腐敗を統べる帝王、迷宮で無双する ~地下発酵帝国記~
## 序章 生贄の朝
白い花びらが落ちた。
祭壇。鎖。松明の列。
村長の手が頭に乗る。冷たかった。体温ではなく、習慣だ。
「汝を、深淵に捧ぐ」
カイト――十七歳――は歯を食いしばった。膝の裏が滑る。奥歯が鳴る。止めようとした。止まらなかった。
それでも泣かなかった。
泣いても誰も助けない。六歳のときに学んだ。
隣の巫女が囁いた。「カイト……ごめんね」
振り返らなかった。縄を解くつもりがないなら、声をかけるな。
石板が音を立てて動いた。足元が消えた。
落ちる。暗闇の中を、ただ落ちる。風が耳を引き裂く。底が見えない。壁も見えない。鎖が足首に食い込んだが、もう関係なかった。
――もっと早く逃げるべきだった。
思った瞬間に、全身が衝撃を受けた。
泥だった。骨に響く。意識は途切れなかった。
腐臭が鼻の奥を刺す。酸と硫黄と発酵の混合物。天井の亀裂から、光が一本だけ落ちていた。冷えた石が頬に触れる。湿っていた。
カイトは起き上がった。腕を確認する。折れていない。足も動く。
「……生きてる」
声が石に吸い込まれた。
ここは迷宮の上層。毒と腐敗が支配する魔物の巣窟。誰一人帰ったことがない、と聞いていた。
恐怖はある。だが死への諦めより、生への執念が一瞬だけ上回った。その一瞬に全部を賭けた。
――俺には、知識がある。
前世の記憶だ。微生物学者。専門は食品微生物学。発酵、腐敗、菌類の生態。二十年以上それだけを研究した人間の記憶が、この体の中にある。
唇の端が持ち上がった。
「腐敗が支配する場所なら」
声が暗闇に落ちる。
「俺の庭じゃないか」
-----
##
まず、水を探した。
壁面は黒いカビで覆われている。床は湿り、緑がかった沼が点在している。泥がかすかに泡を立てていた。
しゃがんで、指先で水面を弾く。粘度が高い。硫化水素系の毒素だ。触れれば皮膚が爛れる。飲めば死ぬ。
だが。
「……発酵してる」
内部で嫌気性発酵が進行していた。有機物が分解される過程で、特定の有機酸が生まれている。毒は毒だ。しかし副産物に価値がある。危険な甘さが、鼻の奥にかすかに残った。
水は天井の亀裂から落ちていた。石灰質のフィルターを通った湧き水。透明度。匂い。表面の膜の有無。問題なかった。
飲んだ。生きた。それで十分だった。
食料は洞窟の隅の白いキノコだ。小型の甲虫を捕まえ、一片を与えて三時間待つ。虫は死ななかった。
食べた。不味かった。生きた。
四日目、魔物と初めてまともに向き合った。
蜥蜴型。体長五十センチ。爪が鋭く、速い。最初は逃げた。狭い通路に隠れて息を殺した。魔物が去ってから、手のひらを見た。震えていた。
「戦力が必要だ」
石を拾い、毒沼の泥を薄めて石片に塗布した。毒塗りナイフの完成だ。
次に魔物が来たとき、逃げなかった。石を投げて気を引く。近づいた瞬間に首筋を一閃。二十秒で倒れた。
高揚感があった。恐怖より上回った、初めての瞬間だった。手は震えていた。それでも。
蜥蜴を解体し、肉を乾燥させた。壁面の青みがかった白カビ――ペニシリウム系だ――を接種し、岩の窪みを容器にした。六日後、白い膜が形成されていた。
一口食べた。
旨味があった。
迷宮の中で、一人で笑った。
次の実験で、失敗した。
橙色の菌を毒沼に直接投入した。三時間後、異臭が立ち上り、泥が岩を這い上がる。手に激痛が走った。指先が焼けるように痛む。菌が皮膚を侵食していた。
「くそ……っ」
水源に向かって走り、石灰岩の粉末を溶かした水に手を浸ける。少し楽になった。皮膚は赤く爛れた。三日間、右手の精度が落ちた。
