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喫茶・のしてんてんへようこそ

喫茶・のしてんてんへようこそⅡ~初夏の痛み・初夏の慟哭~

挿絵(By みてみん)


茂木 多弥様より、サックスを吹くバロンさんのイラストをいただきました。

ありがとうございました。

 僕はその日、あてもなく茫然と町を歩いていた。



 風薫る初夏。さわやかな季節。

 街路樹すら新しい葉を風に躍らせ、光り輝く季節。

 ちらちらと揺れるやたら眩しい木漏れ日を、立ち止まって僕は見上げる。

 空は青く澄み、雲はあくまでも白い。

 素晴らしい季節だ。

 ……僕には関係ない。


 職場で繰り返される陰湿な黙劇には心底嫌気がさしていたし、長い付き合いになるガールフレンドとのことも、僕の心を重たくしていた。


 決断の時がきている、色々な意味で。

 目をそむけ気をそらし、自分で自分をごまかすようにしてやり過ごしてきた、あれやこれやと正面から対決しなくてはならない。


 わかっている。

 いつまでも若くはない。

 分別やら大人の自覚やらを持って、人生を見据える時期がきているのだろう。


 遅い、と彼女なら言うのだろうか?

 大学をドロップアウトした時ですら僕を見捨てなかった彼女だが、四捨五入すれば三十になって久しいのにもかかわらず、十代の少年と変わらない心持ちでふらふらしている(ようにしか見えない)男に、いい加減いら立つのも当然だろう。



 ゆうべ彼女に、私はあなたのお母さんじゃない、と言われて愕然とした。

 彼女を母親だと思ったことなどなかったが、なるほど、言われてみれば僕は、本来なら母親に期待すべき愛情や気配りを無意識のうちに彼女へ求めていたかもしれない。

 絶句している僕を置いて、彼女は静かに出て行った。


 僕は追いかけなかった。追いかける資格などない、気がした。

 半面、心の何処かがほっとしていた。

 アチラから自然と離れてくれた、とでもいう安堵。

 自分で自分の狡さを軽蔑した。



 何処からともなくいい音が響いてきた。

 心の鬱屈をひととき払う、澄んだ音色。


(オカリナ、か?)


 『コンドルは飛んで行く』ではないだろうか?

 音楽なんてまるでわからないけれど、さすがにこの曲は聞き覚えがある。

 音色に誘われるように僕は、角をひとつ、曲がった。



 少し行った先に、昔風のカフェが見えてきた。

 いや、カフェというよりも喫茶店だろうか?

 しかし、ここまで古色蒼然としつつも現役の店など、リアルで見たのは初めてだ。

 この町に住んでかなりになるが、こんな素敵にクラシカルな店が、自宅からちょっと歩いたところにあったなんて知らなかった。

 いかに自分が、自宅と職場とコンビニ周辺だけで生きてきたのかわかろうというものだ。苦いものが込み上げてくる。


 オカリナの音色はその店から聞こえていた。

 窓も扉も開け放され、まとめて端に寄せられているカーテンが時々、風に揺れている。

 僕はゆっくりとそちらへ近付いた。

 開け放された扉の向こうに、カウンターのスツールらしい椅子に座った初老の男性が、こちらへ横顔を見せる位置でオカリナを吹いていた。


 彼の後ろにある大きな出窓から差し込む光で、やや逆光気味になっていた。

 軽く目を閉じ、彼はオカリナを吹き続けている。

 彼が奏でる『コンドルは飛んで行く』は、のびやかに初夏の青空へと吸い込まれれいた。

 南米の高原の乾いた空を悠然と飛ぶ、コンドルの姿が見える気がした。

 知らないはずなのに涙ぐみたくなるような懐かしさ。

 心の何処かが、キュッと絞られるような心地がした。

 

