30―thirty―
まいど、ありがとうございます。かしわ、です。
こちらは、次回作の予告編です。あまりにも筆が進まないので、自分を追い込んでみました。。。
なので、短編扱いですが、たぶん、きっと……続きます。
透明で美しいものから
傷つけられたといって
透明で美しいものを
恨んではいけない
透明で美しいものは
傷つける性質のものだから
『透明で美しいもの』 銀色夏生
まろい光が見えた。
明かりは、淡く、朝の光とは、まったく違っていた。
似ているとすれば、プールの底に寝そべって見た空から降る、光の粒だ。水中で乱反射した光は、柔らかく、きらきらと木漏れ日に似た光と変わるのだ。
『……』
音?
いや、これは人の声。
耳に届き、じんわりと馴染んだ頃に、それが『言葉』であることに気付く。けれど、それが奇妙なのだ。まるで、初めて出会ったことのような感覚を覚えた。
一度『言葉』と認識されれば、音の羅列はもう二度と、一音だけの魅力を得られず、意味をもった塊となってしまう。
『……コ』
なんだろう、よく知っていた気がする。
まろい光と同じく、思考にもぼんやりと霧がかかっていた。
あぁ……どうして私は眠っているのだろう。
……そうか、今、あたしは『眠って』いるんだ……。あたしは、今、目覚めのまどろみの中にいるんだ。
でも、いつ眠ったのだろう……?
そもそも、あたしは――……?
きゅうぅっと、痛みが頭に響く。脳の中心が収縮し、掴みきれない記憶を絞りだそうと頑張っている。
きゅうぅぅ
『……』
きゅうぅぅぅ
『……コ』
ユ……コ
……コ
……きこ
『ユキコ』
……ゆきこ
ゆっこ
ゆっちゃん、ゆき、ゆっき、ゆっこちゃん、ゆきちゃん、ゆこ、ゆきこ、ユキコ、由紀子、幸子、有紀子、由貴子……
「雪子!!」
キイィィイィィィイッィッツ!!!!!!
突然の、ブレーキ音
舞い降りたのは、漆黒の闇――
『ユキコ』
やわやわ、と肩を揺さぶられて、眠りから、引きずり出される。
でも、その感覚は、よく知っているものには思えず、触れあう箇所からは、やんわりとした労わりと躊躇いが滲み漏れて感じ取れた。
うぅんと、まどろみのまま、寝返りをうつ。
重く、閉じた瞼を、開けようと、力を込めた。
けれど、それはなかなか叶わない。
柔らかな光が瞼をくすぐって目覚めを促すけれど、まるで、生まれてこの方一度も、瞳を開いたことがなかったかのように、瞼は固くその扉を閉ざしていた。
ゆっくり、少しずつ、一ミリ一ミリ、持ち上げる思い扉。
その隙間から差し込む、微かな光は、小さい。なのに、以前テレビで見た、宇宙の日の出を思い出した。
ただの、目覚めとまどろみが、まるで、この世の誕生のように、心を打つのだ。
涙が一滴、まなじりから伝い落ちた。
「ユキコ」
瞬きを一つゆっくりとする。
「あ」
見えたのは、真白な世界と、こちらを見つめて佇む男の人だった。
「言葉は、わかる?」
少しの間をおいて、男性は口を開いた。
『言葉ハ、ワカル』
同じ音を、頭の中で繰り返してから、少しだけ頭を動かして、頷いてみせた。
そうして、見知らぬ彼は、それを確認すると、安心したように、クシャリと顔に皺を寄せて笑った。
その様子は、どこか柴犬に似ていた。
わんこがパタパタ尻尾を振って出迎えてくれているような、無防備で、なにも求めない、笑顔。
「起きてすぐに申し訳ないんだけど、いくつか質問をしたいんだ。いいかな?」
そんな様子に安心したからか、彼の言う意味をきちんと理解する前に、こくりと頷いていた。
「名前は?」
「……佐藤、雪子……」
仰向けのまま、発する言葉はくぐもっていて、自分の音には聞こえなかった。
やはり、頭はまだうまく働いてくれず、問われたことに、疑問を感じる間もなく、反射で応えてしまう。
「年齢は?」
「17」
「生年月日を言える?」
「19××ねん、11がつ3か」
「ご家族は?」
かぞく?