失敗だ。しかし学んだ。投入前に毒素の濃度を下げる必要がある。手順が逆だった。
「次は正しくやる」
それだけ言って、作業を再開した。
七日後、毒消し手順が確立された。次は酒だ。苔から糖分を得て、天井の粉状コーティングを酵母として使う。岩の窪みに密封し、七日待つ。液面に泡が立っていた。
弱いアルコール感と酸味。
間違いなく酒だった。
地上との接点が、見え始めた気がした。
二十日が経った頃、初めて人間と遭遇した。
毒に当たって動けなくなっている冒険者が二人いた。カイトは迷った。三秒で決めた。地上の情報が必要だ。
「助ける代わりに、情報をくれ」
片方の男が目を開けた。幽霊でも見ているような目だ。「……お前、どうやってここにいる」
「後で話す。まず飲め」
毒消し薬を渡した。男が少しずつ呼吸を整える。「俺はガルドだ。お前は……生贄か」
「そうだ」
「なぜ生きている」
「知識があるから。微生物の知識だ」
ガルドは呆れたような、納得したような顔をした。
「ギルドのこと、迷宮の管理体制、地下産品の地上での価値を聞きたい」
ガルドは語った。生贄は死んだと処理されること。帰還者は例外なく捕縛されること。地下産の食材には信じがたい値がついていること。
「俺は死んだことになってるんだな」
「そうだ」
「好都合だ。ガルド、お前はなぜ地上に戻れない」
長い間があった。「……娘が六歳だ。病気で、治療費のために地下に来た。ギルドへの借金が増えた。戻れば奴隷に落とされる」
「なら、ここにいろ。仕事を与える」
「何の仕事だ」
「地下と地上を繋ぐ、流通の担い手だ」
ガルドは連れと顔を見合わせた。その顔に、困惑と、かすかな何かがあった。
-----
##
三番目の仲間は、村から逃げてきた少女だった。
名前はリナ。十五歳。次の生贄候補として選ばれ、逃走してきた。植物と薬草の知識が豊富で、足が速い。入り口付近でうずくまっているのをヴァンが見つけた。
「入り口で待ってても死ぬぞ」とカイトは言った。「奥に来るか」
リナは即座に頷いた。迷いがなかった。
「村、嫌いですか」と最初の夜にリナが聞いた。
「もう関係ない」
「私は嫌いです。恨んでます」
「復讐したいなら、こうしろ」とカイトは言った。「地下産品を地上に流す。貴族も商人も、欲しがって頭を下げるようになる。儀式で使われた子どもが経済を動かす。それが一番効くはずだ」
リナは少し黙った。「……なんか、すっきりしますね」
「だろ」
翌日から、リナは働いた。よく気がつく。物の変化を見逃さない。ある日、橙色のキノコを両手に抱えて戻ってきた。
「カイトさん、これ何に使えますか。毒がありそうで」
傘の裏とヒダ、柄の断面を確認した。「毒は分解できる。問題は残りの成分だ。加熱と特殊菌処理を組み合わせる。手伝え」
「どうやって?」
「説明しながらやる。まず橙菌を準備――」
「さっきのやつですね。毒沼から採ったやつ」
「そうだ。飲み込みが早い」
実験は三日かかった。途中で一度、処理液が黒く変色した。
「また最初からですか……」とリナが溜め息をついた。
「失敗から逃げると、正しい手順が学べない」
「カイトさんって、失敗したとき、どんな気分ですか」
「悔しい」
「でも怒りませんね」
右手の爛れた跡を見せた。「怒っても手が治らなかった。だから学ぶ方が速い」
リナは黙ってその跡を見た。何か言いかけて、やめた。
四日目、処理液に発酵酒を加えた。色が琥珀色に変わり、香りが層を成す。ガルドを呼んだ。
「試飲してくれ」
「……毒じゃないのか」
「まず俺が飲む。一時間後に問題なければお前が飲む」
