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腐敗を統べる帝王、迷宮で無双する ~地下発酵帝国記~

掲載日:2026/04/07

## 序章 生贄の朝


白い花びらが落ちた。


祭壇。鎖。松明の列。

村長の手が頭に乗る。冷たかった。体温ではなく、習慣だ。


「汝を、深淵に捧ぐ」


カイト――十七歳――は歯を食いしばった。膝の裏が滑る。奥歯が鳴る。止めようとした。止まらなかった。


それでも泣かなかった。


泣いても誰も助けない。六歳のときに学んだ。


隣の巫女が囁いた。「カイト……ごめんね」


振り返らなかった。縄を解くつもりがないなら、声をかけるな。


石板が音を立てて動いた。足元が消えた。


落ちる。暗闇の中を、ただ落ちる。風が耳を引き裂く。底が見えない。壁も見えない。鎖が足首に食い込んだが、もう関係なかった。


――もっと早く逃げるべきだった。


思った瞬間に、全身が衝撃を受けた。


泥だった。骨に響く。意識は途切れなかった。


腐臭が鼻の奥を刺す。酸と硫黄と発酵の混合物。天井の亀裂から、光が一本だけ落ちていた。冷えた石が頬に触れる。湿っていた。


カイトは起き上がった。腕を確認する。折れていない。足も動く。


「……生きてる」


声が石に吸い込まれた。


ここは迷宮の上層。毒と腐敗が支配する魔物の巣窟。誰一人帰ったことがない、と聞いていた。


恐怖はある。だが死への諦めより、生への執念が一瞬だけ上回った。その一瞬に全部を賭けた。


――俺には、知識がある。


前世の記憶だ。微生物学者。専門は食品微生物学。発酵、腐敗、菌類の生態。二十年以上それだけを研究した人間の記憶が、この体の中にある。


唇の端が持ち上がった。


「腐敗が支配する場所なら」


声が暗闇に落ちる。


「俺の庭じゃないか」


-----


##


まず、水を探した。


壁面は黒いカビで覆われている。床は湿り、緑がかった沼が点在している。泥がかすかに泡を立てていた。


しゃがんで、指先で水面を弾く。粘度が高い。硫化水素系の毒素だ。触れれば皮膚が爛れる。飲めば死ぬ。


だが。


「……発酵してる」


内部で嫌気性発酵が進行していた。有機物が分解される過程で、特定の有機酸が生まれている。毒は毒だ。しかし副産物に価値がある。危険な甘さが、鼻の奥にかすかに残った。


水は天井の亀裂から落ちていた。石灰質のフィルターを通った湧き水。透明度。匂い。表面の膜の有無。問題なかった。


飲んだ。生きた。それで十分だった。


食料は洞窟の隅の白いキノコだ。小型の甲虫を捕まえ、一片を与えて三時間待つ。虫は死ななかった。


食べた。不味かった。生きた。


四日目、魔物と初めてまともに向き合った。


蜥蜴型。体長五十センチ。爪が鋭く、速い。最初は逃げた。狭い通路に隠れて息を殺した。魔物が去ってから、手のひらを見た。震えていた。


「戦力が必要だ」


石を拾い、毒沼の泥を薄めて石片に塗布した。毒塗りナイフの完成だ。


次に魔物が来たとき、逃げなかった。石を投げて気を引く。近づいた瞬間に首筋を一閃。二十秒で倒れた。