 オカリナ奏者の彼は、短めにカットしたごま塩頭に五分丈の赤いチェックのシャツにブルージーンズ。

 体型も中高年にしては締まっているし、横顔もキリッと凛々しい。

 楽器の腕前を含め、なかなか格好好い人だ。

 ただ唯一残念なのが、ジーンズのベルトがスーツで使う野暮ったい黒の革ベルトだというところだろうか。

 この年代の人にはよくあるファッションだから、まあ仕方がないのかもしれない。


 頭の一部でそんなことを思いながらも、僕は、馬鹿みたいに立ち尽くし、むさぼるように彼のオカリナを聴き続けた。

 『コンドルは飛んで行く』が終わると、次に日本の唱歌がいくつか奏でられた。

 『さくらさくら』や『故郷』、『荒城の月』……など。

 明るく柔らかく、それでいてどこか哀しげに澄んで響く、オカリナの音色。

 心にも身体にもじんわりと沁み入る。



 拍手の音で我に返った。

 今の今までオカリナ奏者の彼しか見ていなかったが、そもそも彼は、店の中を向いて演奏していたのだった。

 僕の方からはあまりよく見えないが、そちらにそれなりの数の聴衆がいるらしい。


「いやあ、さすが。素晴らしい。いつもながらすごいですねえ、ジンさん。ジンさんの後は出にくいんですよねえ」


 白いものの多い鬚を蓄えた、オカリナ奏者と同年配の男性が立ち上がり、大きく拍手をしつつにこにこ笑いながら歩いてきた。

 赤いバンダナで頭を覆い、黒いエプロンをきっちり身に着けている。

 いやいやと照れ笑いしながら、オカリナ奏者のおじさんはスツールから降りる。

 膝に載せられていた大小のオカリナが、大切そうに両のてのひらで、柔らかく握られている。

 そのタイミングで僕は、店の前から立ち去るつもりだった。

 が、


「どうぞ中へ入って下さいな」


 と、当のオカリナ奏者に声をかけられてしまった。


「さっきから熱心に聴いてらっしゃいましたよね。音楽、お好きなんですか?今日は名演奏家がそろっていますよ、ぜひ聴いていって下さい」


 言いながら彼は、くしゃっと相好を崩した。

 人好きのする笑顔だ。


「迷う方の『迷』、かもしれませんが」


 バンダナの男性が横から口をはさみ、さざ波のような笑いが広がる。


「あ、いえその……」


 躊躇する僕の前へ、ぴょん、とでもいう感じに小柄な丸っこい女性が出てきた。

 シンプルな黒のワンピースに重ねた、裾にフリルのある木綿の白いエプロン。

 古典的とも言えそうなウエイトレススタイルの……よく見ると四十歳は過ぎていそうなおばさん、だった。

 初夏らしいショートカットの髪は栗色で、ところどころ少しだけ金のメッシュが入っている。

 そこはまあいいが、ご丁寧に白いレースのヘッドドレスを頭に着けているのにはぎょっとした。

 メイドのコスプレだなこれは、と僕は内心ややたじろいたが、年齢や体型を気にせず堂々としているからか、さほど見苦しくはなかった。


「どーぞ。本日はワンドリンク何でも三百円。冷たいものでも飲んで、気軽に楽しんでいって下さいな」


 にこにこしながらそう言われると、なんとなく拒否しづらい。

 おばさん特有の、愛想の良さと押しの強さに寄り切られた形で、僕はその日のその時、初めて『喫茶・のしてんてん』の客になった。



 扉を入ってすぐが『舞台』という感じなのだろう。覗くと、『舞台』を囲むように観客席風に木製のテーブルと椅子が並べられていた。飴色っぽい光沢の、年代物のテーブルセットだった。

 中にいた観客は十数人ばかり。一瞥で年配者が多いのがわかったが、こちらへ愛想良く笑みを向ける顔色は明るく、それぞれ洒落っ気のありそうな年配者だった。

 六:四から七:三で男性だったが、女性陣も皆一筋縄ではいかない面構えの、それぞれ独特の雰囲気を持つ淑女達だった。


(ふええ……)


