第一村人は森の中
魔族領と人間領の境目には、人間側が築いた関所が存在する。
関所自体は百年前の人間と魔族の大戦の時代に建設されたそうで、既にかなりの老朽化が進んでいる。
しかし魔族側からの侵攻はこの百年間行われておらず、人間側もこの関所を重要視していない節がある。
アリアがそう感じた理由は、見張りについている人間達があまりにだらけているからだ。
夜通し飛行を続けて国境の関所に辿り着いたアリアが見たのは、昼間から門前で酒を飲み合い、私語に夢中になっている門番達の姿だった。
警戒していたこちらが馬鹿のようだ、とアリアは溜め息をつく。
現在彼女は地に降り立ち、人間達の様子を潜伏して観察していたのだが、相手が彼女に気付くことはなかった。
これ以上はもういくら見ても参考にならないだろう、とアリアは次の行動を思案する。
先程までのように空を飛べば関所の壁などまるで関係がない。大戦時代には対空兵器が常備されていたのだろうが、今は対して整備されていないようである。
そもそも使用者となるべき門番達が使い物になるとは思えない醜態を晒しており、仮に兵器を使われたところで目を瞑っていても命中させられるとは到底思えない。
この有様であれば、アリア一人で門番達を殲滅することも可能のように思う。遠距離から大魔術のひとつでも放り込んでやれば、下手をすればそれで相手は全滅するのではなかろうか。
しかしわざわざ殺すのも面倒であり、騒ぎになることは確実だ。それでも構わない気はするのだが、延々と飛行を続けたことで疲労が溜まっており、いい加減のんびりとしたいところではある。
結局、アリアは上空を通過することを選択した。関所が見えたということはようやく人間領へと入れるのだ。あとは旅人を装い適当な村にでも入り込めば、腰を休めることくらいできるだろう。
一応、関所上空を通る際に警戒はしたが、アリアが発見されることはなかった。
関所の屋上には対空兵器が設置されており、見張り番もいたのだが大の字で寝転がって、熟睡しているのが遠目にもよく分かる程だった。
関所の人間の怠慢が凄まじいのにも、一応の理由はある。
魔族側は大戦以降、一度も人間領への侵攻を行っていない。
理由としては魔族側にとって、人間領を攻めるメリットがないというのが大きいだろう。
そもそも過去の大戦は人間側が資源を求めて魔族領に攻め入ったことがきっかけで始まった。それまで一度も、魔族が人間領に軍事目的で侵攻したことはなかったのだ。
半ば人間側から始めた大戦は、魔族の反撃により大打撃を受けたことで人間側が戦争の継続が不可能となった。それと同時期に、魔族側も内紛が発生。双方共に戦争を続けることが困難となった。
疲弊した人間の軍力では魔族領に蔓延る魔物達を撃退することができず、魔族がわざわざ防衛せずとも攻めてこられる心配がない。
だが人間との戦争により魔族領の各国の戦力が変化したことで、大国が小国を取り込もうとして争い始めたことで魔族領で乱世が始まってしまう。
結果としてメギストス王国が魔族領を統一したことで戦争は終結したのだが、今度は傷ついた国土の復興が急務となる。
そうなると殺したところで益のない人間の相手する意味などなく、人間領の土地を奪ったところで戦力を分散させればそこに反王国勢力が攻め込み、再び内紛へと逆戻りしかねない。
つまり人間領を侵攻したところで百害あって一利なし、というのが魔族達の見解であった。
しかし、軍と関係ないところで人間領に忍び込んでいる魔族はいるのかもしれない。まさにアリアがそうするように。
仮に魔族が人間領で何かしていたところで、アリアにとってはどうでもいいことだが。
せいぜい自分の欲望の邪魔となったら敵対することもあるだろう、と。その程度の認識だ。
考えごとをしながら飛行を続けるうちに、アリアは人間領へと到達していた。
魔族領を覆う瘴気の霧は遥か彼方で、視界には宝石の様に澄んだ青空と、大地を包み込む緑の絨毯が広がっている。
どうやらこの辺りは草原地帯であり、山脈は遠くにしか見当たらない。穏やかな気候に恵まれた土地であるらしかった。
すぐ隣が魔族領であることを思えば、人間にとっては恵まれていないのかもしれないが、アリアの知ったところではない。
アリアに重要なのは、この周辺に村があるのかということと、どの辺りに降り立とうかということだ。
上空から大地を見渡せば、そう遠くない位置に村らしきものを見つけた。都合がいいことに、その近辺には身を隠して降り立つのに良さそうな森もある。
これでようやく休めそうだ、ひとまず宿屋を探そう――そこまで考えたところで。
「……私、人間のお金持ってないじゃないか」
アリアは、自分が今一番重要な物を持っていないことに、ようやく気付くのだった。
〇
上空で羽ばたきながら悩んでいたところで仕方がないと、アリアはとりあえず森の中へと降り立った。
魔族の証である漆黒の翼は、アリアが念じればあっという間に背中へと仕舞いこまれる。魔法の鞄からマントを取り出して羽織れば、背に空いた羽出し用の穴も隠れて、自分が魔族であると示すものは何一つなくなった。
これで金さえあれば人間領に忍び込む準備は万全なのだけどなと、アリアは深々と溜め息をついた。
急ぎの旅路がようやく終わり、ようやく休めると思ったところで気付いたものだから、余計に疲れたように思える。
「……嘆いたところで仕方がない。まずはあの村を目指すとしよう」
人間に目撃されないようにと森の深い場所に降りたため、村まではしばらく歩く必要がある。
