スターバックスに似ても似つかない、かと言って全く似ていないわけでもないようなロゴマークの、聞いたことも無いコーヒーチェーン店で買ったものだ。有畑は、彼を奇異の目で見ていた若い店員や客連中の顔をまざまざと思い出した。
プラスチックの蓋をはずしてダッシュボードの上に放り投げると、有畑はコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。当たり前だが、すっかり冷めきっていた。
また、何かの音が響いた。
有畑は聞き耳を立てたが、またしても、それ以上何も聞こえない。
しかし、何年かぶりのお祭りとは言え、こんな夜中までドンチャンやられては、住民も迷惑では無いのだろうか。だが、祭り命の人間は幾らでもいるのは確かだ。そう言えば、MIT時代にスペインから来た大学院生に、牛に追われて喜ぶ祭りがある、と聞いたことがあったな。牛追い祭りとか言っていたかな。馬鹿な祭りだ。しかもそれでは、牛追い祭りじゃなくて、「牛追われ」祭りだろう……。
いや、そんなことはどうでもいい。とにかく、寝ることにしよう。少なくとも、横になろう。
ふいに有畑は思った。それにしても、なんで牛追い祭りのことなど、思い出したのか。
そう思って、紙コップをドリンクホルダーに戻した時、有畑はコーヒーが揺れていることに気が付いた。コーヒーの表面の小さなさざ波は、現れては消え、現れては消えていった。
こんなのを、どこかで見たな。確か、恐竜──ティラノサウルスが出て来た映画だ。
有畑は映画など観る人間ではなかったが、ハーバード時代に同じ大学院生のホームパーティで仕方無くDVDを観せられたのだ。琥珀に閉じ込められた蚊が吸っていた血液からクローンの恐竜を作るという、くだらない映画だった。
否、そんなことより──。
コーヒーのさざ波はさっきより大きくなっているようだった。そして、重低音とともにかすかな揺れも感じ始めていた。
なるほど、と、有畑は思った。さきほど牛追い祭りを思い出したのは、この揺れを無意識に感じていたのかも知れない。
なんだろう、太鼓だろうか。確かに、祭りに太鼓はつきものの気はするが……。
別の何かが聞こえた。揺れをともなうリズミカルな重低音ではなく、もっと高い音。
有畑は車から出ると、辺りを見回した。
やはり、何か聞こえる。……声、だろうか? 若い人間の嬌声のようだ。祭りで浮かれた若い連中が、騒いでいるのかも知れない。だが、この音は? 揺れは?
コーヒーにさざ波を起こしていた揺れは、今やはっきりと地面を伝わって有畑に届いていた。断じて、太鼓では無かった。
その時、有畑は前方に人影を見た。芝生で覆われた公園の広場を挟んだ向こう側の林から、何人かの人間が走ってくるようだ。
有畑は、車に半身を突っ込むと、キーを回した。フェラーリのライトが点灯し、振動音とともに軽々とエンジンが回り始めた。有畑は、ヘッドライトが照らし出す方向を見やった。
やはり、人だ。有畑の方に向かって走ってくる。三人……、だろうか。ジャージの男と、そのすぐ後ろに白いブラウス姿の女、そして、おそらく制服姿の男だ。スタイルがバラバラだが、三人とも高校生らしいということは分かった。
ジャージの男が楽しそうに大手を振っている。どうやらやはり浮かれた連中らしい。有畑は、ふと、またもやスペインの牛追い祭りのことを思い出していた。牛に追われる連中も、こんな楽しそうに走っているのだろうか、と。それにしても、ヘタをすると、あの高校生たちは酒を飲んで酔っぱらっているのかも知れない。慣れない酒でハメをはずして、って奴だ。
なんにせよ、有畑は関わり合いになりたくなかった。酔っぱらいの高校生が赤いフェラーリなど見たら、それこそ牛のように、興奮して大はしゃぎするかも知れない。はしゃぐぐらいならまだしも、傷でもつけられたら、適わない。それに、今、もめ事になって警察沙汰にでもなったらやっかいどころでは済まないのだ。
有畑は、マスクとマフラーをずり上げて顔を隠すと、別の場所に移動するために車に戻ろうとした。
その時、高校生たちの向こうで、大きな木が音を立てて倒れた。さすがに有畑も、驚いて凝視した。
高校生たちを追ってその後に現れたのは、牛などでは無く、見たことも無い、白い巨大な円筒形の物体だった。
10
「ちょっと、待ってってば! あたし、スリッパで走りにくいのよっ!」
こっちは裸足だぞ。しかも、テンコが僕のジャージの背中をしっかり握って放さないから、走りにくいのなんのって。
「スリッパなんか脱いじまえよっ!」
「いやよ! 痛いじゃないの!」
我慢しろよ! あの怪物に追いつかれるよりはマシだろっ?
隣の呉場は、表情一つ変えずに走っている。なんて奴だ。
「あれっ、車っ!」テンコが悲鳴に似た声を上げた。
言われなくても、前方に車のライトが付いたのが見えた。運転手が車の脇に立っている。とにかく大声を出して、その方向に向かって走った。テンコも叫んだ。運転手から見えているのかどうか分からないが、大きく手も振ってみた。
後ろを振り返ると、白い怪物が確実に迫って来ていた。何本もの脚を巧みに動かして、全速力で追ってくる。よくもまあ、もつれて転ばないものだと、つまらない感心をしてしまうほど見事な脚さばきだ。
狭い木の間をすり抜けたが、白い巨体は躊躇すること無く木にぶつかってきた。まるで、そこに何も無いかのごとく。木はあっけなく、根こそぎ倒れた。巨大な根の塊が大量の土とともにいとも簡単に掘り返され、その衝撃で怪物はよろめき、もう一本の木に激突した。しかし、こちらの木も、軽々と半分ほど根を露出させて傾いた。
さすがに少しだけ怪物もたたらを踏んで立ち止まった。もっとも、ほんのわずかな間だ。倒れかけた木を押しのけるようにして白い怪物が動き出した。
「あの人、旅館のフロントに居た……」
テンコの声で前方の車の脇にたたずむ男を改めて見た。
夜というのにサングラス。マスクの上にマフラーで顔を隠し、コートの襟をたてている。さすがにこんな恰好の男が何人もいるわけがない。まさしく、旅館のフロントで部屋を探していた男だった。こんな時間まで、こんな恰好で居るなんて、こいつは本当に変態かなんかじゃないのか?