高揚感があった。恐怖より上回った、初めての瞬間だった。手は震えていた。それでも。


蜥蜴を解体し、肉を乾燥させた。壁面の青みがかった白カビ――ペニシリウム系だ――を接種し、岩の窪みを容器にした。六日後、白い膜が形成されていた。


一口食べた。


旨味があった。


迷宮の中で、一人で笑った。


次の実験で、失敗した。


橙色の菌を毒沼に直接投入した。三時間後、異臭が立ち上り、泥が岩を這い上がる。手に激痛が走った。指先が焼けるように痛む。菌が皮膚を侵食していた。


「くそ……っ」


水源に向かって走り、石灰岩の粉末を溶かした水に手を浸ける。少し楽になった。皮膚は赤く爛れた。三日間、右手の精度が落ちた。


失敗だ。しかし学んだ。投入前に毒素の濃度を下げる必要がある。手順が逆だった。


「次は正しくやる」


それだけ言って、作業を再開した。


七日後、毒消し手順が確立された。次は酒だ。苔から糖分を得て、天井の粉状コーティングを酵母として使う。岩の窪みに密封し、七日待つ。液面に泡が立っていた。


弱いアルコール感と酸味。


間違いなく酒だった。


地上との接点が、見え始めた気がした。


二十日が経った頃、初めて人間と遭遇した。


毒に当たって動けなくなっている冒険者が二人いた。カイトは迷った。三秒で決めた。地上の情報が必要だ。


「助ける代わりに、情報をくれ」


片方の男が目を開けた。幽霊でも見ているような目だ。「……お前、どうやってここにいる」


「後で話す。まず飲め」


毒消し薬を渡した。男が少しずつ呼吸を整える。「俺はガルドだ。お前は……生贄か」


「そうだ」


「なぜ生きている」


「知識があるから。微生物の知識だ」


ガルドは呆れたような、納得したような顔をした。


「ギルドのこと、迷宮の管理体制、地下産品の地上での価値を聞きたい」


ガルドは語った。生贄は死んだと処理されること。帰還者は例外なく捕縛されること。地下産の食材には信じがたい値がついていること。


「俺は死んだことになってるんだな」


「そうだ」


「好都合だ。ガルド、お前はなぜ地上に戻れない」


長い間があった。「……娘が六歳だ。病気で、治療費のために地下に来た。ギルドへの借金が増えた。戻れば奴隷に落とされる」


「なら、ここにいろ。仕事を与える」


「何の仕事だ」


「地下と地上を繋ぐ、流通の担い手だ」


ガルドは連れと顔を見合わせた。その顔に、困惑と、かすかな何かがあった。


-----


##


三番目の仲間は、村から逃げてきた少女だった。


名前はリナ。十五歳。次の生贄候補として選ばれ、逃走してきた。植物と薬草の知識が豊富で、足が速い。入り口付近でうずくまっているのをヴァンが見つけた。


「入り口で待ってても死ぬぞ」とカイトは言った。「奥に来るか」


リナは即座に頷いた。迷いがなかった。


「村、嫌いですか」と最初の夜にリナが聞いた。


「もう関係ない」


「私は嫌いです。恨んでます」


「復讐したいなら、こうしろ」とカイトは言った。「地下産品を地上に流す。貴族も商人も、欲しがって頭を下げるようになる。儀式で使われた子どもが経済を動かす。それが一番効くはずだ」