一口飲んだ。目を閉じる。香りが喉を通り、胃に落ちた。旨味と酸味と、前世でも感じたことのない深みがある。
「うまいですか」とリナが前のめりになった。
「ものすごく」
一時間後、四人全員が同じ反応をした。目を見開いて、黙った。次に、笑った。
「こんな味、地上でも食ったことがない」とガルドが言った。「売れる。絶対に売れる」
「売る。非公式ルートで」
ガルドが商人に五本送り込んだ。一週間後、返事が来た。「倍値で売れた。もっと送れ」
地下と地上が、初めて取引で繋がった。
「これが帝国の始まりだ」
リナが首を傾けた。「カイトさんが帝王なんですか」
「まだ名乗れる段階じゃない。でも、なる」
リナは笑った。「なんか、信じられますね。なんでかわからないけど」
カイトは答えなかった。答える必要がなかった。
その夜、ガルドが焚き火の前でカイトに言った。「本当に帝国を作るつもりか」
「そうだ」
「地上に戻らないのか」
「死んだことになってる」とカイトは言った。「戻る場所がない」
「……それを、利用してるのか」
「利用できるものは全部使う。死も、腐敗も、落とされた事実も」
ガルドは黙った。炎が揺れた。「俺の娘が治ったら、礼をさせてくれ」
「今の仕事が礼だ」
「違う。人間としての礼だ」
カイトは答えなかった。ただ炎を見ていた。その顔に何があったか、ガルドにはわからなかった。
-----
##
一ヶ月後。支配領域は上層の三分の一に及んでいた。
仲間が増えていた。ガルドが地上から呼び込んだ鍛冶師・レックが加わった。全長三メートルの鎧型魔物の捕獲にも成功した。内側の白い筋肉は高タンパクで、発酵処理すると熟成肉に近い風味が生まれた。
「地上で一財産になる」とガルドが言った。
「今は出さない。ギルドが嗅ぎ付けてきたときの交渉カードだ」
「お前、本当に怖えな」
「褒め言葉だ」
報告が来なくなったのは、交易開始から三週間後の朝だった。
商人から七日間返事がない。ヴァンを入り口付近まで偵察に出した。三時間後、ヴァンが戻ってきた。顔が白かった。
「……やられた」
「何が」
「商人が捕まった。ギルドの強硬派だ。ドランって男が率いてる。地下産品の非公式流通は国家の安全保障を脅かすと言ってる。流通ルートは全部バレてる。三日後に部隊を送ると」
カイトは黙って岩の棚を見た。一ヶ月かけて積み上げた熟成品が並んでいた。
「部隊の規模は」
「十二人以上。武装してる」
「どうするんですか」とリナが言った。「このまま待つんですか」
「籠城だ。地形を使う。毒沼に誘導して、道を封鎖する。流通ルートは全部切る」
ガルドが顔をしかめた。「一ヶ月で積み上げたものを?」
「どうせ奪われる。なら先に手放す方がいい」
全員で動いた。通路に仕掛けを設置し、毒沼を迂回する偽ルートを作った。レックが岩を削り、リナが罠の素材を準備した。夜通しかかった。
三日後、ギルドの部隊が踏み込んできた。指揮していたのは四十代の男――ドランだ。鎧を着て、剣を持ち、部下を率いていた。
「地下産品の不正流通者を捕縛する。抵抗するな」
仕掛けが順番に発動した。最初の曲がり角で一人が足を踏み外した。毒沼だ。次に毒ガスが充満した袋が天井から落ちた。人工生成した硫化水素系。死なないが、視界がぼやけ息が苦しくなる。部隊が乱れた。
「道に迷いたくなければ、引け」
カイトは側道から現れ、ドランの後ろに立った。武器はない。ただ冷静な目だ。
ドランが振り返った。少年が一人、立っていた。
「……お前が、地下の支配者か」
「そうだ」
「なぜ生きている。生贄が生きているはずがない」
「そうなんだろうな、普通は」とカイトは言った。「でも俺は普通じゃなかった」