だが、選り好みしている場合では無かった。
僕たちはようやく車のもとにたどり着いた。驚くほど真っ赤で目立つことこの上ない車だったが、それを帳消しにしてもあまりあるほど速そうなのは良かった。しかも、外車じゃないか。なんだっけな、この馬のマーク。
しかし、サングラスの男は、迫り来るあれを呆然と見たまま、硬直して動かない。勝手に僕は助手席に、テンコと呉場は後部座席に乗り込んだ。
「出してっ、早くっ!」テンコが悲鳴に近い声を上げる。
白い巨体が、真正面数十メートルまで迫っていた。
僕は車の中から手を伸ばし、呆然と立つ男のコートを鷲掴みにすると、勢いよく車内へ引き込んだ。頭がフレームに辺り、嫌な音がした。だが、それで、男は我に返ったようだ。ドアを閉めると、ギアをバックに入れた。タイヤが空転する音が響くとともに、白煙が上がる。
これほどまともに怪物を見たことがなかった。肉を踊らせ、地面を蹴散らしながら、そいつは目の前にいた。車高の低い車から仰ぎ見るそれは、異様に迫力があった。
あと、数メートルっ!
そして、怪物は跳んだ。巨体からは想像できない跳躍だ。
その時、突然車が猛スピードでバックした。僕はフロントガラスに頭をぶつけ、後ろからテンコの悲鳴が聞こえた。何か冷たいものが僕のジャージの下腹部を濡らした。
一瞬の差で、巨体が今まで僕たちが居た辺り──、丁度、車の真っ赤なボンネットがあった辺りに降って来た。駐車場のコンクリートが粉々に割れて凹んだ。
あそこに居なくて良かった、と、心底思う。
車は突然停止し、男はギアを入れ替えた。次の瞬間、車は前方に猛発進した。怪物にぶつかるかと思ったが、車はギリギリでかわした。怪物の跳躍によって砕けたコンクリートで車がバウンドした。
車は怪物を回り込むようにして駐車場を出た。ドリフトしたタイヤが甲高い悲鳴を上げ、駐車場の入り口にある街灯をぎりぎり避けた。否、正確に言うと、左のサイドミラーが吹っ飛ぶのが、運転する男越しに見えた。
振り返ると、怪物がその街灯を押し倒していた。街灯の根元は飴細工のように曲がった。ランプがいきおいよく地面に激突すると、砕けるとともに一回明滅して消えた。
闇になったその辺りは、怪物だけがぼんやりと光っていたが、見る見るうちに離れて見えなくなった。
助かった。
思わずため息をついて、ぐったりとシートに身を預けた。そして、その時、僕のジャージを濡らしたのがコーヒーだと、ようやく気が付いた。
「あ、あれは何だ? 君たちは誰だ」
男がしごく当然の質問をした。変態と言えども、お礼と自己紹介は必要だろう。
「僕たちは、東京の西関東大学付属高校の生徒です。修学旅行で伊勢に来ています」
「……東京の高校生……。東京の高校生がなぜあんなものに追いかけられている? いや、あれはなんだ? 生き物なのか?」
思わず、バックミラー越しに、僕の真後ろに座っている呉場を見た。呉場はぼんやりと外の景色を見ながら考え事をしていて、男の質問を聞いていなかったようだ。僕が答えるしか無いようだった。
「分かりません。旅館で寝ていたら、突然襲われたんです」
「突然……? 何の前触れも無しにか?」
無い、……と、思う。遷御の時のことはいろいろ問題があるので、話さないでおこう。
サングラス越しだったが、男がバックミラーを見たのが分かった。振り返ると、テンコが激しく頷いていた。
「物事には、常に原因がある」
おお、この男、変態恰好のわりにはまともなことを言う。
「事故にも原因はある。予算をケチるとか、担当が口やかましくてイライラするとか……」
前言撤回。えーと、何を言っているんだ、このひと?
「……まあ、どうでもいいか」と、あっさり男は言った。
良いのかよっ!
「あ」と、テンコが声を上げた。振り返るとスマホを見ている。
「朋美からだ。……どこにいるの、だって」
テンコは口に出しながら、返事を返した。
「逃げた……。パシリ、クレバくん一緒……。こっちは大丈夫……、と」
朋美からすぐに返事が返って来たようだ。
「……旅館の方は大丈夫、だって。怪我人は何人かいるようだけど、みんな軽傷ですって」
そいつは良かった。
突然、車が減速した。男はハザードランプを点灯させると、そのまま路肩に停車した。
いつの間にか公園を抜け、大通りとの大きめの交差点に来ていた。信号には「伊勢浦田町」の表示板が付いていたが、どこら辺りなのかさっぱり分からない。郊外の交差点っぽいのでこんな時間では車通りも見られないが、それでも普通の軒並みを見ると安心する。直前まで得体の知れない怪物に追われていたなんて、夢みたいだ。
いや、本当にこれ、夢なんじゃないかな?
「確かに今まで見たことも無い生き物だったが、俺は、この世の全ての生き物を知っているわけではない」と、男が喋り始めた。
それはまあ、そうだけど。
「もしかして、どこかの馬鹿がバイオテクノロジー研究所で作った合成生物が逃げ出したのかも知れん」
それはそれで、大変なことだと思うが。
「そうだ、きっとその研究者も予算を削られたに違いない。腹いせに逃がしたのだろうか。それならそれで痛快だ。担当があの女ならもっと楽しいのだが」と、男はまた、変なことを独りごちている。肩が震えているのは、笑っているんだろうか? 本当に大丈夫かな、このひと。
男は僕の視線に気が付くと、わざとらしい咳払いをした。
「まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、あの生き物がなんだろうが俺には関係ない。そのうち、警察だか市役所だかが捕まえてくれるだろう。税金で養ってやっているんだから、それぐらいはするだろう」
町に降りて来た猿の捕獲じゃないんだから、市役所職員には無理だろうと思う。警察を以てしても無理じゃないかなあ。自衛隊ならなんとかなるかも知れないが、こういう時って、出動できるんだろうか? 怪獣映画じゃ出動しているけど……。
「さて、ということで、もういいかな、君たち。ここまで来れば、あの何か分からん生き物も追っかけて来ないだろう。旅館まで送ってあげたいが、僕は忙しいんでね」
忙しい、という言葉を言う時の声が幾分大きかったが、泊まれるあてが無くて、駐車場にいたんじゃないのかな、この男?
