伝承の始まりは涼風と共に
「それでは、皆さん。どうかお元気で」
盗賊達を捕縛した夜から、瞬く間に日々は過ぎて、旅立ちの日を迎えた。
アリアは村で物を売買し終えた商人の馬車に同乗させてもらうことになり、コルット村から一番近い町のルキスの町に向けて旅立つ。
穏やかな村での生活に名残惜しさも感じるが、アリアはもっと多くの世界を見て回りたかったのだ。
「アリア姉ちゃん……」
「フォルテ君。いつか君が旅立つ日まで、故郷での時間を大切にね」
涙目で見上げてくる少年の頭を撫でて、アリアは柔らかく微笑む。
彼が冒険者となる時は、今のアリアのように見送られて旅立つことになるのだろう。その遠いようで近い未来を思うと、その時この場には居ないだろうアリアにも感慨深いものがあった。
もしかしたら旅先で、冒険者となった彼と出会う日が来るのかもしれない。可能性は零ではない。本来は人間領に訪れるはずのなかった自分がこうして、人間である彼らと出会うことができたのだから。
「……達者でな」
「ロバートさん、貴重な知識をご教授していただき、ありがとうございます。
冒険者ギルドへの紹介状も、ありがたく使わせていただきます」
約束していた通り、ロバートからは今日までの間に様々なことを教わった。硬貨の価値と一般的な相場に、狩りのコツや旅において気をつけるべき注意点。
他にもいくつかの剣技や、弓の扱い方も教わった。剣技はロバートが冒険者として培ったもので、弓は村で狩人として働く間に身につけたそうだ。
身分証明のために冒険者ギルドへの登録を勧めてくれたのも彼だ。身分が一切証明できない旅人というのは、どうしても疑いの目で見られてしまうらしい。
ルキスの町のギルドマスターとロバートは知人の関係にあるらしく、紹介状を書いてもらえた。これを提出すれば、何も持たずに登録に向かうよりギルド側の心証はかなり良くなるだろう。
「アリアさん、私達のことを助けていただいて、本当にありがとうございました!」
「シルフィさん。こちらこそ、毎日おいしいご馳走をありがとうございました」
頭を深々と下げるシルフィに、アリアは心からの感謝を伝える。
シルフィが毎日腕によりをかけて用意してくれた食事は、今まで食事に興味を持てなかったアリアの価値観を大きく変えてくれた。
これからの旅路の中で、行く街々で食べる食事が楽しみでしょうがないくらいに。
「アリア様……我らに授けてくださった宝珠は、村の宝物として代々守り続けていきますじゃ」
「そうしていただけるなら嬉しいですが、何より貴方達自身の平穏を守ってくださいね。そのための魔道具ですから」
結界の魔法術式を施した水晶玉は、アリアの魔力に染まり黄金の輝きを放つようになっていた。
それをブラウ村長に手渡した際は感激されて、また拝まれてしまい戸惑ったものだ。
「では、名残惜しいですがそろそろ……皆さん、お世話になりました!」
余所者である自分を受け入れてくれたコルット村の人々に感謝の言葉を告げて、アリアは馬車に乗り込んだ。
馬車の隅には生け捕りにされた盗賊達が全身を縛られて、口と目も塞がれている。無詠唱で魔法を扱える者でもなければ、逃げ出すことはできないだろう。
他にも商人がコルット村で仕入れた品が詰め込まれた木箱が積まれている。こうして町と村で物を循環させることで、この商人は生計を立てているらしかった。
「ではお客様、出発していいですかね?」
「はい。よろしくお願いします」
御者を務める商人がアリアの返事を聞いて馬の手綱を引くと、馬車がゆっくりと進み始める。
馬車の荷台を覆う帆の向こうから村人達の声が聞こえて、アリアは商人に一言断りを入れて馬車後方の帆を少し開く。
村人達は総出で、アリアの乗る馬車に向けて手を振りながら思い思いに別れの言葉を叫んでいた。
やがて、彼らの姿は遠ざかっていき、緩やかな丘を越えた頃にはもう村の様子は見えなくなっていた。
