少女は天の使いを名乗らない
タイトルを「天の使いやあらへんで」にするか少し迷いました。
「……シ、シルフィ!?」
ふと聞こえた叫び声にアリアが顔を上げると、老婆が必死な様子で歩いてくるところだった。
老婆は杖をつきながらも、懸命に足を動かしている。急ぎたい様子は伝わってくるのだが足腰が弱っていて走れないのだろう。その歩みは遅く、老婆が自分達の元に駆け寄るよりも、アリアが村の入り口に辿り着く方が早かった。
人間の女性を背負ったままで森を抜けたアリアは、最初に上空から見つけていた村へと辿り着いたのだ。
どうやら老婆は、アリアが背負った女性の知人であるらしく、先程から彼女のものと思われる名前を呼びかけている。
「彼女は森で気を失っていました。休ませてあげたいのですが、どこかベットは空いていますか?」
早くこの女性――シルフィという名前らしい彼女を背から降ろして休みたいアリアは、老婆に尋ねる。
老婆としても見知らぬ旅の者を村に入れるのは不安かもしれないが、老婆に成人の女性を担げるとは思えないし、地面に降ろして立ち去るというのもよろしくない。何よりそれではアリア自身が休めない。
なので老婆が渋っても何とか村に入りたいと考えていたのだが、アリアの予想に反して老婆は「こ、こちらへ!」とまるでためらう様子もなく歩き始めた。
「すぐ近くに彼女の家がありますから、案内します……! ごほ、ごほ……!」
急いで話そうとして咳き込んだらしいが、老婆は苦しそうな息を整えるよりも一歩でも前へと進んでいく。
自分のことよりも、家に案内することを優先するその様子に、アリアは驚いた。
人間とは身勝手で、時には同胞で騙しあい、殺し合う。そんな愚かな種族であると教わっていたからだ。
過去の魔族とて欲望を満たすためになら身内とでも殺し合うことはあったらしいが、それは決闘や戦争など互いの誇りを賭けた闘争であり、人間のように無抵抗な女子供まで殺すような畜生とは違うのだと教えられてきたのだ。
だが、知人の身を案じて、震える身体を必死に動かして歩く老婆の姿は、伝え聞いたような愚かな種族のそれとは思えなかった。
今まで学んできたことは何だったのか、と疑問に思いながらもアリアは老婆の案内に従い歩を進めた。
やがて見えてきたのは、木材で形作られた素朴な家であった。質素な作りではあるが、見渡せば周囲の家も似たようなものであり、この家が特別に貧乏というわけではないらしい。
「……だれ? シルフィ姉ちゃんなら森に出かけたよ」
老婆がドアをノックすると、しばらくして幼い少年の声が扉越しに聞こえた。どうやらシルフィと呼ばれた女性の身内らしい。
「わしじゃよ、村長じゃよ! 姉ちゃんが倒れとったんじゃ! 早く開けておくれ!」
村長を名乗った老婆が叫ぶと、がちゃがちゃと鍵を外す音が響いて、少年が「姉ちゃん!?」と叫びながら飛び出してきた。
不安そうに女性を見る少年に、アリアは安心させるように微笑みかけながら話しかける。作り笑いは婚約者としての教育で慣れていた。
「気を失ってるだけだよ。ゆっくり休めば大丈夫。ベットに案内してくれるかな?」
「う、うん! こっちだよ!」
慌てながら走っていく少年を追いかけて、アリアも歩を進める。
幸い彼女までは階段などもなく、入り口から程近い場所だった。
シルフィと呼ばれた女性をゆっくりベットに横たえる。シーツは多少汚れてしまうが、後で洗濯すれば十分に落ちるだろう。
改めて容態を確認してみるが、外傷はなく呼吸も落ち着いている。おそらくは過労が原因で疲れ果てていたのだろう。
しばらく安静にしていれば回復するだろうが、念のためにとアリアは魔法を唱えた。
「生命の息吹を呼び戻したまえ……“ヒール”」