リナは少し黙った。「……なんか、すっきりしますね」


「だろ」


翌日から、リナは働いた。よく気がつく。物の変化を見逃さない。ある日、橙色のキノコを両手に抱えて戻ってきた。


「カイトさん、これ何に使えますか。毒がありそうで」


傘の裏とヒダ、柄の断面を確認した。「毒は分解できる。問題は残りの成分だ。加熱と特殊菌処理を組み合わせる。手伝え」


「どうやって?」


「説明しながらやる。まず橙菌を準備――」


「さっきのやつですね。毒沼から採ったやつ」


「そうだ。飲み込みが早い」


実験は三日かかった。途中で一度、処理液が黒く変色した。


「また最初からですか……」とリナが溜め息をついた。


「失敗から逃げると、正しい手順が学べない」


「カイトさんって、失敗したとき、どんな気分ですか」


「悔しい」


「でも怒りませんね」


右手の爛れた跡を見せた。「怒っても手が治らなかった。だから学ぶ方が速い」


リナは黙ってその跡を見た。何か言いかけて、やめた。


四日目、処理液に発酵酒を加えた。色が琥珀色に変わり、香りが層を成す。ガルドを呼んだ。


「試飲してくれ」


「……毒じゃないのか」


「まず俺が飲む。一時間後に問題なければお前が飲む」


一口飲んだ。目を閉じる。香りが喉を通り、胃に落ちた。旨味と酸味と、前世でも感じたことのない深みがある。


「うまいですか」とリナが前のめりになった。


「ものすごく」


一時間後、四人全員が同じ反応をした。目を見開いて、黙った。次に、笑った。


「こんな味、地上でも食ったことがない」とガルドが言った。「売れる。絶対に売れる」


「売る。非公式ルートで」


ガルドが商人に五本送り込んだ。一週間後、返事が来た。「倍値で売れた。もっと送れ」


地下と地上が、初めて取引で繋がった。


「これが帝国の始まりだ」


リナが首を傾けた。「カイトさんが帝王なんですか」


「まだ名乗れる段階じゃない。でも、なる」


リナは笑った。「なんか、信じられますね。なんでかわからないけど」


カイトは答えなかった。答える必要がなかった。


その夜、ガルドが焚き火の前でカイトに言った。「本当に帝国を作るつもりか」


「そうだ」


「地上に戻らないのか」


「死んだことになってる」とカイトは言った。「戻る場所がない」


「……それを、利用してるのか」


「利用できるものは全部使う。死も、腐敗も、落とされた事実も」


ガルドは黙った。炎が揺れた。「俺の娘が治ったら、礼をさせてくれ」


「今の仕事が礼だ」


「違う。人間としての礼だ」


カイトは答えなかった。ただ炎を見ていた。その顔に何があったか、ガルドにはわからなかった。


-----


##


一ヶ月後。支配領域は上層の三分の一に及んでいた。


仲間が増えていた。ガルドが地上から呼び込んだ鍛冶師・レックが加わった。全長三メートルの鎧型魔物の捕獲にも成功した。内側の白い筋肉は高タンパクで、発酵処理すると熟成肉に近い風味が生まれた。


「地上で一財産になる」とガルドが言った。


「今は出さない。ギルドが嗅ぎ付けてきたときの交渉カードだ」


「お前、本当に怖えな」


「褒め言葉だ」


報告が来なくなったのは、交易開始から三週間後の朝だった。


商人から七日間返事がない。ヴァンを入り口付近まで偵察に出した。三時間後、ヴァンが戻ってきた。顔が白かった。


「……やられた」


「何が」


「商人が捕まった。ギルドの強硬派だ。ドランって男が率いてる。地下産品の非公式流通は国家の安全保障を脅かすと言ってる。流通ルートは全部バレてる。三日後に部隊を送ると」


カイトは黙って岩の棚を見た。一ヶ月かけて積み上げた熟成品が並んでいた。


「部隊の規模は」


「十二人以上。武装してる」


「どうするんですか」とリナが言った。「このまま待つんですか」


「籠城だ。地形を使う。毒沼に誘導して、道を封鎖する。流通ルートは全部切る」


ガルドが顔をしかめた。「一ヶ月で積み上げたものを?」


「どうせ奪われる。なら先に手放す方がいい」


全員で動いた。通路に仕掛けを設置し、毒沼を迂回する偽ルートを作った。レックが岩を削り、リナが罠の素材を準備した。夜通しかかった。


三日後、ギルドの部隊が踏み込んできた。指揮していたのは四十代の男――ドランだ。鎧を着て、剣を持ち、部下を率いていた。


「地下産品の不正流通者を捕縛する。抵抗するな」


仕掛けが順番に発動した。最初の曲がり角で一人が足を踏み外した。毒沼だ。次に毒ガスが充満した袋が天井から落ちた。人工生成した硫化水素系。死なないが、視界がぼやけ息が苦しくなる。部隊が乱れた。