 場違いなところにまぎれ込んだ後悔が早くもきざしたが、逃げる機会はすでに逸している。

 おばさんウエイトレスに手招きされ、僕はおずおずと窓際の隅の席に座った。

 水とおしぼりが用意され、A4ほどの厚紙と、同じくA4ほどのチラシが渡された。

 厚紙の方はメニュー表らしい。

 あまり上手とはいえない字の、手書きのメニュー表だった。


 『どれでも三百円』と大書きされた下に、ブレンドコーヒー(ホット・アイス)、紅茶(ホット・アイス)……などと記されている。

 尻が落ち着かない感じで僕は、メニューに目を当てていた。

 『ティーソーダ』という品名を下の方に見つけ、気になった。

 紅茶味のソーダなのだろうが、あまりなじみがない。

 でもこういうちょっと変わった飲み物、みくが好きそうだよなとちらりと思い、慌ててその考えを胸の奥へと押し込める。


 僕はゆうべ、彼女に捨てられたのだ。

 彼女は今、僕のことを他人以上に他人だと思っているだろう。

 彼女が好きそうだなどと僕が考えること自体、彼女は嫌がりそうな気がした。


 だがさすがにこの陽気、ずっと歩いてきたせいもあって軽く汗ばんでいる。

 炭酸系の飲み物が急に恋しくなってきた。

 目を上げて僕は、おばさんウエイトレスへ『ティーソーダ』を指で指して注文した。


 『舞台』の方では次の出し物(演目?)の準備が進んでいた。

 スツールが片付けられ、レジスターのそばにあるアップライトの古いピアノの前に、座面の丸い低い椅子が置かれた。

 鍵盤を覆う蓋が、バンダナをした男性の手で開けられる。

 そこへ座ると彼は、気まぐれのように鍵盤を叩き始めた。

 上手いのか下手なのかさっぱりわからない感じの音だった。

 うーん……多分、下手、なんだろうなあ。

 素人の耳にもばらついた印象の音が、それでも楽しげに響く。


 一通り演奏?が終わるとピアニストは立ち上がり、お客に向かって一礼した。


 次に、鼻の下に古風なカイゼル髭を蓄えた彫りの深い老紳士が、ピアノのそばへ寄ってきた。

 彼は、ごわっとした感じの白いドレスシャツを身に着け、ネクタイ代わりに渋い銀色の留め具がついたループタイをしている。

 袖を調節する、クリップタイプの赤いアームバンドがクラシカルなスタイルに似合っていて、なかなか粋だ。

 スラックスは深い黒で、やはり黒の、ピカピカに磨かれた革靴。

 緩やかに後ろへ流し、軽くジェルで整えたらしい白いものの多い髪。

 『ロマンスグレー』、などという死語がふと浮かぶ。


 彼は手に、鈍く金色に輝くサクソフォンを持っている。

 そしてピアニストの彼と目を見合わせ、手の中の楽器へ息を吹き込んだ。

 飛び上がるほど大きな音がし、僕は一瞬硬直した。

 どこかで聞きかじった、楽器の音で騒音トラブルになったという話を、なるほどなぁと僕は初めて実感した。



 二人は暫く音合わせらしいことをしていたが、やがてうなずきあい、一緒にこちらを見た。


「それでは始めさせていただきます。マスター&バロンさんによります、気まぐれセッションとサックスの吹き語りになります」


 ピアノの前にかしこまった感じに座ったバンダナにエプロンの『マスター』がそう挨拶をする。


(サックスの、吹き語り?)


 ヘンな演目だと思ったが、当然のように拍手は響く。

 バロンさーん、という、年配のお嬢さん方の黄色い声も響く。

 それに応え、『バロンさん』は片手を上げてウインクした。


(なるほど男爵バロンさん、か)


 ちょっと気障が鼻につくが、この人にはその辺のおじさんにはない洒落っ気というか、高貴な感じがしなくもない。

 彼の雰囲気から付けられたあだ名というか、呼び名なのだろう。



 僕の前へ、注文したティーソーダが運ばれてきた。

 思った通り紅茶色のソーダだ。

 細かい氷がグラスの上の方に浮いていて、底には小さく角切りにされたリンゴらしいものが沈んでいた。

 添えられているガムシロップを少し入れ、かき混ぜて飲む。

 よく冷えていて美味しかった。

 柔らかめの炭酸の刺激がのどに心地いい。

 一口後にリンゴの香りがふっと鼻に抜ける。

 底にあるリンゴのかけらからも香りは出ているのだろうが、どことなく、香りの質が香料っぽい。

 使っている紅茶は、市販のアップルティーではないだろうか。

 みくが一時期フレーバーティーに凝っていたのでそれに付き合わされ、僕も知らないうちにある程度以上、こういうことが詳しくなったのだ。


(あ、いや、みくのことは……)


 考えるな。

 軽く頭を振り、自身をごまかすように僕は、手元にあるメニュー表でない方の紙へ目を落とした。


 紙には『喫茶・のしてんてんのお楽しみ会 VOL 3』というタイトルが書かれていた。

 その下には演目らしいものが並んでいる。そこには



 ① ジンさんのオカリナ

 ② マスターのオリジナル曲?『心のまま奏でます』

 ③ マスター&バロンさんによる、気まぐれセッションとサックスの吹き語り

 ④ モモさんのスキャット

 ⑤ ジンさん・バロンさん・マスターによる気まぐれポップス弾き語り


 FINAL 飛び入り大歓迎!大団円コーラス



 などと書かれていた。

 どうやらこの喫茶店には、一種のサークルとか同好会みたいなものがあり、その発表会をこうして定期的にやっているようだ。


 ③『マスター&バロンさんの気まぐれセッションとサックスの吹き語り』、が始まった。

 まずは、僕ですら知っているジャズの定番『茶色の小ビン』、そして『ルパン三世のテーマ』。

 弾むような楽し気なメロディー。そこへピアノの音が気まぐれのように乱入する。


(う……うーん。微妙?)


