一、白い顔の怪人
東京のような都会のほうが、却って街灯から外れたところの暗がりが濃いと申します――。
放課後に、下駄箱の前で新品のローファーと格闘をしていた時だった。父さんから借りた小さな靴ベラでなんとか足を滑り込ませて、つま先で地面をたたいていたところへ、覚えのある声が近寄ってきた。振り返ると、やんちゃな顔立ちのクラスメイト・佐竹久がぎこちない笑みを浮かべながら、こちらを向いている。
「どうかしたの?」
「いやあ、ちょいと用事があってさ……」
あの事件――世にいう、都立三高の生徒連続殺人事件のことだ――で苦楽を共にしたのがきっかけで、前より距離感が縮まって変に親しくなってしまった僕と佐竹は、たまに途中まで一緒に帰ることがあったのだが、今日はどうやら、それが目的ではないようだった。
「実はよぉ、ついてきてほしいところがあってさ」
「場所によるけど……どこ?」
すると佐竹は、意外な名前をあげた。
「銀座の探偵社。山藤探偵に、頼みたいことがあってさあ」
「まさか佐竹、お前またなんか悪さをして……」
「違う違う! 実は、知り合いが変な目に遭ったもんで、相談をしたいんだよ。――立花ぁ、立花!」
すると、佐竹の呼びかけに応じるように、ひとつ奥の下駄箱の影から、すらりと伸びた色白の、佐竹とは対照的な女子生徒が姿をあらわした。銀縁の四角い眼鏡をかけた、どことなくクラス委員長じみた雰囲気の持ち主である。
「C組の立花真由子。健壱、知ってるか?」
学年集会でこんな顔を見たような覚えもあったが、いまいち自信がなかったので、知らないなあ、とお茶を濁しておくと、佐竹は不満そうに、じゃあしゃあねえな、とため息を漏らした。
「立花、うちのクラスの高津。山藤悠一と知り合い、なのはなんとなーく知ってるよな?」
「ええ。高津くん、あの事件で学校中に名前が売れたものね」
「まあねぇ……」
怪我の功名か、相手がこちらのことを知っているとわかると、面倒な自己紹介もせず、僕は二人を連れて、新宿駅から中央線の通勤快速へ乗り込んだ。いきなりの訪問ではまずいだろうと、前もって探偵社のほうへ電話をしておいたのだが、僕たちの前に現れたのは悠一さんではなく、見慣れない顔の少年と、それに連れだって現れた猫目さんだった。
「あれっ、悠一さんは……?」
受付の前で合流し、応接室の続く一角への廊下を歩きながら尋ねる。
「目下、強羅温泉へ家族水入らずの休暇旅行中でね。今朝、新宿から小田急で発ったばかりだから、帰ってくんのは一週間後! ま、入って入って」
猫目さんに言われるがまま、応接室へ入りソファへ腰を下ろすと、かねてから気になっていた初対面の少年を紹介してくれた。
「――こちら、調査三課の沢渡浩平課長。オレの囲碁仲間でもあり、右手でもあり、てなトコ」
「でもって、勝敗が付いたら、もっぱらネコさんから昼飯をおごってもらうのが専門でしてね……沢渡です、よろしく」
手を差し出され、そっと握り返すと、探偵長から聞いてますよ、あなたが高津さんですねと、沢渡さんは長い前髪の合間から人見知りなどしなさそうな瞳を向け、親しみを込めて――というよりは馴れ馴れしく――僕たちへ話しかける。
「で、健壱さん、今日はまた、どんなご用事で……?」
話の合間に運ばれてきたコーヒーを飲んでいた猫目さんが、思い出したように尋ねてきたので、ひとまず主役が佐竹と立花さんであることを伝えると、僕は沢渡さんと一緒になって、話を聞く側へ回った。
「立花、オレから話してやろうか」
「――お願いしていい? ちょっと、自分からは話しづらいから……」
「いいとも。――まあ、最初に言っちまうと、ここにいる立花真由子はこの前、『変なやつ』に出くわして、追いかけまわされたんだよ」
「変なやつ……へえ、そりゃあ興味深い。詳しく聞かせてもらおうじゃありませんか、佐竹さん」
猫目さん同様に、詰襟の学生服を着ている沢渡さんは、胸ポケットからノック式の高級そうなボールペンと革の手帳を出し、丹念にメモを取り始める。
「ありゃあ、近所から夜泣きそばのラッパが聞こえなくなったころだから、四月の頭ぐらいのことだったっけ――合ってるか、よしよし。で、ここにいる立花は豊島のほうで食器の卸売りをしてる店の娘なんだけど、ウチの学校じゃあ珍しく、自転車通学組なんだ。
