四月バカと五月病
作品に出てくる片耳難聴の症状は、作者の経験と難聴をハンデでは無くラブチャンスに変えたいという創作意力で出来てます。
片耳難聴である全ての方に当てはまる訳ではありません。
ご了承下さい。
それから、データが飛んだ?みたいなので再投稿です。
突然起きるそれは、まるで何かの発作のようだ。と篠ヶ瀬優乃はぼんやりとした頭で考えていた。
強い自己嫌悪と虚無感。全部を投げ出して泣いてしまいたいのに、思うようにはいかない。
【聞け、聴けない。聴こえない。】
先天性の片耳難聴者である優乃が、どうしても越えられない壁。
日常生活に支障をきたさないとされる片耳はきっと。健常者や障害者と呼ばれる人達の、そのどちらにもなれないのだ。
カーテンを閉めきった自室の昭明がチカチカと点滅しながら、その下でうずくまる優乃にそろそろ電池切れだと告げる。時刻は、午後4時。
桜が散った、5月の半ば。
優乃の今の気分と相反するかの如く綺麗な青空は、暫くこのまま変化することはないだろう。
そんなカーテン越しの空から世界が反転したような寂しい部屋で、優乃はひとりうずくまっていた。
握りしめたのは、白いイヤホン。
片側だけプツリと切れたそのデザインは、「元からこういうデザインだ」と言いきるには、少しばかり不自然過ぎたかもしれない。
先程優乃が自分で切り落としてしまったカナル型イヤホンの片割れが不自然に床に落ちている。
まるで殺人現場さながらのその佇まいに、じわじわと罪悪感が胸に迫る。
何故だかとてつもなく悪いことをしてしまったような気分だ。
なんかこう、法に触れる感じのヤバイやつ。
冷や汗が優乃の頬をやけにゆっくりと伝う。
混乱したまま熱の覚めない頭は、必死に現実逃避を繰り返す。
じゃじゃじゃーん、と某サスペンスドラマのサウンドトラックがなった。
それは、すっかりと耳に馴染んだはずの優乃の携帯の着信音なのだか、余りのタイミングの良さにそれだと気付くのに時間がかかった。
携帯…、どこだっけ。
とりあえず前へと伸ばした手にあっさりと収まった携帯の着信ボタンを押した。
「……壮? 」
一 壮 ニノマエ ハツキ。
優乃の家の隣に住む幼馴染みからの着信であった。
何、と言いかけた優乃の声に重ねるように壮が一言。
「風邪でもひいたのか? 」
「……え? 」
開口一番の想いもよらない一言に、優乃は首をかしげた。
だがそれと同時に、いつも通りに主語が足りない壮のしゃべり方に少しだけ安心感を覚えた。
沈黙を肯定と捉えたのか、壮は電話越しにペラペラとまるで、最初から分かっていたとでも言いたげな台詞を並べる。
また髪乾かさないで寝たんだろ。
優乃が風邪ひくなんて珍しいな。
熱は?計ってないんだろ、どーせ。
……正直、余計なお世話である。
がしかし、今さら違うとは言いずらい雰囲気に優乃は適当に返事をして電話を切った。
後で携帯の充電が切れたとでも言い訳しておこう。
溜め息がまたひとつ、増えては消えた。
何だったんだ、ともう一度携帯に目を落とす。するといつの間にか、優乃の携帯には大量の着信履歴が。
それも全部、壮からのだ。
まさか、とカレンダーを振り返れば今日は土曜日。
壮の実家である理容店に行く約束をしていたのを思い出した。
約束の時間は、午後1時。
今の時間は、午後4時。
ああ……。
ようやく全てを悟った優乃は、大人しく風邪をひいたふりをする事を心に決めた。
それから約10分後。
予想通りに壮が我が家へと見舞いにきた。
そう。風邪をひいたふりをした優乃の見舞いに、だ。