 楽しそうな演奏だが、二人ともなんとなく、危うい。

 それぞれ、油断すると散らかりそうなゆらぎがあり、聴き手の方がはらはらする。


(な、なるほど。迷う方の『迷』か)


 納得。



 『ルパン三世のテーマ』の後、水を一口飲んだバロン氏は再び、サックスをかまえた。

 ソロらしく、ピアノの前のマスターはこちらを向いてかしこまって座っている。

 バロン氏の顔が不意に変わった。

 今まで楽し気に緩んでいた頬が引き締まる。


 奏でられるのは、ブレのないワンフレーズ。

 聴き手が思わず前のめりになる、劇的な引力。


 『ゴッドファーザー・愛のテーマ』だった。


 奏者の思い入れが少々過剰だったが、今までで一番いい、と思う。

 ほうっと息を吐きながら、僕は背もたれに身を預けた。

 前世紀的な伊達男が奏でるサックスの調べが、初夏の午後をセピア色へと染めてゆく。

 目を閉じると、古い時代の映画の世界にいるような気分になってくる。



 2コーラスほど奏でた後、バロン氏は静かに楽器を離した。


「ららら、らららら、らららららぁー……」


 響きのいい声が、曲を『ららら』で歌い始めた。

 ビブラートというのだろうか、芸術的なゆらぎがところどころにある。

 なるほど『吹き語り』とはこういうことなのかと僕は思った。

 オペラ歌手を思わせるような声で、正直、サックスより上手いかもしれない。


 1コーラスを『ららら』で歌った後、彼は一瞬、何故か黙った。

 軽く咳払いをし、妙に楽しそうににやっとした。

 息を深く吸い、再び彼は朗々と歌い始めた。


「うらのはたけで ぽちが なくぅぅぅう」


 ……は?

 哀愁のメロディー。しかしそれにそぐわない歌詞。

 頭が混乱する。


「しょうじきじいさん ほったればぁぁあ」


 眉根を寄せ、ごくごく真面目にロマンスグレーの伊達男は歌う。


「おおばんんー こばんがぁぁ

ざあっく ざあっく ざっくざっくう」


 メロディーは『ゴッドファーザー・愛のテーマ』、だ。

 だがしかし、この歌詞。

 この、無駄にいい声でビブラート利かせて歌われるこの歌詞は。

 『花咲かじじい』、では?


「いじわるじいさん ぽち かりてぇぇえ

うらのはたけを ほったればぁぁあ……」


 まだやるか、おい。

 今回ばかりは僕だけでなく、店中の紳士淑女もしばらく硬直していた。

 やがて失笑まじりの笑い声がそこここから漏れ始め、最終的に大爆笑になった。


「バロンさん、バロンさん!」


 笑いすぎて軽く咳き込んだ後、マスターは声をあげる。


「なんですかそれ。替え歌で有名な、某氏の真似ですか? かの御仁に叱られますよ」


「何をおっしゃる、マスター」


 口髭をひねりながらバロン氏は落ち着き払って応える。


「かの御仁が吾輩の真似をなさっているのですよ」


「バロンさんが『吾輩』という時は、嘘をついている時でしょう?みんな知ってますよ」


 オカリナ奏者の彼――ジンさん――に苦笑まじりにそう言われても、バロン氏は動じない。


「嘘ではありません、法螺です。法螺は吾輩の身上。吾輩が、しかつめらしく本当のことばかり言い始めたら、その時はお迎えが近いと思って下さいな、皆さん」


 すまし顔でそんなことを言う彼へ、惜しみのない拍手がおくられる。

 僕もつられ、笑いながら拍手する。

 どうやら彼、男爵は男爵でも法螺吹き男爵の方だったらしい。

 気障でダンディーを身上としているやや鬱陶しいおじさんかと思っていたが、なかなかどうして。

 三枚目的なお茶目さんでもあるらしい。



 拍手の終わり頃、急にふっと胸がふさいだ。

 さっき見上げた眩しい青空を、何故か、僕は思い出した。

 どこまでも明るく、すがすがしい季節。

 彼ら……そして、この店のお客さんたちに相応しい。

 僕には関係ない。


 半ば無意識でグラスを持ち上げ、溶けた氷がほとんどの、気の抜けたソーダの残りをすすり上げる。

 思いがけないくらい苦かった。



「辛いんじゃないの?」


 ティーソーダの苦みのせいだろうか?

