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桜隠し

作者: 口及 カロ木
掲載日:2026/03/30

 雪の降る頃にはきっと帰ってくるから。

 そう言って出た父は、二年経っても帰ってこなかった。雪は確かに積もった。しかし、その上にあの乱暴な足跡がつくことはなかった。

 出先からの手紙はいつも最後、私へ向けての言葉だった。元気にしてるか、ご飯ちゃんと食べてるか、勉強しているか――、そうやって月に一度、多ければ週に一度手紙が届いていた。

 私はそれに目を通さなかった。いつも母伝いに聞いていた。



 桜の咲く上に雪の積もるのを桜隠しというらしい。春、新生活を控えた私の前に現れたのは、まさしくそれだった。

 朝起きて、コンビニにでも行こうかと川辺を歩く時だった。ふと向こう岸を見れば――、ピンクと白。湿りのおかげか、綻ぶ花弁に幹の色が鮮やかでいる桜と――その上を冷たい雪が覆う。

 言葉こそ聞けば矛盾しそうなものだが、景色として美しくいる。

 見惚れはしなかった。芯の冷えたままに、雪のかかれた道をただ私は歩き進んだ。――桜隠しを一つの背景として。


 「いらっしゃっせー」


 バイトだろうか、気怠そうな声で迎えられたコンビニで、並ぶカップ麺を五つカゴに入れた。ついでに飲み物も大きいやつを二本――そしてバイトのレジに並んだ。

 この機械越しにする会計にも随分と慣れた。ただ五千円札を入れるだけでいい。とはいえ、慣れた内にも最近になって袋にお金のかかることが気になった。今日もそうだった。それでも袋は買ってしまっていた。


 「ありがとうございましたー」


 やはり彼の挨拶は気怠げでいた。生温い春風はその声を乗せて背中を撫でた。

 大きなコンビニ袋を二つ提げて帰路につく。炭酸ジュースの入った方は重く、持ち手が指に食い込んで痛い。とにかく両手交互に持ち替えて歩いた。お陰か寒いのが和らいだ。それどころか、日の照りで汗ばんだ。

 また、桜隠しの川辺を過ぎると少ししてアパートに着いた。――六畳半の私の城。初めての一人暮らし。

 ここで生活をして一週間が過ぎた。自炊など来る前からするつもりもなく、だから、ゴミ箱には総菜やら弁当やらのものが既に溜まっていた。

 渇いた喉をジュースで潤して、朝食代わりにビスケットをひとつまみ。そうしてふとカレンダーを見れば、2日後には赤い丸がついていた。

 ――入学式!!

 そう書かれた文字は母のもの。私はそんなにマメではない。

 母は、私の合格したのを誰よりも喜んでいた。私は当たり前の心積もりでいたのに、母にとってはそうでなかったようで――涙浮かべる瞳にどこか冷たい自分がいたのを覚えている。それでも、合格の知った日の晩に並んだ巻き寿司は嬉しかった。

 引っ越しの日、あれだけ合格を喜んでいたのに、アパートから去る母の背中は夕暮れに居るにしても薄れていた。私はそれを見送り、次には、皿洗いが面倒だとか、そういうことしか考えなかった。

 逡巡から帰りまた赤の丸を見れば、不意に溜め息が漏れた。全く意図もしないそれは、この四年というモラトリアムへの期待と不安とから来るように思えた。

 ならばと赤い丸を睨んだが、胸のつかえは取れない。ジュースを流し込もうと、息を吐き出そうと、刺さった魚の骨のようにそこにいる。 

 ‥‥父がまだ、そこにいる。



 家を出てから三度目の冬——ようやく父は帰って来た。庭に積る雪に残す足跡を全く別のものとして、いくつもつけて。

 白い花に埋もれた棺桶に僅か覗く父の顔は、私の知らないものだった。

 穏やかに目を瞑り眠る姿は、綺麗だった。



 入学式に母は来なかった。来ないでと伝えていた。

 周りが皆写真を撮る中を歩き、家路につく。しばらくすれば、川辺の桜のところまで来ていた。眺めるとそこに雪はなく、色落ちしたピンクだけがあった。あの光景も長くは持たないようだった。

 心地よい春風に誘われて、スキップしそうになるのを我慢した。体の疼きを押さえてあと少しのアパートへ戻る。

 懐にいる残高三桁万円の記された通帳が、ようやく軽くなった。

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