閑話 破滅の序曲は宵闇に響く
「くそ、くそっ……! 父上は何故このような仕打ちを……!」
メギストス国が誇る王宮内の地下牢に、少年の声が響いていた。
第一王子として次代を担うとされていたレイス王子である。彼は己の婚約者のアリア・ブラックローズに婚約破棄と国外追放を言い渡したその日から、この地下牢に幽閉され続けていた。
彼にとって正義とは自身であり、現状は不当なものだと信じて疑わなかった。
王命において定められた婚約者に対して証拠もなく断罪を行い、正式な裁判も介さずに私刑を行ったことを、何一つ間違いだと思っていない。
「ああ、リゼル……君は無事だろうか、寂しい思いをしていないだろうか」
王子は、牢屋に閉じ込められる際に引き離された想い人のことを想う。彼は婚約者がいる立場にありながら、別の女性へと恋慕の情を抱いていたのだ。
親に決められた婚約者に情など不要だと冷たく当たり、かといってアリアが他の男性と言葉を交わすことには不快を示しておきながら、彼自身は学園で出会った少女に愛を囁き、その邪魔となるからとアリアの排除に踏み切った。
身勝手な振る舞いを行いながら、彼はそれが当然だと心の底から考えていた。
自分は王子であり、次代の王となる男だ。周りはそれに付き従えばよいのだ、と。
だからこそ、不自由な地下牢で過ごす日々は、彼の心を苛む。既に何日が経過したのかも定かではない。いつまでこうしていれば良いのかも分からない。先の見えない不安は確実に彼の精神を磨耗させていた。
「リゼル、せめて君が傍にいてくれたなら……」
レイス王子は瞳を閉じて、脳裏に浮かぶ少女の笑顔に想いを馳せる。
純粋無垢とは彼女のためにある言葉だと彼は感じていた。無邪気に笑い、王子である自分にも分け隔てなく接してくれる稀有な存在。彼女と出会うために自分は生まれてきたのだと思える程に、彼はリゼルという少女を愛していた。
「――御呼びですか、私の王子様」
そんな少女の声が間近に聞こえて、レイス王子は慌てて目蓋を開いた。
鉄格子の向こう側に、先程まで頭に思い描くだけだった少女の姿が、確かに存在している。
「リ、リゼル……? 本当に、君なのか?」
「はい、王子様。貴方のリゼルは、ここにいますよ」
柔らかな微笑みを浮かべながら、リゼルは懐から鍵束を取り出すと、王子を閉じ込めている牢の鍵に合わせ始める。
いくつかの鍵を試して、合致するものを見つけた少女は鍵を押し回して、錠前を取り外した。
辛抱たまらず、王子は少女に抱きつく。愛しい女性の温かな体温を感じて、これが夢幻ではないことを実感すると、彼の瞳から涙が一筋流れ落ちた。
「良かった、君が無事でいてくれて……本当に良かった」
「ふふ、王子様は甘えん坊ですね」
感極まった様子の王子を抱きとめて、少女は子供のように笑う。それこそが王子が愛してやまない笑顔だった。
彼女の前にいる間は、王子であることを忘れられる。それがとても心地よくて、心穏やかにいられるのだ。
「しかし、何故ここに……君も牢屋に閉じ込められていたのでは」
「看守の方が心優しい御方で、私を哀れに思い、逃がすために鍵を下さったのです」
「そうか……看守としては失格だが、そのおかげでこうしていられるのだから、感謝せねばな」
情に絆されて囚人を逃がす看守など、本来なら打ち首となる重罪だ。
しかしその看守の行いで少女と再会することができたのだから、もしもその者が罪に問われたのなら庇い立ててやるのも悪くはないな、などとレイス王子は自身も罪人として扱われていることを棚に上げて、名も知らぬ看守を守ってやろうなどと考えていた。
「王子様、お願いしたいことがあるのです」
「ふふ、君がおねだりとは珍しい。いいぞ、何でも叶えてみせよう。遠慮せず話してくれ」
「私と共に逃げてほしいのです、このままでは私……処刑されてしまいます」
「――な、なんだと!?」
愛しい少女から伝えられた言葉に愕然とするレイス。