 不意に僕は思い出した。

 僕を心配し、陰っていたあの日あの時のみくの目。

 そしてみくの言葉を。


 

 あれは僕が、大学を続けるかどうかで悩んでいた頃のことだ。

 みくは他の大学の学生だった。

 高校時代からの友人に付き合わされ、石仏同好会という地味なサークルに連れていかれた時に知り合った。

 石の地蔵やら道祖神やら、明日香村の遺跡やらの話をしだすと止まらなくなる、ちょっと変わった女の子だった。


 僕は当時とある芸術大学の学生だったが、己れの実力のなさ・才能の乏しさを思い知り、打ちのめされていた。


 ちょっと小器用。

 ちょっとセンスがいい。

 ちょっと絵や造形が上手い。


 そんな、こういう大学へ入れる程度の実力では、世間でまったくお話にならない。

 『才能』という圧倒的にキラキラしたもののあるかないかが、こういう世界のすべてと言って過言ではなかった。

 そして『才能』は教わって身につくようなものでは、当然ない。


 愚かな話だが、僕は大学生になって初めて、その残酷なまでに身も蓋もない現実を思い知った。

 頭ひとつ抜き出ている者は入学時から抜き出ていて、そしてそのまま突っ走ってゆく。

 しかし最初からもたもたしている者は最後までもたもたしていて、やがて時間に押し流されるように世間の片隅へ追いやられる。

 僕が後者なのは、どう贔屓目に己れの才能を見積もっても確かだった。

 子供の頃、頭ひとつ抜き出ている夢が見られたのは、単に自分の周りには芸術的な才能のある者がほとんどいなかったからに過ぎない。

 それを、大学生になって初めて僕は気付いた。

 己れのおめでたさを笑った後、虚しくて泣けてきた。


 ここでこうしていても、自己満足のゴミをせっせと作り続けるだけ。

 金も時間も無駄。

 毎日毎日そんな自虐の言葉が頭に響いて、心がささくれ立っていた頃。

 辛いんじゃないの、というあまりにもストレートな彼女の言葉に、僕は絶句した。

 ひだまりのお地蔵さんみたいに彼女は笑い、あえてのように軽くこう言った。


「辛いんなら別の道もあるんじゃない? そっちが辛くない可能性だってあるし」


 気楽な言い草だと僕は急に腹が立ってきた。


「ほっといてくれよ。あんた他人だろ?」


 言った後、さすがにしまったと思った。

 あきらかに八つ当たりだ。

 彼女はしかし更に心配そうに眉を寄せ、遠慮しながらこう言ったのだ。


「そりゃあ確かに他人だけど。サークルの仲間で、顔見知りじゃない。顔見知りのことを気にかけるのは、当然じゃないのかな?」


 『顔見知りのことを気にかけるのは、当然じゃないのかな?』

 そう言われ、ハッとする。

 当然すぎて忘れていた。

 当然すぎて……思い付かなかった。


 そう、僕はいつもそうだ。

 紙ナプキンで口許を押さえ、そっとため息を吐く。



 次の演目が始まる前に、僕は席を立つつもりだった。

 しかしさっきのオカリナ奏者(ジンさん、というらしい)が『舞台』の方へ出て行ったので座り直した。

 彼の演奏が聴けるのなら、もうちょっといてもいいかなと思った。


 オカリナの音が低く響き始める。

 白髪を緩やかに結い上げた、呼び名に相応しい桃色のオーガンジーを首に巻いた、優しそうな老婆――いや、老婆と呼ぶには雰囲気が若々しい女性だ――が、背筋を伸ばして真っ直ぐ立った。

 深く一礼する彼女へ、客席から拍手が響く。


 『モモさんのスキャット』が始まった。


 伸びやかに響く彼女の『ラララ』は、控えめなオカリナの音色と絡み合い、僕の胸を何故か締め付ける。

 口元に笑みを浮かべ、透き通った『ラララ』で紡がれるメロディ。

 柔らかなほほえみを浮かべるように歌う彼女は、別にどこかが似ている訳でもないのに、僕に、みくのたたずまいを思い起こさせた。



「……ううん。迷惑なんかじゃない。来てくれて本当にありがとう」


 そう言って軽く涙ぐんでいた彼女を、僕は初めて、そっと抱きしめた。


 みくと僕はその頃、いわゆる『友達以上・恋人未満』の中途半端な感じだった。ぬるま湯のようなその関係は心地よかったが、もどかしくもあった。


 そして僕はある日、僕としては一大決心をした。

 彼女の誕生日に、正式に付き合ってくれと申し込むのだ。

 あの笑顔を独り占めしたい。

 あのひだまりのお地蔵さまみたいな優しさを、他の男へ向けないでほしい。

 いつの間にか僕は、切実にそう思うようになっていた。


 気の利いた男なら、ちょっといいレストランでディナーを予約し、そこで名の通ったブランドのアクセサリーに花束でも添え、お誕生日おめでとう、よかったら僕と付き合って下さいとでも申し込むのだろうが。

