神
太い雫の矢が一面緑の大地のに降り注いでいた。雨粒や薄暗い雲のせいで辺りがよく見えず、まるで世界中の大地全てにこの平原が広がっているのではと錯覚させるような景色だった。そんな世界をただ一人、少年が歩いていた。年は十歳前半ほどに見え、白い肌に銀髪、みすぼらしい麻の布を纏い、背中にも麻布でできた風呂敷を背負っていて、頭にも麻布をバンダナのように巻いており、足には藁でできた草履のような物を履いていた。そして、宝石のように美しい、透き通るような紫の瞳をしていた。少年は大粒の雨に打たれずぶ濡れになりながら、舗装されていない草が禿げただけの街道を水溜りに足を突っ込み続けながら歩いていた。そして、やっと少年の眼前に草原以外のものが現れた。木造の小さな(馬を交代するための)駅だった。
「あそこだったら雨を凌げそうだ」
少年はそう呟くと歩みを少し早めた。
少年は駅に着くと、すぐさま休憩所へと入った。少年は広めの玄関でバンダナや服の雫を払い落とし、染み込んだ水をしぼった。しぼった水が床に叩きつけられてバシャバシャと音が鳴った。少年は履き物を脱いで、玄関の段差に腰掛けると、足の水を払い落として畳に上がった。コンビニほどの広さで、畳にまばらに机が置かれている簡単な空間だった。そして、その部屋の隅の机の前に女が二人腰掛けていた。年はどちらも二十歳ほどの若い女に見え、どちらも黒髪で黒目、白い巫女装束のようなものを着ていて、左に座っている女の隣にはかなり膨らんだ風呂敷包みが置いてあった。そして右に座っている女は胸にあるものを抱えていた。赤ん坊である。少年と同じ銀髪に白い肌をしていて、彼女の胸にうずくまるような格好をしていた。
「こんちは」
気づいた少年は軽い挨拶をして、彼女らの机に腰かけた。
「まさかこんなところで人に会うなんて」
「私共もびっくりでございます」
左の女が微笑みながら言った。ただその微笑みはあまりに自然すぎて不自然で、少年は人形と会話をしているような不気味さを感じた。右の女も同じような笑みを浮かべながら言う。
「そんなにお若いのにこんな僻地にまで旅をなさっているなんて」
「それはこっちのセリフっすよ。あんたらなんて女二人に赤ん坊まで連れてんだから」
「旅の危険なら心配無用でございます。神様のご加護がありますから」
「神様ですかい。こんなん言うのも難ですが、あんま神様を当てにし過ぎんのもちょっと。神様だってあんたらだけ守ってくれてるわけじゃないんですから」
「ご心配なく。神様は今我々二人だけを守ってくださっています。恐れ多くも、今私の胸の中にいらっしゃているのですから」
それを聞いた少年は驚いて少し目を大きくする。が、すぐに気を取り直してさっきの調子に修正した。
「さいですか。それは申し訳ない。神様のことを赤ん坊呼ばわりしてしまった」
「お気になさらなくても大丈夫でございます。旅先で出会った他の旅の方々は、皆冗談だろ言って笑ったりなされましたから、あなたのような懐の深いお方は初めてでございます」
左の女が言った。
「そいつはちょっと安心しました。ところで、あんたらの神様はどんなご加護を与えて下さるんですかい。長旅で死にたくないんでね」
「神様は私たちを盗賊などから護ってくださります。この方は生物を超越していらっしゃるのです。数ヶ月お食事をなさらずとも平気で、年を取られることもありません。また刀で切り付けようとも棍棒で殴りつけようとも傷一つつかない強靭な肉体と虎や象であろうとも簡単に捻り潰す腕力をお持ちになられています。その驚異的な力のおかげで、我々は旅を続けることができるのです」
ーなるほどそういうことか…
一つ謎が解けた少年は心の中でそう呟いた。そしてもう一つの謎を彼女らに尋ねる。
「そうえば、あんたらはなんで旅をしてるんですかい」
「それはー」
右の女が言いかけた途端、赤ん坊は急に甲高い声を上げ始めた。そうかと思うと、右の女をその腕力で捻り倒し、女の上半身に乗り掛かった。そして、女の左胸に顔を埋め始めた。その瞬間、女は悲鳴を上げ悶え苦しみ始めた。血が吹き出し、バキバキと何かが砕ける音がする。だが、そのような状況でも左の女は眉一つ動かさず、全く様子の変わらない様子でそれを眺めていた。これら光景よって少年は本能に突き動かされ、瞳孔をかっぴらいてその恐ろしい状況から目を離さないようにし、いつでも逃げられる体制をとった。やがて女の胸から噴水のように大量の血が吹き出し、痙攣した後女の動きは止まった。女が動かなくなった後も、赤ん坊は女の胸に顔を埋めていた。そして何かを引きちぎるような音が聞こえたかと思うと、ようやく顔を上げた。その顔は真っ赤に染まっていて、口は耳の辺りまで裂けるように広がっており、虎のような牙が発達していた。その異様な姿に少年は緊張状態を解けなかった。すると左の女が風呂敷包みから布を取り出し、赤く染まった赤ん坊の顔を拭き始めた。
「これが私たちが旅をする理由でございます」
「……」
「もう怖がることはありません。神様は今食事を終えたばかりで、あと一年ほどは何もお食べになりませんから」
女は赤くなった布の替えをもう一枚風呂敷から取り出し、再度赤ん坊の顔を拭き始めた。
「私たちの神様は非常に強いお方です。小さかった我々の村も、この方が生まれたことで他の部族から攻撃されることはなくなりました。ただ、神様はその代償にあるものを欲したのです」
「…若い女の心臓」
「その通りでございます。神様は若い女の心臓を一年に一度お食べになるのです。ですがもし、村で誰かの心臓を神様が皆の前お食べになるなどということがあれば、それは誰にとっても恐ろしいものです。そこで、神様が心臓をお食べになられてから一年経つその一月ほど前に、若い女二人が神様とともに旅に出るという風習がなされるようになりました。神様が心臓をお食べにならなかった方が、神様ともう片方の遺骨を村に連れて帰るのです」
駅を後にした少年は、日差しの中雨上がりの水溜りをじゃぷじゃぷ踏みつけながらながら西へと歩みを進める。
「やっぱ神なんてたまったもんじゃねえ…」
自虐も交えて、彼はそう呟いたのだった。