「道に迷いたくなければ、引け」


カイトは側道から現れ、ドランの後ろに立った。武器はない。ただ冷静な目だ。


ドランが振り返った。少年が一人、立っていた。


「……お前が、地下の支配者か」


「そうだ」


「なぜ生きている。生贄が生きているはずがない」


「そうなんだろうな、普通は」とカイトは言った。「でも俺は普通じゃなかった」


ドランは踏み出した。その瞬間、床が鳴った。仕掛けだ。三十センチの窪みに嵌まって体勢が崩れる。カイトはその隙に距離を取った。


「今すぐ引くなら、帰り道を教える。引かないなら、全員この迷宮に置いていく」


長い沈黙だった。


「……引く」


部隊が戻っていった。


だが、終わりではなかった。


二日後、ドランは別の手を打った。上層入り口を封鎖したのだ。「危険区域の立入禁止」を宣言し、商人のルートを全て遮断した。地下産品は地上に届かなくなった。


「商人も全員手を引いた」とガルドが報告した。「ドランが圧力をかけたらしい」


「どの程度だ」


「全部だ」


カイトは黙った。


「……一ヶ月分の仕事が全部消えた」とレックが言った。「これ、大丈夫なのか」


「大丈夫じゃない」


部屋が静まった。


「でも、終わりじゃない。ドランは俺たちを封鎖したと思ってる。でも、封鎖は双方向だ。ギルドに入ってくる地下産品も、全て止まった」


「……需要は生きてる、か」とリナが言った。


「そうだ。一度でも飲んだ者が、あの味が消えたとき、どう反応するかはわかるだろう。一週間待つ」


七日後の朝、ギルド側から接触があった。「話し合いの余地がある」


だが、その日の夕方、別の報告が届いた。


リナが上層の調査から戻ってこない。


ヴァンが青い顔をして言った。「ドランの部下が迷宮内に残ってたらしい。リナが……取り押さえられた」


部屋の空気が変わった。


カイトは立っていた。立ったまま、動かなかった。三秒、四秒、時間が経った。


「……どこだ」


「上層の北側通路だ」


走った。


北側通路の入り口に、部下が一人いた。リナを壁に押し付け、腕を掴んでいる。リナは噛み付こうとして、口を押さえられていた。


「離せ」


カイトの声が、通路に落ちた。


部下が振り返った。カイトを見て、笑った。「お前が地下の支配者か。ガキじゃないか。大人しくギルドに従え。そうすればこっちの子どもも解放する」


「離せと言った」


「聞こえなかったか。ギルドに従え。さもないと――」


「ふざけるな」


声が、変わった。


「俺は生きるためにここまでやったんだ」


壁の石片が手の中にあった。


「一ヶ月かけて積み上げたものを、一日で潰された。流通も、仲間の安全も、全部踏み躙られた」


拳が震えていた。奥歯が鳴った。止めようとした。止まらなかった。


「それを壊すなら――容赦はしない」


男の笑顔が消えた。カイトの目が変わっていたからだ。計算でも策略でもない。ただ、怒りがあった。


三秒の沈黙の後、男はリナの腕を離した。「……わかった。俺は引く」


男が去っていった。


リナが駆け寄った。「……カイトさん」


カイトは深呼吸した。震えがゆっくり収まっていった。


「怪我はないか」


「ない。……でも、カイトさん、大丈夫ですか」


「何が」


「すごい顔をしてた」


