一休和尚、屏風の虎を退治する話 (六).
庭の美しさに見惚れていたわたくしは、今度は惚けたようになって立ち尽くしておりました。
まだ日のある明るいうちに見ていたので、あの屏風絵の構図はしっかりと覚えています。
虎は屏風の真ん中よりやや右側に、太い脚をしっかりと踏ん張って、後ろを振り返っていました。その姿は堂々として、実に立派なものでした。
今、見ている屏風絵に、記憶にある虎の姿はなく、本来、虎の姿で隠されている竹林の姿が見えました。本当に虎は屏風から抜け出していなくなっていたのです。
あのとき、わたくしは大声をあげようとしたと思います。
強い恐怖心に全身を覆われ、わたくしは文字通り震えあがってしまったのです。
ですが、わたくしの口から声は出ません。ただ、自分の歯をガチガチいわせるだけでございます。
気がつくと、わたくしは回廊でぺたんと尻餅をついておりました。まさに腰を抜かしたのでございます。
わたくしはきょろきょろあたりを見回しました。この近くに虎が徘徊している……。もしかすると、わたくしのすぐそばにいるかもしれないと思ったのです。
あれほど明るく感じた月明かりが、今度は非常に薄暗いものに感じました。
あの柱の陰、いや、あちらの植え込みの陰に虎が潜んでいるかもしれない……。いずれも濃い闇で、わたくしの不安をますます募らせるばかりなのです。
庭の美しさに対する感動など、とうに消えてしまいました。
わたくしはただ、這う這うの体で、その場から遠ざかるだけで精一杯です。
あたりは相変わらずの静寂ですが、まるで安心できません。虎が息をひそめてこちらをうかがっているのではないか……。
そう思うと、この静けさもただ恐怖をあおるだけのものだったのです。
僧堂の前に着いたとき、わたくしは冷や汗など、全身汗まみれでございました。
のどからは何かが飛び出すのではと思うような感触があり、それだけでも生きた心地がしませんでした。
廊下の陰、天井、床下、虎が潜みそうな場所など数え切れません。
そのいずれかから、突然、虎が襲いかかってくるのではと、本当に気が気でなかったのです。
滑稽に思われるかもしれませんが、わたくしは僧堂の戸をそっと音も立てないようにして開けて入ると、音を立てないように戸を閉めました。
隙を見せることはもちろん、音を立てたとたんに襲われるのではと思ってしまったからです。
わたくしは四つん這いの姿勢で、お師匠さまの近くまで這い進みました。
そして、ぶるぶる震える手でお師匠さまの肩を揺らしたのです。
「お、お、お師匠さま、お師匠さま……」
わたくしは小声でお師匠さまを繰り返し呼びました。手だけでなく、声も震えておりました。
「何だ?」
お師匠さまはすぐに目を覚まして起き上がられました。小窓からのぞく月を見やると、わたくしに不機嫌そうな顔を向けました。
「ずいぶんと夜更けでないか。何がどうしたというのだ?」
「で、で、出ました。い、いえ、消えてしまいました」
お師匠さまは薄暗がりのなかで目をぱちくりとされたようでした。
「出た? 消えた? お前はさっきから何をいっている? まさか、何か公案を思いついたとでもいうのか?」
お師匠さまのおっしゃる通り、わたくしは変なことを口走っています。ですが、こちらはそんなことに気を回すどころじゃありません。わたくしは、お師匠さまの袖を引っ張りながらささやきました。
「びょ、屏風……。虎の屏風のことでございます……。と、虎が、虎が……」
「周文殿の屏風絵のことか? それがどうした?」
「虎が屏風から抜け出して、姿を消しました」
わたくしはようやくお伝えすることができました。おかげで息も整ってきたのですが、お師匠さまは「やれやれ」の言葉と共に、深いため息をつかれました。
「こんな夜更けに起こされたかと思えば、何とも寝ぼけた話をしてくれる。おおかた、夢でも見たのであろうよ」
お師匠さまは、そうおっしゃるとごろりと横になろうとします。わたくしは慌ててお師匠さまの肩を揺さぶりました。
「夢を見たのではないのです。本当に見たのでございます」
お師匠さまはのっそりと起き上がると、ご自分の頭をぼりぼりと掻きました。
「夢でないというのなら、お前はどうして、こんな時間に庭へ行っていたのだ?」
わたくしはうつむいてしまいました。「あの僧の話が本当なのか確かめたかったのでございます……」