旅立ちを祝福するかのように、心地の良い涼風が吹いている。草木を揺らし、花の香りを運んでくる穏やかな風だ。
いつまでもその風を感じて和んでいたかったが、気持ちを切り替えようと帆を閉めて、アリアは座りやすい場所に腰掛ける。
御者台の方を見やれば、馬車の行く先にはなだらかな草原地帯が続いており、どこまでも広がる緑丘の中に作られた一筋の土の旅路が真っ直ぐに敷かれている。
轍を刻みながら進む馬車は、アリアをまだ見ぬ町へと導くだろう。その後は、また別の町や都へと、風の往くままに旅をするのもいい。
これから始まる冒険の日々に思いを馳せて、アリアは胸を躍らせた。一生味わうことがないだろうと諦めていた物語のような旅の日々が、これから始まると思うといつになく気分が高揚する。
魔族領からの出立の日とは違い、アリアの黄金の瞳には涙ではなく未来への希望が輝いていた。
〇
アリアが馬車に乗り込む少し前。
コルット村の近くに、ひとつの物陰が現れた。
「ク、クリュ~……疲れたのでクリュ……」
ふわふわと宙を漂っていたその物影は、疲労の滲み出るような声を漏らして地面に落ちる。
それは猫に似ていた。その背中に小さな翼を生やして、額に身体と一体化した赤い宝石が輝いていなければ、普通の猫と代わりはないだろう。
「どこにいるんでクリュか、アリ、ええと……アリさん? いや、アリアさん!」
その生物は、魔王よりアリア捜索を命じられた者の一人だった。
傍目には猫にしか見えないその姿から、人間領に忍び込むには好都合と判断された者の一人だ。
仲間はいない。人間領に入り込むまでは一緒だったのだが、捜索の手を広げるために別れたのだ。
発見した場合には魔法通話で連絡を取り合う手筈となっているが、どこを探せばいいのか検討もつかなかった。
「……ん? なんだか騒がしいでクリュね」
人間の声に気付いて顔を上げれば、村の入り口に馬車が停まっていた。
その周囲には村人達が集まって賑わっており、その騒ぎの中心となっている人物は――。
「あ、ああああ! アリアさん、見つけたでクリュ!」
――探していた、アリアの姿に違いなかった。
捜索隊に預けられた人相画と見比べても間違いはない。そう喜ぶのも束の間、アリアは馬車に乗り込んでしまう。
駆け寄るよりも早く、馬車は早々に進み始めてしまった。その歩みは自分の駆け足よりも断然に早く、見る見る遠ざかっていくことに生物は焦った。
「そ、そこの馬車! 待ってほしいのでクリュ~!」
翼を仕舞いこみ、急いで駆け出す。人間の近くでは翼を出さないことと言い含められていたために、飛行せずに走って追いかけるしかなかった。
そもそも普通の猫は喋らないため、翼を隠していたところで人間達には目立ってしまうのだが、それを指摘するものはおらず、その猫の叫び声に気付く者もいなかった。
村人達は草原を駆け抜けていく一匹の黒猫を目撃することになるが、ありふれた光景であるために気にも留めず、去っていく馬車に向けて手を振り続けていた。
黒猫は駆ける。ようやく見つけた探し人の姿に追いつこうとして。
黒猫は駆ける。仲間に魔法通話を送ることも忘れて必死に。
駆けて、駆けて、駆け続けて――。
「……み、見失ってでクリュ~!」
馬と猫ではあまりに歩幅が違いすぎて、追いつくことなく馬車の姿を見失ってしまう。
どこまでも広がる青空と草原に、黒猫の叫びが空しく響き渡った。
〇
後の英雄アリアの旅路は、このようにして始まりを迎えた。
彼女の行く末には幾千もの冒険と困難、そして幸福と栄光が待っている。
未来を知らず、それでも心の赴くままに進む彼女が綴る英雄譚はどのような結末で幕を下ろすのか。
それは、これから紡がれる物語の中で語りたいと思う。
願わくば彼女の成した数多の伝説が、遥か遠い未来にまで語り継がれんことを。
黄金の英雄アリア 序章『希望の光は辺境に灯る』より抜粋。