1-9.谷間に差す月明かり
ちゅうちゅう。
ちゅるちゅる。
じゅるる。
耳にして気持ちいい音じゃない。
寝起きに聞かされて、蚊の羽音並みに不愉快だ。
体はあちこち痛いし口の中は埃っぽいし、最悪な目覚め。
どうにか体を起こすと、青白い月明かりで地面にはっきりと影が差した。
「……?」
月明かり。
白く丸い月が谷間の先の夜空に浮かんでいる。
地球では見たこともないほどきれいな空。体中が悲鳴をあげていなければいい夜だと感じただろう。
地球じゃない。
そう、異世界の荒野で大サソリのぶちかましを食らってぶっ倒れているのだと思い出す。
「う、ん?」
視線の先。アユミチが倒れているのと同じ荒地の谷底。
なにやら黒っぽい影がぬらぬらと波打っている。
「あ」
大サソリの体だった。ゆらゆらしているように見えてしばらくわからなかった。
煌々と照らす月明かりの下で、ダンプカーのような巨体が揺らめくように、ぐにゃぐにゃと。
ぶつかった時の無機質な甲殻とはずいぶんと違う印象。気を失う前に見ていた大サソリと同じ生き物かわからないほど。
こんなのが何匹もいるような世界だったら生きていく自信がないけれど。
「酒……?」
意識が途絶える直前、最後に触れたのはレーマ様の酒瓶だったのだと思う。
荷物から零れたそれに手が届いて、転がって逃げていった。
とぷとぷと酒を流しながら。
気絶している間に脳震盪などは回復したようだが、体のあちこちが痛い。痛む肩をさすりながら体を起こして状況を確認する。
「無限に出るのか、この酒……」
酒瓶の口から今も赤黒い液体が流れだしている。
とめどなく。とぷとぷ。
溢れた酒が少し流れて水たまりを作り、そこに大サソリの尻尾が突き刺さっていた。
襲われたのは昼間だったから、おそらく数時間以上こんな風に。
「今のうちに逃げ……る?」
死んでいない。
とっくに食い殺されていてもおかしくないはずが死んでいない。
大サソリがこちらへの関心を失っている。
今も、アユミチは身動きしているのに大サソリが反応する様子がない。ただ酒をすすりながら月明かりにゆらゆらと。ぐにゃぐにゃと。
「酔っているのか? こいつ」
アユミチや盗賊のことを忘れ、レーマ様の酒に引き寄せられて、ずっと飲み続けているようだ。
そしてサソリの体も何かおかしい。ぶつかった時の感触だと剣も弾き返すような甲殻だったはずなのに、なんだかふやけて萎んで見える。
「……今ならやれる、気がする」
おあつらえ向きに。
そうしろと言うように、すぐ近くに金棒が転がっていた。死んだ盗賊が放り捨てていった武器。
ずっしりと重いそれを拾い上げ、慎重に大サソリに近づいた。
「弱点とか……わかんないけど」
振り上げている尻尾の付け根に狙いを決めた。
鋏は二つあって一度に叩けない。足は致命打にはならないだろう。
一撃で勝負を決めたいと思ったら、そこが一番大サソリの体の中心になるような気がした。あてずっぽうだが。
「こっちは女神レーマ様の使徒、なめんな……よっ!」
ベシャアアァァッ!