面倒ではあるが、黒翼を広げたまま村に近づけば、当然魔族だとばれてしまう。
もう少しの辛抱だと、疲労した身体を鼓舞して一歩踏み出す。
「――きゃあああああ!」
女性の悲鳴が森に響いたのは、そんな時だった。
何事かと声の聞こえた方へ歩けば、茂みの向こうで人間の女性が腰を抜かして倒れこんでいた。
その傍らには巨大熊の魔物が威嚇するよう唸りながら、女性の前に立ち塞がっている。
「や、やだ……こないで……!」
女性は身を守る術を持っていないのか、怯えて後ずさるだけで、目の前の脅威に抗えずにいる。
それは、アリアが最も嫌う姿だった。自分でどうにかしなければならない状況なのに、自分ではどうすることもできないまま、他者に弄ばれる。
弱者は肉となり、強者は喰らう。それが自然の摂理であろうとも、弱者が抗うことも許されないなんて認めたくない。
抗うことも許されず、弱者であることをただ受け入れさせられるだけなんて。それはまるで――幼い頃の自分を見ているようで、吐き気がする。
魔物が右腕を振り上げる。鋭く尖れた爪で抉られれば、女性の身体は容易く引き裂かれるだろう。
「ひ、ひぃ……!」
女性はただ悲鳴を上げて、身をちぢこませている。
茂みからその様子を眺めていたアリアには、その熊の魔物が笑っているように見えた。
追い詰められた弱者の姿を滑稽だと、嘲笑っているように。
弱い獲物を屠ろうと、魔物の凶爪が振り下ろされる。
――茂みから飛び出したアリアは魔力で紡いだ剣で、強者気取りの獣を迎え撃った。
〇
その女性は、村に住むしがない村娘であった。
戦う術など持たず、けれど平和な村で慎ましく生きてきた、心優しい人間だった。
彼女がこのような森の奥地に来ることなんて、普段なら絶対にない。村一番の狩人である父親でも、必要でなければ絶対に避けるだろう危険な場所だと知っていたからだ。
それでも彼女がこの場に来ていたのは、家族を、隣人を、村人達を少しでも助けるためであった。
原因不明の病に襲われた村。家族も病に倒れ、今では健康な村人より病人の方が多くなってしまった。
もうまともに動ける大人は、自分しかいない。まだ幼い子供達に無理をさせるわけにもいかず、女性は勇気を振り絞るしかなかったのだ。
しかし村に蔓延した病は誰にも原因が分からず、どのような薬を使えばいいのかも分からなかった。
都会にいけば、その病を知る医者がいるかもしれない。薬だって売っているかもしれなかったが、貧しい村には村人全員分の薬を買うお金なんてなかった。
医者に見せようにも、一番近い町でも馬車で片道に十日は掛かる。往復で二十日。とてもではないが、村人達を町まで連れて旅をできる距離ではなかった。
女性に出来ることは、とにかくひとつでも多く滋養となる薬の素材を集めて、村人達に薬を配って回ることだけだった。
だが、森の入り口付近の薬草はほとんど摘んでしまい、これ以上は二度と薬草が育たなくなってしまう。
女性は危険を承知で、より深い森の奥地に足を伸ばすしかなくなっていった。
「――きゃあああああ!」
甘かった。森の奥地には魔物が棲んでおり、危険だと教えられていたはずなのに、まるで理解できていなかった。
縄張りに踏み込まれて腹を立てたのだろうか、あるいは空腹だったのかもしれない。とにかくその巨大な熊の魔物は、ためらうことなく女性に襲い掛かってきたのだ。
恐怖に駆られて一目散に逃げたが、魔物の足は想像以上に早く、あっと言う間に女性は逃げ場を失う。
「や、やだ……こないで……!」
女性が木の根に足を取られて転び、顔を上げた時には既に眼前へ魔物が迫っていた。
魔物は身も凍るような恐ろしい唸り声で威嚇しながら、女性にじわじわとにじり寄ってくる。
お前に逃げ場などないのだぞ、と思い知らせようとするかのように。
恐怖で身体が震える中、女性の脳裏にこれまでの人生の思い出が駆け巡っていく。
人が死ぬ間際に見るという走馬灯なのだと理解して、女性はそんなのいやだ、とふるふると首を横に振る。
まだ生きていたい。家族を助けたい。こんなところで死にたくない――。
しかし魔物はそんな彼女の思いを踏み躙るように、にたりと不気味な笑みを浮かべながら腕を振り上げた。
戦いなどまるで知らない女性にも十分に分かる。あんな丸太の様な豪腕に襲われれば、自分なんて簡単に潰されてしまうということが。
「ひ、ひぃ……!」
それが分かっていても、もう女性には悲鳴を上げることしかできなかった。
思わず目を瞑る女性に、命を刈り取ろうと魔物の凶爪が迫る。
――しかし、その凶爪が女性に届くことはなかった。
いつまでも襲ってこない痛みに、恐る恐る女性が目を開く。
彼女の視線に最初に飛び込んできたのは、黄金の輝きであった。
森の木々の隙間から射す木漏れ日をきらきらと反射させながら風に舞うその髪は、黄金色の草原が波打つ様に美しい。
次に瞳に映ったのは、魔物の腕を受け止めている光の剣。それは透き通るような淡い光でありながら、確かに剣の形を成して魔物の振り下ろした腕を受け止めている。
剣を握るその手は驚くほど華奢でありながら、魔物の暴力にまるで屈さずに、むしろ押し返してすらいた。
「怪我は、ありませんか?」
突然現れたその人は、魔物と相対したまま首を回して、女性の方を振り向く。
横顔だけで分かるほどその顔は見た目麗しく、小さくもはっきりと響いた声は詩人の鳴らすハープの音色のように心地よいものだった。
まるで御伽噺に語られる月の精のようだ、と。現実離れした光景に思わず恐怖を忘れて女性は、命の恩人の姿に見惚れていた。