「……そうね」と、後ろの席でテンコが言った。振り返ると、テンコはスマホから顔をあげた。
「旅館まで、そんなに離れてないわ。歩いてもすぐよ。先生方に心配かけないように、早く戻った方がいいわ……」
確かにこれ以上、この男に甘えるのも悪い気がする。それに、この何事も無い普通の町並みを見ていたら、怪物に追われていた恐怖心も大分消えていた。
有り難うございました、助かりました、と、テンコは頭を下げた。
サングラスの男はバックミラー越しに小さく頷いた。テンコにしては、なかなか殊勝なもの言いだ。こんな言い方が出来るとは思いもしなかった。まるで、純真無垢な女子高生じゃないか。
「でも、やっぱり、怖い……」そう言って、テンコは上目づかいで、バックミラー越しに男を見た。
なるほど、そう来たか。
呉場はどうなることか、傍観を決めたようだった。
表情は読めないが、男は一瞬逡巡したようだった。しかし、再び嘘くさい咳払いをすると、
「悪いが、ここで降りてくれ」と、はっきり言った。
ち!、と、テンコが舌打ちし、一キロも歩けってのかよ、と小声で毒づいた。幸い、男には聞こえなかったようだが。
諦めたテンコがドアノブに手をかけた時、僕は椅子越しに身体を伸ばしてテンコの腕を掴んだ。
「何、触ってんのよ、パシリっ!! ……あ」と、テンコは僕の下半身に目をやって、目を丸くした。
「パシリ、漏らしちゃったの?」
「え?」と、僕は、下腹部を見下ろした。そこには、黒いシミが広がっていた。
「……君」
サングラス男が飽きれたような不快そうな声で言った。
「ち、違う! 違いますっ! これはコーヒーです! コーヒーだっ!」
ぷ、っと、テンコが口に手を当てて、哀れむように笑った。
「本当に、コーヒーだぞ! 匂いを嗅いでみれば、分かるよ!」
「何言ってるの!、そんなところの匂い、嗅げるわけ無いでしょっ!」と、テンコが真顔で返した。顔がやや赤くなったのは、激怒したからに違いない。
「こいつだっ! このコーヒーだっ!」と、僕はドリンクホルダーからコーヒーが少しばかり残っている紙コップを引き抜いて、テンコに突きつけた。その時、僕の目にリアウインドウの光景が目に入った。
漏らしたの、コーヒーのシミだのと、そんなことはどうでもいい! 僕がさっきテンコの手を掴んだのは、一大事が勃発したからだったことを思い出した。
「そうじゃない! あれだ、あれっ!!!」
僕はリアウインドウを指差した。そこには、悪夢の続きがあった。白い巨体が道路を真っすぐこちらに向かって来ていた。しかも、くだらないやりとりのせいで、あいつはもうかなり近くに来ていたのだ。
テンコの悲鳴とともに、タイヤも悲鳴を上げた。加速でシートに押付けられた。
だが、その時、目の前の交差点の信号は赤だった。さらに間の悪いことに、今まで車通りが一切無かった交差点にトラックが入って来ていた。
ぶつかるっ!
そう思った瞬間、身体が思い切り左に振られた。右に急カーブを切った車のタイヤがきしみ、サングラス男の窓越しに、トラックのタイヤが急激に近づいて来た。同時に僕の手から紙コップが落ち、僕の下腹部をさらに濡らした。引っ掻くような音が車体から響いた。
こういう事故の瞬間、あらゆるものがスローモーションに見えるというのは、本当らしい。
テンコの向こうで、トラックかこちらの車か、何か金属的なものが火花を散らしながら外れたのが見えた。火花の一粒一粒がはっきりと見えた。次の瞬間、急速にトラックが離れて行った。首をねじ曲げてその行く先を追うと、トラックは歩道に乗り上げてバウンドし、うどんと書かれた看板を蹴散らして、食堂の角に突っ込んで行った。
僕たちの車もスピンして、道路の真ん中で止まった。ぐるりと百八十度近く回ったので、事故を起こしたトラックがよく見えた。
「ふ、不可抗力だ」と、サングラス男が言った。
「Fと遠心力と合力は……」また男が、何かよく分からないことを呟き始めた。
煙の上がるトラックから運転手が降りて来た。とりあえず無事だったようだ。ほっとした。──が、それも一瞬だった。
折れ曲がった信号機とともに白い巨体が交差点に現れた。信号機はそのまま、地面に叩き付けられ、信号ライトの部分が粉々に壊れた。つながった電線にひっぱられ、他の電柱も交差点の方に大きく傾いた。
猛スピードの怪物の方は、曲がりきれず、止まりきれずに、トラックへと突っ込んで行った。だめ押しのようにトラックを食堂の建物に押し込こんだ怪物も半分ほど食堂にめり込んでいた。
不気味な静寂の数秒が過ぎた。腰を抜かした運転手が呆然と、怪物を見あげていた。
薄れ始めた埃の中で怪物は動き出し、ゆっくりと後ずさった。店の手前の角が引っぱられるように崩れ落ちて、再びもうもうと埃が舞って、怪物の姿を隠した。
だが、それも一瞬のこと。次の瞬間にはその埃の中から、怪物が現れた。すでに猛然と突進してきていた。サングラスの男は、ギアをバックに入れると、思い切りアクセルを踏み込んだ。
怪物が再び目の前に迫っていた。
男は思い切りハンドル切って車をスピンさせると、ギアを瞬時に入れ替えた。怪物が車がリアに当たる衝撃があった。一瞬、前輪が浮きあがった。しかし車の加速の方が速かった。さすが外車だ。あっと言う間に、怪物と数十メートルの距離があいた。
だが、怪物もスピードを緩めることは無い。時速七十キロメートルで逃げる僕たちを悠々と追って来ていた。
「……おかしいぞっ!」サングラスの男が言った。
車は歩道橋をくぐった。振り返った途端、怪物が歩道橋に衝突して仰向けに倒れるのが見えた。
「やったっ!」思わず、そう叫んでいた。
車のスピードが緩み、止まった。サングラスの男も振り返って、路上に倒れている怪物を見つめている。
「……死んじゃった?」テンコがそう言った時、怪物は起き上がった。
歩道橋の真下で起き上がったので、頭はいきおいよく歩道橋を突き上げた。歩道橋は中央部が盛り上がるようにねじ曲がった。怪物は、首を左右に傾げるような仕草をしたが、すぐに何事も無かったように走り出した。
僕たちの車もあわてて発進した。
「な、なんなのよ、あいつ……」涙声ながらテンコがスマホで動画を撮影し始めた。
次の信号で道は左右に分岐していた。車は右の方の道路へと入って行く。そして怪物もまた、中央分離帯を踏みつぶしながら進路変更し、的確に僕たちの後を追っていた。
「おかしいぞっ!」もう一度、男が言った。
「あ」と、思わず声が出た。車がまた赤信号を突っ切ったのだ。
幸い事故の二の舞は避けられたが、交差する道路上に、近づいてくるヘッドライトが見えた。車の上にはきらめく赤色灯も見えた。パトカーだ。さっきの事故が通報されたのだろうか。
それにしても、パトカーの目の前での信号無視はやばかった。サイドミラーを見ると、走って来たパトカーが交差点の真ん中で止まるのが見えた。パトカーがこちらに進路を変えようとした時──。
あいつがやって来た。
怪物はスピードを緩めることも無く、パトカーにぶつかった。まるでボールのように吹っ飛んだパトカーは、何回か回転した後、道路脇のトタン張りの納屋をめちゃめちゃにして止まった。サイレンが断末魔の一声を上げ、静かになった。撮影中のスマホから顔を上げたテンコが泣きそうな顔になっている。
怪物はパトカーに衝突したことなど毛ほどにも気にかけず、相変わらず元気よく追いかけてくる。
「おかしいぞっ!」
さすがに三度目だ。ここは聞き返すのが礼儀だろう。
「何がですか?」
「どう考えても、あいつはお前たちを追いかけているじゃないか」
ここまで来ると、僕もそう思う。
車が鉄橋をくぐった。振り返ると、怪物はまた鉄橋に頭を打ち付け、仰向けに倒れるところだった。鉄橋は衝撃で大きく傾いていた。
バックミラーを見ながら、
「あいつ、もしかしたらバカなんじゃないか」と、男が呟いた。
今度は男も車を止めなかった。僕もそれは正解だと思う。どうせまたすぐに追いかけてくるのだ。
「ねえ、この先に伊勢自動車道のインターがあるわ」テンコがスマホの地図を見ながら言った。
「上がった方がいいんじゃない?」
確かに伊勢インター入り口を示す緑の標識が見えた。信号が無く、交差する自動車に邪魔されないだけでも、かなりマシかも知れない。無言だったが、男もそう思ったのか、スピードを落とすこと無く突然急カーブを切ると、伊勢インターへの道を上がって行った。
11
高速道路のようなものかと思っていたが、伊勢自動車道というのは外灯もほとんど無い道路だった。
それでも、自動車道に入ることで、すこしばかり安心感が増した気がする。もちろん、錯覚に過ぎないだろうことも、分かってはいたが。しかし、少なくとも、信号などで進路を邪魔されることも無い。スピードも出せる。それに、今、後ろにあの怪物の姿が見えないだけでも、気は休まる。
最後に見たあの怪物の姿は、鉄橋にぶつかって無様に倒れるところだった。死ぬことは無いだろうが、せめて脳震とうくらい起こしていないだろうか。……脳があれば、だけど。
「……さて」と、男が言った。
相変わらずマスクにマフラーをしたままだ。暑くないのだろうか?