「怒った」


「知ってます」


「珍しかったか」


「……うん。でも」とリナは言った。「人間らしかったです」


カイトは何も言わなかった。石片を床に置いた。手の震えが、まだ少し残っていた。


その夜、ガルドがリナに言った。「今日のカイト、どうだった」


「初めて見ました。あんな顔」


「俺も驚いた」


「でも嫌いじゃないです」とリナは言った。「あの顔のカイトさん、嫌いじゃない」


ガルドは何も言わなかった。ただ頷いた。炎が揺れた。


-----


##


ドランが単独で来たのは、三日後だった。


鎧も剣もなく、交渉服だ。ヴァンが気づいて、カイトに報告した。


「……なんで一人なんですか」とリナが言った。


「試してる」とカイトは言った。「俺がどういう人間かを見たいんだ」


「どうするんですか」


「会う」


ドランは四十代の男だった。精悍な顔をしている。自分の信念がある顔だ。上司に媚びる顔ではない。


「地下の支配者か」


「そうだ」


「話がしたい」


「座れ」


岩を削った席にドランを座らせた。カイトは向かいに座った。


「前回の件は私の判断ミスだった」とドランは言った。「謝る」


「聞いてる」


「だが、地下産品の非公式流通は認めない。ギルドとして正式に管理したい」


「管理という言葉の意味を定義してくれ」


ドランが少し止まった。「……把握と統制だ」


「俺の帝国を、ギルドが支配するということか」


「そういう言い方は」


「そういう意味だろう」


ドランは黙った。カイトは続けた。「俺が提供できるのは、独占取引権だ。ギルドを通じてのみ地上に流通させる。代わりに不干渉の保証と、地上資材の供給を求める」


「それはギルドが管理権を失うに等しい」


「そうだ」


「受け入れられない」


「では、俺が地上に一切出さないとしたらどうなる」


沈黙。


「需要は既に動いている。供給を止めれば、その不満は全部ギルドに向かう。ドラン、お前は今、ギルド内で孤立しかけているはずだ」


ドランの眉が動いた。「……俺を脅しているのか」


「交渉をしている」


長い沈黙だった。ドランは席を立ち、岩の亀裂から地下の暗闇を見た。


「……わかった。持ち帰る」


「三日やる」


帰りかけたとき、ドランは足を止めた。「一つだけ聞いていいか」


「何だ」


「先日、部下が子どもを掴まえた。あそこで怒鳴ったらしいな」


カイトは少し間を置いた。


「俺が作ったものを、誰にも壊されたくないんだ」


「……それだけか」


「それだけで十分だ」


ドランは少し黙ってから、頷いた。それ以上何も言わず、去っていった。


七日後、ギルドが折れた。


ギルドマスターの名代が三人来た。筆頭は中年の女性だった。「交渉しましょう」


条件の詰めに三時間かかった。ギルドが独占取引権を持つ代わりに、地下への干渉を禁じる。地上資材を月一で供給する。利益の二割をギルドに支払う。


カイトは毒塗りの石版に爪の跡を残した。女は正式な羊皮紙に署名した。


「これで契約成立だ」


「こんな場所で外交をするとは思わなかった」と女は言った。


カイトは答えなかった。


リナが小声で言った。「カイトさん、ちょっと嬉しそうですね」


「……少しだけ」


帰り際、女が振り返った。「一つだけ聞いていいか」


