タイトル未定2025/12/29 21:40
bar「ジェシカ」に客が途絶えたのを機に、マスターは店を閉めようとしたそんな時だった。
その客はやってきた。
マスターは思わず声を上げた。
「緑さん!」
「ちっす」
看護師長の紫野緑は、迷わずマスターの目の前のカウンター席に座った。
「何に、なさいますか?」
「そうね……ウイスキーロックで」
緑に酔った感じは見受けられないが、既にアルコールの香りが漂っていた。
「飲み過ぎではないですか?ロックではなく水割りにしますね。薄めに作ります」
「清涼飲料水じゃない」
マスターは、声を出さず笑った。
店の看板の灯を消して、ウイスキーの水割りを二つ作った。
ウイスキーの水割りと灰皿を緑の目の前に置いたマスターは、椅子に座った。
緑は、水割りをゆっくり飲んだ。
「これホント、清涼飲料水だわ」
言いながら、緑はタバコを吸い出した。
「何かボクに、話があるんじゃないんですか?」
マスターも水割りを飲み、タバコを吸い出した。
「わかった?」
「ボクに、なんの話ですか?」
マスターが聞くと、緑はタバコを吸いながら店内を見回した。
「流花ちゃん、いないわね」
「厨房で、後片付けをしています」
「そう。マスターぶっちゃけ、流花ちゃん好きでしょ」
マスターは驚き顔で、緑に言った。
「それは、ぶっちゃけちゃいましたね」
「ふざけないで。まじめに言っているの」
マスターは、タバコを灰皿に押しつぶしてから言った。
「好きですよ」
素直に認めたマスターに正直緑は、信じられない気持ちでいた。
緑も、タバコを灰皿に押しつぶした
マスターは水割りを飲み、カウンターの上に肩ひじを突き、手を頬に当て遠くを見つめながら言った。
「初めて白田さんを見たとき高校時代の瞳ちゃんを思い出して、白田さんをみつめていました」
「高校時代の彼女を私は知らないけど、確かに雰囲気は似ているわね」
「家庭環境も瞳ちゃんに似ていて、益々目が離せなくなりました」
「先生の悪い癖が始まった」
マスターと緑は、小さく声を出して笑った。
「流花ちゃんを離したくなくて、流花ちゃんをバイトに引き抜いたんでしょ」
いたずらっぽく言う緑に、マスターは笑いながら言った。
「まさか。店を手伝ってくれる方がほしかったんです。白田さんが家庭教師のバイトをしていると聞いて、白田さんを誘ったんです」
「そう言いながら、本音は流花ちゃんを目の前に置いておきたいんでしょ」
「そうじゃな……もう、いいです。そう言うことにしておきます」
呆れたマスターはそう言って、空になった二つのグラスを、カウンターの奥の流し台で洗った。
緑はマスターの背中に、言葉を投げた。
「流花ちゃんに、彼女のことは言ったの」
マスターは無言のまま洗ったグラスをカゴにふせて、カウンターに戻り椅子に座るとタバコを吸い出した。
「言っていません」
「そう。流花ちゃんは、何も知らないのね」
「大門には、会っています」
「そうなの?」
「大門は、白田さんのことをとても気に入っています」
「まずは、手始めに大門君を手なづける作戦ね」
「相変わらず、口が悪いですね」
「流花ちゃんの、どこが気に入った?」
「確かに初めは、瞳ちゃんに似ていると感じました。でも、瞳ちゃんにはない明るさや強さを知り、一緒にいるのが楽しく感じました」
マスターがタバコを消すと、緑はマスターの頬にそっと触れながら言った。
「先生の気持ちはわかった。でも、暴走だけはしないでよ」
「わかってます。二度と同じ過ちを繰り返したくありません」
緑はマスターの頭をなでた。
そんな時だった。
明るい声が、聞こえたのは。
「片付け、終わりました!」
厨房から出て来た流花はカウンター席に座っている緑に気付き、慌てて頭を下げながら言った。
「大きな声を出して、すみません」
マスターは、笑いながら言った。
「いいんですよ。この方は、ボクの実家の開業医で勤務をしている、看護師長の紫野緑さん」
「実家が、開業医?」
流花は、マスターをみつめた。
緑は呆れて言った。
「実家が開業医ってこと、言っていないの?」
「あっ……」
マスターは短く声を上げ、緑は呆れながら流花に教えた。
「先生は、昼間は実家の開業医で仕事をしているのよ」
「そうなんですね!」
何故マスターは、流花の仕事着の一式を一度に揃えることができたのか、流花はやっとわかった。
マスターに少しだけ近づけた気がして流花は嬉しくなり、自然と笑みがこぼれた。
「ねぇ、流花ちゃん、もう仕事は終わりでしょ」
緑に聞かれた流花は、慌てて答えた。
「まだ、ホールの掃除があります」
「白田さん、今夜はもう上がってもいいですよ」
マスターの言葉に、流花は戸惑った。
「先生もこう言っているんだし、女同士一緒に帰りましょ」
「ありがとうございます。着替えてきます」
流花は軽く頭を下げ、奥の和室の部屋に行った。
流花がいなくなると、マスターが言った。
「何を、たくらんでいるんですか?」
「流花ちゃんに、興味があるだけよ」
仕事着から私服に着替えた流花は、緑と一緒に肩を並べて繁華街の夜の街を歩いた。
緑が、流花に聞いてきた。
「バイトはどう?」
「楽しく、働かせて頂いています」
「先生と一緒なら、楽しいでしょ」
「先生……あっ、はい、リラックスして、仕事が出来ます。えっと……」
「緑でいいわよ」
「緑さんは、マスターと親しいんですね」
「まぁね。先生がマスターとして、お店に出ているのが未だに驚きよ」
「私は、マスターが昼間病院に勤めていると聞いて驚きました」
「そうね。白衣姿の先生、想像できないでしょ」
「白衣姿……見てみたいなぁ」
流花と緑は夜の繁華街を歩き、緑は流花が住むアパートまで送った。
「送って頂き、ありがとうございました。帰り、大丈夫ですか?」
「大丈夫!また、先生の店に行くわ」
「お待ちしています」
やがて流花は、アパートの部屋に入って行った。
部屋に入っていく流花を見届けた緑は、流花が住むアパートを見回した。
こんな古いアパートに、住んでいるのね。
まるで、先生が付き合っていた彼女と同じじゃない。
確かに容姿雰囲気はそっくりだけど、あの明るさは彼女にはなかったわ。
歩きかけた緑は立ち止まり、もう一度アパートを見上げた。
先生って本当に、運命に翻弄された人生ね。




