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舞踏会での事件

 


「エリザベス・リディーン様、並びにアレクサンダー・レーヌ様のおなりです!」


 舞踏会の会場の大扉が開かれる。

 親しい貴族だけが招かれた、上品な雰囲気の舞踏会。エリザベスが入場した瞬間、人々がこちらを振り向いた。


「ごきげんようリズ、アレク! 相変わらずお元気?」


 エリザベスは、主催者の娘であり友人でもあるアポリーヌの言葉に笑って答える。


「ごきげんよう。ええ元気だけれど、あなたには負けるわ」


 エリザベスが彼女にそう挨拶すると、隣にいるアレクサンダーも微笑んで言った。


「こんばんは。今日はお招きありがとうございます、とお父様に伝えていただけますか」


 エリザベスは人々の間を縫うようにして会場を歩いた。アレクサンダーはエリザベスの婚約者として、エスコートしてくれている。


「まあエリザベス、また綺麗になったのではなくて?」


 そう言ったのはロバール男爵夫人。


「またそんな……わたくしに夫人のような魅力はありませんわ」


 エリザベスが次々と話しかけられる間、隣のアレクも同じような状態だった。


「こんばんはアレク様。今宵のダンスのお相手はもうお決まりですの?」

「アレクサンダー、君はとても優秀だと聞いたよ。将来が楽しみだな」


 エリザベスとしては、彼をダンスに誘う令嬢たちに対して愉快な感情を持っているとは言い難い。だが、彼が彼女たちを断らないのも分かっていた。仕方ないのだ。それが社交というものである。


「エリザベス様、一曲踊っていただけませんか」


 曲の演奏が始まってからしばらくした頃。アレクサンダーとは一番最初に踊った後は別行動であったので、エリザベスは一人休憩していた。


 声をかけてきたのはユーグ侯爵である。彼はお父上が早くに亡くなったので、若くして爵位を継いでいた。彼はアレクとは違って優しい雰囲気の好青年だ。


「ええ、喜んで」


 エリザベスは差し伸べられた手に手を重ね、ホールの中央へと向かう。するとあたりが少し静まった。


 エリザベスはこちらを見ている人々を見ながら踊った。その中には悔しそうな表情をしている令嬢もいれば悲しそうな令嬢もいる。彼に恋い焦がれている令嬢は少なくはない。


 ごめんなさい、と思った。エリザベスがアレクサンダーに他の人と踊って欲しくないと思うように、彼女たちもそうなのだろう。


 ユーグ侯爵と踊り終わったあと数人と踊ってから、エリザベスは誰もいないバルコニーに向かった。そしてそこから、婚約者アレサンダーを見つめていた。


 挨拶をする彼、ダンスをする彼。


 彼は何をしていても美しいし、優雅だ。その怜悧な美貌と明晰な頭脳に魅了されるのは、エリザベスだけではない。


(……もし、わたくしと婚約していなかったら、彼はわたくしに見向きもしないのではないかしら)


 人々に囲まれている彼を見るたび、不安になる。それは少しずつ、肥大していた。


(だって、彼はわたくしを好きだとか言ったことないもの)


 エリザベスはついに彼を見ていられなくなって、顔を逸らした。


 するとそこに、エリザベスをじっと見ている小さな少女がいる。彼女は可愛らしいドレスを着て立っていた。


(……誰かが連れてきたのかしら)


 不思議に思ってその愛らしい姿を見つめ返していると、少女が口を開いた。


「お姉ちゃま、悲しいの、どうして?」

「え?」


 少し舌足らずなその声を聞いて、エリザベスの心臓がドキリと音を立てた。


(悲しい?)


 悲しい。そうかもしれない。エリザベスは、悲しいのだ。そして、寂しい。


「……そうかもしれないわ」


 エリザベスはそっと微笑んで言った。そして目線を合わせるために屈みこんで、問いかけた。


「あなたも、悲しいの?」


 少女は幼い子供らしく、素直に頷いた。


「うん、悲しい」


 エリザベスは柔らかく少女を抱きしめた。


「そう。それならわたくしたち、お揃いね?」


 そう言ったエリザベスに、今度は少女は頷かなかった。


「違うよ。だってお姉ちゃまは痛そうだもん」

「痛そう? どこが?」


 少女の言っていることが分からなくて、体を離して聞き返す。


「胸だよ。お手々をぎゅってしてたもん」

「え?」


 胸の前で手のひらをぎゅっと握って見せる少女に、エリザベスは戸惑った。そんなことをしていただろうか。していたとするなら、それは無意識だ。


 だが。エリザベスは、頷いた。


「そうね。痛いのよ」


 胸が痛い。苦しい。

 彼が他の令嬢に話しかけるたびに、微笑みかける度に、ダンスをする度に。

 苦しくて、切なくて、たまらない。自分だけを見て欲しいと、エリザベスは狂おしいほどに願っていた。


 けれど、それを伝えることなど到底できなかった。


 貴族社会では、夫を愛してしまうことは非難されることであったのだ。結婚とはあくまでも財産相続を確実にするための契約に過ぎない。そのため夫の他に愛人や恋人を持つことが普通であり、そのことに対して嫉妬したりする事はとてもはしたないとされていた。


 それは周りの貴族だけでなく、自分の親家族からも否定されるようなことなのであった。


(……わたくしが勝手に彼を好きになっただけだもの。彼にはわたくしを愛する義務なんてないのだわ)