でもってその日、友達の委員会活動を手伝ってて下校の遅れた立花は、いつものように家に向かって漕ぎ出したんだけど――あ、先に言っておくけど、立花が使ってる自転車はクロスバイクだから、結構早く走れるんだよ。だから、雨風がねえ限りはかなり楽々家に着くんだけど、その日に限って、道路工事があちこちで行われてたんだ。
そうなると、いつものルートから外れて、入り組んだ道を抜けるように走るハメになるんだが、これがまあ、ひどい路地ばかりでよ。暗い、街灯もまばらなトコを抜けるもんだから、かなり心細い。サッサと帰って晩飯にありつきたい、風呂へ入りたい……なんて思っているとこへ、事件は起きたわけだ」
そこまで話すと、佐竹は手近にあった僕のコーヒーを奪い取り、グイと飲み干してから、
「背後からもう一台、スッと近づいてくる自転車のギアの音に気づいて、立花はベルを二、三度鳴らしてから、手で『先へ行って』ってサインを送ったんだ。ところが、いつまで経っても追い越しゃしない。さすがにおかしいぞ、と思ってちらと後ろへ目をやると――いきなり、その場が明るくなったんだ。
たぶん、ハンドルの根元につけるタイプのランプを真上に向けたんだろうけどな、その明かりの先にいたんだよ。真っ白く顔を塗ったくった、ピエロみたいな顔のやつがニヤニヤ笑ってて……」
「いやあっ!」
鬼気迫る佐竹の語りが当夜のトラウマを呼び覚ましたのか、立花真由子は耳をふさぎ、テーブルクロスの下へ身を隠してしまった。
「バカ、思い出させてどうするんだ!」
「この野郎、どういうつもりだ、トラウマえぐってどうするんだよ!」
僕と猫目さんに両耳へ怒鳴りこまれ、佐竹はすっかりシボんでしまった。が、そんな僕たちをよそに、沢渡さんはメモを見返しながら、ふむ、ふむ、としきりに唇を動かしている。
「――質問! それで、立花さんはなにか直接的な被害をこうむったり……つまり、ナイフで斬りかかられたとか、変なモノをかけられた、とかはしてないのかな」
「――それはなかったんだ。ただ、家の玄関先までケタケタ笑いながら、ボロい自転車で追っかけまわされて、オシマイ。店の軒先で片付けしてた店員に助けられて、どうにかこうにか無事に帰宅を果たしたわけだが……こうなっちまったわけ」
「なるほど、こうなっちゃったわけか……この場合はまあ、君がえぐった、といったほうが正確だろうけどねえ」
「……申し訳ありやせん」
鉛筆を振る沢渡さんに釘を刺された佐竹は、申し訳なさそうに眉を曲げ、立花さんを慰める。そして、ほどよく彼女が落ち着きを取り戻したころになって、沢渡さんは立花さんのほうを向いて、以降、あなたの近辺にそいつは現れましたか、と尋ねた。
「――いいえ、それっきりです。ただ、それからずっと、帰り道が怖くて怖くて……気が気じゃありません。警察にはいちおう報告をしたんですが、手掛かりらしいものが皆無なので、パトロールをするお巡りさんに注意喚起をしたきりだそうです」
「なァるほど……。いやはや、僕もそんなのに追い回されたら、夜中にトイレに行けなくなってしまう。――ネコさん、そういやあなたンとこは細い路地でしたっけね、浅草の仲見世からちょっと外れたとこ……」
ソファから離れ、背もたれに手を預けながら話を聞いていた猫目さんは、頭をさかさまにして自分の顔を覗き込む沢渡さんの名調子にすっかり縮み上がって、
「よ、よせやいっ。銀座線のドンケツからが長いんだぜ、おれの通勤ルートは……」
「三河島のろくろく街灯がないとこに住んでる僕よかはマシでしょ、贅沢言うとバケて出ますぜ……」
「うるせっ、仕事しろい」
幽霊の手まねをしてせまる沢渡さんにデコピンをお見舞いすると、猫目さんはそのまま、不機嫌そうに応接室を出てしまった。
「――やれやれ、気が短い人だねえ。で、話がそれたけど……立花さん、あなたそれ以降に直接追い回されたりしたような目にゃ遭ってないの?」
額をさする沢渡さんの問いに、立花さんはええ、かろうじて……と力なく返す。
「なるほど、それなら安心だ。――ひとまず、今日はうちから車を出すから、みんなそれで帰ってくださいな。みすみす一人きりで帰して被害にでもあったら、探偵長に申し訳ないからね」
沢渡さんからのありがたい申し出に礼を述べると、僕たちはコーヒーのお代わりを楽しんでから、沢渡さんの連れてきた三課の探偵員の男の子の運転で、銀座四丁目を後にした。はじめに佐竹が西日暮里で降りると、社用車は一路、立花さんの住む豊島に向かって社旗を翻しながら速度を上げだした。
「――沢サン、こりゃあ長丁場になりそうですよ」