「あいつはお前たちを追いかけている。これは間違いない」
僕もそれが正解だと思うよ。問題は、僕か、テンコか。……否、呉場ということだって無いわけじゃないが、旅館での出来事を考えると、やはり僕かテンコのどちらかというのが妥当だろう。
僕は、ちらりと後部座席のテンコに目をやった。男の声が聞こえているのかいないのか、スマホをいじっている。
「なあ」と、テンコに声をかける。
「最近、サービスエリアの食べ物やスイーツって、結構人気なんだろ?」
テンコは目を上げずにスマホをいじっている。
「……まあ、ね。お漏らし君、それがどうしたの?」
ちくしょう、また呼び名が変わった。とりあえず、今は無視しよう。
「ここら辺で、そういうところは無いのかな?」
テンコはいぶかしげに僕を見た。
「ここら辺でさ、テンコの好きなスゥィーーーツを出しているサービスエリアなんて無いのかなあ、って思ってね」
「どういうこと? モラシ?」
パシリに似ていないことはないけど、モラシって……。
しかも、目がもう不信感で一杯だ。仕方無い、単刀直入に言おう。
「テンコ、ちょっと降りてみない? そうすれば、どっちが追われているか分かると思うんだけど……」
テンコは眉をひそめて──おそらく僕の言葉を吟味していたに違い無い──、やがて、みるみる顔が赤くなっていった。
「冗談じゃないわっ! あんたが降りればいいじゃないっ!」
ふむ、想像通り却下された。やりとりを聞いていた男がぼそりと言った。
「仲が悪いんだな、二人は」
「違いますっ!」そう言ってから、あ、と、テンコが口を押さえた。
「なんだ、仲がいいのか? 分からんものだな、若い奴のやりとりは」
馬鹿め。脊髄反射で喋るから、こうなるのだ。分かるようににやついてやると、テンコはふてくされたようにシートにもたれ、再びスマホをいじりだした。
だが、すぐに、
「ああ、失敗しちゃった」と、テンコが呟いた。
「どうした?」
テンコはちらりと蛇のような目を僕に向け、スマホを呉場に渡した。呉場はしばらくスマホを見ていたが、なるほど、と、つぶやいてスマホをテンコに返却した。
サングラスの男も不審そうに聞いて来た。
「なんだ?」
知りませんよ。見てたでしょ、僕、無視されたの。
「すいません、宇津美天子様。教えてください」
テンコは少し迷ったものの、さも嫌そうにスマホを渡して来た。
「おしっこ、つけないでくれる?」
つけねえよっ!
見ると、スマホには動画が表示されていた。真ん中にある再生ボタンをタップすると、動画が再生された。今時のスマホのカメラは優秀だ。夜というのに、奇麗に撮影されていた。怪物とパトカーがぶつかった交差点だと分かる。さっき見たばかりで、記憶もまだ鮮明だ。
交差点にパトカーが入って来て止まった。ドアに書かれた三重県警の文字もはっきりと読める。
次の瞬間、画面が白く光った。吹き飛ぶパトカーがかろうじて見えたが、露出オーバーだ。カメラは大きく揺れながらも、転がるパトカーを追いかけた。これはちゃんと映っている。が、交差点へと構図が戻り、追いかけてくる怪物を捉える寸前、またまた露出オーバーになった。
「だめじゃん」
そう言うと、あっという間に後ろから手が伸びて来て、スマホを持ち去った。
「どうしたんだ?」と、サングラスの男が聞いた。
「露出オーバーで、撮影失敗ってやつです」
「ふうん」なんだ、とばかりに、サングラスの男は興味を失ったらしい。
「でも、変なのよ……」と、テンコが言った。
負け惜しみか。まあ、僕は大人だからな、テンコが満足するなら聞いてあげよう、という広い気持ちで、僕は振り返った。
「何がだい?」
テンコはちらりと死んだ魚のような目を僕に向け、呉場に向かって話し出した。
「何人かの生徒が旅館での騒動を動画サイトにアップしているんだけど……、どれも肝心なアイツの姿が露出オーバーなの」
「怪物の姿が映ってないってことかい? どれも?」と、僕は聞いた。
「ええ」と、テンコは呉場に向かって頷いた。
……あの、僕が聞いたんだけど。
「あいつは自分で光っているようだからな、カメラの露出がうまく合わせられないのかも知れん」
そう言ったのはサングラスの男だ。
「そうですか……ね」と、テンコは少し不満そうだ。確かに全てとなると変な感じがするが。
「それより」と、男はバックミラーを覗いて言った。
「あいつは、もう追いかけて来ないみたいだな」
僕たちは振り返った。
外灯も無い無機質な道が僕たちの後ろに延々と続いている。周りには何も無いが、気が付けば、走行する他の車のヘッドライトもぽつぽつと見える。確かに自動車道に入ってから、あいつの姿を見ていない。この道を選んだのは正解だったようだ。
さすがに時速百キロには追いつけないのか、長距離を走るスタミナが無いのかもしれない。もしかしたら、あの鉄橋への衝突で、追いかけるのを諦めたのかも知れない。──否、それどころか、本当に僕たちの中の誰かが追いかけられていたんだろうか。ただの偶然ではないのか。そんな気がしてきた。
「そろそろ、いい加減に僕を解放してほしいんだけどね」
だから、男がこう言って来たときも、もっともだと思った。
だが、ここで、はい降りますとは言えないのも確かだ。大体ここはどこだろう。しばらく前に「松坂」とか「津」とかいう案内版が過ぎて行った気もする。「松坂」とは、あの松坂牛の「松坂」だろうか?
