一休和尚、屏風の虎を退治する話 (九).
あのとき、お師匠さまの言葉にすぐ反応できた者は誰もおりませんでした。
普段のお師匠さまをよく知っているはずのわたくしでさえ、口をあんぐりと開けて呆然としていたのですから。
周りの者も同様です。皆、わたくしと同じように目や口を大きく開けて呆気に取られていました。あの美しい奥方様も、驚きのあまり数歩後ろによろめかれているほどでした。
「一休殿。今、何と申されたかな?」
少しの間が経って、殿様が少し蒼ざめたご様子でお尋ねになりました。
「この屏風に火をお放ちくださいと申したのです」
お師匠さまはまったく姿勢を変えずにお答えになりました。お師匠さまの目はしっかりと屏風の虎を見据え、わずかな動きも見過ごすまいとしているようです。
「何て、とんでもないことを……」
耳元でつぶやき声が聞こえたので、わたくしは声がしたほうを振り返りました。
振り返ってみると、寺の住職さまが両手を合わせて唇を震わせています。
荒ごとを嫌う住職さまらしく、本当に心を痛めておられるご様子でした。
「なぜ、屏風に火を放たねばならぬのですか?」
殿様は続けて質問をされました。ほんのわずかですが、お声が震えていました。
「虎は獣、そして、獣は火を恐れます。ですから、この屏風に火を放ち、屏風の竹林を火事にしてしまえば、さしもの虎も慌てて屏風から逃げ出すことでしょう。そこを、わしが捕らえるのでございます」
それを聞いた人びとは呆然としておりました。
おそらく、皆、わたくしと同様、「なんてことをいってるんだ、このひとは」と思っていたことでしょう。
ただ、人びととわたくしとの間には、感じ方に微妙な違いがあったはずです。
多くの者は、屏風から虎が抜け出すなど信じていません。それが道理でございますし、自分の目で直接見なければ当然の考えです。皆、お師匠さまの発言を、とんだ無理難題を吹っ掛けていると感じたことでしょう。
一方、わたくしはあの屏風から虎が消えていたのをこの目で見ています。
屏風に火を放てば、本当に虎が飛び出して、暴れまわるのではと考えたのです。
殿様はいったいどうお答えになるだろう。
わたくしはどきどきしながら様子を見守っていました。
もし、殿様が屏風に火を点けることを拒めば、周りの人びとは、お師匠さまが機転を利かせて殿様の無理難題をやり込めたと考えるでしょう。
問題になるのは、殿様が屏風に火を点けてしまう場合です。あのときのわたくしには、どうなるのかまったく想像がつきませんでした。
殿様は目を閉じてしばらく考えていたようですが、すっと目を開けられると、綱を届けた下男にお顔を向けられました。
「あの屏風に火を放て」
下男は顔を伏せて控えていましたが、殿様の言葉に驚いて顔を上げてしまいました。
「な、なんと仰せで……?」
「あの屏風に、火を放てと申したのだ」
「ま、まことでございますか?」
下男は明らかに狼狽しておりました。無理もありません。わたくしもこの展開には大いに驚いていたのです。さきほども触れましたが、この先の展開がまるで想像できません。いったいどうなるかと、わたくしの目はお師匠さまと殿様との間をうろうろしているだけでございました。
「まことだ。一休殿の申されるようにするのだ」
お答えになった殿様の声に、さきほどの震えはございませんでした。ご自身の気持ちでしっかりとお答えになったご様子です。
主人から直々の命令にもかかわらず、下男が動く気配はありません。あの立派な屏風を本当に燃やしてよいものか迷っている様子でした。
「誰ぞ、火をここへ」
殿様はよく通るきれいな声を張り上げると、今度はひとりの下女が炭を手にやってきました。炭は燃えているらしく、火ばさみで挟んでおりました。
炭をつかんだ火ばさみを渡されると、下男は屏風の裏へ恐る恐る歩み寄りました。ようやく腹が決まったようです。しかし、その顔には困惑の表情が張り付いたままでした。
下男は屏風に炭をゆっくりと押し当てました。そこから黒い煙が昇りだし、やがて、赤い炎が立ち上りました。
「本当に火を点けてしまった……」
今度は反対方向から声が聞こえてきました。見ると、昨日、屏風の怪異を教えてくれた僧です。彼もまた、様子を見に来ていたのでした。
屏風が燃え上がっても、お師匠さまの様子に変化はございません。
相変わらず綱を手に身構えたままの姿勢で、本当に虎が飛び出したら、そのまま躍りかかりそうな雰囲気です。
お師匠さまが虎と大立ち回りする場面は……、結局訪れませんでした。
下男によって火を点けられた屏風は、赤い炎を上げながら、みるみる真っ黒になっていきました。
竹林も虎も、墨をぶちまけられたかのように黒くなり、そこから穴が生じました。穴はどんどん大きくなり、向こう側がよく見えるようになりました。
紙の部分が焼け落ちると、屏風は格子状の骨組みだけになって燃え続けました。それも間もなく崩れ落ちると、屏風はすっかり塵芥と化してしまいました。
その間、屏風の虎に何の変化も起きませんでした。ただ燃え上がり、真っ黒な灰となって燃え尽きたのでございます。
「これはあっぱれ。虎め、わしに捕らえられるを良しとせず、覚悟を決めて竹林と運命を共にしたようじゃな」
かつては屏風だった塵芥を前に、お師匠さまは大声でおっしゃいました。
「一休殿、それはどういうことかな?」
殿様は静かな口調でお尋ねになりました。そこには大事な屏風を燃やすように仕向けられた怒りなど、まったく感じられません。
「わしが屏風の前で待ち構えているのを、虎は察していたのです。それで、虎は屏風から逃げ出すこともなく、屏風と共に燃えてしまったのであります。虎は誇り高い獣ですからな。わしに捕まる辱めを受けるくらいなら、このまま屏風と運命を共にすると考えたのでしょう」
「ということは、一休殿」
「ご覧のように虎は屏風と共に燃え尽きてしまいました。これで虎が悪さをすることなど二度とありますまい」
お師匠さまは自信たっぷりに、しかも、やや得意げな様子で高らかに宣言されたのでした。