「好奇心に駆られて、か」
「おっしゃる通りでございます」
わたくしがうなだれたままでいると、お師匠さまはわたくしの肩を叩きながら立ち上がりました。
「わしの目で直接確かめてみよう。周りを起こさぬよう静かにな」
お師匠さまは周囲を見回しながら小声でいうと、先に立って歩きだしました。わたくしも音を立てないように立ち上がると、お師匠さまの後を追いました。
不思議なもので、お師匠さまが先頭に立って歩いていると、あれほど怖かった僧堂の外が怖くありません。
実のところ、屏風の虎がいつ現れるかと、胸の奥はずっと激しく鼓動を打ち続けていたのですが、それは恐怖心からではなく、何か期待感に突き動かされたような熱を感じるものでした。
間もなく、わたくしたちは、あの屏風を望むことができる回廊に着きました。
わたくしは屏風の様子が非常に気になっていました。もし、虎が元の場所に戻っていれば、それはそれで安心なのですが、今度はわたくしが嘘つき呼ばわりされてしまいます。
屏風に虎の姿はございませんでした。
「ほら、ほら、見てください、お師匠さま!」
わたくしは屏風を指さして、小声で叫びました。
正直なところ、得意な気分だったのです。
「何を喜んでおる、バカ者が」
お師匠さまはうるさそうに手を振ると、回廊から身を乗り出しました。
どうするのかと見ていると、お師匠さまはそのまま庭に飛び降りて、すたすたと隣の屋敷に向かって歩き出したのです。
「お、お師匠さま、何を?」
わたくしは慌てて小声で呼びかけました。
お師匠さまの遠慮のない性格であれば、そのまま勝手にお屋敷の大広間まで上がり込みかねません。
ですが、お師匠さまは隣の屋敷の庭の手前で足を止め、しばらくじっと屏風を眺めておりました。どうやら、屏風の間近から、その様子を確かめるつもりだったようです。
少し身体を傾けてみるなど、いろいろな角度から屏風を観察すると、くるりと向きを変えて戻ってまいりました。
戻って来たお師匠さまの顔はどこか満足気でありました。
「ご納得いただけました?」
わたくしのいったことが本当だとお師匠さまにお見せできて、わたくしは少々強気な態度で尋ねていました。
「たしかに、あの屏風に虎はおらなんだのう」
お師匠さまは回廊へよじ登るとおっしゃりました。
「だが、それだけじゃ。これで何がどうなるわけでもないわい」
わたくしは少しびっくりしました。
「え? 虎のことは放っておかれるのですか? 今まさに、このあたりを徘徊しているかもしれないんですよ」
お師匠さまは片手をひらひら振ってみせました。
「これまでも、誰かが虎に襲われたという話はなかったのであろう? で、あれば、屏風の虎はしょせん絵の虎というわけじゃ。本物のように人間を襲って喰うたりはせん。放っておいて問題あるまい。お前も今夜見たことは誰にも話すでないぞ」
お師匠さまはわたくしからの返事を待たず、そのまま僧堂へ戻ってしまわれました。
わたくしはその場に置いていかれたまま呆然としておりましたが、急に怖くなって大急ぎで僧堂へ駆け戻りました。もちろん、足音は忍ばせて。
僧堂に戻ると、お師匠さまは元の場所ですでに横になっておられました。
あの出来事に動揺した様子はまったく見えません。これにはわたくしも感服するほかございませんでした。さすが世に聞こえる一休和尚であると。あれほどの怪異を目の当たりにして、驚く様子さえ見せなかったのですから。
一方、わたくしはこれまでの出来事にすっかり目が覚めてしまいました。横になったぐらいでは眠気はやって来ません。しばらくの間、悶々としていたおかげで、わたくしは明くる朝の修行に寝過ごしてしまったのです。
禅宗の朝の修行について。
五.で紹介したように、室町時代の人びとは早寝早起きでした。
僧たちも同様で、午前三時から四時の間に起床 (開静というのだそうです)、朝の読経 (朝課)、坐禅、という流れで過ごしていました。(→「わたくし」は、これを寝坊してサボった、ということです。)
ところで、一休さんは破戒僧だといわれていますが、修行についてはきわめてマジメだったそうで、飲酒、女犯など僧のタブーを冒しまくっていたわりに規則正しい生活を送っていたそうです。
一休さんは室町時代では珍しく、88歳まで生きました。その長命の理由も、規則正しい生活を送っていたからかもしれませんね。