その男、紳士にして
看板に書いてある文字を見れば、なんという名前の店かわかるのだが……あいにくと、言葉は通じても文字はヒスイには読めない。アニーシャに聞けばいいのだが、この香りを前にして、一秒すらも惜しい。
香りは、合格だ。この世界で、ようやく満足いく一品に出会えるのか。期待に胸を高鳴らせ、足を進め……ヒスイはその店の戸に、手をかけて……
「「ん?」」
左側から伸びてきた手と、手が重なる。この戸は、横開きの戸だ……引くための手が、誤って触れたなんてことは、まず考えられない。
ならばこの手の主は、ヒスイと同じくこの店へ入ろうとしている客なのだろう。
「あ、これは失礼」
「いえ、こちらこそ」
お互いに手を引き、謝罪を口にしつつ向き直る。
……ヒスイの正面に立っていたのは、一人の男性だ。腰まで伸びた、黒に近い藍色の長髪は女性でないかというほどのさらさら具合。切れ長の目が威圧感を与えるものの、対照的に表情は穏やかだ。
銀色の瞳は、まるでダイアモンドのように輝いている。直接見たことはないけど。くわえて美形に長身という、モデルもびっくりのスタイル。背の高さから、ヒスイは見上げる形になる。
その首筋のアクセサリーは深緑に光り、まるで翡翠……ヒスイと同じ名前だ。
「これは不注意で、申し訳ないお嬢さん」
しかも、物腰は柔らかい。紳士だ、紳士がいる。
「こっちこそ不注意で。あまりのおいしそうなにおいに、周りへの注意が欠けてました」
「ということは、やはりキミも、このお店へ? 私はこのお店によく通っているのですが……キミは、初めて?」
「はい。そういうあなたは常連さん? ということは……」
「えぇ。ここの料理は絶品ですよ」
味の保証をする男に、ヒスイの目が輝く。ただ香りだけではない、常連がいるほどにここの料理は美味しいというのだ。これが、心昂らずにいられようか。
そんなヒスイの様子に、男は軽く笑みを浮かべる。
「ずいぶんと嬉しそうですね」
「そりゃあもう! 早く食べたいですが……その前に。私、ヒスイって言います」
美味しい料理を前に、一秒も無駄にできない……だが、マナーは尽くさねば女が廃るというもの。しかも相手は、同じく食好きの人間だ。
偶然とはいえ、美味しいお店の常連と知り合えたのだ。これはなにかの運命……このお店とは別にも、美味しいお店を知っているかもしれない。仲を深めておいて、損はない。
「これはご丁寧に。私はジェイドと申します」
男、ジェイドは軽くお辞儀をして、応える。すごい腰の折り具合、やはり紳士だ。
「ジェイドさん! よろしくお願いします。それから、こっちが……」
お互いの自己紹介が終わり……ヒスイは、自信の友達の紹介をすることに。二人のやり取りに入り込めなかったアニーシャが、タイミングを見計らって一歩、また一歩と前に出る。
聖女として躾けられたからか、歩くだけの振る舞いも様もなっている。
「初めまして、アニーシャと申します。どうかお見知りおきを」
「ほお、聖女さんでしたか。これは素晴らしいお友達を……!」
にこやかに自己紹介するアニーシャに、やはり笑顔で対応するジェイド。しかし、アニーシャの姿を見た途端、ジェイドの切れ目は見開かれる。漫画なら、『くわっ』という擬音が入りそうなほどの勢いで。
アニーシャは、名乗らずとも一目で聖女とわかる格好をしている。その恰好を見て、ジェイドは……
「? ジェイドさ……」
「も、も…………もふ……」
「も?」
「! あぁいや、なんでも! なんでもありませんとも!」
ヒスイの不思議そうな声に、ジェイドは過敏に反応している。首を傾げるのみのアニーシャも、その意味が分からず左右に首を振る。
その度に、頭に生えたウサギの耳が揺れる。毛並みのいい、もっふもふのふっわふわが二つ、左右に揺れて……
「ふん!」
「ジェイドさん!?」
直後、なぜか自分の頬をぶん殴ったジェイドの奇行に、二人は戸惑う。対して、ジェイドの顔は何故か爽やかだ。
「大丈夫です。ちょっと悪い虫がいたので」
「叩くだけじゃダメだったの!?」
「大変、腫れてるじゃないですか」
どれだけの力を持って自分を殴ったのか。聖女であり、それ以前に人が傷つくのが嫌な優しい性格をしているアニーシャは、ジェイドに近づいていく。
「見えてください」
「いえ、なんのことはありませんよこれくら……ぃ!?」
ジェイドの斜め前付近に立っていたアニーシャは、ジェイドの傍へと移動する。移動することによって、先ほどまでジェイドに見えなかった"あるもの"が見えるようになった。
その瞬間、ジェイドは口元を押さえ……
「だ、大丈夫ですか!? 気分でも悪く?」
「いえ、全然……大丈夫だから全然ない問題ですよ」
「言葉おかしくなってますけど!?」
アニーシャが心配そうにジェイドを見上げている。従って、ジェイドの目の前ではウサ耳が揺れており、視線を下げれば見えてしまう……先ほどまで見えなかった、アニーシャのお尻が。
……いや、正しくは……
「も、ももも……もふっふ……」
「……まさか、あの人……」
一連のやり取りを見ていたヒスイは、一つの確信にも近い考えが頭の中にあった。なぜ、ジェイドの態度がおかしくなったのか……それは、アニーシャの格好を見たから。
それは間違いで、そして正しい。ジェイドが反応したのは、アニーシャの格好……ただし、聖女の服にではない。その頭から生えた、耳にだ。
そして今彼が見ているのは、アニーシャのお尻ではない。そこにある、そこに生えている、尻尾だ。
「も、もも、ももももも……」
「あの人、獣好き……いや、もふもふが好きなのか」
ヒスイは気づいた。さっき、『もふ』と聞こえたのは、おそらく聞き間違いなんかではない。あの男は……もふもふが大好きで、たまらないのだろう。
この男、紳士に見えて……
「とんでもねえもふリストだ」
自分の中で勝手に名付けた名称を、ジェイドに与えた。