 そんな金、学生崩れのフリーターである僕には、逆さに振ったって出てこない。


 百円ショップでどっさり色紙を買い、心と気持ちだけは十二分に込めて、真紅の薔薇を彼女の歳の数だけ折り、画用紙の上へ花束の形にレイアウトしたものを用意した。

 後は、彼女の好きな紅茶の茶葉と、小さなフルーツケーキも用意した。

 それだけで僕の財布はほとんど空だった。

 誕生日も関係なしにアルバイトをしていた彼女を、サプライズのつもりでアパートの玄関先で待つことにした。


 が……かなり待ったのだが、彼女は帰ってこなかった。

 日付が変わる頃になっても戻らない彼女に、もしかして外泊でもするのか、誰と何処でとじりじりし始めた頃、ほろ酔いの彼女がようやく帰ってきた。

 女友達に、誕生会代わりの飲み会をしてもらっていたのだそう。

 自分だけで盛り上がっていた自分が恥ずかしくなり、一生懸命考えてきた言葉も飛んでしまった。

 なんとなく憮然として僕は、迷惑かもしれないけど、これ、とぶっきらぼうに言って用意したものを渡した。

 画用紙に貼られた薔薇の花束だけで、僕の気持ちは彼女へ届いた。


「……ううん。迷惑なんかじゃない。来てくれて本当にありがとう」



 僕はさっきからずっと、紙ナプキンを口許に当てていた。

 ティーソーダーの苦みが、不思議なまでに強く舌に残っている。

 そのせいか涙がにじんで仕方がない。


(僕は……)


 彼女をなくした。なくしたのだ!

 唐突に気付く。

 瞬間的に息がとまった。

 足元が崩れ、奈落へ落ち込むような感覚。


 ……彼女と一緒にいて幸せだった。

 陽だまりのような笑顔が大好きだった。


 でも近くにあって当然で、当然すぎて大事にすることすら忘れていた。

 ……いや。

 忘れていた、んじゃない。

 ()()()()()()()()


 

 大学をやめて以来、僕は絵を描かなくなった。

 描かないのか描けないのか、自分でもわからない。

 しかしそれ以来、僕は、些細なことでも落ち込みやすくなった。


「やりたいことなら無理してやめなくてもいいんじゃないの?学校をやめるのと、絵をやめるのは別じゃないのかな?コツコツ続けて大輪の花を咲かせた人だっているじゃない。ほら、学生の頃に見に行ったあの絵描きさん。ほとんど我流であれだけの大作を……」


 何十回目かの落ち込みに、むっつりしている僕を見かねた彼女がそう言った。

 訳知りな言葉にかっとし、思わず


「うるさい!」


 と僕は怒鳴った。


 満たされない、ぐしゃぐしゃの己れの心。

 行き場のない焦りと怒りが渦巻いている。

 おびえたような彼女の目に後悔したけれど、ふてくされたように僕はそっぽを向いた。


 彼女の優しさに慣れ、いつしかそれが当たり前になっていた。

 何があっても僕を見守り、必要としてくれるのだと、知らないうちに思い込んでいたらしい。


 だが僕は、彼女をきちんと見守ったことがあっただろうか?

 真面目に、君が必要だと伝えたことがあっただろうか?


 私はあなたのお母さんじゃない、と言った彼女の最後の言葉の意味が、今更ながらはっきりと理解できる。



 ゆがむ視界をごまかすように、僕は紙ナプキンをもてあそぶ。

 紙を触っているうちに何年ぶりかで指が、覚えている形を勝手に折り始めた。

 角と角、対角線をきちんと合わせ、きっぱりと折り目を付けてゆく。

 一枚では頼りないので二枚重ねて。

 柔らかくてつるつるしていて、もともと別の折り目がきつく付いている紙ナプキンは折り紙に向かない。

 わかっているが、それでもかまわず僕は折る。折り続ける。



 プログラムは次へ進んでいた。

 確か、気まぐれ弾き語り、とかいう演目だった。

 ゆらぎのあるピアノの音。

 やや高めのマスターの歌声。

 芸術的なバロン氏の歌声が、そこを下支えして聴かせる。

 ジンさんが吹くオカリナも、さっきまでと違って軽やかに歌声に絡む。

 どうやら、長渕剛やさだまさしが気まぐれに歌われているらしい。


 感覚の一部でそれらをとらえながら、僕はひたすら折り紙を続けていた。


(薔薇、を……)


