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一休和尚、屏風の虎を退治する話 (一).

 わたくしのお師匠さまの話ですか?

 そうですねぇ……。

 たしかに、わたくしはお師匠さまと過ごした時間が長かったので、いろいろな思い出がございます。

 お師匠さまといえば、世間に知らぬ者なしといわれた『風狂人』でしたから、皆さまがひっくり返りそうなとんでもない出来事など、数え上げればきりがございません。


 おや? そちらの方はわたくしのお師匠さまをご存知ありませんでしたか。

 わたくしのお師匠さまは『一休いっきゅう宗純そうじゅん』さまでございます。世間では『一休さん』の呼び名で親しまれた、あの生臭なまぐさ坊主ですよ。


 ……おっと、いけませんな。

 皆さまにとって、お師匠さまは親しみの持てる『善い人』と思われるかもしれませんが、わたくしに限らず、お師匠さまのそばにいた者は、それはそれは大変な思いをさせられました。

 いたずら好きといいますか、悪ふざけの大好きな方でして、わたくしたち弟子どもは、ぶんぶんに振り回されたものでございます。

 おかげで、お師匠さまのことをお話ししようとすると、つい、本音というか、悪口がぽろりと……。

 このあとも、お師匠さまへの悪口雑言を思わず漏らすかもしれませんが、ここはひとつ、ご容赦くださいませ。


 もちろん、お師匠さまのことは尊敬いたしております。

 そこには個人的な理由もございますが。

 実は、わたくしは当時の将軍さまと争っている家系の出自でした。わたくしの父はその争いごとにより命を落としました。わたくしがまだ幼いころのことでございます。

 母は、わたくしに殺し合いとは無縁の人生を歩ませようと、仏門に入れることを決めたのでございます。

 ですが、わたくしの出自がわかるや、多くの寺から受け入れを拒まれてしまいました。

 当時の将軍義持さまは敵となりうる存在をお許しにならない方で、血を分けた弟君まで命を奪うような方でした。

 これでは、後にどんな面倒ごとに巻き込まれるか知れません。わたくしの受け入れを拒否したとしても無理のない話だったでしょう。

 そんなわたくしを受け入れてくれたのが、大徳寺、いえ、お師匠さまなのです。

 よわい九十を前にして、今も坊主でいられるのは、ひとえにお師匠さまのおかげということです。


 もっとも、お師匠さまは武士だの、はたまた足利将軍家だの、まるきりお気になさっておりませんでしたから、わたくしごときを受け入れるなど、何でもなかったのかもしれませんが。

 そのようないきさつもあり、決して、あの方を憎んだり、恨んだりなどしていないのです。


……ただ、あの方にはいろいろ迷惑をこうむった……とだけ、いい添えておきます。


 ところで、お師匠さまは「とんち」の人物として知られているようですが、勝手にこしらえられた話が多いようです。

 お師匠さまが『一休』の道号を得られたのは25歳あたりのことです。安国寺の小坊主だったころは『周建』と名乗っておられました。

 なんでも、小坊主のころのお師匠さまは誰よりも真摯に修行に打ち込んでおられたとか。後のお師匠さましか知らないわたくしにとって、にわかには信じられない話です。

 ですが、若くしてその才知は知られており、特に漢詩では13歳で『長門春草』、15歳で『春衣宿花』という実に見事な詩を詠み、世間で評判になったことは存じております。

 このように、世間に轟いたのは漢詩など学問の才であり、とんちではないのです。


 たしかに、お師匠さまは鋭いというか、ものごとを見抜く眼力をお持ちでした。

 相談ごとなど持ち込まれると、露骨にイヤな顔をなさいますが、なんだかんだと骨を折り、解決されることがしばしばございました。

 どうも、それらの出来事を小坊主時代の話として広まっているのが、お師匠さまのとんち話のようですな。つまり、単なる作り話でございます。


 何でしたかな、『屏風の虎』を捕らえよとお命じになった将軍さまをやり込めたという話。

 小坊主のお師匠さまが屏風の前で、「屏風の裏側から虎を追い出してください。追い出された虎を捕らえてみせます」と将軍さまに無理を投げ返し、それを受けて将軍さまが降参した、というお話しでした。


 あれも、とんでもない『ほら話』でございます。

 お話しに登場する将軍さまは三代義満さまとのことですが、実際の義満さまはお師匠さまが二つのころに将軍職を義持さまにお譲りになられています。

 当時の義持さまは、わずか九つ。お師匠さまとは七つしか年齢としが離れておられないのです。小坊主のころのお師匠さまに無理難題を吹っ掛けた将軍さまとは、いったいどちらの方だったのでしょうか。

 世間で聞こえる話とは、いろいろとつじつまが合いませんでしょう?


 ……では、お師匠さまは『屏風の虎』を退治されなかったのか、ですか。


 実は、お師匠さまは実際に『屏風の虎』を退治されておられます。

 いいえ、本当なのです。ですが、もちろん、将軍さまから命じられたものではなく、たまたま、その事件に出くわしたためです。


 事件、と申しましたが、屏風の虎が屏風から抜け出した出来事があったのです。

 当時、わたくしもその場におり、虎が抜け出した屏風を目撃しています。いえ、わたくしがそれを目にしたためにとんだ大騒動になりました。


 ……本当の『屏風の虎』の話を聞かせてほしい、ですか。


 そうですねぇ、もう、当時の方もこの世にはおられませんし、差し支えない範囲であればお話ししても良いでしょう。

 なに、そんなに身構えられるほどの話ではございません。

 足もとも明るいうちにお帰りになれるぐらいの短い話ですから。

 どうぞ、楽な姿勢でお聞きください。


 あれは、たしか永享十年のころ、お師匠さまが京の銅駝どうだ坊の北に小さな庵を構えられたころのことでした……。

『少しお節介なTips集』


一休いっきゅう宗純そうじゅん … 応永元年(1394年)~文明十三年(1481年)。臨済宗の禅僧。後小松天皇のご落胤といわれる。いわゆる「とんちの一休さん」として有名。


将軍義持さま …… 室町幕府第四代征夷大将軍。室町幕府の将軍として知名度は高くないが、将軍在職は歴代最長の28年に及ぶ。幕府の安定化に腐心し、一定の成果をあげた。しかし、後継者を指名せずに世を去ったため、「籤引き将軍」義教よしのりが誕生することになる。


大徳寺 … 臨済宗大徳寺派、大本山の寺院。五山には含まれないが、貴族や大名などの支持を得て栄えた。一休宗純を輩出した以外に、織田信長の葬儀が行われた寺としても知られる。


三代義満さま … 室町幕府第三代征夷大将軍。鹿苑寺(金閣寺)を建てたことで有名。南北朝合一を果たし、幕府権力を強化するなど、室町幕府の最盛期を築いた。一休さんが安国寺に入ったころは、すでに将軍職を義持に譲り、出家していた(テレビアニメのような公家姿ではなく、教科書にあるような坊主姿になっていた、ということ)。


永亨十年 … 西暦1438年。一休さんは当時45歳。京都銅駝坊の北に引っ越ししたことは、柳田聖山訳『狂雲集』巻末、「年譜」より。

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