ドランは踏み出した。その瞬間、床が鳴った。仕掛けだ。三十センチの窪みに嵌まって体勢が崩れる。カイトはその隙に距離を取った。
「今すぐ引くなら、帰り道を教える。引かないなら、全員この迷宮に置いていく」
長い沈黙だった。
「……引く」
部隊が戻っていった。
だが、終わりではなかった。
二日後、ドランは別の手を打った。上層入り口を封鎖したのだ。「危険区域の立入禁止」を宣言し、商人のルートを全て遮断した。地下産品は地上に届かなくなった。
「商人も全員手を引いた」とガルドが報告した。「ドランが圧力をかけたらしい」
「どの程度だ」
「全部だ」
カイトは黙った。
「……一ヶ月分の仕事が全部消えた」とレックが言った。「これ、大丈夫なのか」
「大丈夫じゃない」
部屋が静まった。
「でも、終わりじゃない。ドランは俺たちを封鎖したと思ってる。でも、封鎖は双方向だ。ギルドに入ってくる地下産品も、全て止まった」
「……需要は生きてる、か」とリナが言った。
「そうだ。一度でも飲んだ者が、あの味が消えたとき、どう反応するかはわかるだろう。一週間待つ」
七日後の朝、ギルド側から接触があった。「話し合いの余地がある」
だが、その日の夕方、別の報告が届いた。
リナが上層の調査から戻ってこない。
ヴァンが青い顔をして言った。「ドランの部下が迷宮内に残ってたらしい。リナが……取り押さえられた」
部屋の空気が変わった。
カイトは立っていた。立ったまま、動かなかった。三秒、四秒、時間が経った。
「……どこだ」
「上層の北側通路だ」
走った。
北側通路の入り口に、部下が一人いた。リナを壁に押し付け、腕を掴んでいる。リナは噛み付こうとして、口を押さえられていた。
「離せ」
カイトの声が、通路に落ちた。
部下が振り返った。カイトを見て、笑った。「お前が地下の支配者か。ガキじゃないか。大人しくギルドに従え。そうすればこっちの子どもも解放する」
「離せと言った」
「聞こえなかったか。ギルドに従え。さもないと――」
「ふざけるな」
声が、変わった。
「俺は生きるためにここまでやったんだ」
壁の石片が手の中にあった。
「一ヶ月かけて積み上げたものを、一日で潰された。流通も、仲間の安全も、全部踏み躙られた」
拳が震えていた。奥歯が鳴った。止めようとした。止まらなかった。
「それを壊すなら――容赦はしない」
男の笑顔が消えた。カイトの目が変わっていたからだ。計算でも策略でもない。ただ、怒りがあった。
三秒の沈黙の後、男はリナの腕を離した。「……わかった。俺は引く」
男が去っていった。
リナが駆け寄った。「……カイトさん」
カイトは深呼吸した。震えがゆっくり収まっていった。
「怪我はないか」
「ない。……でも、カイトさん、大丈夫ですか」
「何が」
「すごい顔をしてた」
「怒った」
「知ってます」
「珍しかったか」
「……うん。でも」とリナは言った。「人間らしかったです」
カイトは何も言わなかった。石片を床に置いた。手の震えが、まだ少し残っていた。
その夜、ガルドがリナに言った。「今日のカイト、どうだった」
「初めて見ました。あんな顔」
「俺も驚いた」
「でも嫌いじゃないです」とリナは言った。「あの顔のカイトさん、嫌いじゃない」
ガルドは何も言わなかった。ただ頷いた。炎が揺れた。
-----
##
ドランが単独で来たのは、三日後だった。
鎧も剣もなく、交渉服だ。ヴァンが気づいて、カイトに報告した。
「……なんで一人なんですか」とリナが言った。
「試してる」とカイトは言った。「俺がどういう人間かを見たいんだ」
「どうするんですか」
「会う」