優乃の良心が、罪悪感でチクチクと痛む。
壮は、何やらビニール袋を手に優乃の部屋へと入ってきた。優乃は少しでも病人に見えるようにと、マスクをして布団に入っていた。
チクチクチクチク。
壮が優乃へと近づけば近づく程に、罪悪感はチクチクとその存在を主張した。
チクチクチクチク…。
「優乃さぁ、やっぱり風邪ひいてないだろ。」
そして、着いたとたんにこの台詞である。
もしも優乃が後ろ向きで寝ていなかったなら、確実にばれてしまっていただろう。
びくりと肩が跳ねるのを無理矢理押さえつけて後ろを振り向く。そして。
「壮? なんだ、居たの。入るならノックくらいしなよ。」
聞こえなかった、と少し拗ねたように起きあがって見せた。
……とんだ嘘つきだ。
本当は全部聴こえていた癖に。
特に壮は片耳の優乃にも聴こえるように、とやたら大きな声でノックする癖がある。
聴こえない訳がないのだ。
壮は少しだけ目を丸くした後、ああ…なるほど、と小さく呟いた。
「確かに。風邪はひいてないよな。……疲れた? 」
今度は、優乃が目を丸くする番であった。
お、当たった。と心底嬉しそうな壮の手が、優乃の頭をわしゃわしゃと撫でる。
優乃は、まるで犬にするかのような撫で方をする壮の手を叩き落とした。
「うるさい、ばーか。」
自身の顔が赤くなっていることに気付いた優乃は、行き場のなくなった目線を泳がせた。
何で気付くかな、もう。
ちぇっ…。優乃は、また小さく悪態をついた。
生まれた時から片耳なせいで人よりも他人の声が遠い優乃は、聴くという何気ない動作にさえ、かなりのエネルギーを浪費してしまう。
片方だけ中途半端に聴こえる片耳難聴は、決して障害ではない。
これは、国の定めている法に由来する。
そんな優乃のような片耳は理解が難しく、【聴こえない事を聴け】と要求されることが多いのだ。
だから優乃は基本、天然でいつもぼーっと人の話を聴いていないようなキャラをつくる事が多い。
テキトーに笑って、誤魔化して。
誤魔化して、誤魔化して、また誤魔化して。
誰も気付かないと思っていたのに。
誰にも気付かせないつもりだったのに。
「違うのか? 」
「……違くない。」
わざとらしくそう聞いた壮に、優乃は観念したようにそう呟いた。
こんなの、壮だけだ。
壮以外の人になら、テキトーに合わせて良い人を演じて居られるのに。
片耳が聴こえないせいで聞き間違いの多い優乃が見つけた、この世の一番楽で正しいと思える生き方だったのに。
壮なら、全てを分かってくれるような気がして。
壮にだけは、分かってほしくて。
分かれよ。って、あからさまに悪態ついて。
ばかだなあ、私。
なんて、めんどくさい。
そんな気持ちを押し隠すように、優乃はまたひとり、噛みしめた唇に力を込めた。
「んー……。ほら、5月だしな。」
5月病だろ。
長い長い沈黙の後で、壮はまた優乃を置いて、あっけらかんと笑う。
そして持ってきたビニール袋を開けて、お見舞いだと優乃に渡した。
それは、期間限定の和菓子。
淡い桃色の配色は、桜をモチーフとしている。
「5月はまだ無くせなくても、4月の気分でいることはできるぞ。」
そのうち俺が無くしてやる。とドヤ顔でふんぞり反る壮はやはりばかだった。
4月ばか、と優乃は思う。
そんな優乃の心の声が聞こえたのか否か、俺の名前は8月だけどな。と壮はニヤリと笑う。ハツキで8月。単純明快。
どうしよう。本当にばかかもしれない。
だって、5月は。
「5月は、壮の誕生月じゃんか。」
無くなったら困る。と優乃は壮に聴こえないように小さく呟いた。