ステアリングの上に顎を乗せたまま、男の子はじっと、前方で光るタクシーのテイルランプをにらんでいる。都心環状線に続く道路は、四時ごろに起きたというトラックの横転が原因の渋滞が一向に解消されず、待てど暮らせど、前の車が動く気配は一向にない。
「こりゃあ、道を変えたほうがいいかもしれねえなあ。ちょっと調べてみるから、運転に集中しててくれや」
助手席に座っていた沢渡さんはグローブボックスを開け、中から最新版の都内道路図を出すと、一緒に紐づけしてあった方位磁石を片手に道路の位置を探りだした。
「――おい、二番目の交差点を左に曲がると近道があるらしいぜ。疲れただろう、運転代わってやるぜ」
「すいません、急いでいただいて……」
僕と一緒に、後部座席に並んで座っていた立花さんが礼を述べると、沢渡さんはからりと笑ってこう返す。
「夕飯は家族そろって食べるのが一番うまいって、ネコさんがよく言ってるもんでしてね。――おっ、信号変わったぞ、急ぎな……」
粋な返しに感心しているうちに信号が変わり、車は二番目の交差点を左折した先の路肩で停車した。そして、沢渡さんが代わりにハンドルを握ると、社用車は流れる車列に華麗に入り込み、ショートカットルートである細い坂道をうねるように走り続けた。いつの間にか日も落ちて、辺りはすっかり暗くなっている。
「これぐらいの時間になると、どこん家もメシの支度で忙しいだろうねえ。カレーをやる家は、奥さんが子供のために甘口をこさえたりしてさあ。合いの手にラッキョと福神漬けも出さなきゃいけねえから、その辺が大変だろうぜ……」
ハンドルを切る合間合間に、沢渡さんは聞いていて食欲を刺激するような話をポンポンと振ってくる。その愉快な話術に、僕と立花、探偵員の男の子はクスクスと笑い、同時に、家で帰りを待っているであろう家族のことを思い出して、家路を急がねば、と感じるのだった。
「僕ンとこはカレーライスを出すときに、お袋と婆さんがゆで卵の切ったのを添えるんだ。こいつがまた、カレーのルウと絶妙にあってねぇ……」
沢渡さんはなおも、食欲をそそる話に興じている。事件の渦中とは思えない、平和なひと時だった――はずだった。
均衡が崩れたのはそのすぐ直後だった。いきなり速度が緩んだかと思うと、沢渡さんはヘッドライトを落とし、ちょっと静かに……と潜むような声で僕たちをを制し、車を路肩へ停めた。
「沢サン、どうかしたんですか」
「――いやねェ、なんか妙なもんが視界に写った気がしてよォ」
助手席に控えている男の子に、沢渡さんはステアリングを握ったまま、じっと暗がりをにらんでいる。が、その前方はるか彼方から絹を切り裂くような悲鳴が上がると、すぐさまスターターをまわし、派手にアクセルを踏み込んだ。
「見ろっ、あそこのとこ……」
訳も分からず、沢渡さんの言うがままに前方へ目を凝らすと、一緒になって前を覗き込んでいた立花さんが悲鳴を上げる。無理もない話だ、ライトの照らす先に、彼女が見たという全身白づくめの、半裸になった上半身を白く塗ったくった男が、自転車で誰かを追い回しているのがありありと見えたのだから――。
「この野郎っ、今度ァ誰を追い回してやがる!」
派手にクラクションを鳴らし、どんどん男との距離を縮めてゆくと、こちらを向きもしないままに、男が後ろの荷台からなにかをぶちまけた。体の色と対照的な、真っ黒いインキのようなものだった。あっという間に、フロントグラスの向こうが見えなくなる。
「こいつめっ!」
ブレーキを踏みながらハンドルを左に切ると、社用車はさして広くない道路の真ん中で九十度に曲がって止まった。前方に開けたドアから出ると、街灯の丸い輪の下に、追いかけられていたらしい人影が自転車ごと転がっているほかには誰の姿もなく、ただ、東京の思いのほか深い暗がりが僕たちを前に控えているきりだった。
「おーい和ァヤン、警察と救急を呼んでくれっ。この子、大怪我してあがらあ」
街灯の下で倒れていた、学生服姿の着た男子学生を介抱しに向かっていた沢渡さんが叫ぶ。
「わかりましたあっ。――お二人とも、中へ。まだ、その辺をうろついているかもしれませんから……」
探偵員の男の子の指示におとなしく従い、彼が所轄の警察署と救急本部に電話をかけている間、僕は立花さんの震える手を握ったまま、援軍の来るのを今か今かと待ち構えたのであった。
暗闇から現れ、白い顔に不気味な笑いを浮かべて消えてゆく謎の自転車乗り。
果たしてその正体とは……?




