最終話『真実』
『…あなたが好きで、あなたが私を愛していないことに耐えられなくなったからです。これでよろしいかしら?』
半ばやけになって聞いた。すると、アレクサンダーは低い声で問うた。
「……つまり、私があなたを愛していないと?」
「……?」
何をそんなに驚くのだろう。
(……ああ、わたくしの身勝手さにかしら)
そんなことを考えて、俯き加減になる。けれど、その次の瞬間、驚きに顔を上げざるを得なかった。
「私はあなたを愛している。……そうでなかったらこんなところまで来たりしません」
エリザベスは驚いて、即座に言葉が出なかった。
頭がついていかない。
彼は今何と言ったのだろう。愛している? 彼が?
(……わたくしを?)
その言葉だけが頭をぐるぐると回っていて、他のことが考えられない。
目を見開いて、彼を凝視する。
「……嘘だわ」
一番最初に口をついたのはそれだった。もっと他に何か言おうとしたのだが、上手く出来なかったのだ。
「嘘なんかじゃない。まだ分からないですか?」
彼の視線がエリザベスを捉えた。その瞬間、再び抱きしめられると分かったのに、エリザベスは動けなかった。
「離して……」
そう言ったが、彼はエリザベスを抱きしめたまま何も言わない。
「もういいっ。いいから離してっ!」
彼は離さなかった。黙ったまま、エリザベスを抱き締め、髪に、額に、頬に、キスをした。優しく、優しく、宥めるように。
その仕草でエリザベスは感じられずにはいられなかった。彼は、嘘なんかついていない。
それはどんな言葉より信じられた。
どうしてだろう。その時が永遠のように長く長く感じられて、苦しいくらい、幸せで。
エリザベスの瞳から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
自分でも何故こんなに涙が出るのか分からないくらいに、次から次へと溢れてくる。
彼はそれにぎょっとしたように腕を離そうとして、それからエリザベスに声かけるために口を開きかけた。
けれどエリザベスは、彼の服を掴んで、彼の体に手を回して、離れなかった。
ひどい泣き顔を見られたくなかったのもある。
けれど、一番の理由は上手く説明出来ないけれど、ただ離れたくなかったからだ。
エリザベスは彼にしがみついたまま、泣きながらか細く言った。
「……ねえ、さっきの、もう一回言って。……アレク」
アレクは彼の愛称だ。幼い頃はいつもそんな風に呼んでいた。彼は驚いたようで、でも微笑んで、もう一度、エリザベスの望む言葉を言った。
「……好きですよ。リズ」
リズ。彼にそう呼ばれたのはいつ以来だろう。
また涙が溢れてきて、止まらない。幸せで幸せで、嬉しくて、これが現実であることが信じられなくて。
エリザベスは幼い子供のように泣きながら言った。
「わたしも、好き。誰より、好き……」
大きくなるにつれて、いつしか他人行儀になってしまった。二人の間には色々なものがあって、小さい頃のように無邪気ではいられなくなってしまった。
「リズ。リズ。リズ……」
彼がエリザベスの名を呼んだ。この世で、何よりも甘美な響き。
それがエリザベスを素直な子供に返らせる。
「……どうして?どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
駄々をこねる子供のように、埒もないことを問いかけるエリザベスに、彼は優しく言った。
「……悪かった。リズは私の気持ちを分かってると思っていた」
「……分かんないわよ。だってアレクは誰にだって優しくて、他の令嬢にだって優しくて、みんなアレクのことを好きなのに」
「……そんなことはないと思うが。私にはエリザベス・リディーンという世界一の婚約者がいるのだから」
世界一の婚約者。
その言葉が本心であることが分かって、嬉しかった。
「……アレクって案外鈍いのね」
エリザベスが微笑むと、彼は少しふざけたように言った。
「婚約解消は解消することにする。よろしいですか、エリザベス殿下」
「……」
エリザベスは答えなかった。言う必要など、ないだろうから。彼は微笑んだまま、続けた。
「いや、リズがよろしくなくても解消する。何かあったとしても握り潰す。愛しいお姫様、異論は?」
そんな物騒なことをいう。
「……いけない方ね。王子様。わたしの返事は分かってるでしょう?」
いつだったか、小さい頃、お姫様と王子様ごっこをしたことがある。
その時と同じセリフをエリザベスは言った。
「もしあなたが望むならわたくしは愛を、優しさを、心を、全てをあなたに捧げましょう。この世でたった一人、あなただけに」
この国の結婚式で使われる言葉。 最上級の、愛の言葉。
『あなたを愛しています』
✻✻✻
彼は生まれながらの婚約者だった。
小さい頃から将来はこの人の妻になるのだと思っていた。
とても純粋に、一欠片の疑いもなく。
エリザベスと彼は三才違いだ。彼が二才のとき、エリザベスが生まれることが分かってから、女の子であれば彼と婚約させようと決められていた。
もともとリディーン家はレーヌ家と仲が良く、身分も同じくらいである。
そんな事情で、生まれた時からエリザベスは彼の側にいた。エリザベスは、優しい彼が大好きだった。兄のように慕っていた。
けれど時は流れていく。
エリザベスは当たり前に、自然に、彼に恋をした。
それはエリザベスにとって何の疑問もない当然のことだった。
だが大きくなるにつれて少しずつこの結婚の理由が分かっていく。ずっと恐れていたこと。
エリザベスは彼を好きだけれど、恋しているけれど――彼はエリザベスを好きじゃない。
嫌われてるわけじゃないけれど、それはあくまで家同士の繋がりのためであって、彼の意思じゃない。
これは政略結婚なのだと。
よくあることと言ってしまえばそれで終いだが、エリザベスにとってはとてつもなく重要なことだった。
彼はエリザベスと結婚したあと、誰か別の人と付き合ったりするのだろうか。エリザベスを家に残して。
嫌だ。嫌だ嫌だ。
わたくしはそんなお飾りじゃない。そんなのでいたくない。
彼に資産を与えるために、それだけのために結婚してそれだけのために彼の妻になるなんて。
耐えられない。
それなら結婚しない方がずっといい。
そう思って、その苦しさに耐えられなくなった時、エリザベスは彼から逃げることにしたのだ。
父に彼との婚約を解消すると一方的に告げて、このお祖母様の屋敷に移った。勿論彼にはこの場所は言わなかった。
でも、彼は訪ねてきて、こうしてエリザベスに真実を言わせたのだ。
✻✻✻
「……お願いだからわたしに呆れないでね」
エリザベスがポツリとそう呟くと、彼は女性ならだれでも見とれてしまうのではないかと思うくらい、とても魅力的に笑った。
「リズのことなら何でも知ってる。無鉄砲で強がりで思い込むと恐いってこともね」
――end