「何だ」


「なぜここまでできた。生贄だろう」


「死ぬはずだった」とカイトは言った。「だから余分だ」


女は黙った。その目に、商人とは別の何かがあった。


-----


##


王家が動いたのは、それから一ヶ月後だった。


使者が来た。「国王陛下がご面会を望んでおられます。王都においでください」


カイトは一言で断った。「私は地下から動かない。王が来たければ、入り口まで来い」


この返答に王家は激怒したらしい。だが三日後に折れた。


第二王子が迷宮入り口の村まで来た。護衛を率い、式典服を着て。上層まで案内した。


王子は整然とした地下帝国を見て、黙った。岩の棚に並ぶ発酵品。洗練された水路。家畜化された魔物が静かに歩いている。岩を削った椅子に座る、一人の少年。


「お前が……地下の帝王か」


カイトは頷いた。「貴族の言葉は知らない。直接話す。何が欲しい」


「率直だな。では私も率直に。王家は地下産品の専売権が欲しい。ギルドを通さず直接取引したい」


「それはできない。ギルドとの契約がある」


「破棄できないか」


「契約を破る組織と、次の取引はしない。それが俺のルールだ」


王子は黙った。プライドと現実の間で、顔の筋肉が揺れていた。


「……では、地下産品の一部を王家への贈り物として受け取ることはできるか。代わりに王家の保護を提供する」


「構わない。ただし不干渉の誓約を結ぶこと。地下への軍の派遣は禁じる」


「……それは」


「条件だ。飲めないなら話はない」


王子は長い溜め息をついた。「……兄に相談する時間がほしい」


「三日やる」


三日後、王子は戻ってきた。旅装で、護衛も少なかった。「誓約しよう」


王子が自ら羊皮紙に署名した。カイトは石版に爪の跡を残した。


帰り際、王子は足を止めた。「……どうやってそこまで上り詰めた」


「落ちた場所が、たまたま俺の知識と一致していた。それだけだ」


「それだけ、か」


「運と知識と、諦めなかったこと。三つが揃えば人は何でもできる」


王子は複雑な顔をして、去っていった。


リナが後から言った。「王子、最後に振り返ってましたよ。信じられないって顔で」


「自分より年下の子どもに外交で負けたんだから、そうなるだろうな」


「カイトさん、嬉しそうですね」


「嬉しいに決まってる」


珍しく、カイトは笑った。「地上の王家が、地下の生贄の少年に折れた。これは価値がある」


-----


##


下層への調査は、仲間が安定した頃に始めた。


「特殊菌の宝庫だ」と初日にリナが言った。「前と違う匂いがします」


「前世の知識にも存在しない菌がある。慎重に進める」


「リナ、変色を毎朝記録しろ。俺が見る前に触るな」


「……カイトさん、心配してるんですか」


「データが欲しいだけだ」


リナは笑った。「どっちも本当だと思います」


最深部には大型の気配があった。二週間の準備の後、単独で踏み込んだ。


最深部には沼があった。半径五十メートルを超える巨大な沼。硫黄臭と発酵臭が混ざり合い、空気が重く沈んでいる。そこに、いた。


水龍型の超大型魔物。全長二十メートル以上。体の半分が沼に沈み、眠るように静止していた。鱗の一枚一枚が岩のようだ。呼吸のたびに沼が揺れる。近づけない。ただ、観察する。