ドランは四十代の男だった。精悍な顔をしている。自分の信念がある顔だ。上司に媚びる顔ではない。
「地下の支配者か」
「そうだ」
「話がしたい」
「座れ」
岩を削った席にドランを座らせた。カイトは向かいに座った。
「前回の件は私の判断ミスだった」とドランは言った。「謝る」
「聞いてる」
「だが、地下産品の非公式流通は認めない。ギルドとして正式に管理したい」
「管理という言葉の意味を定義してくれ」
ドランが少し止まった。「……把握と統制だ」
「俺の帝国を、ギルドが支配するということか」
「そういう言い方は」
「そういう意味だろう」
ドランは黙った。カイトは続けた。「俺が提供できるのは、独占取引権だ。ギルドを通じてのみ地上に流通させる。代わりに不干渉の保証と、地上資材の供給を求める」
「それはギルドが管理権を失うに等しい」
「そうだ」
「受け入れられない」
「では、俺が地上に一切出さないとしたらどうなる」
沈黙。
「需要は既に動いている。供給を止めれば、その不満は全部ギルドに向かう。ドラン、お前は今、ギルド内で孤立しかけているはずだ」
ドランの眉が動いた。「……俺を脅しているのか」
「交渉をしている」
長い沈黙だった。ドランは席を立ち、岩の亀裂から地下の暗闇を見た。
「……わかった。持ち帰る」
「三日やる」
帰りかけたとき、ドランは足を止めた。「一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「先日、部下が子どもを掴まえた。あそこで怒鳴ったらしいな」
カイトは少し間を置いた。
「俺が作ったものを、誰にも壊されたくないんだ」
「……それだけか」
「それだけで十分だ」
ドランは少し黙ってから、頷いた。それ以上何も言わず、去っていった。
七日後、ギルドが折れた。
ギルドマスターの名代が三人来た。筆頭は中年の女性だった。「交渉しましょう」
条件の詰めに三時間かかった。ギルドが独占取引権を持つ代わりに、地下への干渉を禁じる。地上資材を月一で供給する。利益の二割をギルドに支払う。
カイトは毒塗りの石版に爪の跡を残した。女は正式な羊皮紙に署名した。
「これで契約成立だ」
「こんな場所で外交をするとは思わなかった」と女は言った。
カイトは答えなかった。
リナが小声で言った。「カイトさん、ちょっと嬉しそうですね」
「……少しだけ」
帰り際、女が振り返った。「一つだけ聞いていいか」
「何だ」
「なぜここまでできた。生贄だろう」
「死ぬはずだった」とカイトは言った。「だから余分だ」
女は黙った。その目に、商人とは別の何かがあった。
-----
##
王家が動いたのは、それから一ヶ月後だった。
使者が来た。「国王陛下がご面会を望んでおられます。王都においでください」
カイトは一言で断った。「私は地下から動かない。王が来たければ、入り口まで来い」
この返答に王家は激怒したらしい。だが三日後に折れた。
第二王子が迷宮入り口の村まで来た。護衛を率い、式典服を着て。上層まで案内した。
王子は整然とした地下帝国を見て、黙った。岩の棚に並ぶ発酵品。洗練された水路。家畜化された魔物が静かに歩いている。岩を削った椅子に座る、一人の少年。
「お前が……地下の帝王か」
カイトは頷いた。「貴族の言葉は知らない。直接話す。何が欲しい」
「率直だな。では私も率直に。王家は地下産品の専売権が欲しい。ギルドを通さず直接取引したい」
「それはできない。ギルドとの契約がある」
「破棄できないか」
「契約を破る組織と、次の取引はしない。それが俺のルールだ」
王子は黙った。プライドと現実の間で、顔の筋肉が揺れていた。