アリアが子供の頃から使える、初級の回復魔法だ。活力を取り戻した上で取り乱されたら面倒だと思って回復魔法を唱えるのは後回しにしていたのだが、ここまで背負う労力を考えたら森の中でさっさと唱えて、逃げられたら捕らえて村に案内させてもよかったかもしれないとアリアは今更ながらに思った。
淡い魔力光が生まれ、呪文に応えるようにシルフィの身体を包み込む。
見る間にシルフィの顔色が良くなっていき、その効力に驚いたのは唱えたアリア自身であった。
ヒールはあくまで初級の回復魔法であり、ここまでの効力はないはずだ。魔族領で鍛錬していた頃でも、このように急速に効果が現れたことはない。
しばし思考に耽り、思い至ったのは魔族と人間の生命力の差であった。
一般的な魔族の生命力が10とすれば、人間のそれは1くらいなのではないだろうか。
そしてアリアの唱えた初級魔法が生命力を2程度回復させるとすれば、魔族にとっては僅かばかりの応急処置に過ぎなくても、人間にとっては絶大な効力を施すのかもしれない。
あくまで仮定でしかないが、それほど的外れでもないはずだとアリアは思った。
「ね、姉ちゃんって魔法使いだったの!?」
声に振り返ると、少年が目を見開いてアリアに問いかけていた。
「まあ、本職には劣るけど嗜む程度にね」
嘘ではない。魔族領で魔法は基礎から応用まで指導されたが、本職の魔法使いと比べればまだまだ至らぬ点が多い。
とはいえアリアの言う本職とは王宮勤めの熟練の魔法使い達を指したものであり、同年代の中では群を抜いた優秀さで学園でも入学から卒業まで主席を保ち続けていた。
アリアの年齢を考慮すれば、その魔法の実力は十分過ぎるものである。
何より、本職に劣らないというのも魔族領での話であり、人間達とは比べ物にならない実力差があるのだが、アリアはまだそれを知らなかった。
「……姉ちゃん、いえ、魔法使い様! お願いします、村のみんなを助けてください!」
少年は意を決したかのように叫ぶと、床に平伏して座礼を行った。俗にいう土下座である。
何事かと思いながら老婆を見ると、彼女もまた少年に続くように平伏していた。
「シ、シルフィを助けていただいた貴方様にさらに縋るは無礼とは存じますが、何卒、何卒! 村の皆をお救いください……!」
アリアは、強者に縋る弱者という図は好ましく思わない。幼い頃に周囲の環境という強者に屈して、言われるがままに感情を押し殺し続けてきた自分の人生を思い出してしまうからだ。
だが、少年と老婆が必死に縋りついてくる様子は、見ていて不思議と不快に思わなかった。
それはおそらく彼らが自分のためでなく、他人のため、家族のため、身内のために懸命だからだろうとアリアは思う。
魔族が人間を助けるなんておかしいのかもしれないが、アリアはその思考を切り捨てた。
私が助けたいと思ったから、助けよう。種族の違いなんて知ったことか、と。
これからは自分勝手に生きてやると決めていたアリアは、感情のままに「目の前の人達を助けたい」という己の欲望に従うことにした。種族が違うとか、そうしてやる義理がないとか、そんなどうでもいい理由で自分の欲望を抑え付けるのは、過去の魔族達の価値観から言えば軟弱者の思考である、と自分なりに解釈して。
「ひとまず、詳しい話を聞かせていただけませんか?」
アリアがそう伝えると、二人は顔を上げて、嬉しそうに表情を綻ばせた。
〇
事情を聞いたアリアは、ひとまず原因不明の病に伏せているという村人の様子を見て回ることにした。
手始めにと案内されたのは、シルフィの父親の寝室だった。村一番の狩人であり、男手一つで家族を養ってきたという彼は、しかし病に倒れてからは生気を失い、一日のほとんどを眠って過ごしているという。
時々意識を取り戻すものの、ベットから起き上がることも困難な程で、無理に動こうとすれば立っていることもできず倒れてしまうらしい。