 公爵家の娘として生まれたエリザベスは、そのことをよく知っていた。


(これはどうにもならないことよ)


 そう思った、その時だった。少女が突然悲鳴を上げた。


「お姉ちゃまっ!」

「え? なあに?」


 少女の視線の先を振り返ったエリザベスは、その瞬間恐怖に囚われる。


「ひっ」


 息を吸い込んだ喉が音を立てる。エリザベスと少女の目の前では、刃物を持った男が今にもそれを振りかぶろうとしていた。


 恐怖で声が出ない。それは少女も同じようで、凍りついたように動かなかった。

 エリザベスは覆うようにして少女を抱きしめ、目を閉じる。


 その瞬間ひゅっと空を切る音がして、エリザベスは痛みを覚悟した。


 だが、いつまで経っても痛みは襲って来なかった。代わりに聞こえるのは苦痛にうめく男の声だ。

 エリザベスは少女を庇った状態のまま、振り向いた。そこには、手の甲の中央に鋭いナイフの刺さった男がうずくまっていた。


「え……?」


 どうして。そう思った瞬間に、エリザベスがこの世で一番の好きな声がした。


「エリザベス! 早くそこを離れてください!」


 叫んでいるのは、他でもないアレクサンダーだ。彼は男のもう片方の手を、ぎりぎりと捻り上げていた。

 エリザベスは心の底からほっとした。そして固まっていた足に力を入れ、少女を抱き上げてバルコニーを離れる。

 彼が来てくれたのなら、もう怖いものなどなにもない。


 安心したと同時に涙が零れそうになる。それを抑えて、エリザベスは少女に呼びかけた。


「大丈夫?」


 それを聞いた少女の顔がみるみるうちに歪み、大声で泣き出す。


 安心したのだろう、少女は怖かったと繰り返しながら泣いていた。エリザベスは少女を抱きしめ、あやすように言う。


「もう大丈夫よ」


 その大きな泣き声を聞いて、人々がバルコニーにの近くに集まってきた。


「どうかしたの?」


 そう聞いてきたのは主催者の娘であるアポリーヌである。エリザベスは彼女に向けて小さな声で言った。


「刃物を持った曲者くせものよ。アレクサンダーが抑えたけれど、皆様に知られたら大変でしょう。どうにかして誤魔化したほうがいいわ」


 屋敷の警備は主催者の責任だ。曲者が入ったなんてことはあってはならない。

 アポリーヌはわずかに青ざめたが、それでもはっきりと頷いた。


「わかったわ。ありがとう」

「それと、この子は誰か分かる? この子も危ない目にあったから、説明したほうが良いかと思うのだけど」


 エリザベスは少女を指し示して言った。少女の顔を見たアポリーヌはこう答えた。


「その子は確か、オブリ伯爵の娘よ」

「そう、じゃあ、わたくしが伯爵のところまで連れて行くわ」

「申し訳ないけれどお願いするわね」


 そう言うと、アポリーヌは集まった貴族たちの方へ向かって行った。


 ✻✻✻


 オブリ伯爵は、優しそうなおっとりとした男性だった。彼によると少女はアルリーといい、一年前に母を亡くしているそうだ。


(悲しいといったのはお母様のことかしら)


 泣き疲れて眠ってしまったアルリーを見て、エリザベスは思った。その歳で母を失うというのはどんなにか辛いことだろう。


 それからオブリ伯爵はエリザベスに丁寧にお礼を言って、帰っていった。


 エリザベスは椅子に座って休んでいた。さすがに気を張り詰めていたようだ。


 そうしてしばらくすると、アレクサンダーがエリザベスのところに来て、こう言った。


「随分探しました。……怪我はないのですか」


 ああ、とエリザベスは思った。


 彼のこういうところが駄目なのだ。こうして誰にでも優しいところ。思わせぶりではないのに、つい期待をしたくなるようなところ。


 ……好きだと思った。例えようもなく、どうしようもなく、彼が好きだと思った。


 もし今日危ない目に遭ったのが他の令嬢でも、彼はこうして心配しただろうに。


「大丈夫ですわ」


 エリザベスは彼の顔を見ずに言った。今の自分を、見られたくなかった。そんなエリザベスをいぶかしんだのか、彼は再び聞いた。


「本当に、怪我はしてないのですね?」

「大丈夫だと申し上げておりますわ」


 エリザベスがそう言うと、その瞬間彼がほっと息をついた。


「よかった……」


 心底安心したというふうに彼の口から漏れた言葉に、体中が歓喜で震える。その心配が妹のような存在に対するものでも、友情でも、親愛でも、今だけは構わなかった。不謹慎ではあるけれど、言葉では言い表せないほどに嬉しかったのだ。


 それから彼はあの曲者は貴族に恨みを持ったものだとか、召使として雇われていたのだとか言っていたけれど、エリザベスは全く頭に入らなかった。ただ、考えていたのだ――自分は耐えられるだろうかと。妻でありながら他に恋人のいる夫を待ち続けることに、耐えられるだろうかと。


 彼の妻になったエリザベスが、彼以外を好きになれるとは到底思えない。それならいっそ、妻ではない方が良いのではないだろうか。


 いっそ、婚約を解消してしまえば。


(……バカなことを。そんなことができるわけないわ)


 その時はそう思った。


 だがその考えはエリザベスの中に刻み込まれ、のちに実行されることとなるのである。




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