とにもかくにも、こんなよく分からないところのサービスエリアで降ろされても、学校の連中と合流する方法が無い。かといって、あの怪物がうろうろしているところにも戻るのは勘弁して欲しい。
「名古屋……まで、乗せてもらえませんか?」テンコが言った。
なるほど、修学旅行がこのまま続行されるかは分からないが、名古屋に行けば新幹線に乗ることはできる。他の生徒と合流するも、東京に帰るも、名古屋ならどっちにでも転べるだろう。
「名古屋か……」
男は少し考えたが、分かった、と言って、カーナビのスイッチを入れた。
とりあえず先行きが見えたので、僕はほっとした。自動車道を走行する車が増えて来たのも、理由はないが心強く感じた。
運転席のパネルに表示されている時計を見ると、赤い光のデジタル時計が午前一時四十五分を表示していた。勘弁して欲しい時間だ。名古屋には何時頃に着くのだろう? それに、名古屋に着いたとしても、ジャージ姿に裸足の状態だ。しかも、股間にシミのついた……。
「テンコ、朋美に鞄と制服を持ってきてくれるよう、頼んでくれよ」
「自分で友だちに頼みなさいよ、萩君にでも」
布団とともに落ちて行った萩の姿を思い出し、僕は首を振った。それよりも──。
「スマホが無いんだよ。覚えてないかも知れませんが、旅館で身を以ってテンコを助けた時に落としてしまったのだよ」
「身を以って、……助けた?」
「ああ」
「あたしの身を放って逃げ出した、の、間違いでしょ? おかげで、ほらっ」と、テンコは擦り剥けた肘を突きつけてきた。
……まあ、そういうこともあったかも知れない。
「本当に君たちは仲がいいのか?」サングラスの男が聞いて来た。
男の質問はテンコの耳には入らなかったようだ。僕は、
「ええ、まあ」と、曖昧に笑っておく。
ふーむ、と、男はつぶやいた。
「それが一般的だとすると、もしかして、周りの人間からは、俺とあの女も仲がいいと思われていたのだろうか?」と、男はまた、わけのわからないことをひとりごちた。
関わり合うのもなんなので、鞄の件は呉場から連絡してもらおうと、振り返った。相変わらず、ぼんやりと窓の外を見ている。
そう言えば、こいつ、ずっと喋ってないな。呉場は冷静な男だが、決して無口な奴では無い。何を考えているのか?
もしかして、あの怪物について……。
「なあ、あの怪物……、なんだと思う?」
「知らん」
前と同じく、即答だった。それはそうだ。いくら呉場と言えども、あんな怪物のこと分かるわけが無い。しかし、今度はもう一言、続いた。
「だが、見当はつく」
つくのかよっ!!
テンコも唖然として呉場を見た。サングラスの男もバックミラー越しに呉場を見つめていた。
次の瞬間、突然ハンドルが切られた。
耳をつんざくばかりの警笛音とともに、走行車線を走っていたトラックが突然、僕たちのいる追越車線に入って来たのだ。
呉場に気を取られていたはずなのに、瞬時に避けたサングラスの男の運転の腕前に感謝だ。
僕たちの車の左前方を、かすめるようにトラックが迫って来た。追突を避けるために急ブレーキと車線変更を余儀なくされた僕たちの車は、スピンしかけたが、やはりこのサングラスの男の運転テクニックは抜群だった。丈の低い防護壁に車の左尾部をこすりながらも、トラックの横を抜けきることが出来た。
「危なーい、あのトラック」テンコが振り返りながら言う。
否、違う。トラックが悪いのでは無い。合流地点で入って来た車が、トラックの前に出て来たのだ。その車は今、僕たちの前にいる。黒い──、なんというか、大臣とかが乗っていそうなタイプの車だ。
僕たちの車は走行車線から追い越し車線へと車線変更した。すると、前を走る黒い車も車線変更して来たのだ。
偶然……なのだろうか。サングラスの男もじっと前の車を見つめている。
やがて、サングラスの男はウインカーを出すと、試すように走行車線に戻った。すると、やはり前方の車も車線変更をしてきた。前の車は、明らかに僕たちの車の進路妨害をしている。確信犯なのだ。
しかも、どうやらスピードを落としたらしい。それに合わせて僕たちの車もスピードを緩めるのが分かった。
すると、僕たちの横、つまり追い越し車線を一台の車が追い上げて来た。なんと、前を走る車と同じタイプの黒い車だった。車は僕たちの車の横にぴったりと並走し始めた。
「なんだ、なんだ?」
「後ろにも居るよっ!?」
テンコの声で振り返ると、なるほど、僕たちの後ろには黒い車がもう一台、ぴたりとくっついて走っていた。前の車がスピードを落としているせいで、追い越し車線も走行車線も渋滞が出来始めていた。
「なんなんだ、こいつら」
「……ねえ、UFOとか見ると、黒い服を来た人たちが来て、口止めするって話、聞いたことあるんだけど……」
MIB──メン・イン・ブラック(黒づくめの男たち)って奴だな。でも、僕たちはUFOなんて見てない……。
「……あ」
「あの変な生き物……」
あ、あれは宇宙人──宇宙生物なのか?
突然前の車が スピードを上げ始めた。ぐんぐん離れて行く。同時に、横と後ろの車がスピードを落としたようだ。渋滞を引き連れて、どんどん離れて行く。
サングラスの男はおそらく下手に動かない方がいいと判断したのだろう。現状のスピードを維持して、離れるにまかせている。
やがて、前の車のテールランプは見えなくなった。後ろの車ももう随分と離れてしまい、自動車道に進入した当初のように、僕たちの車はぽつんと道路を走っている状態だ。外灯もほとんど無いこの自動車道では、ヘッドライトが照らし出す道路だけが闇に浮かんでいた。
その時、道路の向こうに何か光るものが見えた。否、こちらに近づいてくる。闇に光る二つの目みたいだった。
……ヘッドライト!!