なぜか、思考が止まった。
さとうゆきこ
『佐藤雪子』17歳の高校2年生。
脳が告げる情報は、たったそれだけだ。
かぞく、って、何だっけ?
言葉と音だけが、頭の中でぐるぐると回り、その答えは浮かんではこない。
言葉に詰まって、ただ、固まっていると、彼はそれを振り払うかのように、次の質問を投げかけた。
まるで、この質問は、無かったかのように。
尋ねられる質問のほとんどは、ぼんやりと頭の中で漂うだけで、答えを紡ぐことはできなかった。
その度に、自分の中に、靄のかかった景色が浮かび、何とかその正体を突き詰めようと、目を細めて探る。
けれど、目を凝らすほどに、その霧は濃くなり、微かに見えていた姿さえも、刹那の内に消え去ってしまっていた。
記憶を辿れない……その失望を感じる間もなく、質問が飛び込む。そのおかげか、心は不思議と軽いままだった。
延々と続く問答は、唐突な質問で終わりを告げた。
「今日は、何年の、何月、何日?」
また、ぐらりと、景色が歪む。それは脳内から引き出した記憶の欠片。
先程までと同じく、諦めを感じつつも、目を凝らして、その姿を見つめた。
ぼやけた視界。それが意外にも、ゆっくりと、カメラのピントを合わすかのように、揺らぎが薄らいで、はっきりとした輪郭を持っていった。
そして、壁に掛けられた、カレンダーが、見えた。
「20××年……9月29日、もくようび、です」
呟いた声は、しっとりと空気に溶けた。
静けさが、冷えた空気の室内に舞い降り、奇妙な緊張感が身を包んだ。それまで、淡々と質問を重ねていた彼が、ぴたりと、口を閉ざしてしまったから。
ついと見上げれば、真白な世界が広がる。
首を巡らせば、そこが窓一つない、全くの密室であると知った。
けれど、部屋には光があふれ、限りある空間には、雪原にも似た無限を感じた。
なんだろう。これは、夢?
唐突な目覚めあけの出来事は、上手く受け入れられなくて、非現実と判断する方が容易い。
なのに、ブレーキ音の響きが、リアルに耳にこびり付いて、胸を騒がせた。
「――うん……まだ、記憶が不完全なんだね……」
ぽつり、と独り言のような、彼の呟きが耳に届く。
見上げた表情からは、当然なんの情報も読み取れなかった。
のっぺりとしているとも言える、彼の面は、その感情さえも正確に読み取れるのかもわからない。それでも、問うべき疑問も分からないのに、何か答えが欲しくて、視線は彼を捉えていた。
「……ごめんね、説明もなしに、一方的な質問ばかりをして。……言い訳すると、君の状態がどの程度か分からなかったから、確認前で闇雲に話をできなかったんだ」
そう言って、クシャリと皺をつくり、見せる笑顔はやっぱり、犬に似ていた。
無言で、じいと、見つめてくる視線に照れたのか、口の端をくずして笑みを作り
「あぁ、そうだ。自己紹介をしておかないとね。僕は、佐藤チヒロ。ここでの君の“これから”をお世話します」
突然思い立ったように、自己紹介をした。
「君と同じ『佐藤』だから、チヒロって呼んで」
「チヒロ……さん?」
訳が分からないまま、とりあえず口に出して、尋ねてみれば、こくり、と笑顔を見せて、肯定を示した。
ここがどこなのかも、現実かさえも分からないのに、やっと貰った言葉は、なんの答えも示してくれない。
だけど、柴犬みたいな人懐っこい笑みを浮かべる彼がいてくれると、初対面のはずなのに、どうしてだか不思議と家族と一緒にいる時のような、安らぎを感じたのだ。
これが、あたしと、チヒロさんとの、はじまり。
引用文献
銀色夏生 1988 『あの空は夏の中』角川文庫
ありがとうございました。