令嬢の告白
『あなたが好きだからです』
言ってしまった。彼の瞳が驚愕に見開かれる。
(……彼のこんな表情は初めて見たわ)
こんな時なのにそんな考えが頭に浮かぶ。
「あなたが好きだからですの」
繰り返して、目を閉じた。驚愕の次の、軽蔑の表情を見るのは恐い。
「………、……?」
だが彼の沈黙があまりにも長くて、エリザベスは目を開ける。目の前の椅子を見て、エリザベスは首を傾げた。そこには彼の姿がなかったのだ。
まさか聞くに耐えないと思って帰ってしまったのだろうか。そう思ってエリザベスは振り返り――そして、その考えはすぐに打ち消された。
彼はすぐ近くにいた。近過ぎるほどに近くて、だから気が付かなかったのだ。驚いて離れようとすると、彼はエリザベスの手を引き寄せ、抱きしめた。
「なっ…何をするのです。離して下さいませ!!」
突き飛ばそうとしたのだが、全く意味を成さない。
「嫌です」
耳に囁かれる熱い声。
火傷をするかと思ったくらいに。
頭が真っ白になった。
この状況を把握できない。いや、しているが理解できない。
(……どうしてこうなったの。彼は何を考えてるの?)
必死に考えようとするのに、エリザベスの心の中の余計な感情が邪魔をする。
さらにきつく抱きしめられて、頭が朦朧とした。必死にもがいたがびくともしなかった。
やがて彼が少し動いたので、離してくれるのかとほっとしたのだが――違った。
お互いの唇が触れる。
彼は顔を傾けて、あろうことかエリザベスににキスをしたのだ。
優しく触れるように、包み込むように、軽いキス。間違っても友人がするようなものではない、深いキス。
柔らかく唇を重ねて、それから舌を使って愛撫する。
身体中が痺れて立っていられない。考える能力が失われていく。
けれど、だからこそ痛いほどに自分の感情を感じた。
(……ええ、そうだわ。わたくしはもうずっと、彼とキスをしてみたかった。抱きしめられたいと思っていた。他の誰にも彼を渡したくなかった)
あまりにも甘美で、震えるような幸せに涙が溢れた。
……彼が好きだ。
例え軽蔑されても、嫌われても、忘れるなんて、出来ない。
愛して……いる。
誰よりも、愛している。
しばらくして、ゆっくりと温もりが離れていく。
その瞬間、頭が冷えた。思考が息を吹き返す。
(わたくしは、一体何をしてるの? 彼のキスを受け入れた。強く拒絶をしなかった)
そこまで考えて、疑問が湧いた。
考えてみれば、何故彼はキスなんてしたのだろう。好きだと言ったエリザベスを哀れんだのだろうか。
お遊びで?
怒りが湧いてくる。なんて残酷な人なのだろう。やはり好きなどと言うのではなかった。
エリザベスはばっと顔を上げて、「ふざけないでくださいな」と冷たい声で言うと、手のひらで彼の頬を殴った。
「……ふざける?」
打たれた頬を抑えながら、何のことですか、と言う彼の態度に腹が立った。
(冗談じゃないわ)
「とぼけるおつもりですか。おふざけはいいかげんになさって早くお帰りくださいな。わたくし、堪忍袋の緒が切れますわ」
すると彼は、エリザベスをまっすぐ見ながら、ありえないというような口調で言った。
「……まさかとは思うのですが、今のがふざけたのだとおっしゃるのですか」
「それ以外になんと形容したらよろしいのかしら」
もったいぶった言い方に苛々する。
(さっさと今のはお遊びだと認めて帰ればいいのに。この鈍感男。冷血漢)
涙の滲む瞳で睨みつける。
けれど彼の台詞を聞いて、そんな考えは吹っ飛んだ。
「君は私を馬鹿にしているのか?」
……彼の口調が変わったからだ。
紛れもない怒りが彼を支配しているのが見てとれる。何故彼は怒っているのだろう。
いつも冷静な彼が口調を変えて怒るようなことを何か言っただろうか。
エリザベスはとても焦った。そしてその怒りを恐れた。何故なら、彼が何を考えているのか全然分からない。
「事実を、述べたまでですわ。あなたはふざけてあんなことをなさったのです。そうですわ」
自分に言い聞かせるように早口に言う。
けれど激しい彼の怒りにこちらの怒りはかなわなかった。エリザベスの怒りは風船のようにしぼみ、驚きながら彼の瞳を見つめることしか出来なかった。
「違う」
はっきりと短く言った彼に、瞬間身の程知らずな期待が湧きそうになる。それを抑えるために、エリザベスは殆ど叫ぶように言った。
「何故否定なさるの! 忘れて差し上げますから、早くお帰りになってください」
「断る」
「何故です!わたくしは婚約解消の理由を申し上げましたわ。お帰りくださいな!!」
強く言って、ドアを指し示す。
けれど彼はそちらを見もせずに唐突に言った。
「好きだと言った」
「……は?」
エリザベスは意味が分からず、思わず聞き返してしまう。
「私を好きだとあなたは言った」
「……ええ」
彼は一体何を言い出すのだろうと、警戒しながら言葉を紡ぐ。
「では、何故婚約を解消したのですか」
「……好きだからです」
「意味が分からない。何故解消に繋がったのです?説明してくれなくては帰らない」
そんなことを言われても困る。言えるような理由じゃないのだ。
エリザベスは額に手を当てた。
(何故こうなったの……)
言うべきかどうか少し迷ったが、どうせ好きだと言ってしまったのだ。今更誤魔化す気にもなれなかった。
「……あなたが好きで、あなたがわたくしを愛していないことに耐えられなくなったからです。これでよろしいかしら?」