そう分かった時、それは思ったより急速に近づいて来ていた。急ブレーキがかかり、さすがに今度はタイヤが悲鳴を上げながらスピンした。転がらなかっただけでも、運転手のテクニックを褒めたい。
最後に大きく揺れて、車は停車した。
「痛たたた」と、テンコの声がした。声がするのは生きている証拠だ。呉場の声はしなかったが、呉場に関しては、それが大丈夫の証拠の気がする。
顔を上げて、前を見た。道路を塞ぐようにあの黒い車が停められていた。ライトがこちらを照らしていたが、一歩間違えれば大事故じゃないか。
後ろから渋滞を引き連れた二台の黒塗り車が、ゆっくりと近づいて来て、十メートルほど離れたところで止まった。眩しいぐらいのヘッドライトが僕たちの車を照らし出す。
前方の黒塗りの車のドアが開いた。驚いたことに、降りて来たのは女だった。
黒いスレンダーなスーツ。長い漆黒の髪。ヘッドセットをつけ、タブレット端末を小脇に抱えたその女性は、細面の顔に細いフレームの眼鏡がとても似合っていた。
「……くおんじ……さとの」サングラスの男がつぶやいた。
12
何十台もの車のアイドリングの音の中でなお、近づいてくる女性のヒールの音ははっきりと響いていた。彼女が首から下げているパスに、顔写真と、久遠寺里乃という名前が見て取れた。
久遠寺はまっすぐ運転席側のドアのところまでやってくると、窓ガラスを軽くノックした。サングラスの男はほんの少し躊躇したものの、窓を開けた。
「こんばんは、有畑統括主任」久遠寺という女性が言った。
この二人は知り合いなのか。しかし、ようやく男の名前が分かった。アリハタ……統括主任? どうも、芸能人では無さそうだ。
「困りますね、勝手に消えられちゃ。まだ、後始末は終わってないんですよ」
そこまで言って、久遠寺は僕たちに気づいたらしい。
「統括主任! この子たちは何なのですか?」
男──アリハタが何も答えないので、久遠寺はアリハタと僕たちに向かって言った。
「有畑統括主任、エンジンを切ってくださいますか。みなさん、降りてください。さあ、さっさとお願いします」
口調は平坦で慇懃だったが、拒否が許されない気迫があった。男がエンジンを切ると同時に、僕はドアを開けて外に出た。すっかり忘れていたが、裸足の足に、道路が冷たかった。アリハタも、呉場も車を降りた。テンコも恐る恐る降りて来た。行く手を阻む一台の車と後続の車のライトがまるでスポットライトのように僕たちをまぶしく照らし出す。
その時、クラクションが鳴った。自動車道をふさいでいるため、停車を余儀なくされている後続の運転手たちが怒っているのだ。
後ろの二台の黒塗りの車から、さもあらんというような黒いスーツを着た屈強な男たちが何人も降りて来た。男の一人が、クラクションを鳴らし続ける乗用車に近寄ると、中から運転手を引っぱり出した。黒服の男は運転手を引きずるように後ろの方に消えて行った。他の男たちも次々にクラクションを鳴らす運転手を引きずり出すと、やがて、クラクションは聞こえなくなった。
久遠寺は彼らの行為をわずかばかりでも気にする風は無く、無表情にアリハタと僕たちを見つめている。
アリハタは、じっと沈黙していた。相変わらずのサングラス、マスク姿なので表情は読めない。一体、この二人の関係はどういうものなのか、そう思った時──。
「いやあ、里ちゃん、ごめんごめん」アリハタが妙に軽薄な口調で言った。
「ちょっと、新鮮な空気が吸いたくなっちゃってさあ。里ちゃんになら任せられると思って。里ちゃん優秀だから」
久遠寺が眉をひそめた。
「有畑統括主任。どうしたのですか?」
アリハタは咳払いをした。
「いつものような喋り方だと、俺たちは仲が良いように思われているようなのだ。君は知っていたか? 最近の若者の習癖らしいぞ」
ああ、この人、勘違いしているなあ。
「俺と君が仲がいいと思われるのは本意では無いので、喋り方を変えて見た」
久遠寺は眉をしかめた。
「何を仰っているのか分かりませんが、そうですね、あなたと個人的にでも公的にでも仲が良いと思われるのは、私にとっても不本意です」
わあ、はっきり言ったぞ。大人ってすごいなあ。
「ただし、その口調の方がはるかに不快ですので、即刻止めていただけますか。そんなことより、研究所に戻ってください。今日の実験の失敗でただでさえプレス対応で忙しいのに、本当に困ります」と、久遠寺は、全然困った風でない口調で言った。
「あった。有畑一石。有るに、畑に、一つの石か。珍しい名前ね。ああ、今日爆発事故があった那智勝浦の核融合実験施設の統括主任」スマホをいじりながらテンコが言った。
実験施設の爆発事故……。どこかでそんなニュースを聞いた気がする。ということは、このアリハタ──有畑って男は爆発事故の後、逃亡しちゃったってこと? 統括主任って、責任者じゃないの? そりゃあ、顔隠すわけだ。
久遠寺はいぶかしげにテンコを見、そして、僕と呉場に目をやった。
「ところで、その子たちは誰なんですか? なぜ……裸足なんですか?」
裸足、と言いつつ、久遠寺は僕のシミのついたジャージの下腹部を見つめていた。
「裸足……?」と、有畑は車越しに僕の方を見た。今まで気が付かなかったのだろう。僕は、素足が見えるように足を上げてみせた。
有畑は肩をひそめると久遠寺の方に向き直った。
「……裸足の理由は分からないが、いろいろあってね。追われてたんだ」
「ええ、追っていました。会見が終わった後、あなたが居なくなったと判明した時点から、ずっと」
「君たちが……、いや、君たちのことじゃなくて……。まあ、いいか」
え? いいの!?
「それにしても、よく俺の居場所が分かったな」
「文部科学省を舐めないでいただきたいですわ」
文部科学省? 文部科学省って、あの文部科学省か? この女は文部科学省の人間なのか。
「JAXA及び気象庁もろもろのGPS衛星、地球観測衛星、地上監視システムを最大限使えば、あなたの居所など簡単に追跡できます」
久遠寺は頭上を指差すと、タブレット端末の画面をこちらに向けた。ディスプレイにはいろいろなデータが表示されていたが、久遠寺がタップすると、画像がどんどん拡大されていく。そして、暗視カメラのようなノイズのかかった画像は、ある人々を頭上から捉えていた。
え?
僕は上を見上げた。するとタブレット内の「僕」も上を見上げた。
ほとんどリアルタイム? すげえ!
「こんなことが出来るの? 日本の技術、すごいじゃん!」
思わず口に出すと、無表情だった久遠寺の口元がほんの少し歪んだ。もしかしたら、笑みを浮かべたのだろうか。
「そりゃあ、できるだろうさ」と、有畑は小声でつぶやいた。
「だが、普通、誰もやらないだろう? 俺を追跡している間、観測が止まっているじゃないか。衛星軌道の変更、監視プログラムの再構築等々……、この女、その科学的、金銭的損失がどれくらいだと思ってるんだ。他人のことはぎゃあぎゃあ言うくせに……」
「何をぶつぶつ言っているんです?」と、腕時計を見ていた久遠寺が顔をあげた。
「さあ、もう二時を回っています。さっさと那智勝浦の実験施設に戻りましょう」
その声が合図のように、久遠寺の背後の車から黒いスーツの屈強な男が降りて来た。運転手たちを連れ去った男たちも、何事も無かったように戻って来て、僕たちのすぐ後ろで止まった。久遠寺は、僕たちを見た。
「さて、あなたたちについてはよく分からないけど」と、また、僕の下半身を一瞥した。
「話は聞かせてもらわなくてはならないわね。文部科学省としてはこんな時間に未成年を拘束するのは遺憾だけど、仕方ありません」
そう言いながら、久遠寺はヒールを鳴らして近づいて来ると、有畑の前に立った。
「キーを渡してください」
有畑は黒いスーツの男たちを見回した後、諦めたようにのろのろと車の中に身をかがめて、キーシリンダーにぶらさがっているキーに手を伸ばした。その間、久遠寺は改めて車のボディを覗き込んでいた。
「それにしても、一体、どうしたんですか、この傷は? せっかくのフェラーリが台無しじゃないですか。まるで、カーチェイスの後みたいですよ」
「まるで、じゃなく、まさに、だよ」
その時、遠くで、異様な音がした。
否、僕たちにとっては、聞き慣れた音、と言うべきか。わずかだが、足を通して揺れも感じる。
「何?」と、久遠寺が顔をあげ、音の方を見やった。
黒塗りの車が作り出した渋滞が連なる奥の方だった。突然、大きな炎の塊が夜空に膨れ上がった。その炎の作り出す灯りの中、見えたのは間違いなく、あの白い巨体だった。映画なら絶対に、怪獣登場のBGMがかかるところだ。
「き、来ちゃったっ!」テンコが震える声をあげた。
「……やっぱり、追われているようだな」と、呉場が言い、僕の方を振り返った。
「新木、本当に心当たりは無いのか?」
え? 僕!?