他の村人達も似たような症状で、村に古くから住む医者もこのような病は知らないそうで、対処できないまま村全体に病魔が広がっているようだ。
感染の対策を施して閉じこもっていた者にも発症するため、どうにも手がつけられないと村長は嘆きながらこれまでこの村で起こったことの詳細を語った。
幸いまだ死者は出ていないらしいが、このままでは遠からず村が全滅しかねない。
病で死なずとも、生活の糧となる水も食料も調達できなくなれば、餓死していくのを待つだけとなってしまうだろう。
「村にある薬は色々と試したのですが、成果は上がらず……最早、どうすればよいのか……」
老婆の説明を聞きながら、アリアはシルフィの父親を観察する。
ロバートというその男は、本来なら屈強な肉体を持つ逞しい狩人のはずだが、今はやつれており見る影もない。
今は意識を手放すように眠りについており、その寝息もとても苦しそうなものだった。
原因不明のまま、死に至る病。村長がそう語ったが、しかしアリアの見立ては違っていた。
彼を、そしておそらくはこの村を襲っているのは病魔ではない――瘴気だった。
瘴気とは、魔族領には空気のように漂っているものであり、魔族にとってそれは糧となるものだ。しかし人間にとっては毒となるらしく、人魔大戦においてもこの瘴気により人間側の侵攻は大幅に妨げられたという。
アリアが国境を越えた際、人間領には瘴気は感じられなかったのだが、ロバートから感じ取れるのは確かに瘴気のそれであった。
何故人間領に瘴気が存在して、それが人間を冒しているのかは分からないが、これならば彼らを助けるのは簡単なことだとアリアは内心で喜んだ。
ロバートの力無く横たわる手を、アリアは両手でそっと掴み取る。
繋げた手を通して瘴気をゆっくりと吸い出していけば、ロバートを冒していた瘴気が黒い靄となって目に映り、アリアの中へと導かれていく。やがてロバートの寝息は落ち着いたものとなり、その顔色も幾分良くなってきた。
失われた体力は時間をかけて取り戻していく必要があるが、今は“ヒール”をかけてから安静にさせて、目が覚めたら食事をさせればじきに回復することだろう。
一連の処置を行ったアリアが振り向くと、老婆は「おお、おお……!」と感歎に声を震わせており、少年は瞳を輝かせてまっすぐに見つめてきていた。
「これなら、そう手間も掛かりません。他の方の場所にも案内していただけますか?」
彼らに向けてアリアが微笑みを作ると、二人はとても喜んだ様子で、次の病人の元へアリアを案内しようと動き始めた。
〇
その光景はとても神秘的なものであったと、老婆は後に村人達へ何度も話して聞かせた。
黄金の髪と瞳を持つその少女が、病魔に冒された者の手を優しく掴み取り、祈るように目を閉じると、床に伏した者の身体からは黒く恐ろしい靄が現れて、少女の身体へと吸い込まれていく。
自身がその黒い靄に冒されているというの躊躇うこともなく、少女は掴んだその手を決して離さずにいた。
やがて、黒い靄が村人の中から消え去ったのだろうか。先程まで魘されていた者が安らかな寝顔を浮かべるのを見届けると、少女はその者に癒しの魔法を唱える。
その魔法を唱える際に生み出される黄金の輝きは、この世のものとは思えぬ美しい光で、時が過ぎても鮮明に思い出せる程だ。
黄金の光を纏うその姿は、御伽噺に伝え聞く天使の様であった。
少女は、老婆が「貴方は天使様であらせられますか」と尋ねても否定した。自分はただの旅人である、と。
されど、自身が穢れることを気にも留めず、死に瀕した村人達を救い、優しく微笑むその姿はやはり天使のようであったと、老婆は遠い未来で天寿を全うするその日まで村人達に伝え聞かせていた。
その遠い未来の、さらにその先まで、村の平穏は末永く続くのであった。