「……では、地下産品の一部を王家への贈り物として受け取ることはできるか。代わりに王家の保護を提供する」
「構わない。ただし不干渉の誓約を結ぶこと。地下への軍の派遣は禁じる」
「……それは」
「条件だ。飲めないなら話はない」
王子は長い溜め息をついた。「……兄に相談する時間がほしい」
「三日やる」
三日後、王子は戻ってきた。旅装で、護衛も少なかった。「誓約しよう」
王子が自ら羊皮紙に署名した。カイトは石版に爪の跡を残した。
帰り際、王子は足を止めた。「……どうやってそこまで上り詰めた」
「落ちた場所が、たまたま俺の知識と一致していた。それだけだ」
「それだけ、か」
「運と知識と、諦めなかったこと。三つが揃えば人は何でもできる」
王子は複雑な顔をして、去っていった。
リナが後から言った。「王子、最後に振り返ってましたよ。信じられないって顔で」
「自分より年下の子どもに外交で負けたんだから、そうなるだろうな」
「カイトさん、嬉しそうですね」
「嬉しいに決まってる」
珍しく、カイトは笑った。「地上の王家が、地下の生贄の少年に折れた。これは価値がある」
-----
##
下層への調査は、仲間が安定した頃に始めた。
「特殊菌の宝庫だ」と初日にリナが言った。「前と違う匂いがします」
「前世の知識にも存在しない菌がある。慎重に進める」
「リナ、変色を毎朝記録しろ。俺が見る前に触るな」
「……カイトさん、心配してるんですか」
「データが欲しいだけだ」
リナは笑った。「どっちも本当だと思います」
最深部には大型の気配があった。二週間の準備の後、単独で踏み込んだ。
最深部には沼があった。半径五十メートルを超える巨大な沼。硫黄臭と発酵臭が混ざり合い、空気が重く沈んでいる。そこに、いた。
水龍型の超大型魔物。全長二十メートル以上。体の半分が沼に沈み、眠るように静止していた。鱗の一枚一枚が岩のようだ。呼吸のたびに沼が揺れる。近づけない。ただ、観察する。
三日間、距離を保ちながら行動パターンを記録した。
この魔物は沼の発酵産物を食料にしていた。沼底の有機物が嫌気発酵し、特定のガスを生成する。魔物はそれを吸収して生きていた。
「なら」
特定の菌を大量培養し、沼に投入する。発酵バランスを意図的に変える。生成ガスの組成が変化する。魔物の食料が、変質する。
投入中に風向きが変わった。
発酵ガスが逆流した。気づいた瞬間に息を止めたが、一秒遅かった。胸の奥に刺すような痛みが走り、視界がぼやけた。
「……くそ」
足が崩れた。岩の端に手をついてよろめく。水龍が動いた。ガス組成の変化で浅眠に入ったらしい。巨大な尾が沼を叩く。波が広がる。
床を走って距離を取った。息を吸う。肺が焼けるように痛い。それでも足を止めなかった。
十分後、水龍の動きが鈍くなった。壁に背をついて、荒い息を吐いた。
「……制した」
勝利だ。しかし胸の痛みは三日間続いた。深呼吸するたびに痛む。発酵ガスによる軽度の気管侵食。後遺症が残る可能性がある。
戻ると、リナが駆け寄った。「カイトさん、顔色が……」
「問題ない」
「嘘です。呼吸が浅い」
「……少しガスを吸った」
リナは黙って薬草の束を取り出した。すり潰して、水で溶いて、飲ませた。苦かった。でも少し楽になった。
「……ありがとう」
リナが少し驚いた顔をした。「カイトさんが素直に礼を言うの、初めて聞きました」
「そうか」
「大事にしてください」とリナは言った。「帝国の帝王が死んだら困ります。私が」
最後の一言が、小さかった。聞き取れないほど小さかった。
カイトは答えなかった。
戻ると、ガルドが出迎えた。「生きてたか」
「当然だ」