 あの日みくへ捧げた薔薇を。

 もう遅いのはわかっている。

 でももしもう一度、僕に時間がもらえるのなら。

 もう一度だけ、チャンスがもらえるのなら。

 せめて、『今までありがとう』、それだけは伝えたい。



 あたたかなピアノの音が響いている。

 とんとん、と、不意に肩を叩かれた。


「参加しませんか、おにいさん。のしてんてんのお楽しみ会、大トリはいつも全員での合唱なんです」


 相変わらずの愛想の良さと押しの強さでにこにこしながらそう言うのは、コスプレおばさんウエイトレス。

 皆に、レイちゃんと呼ばれている人だ。

 さあさあ、と半ば強引に引き立てられ、僕は立ち上がる。

 彼女の勢いに再び寄り切られた。

 ピアノの周りにはすでにみんな集まっていた。


 マスターは即興のメロディーを奏でながら僕とレイちゃんが来るのを待っていた。

 僕が少し離れたところで立ち止まると、旋律が変わった。

 どこからともなく歌詞カードが回ってくる。


(……え?)


 これはみくが大学時代、学園祭の出し物として参加した劇の中の、挿入歌だ。

 文学部の友人と、脚本から挿入歌の歌詞まで作ったと聞いている。

 挿入歌に関しては、趣味で音楽をやっている同期の誰かが曲を付けたと聞いた。

 別にその辺を詳しく聞かされた訳ではないが、期間中、ちょいちょい彼女が歌っていたので、知らず知らずのうちに覚えていた。


 なぜこんなものがと思ったが、皆が当たり前の顔をして歌詞カードに目を当てている様子を見ていると、何となく、これが当たり前の事のような気がしてきた。

 この歌を作った人が実はマスターの孫だとか、そういうことなのかもと思う。

 


 イントロが流れる。

 劇は、許されない恋を秘め続ける王子の、苦しい片恋の話だった。

 この歌は彼が片恋相手の結婚披露宴の場で、祝婚歌に託した最初で最後の求婚歌を歌う……という場面での挿入歌である。


 切ないメロディーは、どこかたどたどしいピアノで奏でられると妙に胸がつまる。

 不器用な男の哀しい恋が、図らずも表現されているような。


 芸達者な年配者たちの合唱が始まった。

 バロン氏はもちろん、オカリナのジンさんも今回ばかりは声を張って歌う。


「マスターのそばへいってください」


 所在なくぼんやり突っ立ったままの僕へ、不意にレイちゃんは言う。

 訳がわからないまま、ふらふらと僕は進み出た。

 マスターが目顔でこちらへ来いと合図する。


「和音をお願いします」


 間奏を奏でている彼にいきなりそんなことを言われ、僕は激しく戸惑った。


「なに、マスターの真似をなさればよろしい」


 いつの間にか近くにいたバロン氏がさらっとそう言い、僕の左腕をつかんで鍵盤へ持っていく。

 こわごわ、マスターを真似て指を鍵盤に乗せる。戸惑ったような弱い音が響き、和音というより不協和音になった。

 しかしマスターは気にしない。


『……誰そ誰そ 吾を呼ぶは

 星の煌めき 銀の月影

 山の彼方の遠雷や?

 否や否 それはなり

 高き峰より降り来る 黄金の毛並みは

 孤高の神狼ラア・ジン

 

 マスターの歌声へ、ジンさんの、バロン氏の歌声が重なってリフレインする。


「さあご一緒に!モモさん、彼のサポートを」


 マスターの声。

 そっと近付いてくるのは、さっきのスキャットの老婦人だ。

 穏やかなほほえみは、やはりみくのほほえみを思わせた。

 彼女の茶色っぽい瞳が踊るように輝く。

 優しい声で、ちょっとごめんなさいねと彼女は言うと、ゆっくり静かに僕の背を撫ぜ始めた。


 母のような祖母のようなてのひら。

 身体中のこわばりがゆるんでいく。

 鍵盤を叩く指先も、ふわりとゆるむ。


「……誰そ誰そ 吾を呼ぶは……」


 細いがよく通るモモさんの声。


「……星の煌めき 銀の月影

 山の彼方の遠雷や?」


 彼女につられるように僕は、記憶の底で眠っていた歌を歌い始めた。

 僕の中で僕を堰き止めていた何かが、その時、壊れた。


「否や否 それはなり」


 すっ、と、マスターはピアノの前から身体を引いた。

 主旋律を奏でていた彼の指が、鍵盤から静かに消える。

 引き寄せられるように僕は、自分の右手を鍵盤に乗せる。

 無秩序な音が鳴る。


 しかし僕は、構わず鍵盤を叩く。

 右手も左手もない。

 胸を破る激情のまま、僕は鍵盤を叩く。叩く。

 気付くと僕は、無茶苦茶に鍵盤を叩きながら叫ぶように歌っていた。


「否や否 それは汝なり……汝なり!」


(みく。みく!)