三日間、距離を保ちながら行動パターンを記録した。


この魔物は沼の発酵産物を食料にしていた。沼底の有機物が嫌気発酵し、特定のガスを生成する。魔物はそれを吸収して生きていた。


「なら」


特定の菌を大量培養し、沼に投入する。発酵バランスを意図的に変える。生成ガスの組成が変化する。魔物の食料が、変質する。


投入中に風向きが変わった。


発酵ガスが逆流した。気づいた瞬間に息を止めたが、一秒遅かった。胸の奥に刺すような痛みが走り、視界がぼやけた。


「……くそ」


足が崩れた。岩の端に手をついてよろめく。水龍が動いた。ガス組成の変化で浅眠に入ったらしい。巨大な尾が沼を叩く。波が広がる。


床を走って距離を取った。息を吸う。肺が焼けるように痛い。それでも足を止めなかった。


十分後、水龍の動きが鈍くなった。壁に背をついて、荒い息を吐いた。


「……制した」


勝利だ。しかし胸の痛みは三日間続いた。深呼吸するたびに痛む。発酵ガスによる軽度の気管侵食。後遺症が残る可能性がある。


戻ると、リナが駆け寄った。「カイトさん、顔色が……」


「問題ない」


「嘘です。呼吸が浅い」


「……少しガスを吸った」


リナは黙って薬草の束を取り出した。すり潰して、水で溶いて、飲ませた。苦かった。でも少し楽になった。


「……ありがとう」


リナが少し驚いた顔をした。「カイトさんが素直に礼を言うの、初めて聞きました」


「そうか」


「大事にしてください」とリナは言った。「帝国の帝王が死んだら困ります。私が」


最後の一言が、小さかった。聞き取れないほど小さかった。


カイトは答えなかった。


戻ると、ガルドが出迎えた。「生きてたか」


「当然だ」


「ガスを吸ったらしいな」


「問題ない」


「問題ある顔してるぞ」


カイトは少し間を置いた。「……全層が掌握できた。地下帝国は完成した」


「代償があったな」


「あった」


「……今日初めて、お前が代償を認めたぞ」


カイトは何も言わなかった。その顔が、少しだけ人間のものになっていた。炎の前で、ガルドはそれを見た。見て、何も言わなかった。


-----


## 終章 腐敗の王


一年が経った。


地下帝国の全層が掌握された。地上ではギルドと王家の双方が地下産品を流通させ、経済が動いていた。カイトの名は死んだままだ。それでいい。


生贄の村が、迷宮入り口で待っていた。


村長が一人で立っていた。老人だった。最後に見たのは、祭壇の上だった。あのとき、この手が頭に乗った。


「……生きていたのか」


声が震えていた。


カイトは足を止めた。少し間を置いて、言った。


「俺を生贄にしたことを、後悔しているか」


村長は俯いた。「……している。ずっと、している」


「なぜ後悔する。儀式だろう。伝統だろう」


「それが……理由にならないとわかった。地下産品が届き始めたときだ。誰かが作ったものだとわかったとき。人が生きていると、人が働いていると知ったとき。俺たちは……人を送り込んでいたんだと、やっとわかった」


カイトは黙った。


長い、沈黙だった。頭の中で何かが動いた。怒りではない。もっと別の何かだ。名前がわからなかった。


「一つだけ聞く。これからも生贄を送るつもりか」


「いや。もうできない」


「正解だ」


迷宮に戻ろうとした。村長が呼び止めた。「待ってくれ。謝罪がしたい。村全員の謝罪が」


カイトは足を止めた。振り返らなかった。


「謝罪はいらない。代わりにこれからは、迷宮の案内人になれ。訪問者の窓口だ。賃金は地下産品で払う」


返事を待たず、歩き始めた。


リナが隣に並んだ。「村長、泣いてましたよ」


「見た」


「怒らなかったんですか」


「怒りは、落とされた日に全部使い果たした」


「……今は?」


「帝国を維持することで、頭がいっぱいだ」


リナは笑った。しばらく黙って歩いてから、また聞いた。


「ねえ、カイトさん」


「何だ」


「最初、地下に落ちたとき。死ぬって思いましたか」


足が一瞬、止まった。


「思った」


「でも諦めなかった」


「諦めるより先に、やることがあった」


少し間があった。


「……あの日、俺は死ぬはずだった」


リナが足を止めた。カイトは止まらなかった。歩きながら、続けた。


「落ちた瞬間、死ぬと思った。泥に叩きつけられても、まだ死ぬと思った。それでも体が動いた。なんでかはわからない。ただ動いた」


「……それが全部の始まりですね」


「そうだ」


「よかった」


「何が」


「動いたこと」とリナは言った。「カイトさんが諦めなかったこと」


カイトは答えなかった。


地下への道を降りる。


上層の整備された通路。毒沼を迂回する水路。中層の発酵工房。家畜化された魔物が静かに歩く。岩の棚に熟成品が並ぶ。下層の特殊菌培養コロニー。水龍が眠る最深部。


全て、一年前に毒と腐敗に支配されていた場所だ。


今は違う。


腐敗は食料になった。毒は薬になった。絶望は、帝国になった。


「次は何をする」とリナが聞いた。


「新しい菌を見つける。新しい発酵を開発する。そして地上の貴族どもが、もっと欲しいと言う食材を作る」


「目的はそれだけですか」


「それだけで十分だ」


石の廊下を歩く。足音が反響する。地下の静寂の中に、帝国の鼓動が宿っていた。


カイト――かつて生贄として落とされた少年――は、地下迷宮の帝王として、今日も歩く。


地上を見上げることなく。ただ前を向いて。帝国の先を、見据えながら。

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