テンコが嫌な目付きで僕を睨んでいる。僕は自問自答した。
心当たりなんか、無いよね? 無い、無いっ!
僕は思い切り、首を振った。
凄まじい破壊音が響き、見ると、軽自動車が宙に舞っていた。軽自動車は中央分離帯の植木をなぎ倒して、反対側の車線に転がって行く。反対車線で急ブレーキの音が響き、衝突音がした。
その間にも、怪物は渋滞で身動きのとれない車列の中を無理矢理進んで来ていた。横倒しにされたトラックが防護壁との間に挟まって押しつぶされた。アルミ製の荷台は完全に潰れ、宅配便の段ボールが散乱して、中身が飛び散った。
さすがの久遠寺も唖然とした表情をしていた。
「……あ、あれは、何なの? い、生き物なの?」
「おまえの担当じゃないのか?」と、久遠寺に有畑が言った。
「何、言ってるの? そんなわけないでしょ」
ちっ、と、有畑が舌打ちした。
有畑が舌打ちをした理由は分からなかったが、少なくともこの久遠寺という女性は、テンコの言うようなMIBでは無いわけだ。そしてあの怪物も宇宙人とか宇宙生物などではないということか。
……じゃあ、一体、何なのだ?
真後ろに迫ったきた怪物から逃げ出そうと無理矢理発進した乗用車が、前の車のテールバンパーを押しつぶした。次の瞬間、怪物が乗用車のトランクを踏みつぶした。反動でフロントが持ち上った乗用車から、運転手が転げ落ちた。
白い巨体が乗用車を、のしイカのように踏みつぶして行く。
車列から次々に運転手たちが逃げ出して、僕たちの脇を抜けて走って行く。黒い車の男たちもなす術も無く突っ立ているだけだ。と言うか、久遠寺の指示が無いので動けないのか。
その久遠寺も、車を踏みつぶしてやってくる怪物をただただ呆然と見ているだけだった。そう言う僕も、テンコの声がするまでは、まるで怪獣映画を見るかのように怪物による破壊をぼんやりと眺めていただけだったのだが。
「ねえっ、ヤバいよっ!!」
その声で、僕は我に返った。確かに、怪物はもうすぐそばまで迫っていた。まるで、チョモランマの登頂に成功したかのごとく、踏みつぶしたトラックの荷台の上で、その異様な巨体を誇示していた。
その時──。
また、強烈な視線を感じた。
再び、化け物が目も眩むような明るさに輝いた。それと同時に、またあの熱いぐらいの熱気が襲って来た。そして、咆哮が響いた。テンコも呉場も、そして有畑も久遠寺も耳を塞いだ。
だが、僕は耳を塞がなかった。塞げなかった。なぜなら、僕は、その咆哮の意味が分かった気がしたからだ。
こいつは言っていた。
──見つけた、と。
錯覚かも知れない。錯覚であって欲しい。錯覚だ!
こんなことを呉場に言ったら、笑われるだろう。否、置いて行かれるかも知れない。それは──。
嫌だ!
「逃げようっ!!!」
そう僕が叫ぶと同時に、呪縛から解けたテンコと呉場が車に乗り込んだ。僕もまた、助手席に乗り込んだ。
呆然と怪物を見ている久遠寺が邪魔で、有畑は運転席に入れない。なんと有畑は、久遠寺を車の中に容赦なく強引に押し込んだ。
「きゃっ!」
叫びたいのはこっちだ! 運転席側から押し込まれた久遠寺がのしかかって来て、僕は思い切りドアに押付けられた。それに重い。あんなにスレンダーそうに見えたのに、まったくどいつもこいつも女って奴は。
有畑は運転席に座るや否や、キーを回した。一発でエンジンがかかった。
久遠寺に押しつぶされながらも、サイドミラーに映る怪物に目をやった。怪物はトラックの上で、ぐっと身を縮めて──。
跳んだ。
怪物は、黒塗りの車の上に着地した。車は見事にぺしゃんこになった。ボンネットが大きく口を開け、まるで内臓のようにエンジンを吐き出した。そして怪物は勢いもそのままに、僕たちの車に突進して来た。
聞き慣れたタイヤのスキール音とともに、車が発進した。僕たちの行く手を止めた黒塗り車の脇をすり抜ける。もちろん、その後、サイドミラーには怪物に吹き飛ばされて転がって行くその車の最期の姿が映っていた。
「サングラス姿で運転して、大丈夫なの?」
僕の斜め上の方で、そう言う久遠寺の声がした。確かにもう逃亡は終わりだ。サングラスもマスクも必要ないはずなのに、相変わらずマフラーもしっかりと巻いたままだ。癖かなんかになっちゃったんじゃないだろうか。
「大丈夫だ。気にするな」そう有畑が答えると、久遠寺は、ふん、と鼻を鳴らして身体をずらした。勘弁して欲しい。あまり動かれると痛いのだ。
「ちょっと、君、変なとこ、触らないでくれる?」と、耳元で久遠寺の声がした。
触ってねえーよっ! 身体を押し付けて来てるのは、あんただろっ!
「パシリっ!」
後ろでテンコがわめいた。誤解だ! 濡れ衣だ!
ただ、テンコとは違った──、なんというか柔らかいだけじゃなくて、弾力のある感触が伝わって来ているのは確かだ。しかも、微かだが、品のいい香水の香りも鼻をくすぐる。
それはともかく、久遠寺はショック状態から復帰したようだ。
「有畑統括主任。あれは何なの、説明しなさい」
「知らない、と、言っているだろう」
「そうなの? でも、あなたたち、あれを見ても驚かなかったわ。ねえ、触らないで」
なんだ、最後のは。僕は指一本動かしてないぞ。
「パシリーっ!!」
「濡れ衣だって! ちょっと、すいませんが、誤解を招くような…… 」
「あら」と、久遠寺は言った。
「確かに前を濡らしちゃっているけどね。興奮して、これ以上濡らさないで」
口答えして、ごめんなさい!