 ごめん、ごめん。

 仕事だの将来のあれこれだのを、見ないふりで逃げていたことだけが悪いのではなかった。

 逃げたい逃げたいと思い続けていたことが悪かった。

 今そこにいる君と真正面から向き合わず、今の自分の正直な気持ちと真正面から向き合わず、言い訳ばかりして逃げていたことが、一番悪かったのだ。

 逃げて逃げて逃げ続けた結果、僕は、一番大切なものを見失った。

 鍵盤を叩き、僕は歌う。

 まともな声などもう出ない。涙が出て仕方なかった。


「……それ、は」


 息が切れて声にならなくなってきた。


「汝、のみぃ~」


 スローテンポで歌われる最後のフレーズ。

 マスターがジンさんが。バロン氏がモモさんが。そしてレイちゃんが他の皆さんが。

 いたわるように最後のフレーズを歌ってくれた。


(それは、のみ……)


 愛している!愛している!

 今まできちんと伝えられていなかったけれど。

 君だけ。みく、君だけを!

 愛している!


 急に膝が砕け、肩で息をしながら僕はピアノの前でくずおれる。

 鍵盤に落ちた指が柔らかな不協和音を奏で、やがて静かになった。

 顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

 あたたかな拍手の音を聞いたような記憶はあるが、後は知らない。

 墜落するように僕は、心地よい眠りの中へとおちていった。



 我に返ったのは自室の万年床の中。

 窓から差し込む朝日が眩しい。

 低くうめきながら身体を起こし、よろよろと布団の上に座る。

 枕元に見慣れぬものがある。目をこすり、改めて見直す。

 チラシらしい紙で、『喫茶・のしてんてんのお楽しみ会 VOL3』と書かれていた。


「え……ええっ!」


 小さく叫び、あわてて取り上げる。

 その途端、十センチ四方ほどの真四角の分厚い紙が落ちた。

 拾い上げる。

 紙製のコースターのようだが、絵が描かれてある。



 真紅の折り紙で丁寧に折られた薔薇の花。

 確かに紙の質感なのに、花の赤は滴ったばかりの血を思わせる鮮やかさ。

 触れると指が染まりそうな、湿り気すら感じられる。



 息を呑む。

 完全に眠気が飛んだ。

 鉛筆と色鉛筆だけでさらっと描かれてあるが、すごい表現力の作品だ。

 一瞬、鳥肌が立った。

 半端とはいえ、僕もかつては絵をやっていた。

 本物か小器用なだけのまがい物かくらいはわかる。


 チラシの裏にも何か書かれているらしいのが、窓越しの朝日に透けて見えた。ひっくり返してみる。



『本日は素晴らしい演奏・素晴らしい歌をありがとうございました。

 ウチのお楽しみ会は飛び入り参加大歓迎!ですが、ここまですごい、鬼気迫る演奏と歌を、飛び入りの方と共有できるとは思っていませんでした。とても嬉しく思っております。

 よろしければ、どうぞまたおいで下さい。

 ティーソーダの代金は、その時までつけておきますので(笑)。

 

 喫茶・のしてんてん 店主


 追伸・絵付きのコースターは初回来店のお客様限定の記念品です。お納め下さい』



 僕は茫然と、チラシの裏のメッセージとコースターに描かれた折り紙の薔薇とを交互に見た。

 見ているうち、ふと何かに呼ばれたような気がした。

 コースターを持ったまま僕は立ち上がり、玄関を開けて外へ出た。



 朝の空気は甘く澄んでいた。

 風は芽吹いたばかりの緑の香り。なんとなく薄荷を思わせる。

 理由もわからないまま、胸のどこかが鈍くうずいた。

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― 新着の感想 ―
[一言] またまたティーソーダがおいしそう……(´・ω・`) 薄まってしまったティーソーダが主人公の気持ちを表しているようで、読みながらしんみりしました。 それでも未来にはほのかに光が射しているような…
[一言] いやぁ、続編も素晴らしかったです。 主人公の心の変化がありありと書かれていて、どんどん物語のなかへと引き込まれていきました。 最後はちょっと不思議な幻を見たような心地で目を覚ましたら、コー…
[良い点] まさか、のしてんてんの続編が書かれていたとは! 情景描写に力が入ってますね。 かわかみれいさまの書く主人公の「弱い部分」が心をえぐってくるようですよ。 [気になる点] 薔薇の折り紙、調べて…
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