彼にとって目の前の少女は何よりも大切な女性だ。幼少期より己の婚約者として飾っていた人形とは違い、かけがえのない存在だ。
そんな少女の命が危ぶまれていると聞いて、彼は冷静を保つことはできなかった。
「王子を誑かして、婚約者を陥れた罪人として斬首に処されることになるのだと、看守の方が……」
「くそ、父上……! まさか私達を幽閉するだけでなく、リゼルの命を奪おうとするなんて!」
王子は少女の言葉を信じていた。
婚約者として幼い頃より傍にいた少女よりも、父親である国王よりも、王子として教育されてきた己の知恵よりも。リゼル・エレニックの言葉を何よりも信じていた。
それがどれほど異常なことか気付かないまま、王子は少女の手を強く握り締める。
「案ずるな、君のことは俺が守る。例え祖国を追われる身となろうとも……君とならどこでも生きていけるさ」
「ああ、私は思えばなんてお願いを……貴方に全てを捨てさせるくらいなら、愛しい貴方と二度と会えなくなろうとも、一人で逃げるべきなのに」
「馬鹿なことを申すな! 私達の愛を引き離すなど、何者であろうとも許さん! 私は君を絶対に手放しはしないぞ!」
「王子様……! ああ、ありがとうございます!」
互いを強く抱きしめて、愛を誓い合う二人の少年少女。
傍目には恋愛劇の一幕の様であった。絆を引き裂かれようとする恋人達が運命に抗おうとする恋物語の序章の様に。
しかし、二度と離さないとばかりに抱き寄せているからこそ、レイス王子は気付くことはなかった。
――宵闇の如く暗い笑みを浮かべて、口元を歪ませている少女の本当の顔に。
〇
「こ、国王様……どういたしましょうか」
部下の報告に、魔王ファウストは苦悶の表情を隠すこともできなかった。
ようやくアリア・ブラックローズの居所が見つかり、先延ばしにしていたレイスとリゼル両名の処遇を執り行えると胸を撫で下ろしていた矢先の出来事だった。
地下牢に閉じ込めていたはずの二人の姿が消えた、というのだ。
ただの地下牢ではない。魔法により破られることがないように、と魔法処置を施して非常に頑丈な造りとなっており、錠前にも開錠の魔法が行使出来ない様に施してある。
故に逃げ出すのなら、鍵を持つ者の手引きが不可欠だ。看守が彼らの脱走を手助けしたとしか思えない。
しかし、その看守は死体となって発見された。――まるで獣に食い荒らされたかのような、凄惨な有様であったという。
「第一王子レイスと、その傍らにいると思われるリゼル・エレニックの捜索を。生きたまま我が前に連れてまいれ」
「は、はい。そのように……」
命令を伝えた部下が退出するのを見届けた後、ファウストは深く息を吐いた。
無事にアリアが見つかったことで、騒動の解決まであと一歩と考えていたというのに振り出しに戻ったとあっては、溜め息のひとつも零れるというものだ。
婚約者に対して不当な行いをしたレイス王子も、婚約者がいる男を篭絡したリゼルという少女も、どちらも許されるものではない。
されどなんとか穏便に済ませようとしていたというのに、現状ではそれも困難となった。
此度の脱走がどのようにして行われたのかは不明だが、看守が死亡していることからレイス王子、もしくはリゼル男爵令嬢いずれかの、あるいは両名による殺害の可能性が高い。
無罪放免とはいかず厳罰は避けられずとも、二人を処刑せずにすむように取り計らうつもりだったが、看守殺害及び脱走の罪状が加わるとなるとそうもいかない。
どうやって看守に鍵を開けさせたのか。看守も協力者であったのなら何故殺したのか。他に脱走の協力者は存在しないのか。
分からないことは多い。しかしまずは二人の身柄を抑えないことには、尋問を行うこともできない。
自分の息子を処刑台に立たせることになるかもしれないとなると、ファウストは胸が締め付けられるような思いだった。
「レイスよ……お主にとって王子という立場は、このような蛮行に及んでまで逃れたいものだったのか……?」
行方の知れぬ息子に、決して届くことのない呟きが魔王の口から零れ落ちた。