第4話「おっさん魔術師の家」
廃ビルの中にはいると、アルツェンは言葉を失った。扉を抜けた途端目の前には鮮やかな花が一面に咲き乱れている。石造りの小道が足元から数メートル先まで続いており、二人はその道に従って歩いていく。目の前は少々霞がかかっているが、次第に視界が広がっていった。開けた視界の先に花畑の中に2階建ての家がポツンと建っているのが見えた。「あれが俺の家だ」とジークは指を指してアルツェンに教える。家の正面に到着し、ジークが取っ手に手をかけた。獣の扉ではなく、一般的な玄関だ。玄関を開けると、また目を疑うような光景が広がった。アンティーク調の家具が所狭しと並び、白く雪のように美しい壁、鏡かと錯覚するほどに磨かれた綺麗なフローリングが眼前に広がっている。
「あれ? 僕廃ビルの中に入ったんだよな?」
困惑するアルツェン・シュバイツァー。「もしかして自分は幻覚を見ているのではないだろうか、まさかさっきの魔獣の咆哮の影響で幻覚を見ているのかもしれない」と推測を立てたがどれも違った。
「むしろこっちが本物だぞ、アル。外のは全てカモフラージュのためにこのビル周囲に幻術をかけてあるんだ」
まるでアルの心を読んだのかのようにジークは答えた。
そもそも幻術系は視覚に影響を与えるのが主な魔術系だ。嗅覚まで支配していたとは並みのものではない。
アルツェンは状況の変化の激しさに少し体調が悪くなっていた。魔獣に襲われたり、魔術師に殺意を向けられたり、この家のことだったり、短時間で数週間分の疲れをどっと浴びたような気分になった。
「あの、大丈夫?水でもお持ちしましょうか?」
柔らかな女性の声が聞こえた。背中をさする手がとても優しく、暖かい。
フゥとゆっくり息を吐いて、心を落ち着かせる。
「あ、ありがとうございます」
お礼を言いながら後ろを振り向くとそこには獣の耳を持ち、褐色の肌をした端麗な容姿の女性が心配そうな目でこちらを見つめていた。彼女の視線はアルツェンの隣へ動く。
「あら、ジーク、お帰り」
「ああ、ただいま。アリアネ、こいつがこないだ話した俺の弟子となる魔術師、アルツェン・シュヴァイツァー君だ。アルと呼んでくれたまえ」
「そうだったの、よろしくね、アル。私はアリアネ・ルートヴィヒ。アリアネでいいよ。ここでジークの仕事のお手伝いをしているの」
「あ、よろしくお願いします。アルツェン・シュヴァイツァーです」
「アリアネ、私とアルに何か温かい飲み物を持ってきてくれないか。特にアルは道中トラブルがあってな、とても疲れているんだ。甘いものもついでに持ってきてほしい。仕事部屋にいるからそこに」
「はーい」と言い残しアリアネは別の部屋へ行ってしまった。アリアネ・ルートヴィヒ。ジークと同じ名字である。アリアネの身体的特徴、つまり獣の耳を持っているということは彼女は亜人であるということだ。亜人は人間の両親から産まれることはない。亜人は人間の進化過程の分岐点で産まれたと言われている。昔からその数は増えることも減ることもなく少数のまま一定であるとされる。亜人が出現した原因には、一説に、魔力をもった原人がより自然界に優位に立つために自らの遺伝子を再構築したからと魔術世界では定義されている。獣の力を持ちながら人間としての知能を持つ完璧な生物となろうとしたのだろうと。その進化の代償に、生殖には亜人同士でなければ子供が産まれなくなった。
「師匠、アリアネって亜人ですよね? 師匠の……子供、ですか? でも人間から亜人は生まれないし、それとも奥さん?」
「ははは、アリアネは私の娘だよ。ちょっと訳ありだがね」
ジークはさっとこの話を流した。家庭の問題に他人が介入するのも野暮だしこのままそっとしておこうとアルツェンはこの話題を口にすることを終わりにした。
「さあ、ここが仕事部屋だ」と師匠は部屋のドアを開けた。中は本棚で壁一面が埋め尽くされ、長テーブルを挟んで黒いソファが2つ、奥にはジークのものと思われる専用の机と黒いチェアが置いてあった。
「ソファに座って少し休むといい」
アルツェンはお言葉に甘えてソファに座った。体がゆっくりと沈み込んでいくのを感じる。凄く気持ちのよいソファだ。部屋を360度見渡してみる。知らない人の家に行くと色々と気になるものだ。
「しかし、凄い蔵書数ですねこの部屋、一体なんの本なんですか?」
「ああ、それ全部魔導書だよ。アルの家にもあるんじゃないか?」
「え? これが全部魔導書!?」
魔導書とは文字通り魔を導く書、すなわち、魔術の習得に必要なアイテムである。魔術系の家にはその家系に特化した魔導書が置かれていることが多い。せいぜい50冊から100冊程度が相場であろう。それ以上は持っていても使いこなせないからだ。
「大体この部屋だけでざっと300以上はあるかな」
(300以上ってどういうことだ? この人はつまり300以上の魔術を使えるということなのか? そもそも1冊入手するのにも相当な苦労をするといわれているのに一体どうやって)
「師匠、その魔導書って……」
アルツェンが話し始めた時、窓ガラスがコンコン、コンコンと叩かれた。
「おっとすまない、アル。ちょっと待っててくれ」
ジークは立ち上がり窓開けると、部屋の中に紫色の鳥が入ってきた。
「イライショー!イライショー!」
「うわっ、この鳥もしかて魔獣?」
急に喋ったのだからアルツェンは声を上げて驚いてしまった。それにしても今日は心臓に悪いことが多い。今日だけでどれほど寿命が縮んだことか。
「今日は中々早かったな、ごくろうさん」
師匠は鳥の右足に巻き付いている紙を取って鳥を外へ帰した。
すまない、さっきの続きをどうぞ、と師匠に促される。
「……おほん。それでですね、あれ、何を言おうとしたんでしょう?」
先ほどの鳥の所為ですっかり言いたいことを忘れてしまったのだ。
「ん? なんだ、明日からの予定でも聞きたかったんじゃないのか? そうだな、勿論俺と共に魔術の修行をして、魔術師として一流になってもらう。ただそれだけだ。ただそれだけだがこれは非常に過酷だし、覚悟が必要だ。まあ、ここにいるってことは覚悟もできてるからなんだろうけどな」
ジークが話し終わると同時に、ドアを3回叩く音が聞こえてきた。ドアが開くと、赤いエプロンを着た亜人の女の子アリアネが入ってきた。
「失礼します、二人にコーヒーとバウムクーヘン持ってきたよ」
「おお、ありがとうアリアネ」
ジークは直ぐにバウムクーヘンを手に取り、口へと運んだ。
「うんうん、今日のバウムクーヘンも美味しいよ」
誉められたアリアネは本当に嬉しそうな顔をしていた。「ほら、アルも食べて」と嬉しそうな顔のままバウムクーヘンの乗った皿を渡された。丁度腹が減ってきた頃合いだったのでアルツェンも「いただきます」と口に入れた。うまい。本当に美味しいバウムクーヘンだ。アルツェンの住んでいた町にも雑誌に特集を組まれるほどのバウムクーヘンの有名店があったがそれよりも遥かに甘さも、焼き加減も全てを凌駕していた。
「アリアネ、これ本当に美味しいよ。お店開けるんじゃないか?」
アルツェンがそう言うとアリアネは更に顔を赤らめて「流石に言い過ぎ」と恥ずかしがっていた。