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隠れた令嬢と訪ねてきた元婚約者

 

 アレクサンダーとの婚約を解消する。

 エリザベスが父にそう告げてから、二ヶ月が経った。


 家を出てから間もないころ、エリザベスはいつ誰かが自分を連れ戻しに来るか分からないと思って気を張っていた。


(……お祖母様の住むこのやかたに来たことは間違ってなかったわ。か弱い女の身、力づくでやられてはかなわないもの)


 もし誰かが連れ戻しに来た場合、エリザベスはこの広い館のどこかに隠れてやり過ごすつもりだった。幸いにして、エリザベスは祖母タチアナに次いでこの館のことをよく知っている。庭や裏道、隠し扉などを使えば容易に姿を隠すことができる自信があった。


 エリザベスはほとぼりが冷めるまではこの館にいるつもりだった。だが既に二ヶ月、誰一人訪ねて来ることなく、ここは至って静かである。


 少しばかり退屈なほどに。


 こんなにも長い間連絡がないということは、婚約は既に解消されたと思っていいのだろうか。

 そんなことさえ考え始めていた、ある日のことである。

 応接間に来るようにとタチアナに呼ばれた。


(……何かしら)


 そう思いながらも、応接間の古びた頑丈そうな扉を叩き、「失礼します」と言って入室する。だが。


(……!)


 部屋に入っても祖母の姿は見えなかった。

 代わりにいたのは――――身分、資産、地位、すべてにおいて申し分ない元婚約者、レーヌ伯爵子息アレクサンダー。 彼は応接間の壁に掛かっている絵を眺めていたが、ゆっくりとエリザベスの方を振り返る。


(どうして彼がここにいるの……?)


 その時のエリザベスの驚きようは、とても言葉で言い表せるものではない。

 だが幸いにして、その驚きは彼には伝わらなかった。エリザベスは昔から、驚き過ぎると無表情で固まってしまうのだ。


 エリザベスはアレクサンダーに視線を向ける。すると彼は相変わらずの怜悧な美貌で、こう言った。


「お久しぶりです。エリザベス」


 エリザベスは努めて表情を変えずに、淡々と返した。


「……お久しぶりですこと」


 エリザベスは彼に椅子に座るように薦める。そして、動揺を静める時間を稼ぐためにお茶を入れることにした。


 コポコポと、美しい茶器に彼の好きな熱いお茶を注いでいく。

 エリザベスは、落ち着いた雰囲気の椅子に彼と向かい合って座った。


「何故、ここにいらっしゃっるのですか?」


 驚きと戸惑い、そして歓喜を隠して目の前の人物に冷たく問い掛ける。


(……今さら、何の用があるというのかしら。わたくしは逃げてきたのに。あなたから逃げてきたのに)


 淹れたお茶を飲みながら彼を見つめる。

 冷静を装っているものの、心の中は溢れだす感情でいっぱいだった。


(……何故来たの? わたくしが、何のために、どうして逃げてきたと思っているのよ。あなたに会わないためなのに)


「お知りになりたいですか?」


 いつも通り美しく怜悧な声。けれど。


(……何故かしら)


 その表情も、姿も、いつもの彼と何も変わらないのに、彼が怒っているように見える。少し考えると、理由はすぐに見つかった。


(そうだわ。彼はいつもこんな分かりきったことを聞いたりしないから)


 そのことに気付いて、エリザベスは彼が怒っていることに、そしてそれを隠していないことに驚いた。彼は、いや、社交界の紳士と呼ばれる人たちは普通、感情をおもてに出したりはしない。


(……どうして怒ってるの? わたくしが、あなたの対面を傷つけるようなことをしたから?)


 怯みそうになるのを堪えて、ゆっくりと答える。


「知りたくなかったら聞きませんわ。どうぞおっしゃって。そして用が済んだら早くお帰りになって」


 つい声が棘々しくなってしまうのは、自信がないからだ――自分の感情に。


(せっかく、あなたから逃げてきたのに。忘れるために。思い出させるようなことをしないで)


 彼はエリザベスの方を見ながら言った。


「あなたにそんなことを言われる筋合いはありませんよ」


 返ってきた予想外の台詞せりふに再び驚く。彼はこんなことを言ったことがあっただろうか。


「何ですって?」


 思わず問い返してしまった。何故そんなことを言うのだろう。彼の意図が分からない。


(彼は、今までわたくしに対して失礼になるようなことは決して言わなかったのに)


 エリザベスはそのことを疑問に思いながらも、心の中で彼に願った。


(お願いだから早くわたくしの前から姿を消して。その瞳でわたくしを見ないでほしいのに)


 だが彼は、そんなエリザベスの願いを叶えてはくれなかった。じっとエリザベスを見つめながら、こう言った。


「ええ、あなたにそんなことを言われる筋合いはありません。私はあなたのお祖母様にお話がありますので」


 それを聞いて、エリザベスは冷水を浴びせられたような気分だった。


 恥ずかしい。


 彼が自分に用があるのだと一瞬でも思い込んだことが。つまり――他でもない自分のために来たのだと何の疑いもなく思い込んだことが。


 彼はエリザベスの祖母に用事があるのであって、ここに来たのは自分には関係がないのだ。そう思ったら、なんだかとても苦しかった。


(……そうよね。別にわたくしに用があるわけじゃないんだわ。……当たり前よ、婚約解消した相手に会いに来るわけないじゃないの。そんなにがっかりすることじゃないのに)


 ……がっかり? 浮かんだ思考に驚く。


(……馬鹿みたい。がっかりする権利なんてないのに。わたくしが放棄したのに)


 エリザベスはそんな自分を誤魔化すために「お祖母様にですか?でしたら呼んでまいりますわ」と言い、立ち上がって部屋を出て行こうとした。


 とにかくここから――彼から逃げたかった。


 視界がにじむのを感じて焦る。彼に見られたらどう思われるか分からない。


(……もしかしたら、彼はどうでもいいかもしれないけど)


 そう考えるとまた胸が痛んだ。

 けれどエリザベスは、部屋から出ることは叶わなかった。彼に腕を掴まれたからだ。


「お待ちください」


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