『ビュヘェェェッ‼』
月明かりの下、反りかえっていた尻尾の付け根。動物で言えば肛門がありそうな辺り。
全力で振り下ろした金棒は、思った以上に柔らかい大サソリの体を一気に貫いた。
ぶち抜いた。まるで巨大なナメクジでも潰したかのように地面まで突き抜け、尻尾周りの体組織が飛び散って尻尾もほぼ千切れかけるほど。
『ベフェッ……ビュフゥゥ……』
「おぁっ!?」
慌てて金棒から手を離して飛び退いた。
青白い煙のような体液が噴き出して、見る間に金棒が溶けていった。とんでもなく有毒な血液。たぶん強酸。
見れば自分の服にも飛び散っているそれを、慌てて払おうとしてやめた。
「あぁぁっ! 雨! 水! 水出して水出ろ!」
レーマ様からもらったリストバンドを思い出して命じたら、アユミチの体の周りに勢いよく水が降り注いだ。強いシャワーのように。
「あぶねっ! よかった、レーマ様最高! マジ女神!」
とりあえず軽薄な感謝の言葉を敬愛する女神様に捧げる。序盤に遭遇した巨大ボスを倒したはいいが、返り血で死ぬところだった。
倒した、と思う。
金棒の一撃で胴体の半分近くまでひしゃげて、断末魔のような声を上げてからぴくぴくと痙攣するだけ。確かめようにも近づいたら溶かされる。
恐ろしい魔獣。盗賊たちの会話からすると百年以上恐れられていたらしいが。
レーシングカー並みの速度で突っ込んでくるダンプカー級の生き物なんて、たとえ銃器があっても倒せないんじゃないか。ロケット砲やミサイルがあればどうだろう。
どうにか傷つけても強酸の血液をまき散らすとか、どれだけ悪意に満ちた魔獣なのだろう。
盗賊たちが、過去に討伐できなかった大魔獣みたいに言っていた。
だけど、倒せた。
特別な力があるわけじゃないアユミチが。
レーマ様はこいつの対策の為に必要なものをくれたのか。
攻略ネタバレは神様的に禁止だとかそんなルールもあるのかもしれない。人間に嘘は言えないなどとも言っていたし。
アユミチには無関心な様子だったけど、意外とアユミチのことを気にしているのかも。波長が合うとか、もしかして脈アリか?
「なんにしても……マジびびった。あっぶねー」
『マジ驚いたのはこっちなんですけどぉ』
少女の声が聞こえた。
月明かりが差し込む荒野の谷間に、悪戯っぽい声が。
「……?」
少女?
『渇きの王蠍やっつけちゃうとかなんなの? こんなの殺せるはずない造りなのに』
「……どこだ?」
『こっちだよ。助けてくれてありがとね』
こっちだよ、と。
まだ青白い血煙を上げる蠍の方から、幼い少女の快活な声が聞こえた。
目を凝らしてみると、血煙の中にぼんやりと小さな影が浮かんでくる。
『ずぅっとコイツに閉じ込められてたんだぁ』
小さな、小さな、羽根のついた少女の姿。
閉じ込められていたという大サソリの中から現れた、背中に黒いアゲハ蝶のような羽根を持つ何か。
声の様子から敵意は感じない。
「閉じ込められて……そうなんだ、ええと」
『ふふっ、よく見たら美味しそうな人ね』
ずっと、ということは、先ほどの情報も含めれば百年以上ということだろうか。
つまり少女の声だけれど年齢は百歳以上。
美味しそうという意味を測りかねるが、レーマ様のキモ男とかウンコ扱いよりは好意を感じる。
「君は?」
収まりつつある血煙の中から、黒アゲハのような羽根を羽ばたかせて手の平サイズの少女が現れた。
黒いドレスのような衣装をまとい、美しい黒髪と赤い瞳。
はらりと夜空に舞い上がってサソリの血液を振り払うと、月明かりにキラキラと輝くよう。
「妖精……かな?」
『まあそんな感じでいいんじゃない? ノクサは、ノクサ・リージェってゆうの』
「ええと、俺はアユミチ」
小さな少女なのに妖艶な微笑を浮かべながら俺の目の前に飛んでくると、小指の先ほどの唇でアユミチの鼻先にキスをした。
初キッスを奪われた。少女妖精に。
『刻喰って呼ばれることもあるかな? よろしくね、アユミチ』
「……よろしく」
月夜に美少女妖精からキスをもらう。
これが異世界の美人局詐欺だったとしても悪くはない。
喜びをかみしめて何でもないような顔で返答したアユミチに、ノクサはまた妖艶な笑顔でウインクして見せた。
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