「伊勢から追いかけられている」有畑が話を戻してくれた。
ふーん、と言って、久遠寺がうごめいた。
「ねえ、そこは触らないで」
あんたが動いたんだろ!? そこって、どこだよ!! ……ええと、僕の耳が確かなら、後ろから歯ぎしりが聞こえるんですけど……。
首を曲げられないのでよく見えないが、久遠寺はタブレットをいじり始めたらしい。
「確かに午前◯時十八分の段階から、妙な動きをしているわね」
すごい。本当に監視してたんだ。
「俺は巻き込まれただけだ。こいつらの方が詳しい。なんせ、俺より前から追いかけられていたからな」
「へえ、このいたずらっ子が?」
どうしたら、勘弁していただけるのでしょう? もう、歯ぎしりすら聞こえないし。
「ぼ、僕たちにも何がなんだか。修学旅行で泊まっていた旅館で、突然襲われたんです」
「なるほど。それでそういう恰好なのね。君たちの高校は? 触ってないで、さっさと答えなさい」
ううう……。
「西関東大学付属高校」
西関東大学付属……、と、久遠寺はタブレットに打ち込んでいるらしい。
「ふうん、偏差値もまあまあじゃない。ええと、修学旅行のスケジュールは、と……」
「え? そんなことまで分かるんですか」
「そんなとこまで触らないで」
韻を踏んで返されても……。でも、もう飽きて来たのか、言い方がおざなりになってきている。
「文科省から多額の補助金を供与しているんだから、報告の義務があるに決まっているでしょ。……なるほど、十月二日、いにしえの宿、伊休、ね。内宮のすぐ近くなのね。高校生にしてはいいとこ泊まっているじゃないの」
「そうですか?」
「補助金、減額しちゃおうかしら」久遠寺は校長が聞いたら卒倒しそうなことを言った。
「そう言えば」と、有畑が口をはさんだ。
「そこの──後ろのカレが何か知っているようなことを言ってなかったか?」
そう言われれば、呉場が何か言っていたな。確か、見当がついている、というようなことを。
「そうなの?、君が?」と、久遠寺は後ろ座席の呉場に向かい合うように、思い切り体勢を変えた。
痛い、痛い! あ、久遠寺の脚が! そこはダメだ!!
「あっ!」と、久遠寺が悲鳴のような声をあげた。悲鳴を上げたいのはこっちだ!
「あいつが来ているわよっ!!」
僕はあわててサイドミラーを見た。いつの間にか、あの白い巨体がはっきり見えるまでに近づいていた。走る、というより、跳んでいるようだった。巨体が道路に着地する度にアスファルトの破片と埃が舞い上がる。
「ねえっ!!」と、テンコの声がした。
「あいつ、速くなっている気がするんだけど!」
「なんなのよ、あいつは!」久遠寺はそう呟くと、再びタブレットをいじり始めた。
「総務省、警察庁、……防衛省はまだ動いていないみたいね」
「なんだ、それは?」と、珍しく有畑が感心を持ったようだ。
「国内機関のあらゆる通信──、電話、FAX、メール、データ、パケットのやりとり数をリアルタイムで表示しているの」
「そんなことまで、文部科学省は管理しているのか?」
「管理って言うか、手に入っちゃうって言うか。ま、日本におけるテクノロジーで文部科学省の息のかかってない技術なんてあるわけないでしょ」
そんなことより──、と、久遠寺が呟いた。
「妙なところが騒がしいわね」
「妙なところ?」
「妙なところが騒がしいと言っても、この子の騒がしい妙なところじゃないわよ」
……思い出したように言われた。
「神社本庁。昨日は、式年遷宮のメインイベントの日だから、不思議は無いんだけど……。妙だわ、深夜を過ぎてから急激に通信数が増えている……。
神社本庁はもとをたどれば国家機関のひとつだけど、現在は宗教法人にすぎない。宗教法人としては私たち文科省の管轄だけど、それらしい報告は何もあがって来てないわね」
「ねえっ! すごくやばいと思うんだけどっ!」
テンコの切迫した声に、どうなっているのかこの目で確認したいのだけれど、振り返るどころか、身体がまったく動かない。
だが、その時、有畑は別の──前方の異変に気が付いたようだった。
「なんだ、あれは?」
首だけはかろうじて動かすことが出来たので、なんとか前方を見た。丁度、僕たちの車の頭上を「四日市JCT五百メートル」の表示が過ぎて行くところだった。
前方には、パイロンの赤い灯りの列が並び、ジャンクションの降り口は、屋根の上にLEDディスプレイがついた装甲車両で塞がれていた。ディスプレイには矢印が繰り返し表示されている。さらに、機動隊のような恰好をした、防弾チョッキを付けて盾を持った男たちが、列をなして道路沿いに立っていた。盾には、どういう意味なのか分からないが、「神特」と書かれていた。
神特、って何かしら、と、久遠寺が呟いた。
「ねえ、ねえ、ねえっ! 急いで、急いで、急いでーっ!!」テンコが必死の大声で叫んだ途端。
有畑は逆に急ブレーキを踏んだ。タイヤが軋み、一瞬、久遠寺の体重から解放されたが、その後はより一層の力でシートに押し付けられた。
「ひゃあああっ!!!」
聞いたことも無いテンコの悲鳴が聞こえた次の瞬間、スピンする車のすぐ横を、恐ろしい振動とともに怪物が通り過ぎた。
僕たちの車を追い越した怪物は急停止しようとしたが、あまりの速度で走っていたために、止まりきれなかったのだろう。無理に止まろうとした脚はアスファルトを砕きながらめり込み、ついにはもつれてバランスを失った。怪物が地響きをたてて転がると、高架の自動車道は吊り橋のように揺れた。
白い巨体は、装甲車を押しつぶした。怪物は、「東名阪道 名古屋」と書かれた方に転がっていくと、その勢いのまま横の土手に衝突した。
跳ね返った白い巨体は、中央分離帯を押しつぶしながら転がり続け、車線を越えると防音壁をなぎ倒しながら自動車道の下へと消えて行った。
後には、土ぼこりだけが残った。
「……死んだ?」と、久遠寺がぽつりと言った。
「いや」有畑の答えは素っ気ない。
その時、目の前に光の柱が出現した──。
上編了。
市街地、特に日本の木造家屋を壊すなら、5メートルぐらいのサイズの怪獣が丁度いいな(『大魔神』は良かったなあ)と思って書き始めたのが最初です。
元の元は、学生時代に自主映画を作ろうと思って書いた短編シナリオ。
小説化にあたって、自由気ままに、大いに膨らませてみました。
樋口さん、映画化してくれないかなあ。文化庁の助成も文部科学省推薦も絶対無理だけど。
是非、下もお読みください。