「ガスを吸ったらしいな」
「問題ない」
「問題ある顔してるぞ」
カイトは少し間を置いた。「……全層が掌握できた。地下帝国は完成した」
「代償があったな」
「あった」
「……今日初めて、お前が代償を認めたぞ」
カイトは何も言わなかった。その顔が、少しだけ人間のものになっていた。炎の前で、ガルドはそれを見た。見て、何も言わなかった。
-----
## 終章 腐敗の王
一年が経った。
地下帝国の全層が掌握された。地上ではギルドと王家の双方が地下産品を流通させ、経済が動いていた。カイトの名は死んだままだ。それでいい。
生贄の村が、迷宮入り口で待っていた。
村長が一人で立っていた。老人だった。最後に見たのは、祭壇の上だった。あのとき、この手が頭に乗った。
「……生きていたのか」
声が震えていた。
カイトは足を止めた。少し間を置いて、言った。
「俺を生贄にしたことを、後悔しているか」
村長は俯いた。「……している。ずっと、している」
「なぜ後悔する。儀式だろう。伝統だろう」
「それが……理由にならないとわかった。地下産品が届き始めたときだ。誰かが作ったものだとわかったとき。人が生きていると、人が働いていると知ったとき。俺たちは……人を送り込んでいたんだと、やっとわかった」
カイトは黙った。
長い、沈黙だった。頭の中で何かが動いた。怒りではない。もっと別の何かだ。名前がわからなかった。
「一つだけ聞く。これからも生贄を送るつもりか」
「いや。もうできない」
「正解だ」
迷宮に戻ろうとした。村長が呼び止めた。「待ってくれ。謝罪がしたい。村全員の謝罪が」
カイトは足を止めた。振り返らなかった。
「謝罪はいらない。代わりにこれからは、迷宮の案内人になれ。訪問者の窓口だ。賃金は地下産品で払う」
返事を待たず、歩き始めた。
リナが隣に並んだ。「村長、泣いてましたよ」
「見た」
「怒らなかったんですか」
「怒りは、落とされた日に全部使い果たした」
「……今は?」
「帝国を維持することで、頭がいっぱいだ」
リナは笑った。しばらく黙って歩いてから、また聞いた。
「ねえ、カイトさん」
「何だ」
「最初、地下に落ちたとき。死ぬって思いましたか」
足が一瞬、止まった。
「思った」
「でも諦めなかった」
「諦めるより先に、やることがあった」
少し間があった。
「……あの日、俺は死ぬはずだった」
リナが足を止めた。カイトは止まらなかった。歩きながら、続けた。
「落ちた瞬間、死ぬと思った。泥に叩きつけられても、まだ死ぬと思った。それでも体が動いた。なんでかはわからない。ただ動いた」
「……それが全部の始まりですね」
「そうだ」
「よかった」
「何が」
「動いたこと」とリナは言った。「カイトさんが諦めなかったこと」
カイトは答えなかった。
地下への道を降りる。
上層の整備された通路。毒沼を迂回する水路。中層の発酵工房。家畜化された魔物が静かに歩く。岩の棚に熟成品が並ぶ。下層の特殊菌培養コロニー。水龍が眠る最深部。
全て、一年前に毒と腐敗に支配されていた場所だ。
今は違う。
腐敗は食料になった。毒は薬になった。絶望は、帝国になった。
「次は何をする」とリナが聞いた。
「新しい菌を見つける。新しい発酵を開発する。そして地上の貴族どもが、もっと欲しいと言う食材を作る」
「目的はそれだけですか」
「それだけで十分だ」
石の廊下を歩く。足音が反響する。地下の静寂の中に、帝国の鼓動が宿っていた。
カイト――かつて生贄として落とされた少年――は、地下迷宮の帝王として、今日も歩く。
地上を見上げることなく。ただ前を向いて。帝国の先を、見据えながら。




