10・水、企む。
すっかり闇に沈んだ空には、鋭い爪のような三日月が浮かんでいる。
ニュイ魔王国の水の四天王ヴィペールは自分の指先を見た。
銀色の尖った爪が月光を浴びて煌めく。──魔王はまだ戻らない。
「やっぱりジュルネ王国へ逃げたのですかね」
魔王城自室のベランダに立つヴィペールは呟いて、薄い唇に酷薄な笑みを浮かべる。
新しい魔王ソワレは人間の母親を持つ『できそこない』だ。
竜に変化できるものの、総魔力量は従兄のバルに劣っている。性格も温厚で、強者の集まっている魔人の国で暮らすのは辛いだろう。
(……まあ、強者といっても、ねえ)
ソワレの父である先代魔王に心酔していたせいか、帰らぬ魔王を案じて大魔林に探しに行った忠義者の大地の四天王リオンを思い、ヴィペールはさらに笑みを深くする。
ニュイ魔王国の魔人達は強者揃いではあるが頭のほうは今ひとつだ。
この国で一番賢いのは自分だとヴィペールは自負していた。
人間の母親を持つソワレは弱いくせに頭は働いたため、ヴィペールの思い通りにはなってくれなかった。
バルのほうなら自在に操れる自信がある。
彼はバカだ。それにソワレもだが、炎属性だから水属性のヴィペールの敵ではない。
(あのバカならば、私の言う通りにジュルネ王国へ侵攻してくれることでしょう)
人間の女を妻に迎えた先代魔王はヴィペールの提案を聞いてくれなかった。
同じ人間を母に持つソワレには、まだ考えを話したことはない。
言えば反対されるのは明白だった。彼女は無駄な争いを好まない。
ニュイ魔王国は、いつもジュルネ王国との戦いを求めていた。
理由は簡単。
縄張りの近くに強そうなヤツがいたら戦ってみたいから、である。先代魔王が禁止する前は、強そうな人間を見ると力自慢の魔人達が勝負を挑みに行っていた。そもそも先代魔王自身が、妻を迎える前は当時の聖騎士に勝負を挑んでいた。
(もっとも……私はこれまでのバカどもとは違いますがね)
ヴィペールの侵攻理由はほかの魔人とは違う。
彼はジュルネ王国の富が欲しかったのである。
エルフやドワーフが持つニュイ魔王国にない素晴らしい品物は強い魔力を含んだ魔人の体の一部と交換できる。しかし体の一部を他者に与えることには危険が伴う。それを媒体にして呪いをかけられてしまうかもしれないのだ。
(ジュルネ王国の富があれば、危険を冒すことなく大量に手に入ります。……あれが!)
ニュイ魔王国の魔人達は実は、この大陸以外では獣人と呼ばれている種族であった。
ヴィペールは蛇の性質を持つ魔人である。
髪は爪と同じ銀、肌も銀、瞳は赤い。彼は動物の蛇そのままに、しなやかで美しく淫らで邪悪であった。ソワレの前世世界の神話や民話であったように、この世界の蛇魔人は酒を好む。
「どうしてどいつもコイツもあんな苦いものが好きなのですか!」
だが、考えていたら思わず口から出てしまったヴィペールはそうではない。
ヴィペールが好きなのは紅茶だ。
彼はソワレの前世でいうところの肉食系猛禽類女子、今世でも男を食い殺すと言われているお肉大好きな女性魔人を虜にして弄ぶほど淫らで、本来の四天王候補であった兄を騙してその座を奪うほど邪悪な蛇の中の蛇であったが、酒だけは嫌いだった。
「紅茶のほうが馨しくて美味ではないですか!」




